分かったんだ!
雲ひとつない青空よりも雲が浮かんでいる空が好きなことが!
波一つない穏やかな海よりも少し荒れている海が好きなことが!
陽射し一杯の草原よりも風に揺れている森が好きなことが!
喧嘩もしない人間関係よりも言い争いする人間関係が好きなことが!
挫折も無い人生よりも波乱万丈の人生が好きなことが!
ぶつかり合いながらも調和のとれた世界が好きなことが!
そこからアクティブなエネルギーが生まれていることに気付いたんだ。
世界中にはいつも奇跡の光に溢れている。
だから辛い時にでも、ワクワクするのは、そのせいだ!
何も無い青空よりも雲がある景色がいいよね。
何故か真っ白な雲が形を変える度に心が踊りだす。
手で掴めそうな雲を目で追いかけるとホッとするよね。
綿菓子のような雲を見るといつも心が甘くなるのだ。
そして雲にはそれぞれの居場所があるよね。
夏空の真っ白な雲はもくもくと空の真ん中で、
秋空の薄い雲は遠くの空でさりげなく、
冬空の黒い雲は空から突然近くに現れる。
雲がまるで人間と鬼ごっこをしているみたいだ。
見ているだけで楽しくなるよね。
明日も大好きな雲が見えるかな。
波風の無い人生なんてつまらないと思わないか。
短い人生で嬉しいときも、悲しいときも、悔しいときも、挫折のときも、
健康な時も、病気のときも、色々な経験できて楽しいだろう。
苦労して手に入れた幸福は何物にも代えがたい喜びがある。
愛する人への片思いは心が切なくて張り裂けそうになる。
大好きな人達との別れは涙が枯れて生きる望みが無くなる。
人生劇場では、いつでも自分が主人公で人生を描くことが出来るんだ。
そう思えばワクワクしないか。
穏やかな人生よりも、少し揺れている方が、心が怠けなくていいんだよ。
11月 29th,2013
恩学 |
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そんなに他人の服を着たがらないで!
他人が作った価値感と云う生地を、
他人が作った美意識と云うパターンを、
他人が作った幸福と云うボタンを、
他人が作った満足と云うポケットを、
そのまま着ても似合わないよ。
あなたにはあなたに似合う服があるはずだから、
不器用でもあなたが手造りで作った服が一番似合うはず。
そんなに背伸びをしないで、
そんなに見栄を張らないで、
そんなに無理をしないで、
そんなに我を張らないで、
自然のままが一番。
清潔で簡素で礼儀という素材で、
丹精込めて作った服をさりげなく着るのが一番。
少しぐらい時間を掛けても、
とっておきのオリジナルの服を作る事が大切。
あなたにはあなたに似合う服があるはずだから。
そんなに他人の服を着たがらないで!
日本人とアメリカ人のグループで判断に要する時間の調査をしていた。
先ず個人・個人で物を選ばせる。
日本人は個人だとさほど悩まずに選べることが出来た。
アメリカ人は個人だと結構悩んで選んでいた。
しかし、団体で物を選ばせると、
日本人は圧倒的に悩んで答えを出せなかった。
アメリカ人は自然にリーダーが生まれて、全員合意のもとに答えを出した。
昔から日本人は人の顔色を見て答えを出すように躾られたからである。
他人の意見を聞いてから当たり障りのない答えを出す。
それが「和」に代表される民族の証しなのである。
アメリカ人は多国籍国家だから主張しなければ存在が薄くなる。
その為にリベートという学習で個人の主張を学ぶ。
主張なき同意は個人の存在まで失う恐れがあるからである。
日本の伝統である粋と侘び寂びは目立たない様にする事だが、
逆に言葉無き事が一番主張しているように感じる。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の中にその事が書かれている。
何もかも西洋から学ぶ時代は過ぎたのである。
日本人は日本人のやり方が一番似合うのである。
他人の服を着る時代は終わった。
あなたも、いつまでも他人の服に憧れるのを止めることにしませんか。
11月 29th,2013
恩学 |
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生きていれば知らないうちに恨みを買う事もある。
親切が仇になり傷つく事も度々ある。
逆にこちらの甘えが相手に大きな負担を強いてしまう事もある。
世の中は「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(漱石)
それでも自分の道を歩かなければならない。
不器用でも、躓いても・傷ついても・もがき苦しみながら生きねばならぬ。
自分で決めたことの失敗で恨みが生じても受け入れるしかない。
今日が最後の日だと思えば何が起きても動じる事は無い。
一日一日が最高の日だと思えばすべての悩みも消える。
来る日も来る日も一日一笑・笑顔で合掌です。
対人関係においては、自分の意識よりも相手の意識が強く出る事があります。
そこに損得勘定が働くと一方的に受け身の対象になってしまうのです。
誰かより、目立とうとか、偉く成るつもりがなくても、立ち塞がる人達がいます。
自分よりも相手に光が当たると悪い噂を流すフレネミー達です。
友達のように近づき根掘り葉掘り個人情報を聞き出すのです。
笑顔の後ろに悪意が込められていて気を許すと思わぬ怪我をします。
解決方法は一つしかありません。無視をする事です。
韓国の諺に「枝の多い木は少しの風にも揺れる」というのがあります。
その通りです。枝の多い木は少しの風でも揺れてしまうのです。
我々が悩みに翻弄されるのは、心の中に無駄な枝が多いからです。
心の中の枝を切り落とさない限り、悩みと云う風に振り回されるのです。
悩みを理屈で解決を図ったり、感情で説得しようとしたり、自分の意地を通したりすると、
益々問題がこじれて混乱するだけです。
自分の人生を器用に生きようとする必要は無いのです。
不器用なままでカッコが悪くても素直なままで生きるのが自然なのです。
自分に必要な物だけを必要な分だけ取り入れることです。
それでも生きている内には知らぬ間に罪を作る事があるのです。
自分の進む道で起こる様々な出来事は、良くても悪くても受け入れるしかないのです。
毎日、毎日が人生に対して感謝と謝罪の連続です。
いつも、今日が人生最良の日だと思いながら生きるのです。
毎日を楽しく過ごすには無駄な枝を切り落とすしかないのです。
自分の価値観を人に押し付けたりせず、他人の価値観を羨む事も無く、自分なりの人生を作るのです。
すっきりすれば自然と笑顔も出て来るのです。
「日日是好日」
今日が最高の一日と思いながら過ごすのです。
11月 29th,2013
恩学 |
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「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」
人に与えた恩は水に流し与えた恩を忘れろ。
見返りを期待するような恩は偽物だ。
他人から受けた恩は石に刻み一生忘れるな。
謝罪の気持ちを持ち続けることが本物の恩なのだ。
ここまでで十分と云う恩返しは無い。
恩を返すならば死ぬまで返し続けなければならない。
言葉だけではない行為の中から生まれた結果が恩である。
その昔、言葉が無かった時代には、恩で十分にコミュニケーションが取れた。
恩は万国・万人に通ずる人の道の基本である。
忘れるべからず。
いつからか我々は恩を返す事に不器用になってしまった。
亡き父は毎年年末になると沢山の葉書に年賀のあいさつを書きこんでいた。
子供心に「誰に出すの」と尋ねたところ「お世話になった人へ」と返事が返ってきた。
そういえば、お中元やお歳暮も「お世話になった人へ」と言っていた事を思い出した。
当時一般家庭にも電話が普及し始めた頃ではあったが、
電話では失礼になるからと丹念にあて名書きをしていた。
両親や親類、先生や友人、お世話になった上司や隣近所の人達へ、
元気に暮らせることへの、感謝の気持ちを時折々に伝えることであった。
そして返事が来ると笑顔で読みながら「あちらも元気に暮らしている」と喜んでいた。
伝達手段が少なかった時代だから、日常の出来事から冠婚葬祭の連絡までが、
手紙や葉書でやりとりする事が多かった。
大切な人(恩人)との縁が切れない様に、時候の挨拶や健康への気遣い、
おめでたい事から、悲しい出来事まで、短い文章の中に細心の注意を払ったものである。
今はどうでしょうか。
簡単な挨拶は携帯メールで済ませることが多くなりました。
重要な連絡も相手の顔を見ながら話す事も出来るようになりました。
でもそれで良いのでしょうか。
通信機器の便利さが人間関係を希薄にしてしまったのではないでしょうか。
その為に日常の生活の中から美しい言葉や文字を使う機会が少なくなり、
単なる形式的に「ありがとう」だけを言う関係となっています。
両親や恩人に深々と頭を下げて挨拶する習慣が無くなりつつあります。
硯を出して墨を磨り毛筆で書き出す瞬間の緊張感も失われてしまいました。
家族そろって伝統的な正月料理を食べる事も少なくなり始めています。
このような古き良き礼儀作法が無くなる事は、日本人としての誇りが曖昧となり
神仏に対して敬う気持ちが薄れて行きます。
「国に忠、親に考、友に仁」の三つの教えが日本文化の基本です。
今一度「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」を思い起こすべきではないでしょうか。
11月 29th,2013
恩学 |
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「面(むかい)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、
心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。」道元禅師
面と向かって優しい言葉をかけられれば、
自然と顔に喜びがあふれ、心が楽しくなる。
また、人づてに優しい言葉を聞いたら、その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。
それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、
他人をたいせつに思う心の中から、芽生えてくるものだからです。
本当に、優しい言葉というのは、世界を変える力があるのだということを、
私たちはよくよく学ばなければいけません。
勇気を与える言葉は直接相手に伝えた方が、心に響きます。
褒める言葉は直接よりも第三者を通じて伝えた方が、心に響きます。
戒めの言葉は誰も居ない所で教える方が、心に響きます。
伝え方を間違えれば相手に恥をかかせることにもなります。
そして心に傷をつけてしまう事もあります。
たった一言の心無い言葉で自殺する子がいます。
気付いてやれば良かったと、泣きながら話す友人や両親がテレビに登場します。
ストーカー被害の人が追い詰められて殺されてしまう事件があります。
その時に対応した相談員や警察官は被害者の言葉や表情から、ことの重大さに気付かなかったのでしょうか。
心配は何も無ければ安心につながります。
もっと言葉に敏感になってはどうでしょうか。
現代社会はルールに拘束されながら文字で情報を伝える為に、
言葉の持つ力を重要だと思わなく成ってしまったのではないでしょうか。
もし人間が100の言葉しか与えられていなかったらどうでしようか。
一言・一言をとても大切に使うのではないでしょうか。
生きる為の言葉、愛の為の言葉、慰めの言葉、希望の言葉、感謝の言葉、
残りの言葉数を数えながら使うとすれば決して疎かにする事は出来ません。
スポーツ選手やアスリートが競技場に出る前に監督やコーチから声を掛けられます。
今日のコンディションに合わせて自信が沸き起こる言葉を掛けるのです。
アーティストがステージに出る前にもスタッフが声を掛けます。
お客様の状況を伝えながら興奮度を上げて行く言葉です。
「初めてのお使い」と云う番組で子供が買い物に出かけます。
ママのお願の言葉で冒険に出かけるのです。
そして泣きながら目的を達成しママに抱き締められて「ありがとう」の言葉をご褒美で頂くのです。
みんな言葉の魔法で勇気がでたり、傷ついたり、元気になったり、喜んだりします。
そんな大切な言葉を疎かにせずに大切にしたいものです。
愛語よく回天の力ありです。
言葉は人生を大きく変えることが出来るのです。
11月 23rd,2013
恩学 |
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アフリカの草原でライオンがキリンに言いました。
キリンさんは良いね。首が長くて遠くまで見渡せるから。
キリンは答えました。
ライオンさん。わたくしは遠くの美しい景色を見ることができるのですが、
地上のような下を見ることが苦手なのですよ。
ライオンは言いました。それでも首が長ければ、
美しい景色と遠くの獲物を見つけることができるから羨ましいよ。
キリンさんは一言言いました。
ライオンさん、どんな素晴しい景色を眺めてもお腹は一杯に成らないよ。
美味しい物はすべて地上にあるじゃないか。
ライオンさんが羨ましいよ。誰よりも力が強くて足も速いし。
そのうえ捉えた獲物を邪魔されずに食べることができるじゃないか。
キリンとライオンは日が沈むまで話し合いを続けていました。
動物にはそれぞれの特徴があり魅力もあります。
その能力を活かして生きて行くが一番なのです。
他の動物の利点を羨ましがり憧れても仕方がないのです。
自分の特徴を活かして頑張る事が大切ですと、自立の為の教訓話です。
しかし現在は、お互いの利点を生かして共存する方法をおしえます。
特にビジネスの世界ではハイブリッドという言葉で異種交配を求めます。
代表的なのはガソリンと太陽光熱、違ったエネルギーの組み合わせです。
互いの利点を組み合わせることによるエネルギーの効率化と節約です。
果たしてキリンとライオンのハイブリッドは可能でしょうか。
キリンがナビゲーターになり、ライオンに獲物のありかを教える。
遠くにいる動物を見つけて上からライオンに指示をする。
ライオンは効率よく獲物の捕獲にありつける。
しかし、よくよく考えるとキリンは草食動物でライオンは肉食動物です。
互いの共存共栄は成立しないのです。
しかし、キリンの情報で獲物を見付けたライオンが、
次は、食事中のキリンを守る事が出来るかもしれません。
ナビゲーターとスナイパーのハイブリッドなら可能性は在るかもしれません。
政治の世界でも自国の発展ばかりを考えて外交を行うと必ず問題が噴出します。
こちらが必要な物と相手が必要な物が分かれば取引は難しくありません。
勿論、互いの歴史認識や政治的価値観の違いがネックになったとしても、
国が豊かになり国民が喜ぶのであれば発展的に解決をしなければなりません。
一国で成長することは無いのです。
様々な国とのつながりがよりよい成長に繋がるのであれば、
国同士のハイブリッドがあっても良いのではないでしょうか。
経済的な重要性よりも国民同士の意識の統一が出来れば戦争は起こらないのです。
ハイブリッドが平和への架け橋になれば素晴しいですね。
人間の世界でもハイブリッドはあります。
音楽やスポーツやモデルの世界で活躍している方々の中には混血の方が多いです。
両親の良き部分を受け継ぐのですから、声が良かったり、足が速かったり、スタイルが良かったりします。
混血のDNAに隠された能力が開花するわけですから悪い事ではありません。
意図的に人間の遺伝子を組み換えることは出来ませんが、
恋愛の末に生まれたハイブリッドは誇らしき事ではないでしょうか。
世界中の人の輪が広がれば、感動の輪も広がって行くのです。
人も動物も一人では生きていけません。
弱肉強食の世の中でも、強い物が偉くて弱い者は劣っているという定義にはなりません。
より良く共存共栄をする為には、互いの能力を組み合わせることが重要です。
過酷なサバンナで行きぬく為にはキリンとライオンのように話し合いが必要です。
そして互いに敵対しするのではなく、双方の能力を認めることです。
そこに新しいハイブリッドの未来が見えて来る筈です。
11月 17th,2013
恩学 |
キリンに憧れたライオン はコメントを受け付けていません
食品の安全に囚われて農薬に放射線量に生産農家にまで気にしている方がいます。
家族の為の健康を考えるのであれば当然なのかもしれませんが、
過剰なまでの反応はどこかエゴが感じられて違和感を覚えます。
安全性を疑いながら空腹を満たす為の食事は美味しいでしょうか。
美味しく頂くと云うことは感謝して頂く事です。
「我々家族に今日も一日の糧を頂き感謝いたします」の言葉が無ければ、
子供達は食に対する敬意が失われていきます。
両親が食卓で食の危険を話し合いながら笑っているのは愚の骨頂です。
言葉は子供に伝染します。両親が笑いながら話している事は、
そのまま子供に伝わるのです。食に対する軽視につながる恐れがあります。
世界には貧困の為に食べることが出来ない人も大勢います。
泥水しか飲めない未開の村も多数あります。
その方達は多少の農薬が入っていても、汚染された水でも口にするしかないのです。
病気を恐れないのではなく、生きることに望みを託しているから、そうするのです。
その方達のことを考えると軽はずみに食の安全を口に出していいのでしょうか。
身体的な影響が出る人以外は黙っている事も大人の良識です。
日本で店頭に並べられている食品はどの国よりも安全です。
多少問題があっても気にする事はありません。
過剰な反応は身体よりも精神的に悪影響があるように思います。
世の中には、それ以外にも注意しなければなら無いことが沢山あります。
環境問題・地球温暖化・エネルギー・領土問題・戦争など数え上げたら切りがありません。
自分さえ・家族さえ・友達さえ・安全で楽しい生活が出来れば良いと望む人達は、
傲慢な「自分天国」に溺れているのです。
他人の痛みや苦しみを軽視する暮らしをしているのです。
いつか自分にも降りかかるかもしれない「自分地獄」から目を逸らして生きているのです。
一時の満足で永遠の快楽を満たそうとしているのです。
人にはそれぞれの欲求の形と種類があります。
ここにアメリカの心理学者マズローが唱えた五大欲求の段階があります。
欲求の集約は「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生き物である」です。
第一に生理的欲求があります。食事や睡眠や排せつなどの妨げが無いことです。
第二に安全安心の欲求があります。経済的や健康的や学習・教育の確保です。
第三に所属と愛の欲求です。家族・地域社会・会社・団体への関与です。
第四に承認の欲求があります。社会的地位と尊重の欲求です。
第五に自己実現の欲求です。人間的完成や精神的満足を求めることです。
この学説が万人に通用するかは分かりません。
初期段階の生理的欲求も満足に手に入れる事が出来ない人も大勢います。
しかし悲しい事に人間は欲に限度が無い為、一つ手に入ればすぐに二つ目が欲しくなってしまうのです。
市場経済の原理はこれを応用して人の欲望を満たす為の商品を売って儲ける事です。
世界有数な大企業はこの法則に従ってビジネスを組み立てているのです。
果たして「自分天国」が本当に幸福なのでしょうか。
他人も参加した天国の方が、価値があるように思うのですが如何でしょうか。
家族だけの笑顔よりも地域社会全体の笑顔の方が楽しい筈です。
だから今「リベラルアーツ」という学問が必要なのです。
ギリシャ時代に生まれた人間学です。
個人と他人・家と社会・地域と国家・発展と荒廃・豊かさと貧困・平和と戦争等を、
システム的に分析するのではなく、人としての関わり方を話し合う事です。
無駄な贅沢を減らす事によって、救われる人達がいるのであればそうするべきです。
進化にストップ掛けることが、地球の安全に繋がるのであればそうすべきです。
食の安全を生産者と共に国に訴えることが、正しいのであればそうすべきです。
日本にはこのような素晴しい言葉があります。
周りを思いやる「利他心」と分量を知って生きる「小欲知足」です。
他人の利益を考えて行動を起こし、自分の取り分が少なくても満足する事です。
自分天国に溺れるのではなく周りの状況を視野に入れて全員天国を目指すべきです。
それが共存共栄の根幹です。
11月 17th,2013
恩学 |
自分天国 はコメントを受け付けていません
人は孤立を避ける為に集団から逃れることが出来ない。
集団の中にいれば多少の優劣の争いはあっても、
個人的判断の責任と危険を回避できるからである。
集団思考は常識の範囲の中庸な意見を取り入れる為に、
誰でも理解が出来て判断に迷う事が無いからである。
これを「付和雷同」という。
付和雷同からは突出した能力は生れずに、
似非平和主義の楽天家ばかりが肩を並べることになる。
まるで柵に囲まれた羊の群れと同じ状況になってしまう。
労せずに水と餌を手に入れることが出来れば戦わなくてすむからである。
人は自から渋滞の波に入り込む心理がある。
他人と同じ方向に車を走らせる中で安心感が生まれるからである。
本当は違うルートを利用して目的地に向かいたいのだが、
周りの目を気にして同じ速度で同じ距離を走り行く。
勝手に抜け道を見つけて一歩でも早く目的地に着けば、
妬みと非難といじめの対象に成るからである。
それを恐れる為に、効率の良い道を見つけたとしても、
わざわざ人と同じ道を走るのである。
会社でも社会でも学校でも同じような事が起きている。
違う発想で違う行動をおこせば仲間外れになるのである。
それを恐れるからみんなと一緒に手を繋いでゴールするのだ。
人は欲望に勝てない為に本音と建前を使い分ける。
ピラミッド型の三角型のリーダーに成る為には失敗は許されない。
平社員から役員・社長となる為には波風は立ててはならないのである。
だから本音より建前で過ごして行かなければならない。
逆に、矢印型のリーダーに成る為には挑戦をしなければならない。
役職には興味なく開発や新企画に情熱を傾けるのである。
だから建前よりも本音で生きているのである。
個人の知識・能力も大切だがそれよりもセンスが必要になる。
センスは感性がなければ磨く事が出来ない。
集団に甘んじていたり、流れに逆らわなかったり、
人と同じことをしていては矢印型のリーダーにはなれないのである。
ここに哲学者森信三の言葉がある。
「九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき眼もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。」
孤独を恐れる必要は無い。困難から想像力が生まれるのである。
想像力の世界では決して一人では無い、そこに大自然と云う友が現れるからである。
安心は安心な場所に安心があるのではなく、
危険を冒して乗り越えた場所に安心があるのではないかと思う。
11月 17th,2013
恩学 |
安心 はコメントを受け付けていません
他人の生き方を真似るのではなく自分の生き方を守ればよい。
自分の立てたルールが守れない人間は他人のルールも守れない。
自分にとってのルールは自分で作るのだ。弱者のままで終わる事は無い。
自力で這い上がって自分のNO1になれ。最後は自分が自分を認めてやれば良いのさ。
そして成功しても弱い者を虐めるな。みんなを守ってやる心意気だけは忘れるな。
自分の立てたルールを裏切るなよ。笑われても貶されても気にする事は無い。
今すぐ白い紙に自分のルールを書き出せ。そして毎日声に出して叫ぶのだ。
1)目的と目標を書く、2)自分の欠点を書く、3)自分の長所を書く、4)やりたい事を書く、
5)自分を見つめる、6)一人で山か海に行く、7)仲間を集めて騒ぐ、8)デジタルの世界から飛び出す、
9)たまには携帯もメールも休む、10)見たい映画を見る、11)読みたい本を読む、12)自分のルーツを探る、
13)この国を考える、14)男と女を考える、15)生きる目的を考える、16)リア充な仲間を集める、
17)経験豊かな先輩に教えを請う、18)金を作る方法を考える、19)三人のチームを作る、20)事業を興す、
21)資金を蓄えて世界に出る、22)でかいフィールドで戦う、23)毎日勉強をする、24)新しい話題に遅れない、
25)たまに旨い物を食う、26)いい音楽を聞く、27)馬鹿をやる、28)常識に囚われない、
29)胸を張って生きる、30)太陽に感謝する、31)自分の夢に酔いしれる、32)ノートを毎日読み返す、
33)一日十分ぐらい人の為に使う、34)時間と金を無駄にしない、35)悔しさを笑える人間になる、
36)愛する人を抱き締める、37)家族にありがとうを伝える、38)生きている実感を味わう、
39)感謝する事を忘れない、40)失敗を恐れない。
他人の生き方を真似るのではなく自分の生き方を守ればよい。
自分の立てたルールが守れない人間は他人のルールも守れない。
自分にとってのルールは自分で作るのだ。弱者のままで終わる事は無い。
自力で這い上がって自分のNO1になれ。最後は自分が自分を認めてやれば良いのさ。
そして成功しても弱い者を虐めるな。みんなを守ってやる心意気だけは忘れるな。
自分のルールを裏切るな。笑われても貶されても気にする事は無い。
志を持っている仲間を作り、いいかげんな大人を見下せ。
頭ごなしで人生を語る大人とは縁を切れ。頑張れを意味もなく連発する大人は無視をしろ。
金と女の話しかしない大人には「あんたら最低の人間だ」と言い放せ。
俺達は俺達のやり方でこの国を作りなおしてやる。
その心意気を植え付けろ。
人生の目的は、己の欲の為に生きることでは無く、家族が地域が笑顔で暮らせる国を作る事だ。
いつも意識は革命家であれ。自分の生き方は自分で作ることを忘れるな。
11月 16th,2013
恩学 |
教訓Ⅰ はコメントを受け付けていません
「遠慮」は書いて字の如し遠い先々まで思慮することである。
それが人に対して言語・行動を控えめにするという意味で伝わっている。
挙句の果てには相手に気を使い先を譲る事が遠慮と成ってしまった。
本来の意味は思慮深く考えた上で行動を起こす事である。
「謙遜」は控えめな態度で振る舞う事。そしてへりくだる事と辞書には書いてある。
我々が使う謙遜は自分の地位や実績を誇示せずに控えめに振る舞うことである。
しかしビジネスの上での謙遜は逆に警戒心を植え付けることにもなりかねない。
初対面では必ず経歴と実績と能力は明示すべきである。
その上で互いの条件を要求するのが交渉である。
表向きでは謙遜を交渉の道具として使い信頼を得ようとする事が多い。
へりくだる事が交渉を優位に立てると錯覚しているのである。
「謙虚」も控えめで素直なこと書いてある。
本来は互いが主張を繰り返し議論した結果行動に移す事である。
消極的に避けるのではなく、学び方が上手く、恐れ入りながら、前の席に座ろうとする意識の事である。
謙虚は下がるのではなく前に進むことと詫びながら行動する事である。
日本人は他人との摩擦を避ける為に、「言わない・言い切らない・言い負かさない」で、
本音を隠して建前だけで過ごして来た。
同調の精神イコール場の空気を読むことに帰結する。
日本人の美徳とされて来た、共存・共栄・互助・思いやり・やさしさも、
他人とぶつかるのを避ける為に生れて来た処世術である。
そこに言葉と共に独特の所作が加わるので見た目にも美しいとされて来た。
他の国と比べれば一般庶民の隅々にまでに礼儀作法が浸透している国は珍しいのである。
八百万の神々に守られている我々は性善説を重んじる。
生まれた時に悪人は存在しないのだから根本は信じ合えると思っている。
しかし世界企業と渡り合うグローバル化の現代では日本人の曖昧な慣習は理解が得られない。
幾ら英語を流暢に使いこなしても日本人の礼儀作法の意識で使えば誤解を与える。
遠慮と謙遜と謙虚は性善説から出た遺物である。
決して伝家の宝刀には成らないのである。一方的な思いやりは気をつけた方が良い。
江戸幕府末期の開国以来、海外から大勢の外国人が来た。
彼等は東洋の未開の国に来たと思ったら、人は礼儀正しいし、町は整備されているし、
店先に並ぶ美術工芸品の素晴しさに驚いたのである。
そして彼等がした事は、自国に都合の良い貿易条約を作り、
日本の貴重な工芸品や絵画などをゴミの様な値段で買い漁って行ったのである。
我々の祖先は遠慮と謙遜と謙虚を逆手に取られて散々やりたい放題をされたのである。
許されがたい歴史の事実である。
ここに英国の貴族が学ぶノーブレッスオブリージェがある。
特権を持つ人間は特権を持たない人間に奉仕をしなさいということである。
貴族は庶民を守る義務があるのである。金持ちは貧しい人達を救う義務である。
しかし、本当は貴族たちの特権と贅沢を守る為の詭弁の教えであった。
都合の良い法律を作り高い税金で庶民を身動きできない様に領地に縛り付けたのである。
日本人が英国男性を紳士の鑑として来たのは、彼等の都合の良い嘘に気付かずに、
ノーブレッスオブリージェをジェントルマンシップと勘違いしたからかもしれない。
元々ジェントルマンシップは、レディーファーストと戦う意思が無い事を表明する事である。
民族が違い、宗教が違い、価値感の違う国が、外交上取りきめた接見のルールは、
相手を疑う事から始まったのである。
しかし、ある意味では我々も英国風なジェントルマンシップを学ばなければならない。
戦後、日本はいち早く近代国家を作り経済大国になったからである。
近隣諸国との外交には、笑顔の下にナイフを隠すような強かさが無ければ、バランスがとれ無いのである。
その上にノーブレッスオブリージェで言われる所の与えられた特権を使い、
発展途上国を常に援助する事が日本の役割なのかもしれない。
日本人は、いつまでも遠慮と謙遜と謙虚を守るべきではなく、
時代に合わせた礼儀作法を作らなければならないのかも知れない。
インサイドの表現ではなくアウトサイドの強い主張が必要な時である。
11月 16th,2013
恩学 |
遠慮と謙遜と謙虚 はコメントを受け付けていません