ヒット論

 

音楽業界に入ったキッカケはプロデューサーとして活躍することでした。

その頃の日本には正式にプロデューサーという名称は無く、勝手に名刺にプロデューサーと書いて名乗っていました。
プロデューサーの仕事は個人商店の社長と同じです。
売れる商品を探して、それを購入する資金を用意して、宣伝を考え、営業で全国を回るのです。

私はその為に独学でマーケティングを学びました。
当時マーケティングという言葉も特殊だったので、参考になる資料は有りませんでした。

放送局や出版社や広告代理店から情報を集めて、自分なりに分析をして表にしたりグラフにしたりしていたのです。
それを見ながら未来予想図を描き、流行の予測を立てて作品作りをしていたのです。

大ヒット商品は短命ですが、その時代の経済を引っ張る牽引力になることがあります。
そしてその時代を移す鏡にもなります。

プロデューサーとしては、現存している市場の動向を見る事と同時に新しい市場を作り出す事も大切なのです。
今、人々は何を欲しがっているのか、その形や・色や・匂いや・音はどのような物なのか、
それらを見つけ出す必要が有るわけです。

様々な分野からヒット作りに係わっている人達の意見を聞きました。
今でいう異業種交流会を独自に開催しました。
参加者は主に代理店関係者、ファッション関係者、映画監督、評論家、雑誌社編集長などです。

その結果一つの答えが出たのです。「ヒットは作れる」、時代に合う作品と世の中がかみ合えば必ず売れる。
人が欲しがるものを作れば確実に売れると確信したのです。

最初に係わったのはバンバンが歌った「いちご白書」をもう一度」(1975年)でした。

CBSSONY(現在のSME)ディレクターの前田仁さんが荒井由美さんと作った作品です。
その頃の私は、アルバイトでレコーディングエンジニのアシスタントをしていました。

初めてスタジオでこの曲を聴いた時に身震いがした事を覚えています。
正に今の時代にピッタリ合っている、これは宣伝が良ければ必ず売れる。
自分のプロデューサーとして考えを実践するにはこの曲しかない。

早速デイレクターの前田さんにお願いをして「独自に売り込む」許可を得ました。

その日から宣伝の為に、沢山の雑誌社、ラジオ局、有線放送など歩き回り、
少しでも時間が有る時には、近くのレコード店に行き面だし(レコードを一番前に置く)をして回りました。
土日の休みの日には自前のチラシをコンサート会場で配りました。

そして放送回数が徐々に増えだして
(特に文化放送セイヤングでは谷村新司さんがヘビーローテーションを組んでくれました)
リクエストチャートも一気に上がり、その結果売上チャートも右肩上がりで伸びて行きました。

あっという間に業界でも注目されるヒット曲と成ったのです。

更に次の話題づくりの為に、映画配給会社ヘラルドへ「いちご白書をもう一度」の再映依頼に行ったのでした。
全国で見たいと言う支持者が多ければ16ミリなら再映をしても良いとの許可を頂き、
早速各大学の映画研究会に手紙を出して「いちご白書再映推進委員会」を立ち上げました。
勿論委員長は私です。

これら全てアルバイト時代の私が独自に考えて行動したのです。
宣伝マンの経験の無い人間がヒット作りに係わったわけです。
ポジションがあったから考えるのではなく、考えがあったからポジションを手に入れることが出来たのです。
「いちご白書」の大ヒットは、少しのアイデァと多くの努力によって得た結果だと思います。

正に上杉鷹山の言葉「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」です。

それからも常に時間があれば若い人たちが集まる場所に行き、
流行っている店の商品が何故売れるかをリサーチして回りました。
そして雑誌社の友人からは、次にどんな話題が特集として掲載されるかも聞きました。
ファッション関係者が集まる原宿のバーで彼らの話題に耳を澄ませました。
皆が、今、何に興味を持っているかをつねにリサーチして歩いて回ったのです。

ヒットとは良質な音楽と世の中のニーズが無ければ成り立ちません。
そして情報力と分析力と行動力が伴わなければ生まれません。
その商品が時代のステージに似合わなければヒットにならないのです。

その後植山周一郎さんが書かれた「女王陛下が微笑むまで」が座右の書となり、
多くの方にセールスの極意書として伝えてまわったのです。二人の営業マンの話です。

サンダル会社の営業マンの二人が社命を受けてアフリカにやって来ました。
勿論アフリカ人にサンダルを売るためにです。
本社では二人の営業マンからの返事を今か今かと待っていました。
その時に同時に二人の営業マンからファックスが届いたのです。

A君は残念です。この国ではみんな裸足でいるので、サンダルを売るのは無理です。
明日日本に戻ります。
B君は最高です。この国ではみんな裸足でいるのでどれだけ売れるか分かりません。
このままこの国にいて営業を続けます。

貴方はどちらを指示しますか。この本によって物事の捉え方には両極が有る事を知ったのです。

勿論、私はB君のタイプの人間です。現代で言うポジティブシンキングの発想です。
ピンチをチャンスに変える考え方です。それ以前に何事もピンチと思わないタイプです。

そして2008年に中国で出版されたビジネス書に、同じ内容の例文を見つけました。
「水煮三国志」成君憶著・呉常春・泉京鹿訳。お坊さんに櫛を売りに行く三人の話です。

「甲君は、私は三ヶ所のお寺を回りました。どのお寺でもお坊さんたちから怒鳴られたうえに追いかけられ、
そのうえ殴られもしました。それでもあきらめなかったので、最後には一人のお坊さんが私の努力を認めてくれて、
一本だけ買ってくれました。」

「乙君は、住職に言ってぐしゃぐしゃに乱れた髪で仏様を拝むのは、不敬になるのではないでしょうか?
香炉を置く祭壇の前に櫛を置き、善男善女たちに髪を梳かせるようにしたらいかでしょうか?
住職は納得し、十本の櫛を買ってくれました」

「丙君は、参拝に来るのは敬虔で誠実な人たちです。こちらのお寺でも無病息災のご加護と、
善行を激励するようなお返しの品を用意するべきではないでしょうか?
この櫛にご住職の達筆を用いて“積善櫛”の三文字を刻み、贈り物としてはいかがでしょうか?
それを聞くやいなや住職は破顔一笑し、たちまち千本の櫛を注文してくれた」

如何でしょうか。何事も難しく考えるか、それとも自分で道を探し出すか、色々な方法があると思います。
営業成績の良い者が常に正しい方法を言っている訳ではありません。
発想という独自の考えを持ちながらお手本として参考にすれば良いかと思います。

最後にもうひとつ、1980年代後半から1990年代前半頃に、ニッチビジネスという言葉が流行りました。

ニッチとは隙間です。お城などの廊下の壁に壺や花瓶等を置く小さなスペースをニッチと言うのです。
多くの人が見過ごしてしまいそうな所に、大きなビジネスチャンスがあるということです。

私のファッション業界の友人はその手法で大成功を収めました。
彼の持論はA点からB点に移動する中間地点のC点のファッションを売り出すことが大成功に繋がると云うものでした。

一例をあげれば都会からリゾート地へ移動する時のファッションです。
その洋服の素材や色や形を説明するだけではなく、着こなしのスタイルに物語を織り込んだのです。
デザインや価格だけで選んでいた消費者に、遊び心のドラマを洋服と共に提供したのです。

このアイデァが見事に当たり、その後のファッション業界にも大きな影響を与えました。

アイデアは「愛が出会う」です。
愛が無ければ出会い(企画力)は無いのです。

私もそのことを学び多くのヒットを作る事が出来たのです。

その時代から生まれた新しい言葉には熱があります。
その熱を企画力に活かしてアイデァを出した人達が生き残るのです。

ヒットは世の中を動かす推進力になります。

音楽だけの世界の話ではありません。
ファッションでも本でもスポーツでも通常のビジネスでも、ヒットは心を動かす原動力となります。
ヒットを出した人達が次の言葉を生み出す事によって、次の世代にバトンが渡るのです。

今は亡きアップル社のスティ-ブ・ジョブスは数々の熱き言葉をのこしています。
彼の言葉によって世界中が興奮して新しい夢を見ることになったのです。

さあ次は誰からバトンを受け取りましょうか。