計算高い女

 

この様な投稿文に目が止まりました。

日常生活では、電車で席を譲ります。
困ってる人には声をかけます。
素敵なお嬢さん、と思われたいから。

学校では、人が嫌がる役割を引き受けます。
皆にありがとうと感謝されたいから。
偉いと思われたいから。

彼氏さんの前では、彼にこうしてもらいたい…という思いを抱くと、
彼がそうするように仕向けるため、様々な言動をします。

キスなんてまさにその良い例です。
明らかに私は彼にキスさせようとしています。
自分からは出来ないから。

高校2年の女子学生の投稿文です。
私は偽善者ですかということです。

本文はもう少し長い文章なのですが、
疑問の部分を読みやすくまとめています。

高校生にしては(失礼)、とてもしっかりとした文章能力をもっています。

人に好かれたい為にする行為が、計算無くしてすることは、
不可能ではないのでしょうか。

あいての求めている事に気が付き、それを行動で応える。
当然、感謝の言葉が返って来ます。

素敵なお嬢さんと思われたいから、席を譲り、声を掛ける。

そこで生まれる「ありがとう」の一言は、
周りの人達にも幸福を与えるのです。

眠ったふりをする人や、無視をする人よりも、
数百倍素晴しいと思います。

小さな子供は、ほめられる言葉を計算して、お手伝いをするのです。

その行為は偽善でも何でもありません。

人から信頼を得たい為にする行為も、計算無くしてすることは、
不可能ではないでしょうか。

みんなが嫌がる役割を喜んで引き受ける。
本当はしたくないのだが、好感を得る為には仕方がない。

しかし、それでも、その嫌な役割は終える事が出来るのです。

例えば、道端に大きな石が有るとして、それを邪魔にならないように動かすとします。
自分がやらなくても、誰かが気づけば動かしてくれるだろうという考えだと、
その間に老人や子供や身障者にとっては、とても迷惑な石だと思います。

それを、偉いと思われたいからという考えで動かしたとしても、実際に石は道の邪魔にはならなくなるのです。

異性に対してする行為も計算の中から生れて来ます。
計算なしで付き合いは出来ないものです。

転んだふりをして手を握る。
ゴミが入ったふりをして顔を近づける。
好みが同じと思われたいから、あいての好きな歌をさりげなく覚える。

偶然出会ったふりをして通学路で待ち伏せをする。
抱きしめられたいから夜の公園に行く。

すべて、計算して行うから恋は楽しいのです。

陽明学に「知行合一」という言葉があります。

知識と行動が一致しなければならないという意味です。
勿論、この言葉は学者や政治家に伝えた言葉です。

日本においても幕末から明治の若者達に受け入れられた考え方でした。

素敵なお嬢さんとか、偉いと思われたいからとか、
自分から出来ないからとかに使う言葉では無いのですが、
好かれる為の計算された知識を使って、行動が伴えばおなじです。

自分の悩みの正当性を、行動する前に考えるか。
行動した後に考えるか。
行動しながら考えるか。

それに気づく事が大切です。

私は常に行動しながら考えるタイプです。
勿論、常に強かな計算をしています。

偽善者という言葉は、善を偽って人を陥れたり、
組織を苦境に立たせるような行為をする人の事です。

現在ではフレネミーがそれに該当するのではないでしょうか。

相手には親密な友人を装い、他人には敵にまわり悪口を言う。
この様なタイプは平気で善人を装う事が出来るのです。

しかし結果は悲惨です。

誰からにも嫌われて、信頼を失くして、孤独になるのです。

投稿者の女子学生さんは、計算高い女ではないし、偽善者でも無いですよ。

可愛い思春期のお嬢さんです。

 

流石

 

さすが名人ですね。
さすが名物ですね。
さすが本物は違いますね。

「流石」は、自分が予想した以上に評価が高く納得した時に使う言葉です。

しかし、何故「流石」が流れて行く石なのでしょうか。
考えた事がありますか。中国の昔話から語源が来ています。

その昔、中国に孫楚(そんそ)という人がいました。
孫楚は、世の中を嫌って山にこもりたいと思い、友達の王済(おうさい)に次のように言いました。

「私は、これから石を枕に寝て、川の流れで口をすすぐような生活をしたい」と言いたかったのですが、
間違えて「石で口をすすぎ、川の流れを枕にして寝たい」と言ってしまいました。

これを聞いた王済が「なにを間違っている。石で口をすすいだり、
川の流れを枕にするようなことが出来るのかい?」と言い返しました。

負けず嫌いの孫楚は、屁理屈をこねました。

「流れに枕するのは、耳を洗うためであって、石ですすぐのは、歯を磨くためなのだ」と言ってこじつけた。
これを聞いた王済は「とんでもない屁理屈を言う奴だが、なかなかうまいことを言うな。」と大変感心しました。

ここから、感心するときの「さすが」という言葉を「流石」と書くようになったそうです。

夏目漱石の名前の由来が、この話から来ている事を知っている人は少ないと思います。
漱(すす)ぐ石で漱石です。

又、流石を英語で書くとローリングストーンと表記します。
あのミックジャガー率いる有名な英国のロックバンドも同じ名前ですね。

今ではメンバーの平均年齢が60代後半の、世界最高齢のロックバンドです。流石ですね。

私の好きな言葉に「流れる石は激流を選べず」という言葉があります。
人は運命に逆らわず、決められた人生を、流れに任せて生きろという意味です。

若い時には、この意味が理解できず、流れに逆らってばかりして、多くの苦労をしました。

あちらこちらの石に、ぶっかることが、エネルギーの源だと勘違いをしていたのです。

子供の頃に親しい住職から「人生僅か70年」と言われ、
僅か、70年しか生きていくことが出来ないのだと思い、
少し慌てたのかも知れません。

年を取り沢山の失敗を重ねてから、この意味を理解する事が出来るようになりました。

最近では流れに逆らわず、生きる事が出来るようになり、
石(性格)の角も取れて丸くなったと言われます。

流石に先人は上手く言葉と文字を考えたものです。

 

鑿の一撃

 

宮大工が古い伽藍の屋根裏に入った時に発見する物が有ります。
それは先人の宮大工が残したメモです。

屋根の支柱にお守りの札と共に括り付けられているか、その近くに置かれているそうです。

屋根裏に入ってくる、同じ宮大工の為に、工法詳細をメモとして残しておくのです。
「俺達はこのようなやり方で建てました」。

多くの人の目に留まる物ではないのですが、職人の落書きは後世の職人達に大いに役に立つのでしょう。
勿論、古い伽藍の中には古代洞窟で発見されるような絵も見つかると言う事です。

動物の絵や男女の交わりの絵や、生活の様式が黒ずみで書かれているのだというのです。

すごい事ですよね。何千年も前の職人の考えていた事が、落書きとして残っている訳ですから。
私の文章も、職人の落書きと同じです。ふと目にとまった時に、これは助かったなとか、笑えるなとか、
成る程と思ってもらえればうれしいですね。

徒然なるままに書き連ねた文章ですから、
解釈が間違ってたり、勝手な思い込みや、誤字や誤文で迷惑を掛けるかも知れません。

それでも一文字一文字書き連ねて行く事によって、人生の大きな岩を砕く事は出来るのかと思っている次第です。

そんな事を考えている時に、ふと禅海和尚「青の洞門」の話を思い浮かべました。

大分県にある耶馬渓を代表する絶景の一つ、中津市の競秀峰(きょうしゅうほう)。
まるで競っているかのような巨大な岩がそそり立っています。

一枚の大きな岩が断崖絶壁をなしていて、当時は人々は「鎖渡し」と呼ばれる難所を命がけで歩いていました。
足を踏み外して転落する人が後を絶たなかったといいます。

そこへたまたまやって来た禅海和尚。多くの人が命を落とす様を見てショックを受け、
何とか助けられないかと思い、トンネルを掘ることを決意しました。

機械や技術も無い時代、手で掘るしか方法はありません。

岩に向かって一人で掘り始めた時、町の人たちは最初誰も馬鹿にして手を貸そうとはしませんでした。
しかし、黙々と掘り続ける姿に心打たれた人々が手伝うようになり、徐々に作業は大掛かりなものになったのです。

そしてついに、30年の時をかけて、青の洞門は完成したのです。

「不撓不屈」の精神そのものです。
一旦志を決めたら、その目的に到達するまでは諦めずにやり続けるという事です。

他人から見れば無謀な事に思えても、掛る年月を意識するのではなく、
村民救済の強い一念があればこそ出来た偉業です。

恐れを知らぬ祈願の一念です。

禅海和尚と同じ曹洞宗の開祖、道元禅師がいうところの「愛語良く回天の力あり」と同じかと思います。
この場合は「愛語」ではなく、「愛行」でしょうか。

「無一物・無償の愛」同じ意識を持つ人が共有する状態です。

自分達の為に他人が無償で行う行為こそ感動を生みだすのです。
感動は作る物ではなく、生れ出る物なのです。

濡れた所に水は滲み込まず。乾いた所に水は滲み込むのです。

こつこつと、もくもくが、感動と共に奇跡を生みだしたのです。

 

アリが象をたおす

 

アリが森の中を旅している時、象にぱったり会いました。
アリは急いで穴の中に逃げ込みましたが、足を一本巣穴から伸ばしました。

それを見て不思議に思ったウサギが聞きました。
「アリさんいったい何をしているの?」アリはウサギに言いました。

「しっ、静かに。象の足をひっかけて転ばせようとしているのだから!」・・・・・」

この話を聞いて、バカバカしいと思うか、ほほえましいと思うか、無謀だと思うか、
狂っていると思うか、貴方はどう思いますか。

99%無理な戦いでも1%の望みに託して、行動を起こす事が大切だと思うのですがどうでしょうか。

勿論アリの足一本じゃ1%にも満たないと思うのですが、
諦める行為より、諦めない行為の方がずっと未来に繋がると思います。

例えば大手会社を相手に入札で競争した時、最初から諦めてしまうか、
違う方法で勝ち抜くことを考えるかが大事ではないでしょうか。

勿論、結果は予想通り大手会社が入札を取ったとしても、自分達の企画と提案はそこに残るのではないでしょうか。

その上に大きなものに挑戦した経験は、必ず次の入札の時に無駄にはならないと思います。
小企業が生き残る為に、一番無難な方法は、大きな仕事を狙うのではなく、
身の丈に会った小さな仕事を多くこなす方が良いという考えがあります。

しかし、その考えからでは、ソニーやトヨタやパナソニックは生れなかったと思います。

敗戦国の日本がアメリカの市場を目指して、アメリカに乗り込んだ時は、
正に巨大な象に立ち向かうアリのようなものだったと思われます。

自分より大きなものに立ち向かうのはとても勇気のいることです。

大国アメリカに戦いを挑んだ日本の企業の勝算は何処にあったかです。
力では敵うわけは無いのですから、頭を使うしかないのです。

なぜこの象はこんなに大きくなったのか。この象はこれから何処に向かうとするのか。
なぜこの象を皆が恐れるのかを考えるのです。

一つの例を取ると車が有ります。アメリカでは富の象徴として大きな車を好んで乗っていました。
当然経済効率等は考えていなかったのです。

それでも売れ続けたから世界一の車所有国になったのです。

しかしいつまでも好景気が続くわけがなかったのです。
国全体が不景気になり所有者は困り始めました。

燃費の悪い大きなアメリカ車を自由に乗り回すには、維持費が続かなくなって来たからです。

その時を狙って、コンパクトで経済効率の良い日本車が乗り込んで行ったのです。
最初の頃は、こんな猿が乗るような小さな車を、アメリカ人は絶対のらないと、馬鹿にしていたらしいです。

車の部品だけなら買ってやるとまで言われたそうです。

しかし日本車は、車自体の装備がしっかりしているのと、車を楽しむ為の備品が豊富にあったという事です。
それ以上に購買者にとっては価格が安い事が一番魅力だったと思います。

そして徐々に乗り心地の良さが評判になり、多くのアメリカ人が買い求めるようになったのです。

そして、その後にアメリカの大手自動車会社を廃業に追い込むまでになったのです。
まさにアリの足一本で象を倒した事になったのです。

現在、我々の前には未曾有の大不景気と云う大きな象が立ちはだかっています。

この象を倒さない限り安心して道を歩く事は出来ないのです。

前例の無い事ですから、あらゆる智慧を出し合わなければなりません。
大きさに怯えるのではなく、勝負に立ち向かう勇気が大切だと思います。

アリにだって勝機がある事を忘れないで下さい。

老醜のライオン

 

潅木の木陰で昔を思い出しながらサバンナを眺めているライオンがいる。

若い頃は誰よりも力が強く、サバンナの雄ライオンには一目置かれた伝説のライオンである。
立て髪を揺らしながらサバンナを歩く姿は、他を寄せ付けない威厳をそなえていた。

正にライオン中に尊敬される百獣の王ライオンだった。

それが今では年老いて、数多くいた家族とも離れ、一匹で暮らしている。

時折、目の前で若い雌ライオンの群れが狩りをしている。
年老いたライオンは狩りを眺めながら何も言わない。

若い雌ライオン達は、いつも木陰に居るライオンが、伝説の百獣の王ライオンだった事は知らない。

いつものように獲物を捕獲した後に「爺さんお前も食べろ」と、残り物を放り出されて馬鹿にされた。
少し前なら年老いた誇り高きライオンは、絶対におこぼれ等には口にしなかった。

しかし、近頃では猟も出来ずに腹をすかしているので、みじめな思いをしておこぼれにあずかった。

プライド(領域)にいる若い雄ライオンは、必ず年老いたライオンが獲物を食べ終わった後に説教をするのであった。
ライオンというのはと云う「ライオン論」から、雌を従わせ幼獣を育てる紀律から、
狩りと云うのはどの時間にどの場所にいて、獲物をどのように捉えるかを、長々と話すのであった。

それはその昔、百獣の王ライオンが作った王の教えばかりである。

年老いた百獣の王ライオンは、狩りが出来ないのである。
それは優秀な狩人である、雌ライオンを従わすことが出来なくなったからである。

それなのに、その若い雄ライオンは百獣の王ライオンに向かって、
お前はいつも大物ばかり狙っているけれど、それじゃ駄目なのだ。
小さな弱い動物ならすぐに捕まえられるのに何故それを獲らないのか。

生きる為には目の前の昆虫でも食べるべきだろう。

百獣の王ライオンにとっては、小さな動物や、弱い昆虫は、守るべき対象であって、食べる対象ではなかった。
いくらサバンナが、日照り続きで獲物が少なくなっても、それは王としての誇りがゆるされなかったのである。

潅木の木陰で休んでいる時に若い雄ライオンが来て、その場所を俺に譲れと噛みついてくる。

そして獲物をくわえている若い雌ライオンに、「少し譲ってくれ」と頼んだら、非常識なライオンだと笑われた。

百獣の王ライオンはその時初めて死を覚悟した。
誇りを失ってまでも生きている意味はない。

もう俺の時代は終わった。

老醜のライオンは群れを離れて、遠くのサバンナへ死に場所を探しに出かけたのである。

 

カタルシス

 

人間は大きな悲劇を見る事によって脳内に強く目覚める部分がある。

喜怒哀楽の哀楽の部分である。
悲劇を見る事により誰もが哀を感じて手を差し伸べようとする。

哀しい心は万人共通の一定した負の意識である。
その負の意識を共有する事によって、救済の連帯感が生まれてくる。

悲劇の中で泣く人も、叫ぶ人も、喚く人も大きな興奮から解放された時に、哀楽の楽に包まれる。

放心する事による魂の浄化が行われるからである。
普段の生活では身の周りの事柄に追われて、怠惰な一日の中で、鋭敏な感情は不要になってしまう。

喜怒哀楽の根本は、精神世界の中の喜びであり、怒りであり、哀しみであり、楽しみである。

それは人間としての感情構成の基本である。
動物には無い人間としての特権である。

しかし欲望のみで、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりして過ごしていると、
他人に対する慈しみや憐みが薄れてしまい、情が感じられなくなってしまうのである。

その情のバロメーターが揺れ動く事も無く、止まったままの状態でいると、
本来の喜怒哀楽の機能が働かなくなってしまう。

何に対して感情を表現しているのが分からなくなる。
感情に敏感であれば心の奥底は見えるのだが、感情が鈍感になってしまうと、
目に見えるものだけが全てになってしまう。

母親が幼児の泣き声から喜怒哀楽を聞き分けられるのは、
敏感に反応するから聞き分けられるのであって、意識をしなければ同じ泣き声にしか聞こえないのである。

喜怒哀楽のデーター全てを曖昧にしてしまうと、意識は無機質な状態で脳内に刻まれるだけである。

しかし、そこに大きな天災や人災が起こり、もしくは戦争などが勃発すると、
使われていなかった感情にスイッチが入ることになる。

一瞬にして鋭敏な感情が覚醒されるのである。
五感が研ぎ澄まされる事にもなる。

その為に悲劇はマイナスの要素ばかりではなく、第三者が当事者の悲しみを共有する事によって、
第三者の抱えていた問題の解決にもなり、同時に鬱積していたストレスが発散するのである。

悲劇の当事者にとっても、過去を忘れて新たな未来を創り出すプラスの作用が働き始める。

この時点から感情の起伏に囚われずに強い意識を持った行動に転じて行く。
それを傍観している第三者にとっても、そこから生まれる連帯感や助け合いの行為が、
自分達にとっても大きな救いになる事は確かである。

「カタルシス」ギリシャ語で浄化の意。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスが「詩学」の中で展開した説で、
悲劇を見る事によって日頃の鬱積を解放し、精神的な浄化を得ること定義した。

 

堕落論

 

終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、
自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。

人間は永遠に自由では有り得ない。
なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。

人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落するそれを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救う事は出来ない。
人間は生き、人間は落ちる。その事以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。
なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。

人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなるものであるが、堕ち抜く為には弱すぎる。
人は正しく堕ちきる道を堕ちきることが必要なのだ。

そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。坂口安吾の「堕落論」より

現状の日本を憂いている時に坂口安吾の「堕落論」を読み直した。

血気盛んな青春時代にこの本を理解する事は難しかった。
あの頃は純粋に憧れ、身代りに義を感じ、処女に純粋を求め、美しい物は美しいままで存在して欲しと願っていた。

永遠の正義という御旗に誓いを立てていたのである。

堕落して分かる真実なるものが、本当にあるのかが想像できなかった。
それは、街にみにくい堕落した男女が溢れていたからである。

その中に入り込むなど到底考えられなかった。

そして、そこに人間としての真理や自由があるとは思えなかったからである。

「人は正しく堕ちきる道を堕ちきる事が必要だ」と言われても、堕ちる事に正しいという道筋があるのだろうか。
あるとすればそれは決して堕落ではなく自堕落ではないだろうか。

運命や宿命によって決められた、抵抗なき人生が、その道筋なのかもしれない。

購うことなき絶望、それを甘受して、立ち上がれないほど打ちのめされ、
煩悩の世界が立ち切れてから、香煙の先に現れて来るのかもしれない。

果たして我々は現在堕ちきった人生を過ごしているのだろうか、
悩みはある、苦労もある、精神的な痛みもある、将来の行き詰まりを感じながら、
身動きが取れない状態にもなっている。

しかしそれは堕ちきっているわけではない。
「人も国も堕ちきってからでないと救われない」という。

それでは堕ちきる為の入り口は何処にあるのか、探し出さなければならない。

そして人間の持つ本来のエゴを揺り起こさなければならない。
無様な姿を曝け出し肉体の塊とならなければならない。

正義と云う国の力で押しつぶされて、愛と云う言葉で裏切られ、豊かさの代償で破壊されて、
怯えたままの姿で、いつまでもうずくまるのか。

美しい物は永遠では無い、開花した花は枯れるのである。
美名も長く留まると醜名になる。処女も男を知った時点で娼婦となる。

枯れるのである。腐るのである。堕ちきった所から、
新たな人生の価値観が生まれ、自由になれるなら堕ちてみよう。

恐れるな、その手すりから手を離せ、そして救われるんだ。

堕落が復活への第一歩であるならば、奈落の底まで堕ちてみよう。

 

 

ハニートラップ

 

一般的には馴染みの無い言葉です。

外交官が海外に出向いた時に、先方の国から接待と称して女性を紹介される事です。
そして甘い誘惑に負けて情報を要求される事です。

勿論、多くの場合は女スパイが担当するのですが、時には接待専門のプロの女性が担当する事もあります。

2004年上海総領事館員自殺では何度もこの「ハニートラップ」という言葉が飛び交いました。
カラオケルームで知り合った女性(この女性がハニートラップ)をネタに、
中国側から機密文書の提供を何度も迫られたのです。

そして、日本の国を守る為にはこの方法しかありませんと書き遺して自殺をしてしまいました。

まるで映画の様ですが、現実に起こった話なのです。
元外交官佐藤優氏の著「諜報的生活の技術」の中にも
セックスと情報という手法は頻繁に使われているという事が書かれています。

最近では2011年5月に元IMFの専務理事が、NYのホテルで女性従業員に猥褻な行為をしたという事で、
騒がれていたのが記憶に新しいかと思います。

本人はフランステレビのインタビューで「今回の件は仕組まれた罠であり陰謀だと」
強行に身の潔白の主張をしていました。

その後アメリカの検察側からこの件の取り下げが行われたのです。

怪しいですね。裏取引がにおいます。
しかしいずれにせよ、女性の絡んだ事件は立証が難しいのです。

一つの部屋の中での出来事に真実は図りかねないからです。

政治的・経済的重要人物が突然失脚する裏には、ほとんどの場合女性スキャンダル、
この「ハニートラップ」によるものが多いのです。

女性の誘惑による甘い罠なのです。

その代償は計り知れないほど大きいのです。
ハニートラップでは無くても、元アメリカ大統領クリントン氏は、
女性秘書とホワイトハウスの中で卑猥な行為をしたとして、世間から非難を浴びて失脚を余儀なくされたのです。

日本の元総理大臣宇野宗佑氏も就任後3日目に神楽坂の芸者からの情報で失脚したのです。

大阪の元府知事横山ノック氏も、選挙カーの中で女子大生アルバイトに猥褻行為をして辞職するはめになりました。

全ては女性側からの訴えによるもので、その確証はどのようにして得たのかが疑問である。

しかしこの「ハニートラップ」は、決して珍しいものではない、
世界三大美女の一人であるクレオパトラこそ「ハニートラップ」の元祖のような女性であった。

ギリシャの英雄カエサルもアントニウスも彼女の甘い罠にはまったのである。

古今東西どのような強靭な男達でも「権力と金と女」を与えると三日で駄目になるということは真実である。

余談であるが、最近この様なワシントンポストの記事を読んだ。

アメリカのビジネスマンの中では中国で使用したIPODは中国を出る時に使い捨てる人が増えているそうだ。

「もしあなたがiphoneやBlackBerryを使えば、連絡先やカレンダー、メールなどその中のすべての情報は
瞬時にダウンロードされてしまう。地下鉄であなたのそばに座っている誰かは、
あなたがそれらの電源を入れるのを待つだけで良い。それだけで情報を盗み出すことができる」などを述べ、
「中国は他の国より安全ではないため、旅行者は携帯電話やPCに自衛策を講じるのが賢明だ」としている。

「ハニートラップ」よりも巨大な「インフォトラップ」(造語)一瞬にして情報が盗み出されるのである。

女性の甘い誘惑を使わなくても通信機器だけでスパイ活動が出来る時代である。

 

無目的

 

「うを水をゆくに、ゆけども水のきはしはなし」現成公案

魚が川や海を泳ぐときに、けっして、あそこまでは泳いで行こうというような、目的は持っていない。

道元の提唱する生き方は、「無目的」の生き方である。
先の目的を定めて今日を生きる事では無い。
何も考えずに流れに従いなさいという事である。

苦悩は目的を持つことから始まるからである。

私が、若い人には目的を定めて生きて行きなさいと言っていた言葉の相対する言葉である。
しかし「無目的」という「目的」を持って生きている事に変わりが無い。

禅僧は目的を持って修行をするのではなく、「無目的」で修業を続けることを道元は言いたかったのである。

即ち、魚のように水のきはし(目標と定める位置)を意識しないで泳げと言うことである。

禅僧たちが望む、「悟り」という目標自体が、形の無い物で有るから、形の無い物を目標として、
修行を励む事は意味の無い事であるとの教えである。

唐代の禅僧香厳智閑が、悟りを得られずに悩み苦しんでいた時に、庭を竹ぼうきで掃いていた所、
弾き飛ばされた石ころが竹やぶに飛んで行き、カランコロンと聞こえた音で悟りを得た話や、

同じく唐代の霊雲禅師は、新しい師を求めて旅をしているとき、春の季節の山里が目に入り、
そこに咲く桃の花をみて「ああ、なんと美しい桃の花」なんだろうと、自分の一言に悟りを得たという話がある。

「無意識」の中で人間の本来持つ尊い姿を、大自然の中からから呼び覚まされるのである。

所謂、何万冊の経典を読んだところで、何千時間座禅を組んだところで、
何回難行苦行を繰り返したところで、悟りなど得られないのである。

「悟り」という目的を目指すから到達点は無いのである。
「只管打坐」(しかんたざ)ただひたすら座禅せよなのである。

日本を代表する俳人正岡子規が「悟り」について記した言葉がある。

「悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、
いかなる場合にも平気で生きることであった」

二十二歳で肺結核、さらに脊髄カリエスとなり、三十五歳で死ぬまで、
身動きできない病床で、優れた作品を書き続けた正岡子規は、坂の上の雲にも登場する秋山兄弟の大親友でもあった。

「悟りということは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」という言葉に深い感銘を受ける。

しかし、果たして日常の生活で「無目的」に生きてゆくことは可能だろうか。

「無目的」は、将来の財産や地位や名声に執着して生きるなよという教えである。
一人の人間として、精神的な高みを望みながら、人生を全うしなさいという事である。

勿論、生きる為の煩悩にまみれた生活を放棄しろという事では無い。

人は生れた時から、「死」の到達点を見すらえて生きている。
人生における四苦「生老病死」の宿命は消えないのである。

全ての出来事に、慌てず、騒がず、なすがままに生きるだけである。

貧富の差や、地位の上下や、有名無名で、一喜一憂するなということである。

水のきはしを考えずに泳ぐだけである。

先の事を考え過ぎずに、日々、日常を大切に真面目に全うしながら「生きよ」ということである。

 

箍(たが)が外れる

 

柔道金メダリスト内柴正人選手の事件が世間をにぎわせている。

情けなくて声も出ない人がほとんどだと思う。
正しく「驕りと増長」の典型である。

健全な肉体に健全な精神が宿るという教えは何処に消えてしまったのだろうか。
世界最高峰の金メダリストである。

世界中の柔道ファンを落胆させた責任をどう償うつもりであろうか。

彼個人の問題では無い、彼を取り巻く全ての関係者に被害が及んだのである。
どう彼が弁解をしても取り返しのつかない事である。

勿論、被害者にも被害者の家族にも、また彼の家族や親類にも、その飲み会に同席をしていた全員にも及ぶのである。

「郷土の誇り」が一瞬にして「狂土のほこり」になってしまったのである。

朝青龍が店員をなぐったことだけでも横綱の地位を失ったのである。
市川海老蔵が暴走族と喧嘩をしただけで半年以上も謹慎を言い渡されたのである。

内柴選手の行為は愚劣であり最低の行為である。

自分の教え子である。ましてや十代の学生である。
「合意の上」だったという言い訳が通用するとでも思っているのか、
酔った勢い等の言葉では取り返しの使い卑劣な行為なのである。

彼の妻子の事を考えると言葉がつまってしまう。

英雄の家族が一瞬にして犯罪者の家族になってしまったのである。

日本と云う国は、昔から性に関してはおおらかであった事は確かである。

現在、あらゆる性関係の情報が街中に溢れている。
ネットの中、携帯電話の中、チラシの中、ありとあらゆる所にアダルト関係の情報が氾濫している。

多くの子供達も眼にしてしまう。

また世界中のテレビの中で、酒と性に厳しい制約を設けていないのは、おそらく日本だけである。
私が行った外国のほとんどは厳しい規制が掛けられていた。

性を隠す必要はないのだろうが、一定の規制を掛けなければ、野放し状態で歯止めが利かなくなる。
性関係の情報に規制を掛けろと言えば、必ず言論の自由を叫ぶ馬鹿な有識者達が登場する。

現在、学校では正しい性のあり方の教育はなされているのだろうか。
日本は世界中から清潔好きで、礼儀を守り、互助精神の優れた国民という良き評価を受けているのに、
今回の件で性に対してはだらしない国民という不名誉なイメージを植え付け兼ねない。

宗教家たちは声をあげて言うだろう、「この国には宗教が確立されていないからモラルと云う紀律が無いのだ」と。
哲学者たちは言うだろう、「飽食暖衣逸居して教えざるは即ち禽獣に近し」。

正しく内柴選手は箍を外したのである。

箍は竹で編んだ輪で、樽や桶などをきちっと締め付けるものである。
内柴選手はきちっと締め付けなければならない所を閉め忘れたのである。
というよりも彼は最初から箍が外れていたのかもしれない。

今回の彼の行為も予兆があったはずである。
柔道界の先輩も、学校関係者も、教え子たちでさえも分かっていたはずである。

誰も「注意、指導」と云う、掛け声をかけなかった原因は、何処かにあるはずである。

金メダリストだから野放しにしたというのならば、言わなかった関係者も同罪ではなかろうか。