百尺の竿頭
百尺(ひゃくしゃく)の竿頭(かんとう)に坐(ざ)する底(てい)の人、
然(しか)も得入(とくにゅう)すと雖(いえど)も、未だ真を為さず、
百尺の竿頭に須(すべか)く歩みを進め、十方世界に全身を現ずべし。「無門関」
石霜和尚と長沙景岑禅師の百尺の竿頭についての問答。
石霜和尚の「百尺の竿頭如何が歩を進めん」という問いに、
長沙禅師は「百尺の竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じた。
竿頭とは物干し竿のことですが、竿頭を崖っぷちとすれば、
さらにその先に一歩を進めれば、踏み外して落ちて死んでしまいます。
高い竿をのぼりつめたところで、そこからさらに一歩をのぼり進めれば、
もうつかまるものはなく、まっさかさまに転落して命を失ってしまう。
いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。
百尺の竿の先端に坐すことはできないでしょうが、
たとえばということで、坐しているとしましょう、
ところが坐している人は、まだ本当に悟った人ということができないのです。
百尺の竿の先端よりさらに一歩をすすめて、
十方世界に自在に自己の全身を実現できる人が悟った人だからです。
それは、きびしい修行を経て到達できる仏の境地です。
修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから
「さらに一歩を進めよ」ということです。
たとえば不幸な境遇に生まれても、不幸から逃れようとするのではなく、
不幸を重ねて、不幸の行きつく先の、もっとその先まで歩みを進めよということです。
究極の不幸を知ることによって、自在に自己の全身(幸福)を実現出来るということです。
無欲の欲が生まれてから初めて知る幸福があるということです。
「悟り」とは神と人の交わる交差点にいることをいい、
人としての欲が離れて無欲の世界に到達することである。
仏教徒は人や社会のために無心で祈ることに専念する。
あらゆる問題に対しても祈ることしかなく、
原因が分かったとしても直接手を下すことなく祈るのみである。
そこには時間も距離も無く無限の精神性の世界があるだけです。
人間関係も遠慮の先の一歩を進めることによって本質に触れることができる。
争って初めて得られる信頼は「絆」となり繋がりがより一層深まるのである。
たとえ相手から痛みを伴う言葉発言されても、目を逸らさずに受け止めるべきである。
まだまだその歩みを止めることなく、さらに一歩を進める覚悟で生きなければならない。
偉大なる成功者達は生と死を意識せずに乗り越えて来た人達である。
限界のポジションを決めて立ち止まるよりは、
限界の先に在る未来を見つめ行動することが、世の中に役立つ事になるのではないか。
我々は百尺の竿頭を更に一歩を歩み出すことに勇気を持つべきである。