「九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。」
哲学者森信三
みんな他人と違うからいいんだよ。
他人に合わせた人生なんて無意味だと早く気付いてほしい。
自分で考える事ことを面倒ぐさがらないで、
本当に自分のやりたい事を見つけて欲しい。
自分の望みは理屈でなく直感で分かっているはずだから、
素直な気持ちを消さないでほしい。
なにも怯える必要はない。
嫌われる事を恐れて自分の意思を失くさないで欲しい。
一番悪いのは他人の悪口に同調することなのだ。
自分の利益を守ろうとして強いものに意見を合わせる。
他人の意見が間違っていると思ってもただ同調する。
これをイネイブラー(同調者)といい発言者と同罪なる。
結局最後に悪口からは信頼関係等生まれないことを知る。
人前で他人の悪口を言う人は、あなたの事も他人に悪口を言う人である。
それはフレネミー(密告者)といって一番卑怯な人間なのである。
政治家も経営者も就労者もクラスメイトもママ友も、
自分の意見を持たないことがどれほど危険か知るべきである。
個人的な利益の消滅を恐れずに反社会的な集団からは離れて欲しい。
自分を見失わないでほしい。
貴方が離れた先には貴方と同じ価値観を持っている友が待っている。
「強く無くても」
強く無くても良い 信念があれば
偉く無くても良い 人として価値があれば
貧しくても良い 心が豊かであれば
能力が無くても良い 誠実で有れば
夢が無くても良い 毎日を大切にすれば
恩学より
個人が集まって集団となり組織となり国家となる。
画一化された人の集まりからは個人の意志は消えてしまう。
様々な感情の表現がありその国の文化となる。
他人と違う事を恐れる必要はない。
12月 23rd,2015
恩学 |
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彼は何故すぐに怒るのか。
怒る理由は何だろうか。
気分が悪いから、じゃ何故気分が悪いのか。
それは自分の弱い所を指摘されたからである。
能力不足、努力不足、不器用、優柔不断な性格を他人から言われる。
普段から気になる所を指摘されたので本能的に防御する。
人は本能的に弱い所をつかれるとアドレナリンが発生して興奮状態になる。
怒らない方法としては聞き流すことである。
もしくは自分に対する戒めの言葉として素直に取り入れることである。
勿論、あまり理不尽な内容であれば聞き流すことである。
相手が悪(あし)き言葉を発している間は「ありがとう」を連呼するのである。
そうすればセロトニンが発生して落ち着いて来る。
攻め込まれるのは自分が未熟で至らないかだと思えば腹も立たなくなる。
その内にドーパミンが発生して来て嬉しさに変わるのである。
自分の顔に怒りが出なければ相手の興奮も収まる。
アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」に書かれています。
「暗い感情、幸福が失われた感情、不幸を感じる感情があまりにも強烈になると、
じっとしていられません。
さらに強くなってしまうと、さまざまな行動の中で、いろいろなものを破壊していきます。
まっ先に破壊するのは自分です。
自分を破壊して、それで他人も破壊していくのです。
世の中の破壊の原因は怒りなのです。
この世の中にある、ものを作り上げる創造の源泉は愛情であって、
創造したもの破壊していくのは怒りの感情なのです。
それは普遍的な、世の中にある二種類のエネルギーの流れです。
ですから、強いていえば、愛情と怒りは一つのセットなのです。
世の中にはそういうふたつのエネルギーの働きがあります。」
「世の中の破壊の原因は「怒り」
あらゆる宗教はそういった二つの感情をバランスよく保つ為に介在します。
怒りを怒りで制圧すると戦争がはじまります。
怒りの原因を追及して愛情の種を見つけ出さなければなりません。
自然と季節の中で子供等を花を動物を育てるのです。
それらを強く抱きしめる度にオキシトシンが出ます。
オキシトシンは愛情のホルモンなのです。
平和は愛情によって作られるのです。
彼は何故すぐに怒るのか。
怒る理由はオキシトシンが足らなくなっているからです。
12月 23rd,2015
恩学 |
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人は欠点があるから学ぶ事が出来る。
もし欠点が無く長所ばかりなら学ぶ必要はない。
しかし少し学び始めるとまた新たな欠点が見つかる。
だからまた学ぶのである。
人は認められたいから努力する。
もし地位も名誉も財産も関心が無ければ努力する必要は無くなる。
しかし少し認められるとまた違う望みが出て来る。
だからまた努力するのである。
人は孤独に耐えられないから友を作る。
もし孤独を苦痛と思わなければ友を作る必要はない。
しかし自分に都合のよい友ばかり集めるとすぐに離れて行く。
だからまた友達探しが始まるのである。
人間の欲望は穴のあいたバケツのようなものである。
いくら満たしても一杯になる事は無い。
その為に足る事を知るべきである。欲には限度が無い。
その果てしない無限大の欲を追いかけるのではなく、
少しの欲が満たされただけで十分だと云う満足感を持つ事が重要である。
シェル・シルヴァスタインが書いた「ビッグオー」という絵本がある。
これは「ぼくを探しに」の続編である。
前作では、大きな丸い円(ビッグオー)に少しだけ欠けた部分があり、
この円の欠けた部分を探しに行き、ついにかけらと出会ったけれど、
また別れていくという物語でした。
今作では、小さなかけらが自分に合う、あいてを待つのではなく、
みずから行動を起こして、転げ回り、段々と角がとれ、丸くなり、
ついには小さなビッグオーになるという話です。
前作では共生をおしえ、今作では自立を教えた大人の絵本です。
人間は欠けた部分を埋める為におおくの欲望に囚われる。
能力も美貌も財産も求めて学校や就職や結婚までも打算的に考えてしまう。
人を押しのけて手に入れた欲望は決して心に満足を得られるものではない。
単純に共存・共生を叫ぶのではなく、自分にできることは自らしなければならない。
その自立の精神が大切なのである。
多くの不平不満は依存症から生まれて来るのです。
他人に頼らなければ不平不満は出て来ません。
欲望を追うのではなく足りないところを足すことを学ばなければなりません。
「小欲知足」合掌
12月 23rd,2015
恩学 |
足りないところを足す はコメントを受け付けていません
人間力が無ければ学びは生きた学問の活学にはならない。
教えの初めに「人間力」と「志」について語り始めることが重要である。
「人間力」とは知識を見識に変え見識を胆識に取り入れる力の事である。
学問を知り経験を積んで自分の判断とする。
その判断で決断しなければならない時に胆に座った覚悟を決める。
ここに何事からも逃げない責任感が生れる。
また「志」とは自分がいかに社会に役立つ事が出来るかと言う決心である。
五常である仁・義・礼・智・信を守り通し、
「志」いう軸を強固にして社会のおける役割を明確にする事である。
この二つの精神的な強さが社会との関わり合いを教えてくれる。
志の軸がない人は目先の欲に溺れて物質優先主義になってしまうのである。
ここで江戸時代の儒学者佐藤一斉の「言志四録」を講義の手引とする。
「士は当に己に在る者を恃むべし。
動天驚地極大の事業も、亦都べて一己より締造す」
志に生きる男子は、己の中にある真の自己をたのみとすべきである。
天を動かし地を驚かすような大事業も、すべて己れ自身から造り出されるものである。
士は「+」と「-」の会意文字である。
「+」なる欲求群を「-」の志によって統括する意で、
その志によって統括された人格生活者を「士」というのである。
すなわち志に生きる男子のことである。
そういう士君子というものは、常に己の中にある一己、
良心を恃みとして生きる者である。
驚天動地の大事業もこの真の自己、「一己」が主体で成されるというのである。
戦後日本の教育から三つの教育が米国によって削除されてしまった。
それは「地理」と「歴史」と「修身」である。
日本人の基本とする強い意識を恐れて、米国はこの三つの教育を教える事を禁じた。
特に「修身」を恐れたのである。
「修身」とは中国の書物「大学」にかかれた一節である。
その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修。
その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠(まこと)す。
その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
知を致むるは物に格(至)るに在り。
ここに米国が恐れた大和民族の心髄がある。
知識・見識・胆識を身に付け人間力を持つことである。
12月 23rd,2015
恩学 |
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「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。
我に与(あず)からず。我に関せずと存控」By勝海舟
隠れたり、進んで物事をやることは、自分の意思でやること、
それに対して他人が褒めてくれるのも良し、拙者の与り知らないことです。
福沢諭吉の著「瘠我慢」で勝海舟に対する批判に対して送った手紙の言葉である。
常日頃から福沢諭吉は明治政府の中で安穏と暮らす勝海舟に文句を付けていたのである。
立派な行いをやりながらいけしゃしゃと爵位を授かる神経が分からぬ、
お前の大義は褒美を受け取ることだったのか・・・瘠我慢が足りぬ。
所謂、福沢諭吉が勝海舟にいちゃもんをつけたのである。
我々の生活に於いてもいちいちいちゃもんをつけに来る人がいる。
とやかく人のやる事にあれやこれやと口を挟む人だ。
これらのタイプは自分の主張が絶対的に正しいと誤解をしている人達である。
本音で話したことを噂で広め、高飛車に批判を繰り返しやる気を奪って行く人である。
自分が正しいと信じているから他人から社会までも平気で悪者にする。
大切な明かりの部分を見ずに一点の影の部分を追求して否定論者になる。
失敗するのを恐れ、行動を起こさない傲慢なタイプの人である。
虚勢を張り大声で持論を繰り返す人に追随する人が多いのも信じがたいことである。
自分の主義主張を持たず自ら行動をおこさない優柔不断な人である。
自立よりも依存の方が楽だと考えている人たちに多い思考である。
本来ならば、自分は何をしたいのか、どのように生きたいのか、どうあるべきか、
自問自答しながら生きて行くのが人生である。
他人の評価や顔色を伺いながら窮屈な人生を過ごすことは無い。
自分が選び信じた道で胸を張って進んで行くべきである。
たとえ経験不足と能力が欠けていたとしても恥じることは無い。
失敗の経験を体いっぱいに受け止めるべきである。
常識を信じて嘘の情報に翻弄されて無責任な助言に惑わされる事も一切無い。
自分を信じること、誰よりも自分を愛する事、自分の約束は絶対に破らない事である。
その為には自己に徹することである。
安岡正篤「照心語録」にこの様なことが書かれている。
「人間にとって「独を抱く」ことは非常に大切なことだ。
独とは単なる一人ではなく、相対に対する絶対の境涯を示す。
つまり群衆に伍する、ものに混ずることもなく、自己に徹するということだ。
人は自己の絶対に徹して初めてあらゆる相対に応ずることができる」
いかに自己に徹することが重要であるかを分かって欲しい。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与(あず)からず我に関せずと存控」
自分の責任は自分で取る。そして自分で評価する。
自分の行動に、他人が何を言おうと、自分には関係ないことである。
12月 23rd,2015
恩学 |
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「僕は、僕の若さに忠実だという自負がある」谷川俊太郎
若さに忠実とは何だろうか?
人生に志を掲げて熱く行動をすることが「若さ」というのか。
人生に夢を持ち続け純粋に向き合える期間を「若さ」というのか。
人生に使命を感じながら自らを捨て去る精神を「若さ」というのか。
それは狡猾な老人の様に全てを打算的に考えるのではなく、
一途な思いで苦界に飛び込む無心の状態を「若さ」というのでないだろうか。
激しく悩み・苦しみ・打ちひしがれて己の未熟さに気付いたとしても、
それを恥じることなく前向きに立ち向かえる事を「若さ」というのでないだろうか。
「若さ」とは理屈で考えるのではなく感性のひらめきを大切にすることである。
その感性のひらめきから生まれる直感こそが希望を作るのではないだろうか。
「たとえ20歳の若者でも挫折を感じて希望を失った時には老人である。
その反対に60歳を過ぎた老人でも希望を掲げて生きている時には若者なのである。」
人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
サミエルウルマン「Youth」
「若さ」とは時代を素直に継承するのではなく破壊して未来を創造することである。
純粋に無形の夢を有形に変えることができる無限大の可能性を信じるべきなのである。
他者と比べた経歴や、能力や、優劣の差も、既存の価値観もまったく無意味である。
何事にも囚われることもなく信念に従い使命を追求することが「若さ」である。
「若さ」に忠実とは感情の赴くままに素直に行動することである。
理屈でなく身体全体で感情を表現できることが「若さ」というのである。
そして若き日は傷つくことや失敗の恥を恐れるべきではない。
おおいに笑われて屈辱感を味わい泣きながら強く成長しなければならない。
常識外れと言われても純粋な情熱に従う勇気が「若さ」を維持するのである。
そして「若さ」には「ロマン」を感じることが最も重要である。
愛する人を守る「ロマン」でこの国の未来を創造するのである。
「ロマン」の無い若さなんて色彩の無い絵画のようなものである。
「若き日に薔薇を掴め」
赤き薔薇よ 情熱の薔薇よ
その美しさにとげを隠し 魅せられし人を傷つける
恋に悩める若者よ 純粋な薔薇の前では成す術も無く 絶望に打ちひしがれる
その薔薇の美しさを 受け入れるのだ そして痛みを恐れず 握りしめるのだ
手のひらが赤き血潮に染まれば良い 若き日の傷はすぐに癒えるから
恩学より
12月 23rd,2015
恩学 |
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「あとからくる者のために、
苦労するのだ、我慢するのだ、
田を耕し、種を用意しておくのだ。
あとからくる者のために、
しんみんよ、お前は詩を書いておくのだ。
山を川を海を、きれいにしておくのだ。
ああ、あとからくる者のために、
みんなそれぞれの力を傾けるのだ。
あとからあとから続いてくる、
あの可愛い者たちのために、
未来を受け継ぐ者たちのために、
みな夫々自分でできる
何かをしておくのだ。
詩人坂村真民「詩国」より
我々は未来を受け継ぐ者たちのために何かをしなければならない。
みな夫々自分でできる何かをしておかなければならない。
たとえ生きることに精一杯であっても、
あとからくる者のために残し伝えて行かなければならないことがある。
この国が過ごして来た証しを、心で、形で、物で伝承しなければならない。
あらゆる歴史はその様にして同じ行為の中で繰り返し今日に至っている。
それぞれが自己満足な欲を追求するためだけでは人が国が滅びてしまう。
使命感を持ち国の繁栄をあとからくる者たちのために伝えていかなければならない。
未来を受け継ぐ者たちのために必ず教えなければならないことがある。
先ずは国の成り立ち(歴史)、日本の位置(地理)、人として生きる修身(道徳)である。
この国独特の美意識・職人の技・きめ細やかな表現などの感性と感覚である。
敗戦の中から何度も苦難を乗り越え復興を遂げて来た民族の誇りである。
八百万の神々に守られ人を思いやる行為や行動の言葉たちである。
あとからくる者のために安易な道筋を作るのではなく立ち向かう勇気を教えるのである。
世界から見た我が国の現状を伝え乗り越える技術を教えるべきである。
家族を地域社会を国家を形成する基本的な思考を教えるのである。
年配者よ!楽な隠居など考えるな!
今こそ立ちあがれ。若者達に絶望的な負の遺産を残すな。
あとからくる者たちのためにあらゆる財産を譲る覚悟を決めろ。
あとからくる者たちの幸福を考えて生きるのだ。
それが人生の先輩としての使命だ。
12月 23rd,2015
恩学 |
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先に行ける人から先に行きなさい。
仲良く手を繋いでゴールなど考えないで下さい。
今は遅れて来る人の事など考える必要はないのです。
競争社会においては必ず一番の人が世の中を変えるのです。
だから強い人から先にゴールを駆け抜けなさい。
たとえ道に倒れている人がいても、その横を通り過ぎて行きなさい。
今は優しさよりも厳しさを最優先にして下さい。
あなたが遅れを取ることの方が大きなマイナスなのです。
あなたに残された知力と気力と体力がある内にゴールを目指すのです。
そしてゴールを過ぎてからはじめて弱者救済を考えるのです。
その為にスタート前にみんなで自分に適した配置を話し合うのです。
足の速い人、計算の速い人、決断が早い人、文章の書くことが早い人等、
目的を話し合い自分のポジションを明確にすれば無駄な人など一人もいません。
それぞれが出来る事に全力を尽くすことで最善の調和が取れるのです。
決して古い常識に囚われないで下さい。
過去の人達の生き方をそのまま真似をしないで下さい。
自分の直感に従い自分の能力を認識するのです。
そして今出来ることを見つけるのです。
先に駆け抜ける事だけを考えて下さい。
その結果手にしたゴールに満足するのです。
他人と比べる必要も無く自画自賛するのです。
自分が自分を信じて最大の能力を発揮したことに満足するのです。
時間がありません。
先に行ける人から先に行きなさい。
立ち止まってしまったら自分の使命を思い出して下さい。
決して集団の影に隠れて流れの中に巻き込まれないで下さい。
自分の世界を創造するのです。
ゴールに辿り着いた時の理想を描くのです。
みんなが共存共栄する社会を構築するのです。
そこから弱い人達を守って下さい。
そこから傷ついた人達を労わって下さい。
そこから子供や老人に生きる勇気を与えて下さい。
何も始めないうちから平和や平等を訴えるようなことはしないで下さい。
解決策も無いのに抵抗を続けるのは止めて下さい。
強い人達が飛びださなければ世の中は変わらないのです。
配置と認識を話し合って下さい。
今必要なのはそれぞれの配置と役割の認識です。
12月 11th,2015
恩学 |
先に行ける人から はコメントを受け付けていません
チャレンジという言葉は失敗という言葉です。
新しいことをやる時には必ず失敗がつきものです。
失敗すると恥ずかしいという気持ちは失くして下さい。
どのような時にでも決して失敗に臆病にならないで下さい。
失敗を恐れると成功はありえません。
そして一度の失敗で簡単にチャレンジを諦めないで下さい。
失敗の経験から自分の立ち位置とそれにあった情報を集めて下さい。
自分は何を目指したか、そして何故この位置に居るのかを確認してください。
恐れることはありません。誰もが失敗を繰り返して成功を手に入れているのです。
常に自分の直感を信じて好奇心のアンテナを張りめぐらせて下さい。
決して世の中に氾濫する無価値な情報に惑わされないで下さい。
冷静に自分の興味を持った情報だけを選別するのです。
そして選んだ情報を一点に絞り分析して下さい。
その上で限りなく好奇心を旺盛にして下さい。
夢を明確に描くのです。そして喜ぶ人達の笑顔をイメージするのです。
理屈によってワクワクする感覚を失わない様にして下さい。
好奇心こそがモチベーションを上げる最良の方法なのです。
またチャレンジの時には仲間達とお互いに得意なことや苦手なことを発表し合うのです。
完全な人はいません。だからチームワークが成立するのです。
自分の能力以上に仲間達の言葉を信じるようにして下さい。
自分一人で責任を取ろうとするから失敗するのです。
失敗は記憶する事では無く、新たな挑戦の時には白紙に戻すのです。
臆病になって勇気にブレーキをかける必要はないのです。
失敗した時には、気のあった仲間と歌を歌ってお酒を飲んでわいわい騒いで下さい。
泣いて笑って大声出してエネルギーをチャージして下さい。
あなたの未来は一度の失敗で閉じることなく無限大に広がっているのです。
いつの日か花を咲かせましょう。
「花」
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か
花をさかそうよ
沖縄民謡歌手・喜納昌吉
11月 7th,2015
恩学 |
贈る言葉 はコメントを受け付けていません
教えには三つの段階がある。
第一の心教は別段の方法手段をとらず師によって自然に教化することである。
第二の躬教は師の行為の跡を真似させる教えである。
第三の言教は師が言葉で説き諭して導く教えで、言葉を方法としている。
「言志四録」佐藤一斉著/川上正光全訳注
山本五十六元帥の言葉にも、
「やって見せ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」というのがあります。
師が行動を見せて自然に教化する。その後言葉を通じて導き真似をさせる。
最後に良き個所を見つけて褒めてやり自信を付けさせる。
リーダーたるべき人が必ず教化の方法として行わなければならない原則である。
奈良県、法隆寺金堂、法輪寺三十塔、薬師寺金堂などを手掛けた
最後の宮大工西岡常一は「徒弟制と教育」のなかで、
弟子の教育についてこのように言っている。
棟梁が弟子を育てるときにすることは、一緒に飯を食って一緒に生活をし、
見本を示すだけです。
道具を見てやり、砥ぎ方を教え、こないやるんやいうようなことは一切しませんのや。
「こないふうに削れるように研いでみなさい」とやってみせるだけですな。
弟子になるようなものには大工になろうという気持ちがありますのや。
ただその上に何か教えてもらおうという衣みたいなもので覆われていますが、
それが邪魔ですな。まず、生活しているうちに自分でこの衣を解かないけません。
これは私が解いてやるなやなくて、弟子が自分で解くんです。
また自分で解く心構えがないと、ものは伝わりませんな。
ですから弟子に来たからというて手取り足取りして教えることはありませんのや。
見本を見せた後はその人の能力です。いかにどんなにしたところで、
その人の能力以上のことはできまへんからな。
親方の背中を見て学ぶことを「暗黙知」と言います。
ハンガリー出身のマイケルポランニーも「暗黙知の次元」でこのように言っています。
観察者は、外部から行為者の諸動作の中へ内在化しようとして、
その諸動作を相互に関連づけようと努めることになる。
観察者は、行為者の動作を内面化することによって、その動作の中へ内在化するのだ。
こうした探索的な内在化を繰り返しながら、弟子は師匠の技術の感触を我がものとし、
その良きライバルとなるべく腕を磨いて行くのである。
始めから言葉で教えると頭では理解できても身体がついていかない。
動作を見せる事で観察力を高めさせて想像させることが重要である。
その後一定の水準に達した時に初めて理屈・理論を教える。
教育とは一方的に学問を教える事では無く、
その教育によって何が出来るかを教えるべきである。
しかし、そこに生徒たちの個性があることも忘れてはならない。
「夫(そ)れ学は通の為に非ざるなり。窮して苦しまず。
憂へて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑はざるが為なり。」「荀子」
我々は物知りになるために学ぶのではない。窮地に陥っても苦しむことがなく、
不安におののいて意気消沈しないためである。こうすればああなると、
禍福の始まりや行く末を知って、心が迷わないためである。
「安岡正篤人生を変える言葉・古典の活学」神渡良平より
教える方も学ぶ方も心して記憶にとどめたい珠玉の言葉たちである。
11月 7th,2015
恩学 |
教えに三あり はコメントを受け付けていません