人生に取って大切なことは、「位置」と「尺度」です。
いまの自分はどの辺りに位置しているのか、
そしていまの自分はどれほどの大きさなのかを知っておく必要があります。
現在の位置が確認できるから人格形成の励みになり前に進むことができるのです。
そして現在の尺度を知ることにより幸不幸の目安が分かり人生のバランスをとることができるのです。
多くの方の悩みの原因が、社会の中で自分の立ち位置が分からず、
また幸福なのか不幸なのかも曖昧で、日々流されて生きることに疑問が生じるからです。
一般的に自分の立ち位置の確認方法として、
新聞、ニュース、ネット上から社会的な位置、上司や同僚との話から会社内での位置、
友人や家族から知る人的交流の位置です。
勿論、学生の場合なら学業以外の活動から知る立志の位置もあります。
自分の定まった位置が分かると、話し合いで納得するのも、納得しないのも、
同意するのも、反対するのも、好きか嫌いかも、すべてその位置から答えが出て来るはずです。
しかし、第三者からの情報を取り入れ過ぎて、位置が分からない人や、
位置がブレている人は、常に他人と比較しながら判断するから悩むのです。
気を付けなければならないのは、このようなタイプの人は世の中に踊らされてしまいます。
捏造された情報に一喜一憂して自分を見失いがちです。
つまらない情報で不用意に踊らされない為にも自分の基軸(位置)をしっかりと持つべきなのです。
それでは尺度はどのようにして確認をすればよいか、
自分の能力、知識、技術、経験等を職場で又対人関係で知る方法と、
各種専門情報と照らし合わせて知る方法があります。
そのうえ多くの見識者と話し合うことから理解する方法があります。
求めようとする知識と経験、必要とされる人格、立ち向かう方向、
それらの真ん中に立ち現状を把握する事が、尺度の確認方法としてはとても大切なことです。
また位置と尺度を同時に知る方法としては旅に出る事です。
それも大自然を相手にした一人旅です。
各地の名山大川を歩く事によって、今いる位置と尺度が確認できるのです。
川を渡り、森を抜け、野山を歩く事により、万物の霊的なエネルギーを感じ、
真の目的の自立と活力に目覚めるのです。
偉大なる大自然の恩恵を受ける生物の一員として、個人の欲を満たすだけの人生では無く、
個人が他(自然・生物・人間)に役立つ人生を発見することが出来るのです。
そして旅と共に薦めるのが文化芸術に触れあう事です。
人間のもつ想像力の素晴しさに親しんで欲しいのです。
ピカソやゴーギャンやゴッホ、ベート-ベンやモーツワルトやシューベルト、
みな我々と同じ人間なのです。
彼等の芸術を生み出した能力と技術に感動して欲しいのです。
そして同じ人間でありながら、その大きな違いは何だろうと考えるべきなのです。
単に特別な才能があったから、人並み以上に苦労をしたからだけではないのです。
自分の位置と尺度を理解したうえで、その才能以上の努力があったからこそ、
素晴しい作品を生み出す事が出来たのです。
多くの成功したアーティストは言います。自分の希望する方向での苦労は苦しみではありません。
目指す方向と自分の能力が分かっているから、楽しみながら努力を続けられたのだと。
「想像力と位置」、「才能と尺度」、
一つの事に集中して日々研鑽を積み重ねて作られた作品が
万人の魂を震わせる事に成るのです。
多くの文化芸術から究極の感動を味わうべきなのです。
本当に大切なことは自分の立ち位置と尺度を知ることです。
つねに社会や組織や人間関係などから抵抗の強い力で引っ張られます。
その力に耐え忍んでこそ、自分の立ち位置が明確になるのです。
未来に向けて地位や名誉や財産を照準に置くのではなく、
今出来る行為行動に照準を合わせれば尺度も判断できるのです。
豊かさへの上昇志向を諦める事ではありません。
他人の作った高みに照準を合わせなくとも、自分に照準を合わせれば、
力量にあった目標と目的が明確になるということです。
向上心を失くすのでは無く探究心を求めよという事です。
理想を描く前に現実を確認して、自分の位置と尺度を知ることが大切です。
5月 7th,2013
恩学 |
位置と尺度 はコメントを受け付けていません
大迹皇子(オオアトベオウジ)は皇位継承の為に上洛することとなり、
寵愛している照日の前へ文と花筐を使者を遣って届ける。
照日の前は別れを悲しみつつ文と花筐を抱いて里へ帰る。
即位して継体天皇となった皇子は、紅葉の御幸に出かけた折、
そこへ物狂いとなって侍女とともに都へあとを慕って来た照日の前が行きあう。
官人が侍女の持つ花筐を打ち落とすと、照日の前は花筐の由緒を語って
官人を非難し別れの悲しさに泣き伏すが、
継体天皇はその花筐をみて確かに照日の前に与えた物だと分かり、再び召されて都へ伴われていく。
「花筐」はお能の曲名。四番目物。狂女物。世阿弥作です。
親子の別れ、恋しい人との別れを扱った狂女物は中世の巷話が主になっているが、
本曲は古代王権の即位を扱った曲であって、他の狂女物とは趣を異にしている。
越前の味真野(あじまの)という所に男大迹皇子(オオトオウジ)と称して住んでいた時、
突然大和へ迎えられ、帝位についた。
ここに照日の前(テルヒノマエ)といって、寵愛の女性がいたが、
あわただしい出立に別れを惜しむひまもなく、日頃手なれた花筐と文を残して、
皇子は大和へと旅立った。
残された女は、哀しみのあまり狂気となり、
花筐を抱いて、侍女と二人、皇子の後を追って都へ上って行く。
ふる里は桜の盛りだったが、都へついたのは秋も半ばの頃で、
紅葉狩りに行く天皇の一行と、ある日奇しくもめぐり会う。
それというのも、花筐のえにしによるもので、
「恋しき人の手はなれしものを、形見と名づけそめしこと、この時よりぞ、はじまりける」と、
女はめでたく都に迎えられて終わる。白洲正子「古典の細道」より
ハイレゾサウンドでモーツワルトの曲をプロデュースすることになった。
何故か、モーツワルトの曲を毎日聞いていると「花にまつわる話」がとても気になり始めた。
モーツワルトの弾むような長調の曲は小鳥の声をイメージしてつくられたものが多いと聞く。
モーツワルト自身がその弾むようなピアノの音色に癒されて落ち着きを取り戻したという。
その影響か春の日の到来を待ちわびると共に川のせせらぎや鳥の鳴き声に心惹かれるものが芽生えた。
先日音楽プロデューサーの「発想力」講座を終えたばかりである。
発想力は決して学びから生まれるものでは無い。
ふとした思いつきの中からそのイメージの源流をさがすところに大きなポイントがある。
皆様は感性が大切と繰り返して言うが、感性を思いつきで止めた場合は、ただの思いつきで終わる。
思いつきを追求するから、そこにオリジナルの発想が生まれるのである。
その発想を形作る力こそが発想力なのである。
知識としてデータが豊富にあるから発想が生まれるのではなく、
発想が生まれるから知識が必要なのである。
この辺りを多くのビジネスプロデューサーとして称している方々が間違って伝えている。
真夜中に目をさまして突然花にまつわる書物をむさぼり読む。
花がいかに人間に取って大切だったかが改めて知る。
楽しくて仕方が無い。
特にお能の世界に造詣が深いかというと全くない。
「花筐」の文章を読んでいると理解より興味の方が先立つのである。
難しい見慣れない文章の先にある創造の世界がありありと浮かんでくるのである。
ここに世阿弥とシェークスピアに共通したなにかを感じる。
世阿弥は1363年~1443年に活躍をして、シェークスピアは1564年~1616年に活躍をした。
日本と英国を結ぶ接点は無かった(というよりは取れなかった時代)と思うのだが、
どちらも劇作家として人の哀しみや憎しみや嫉妬を描いて一世を風靡している。
彼らを受けいれた大衆は豊かな文化を享受していたに違いない。
暫くはモーツワルトと世阿弥とシェークスピアに嵌りそうである。
3月 3rd,2013
恩学 |
花筐(はながたみ) はコメントを受け付けていません
6万年ほど昔、ネアンデルタール人が住んでいた
シャニダール(イラク)の洞窟には
花を捧げていた跡があったという。
1951年~1965年にかけて、
R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、
ネアンデルタール人の化石とともに8種類の花粉が発見された。
発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、
「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考えられる。
8種類の花はどのような状態で咲いていたのか興味は尽きない。
人間が定住して農耕を始めると人間の周囲に花が多く現れるようになる、
しかし原始林には花が無く、花は人類が農耕を始めてからうまれたのである。
古代の文明において、花は豊穣の概念と共に、現実を超えた、
なにか神聖で霊的なものへの「懸け橋」として広く受け止められていた。
そして男達は山や岩や大木に畏敬の念と共に超越的な力が存在すると信じて来た。
その力で守ってもらおうとする一方では、
その驚異の力をわがものに振る舞われないようにも祈って来た。
その超自然との楳介の役目を祈り人と花に託して来たのもうかがえる。
花は呪文とともに巫女的な役割も兼ねていたにちがいない。
古代人は花が自分達の気持ちを伝えてくれるような気がしていた。
つまり山や岩や大木で感じないものを、
古代人は花に感じそれゆえに花を愛でるようになったという。
大自然の中で原子の花の可憐さに魅了されていたのだろう。
日本人においてはとくに昔から歌を詠む時に「花鳥風月」をテーマにした作品が多い。
寄物陳思は恋の感情を自然のものに例えて詠うことである。
万葉集では花を愛でた歌が1500首もあることからも、
万葉の歌人たちが花をこよなく愛したのが良く分かる。
大伴坂上朗女(おおともさかうえのいらめ)の歌にこのような一首がある。
「夏の野の 繁みに咲ける姫百合の 知らぬ恋は 苦しきものそ」せつない片想いの句である。
そして昔から人は花の色香に狂うようになった。
人はなぜ花を愛でるのかは花が人に色香を教えたからである。
花の登場が農耕以後のことであるとすれば、
人が色香に狂うようになったのは農耕以後である。
色香のような、人のこころの最も奥底にある感情の琴線に触れたからこそ、
人は花を愛でるようになったのである。
花を愛でる心の在り方は、感性なのか行為なのか、
慣行なのか、花の観賞や儀礼祭典での使用は、どれも個別の文化が規定されている。
花の色や型の美しさ、かぐわしい匂い、開花してもほどなくして散る一過性、
花が人間の感性や、美意識、情念、さらには超自然的な世界との関わり方に影響を与えてきたのである。
人間が花を媒介として観念や思いを具現化し、
人と自然、人と人、人と超自然へのコミュニケーションを実現する。
花は視覚を通して言葉以上の伝達力を備えているからである。
又、花は人物を褒め称える時にも比喩として多く使われて来た。
幕末の志士、坂本竜馬を語る時にも、
「竜馬は大きな志があり、高い人間力と行動力を併せ持っていた。
その上つねに学んで自分を磨くという心構えがあった。
強いリーダーシップを持ち、理解力や説明力にも秀でていた。
いわゆる大きな志と花を愛でるやさしい心を持っていたのである。」
実際の竜馬は決してかっこ良い男ではなかった。
どちらかというと土佐弁で話し、せかせかとした醜男であった。
しかし竜馬が立ちよる場所には必ず才色兼備の女たちがいた。
その頃の竜馬は大義のために東奔西走を繰り返し身なりもかなり酷かったという。
それが女たちには一輪の凛々しい花として写ったに違いない。
竜馬は女性から愛でられていたのである。
武士の家紋にも多くの花が取り入れられている。
代表的なのは葵・菊・桐・桜・牡丹・水仙・山吹等がある。
佐賀県鍋島藩の山本常朝が書いた「葉隠」、
「武士道と云は死ぬ事と見付たり」にあるように
死の潔さが桜の花の散り際に似ているところから、
武士はこよなく桜を愛したのだと思う。
強さだけでは解決できない、心の憂いを花に託して癒されていたのであろうか。
つまり山や岩や大木で感じないものを、
人間は花に感じそれゆえに花を愛でるようになったのである。
余談であるが、はなむけの言葉というのは「馬の鼻向け」が語源で、
旅立つ人の馬の鼻が向いている方向を言う。
送る側が飾り立てて宴を催し、生と死、衆生と仏、
残る者と送る者などの立場や次元を異にする間で
贈答が行われる。
卒業のはなむけのことば、結婚式でのはなむけのことば、
転勤でのはなむけのことば、数多く花向けの言葉が使われる。
歌舞伎での「花道」はここを渡って客が贔屓の役者に花を贈ったところから来ている。
まさしく花を贈る道なのである。
芸人や力士への心掛けも「花」という表現をする。
見物の時には造花を渡して後日現金に換えて応援をしていたのである。
芸者や遊女の料金も「花代」である。
桜が満開で、闇夜の中でもそのあたりがうっすら明るいことを「花明り」という。
また色々な花を持ちよって歌を詠み合うことを「花合わせ」ともいう。
花言葉に囲まれた日本は本当に素晴しいのである。
愚痴や文句を言わずにせめて花咲く頃には「花を愛でて」のんびりしたいものである。
(今回は原稿を書くにあたり沢山の資料を引用させて頂きました。書かれた方の名前は失礼ながら割愛しております。)
3月 2nd,2013
恩学 |
花を愛でる はコメントを受け付けていません
中里恒子の「時雨の記」を読んだ。
以前から特に読みたかったのだが、
読む機会を逸した本である。
書籍紹介で内容の一文を読み、
心魅かれたのだが手に取る事は無かった。
きっと読みたくなる時期に巡り合うだろうと、
自然の成り行きに任せていたのだ。
それが満を持してやって来たのである。
読みたくなって本屋を捜し歩いた。
やっと見つけて徹夜で一通り読んだ。
気になる文章は全てポストイットをべたべたと張り付けた。
次回はポストイットの張った所を重点的に読み返す。
そして、少し時間をあけてから、読む環境を整えて
映画のように読み返す。
勿論、吉永小百合と渡鉄也で映画化された事は知っている。
しかし読書の醍醐味を味わう為に映画は決して見ない。
文字から浮かんでくる印象が、映像と違ったら、
折角の良書もお蔵入りになる事になるからである。
又、秋の夜長の読書の楽しみがひとつ増えた。
「時雨」とは過る(すぐる)ということで、突然降りだした雨の事を言う。
秋から初冬の初め頃に降ったりやんだりする雨のことだ。
万葉集の「時待ちてふりし時雨の雨止みぬ」や、
新古今和歌集の「下紅葉かつ散る山の夕時雨」がある。
女性の流す涙「袖の時雨」や「片時雨」「小夜時雨」等、
時雨には情緒ある言葉が多くある。
「時雨の記」は人生の時雨である。
男と女の時雨である。
粋な侘び寂びの恋である。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」ではないが、
「東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、
暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方ないものとあきらめてしまい、
光線が乏しいのなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、そのなかに自らなる美を発見する。」
男女の色恋沙汰も陰影礼讃に通じるものがある。
「時雨の記」
毛氈の上に出してある茶碗や、香合や、茶入れをひと通り見て、
二つ三つ脇にどけました。
それから壬生は、「こんなもの、捨ててしまいなさいよ、」
「どうして、」「あんたがもっているには、ふさわしくない、
高いの、安いの、ということではありませんよ、僕がいやなんだ、」
「あなたのものでもあるまいし、」
「……そんなことは万万ないけれど、もしもだね、
あなたの亡(な)いあとに、誰かが、この道具を見るとしよう……
そうすると、あなたの持っているいい品まで、下(さが)る……」
多江はどきりとしました。稽古用にと、
たしかに下(くだ)らないものも幾つか数を揃え、
多江自身、気に入らないものでも、数として、ひと通りは揃えてあるのでした。
たしかに、身一つの自分が、そういう立場になったとき、
ただ数だけ揃えてあったところで、どこに執心が残ろうか。
好きなものを、二つでも、三つでも、多江らしいと言われるものを残したほうが、
どんなにか、すっきりするであろう、すぐ、それは、多江の心を波立たせました。
「ずいぶん、容赦のないことを仰言る……でも、それは、あたしも考えていました」
壬生は、笑い出して、
「そんな深刻がるには、及ばないよ、
あなたの始末は、僕が、必ずする、
僕は、あなたを残しては死なないから」
多江は、胸を突かれました。
壬生の遠慮の無い言葉に、
これが色恋沙汰というものではなかろうかというほどの、
一つの証明のような気がしました。
私の好きな道元の正法眼蔵隋文記に
「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」
花は惜しんでも散ってしまい、草は放っておいても、嫌っていても生い茂って来る。
それが「生」というものである。という言葉がある。
恋も人生も惜しまれている時が潮時なのかもしれません。
花枯れを逃して執着し過ぎると醜悪を曝す事にもなりかねません。
中里恒子さんの「時雨の記」期待通りの内容でした。
夕暮れに時雨を受けながら、人生の儚さと美しさに、乾杯で有る。
3月 2nd,2013
恩学 |
花枯れ はコメントを受け付けていません
「それでも」はマザーテレサの名言集の中の一文である。
我々にこの言葉の持つ意味を理解する事が出来るのだろうか。
この愛の凄まじさをどのようにして受け止めて良いのだろうか。
ここまでの覚悟をして人が神に近づく事が出来るのだろうか。
危険をものともせずに終わり無き愛の奉仕活動である。
敬服の極まりで有る。
<それでも>
人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。
それでも彼らを愛しなさい。
もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、
何か隠された動機があるはずだ、と非難します。
それでもいい行いをしなさい。
もし、あなたが成功すれば、不実な友と、
本当の敵を得てしまうことでしょう。
それでも成功しなさい。
あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。
それでもいい行いをしなさい。
誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。
それでも誠実で親しみやすくありなさい。
あなたが歳月を費やして建てた(完成した)物が、
一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。
それでも建て(完成し)なさい。
ほうとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、
彼らに襲われてしまうかもしれません。
それでも彼らを助けなさい。
持っている一番いいものを分け与えると、
自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも一番いいものを分け与えなさい。
「カルカッタの(孤児の家)の壁に書かれた言葉より」
ロビン・ウイリアムス主演の映画
「パッチ・アダムストゥルー・ストーリー」は、
実在の医師パッチ・アダムスの物語である。
本当の医師の在り方を追求した感動の作品である。
学生時代からボランティアや奉仕活動に精を出して
無料診察の病院を仲間と共に開業する。
小児病棟を回ると時には
クラウン(道化師)の恰好をして見回ることで一躍有名になる。
難病で苦しむ子供達にとって笑いが一番の薬で有る事を実証した医師である。
何故、この映画をこの文章で取り上げたかというと、
映画の中で奉仕活動をするけなげな女学生が、
面倒をみていた患者から惨殺されてしまうシーンを思い出したからである。
正しい行いをしていても、神は非情にこの女性を見限ったと思ってしまっていた。
マザーテレサの「それでも彼らを助けなさい」という言葉に出合わなかったら、
私は永遠に真実奉仕の意味を理解する事は出来なかったかもしれません。
本当の奉仕とは見返りをもとめずに自己を消す事なのだと知りました。
パッチの「7つの信条」
ひとをケアする理由はただひとつ。人間を愛しているからです。
ケアは愛を動詞化する。ケアは概念ではなく、行動です。
ひとを思いやるという人生を送ることによって、あなたは自分のなかで一番深い平和と安らぎを得る。
良い意味のお返しをすること(良きカルマを積む/カルマからの解放)。
例えば、米国がアフガンに爆弾を落とし始めたとき、私はアフガンの人々を愛したいと思い、即座に現地に飛んだ。
平和のためにクリエイティブになる。例えば、死の床でアメイジング・グレイスを歌う。
情熱を持ち、不可能だと思っていた夢を見る。
ひとをケアすることは、科学的見地からしても、あなたのためにいいことがある。
世界中に愛の伝道師が存在する限り、ぎりぎりのところで平和と安全は保たれているのです。
どのような状態になっても、それでも人を裏切ってはならないのです。
3月 2nd,2013
恩学 |
それでも はコメントを受け付けていません
一休禅師(1394~1481)に面白い話があります。
ある日、一休さんは一本の曲がりくねった松の鉢植を、人の見える家の前に置いた。
「この松をまっすぐ見えた人には褒美をあげます」と、小さな立て札を鉢植に懸けたのである。
いつの間にか、その鉢植の前に人がきができた。
誰もが曲った松と立札を見て、まっすぐ見えないかと思案した。
だが誰一人として、松の木をまっすぐ見ることはできなかった。
暮れがた、一人の旅人が通りかかった。
その鉢植を見て、「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言。
それを聞いた一休さん、家から飛び出てきて、その旅人に褒美をあげたという。
その旅人だけが松の木をありのままに見たのである。
他の人は一休さんの言葉に惑わされてしまった。
褒美に目が眩み、無理に松の木をまっすぐ見ようとしたのである。
(『大法輪』昭和六十三年二月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照)
鉢植えで思い出した文章があります。「鉢の木」という題名です。
ある日、上野国佐野に、信濃国から鎌倉へ向かっているという僧侶がたどりつきました。
しかし、その日はあいにくの大雪。
夜も更けてきて気温は下がるばかり。
僧侶は一晩の宿を求めて近くにあった家を訪ねました。
家の主、佐野源左衛門常世は悩みました。
家はとても貧乏で、僧侶をもてなすことなどできないと思ったのです。
その為に一度は断ったものの、トボトボと去っていく僧侶の後ろ姿を見て、
何とか泊めてあげることにしました。
しかし、家には薪もなく、食べ物も冷えた粟飯ぐらいしかありません。
気温はどんどん下がり、体は芯から冷えてしまっています。
その時です。源左衛門は急に立ち上がると、梅・松・桜が植えられた鉢を持ってきました。
僧侶がその美しさを褒めようとするや否や、
源左衛門は鉢から木を抜きとり、囲炉裏にくべてしまったのです。
「貧しい我が家では何ももてなすことができません。
せめて体だけでも温まってください・・・・・」
しかし、僧侶が家の中を見渡してみると、立派な薙刀や鎧が納められている箱がありました。
僧侶が不思議に思って話を聞くと、いろいろなことがわかりました。
彼はこの一帯を治めていた武士でしたが、今は領地も没収され、苦しい生活を強いられていました。
しかし、幕府への忠義の気持ちは変わらず、鎌倉で一大事が起これば、
薙刀と鎧を持ち、痩せ馬に乗って馳せ参じるつもりでいたのです。
僧侶は言葉もなく、うなずきながらこの話を聞くだけでした。
そして翌日、礼を言って家を後にしました。
しばらくしたある日、鎌倉幕府から「急ぎ鎌倉に集まれ」との命が各地に発せられました。
源左衛門も痩せ馬に乗り、鎌倉に駆けつけます。
しかし、鎌倉で彼を待っていたのは、あの時の僧侶でした。
「佐野源左衛門常世、あのときは世話になったな」
そうです。あの僧侶は時の執権、北条時頼だったのです。
そして彼は源左衛門の忠義を褒め称え、佐野の領地を取り戻してあげました。
さらに、あの時に薪にされた梅・松・桜の木にちなんで、
梅田、松井田、桜井という3ヶ所の領土を源左衛門に与えたのです。
「ちょっといい話」佐藤光浩著
この二つの話が、ありのまま、見えたまま、
感じたままの素直な心が大切である事を教えてくれます。
この反対の物語も存在します。誰もが知っている
アンデルセンの童話「裸の王様」の話です。
異国からきた仕立屋に、世界にひとつしかない服を注文します。
仕立屋が作って来た服は、誰にも見えない架空の服です。
この服こそ世界でひとつしかない貴重な服「頭の悪い者や、
悪人や、仕事を嫌う者には、この服は見えない」のだと説明をします。
王様も家来も見えない服をほめちぎります。
挙句の果てには、詐欺師に騙されたとも気付かずに、
王様はお伴を連れて街中を歩き回る事になるのでした。
街中の人も、その服の話を聞いていたので、
見えない服を一生懸命見ようとしました。
しかし、その時、一人の少年が「王様は裸だ」と叫びます。
周りの大人達も、王様のお伴もみんなびっくりするのですが、
真実なので子供を叱るわけにはいきません。
気付いた王様も顔を赤くして慌ててお城へ逃げて帰りました。
自意識が高く私利私欲が絡むと「ありのまま」の姿を見る事が出来なくなります。
家来たちも皆と同じ意見に賛成していれば、自分一人に災いは起こらないという気持ちから、
見えていない姿を見えているように表現してしまったのです。
一般社会にも、これに似た話は沢山あります。
自分に一定の見識が無く、ただ他の説にわけもなく賛成する人達を「付和雷同の輩」と言います。
社長や上司の言う事には、決して反対する事もなくただ盛り上げるだけの人達です。
政治家にもこのタイプは多いですね。イエスマンの集団です。
まったく「裸の王様」の家来たちと一緒です。
みなさまは「ありのまま」の姿を見る事ができますか。そして感じたままの発言が出来ますか。
3月 2nd,2013
恩学 |
ありのまま はコメントを受け付けていません
いい人の仮面をかぶった人が集まると、暗黙のうちに「同調」を強いられることが多い。
取合えず上司に先輩に年配者に調子を合わせろというのである。
この様な場合は筋が通らない話が多い。
筋が通らなくても納得しろというのが日本人の考え方である。
空気を読めという言葉もガキじゃあるまいし社会人なら言わなくても理解しろである。
まさに理不尽である。
何故かいい人達はすぐに群れたがる。
そして群れて話し合うのが好きなのである。
しかし、その話の大半は前向きなことよりも愚痴と妬みと嫌みがほとんどである。
自分達と同調しない連中の事をやり玉に挙げて欠席裁判を繰り広げて酒の肴にするのである。
いい人達は面と向かってあいてに言えないので陰口を繰り返すだけである。
これでは学生時代のいじめと大差はない。
大方の人は上司や同僚の誘いを断れば社内での立場が弱くなる心配と
万が一失職するのが怖くて同調しているだけである。
しかし最近の新入社員は空気を読むことも失職も怖がらない。
自分の能力が活かされない会社ならさっさと辞めてしまうという考えである。
だから近年30歳前の離職率が高くなってきている。
くだらない人間関係で自分が潰される前に逃げ出すのである。
ある意味では賢明なのだが、どこの会社も似たり寄ったりなので転職しても同じ目に合う筈である。
会社というエリアではいい人達に疑問も反論も持ってはいけないのである。
新入社員の女子社員もいい人達のセクハラには耐えなければならないのである。
しかしいつまでも自分達がいい人を演じる訳にはいかない。
どこかで同調することに反旗を翻さなければならないのである。
「同調」の反対は「不和」である。
つまらない付き合いに同調せず、仲間外れになることが「不和」である。
仕事が出来れば不和など恐れる必要は無いのである。
常に自己主張を明確にして仕事をすれば良いのである。
人間関係を良くすれば「楽」になるという考えから「同調」が生まれる。
気休めに楽にならなくても、誰もが認めるぐらいに働けば良いのである。
いい人の仮面を被った彼らに決して同調してはならない不協音を出し続ければいいのである。
理屈で反論する必要も無い「お前らは全員嫌いだ」「お前らとは群れない」と腹の中で言い続けることである。
勿論、大切なことはこんな非生産的な話は上辺だけで良いのである。
人間性まで失ってやるべきでは無い。
日本人は肝心なところに目を塞いで、善悪よりも「いきほい」のある人間を大事にする。
本質が失われて声の大きい方に同調するのである。
主題を忘れて、残り滓を大切にしても意味が無いのである。
「課長島耕作」の作家弘兼憲史の著作に「いいひとをやめる」があります。
その中で危機感のない「いい人」という章があります。
上司にも部下にも同僚にも、「いい人」が蔓延してしまえばその会社は危うい。
現実問題として「いい人」ばかりの会社はあり得ない。
あればとっくにつぶれているからだ。
「いい人」に属さない人間、つまり横並びには収まりきれない人間が必ずいて、
傾きかけた会社の業績を立て直したり、新製品を開発してヒットさせたりする。
だからいま元気な会社、活気ある会社には「いい人」が少ない。
大人ぶった人間などごく一部分で、ほとんどの社員が子供のように無邪気に仕事する。
議論も活発だし、上司と部下がケンカ腰でぶつかり合う。
ということは、落ち目の会社は「いい人」が増えつつあるのだ。
若者達へぶつかり合う「同調」もあることを知っていて欲しい。
音楽でいうところの不協和音である。
互いに考えが違っても尊重し合って意見が交換できることである。
それを「調和」といい美しい音になるのです。
一番危険なのは付和雷同がたのぬるま湯の「同調」である。
このような「同調」からは雑音しかうまれない。
2月 25th,2013
恩学 |
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相手に想いが伝わらないのは伝えようとしていないからだという文章を読みました。
心の扉を開けなければ伝わらない。一方的な情報では見向きもされない。
だからこちらの方へ眼を向けさせることをしなければならない。
相手の興味のある情報、相手に取って価値ある情報を提供しなければならない。
もっともな考え方である。
しかしこれが出来れば何も問題はないが、これが出来ないから悩むのである。
そして注意しなければならないのは、相手を意識するあまり「媚」をうってしまう事である。
「ヒットのツボ」という話の中で、ヒットを作るのには他人に媚びてはならない。
他人に受けようとする考えからはヒットが生まれないと書きました。
しかし消費者を意識しないでヒットを作ることはできません。
私の場合は送り手と受け手が共有の価値観を持てるかにポイントを絞っております。
近江商人の三方の教え「売り手よし・買い手よし・世間よし」が基本です。
ある意味プライドを持ってこちらの情報を提供します。
自信を持った商品ですから堂々と紹介すべきだと思います。
しかし、ここ近年送り手側が消費者に媚びた感じがしてなりません。
間違った下から目線で消費者が衝動買いしそうな(?)商品ばかりを一方的に提案しています。
壊れない商品、使い捨ての商品、セールス専用の商品を東南アジアで大量生産するのです。
単一商品の品質に拘るのではなく、大量消費を目的としているのです。
その結果、値引き競争が起こりどんどん価格が下がり自分達の首を絞めています。
簡単に言えば「プロの素人化」です。
常に素人目線で考えたつもりが、消費者は送り手側の意図的な「媚」に気付いてしまうのです。
このようなことが商品離れの原因を作ってしまっているのです。
プロがいたずらに素人と情報を共有してしまうと、プロが素人と同化しているということになるのです。
プロとしてネット上の情報を100%信じている人はいないと思いますが気を付けなければなりません。
ネット上の情報は三分の一が捏造された情報です。そして三分の一は既に終わってしまった情報です。
残り三分の一が欲しい情報のコアの部分です。
コアの情報とは興味のある人には必要な情報なのですが、
それ以外の人にとってはまったく価値のない情報です。
プロはコアの情報を探し求め分析して利用しなければなりません。
その手間暇がプロには必要なのです。
プロはお客様が予想もしなかった商品を開発するのが役目です。
基本的には消費者はプロの企画書や提案書が分からなくても良いのです。
そして途中段階の作業も何をしているか分からなくて良いのです。
完成した時点で初めて形を見せて驚かせるのがプロの仕事なのです。
映画やお芝居の世界と同じです。
難しい脚本や台本はスポンサーに分からなくてもよいのです。
文章からイメージできない人に熱く語っても仕方のない事です。
それよりも完成された作品をみて感動してもらえれば良いのです。
これは傲慢では無くプロとしての自覚の問題です。
クリエイティブの仕事はクリエィターが興奮した状態の中からでしか生まれることはありません。
それでも作り手とクラインとは情報をクローズするのではなく、
互いに情報をオープンにして慎重にやっていかなければならない時代です。
同じ方向に視線を向けて同じ目的を持たなければなりません。
みんなが理解出来る、みんなが知っている、だからリスクが少ないという考えからは、
決してクリエイティブな新商品は生れないのです。
売れる事よりも売ることに臆病になって慎重過ぎると現在の様に個性の無い商品が溢れてしまうのです。
ソニーが衰退した大きな原因は技術者の意見より株主の意見を多く取り入れたからです。
売り上げ重視に目を向けて消費者がワクワクするような商品開発を怠ったからだと思います。
犬型ロボットAIBOやプレステーションは作らなかった方が良かったのです。
物作りに「媚」が入れば必ずこのようになるのです。
そして相手に想いを伝える時に、一番気を付けなければならない事は、
相手の興味ある情報、価値有る情報を意識しすぎて、自分の本音が伝わらないことです。
断れることを恐れずに勇気を持って自分の本音を伝えて下さい。
それが相手の心の扉を開くことになるのです。
私はいまも現役で仕事をしております。
自分が正しいという想いを音楽で表現するだけです。
現在、世の中が大変な状況のなかでワクワクしております。
何故ならばこんな世の中だから良き音楽が必要とされるからです。
いまも音楽を通して想いを伝えている真最中です。
2月 25th,2013
恩学 |
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「ゆめ」より「こめ」と言った人がいます。
どんな素晴らしい夢を語っても飯の食えない状況じゃ説得力を持たない。
夢を語るには夢を語るだけの、
背景がしっかりとしていなければならないと言ったのです。
成功者は「ゆめ」と「こめ」を手にしている人です。
江戸時代の儒学者佐藤一斉は「私欲の制し難きは、
志の立たざるに由る、志立てば真に是れ紅炉に雪を点ずるなり。
故に立志は徹上徹下の工夫たり」人が自分の欲望をおさえられないのは、
志が確(しっ)かり立っていないからである。
志が立っていさえすれば、欲望なんかは真っ赤に燃えている
炉の上に雪を置いたようなもので、直ちに消えてしまうものだ。
だから立志ということは、上には道理を究明することから、
下には日常茶飯事に至るまで上下全てに徹するように工夫することである。」
全てに対して襟を正し、克己復礼を胸に、学問に精をだせば
欲が起こらず志が立つということである。
志が立てば煩悩は消え去るということである。
佐藤一斉の弟子、吉田松陰も松下村塾で若者達を教育しながら、
改革の熱き夢を熟成させていたのである。
その結果行動を起こし囚われの身となって
「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と
思想家らしい句を読んだのである。
彼自身が残したかったメッセージは理不尽な幕府に対してではなく、
後に続く若者達に向かってだった。
知識が有っても行動をおこさなければ何も意味が無い、
「至誠にして動かざる者は未だこれに有らざるなり」、
そして死をも恐れない気持ちがなければ革命等できないということを伝えたかったのだと思う。
そして吉田松陰の弟子高杉晋作は、
「友の信を見るには、死・急・難の三事をもって知れ候」と革命家らしい句を読んだ。
信頼のおける友達というのは、いざという時には命をかけて急場に駆けつけ、
共に難事を乗り越える気概のある人間をいうのである。
そして27歳の時に肺結核の病で亡くなったのである。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」と辞世の句も読んでいる。
自由奔放に生き抜いた高杉晋作らしい生き様である。
しかし、以前から気にかかっていた事が一つある。
幕末の志士が紹介される度に、彼等はどのようにして生活費(こめ)を手に入れていたのかである。
それでなくても禄高の少ない下級武士の次男坊、三男坊が多かった筈だからである。
中には武士でなく貧農の百姓の子や一般の貧しい家の子もいたと思われる。
彼らに取って飯と寝るところの確保は重要な問題であり苦労が多かったのではなかろうか、
それとも志を同じくする者同士で助け合ってなんとかやり過ごしていたのだろうか。
それとも心ある篤志家達からの援助を受けていたのだろうか、この辺りのことが書かれている書物は一切ない。
歴史も人物史も表面上の成功譚がおおく、その内面の生活する苦労話が少ない気がする。
革命を起こすという「ゆめ」があれば「こめ」の話をしてはいけないのだろうか。
「武士は食わねど高楊枝」苦労を表に出す事を恥とする風潮が有ったことは確かである。
しかし私の記憶の中には一冊の書だけが「ゆめ」と「こめ」の両立の厳しさを描いているのがある。
それは中国の孔子の物語である。
孔子が国をでて諸国巡遊の旅の途中で食糧が尽き餓死する寸前まで追い詰められた話である。
陳国から負函をめざす旅の途中、陳国辺境の小さな集落に辿り着き、
大きな池の周辺で陣取ってみんな腹をすかして仰向けに倒れていました。
そのとき弟子から「君子でも窮することはあるのですか」と問われ、
孔子は「君子固(もと)より窮す。小人、窮すれば斯(ここ)濫(みだ)る」と答えた。
それを聞いた弟子達は泣きながら全員地に伏せたという。
そして翌日子貢がどうにか食料を手に入れて来て難を逃れた話である。
当然このような状況は想像に難くない。
50を過ぎた無職の人間が弟子をひき連れて職探しの旅である。
まわりの人間からは「能書きばかり言って飯もろくすっぽ食えないじゃないか」と笑われていたのである。
まさに「夢」より「米」なのである。
その後孔子は弟子を引き連れて魯の国に戻り72歳までの一生涯を教育に専念したのである。
喜劇王チャールズチャップリンの名言
「人生に必要なものは、勇気と想像力。それと、ほんの少しのお金です。」
「夢」を目指すから「米」が必要なのである。「米」をたらふく食べたいから「夢」を見るのでは無い。
2月 21st,2013
恩学 |
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時代につかまる能力があるか。
ビジネスプロデューサーにとってとても重要なことです。
何冊ビジネス書を読破しても、何度セミナーに出席しても、
様々な資格試験を受けたとしてもその能力は開発されない。
いわゆる、知識ではなく洞察力の問題なのです。ものの本質を見抜く力です。
上辺だけでなく内面を正しく想像する力なのです。
ではどのようにしてその洞察力を磨けるのかということです。
大前研一氏は、こう述べている。
「洞察力は創造性をもち、ある程度まで直感的で、ときとして現状打破の傾向を帯びているので、
そこから生まれる計画は、分析的な観点からはつじつまの合わないことさえある。
しかしそうした計画のなかに創造的要素があり、計画を生み出した人間の精神力と意志の力が存在するからこそ、
異常なまでの競争力を備えた戦略が生まれてくるのだ」。
「何が正しいのか分からないという状態に平然と耐え、チャレンジした先にこそ答えがある。
自分だけではなく、誰も答えが分からない物事に対して、自分で仮説を立てて立証していく
「勇気」と「しつこさ」を持つ…。これが21世紀を勝ち残るうえで、個人にも集団にも最も必要な能力だ。」
常識に囚われていれば一定の方向でしか物事の結論を導かないが、
個人の直感の中に潜む想像力を働かせて、別方向の答えを探し出さなければならない。
その為には仮説を組み立てる能力が必要である。そして探し出す忍耐も必要だと言っているのです。
ロダンは、こう述べている。
「一度ならず科学の間違っている事がありました。
ある時には理屈でできないものがあって、科学を棄てて、自分の本脳の働くに任せねばならない事がありました。
自分を流れ漂うままにして置くようなことです。
奇妙な事には正確な科学に全然属しているとわれわれに見える事物までが同じ法規に置かれます。
私の友だちの造船家が私に話したには、大甲鉄艦を建造するには、ただそのあらゆる部分を数字的に構造し
組み合わせるだけではだめで、ただしい度合いにおいて数字を見出し得る趣味の人によって加減されなければ、
船がそれ程よく走らず、器械がうまくゆかないという事です。
してみれば決定された法規というものは存在しない。
「趣味」が至上の法規です。宇宙羅針盤です。しかしながら芸術にある絶対の理法もあるべきです。」
理屈に囚われると数字上の整合性が絶対で問題の本質も数字で割り出そうとしてしまう。
しかし、そこに遊びを取り入れることによって予期せぬ結果がうまれることがある。
遊びとは経験から生みだされる直感力です。
理屈の世界とはま逆のイメージの世界です。
芸術家は自然の中から理論よりも遊びの部分(洞察力)を多く学びとるのです。
宮大工西岡常一はこう述べている。
「自然石の上に立てられた柱の底は方向がまちまちです。地震が来て揺すられても力のかかり方が違いますわ。
それとなによりボルトのようなもので固定されていませんわな。
ですから地震が来ましたら揺れますし、いくらか柱がずれるでしょうな。
しかしすぐに戻りますな。こうしたそれぞれの違った「遊び」のある動きが地震の揺れを吸収するんですわ。
そりゃ計算は立ちませんやろ。こう来たらこない動くということ全部がわかるわけやないんですから。
木の強さも全部違いますし、石の振動も違いますからな。
それでもこの方法がいいということは法隆寺の建物が証明してくれてますな。」
学問で学んだ基準で設計図をひくと土台と木をしっかり固定することになる。
十字掛けの金具を柱の継ぎ目につけて揺れの補強にする。
西岡が言うように木の癖も考えず、平らなコンクリートの土台に取り付けてしまえば、
地震の時には揺れが全部同じ方向になる。だから倒れやすいということになる。
職人の口伝による智慧こそ洞察力の基になるのです。
ビジネス書に書かれていることを忠実に守ったとしても、微妙な経済の揺れに各企業は対応できないのです。
その為に個人の予測にもとづいて仮説をたてることが重要です。
仮説を立てる時に必要なのは洞察力であり、その洞察力は物事の内面を見極める力です。
大前研一氏もロダンも宮本常一も言っていることは、常識的な科学や数値にとらわれずに内面を観察し自由な発想から
次の現象の予測を立てて、将来起こるべき結果を読みとる力だということです。
新聞やニュースの分析に頼るのではなく、独自のデーターを収集して、先を読みとることです。
読みとる力(洞察力)は、文化・芸術の世界に触れることで鍛えられます。
すぐにでも洞察力を身に付けて現状を乗り越えて欲しいと思います。
今は時代に振り落とされずに時代につかまることが大切です。
2月 17th,2013
恩学 |
時代につかまる はコメントを受け付けていません