一途

 

きょろきょろするな
ひたすら一本の道を歩け
辛くても立ち止まるな
人の作った道を羨むじゃない
自分の道を進めばいい

 

無理に親切や優しさをする必要はない
手を差し出すだけでも十分だ
だれからも褒められなくてもいい
無能と思われてもそれでいいのだ
自分の道があるじゃないか

 

人の聞いた話を自分の話にするな
人の知識を自分の知識にするな
人の友だちを勝手に自分の友だちにするな
自分の知っている事だけで十分だ
自分の道だけでいいじゃないか

 

うまい話に耳を傾けるな
笑顔の裏の罠に嵌るな
近道の誘惑にのるな
失敗を恐れず歩めばいい
遠くても自分の道を進めばいい

 

笑って泣いて悔しんで蔑まれても
自分の道があるじゃないか
目立たず貧しく孤独でも
自分の道があるじゃないか

 

ここに先達の金言がある。

九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき眼もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。

森信三

 

自分の道があるじゃないか
ひたすら一本の道を歩け
辛くても立ち止まるな
他人の作った道を羨むじゃない
自分の道を進めばいい

 

そこに必ず真理がうまれる
壮大な夢と志があらわれて来る
使命に満ち溢れた勇気がおこり
確固たる信念のもとに
ゆるぎない世界へと導いてくれる

自分の道を進めばいい

看却下

 

足下を観ろ。


中国唐の時代に五祖法演禅師が弟子三人を連れて歩いておりました。

夜なので行燈(あんどん)を持っておりました。
すると突然風が吹いてきて行燈の中のローソクが消えてしまいました。
辺りは真っ暗です。一番頼りとなるべき明かりが消えてしまったのです。


そのときに、五祖法演禅師は弟子達に聞きました。

「この暗闇で一句(ひとこと)言ってみろ」
真っ暗になったとき、今おまえは何をしなければならないのかを五祖法演禅師が聞いているのです。


それぞれが応えたのですが、その中の一人仏果(ぶっか)という弟子の応えた一言、
「看却下」という言葉が禅師の思いに適していた。


暗闇の中ではあわてず騒がず、先ずは足下を見ろと云う事です。
冷静になり対処を考えれば解決の道は開かれる。

それが「看却下」という言葉です。

突然予期せぬ出来事が起こった時にどのように対処するかが問題です。
常日頃から心の準備があれば、冷静に足下を見ることができる筈です。
足下を見ることが出来れば、問題に動じることも無く落ち着いて解決を図れるのです。


剣術では丹田に力を入れることをおしえます。

試合で相手の動きにばかり気を取られていては勝つ事が出来ません。
先ずは腹の下で呼吸をして気を静めるのです。

対戦相手に激しく動き回るのではなく相手の微妙な変化を見つけるのです。
そしてその動きの先を読みながら踏みこんで行くのです。


どの様な場合でも冷静になりやるべきことをやらなければならないのです。


仕事先でこの様なことがありました。

取引先の社長が突然亡くなり生産がストップすると社員一同大騒ぎをしていました。
会社にとって生産が止まると大きな損出を被る事になるからです。


そこに自社の社長が現れて事情を聞きました。
そうすると社長は「先ず我々がする事はお悔やみを申し上げる事だ」と言ったのです。
会社にとっての一大時でも人としてやらなければならないことを先にしなさい。

その後に出来る限りの事をしなさい。


決して、今回の取引先に負担を強いるようなことをするのではなく、
一時的にでも他の取引先にお願をして心配を掛けない様にしなさい。

まさしく「看却下」とはこの事なのです。

突然の出来事に対して最初に何をするべきかが大切です。

 

 

一本の棒きれ

 

林のすぐそばの脇道に一本の棒きれが落ちていた。

村の子供達がそれを見つけた。
「こんなところに汚れた棒きれが落ちている」
子供達はそれを拾いチャンバラ遊びをする。
その遊びに飽きたらまた道端にポイと捨てる。


そこに年老いた旅人が通りかかる。

「おう丁度良い棒きれがある。」
杖代わりに使えば便利だと坂道の上まで持って行く。
ありがとうと感謝をしながら道端の木に立て懸ける。


またそこに村の主婦が通りかかり拾い上げる

「燃えやすそうな棒きれじゃ。」
釜土のマキに使おうと背中の籠に放り込む。
家に帰り庭先に棒きれを広げた時に主人が現れる。

「おう彫り物をするのに手ごろな木だ」と奥に持って入る。

数日が過ぎて立派な龍の彫り物が施された棒きれが現れた。
主人は町の展覧会にその棒きれを出展した。


審査員の中の一人の長老が棒きれを見つける。

何処かで見たことのある棒きれだが「なかなかの良き作品じゃ」と褒める。
「この彫物を今回の優秀作品にしよう」満場一致で最優秀作品となった。
そしてそこに居合わせた美術商がその棒切れを高価な値段で買い取った。


村の脇道にあったただの棒きれが高価な美術品になったのである。


一般的に誰もが道端の棒きれには関心をよせない。
その時の自分の都合に合わせて便利に使うだけである。


この棒きれを学問と云う言葉にしてみたらどうだろうか。
同じ知識を得ても使い方によって結果は大きく変わる。


おおよそのことは知っていることと知らないことに大差が無い。
どの様に使うか使わないかの肝心なのである。


貴方は一本の棒きれをどのように使うのだろうか。

目の前に高く積まれたビジネス書をどのように役立てるのだろうか。
眺めているだけだとただの棒きれと同じです。

棒きれに創造力を加えて実行する事が成功に繋がるのです。

 

平然

 

貧しくとも凛として生きろ。
辛くとも毅然とした態度で過ごせ。
悲しくても泰然として惨めになるな。
艱難辛苦あれど平然と受け入れよ。
悩みがあっても美しい所作に心掛けろ。
口を汚さず、苦労を出さず、静かに応じろ。


一度や二度の失敗で臆病になるな。
信念を曲げずにまっすぐ進めよ。
自分の心掛け次第で運命は変わるのだ。

ここに運命を変える方程式がある。

思考という種をまき、行動を刈る。
 行動という種をまき、習慣を刈る。
 習慣という種をまき、性格を刈る。
 性格という種をまけば、おのずから運命が変わる。

自らの運命を待つのではなく、自らの運命を変えるのだ。


目立たず、はしゃがず、騒がずに、何事にも動じない生き方をしろ。
平然とした態度で日々を過ごすのだ。

 

他人から言われる戯言に耳をかさず。
他人から受ける誹謗中傷に心うばわれず。
他人から誘われる欲と快楽に身をかさず。
自立独歩の信念を貫き通せ。

そこに運命の扉が開くのだ。 

苦労をすれば人間は丸くなるといわれる。
それは世間から非難を浴びるほどの苦労である。
深い反省と謝罪を繰り返しても犯したあやまちは許されるものではない。
心は傷つき身体は痛み意識は朦朧となる。

 

その上自分の失敗に対して協力者が批判する側に回り、人間不信になり、
自分を正当化する為に他人を逆恨みして開き直りする人も多い。

人としての「誇り」が消え失われるのである。

「誇り」があれば深い挫折を味わっても再起の道を自ら発見することが出来る。
自分の軸を立てなおし目指した道を真っすぐに歩んでいるからである。 

 

「誇り」とは使命感である。何をなすべきかを全うする精神である。
失敗を恐れる必要はない。「誇り」を失わなければ平気である。


泰然自若、凛として、動じない精神力を持ち、礼儀を忘れずに過ごす事である。

 

 

一瞬

 

一瞬の出会い。

一瞬の言葉。

一瞬の感動。

人はこの一瞬を見逃してしまう。


それは普段から一瞬を引き寄せるエネルギーを蓄えていないからである。


エネルギーの無い人間はどれほど素晴らしい出会いでも気付かずに見過ごしてしまう。
そして、どれほど力のある言葉を聞いても聞き逃してしまう。
その上、どれほど素晴らしい感動でも、ありきたりの出来事で片付けてしまう。


神様は、今生きていることが「奇跡」だと信じている人間にだけ一瞬を与える。

その一瞬を捉えるアンテナが敏感という第六感である。


敏感とは、わずかな変化でも見過ごさず感じることである。
頭の中で光が、空気が、風が、雨が、動くのを認知することである。
自然と共存する人間に本能の素晴しさを教える力が敏感である。


また人間同士が共存する為にも、相手の心の変化を読み取る力が必要である。

やさしさや、おもいやり、こころづかいは目に見えるものではない。
必要な時にそっと手を差し伸べることができるのも敏感の力である。


未来に続く大切な一瞬を見逃してはならない。
知識だけで価値を判断するのではなく、感性で価値を判断するのだ。


自然に逆らわずに素直な気持ちで一瞬を抱きしめるのだ。

 

 

放下

 

誰にも心の中に悲しみのわだかまりが存在する。
それに囚われて不自由な人生を過ごすことになる。


忘れることのできない怒りや憎しみや劣等感などである。
無教養な親からの言葉による虐待、意味も無い友達からのいじめ、近所の冷たい視線、
無神経な大人達からの嘲笑で心に裂傷を受ける。


その傷はいつか無くなるものだと期待していてが消えさることは無い。
大人になり社会に出ても結婚して子供が出来てもイジイジと蠢くのである。


しかしその忌まわしい記憶を無理に溶かす必要があるのだろうか。
それは自分の黒い影のように逃れようのない一生の追跡者である。

何故それらを捨て去る努力等する必要があるのだろうか。

しっかりと抱きかかえて共に生き抜いても良いのではないだろうか。


何度も踏まれて強くなる麦のように痛みを味に変える事も可能ではないだろうか。
悲しみの鎖を引きずりながら前向きな人生を過ごす事も出来るはずである。


人はおだやかな波間に漂う木の葉ではない、人は嵐の中を漂う木の葉なのである。
全てに聞き耳を立てることは無い、見なくても良いものには目を塞いでも良いのである。


仏教で言う仏様の眼は「半眼」なのである。
それは内と外を両方見る目をお持ちだと言うことです。


カット見開くと外しか見えず、薄く見開いて「内を観る眼」内観が大切なのである。
さすればどんな時にも受け流す慈しみの眼が持てるからです。

もうひとつは「何があってもあなたが帰る所はここ」
という居場所を作って上げる事です。
鸞聖人はその居場所のことを「浄土」とおっしゃっていました。
死後の世界に限らず、「自分が自分でいられる場所」、「心から安心して帰れる場所」です。


あなたには心の中の居場所があるはずです。
それらは悲しい記憶が作った場所なのかもしれません。
溶かす事も無く逃げる事も無く戻る場所なのです。


だから全てを解き放す必要はないのです。

 

本音

 

本音という音がある。ありのままの心の音である。
脳の発育と共に生まれた感情が音になるのである。

 

好きや嫌い、心地良いか悪いか、嬉しいか悲しいか。
子供の時に作られた記憶が音になって現れるのである。

 

毎日人はどれほど本音で他人に語りかけているのだろうか。
何故、歳を重ねるごとに本音に色を付けなければならないのだろうか。

 

音色を付けなければ素直に伝えることが出来ないのだろうか。
お世辞を言ったり、心にも無い事を言ったりして、
自分の本音を駆け引きの道具にしていないだろうか。

 

本音は油断すると自分のエゴを曝け出すか、
自分の弱みを曝け出すかのどちらかになる。

 

だから、本音を言うと驚かれる。本音を言うと白い目で見られる。
本音を言うと評価が下される。本音を言うとつまらない人間関係が出来てしまう。

 

しかし本音を押し殺してまで付き合うのは正しいのだろうか。
本音は本根とも言い、自分の心の根っこの部分である。

 

ありのままの心を伝えるのに恐れる必要があるのだろうか。
自分の心を曝け出す事に恥じることはあるのだろうか。
迷い悩む姿を笑われる不安があるのだろうか。

 

本音を閉じ込めて生きること、そこに幸福はあるのだろうか。
本音を聞いてくれる人、その人が人生にとって大切な人である。

 

 

 

辛(シン)は、肌身を刺す鋭いナイフを描いた象形文字である。

親(シン)の左側は、薪(シン)の原字で木をナイフで切ったなま木。

 

親(シン)は、それを音符とし、見(ミル)を加えた字で、

ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。

じかに刺激を受ける近しい間がらの意味です。

 

親(おや)は、子供の傷つく姿を見なければならない

距離に存在するのです。

 

親切(しんせつ)は、刃物をじかに当てるように「身近である」と

「行き届く」という意味がある。

 

また思い入れが深く切実であるという意味では「深切」が用いられ、

古くはこの「深切」が常用されていた。

 

当て字であるが「心切」という文字もある。

その苦しむ心を切ることから生まれた文字です。

 

大切なことはすぐに解決策を労することでなく、

痛みを共にするということです。

 

痛みを共有するところから「絆」がうまれるのです。

 

水槽

 

父と母が作る家庭と言う水槽がある。

その水槽の中で子供達が自由に泳ぐ。

 

それぞれの水槽の大きさの中で暮らしの営みがなされる。

しかし誰もが求めていたのは水槽の大きさではなく心の大きさだった。

 

父が怒れば水が濁る。

母が癇癪起こせば波が立つ。

そして子供は委縮して藻の中に隠れる。

 

どんどん水槽の中の空気が少なくなり息がしづらくなる。

 

父は水槽を大きくしようと必死になる。

母は見栄えを良くしようとして無理をする。

誰の為に何の為に大きく美しくする必要があるのか。

 

小さな水槽でも充分家族には休息が有った。

父と母は家庭を作る為の過程を忘れた。

 

他人を意識してから見栄えばかりを必要とした。

 

子供を守ると言いながら閉じ込めていた。

見えない敵から守るためにルールが多くなった。

 

限界を感じた子供達は水槽の外の世界に憧れて飛び出して行く。

残されたのは汚れた水槽の中に疲れ果てた父と母だけだった。

 

この水槽が誰の為の水槽だったのかが分からなくなる。

 

 

 

塞翁が馬

新年明けましておめでとうございます。

本年は午年です。
皆様が天馬の如く飛躍する年になりますようお祈り申し上げます。

「人間万事塞翁が馬」(じんかん、ばんじ、さいおう、がうま)

城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、
また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。
まったく禍福というのは予測できないものである。

これを詳しく説明すると、

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。

この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は、
気の毒がって老人をなぐさめに行きました。

ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬を
たくさん連れて帰ってきました。

そこで近所の人達がお祝いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

暫くすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。

近所の人達がかわいそうにと思って慰めに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経った頃胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。

そして、何とか胡人から城塞を守ることができましたが、
その多くはその戦争で死んでしまいました。

しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

この故事から「幸(福・吉)」と思える事が、後に「不幸(禍・凶)」となることもあり、
またその逆もあることのたとえとして「塞翁が馬」と言うようになった。

人間(にんげん)と解釈するのではなく、人間(じんかん)は「世間」のことと
解釈するのが正しい。

所謂、「世間の全て(禍福)は塞翁の馬のようである」という意味です。

私たちは常日頃から禍福に一喜一憂しがちですが、
泰然自若として「塞翁が馬」と笑い飛ばすことも大切かと思います。

幸福な時には心から満喫して、不幸が訪れた時には落胆せず、
この次はきっと幸福が訪れると思えば一生悩む事も無くなるかも知れません。

本年1年は塞翁の馬のように禍福の中を、
無事安全に駆け抜けて下さい。