ロゴス思考とレンマ思想




ロゴスとレンマという言葉がある。論理的思考と練磨(れんま)的思想である。
西洋的な論理思考と東洋的な練磨思想の違いは何か?

砂漠から生まれた「西洋的思考」と森林から生まれた「東洋的思想」は、
宗教も世界観も全く異なる。

西洋的思考では二者択一で物事を判断する。
神か悪魔か、有か無か、正か悪か、右か左か、男か女か、勝利か敗北か、優秀か無能か、
どちらかを選ばなければならない。

そして西洋哲学は「驚き」から始まる。
そこに物がある、見事な花がある、世界はこのようにある、それらを存在させるものは何かを問い詰めるのが西洋思考「有の思想」である。

東洋的思想の世界では生命は不変であるという意識で物事を見る。
万物はすべて空(くう)なのである。ゆえにそこに存在しないが、存在するのである。

存在を存在ともたらしているのは、何か絶対者のような究極存在ではなく、
いっさいは、ただ「無」から出てまた「無」へと帰っていくだけなのです。

二者択一で選別するのではなく、環(サークル)で結論するのが「無の思想」である。

土に種が落ちて芽が出る、芽はやがて大きくなり大木となる、大木は切られて建物になる、建物はやがて朽ちて土にかえる。「無」から出てまた「無」へと帰っていく。

「輪廻転生」の世界では一つのものごとに完全な答えはないから、
二者択一で考える必要は無いのである。循環の世の中ではすべてが平等である。
万物は永遠に流転する「円環的世界観」が成立したのです。
これが大乗仏教「廻向と空」の思想なのです。

現在のロゴス思考とレンマ思想で避けることが出来ないのがデジタルの応用です。
デジタルは悩む時間を大幅に短縮できて容易に答えを導き出すのです。
そして地球の果てにいてもコミュニケーションが取れるのです。

これは思考(考えや思いを巡らせる)ではなく、思行(思いを巡らせて行動に移る)
(思即行)なのです。

自立しようとした覚醒の中でも孤独にはなれない。
哲学者は孤独の中でもがき苦しみ心理の追求に徹したのだが、
現代では孤独になる難しさがある。

勇気をもって孤独になる必要もあるのです。
デジタル機器のスイッチを切ることが人間性を取り戻せる機会なのです。

縄文遺跡の古代人と、あるいは無人島で星たちと、無言の会話をすることが大切です。

ロゴス的思想とは、ロゴス(論理)・パトス(情熱)・エトス(信頼)の組み合わせである。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人心誘導の術として、
この3つの要素が重要だと言いました。

多くの哲学者及び学識者や政治家に究極の演説法だと提言したのです。

レンマ的思想は錬磨(練磨)=物事の真意を深く掘り下げる・追求する。
インド式論理、インド古来の思考様式。
技芸・学問などを鍛え磨く、心身を練磨すると使われる。

小乗仏教は仏僧本人の修養で大乗仏教は民衆のための修養である。
鍛え磨かれた状態の先には必ず民衆の幸福があるのです。
結果、人々が幸福になってこそ宗教は存在するのです。

ロゴスのような知識に頼るのではなく、
自然から沸き起こるようなレンマ的発想が重要だと言います。

古代仏教の答えのない真理の追求から自身の欲を捨て無の境地から「空」を知るのである。禅でいう「無分別即分別」の意識を育てることである。対極から求める答えに悩むのです。

例えばこの言葉「驢覗井」ロバが井戸を覗く、井戸がロバを覗いている、
という「禅」の発想がある。

見た目ではロバが井戸を覗いているように見えるが、
本当は井戸がロバを見ているのかも知れない。

人間が考えている意識は本人の見た目の視覚(分別)から判断するが、
禅の世界では思考の対極(無分別)から見て知恵を出すのです。

禅の研究家鈴木大拙曰く、「禅」はもろもろの具体的・現実的な問題を処理するものではなく、それらを処理する「理論・思想・指導方針」などの、
「分別の思想を働かす原理」なのだという。

所謂、般若心境「色即是空・空即是色」そこには何もないが、何もないところに全てがある。「無」の境地に立つとすることです。

これは現代の教育ではとても必要なことです。
答えにたどり着く西洋的教育から、想像にたどり着く東洋的教育が重要です。
まさしく和教の精神です。「和をもって貴しとなす」すべてを全方位から眺めることです。

西洋的に多数決ですぐに答えを求めるのではなく、日本古来の話し合いを深めて、
反対意見も取り入れながら結論にみちびくのです。