野心とは野にある心を言います。
自然を愛する人達のことではありません。
どのような状況でも心は野にあるということです。
野とは生い立ちの本(心の置かれた場所)です。
野心の意味は豺狼(さいろう)の子は、
人に飼われても山野を忘れずに、
馴れ親しまないで、飼い主をも害しようとする。
荒々しい心を持つというところから)
人に慣れ服さないで、ともすれば害しようとする心です。
(豺狼とはやまいぬとオオカミのことです)
貧困の為に家族と離れて他人と暮らさなければならない。
大人達の理不尽な扱いにも一人で耐えなければならない。
早く手に職を付けてこの地を離れたいと願う。
そこに成功者になってやるという「野心」が芽生える。
裕福の家庭で何不自由なく過ごす。
学校を卒業すればしかるべきポストが待っている。
両親が用意してくれた人生のレールを外さない限り苦労はない。
そこに尊敬される職種につきたいという「野心」が芽生える。
野心は大きな飛躍を望んで、大胆なことを取り組もうとする気持ちです。
現状からは考えられない分不相応な行為にでることです。
意志強固に困難に耐えながら黙々とチャンスをねらうのです。
集団や組織に甘んじることも服することなく孤立した人生に耐えるのです。
貧困で育った若者も、裕福な環境で育った若者も、
「野心」を持っていることに変わりはありません。
一方は豊かさを目指し、もう一方は地位を目指したのです。
貧しい暮らしから大企業のトップになった人。
豊かな暮らしから政治家になった人。それぞれがあります。
どちらも不屈の精神で挑戦を繰り返して来たことには変わりません。
哲学者森信三先生の言葉にこのようなものがあります。
「たとえ99人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分は一人スタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい」
野心家は生意気で反抗的だと決めつけられる。
野心家は善人を求めている社会からは異端児とみなされる。
野心家は穏やかな人生を望む人からは嫌われる。
国は良い人ばかりでは作る事も守る事もできません。
豊かさを確立させるために現状を打破する気概を持たなければならない。
国の歴史と文化は野心を持った不良達が生み出したのです。
大義を持たずして社会に出ても人生の長さは同じです。
このようなものかと諦めて過ごせる人は問題ないのですが、
何かおかしいと気付いた時点で挑戦が始まるのです。
いつか自分に力が付いた時に主張を認めさせたいと思うのです。
「ひっくり返してやる」という気持ちが野心です。
男たちよこの言葉を噛みしめろ。
男は強く無ければ生きていけない、
しかし優しくなければ生きていく資格が無い。
(ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラー)
大志を持つ時には理性では無く野心を持て!
てっぺんを目指す気持ちが無ければ野心は生まれない。
悔しさを野心に変えろ!
5月 30th,2013
恩学 |
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文字を伝達の手段として使うのであれば平淡でも構わない。
文字を意思の手段で使うのであれば濃度が無ければならない。
文字を感情の手段として使うのであれば膨らみがなければならない。
万葉集の表現様式は、
寄物陳思(恋の感情を自然の物に例えて表現)
正述心緒(感情を直接表現)
詠物歌(季節の風物を詠む)
譬喩歌(自分の思いをものに託して表現)
などに分けられ、これ等を使いこなして初めて文章が成立する。
一つの事象に様々な表現様式を加えて感情と共に文章が膨らむのである。
声を伝達の手段として使うのであれば抑揚は無くても構わない。
声を意思の手段として使うのであれば知識が無ければならない。
声を感情の手段として使うのであれば音に起伏がなければならない。
言葉は発すれば良いと云うものではなく声の筋肉が必要である。
「言葉が言葉自身の肉体をもちえない、あるいはわれわれが言葉を肉化していない、
肉体にしていないといったほうが正しいように思います。言葉はその生成において、
最も根源的であるのに、何故か事物の皮相な部分をしか捉えようとしていない、のです」
言葉の海へ武満徹(作曲家)
文字が脆弱であれば言葉もひ弱なものである。
ひ弱な声からは感動は生れないものである。
古代の琵琶や笛は音を出しにくくして音を出す「さわり」という手法を使います。
「さわり」とは障害です。障害を与えることによって生まれる音があるのです。
「音」に重みと深み、影と光、清音と響きを付ける方法は日本独特のものです。
感情の赴くままに言葉を使うのではなく、
感情を少し押さえたところから言葉を発するのである。
そこに説得力のある繊細で筋肉質な言葉が生まれ感動が起こる。
男性の言葉が単調なのは獲物を狙う時に短く低い声で話し合うからである。
女性の言葉が変化に富むのは生きて行く上で演技を必要とするからである。
文字の膨らみと言葉の筋肉を鍛え直す必要がある。
伝えあう手段が美しく精悍でなければ本当の心音は伝わらない。
近未来ではコミュニケーションが均一化されて、
人は文字も声も不要になるのかもしれない。
それまでは抵抗して戦うべきである。
文字や言葉を生き物として扱うべきである
5月 27th,2013
恩学 |
文字の膨らみ・声の筋肉 はコメントを受け付けていません
相手を思いやる心は大切です。
それは相手が本当に困っている時にだけ有効です。
自分勝手な親切心から過度に思いやる事は、
相手の自立心の妨げにもなります。
相手が本当に求めている事は何かを見極めなければなりません。
目の前の現象だけで対応すると誤解を生む時があります。
ときには相手に構わない心も大切です。
それは冷酷では無く温情を持って距離をおくことです。
劣悪な環境でも美しい花が咲きます。
厳しい状況でも花がその環境と戦うからです。
耐える事から強い精神力が育ち豊かな人間性を創り上げるのです。
手助けだけではなく強く生きる方法を共に学ぶことが大切です。
手を差し伸べられることに甘えてしまう人も多くいます。
親切が当たり前だと勘違いする人も多くいます。
しかし親切を受ける側にも理性が働けばけじめもうまれます。
日本人の思いやりの距離はお辞儀をしてぶつからない距離です。
その距離感がお互いのけじめなのです。
これ以上踏み込んではいけない距離、
これ以上踏み込まれたくない距離があります。
離れ過ぎても近すぎてもいけない微妙な距離です。
それを無視する行為は過度な親切と優しさになってしまうのです。
しかし親切に臆病に成る必要はありません。
人にはそれぞれ親切の貯金箱があります。
今生きている世の中で一杯親切を溜めこむと、
今度生れて来る時にはその親切の返済が待っているのです。
親切は言葉や行動だけではなく、
すこし目を合わせるだけでも伝わるのです。
優しさもさりげなくテンポよくフォローするだけで、
お互いの心の中が温かくなるのです。
どちらも小さなことの積み重ねが重要です。
そして決して親切に対価を求めてはなりません。
自分の気持ちが良いから親切にする。相手が素直に反応しないから怒る。
こんなにしてあげたのに感謝が無い。してあげたのに・してあげたのに・・・
何故人間はこんなにも身勝手なのでしょうか。
それは心のどこかで善意の対価を求めているからです。
純粋な気持ちで親切や優しさをするのは難しいものです。
「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、
どれだけ心をこめたかです。」マザーテレサ
自分の出来る範囲の中で行うのが一番です
力無いものが溺れている人を助けることはしてはならないのです。
時には助けを必要としている人がいても、
見て見ぬふりをすることも必要です。
それは卑怯ではありません。
出来ないことを偽善ですることの方が卑怯に成る事もあるのです。
自分に正直で恥じないように親切と優しさが行えれば良いのです。
5月 23rd,2013
恩学 |
過度な親切と優しさ はコメントを受け付けていません
悩みの多くは他者からの評価を過敏に反応するところにある。
良き評価によって向上心がうまれることは確かであるが、
その反面、悪い評価によって劣等感を植え付けられることも確かである。
地位や学識や容姿などの評価に揺れ動かされることなく、
高い志を持ち続けることがもっとも重要である。
いち早く自分の目指すところ 心の向かうところを確立すべきである。
「評価」
他人の評価なんて気にしないで良い
自分の評価だけで十分
善か悪か 美か醜か 良か不良か 快か不快か
自分だけで評価をすれば良い
自分は自分の道だけを歩めばよい
他人から評価されて一喜一憂する事は無い
知か愚か 才か鈍か 明か暗か 富か貧か
自分で答えを出せば良い
大自然は評価を望まない
山も川も 森も平野も 谷も丘も 滝も海も
存在するだけで 要求などしない
生きる物と共に穏やかな調和を望んでいる
天地自然は決して誇らない
歴史も評価を望んでいない
過去の事実として判断をすれば良い
利の為に歪曲した歴史を受け入れず
己の私感を挟み込む必要も無い
貴方に思想と情熱と行動力があれば
貧しくても清潔で理性があれば
貴方自身が周りに迷惑をかけなければ
それだけで良い
他人の評価に惑わされずに
自分の評価を信じれば良い
決して他人を評価せず
求められても答える必要は無い
「漫述」
謗(そし)る者は 汝(なんじ)の謗るに任す
嗤(わら)う者は 汝の嗤うに任す
天公 本 我を知る
他人の知るを 覓(もと)めず
(佐久間象山)
江戸末期に大儒と言われた佐藤一斉がいた。
佐久間象山は佐藤一斉に学び、吉田松陰・勝海舟・坂本竜馬は佐久間象山に学んだ。
毀誉褒貶は他人の主張、
行藏は我に存す。
我に関せず、我に関わらず。
(勝海舟)
私はみずからの正しいと思う信念を貫く。
自分の出処進退は自分が決める。
他人からの毀誉褒貶(きよほうへん)があろうとも、
それらには一切左右されない。
それは、それぞれの人の勝手な言い分に過ぎないからである。
批判したくば、どうぞ、ご自由にして下さい。私には関係ない。
と勝海舟は述べている。
又、孟子とならべ比べられる筍子は、自身の箚記の中でこう述べている。
(荀子箚記)
人を貴ぶことはできても、
自分を貴ぶように人を強制は出来ない。
人を信じることはできても、
自分を信じるように人を強制することは出来ない。
人をうまく使うことは出来ても、
自分をうまく使うように人を強制することは出来ない。
君子は、自分が善良でないこと、誠実でないこと、
有能でないことを恥づかしく思う。
しかし、人からどう思われようが、
そのようなことは恥とは思わない。
そう、この世の中で、唯一、
自分の力だけで改善できるものは自分自身である。
(荀子)とは、
孟子が性善説ならば筍子は性悪説として対比される。
筍子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえるもの、人為の意)を
後天的に身に付けることによって公共善に向かう事ができると主張する。
孟子が人間の主体的な努力によって、社会全体まで統治できるという楽観的な
人間中心主義に終始したのに対して、筍子は君主がまず社会に制度を制定して、
型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。
孟子の考えが後世に朱子学として伝わり、筍子の考えが法家思想として伝わった。
誰しもが強靭な精神力を持つ必要は無いが、
他人に影響されない自分自身を作る必要はある。
世間一般の強制された価値観に翻弄されることもなく、
ただひたすら自分に恥じない自分を確立することである。
評価を捨て去る事は自己確立のために必要である。
5月 22nd,2013
恩学 |
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この国では個人で正論を述べると袋叩きに合います。
特にマスコミの手のひら返しは見事です。
反論する人達の顔ぶれが酷すぎますね。
核心から逸れたレベルの低い言葉のやりとりにはうんざりです。
意味もなくヒステリックに騒ぎ立てている人たちをみるととても不愉快です。
このような人達の話し合いに巻き込まれないようにしたいものです。
現在、橋下徹大阪市長発言の反論で大騒ぎしている人達は、
何を理由にヒステリックになっているのかが分かりません。
戦後60年以上たっても土下座をしていなければならない日本を、
その方達はどのように思っているのでしょうか。
女性蔑視だとか男性も馬鹿にしているとか根拠も分かりません。
それらの騒ぎに追い打ちを掛けるマスコミの報道には呆れてものが言えません。
マスコミには正論がないのです。世論を煽りたてるだけなのです。
「女性は性の奴隷ではありません」
高級品を身にまとい厚化粧をしている女性議員達には、
底辺で暮らす女性の苦しみが分かる筈はありません。
水商売や風俗産業で働く女性は好んで働いているわけではありません。
已むに已まれぬ事情があって働いているわけです。
それを利用する男性側にも様々な事情があるのです。
一方的に性を否定する人こそが性を蔑視しているのです。
誰かが声を上げなければいつまでたっても解決の核心には近付きません。
橋下氏は敢えて火中の栗(従軍慰安婦)を掴んだのです。
ただ、歴史家と違って、そこに真実があったとしても、
政治家の場合は、是非論だけではなく、解決の糸口を述べなければなりません。
今回の件はそこに手落ちがあったことは確かです。
流れが速く波立つ川は水が清く澄んでいます。
一見穏やかに止まって見える川は水が濁って淀んでいるのです。
平和とはもの言わぬことではなく、もの言いながらつねに改正していくものです。
世界の中で温厚で怒らない日本人を演じるのはもう止めにしましょう。
自分達の国がこれほどまでに濁りきっているのが見えないのでしょうか。
子供達が誇りを持って生きていけるようにする為に正しくけじめの時なのです。
正論は理性で判断し主張しなければなりません。
正論を感情で表現するから問題が起きるのです。
激情型の石原氏と橋下氏は発言がストレートです。
いきなり棒で虫を叩き殺すタイプです。
そしてその後に自論を繰り返すのです。
母親から叱られた後に、この虫は害虫なのだと後付けの正論を言い放します。
正論だからいつ言っても正しいとは限りません。
正論だから発言の時期と聴き手の事情を考えなければならないのです。
「磁基ありといえども、時を待つに如かず」孟子
どれほど素晴らしい農機具があっても、季節外れの農作業をしたのでは、
良き収穫にはいたらないという教えです。
実力や方法が良くてもタイミングがあわなければ意味が無いと云う事です。
反対意見を恐れて正論を言う事はできません。
正論には異論がつきものです。
互いに主張し合うからその時代に残る正論になるのです。
正論にも消費期限があるのです。
5月 21st,2013
恩学 |
正論 はコメントを受け付けていません
船が沈没寸前の時に、船の安全性と規約を持ちだして来て、
約束が違う、守るべきだ、訴えるぞ、など馬鹿げたことを言う連中がいる。
緊急時の状況判断が出来ず形式通りの抗議を繰り返す連中である。
先般の川口順子元外相と中国要人の会談を真っ向から反対をして、
真意を確かめる事もなく辞任に追いやった民主党がまさにこれに当たる。
彼等は国益を損なう集団である。
それに同調した他党もおなじ穴のむじなである。
国会議員としての自覚もなく騒ぐだけの烏合の衆である。
外交には「臨機応変」が必須である。
その場の要求に相応しい判断を瞬時にしなければならないのである。
例え、今回の件が中国側から我が国に対して仕掛けた罠であろうと、
臨機に応じて変更するのは兵法の基本である。
敵が動いたらその狙いを察知し、接近してきたら備えを固くする。
敵が強力なら下手に出て油断をさそい、充実していたらあえて戦いを避ける。
敵が勢いに乗っていたら時間をかせぎ、嵩にかかって攻めてきたら疲れるのを待つ。
敵が無道であったらこちらは正義でこたえ、結束が固かったら策をこうじて離間をはかる。
これ等は「六韜三略」流の用兵の極意である。
川口元外相を問答無用で切り捨てるのは無頼の輩のすることである。
益々民主党が大嫌いになった。
国会中継において辞任に追いやった民主党の議員の発言を聴いた。
「以前、外務大臣時代の川口さんから勝手なことをするのなら、
一議員になってからしなさいと批判的な嫌みを言われた。
だからあなたも中国で好きな行動を取るのなら一議員になってからしなさい。」
これじゃ小学生のホームルームである。
所詮レベルの低い市民団体活動家の集まりである
言われたから言い返す。野党だからなんでも反対する。
与党議員の人格まで否定する。
このレベルの低さは騒音おばさんと何ら変わりが無い。
大音量で音を出して水を差す連中である。
国事における事の重大さが理解できない阿諛追従の輩である。
歴代党首の落ち着きの無さが全てを物語っている。
自民党政権を手放しで100%認める訳にはいかないが、
前政権の無能さの御蔭で安部総理が輝いて見える。
5月 20th,2013
恩学 |
規約&応変 はコメントを受け付けていません
この暗闇の空間にたくさんみえるものがある
この静寂の空間にたくさんきこえるおとがある
創造者は見えないものを見なければならない
また、聞こえない音を聞かなければならない
その感性を研ぎ澄ますことにより争いはなくなる
切り倒された森林 飢えで苦しむ子供達 もの言えぬ動物達
隠された世界のなかで 絶叫に近い叫び声が聞こえて来る
斧を取れ・鍬を取れ・網を張れ・筆を取れ・手をさしのべろ
今、出来ることがあるはずだ
見えない世界を切り開け 聞こえない世界を歓喜の音でうめろ
完璧なんて求めなくて良い 不完全でも参加することが大切だ
指先を汚していない奴は信じるな
目先の美しさばかり話題にする奴は本当の苦しみを知らない
口先から出る その言葉の裏を読め
共生する人々に取って一番大切な事は
相手のこころを読みとる力だ
好きな場所で 好きな音を聞く
青空の下で花を見ながら 小鳥たちの声を聞く
公園の様々な場所から 人々の笑い声が聞こえる
犬が吠える 転んだ子供の泣き声がする
心が健康だと 聞こえる音 すべてがエネルギーになる
そして少しだけ 昨日よりも優しくなれる
音は心の中で音楽になる
雨の日のバス停で 雨だれの音を聞く
女子高生たちの 元気な声が聞こえる
働く人達の 足早に過ぎ去る 足音が聞こえる
色とりどりの傘 水しぶきをあげる車
心が素敵だと 聞こえる音 すべてがアートになる
そして少しだけ 明日に夢を描く事ができる
音は心の中で音楽になる
沈黙、声にならない感動は人を支え、人を動かす。
沈黙せざるを得なかったものを表現して、
形あるものにしたいという衝動は抑えるこができない。
想像から思考へ、思考から行動へ、行動から作品へ
人をより一層表現へと向かわせるものである。
沈黙せざるを得なかったものを、表現しようとするこの欲求、
この人の心にあるもの、これが人間の根源としてあるものだろう。
見えないものを見る、聞こえない音を聞く、
そして表現しなければならない衝動が芸術なのである。
音は心の中で音楽になる。
5月 13th,2013
恩学 |
見えないものを見る・聞こえない音を聞く はコメントを受け付けていません
好意を感じている人との会話で大切な事は惹きだしの間(ま)です
自分をアピールするのではなく相手の感性を惹きだす事です
早すぎる間(ま)は相手を追い込んでしまいま
遅すぎる間(ま)は相手に不信感がうまれます
丁度よい間(ま)は3秒~5秒です
和楽の奏者のやりとりに「こいあい」という言葉があります
お互いの間(ま)の取り方を表現したものです
恋と愛ではありません
漢字で書くと「乞い」と「合い」です
相手の音を乞うのです そして二つの音が合うのです
相手の間(ま)に合わせ過ぎると 自分の間(ま)の取り方が遅くなります
気持ちを引くのでは無く 気持ちを押すのです
自分の音を出して 相手と自分の微妙な間(ま)のやりとりをするのです
こいあいが熟達すると壁を挟んでも息が合うといわれます
離れた関係でも息が合うのは素晴しいですね
我々が通常使うSNSでは間(ま)を必要としません
表面上はコミュニケーションを取っているつもりでも
緊張感の無いコミュニケーションからは
信頼に対して逆効果になる場合が多いのです
間を取る必要のないコミュニケーションは事務的な伝達のみです
間の緊張感から生まれる触れ合いが感情を作りだすのです
得意な人も苦手な人もいるからコミュニケーションが必要なのです
男女のこいあいも
恋が始まり愛がうまれるのです
恋の先に愛を求めるから嫉妬がおこり問題がおこるのです
恋をするときに相手に合わせ過ぎるから誤解が生じるのです
恋の確認をしてから少しずつ愛を育むのです
大切な人だから間(ま)が必要なのです
素敵な調和を求める時には順番を変えてはいけません
基本は変わらないのです
5月 13th,2013
恩学 |
惹きだしの間(ま) はコメントを受け付けていません
昨日までの話ばかりをする人は 過去に生きている人です。
昨日と今日の話をする人は 反省をしながら生きている人です。
今日の話ばかりをする人は 今を生きているだけの人です。
今日と明日の話をする人は 未来に夢を持って生きている人です。
未来の話ばかりをする人は 地に足がつかずに生きている人です。
貴方はどのタイプですか。
私は研究会やセミナーや交流会に出席する機会が多くあります。
会釈だけで終わる人、名刺を交換する人、語りかける人、じっくり話をする人など様々です。
その一瞬の触れあいでも上記のようなタイプの違いが明確に分かります。
話しかけて来る人の中には、明らかに自慢話をする人、苦労話をする人、
世の中を悪く言う人、聞いてもいないのにプライベートの話までする人がいます。
一番苦手なのが周りの参加者の品定めをする人です。
そして相手の出所・経歴・仕事内容を事細かく述べて批判をする人です。
そのようなタイプは必ず同意を求めて来ます。
「ね!そうでしょう」「知っているでしょう」「酷いらしい」など、辛辣な噂話の共犯者にしょうとする人です。
たとえお酒が入っていても、そのような話に同意をしてはなりません。
以前、この恩学でフレネミーのことを書きました。
一番の友達が一番の敵だったという話です。
この言葉は、アメリカの学園ドラマから生まれた造語です。
友達(フレンド)と敵(エネミー)を合わせた言葉です。
心許した友達が違う友達の間で、自分の秘密を暴露して笑い者にするという事です。
安心して話してしまった、日常のたわいないことから、
友達・彼氏・金銭問題までを一気に学園中に広められてしまうのです。
自分が優位に立つ為に相手の弱みをさらけだす正にフレネミーな下劣な人間なのです。
一般社会の中にもこのフレネミーは多く存在します。
笑顔で気安く近づく人には簡単に同調しない方が無難です。
そしてもう一つの言葉にイネイブラー(支え手)というのがあります。
犯罪行為などに加担する仲間(支え手)の事です。
嘘つきの周囲にいて嘘に合わせてうなずいたり・おもしろがったりするタイプです。
集団で行動する連中は必ずこのイネイブラーが盛り上げているのです。
罪の意識が薄く弱いものを標的にして悪さをする連中です。
振込詐欺や暴力事件等に多く関与しているのです。
お酒が入って遊び感覚でおもしろがっていると、あなたも知らぬ間にイネイブラーになっているかもしれません。
KYと思われても悪戯に怪しげな話に参加しない事です。
私の理想のタイプは、過去の自慢話をせずに未来の話をする事です。
勿論、空想的な理想論を語るのではなく、現実に実現出来る事を伝える事です。
大切な事は今日と明日のスケジュールが、いつでも発表出来る事です。
サミエルウルマン「青春の詩」
「年齢を重ねただけで人は老いない、理想を失う時に初めて老いがくる。
20歳の青年がやる気を失えばただの老人である。
60歳の壮年が理想に生きている時は青春真っただ中である。」
自らの進むべき道は自分の意思で決める、いかなる誘惑にも負けずに、日々を大切に過ごすことが理想です。
5月 11th,2013
恩学 |
人間のタイプ はコメントを受け付けていません
人間における感情表出の一つである「笑い」。
笑いには様々な種類があります。
赤ちゃんが初めて見せる笑いには、生後に学習するものではなく、
生まれつき備わった能力によるものだということを御存知ですか。
新生児がミルクを飲んだあとや睡眠中に笑顔を見せることは、
昔から「神様がくすぐる」などとも言われています。
またその後の発育過程では、誰かが顔を近づけると笑ったり、
特定の人や物に対する笑顔が明瞭になってきます。
こうした赤ちゃんの笑いは単に発育の指標であるばかりでなく、
周囲の人に育児の苦労を癒す重要な行動なのです。
その場の雰囲気を和ませ、関心を維持させる機能を持った生理的行動といえます。
そして成長と共に見える世界は広がり、
その中で新しい笑いの感情や文化を知っていきます。
私達はまだ言葉を持たない頃から笑顔を表現し、周りの人達との関係を自ら作って行くのです。
そこには笑顔に込められた強い力を感じます。「東京江戸博物館」
また違った意味で笑顔の力を証明する出来事をNHKスペシャルが放映していました。
イラクの治安維持にあたっていたアメリカ軍兵士がイラクの住民に取り囲まれ時です。
イラクの住民は、アメリカ軍が自分達の宗教的指導者を捕えに来たのだと勘違いをして攻撃体制を取ったのです。
その一触即発の状況になったときに、アメリカ軍の指揮官は兵士に向かって「Smile!」と命令を下したのです。
アメリカ軍の兵士達が満面の笑顔を見せると、
住民はアメリカ兵に敵意の無い事を知り、最悪な危機を回避することが出来たのです。
その指揮官は世界のあるゆる紛争の地で、
同じような状況に遭遇した時に、最も有効な手段は笑顔であると言った。
武力で威圧するよりも笑顔のコミュニケーションがより効果があるということです。
アメリカのホテルに泊まって、エレベーターで他人と乗り合わせて無言でいるということはまずない。
「Hi」「How are you」とか、とりあえず何かを言う。言わないまでも目で微笑みあったりする。
さて翻って我が日本と日本人はどうだろうか?たいていの日本人は、
エレベーターに乗ると無言で行き先階数の表示を見上げる。
さて、では、エレベーターの中で見知らぬ人と挨拶をするアメリカ人は、
とてもコミュニケーション能力が高くて、私たち日本人はコミュニケーションのないダメな民族なのだろうか。
私は、どうも、そういう話ではないような気がしている。
アメリカはそうせざるえない社会なのではないか。
多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているではなく)ということを、
早い段階でわざわざ声や形にして表わさないと人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。
私たち日本人はシマ国・ムラ社会で比較的のんびり暮らしてきたので、
そういうことを声や形にして表わすのは野暮だという文化で育ってきた。平田オリザ「わかりあえないことから」
笑顔は力の無い赤ちゃんを守り、戦地で敵からの攻撃を防ぎ、
多国籍社会で安全を保証することが出来るのです。
我々日本人は信頼と思いやりで暮らす事に慣れ、
笑顔の必要性が尊ばれて来ませんでした。
現在はグローバル社会になり人種や宗教や価値観の違う人達との接触が増えて来ました。
語学よりも笑顔のコミュニケーションがどれほど役立つか再認識する時代です。
しかし笑顔を悪用する人達も大勢いるので気を付けましょう。
5月 11th,2013
恩学 |
笑顔に込められた力 はコメントを受け付けていません