一瞬の判断

 

人生の航海で突然大波が来る時があります。
前から来るのか横から来るのか分かりません。
そのような時に大切なことが一瞬の判断です。
そして判断と共に大切なのが決断力です。

決断力とは何事にも動じず迷わないことです。

 

一瞬の判断は先天的(動物的本能)と後天的(学習経験)があります。
本来人は瞬時に判断することは得意としている筈なのですが、
文明の発達と共に人間の本能が劣化していることも事実です。
直感よりも経験とデーターに頼ってしまうからです。

 

飼われた動物と同じで一度安全と安心を与えられると、
危険には鈍感になることが多いのです。
他人には起こっても自分には起こらないだろうと云う、
おかしな過信がうまれて実際の被害にあってしまうのです。

 

人々が問題に対して判断を誤るのは、
過去に刷り込まれた記憶に頼る事が多いからです。
自力で脱出をするよりも作られた逃げ道を探すからです。
世間に氾濫している常識という暗示に従うからです。

それが権力者の作った安全神話なのです。
恐怖を作り安全を約束する、飢餓を作り食料を与え安心を約束する、
他国からの暴力に戦っても守ると架空の平和の約束をする。
純真な民衆は幾度となく騙され続けてきたのです。

 

現代に生きている我々もあらゆるシステムに騙されているのです。
常に不安や混乱を煽られて逃げ道を一方的に押し付けられているのです。
新しいシステムが一つのルールとなり囲いの中へと追い込まれ、
限りない消費型の罠にどんどん引き込まれてしまうのです。

それを避ける為には正しい情報と一瞬の判断が重要になります。
状況に応じてどのように判断するかが危険から逃れる唯一の方法なのです。

一瞬の判断は逃避の為の本能と言っても良いかもしれません。

更に五感による胸騒ぎというシグナルも感度を良くしておくべきです。
不安を感じたり嫌な予感がする時には注意が必要です。
現在は何が起こっても不思議の無い時代ですから。

自分の体内から起こるレジスタンスを呼び覚ます時です。
抵抗勢力こそ判断を磨く切っ掛けに成るのです。

人生の航路を安心と安全に頼るのではなく、
不意の災難に立ち向かえる強い決断力も準備しておくべきです。

何事にも動じず迷わずに生きて行きましょう。

 

すなおなままに

「すなおなままに1」

天気が良ければ天気を喜び
雨が降れば雨を喜ぶ
親切を受ければ親切を喜び
愛を感じれば愛を受け取る

美味しければ素直に美味しいと言い
可笑しければ腹いっぱい抱えて笑えば良い
飾らずにすなおなままが一番いいんだ

あれこれ後先を考えて生きていても仕方が無い
その瞬間に心で感じたことを表現しなければ
折角の神様の贈り物に気付かないことになる

あーもったいない・もったいない

 

「すなおなままに2」

いちいち考えることではない感じる事だ
子供も大人もおじいちゃんもおばあちゃんも
無邪気な心が邪気を払うことになる

邪気とは病気になってしまう気持ちのこと
子供の心を無邪気というのは病気を心配しないで
天真爛漫に生きているからなのだ
天真爛漫とは自然のままで偽りや飾り気のない様子で
欄漫は花の咲き乱れた様子

自然の中で感じたままに生きるのが一番なのだ
考え過ぎるから病気に成ってしまうのだ
考え過ぎるから争いが起きるのだ
考え過ぎるから悩みが増えるのだ

先ずは感じることが大切なんだよ!

 

「すなおなままに3」

頭の中で親切にすると間違うよ
こうすればきっと感謝される
こうすればきっと喜ばれる
こうすればきっと助かる

親切と手助けを間違わないで!
親切は親しさを切る
すなわちとことん配慮があり思いやることだ

手助けは困っている部分の手を貸してやるだけ
本人のがんばりを基に手伝うことだ

みんな勝手に親切している
あいてのことを考えないで

歩き始めた子供を抱きしめたら駄目だね
転んでも・転んでも側で見ていてやる
それが親切!

高いところに上がろうとしているとき
お尻を少し押すのが手助け!

おとなの世界でも同じだよ

 

「すなおなままに4」

あいての良いところをみてごらん
あいての良いところを好きになってごらん
あいての良いところを他人に自慢してごらん
ほら、あいての良いところがもっと輝き始めるから

人は

あいての嫌いなところを見てしまう
あいての嫌いなところを直そうとする
あいての嫌いなところを馬鹿にするよね
ほら、どんどんあいての嫌いなところが膨らみ始めるから

そんなときは

前に座るのじゃなくて
横に座って話をするのさ
互いにおなじ方向をみるから良いも嫌いも気にならないね
あいての話じゃなくて自分の話がしやすいね

好きも嫌いも見える部分はほんの一部だけ
本当は見えない部分の方が大きいんだ
自分も見える部分ばかり気にするよね
だけど何も気にしないですなおに話をすればいいんだ

きっと嘘でつきあうより楽になるから

 

剣の長さ

「剣の長さ」

スパルタのある軍事専門家は、
自分の子供が自分の剣が短いと嘆いているのを見て、こう言いました。

「お前が一歩前に踏み出すことで、その剣を長くせよ」。すごい言葉です。

相手より劣っている事に悲観しても始まりません。
一歩踏み出す勇気があれば欠点という問題は解決すると言う事です。

不安の中で傷つくことを承知で一歩踏み込む勇気です。
その一歩を踏み出す毎に多くの学びがあるのです。

勇者は一歩踏み出す勇気を持っている人のことを言うのです。

「百尺の竿頭」

禅語である。「百尺の竿頭さらに一歩をすすめよ」

迷いの多い修行僧に百尺(30m)の竿の先よりもっと先に出ろ、
死ぬか生きるかを考えるようではまだまだ修行が足りない、
仏の教えに間違いはないのだから更に一歩進めよと云うことです。

努力なしで手に入る知識などはまったく役に立ちません。

百万語の仏教書を読んだところで意味などないのです。
自らの体験を持って手に入れた知識は万人の手助けとなるのです。

勇者は恐怖に打ち克って他人を守る人のことを言うのです。

「欠点が長所」

歌の下手な歌手が一曲だけヒットを出しました。
出身地の訛りがひどくおまけに胴長短足で見た目も悪い。
その彼がある日役者に転向をしたのです。

歌手が役者へ転向して成功の例が無い時代でした。
彼の個性を見出した脚本家が彼を絶賛したと聞いています。

「あなたの欠点がすべて長所なのよ」

その一言で彼は日本でも有名な役者となったのです。
本人の持っていたコンプレックスは役者として必要だったのです。
彼はスパルタの剣を使ったのです。

勇者は剣の長さではなく剣の使い方を知っている人のことを言うのです。

「溺れる藁」

諺に「溺れる者は藁をもつかむ」というのがあります。
困った時には小さな希望も大きく感じてしまう事があります。
しかし藁は、藁なんだ!何の役にも立たないと云う事です。

貧すれば善人も邪悪な気持ちになり、
生きるためには悪行も仕方が無いと言い訳をします。
小さな悪から大きな悪に変わるのにはさほど時間が掛りません。

もがけばもがくほど悪い流れの方向に引っ張られるのです。

自力で助かる方法は流れに身を任すしかないのです。
「流れる石は激流を選べず」どのような流れにも適応するしかないのです。
小さな救いで抵抗するよりは、流れに身を任している方が運は開くのです。

勇者は自ら激流に飛び込む事が出来る人のことを言うのです。

「それでも」

マザーテレサの言葉です。

あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。
それでも、いい行いをしなさい

誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。
それでも、誠実で親しみやすくありなさい。

本当に助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われるかもしれません。
それでも彼らを助けなさい。

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも一番いいものを分け与えなさい

勇者は自分の損得では無く純粋に困っている人を助けることができる人を言うのです。

すべてはスパルタの剣と同じ内容です。

一歩踏み出した勇気が成功への道を開かせるのです。

 

ポジション

 

今、自分が何処にいるかわかりますか。

人生というグランドでどのポジションにいるかわかりますか。
どのようなゲームをするにしても一人でゲームをすることは出来ません。
多くの仲間達と共に生きて行く為のゲームをしなければならないのです。

そして自分のポジションが分かれば、何をしなければならないかが容易に判断できるはずです。

常に自分のポジションが見えている人は、自分で自分を守る事が出来ます。
それはポジションでやるべき事を理解して集中するからです。

ポジションに集中すれば悩みも少なくストレスも溜まる事はないのです。
ポジションでミスを犯さなければ得点も得られるのです。

一流のプレイヤーは自分のポジションで集中力を途切れさせない人です。

しかし、自分のポジションが見つからない人は、
自分のポジションよりも他人のポジションばかりが気に掛かってしまいます。

自分のポジションが見えないから何をして良いのかまったく分かりません。
その為に愚痴や文句が多くなるのです。そして戦力から外されてしまうのです。

ポジションを見つける事は自分の能力を見つける事と同じです。
そこにおいて自分の能力を過大に評価しても何等意味のない事です。
誰もがスタープレイヤーになれるわけではありません。

一流のプレイヤーになれなくてもサポートする道をさがさなければなりません。

ポジションは人生における立ち位置です。

たとえ自分に与えられたグランドの環境が悪くとも、
チームメイトとのコミュニケーションが悪くとも、
周りの観客の態度が悪くとも、
自分のポジションから離れるわけには行かないのです。

しかしひとつのゲームが終われば次のグランドに移る事は可能です。
それまでは責任を持ってポジションを守り続けなければならないのです。

ポジシヨンの指名は自分で選べないのです。
どのようなポジションでも運命から与えられた背番号を付けて闘うしかないのです。

自分自身が守れる範囲が分かっていれば無理をしなくてもすみます。

しかし、自信のない時には他人のポジションがどうしても気になってしまいます。
常に他人との比較の中で自分の立ち位置を相手側に置いてしまうのです。
だからその人が動くとそれにあわせて自分も動いてしまいます。

その内に相手が動いているのか自分が動いているのかが分からなくなってくるのです。
自分が動かない分だけ周りが動いているように錯覚をしてしまうからです。
動いている自覚があれば、今のポジションの存在価値や重要性が見えてくるはずです。

「正法眼蔵隋聞記」第一現成公按の中にこの様なことが書かれています。

「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、
心身を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。
もし行李をしたくしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。」

舟に乗って河を渡るとき、岸のほうを見ると、あたかも岸が動いているように見える。
今度は目を舟のほうに向けると、舟が動いているのが分かる。
これと同様に身心が乱れた状態で世の中を見ると、世間が異常で自分が正しいかのように思い誤る。
悪いのはすべて世間であって自分ではないと思う錯覚である。
自己の行動を正して本来の自己に返れば、あらゆるものは無我であるという道理が分かる。

自分のポジションの中でやるべきことを正しく行い、
他人のすることに気を取られなければ、あらゆるものはその法則に則っているのが分かる。

他人のポジションに気を取られずに、
宿命から与えられた運命のポジションをいち早く見つけることが大切です。

 

 

落ち着く

 

人には浮き沈みがある
大きく浮いた人ほど沈むときには深く沈む

少し浮いたら有頂天になり
少し沈んだら絶望的になる

中途半端に救いを求めりゃ
別な悩みで引っかかる

不幸に尺度は見つからない
不幸の大きさなんて計りようが無いから

幸福に尺度が見つからない
幸福の大きさなんて比べようが無いから

中途半端にもがいていると
なかなか底に落ちていかない

落ちるならとことん落ちる
落ちて底に着いたらそれが「落ち着く」さ

落ち着いたら冷静になる
冷静になるから智慧が湧く
智慧が湧くから勇気も起こる
勇気が起こりゃまた浮かび始める

恥をかけなきゃ半人前
保身に走ればみっともない
繕う人ほど浅ましい
虚勢を張れば最悪だ

落ちるならとことん落ちろ

落ちるならとことん落ちろ

 

佐賀県鍋島藩山本常朝

「葉隠」の中の曲者列伝にこのような事が書かれている
ある山中を座頭が十人ほど連れ立って通っていたとき崖にさしかかり、
全員が恐怖に足ふるえ肝が冷えてすくんでいた。

そのとき先頭の座頭が足を踏みはずし崖から落ちた。
残された者たちはこれで一歩も動けなくなった。

すると崖の下から先に落ちた座頭の声が聞こえてきた。
「気遣ひめさるな。落ちたれども、何の事もなし。中々心安きもの也。
落ちぬ間は大事と思ひ、落ちたらば何とすべきかと思ひしゆへ、
気遣ひ限りなかりしが、今は落着たり。
各(おのおの)も心安成度(こころやすくなりたく)ば早く落られよ。」

生死の関頭にあって死の選択が生を可能にし、
「死の覚悟」が「見事な生」につながる象徴的事例である。

現状の不安を取り除くには守るのではなく、
捨てさる方が解決の道があるのかもしれません。

一歩飛び込む勇気です。

そこからうまれる落ち着きに期待をしたいものです。

 

信頼

 

全ての人に信頼を求めるから失望するのです。
全ての人に期待をするから裏切られるのです。
全ての人と仲良くしようとするから嘘が増えるのです。

もっとしっかりと眼を見開いて、
自分に合う人だけを信頼するのです。
行き違いがあったとしても戻れる人。
戻りたいと思う人が自分に合う人なのです。

信頼には痛みが伴うのです。
それは自分を犠牲にしなければならないからです。
信頼は綺麗事だけでは築けません。
それは自分の恥を伝えなければならないからです。

人を信じることは命がけです。
裏切られる心配より裏切らない配慮が必要です。
信頼に打算があってはならないのです。
利益や愛情を目的としては成り立たないのです。

信頼を求めるならば、先ずは自分を知ることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分を信じることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分が力をつけることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分が一人になることです。

信頼関係が築けないからといって、
投げやりになってはいけません。
諦めてはいけません。無感動になってはいけません。
それは自分が信頼の扉の鍵を閉めることになるからです。

全ての人に信頼を求めるから失望するのです。
全ての人に期待をするから裏切られるのです。
全ての人と仲良くしようとするから嘘が増えるのです。

そして最後に気付くことがあります。
一番「信頼」をしなくてはならないのが「自分」だということです。

あの人を信頼していたのに裏切られました。

この言葉は色々な記者会見の時に耳にする言葉です。
父親を恋人を学校の先生を会社を政治家を対象に使われます。
しかし本当に両者の間に信頼関係はあったのでしょうか。

打算的な意味での信頼は信頼では無いのです。
自分に都合の良い駆け引きだけの言葉なのです。

信頼には深さが必要です。
眼に見えない部分での心の交流が必要です。

不用意に信頼を乱発する人達がいます。
数回顔を合しただけでも平気で信頼を使います。

言葉だけの関係で信頼はうまれません。

成功や失敗を積み重ねて憎しみや裏切りも乗り越えて、
助け合う運命の領域に入って初めて信頼がうまれるのです。

信頼は順調な関係の時よりも挫折を味わった時に感じるのかもしれません。

美しく優しい言葉は心地が良いものです。
ついつい我々も無意識に使ってしまいます。

「巧言令色鮮なし仁」にならないように気を付けましょう。

 

 

砂漠の水

 

砂漠の真ん中に汚れた水たまりが有ります。
その水たまりの横にこんな看板が立っていました。

「3キロメートル先にきれいな水があります」。

多くの旅人達は喉が渇ききっているので悩みます。
この水を飲むべきか呑まざるべきか!

ここで質問です。「旅人と汚れた水の関係は!」

旅人Aは3キロ先にきれいな水があるのなら無理をしてでも歩き続けよう。
旅人Bは3キロ先までならこの汚れた水を少し飲んで歩き続けよう。
旅人Cは3キロ先に本当にきれいな水が有るかわからない、汚れた水でもたらふく飲んで、
のどの渇きを癒して歩き続けよう。
旅人Dは立て看板を隠して、汚れた水を売れば大もうけできると、水を旅人に売りつけたのです。

貴方はどのタイプですか。

旅人Aは努力すれば成功につながるという事を盲信するタイプです。
旅人Bは現状と予測を冷静に判断して行動するタイプです。
旅人Cは先の事よりも今が大切だと欲に溺れるタイプです。
旅人Dは何事も利益優先で人情よりも勘定を大切にするタイプです。

そして

旅人Aは3キロ手前で喉の渇きの為に息絶えて死んでしまいました。
旅人Bは喉を少しだけ潤したので3キロ先まで歩く事が出来ました。
旅人Cは1キロも歩く間もなく汚れた水のせいでお腹をこわして死にました。
旅人Dはお金をためる事に成功したのですが、砂漠の盗賊に襲われお金と命を失いました。

「臨機応変」という言葉があります。状況に応じて変更すると云う事です。

堅い信念と熱意だけで何事も計画通りに推し進めようとして判断を誤り失敗する経営者が多いのです。
計画変更を意志薄弱と取られるのではないか、思い付きの判断を優柔不断と取られるのではないかと心配するのです。

どのように会社を経営してどのような会社にしたいかは、社会の変化や顧客の嗜好に応じなければ成り立ちません。
誰も汚れた水など飲みたくはないのです。

しかし、突然解決しがたい問題が起こった時に、目的が明確にある経営者は汚れた水に躊躇することなく、
会社の延命になるのであればと少しだけ飲む事をします。

浅薄で思慮分別の無い経営者は会社よりも、自分自身の保身の為に汚れた水をガブ飲みしてしまいます。

人道的利他の心を持っていない経営者は、他人が困っている時に自分は飲まずに商売を考えます。
それぞれのタイプの経営者がいます。

「臨機応変」とは、正しい方向に向かう為に判断をするキーワードです。

その時の状況に合わせて正しい変化をする事です。
機に臨み変に応じて適宜な手段を施すことが「臨機応変」なのです。

経営者の方には、「水」と云う文字を「金」と云う文字に置き換えてみると良く分かると思います。

「砂漠の水」から学ぶ事は多いのです。

 

最後の晩餐

 

長い間の人生も一瞬の出来事で失う事が有ります。
突然の災難で生死をさ迷う事になりました。

その時に神様から最後の晩餐の招待を受けました。
さて貴方は何を食べたいと言いますか。

ここで質問です。「最後の晩餐のメニューは!」

回答者Aは最後だから世界の最高級料理を食べる。
回答者Bはせめて最後だから母親の手料理を食べる。
回答者Cはどうせ最後なら好きな料理を少しだけ食べる。
回答者Dは最後の食事は何も食べない。

貴方はどのタイプですか。

回答者Aは最後まで贅沢を望む強欲の塊です。
回答者Bは母親思いの優しい人です。
回答者Cは後悔と反省と涙で苦しんでいる人です。
回答者Dは明日死ぬのなら生きている人が食べれば良いと云う考えです。

そして

回答者Aは全てを食べつくしても満足せぬ多財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Bはごく僅かな飲食ができる少財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Cは一切の飲食が出来ない無財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Dは苦しみと楽しみのある人間道の世界に入って行きました。

アップル社の創立者スティーブジョブス氏が、
世界最高の経営者に返り咲いた時に不治の病「膵臓ガン」でこの世を去りました。

彼が最後に食べた食事は何だったのでしょうか。

窮地に追い込まれた時や、絶体絶命の時に笑って食事をする事が出来たのでしょうか。
この様な最期の時に現れる言動こそ、その人の人間性を一番表している状態だと思います。

回答者Dのように生きている人に食べ物を残す人は、慈愛の心と奉仕の心を持った人です。
そうありたいものです。マザーテレサもそのような人でした。

仏教用語に「小欲知足」という言葉があります。

少しでも十分足りると云う意味です。
欲を取り除き少しで足りる事を知れば幸福感を感じると言います。

大きなステーキを一人で食べると、お腹一杯になって苦しくて薬を飲まなければならないかもしれません。
しかし大きなステーキを二等分にすると、好きな人と楽しく食べる事が出来るかもしれません。
そして大きなステーキを四等分にして、家族全員が笑いながら食べる事が出来るかもしれません。

大切の事は何をお腹一杯に食べたかでは無く誰と一緒に食べたかです。

尊敬する人や愛する人との食事が一番美味しいのに間違いありません。

最後の食事と言われて未だ食べ物に執着するこころがあるのは悲しい事です。
どのように辛い人生でも最後には残された人達の事を考える事が出来ると良いですね。

 

助言

 

古いつり橋のたもとに老婆が一人座っていた。
今4人の旅人が老婆の前を通り過ぎようとしている。
無事につり橋の向こうに渡り付くのは誰でしょうか。

ここで質問です。「貴方はどのタイプですか!」

旅人A老婆を無視して自分の判断でつり橋を渡り始める。
旅人B老婆を少し意識したが携帯ナビを頼ってつり橋を渡り始める。
旅人C老婆に挨拶をしてつり橋の話を聞き慎重につり橋を渡り始める。
旅人D携帯ナビも老婆の話も手に入れたのだが決断に至らずつり橋を渡らない。

答えは。

旅人Aを選んだ人は、全てが自己判断で行動優先です。
旅人Bを選んだ人は、迷走しながらも確率の高いデーター優先です。
旅人Cを選んだ人は、独断とデーターに頼らず人の助言が優先です。
旅人Dを選んだ人は、「知先行後」(朱子学)を守る情報収集が優先です。

そして

旅人Aは織田信長の様な破滅型のヒーロータイプ
旅人Bは豊臣秀吉の様な戦略型の成りあがりタイプ
旅人Cは徳川家康の様な人情型の苦労人タイプ
旅人Dは伊達正宗の様な思索型のインテリタイプ

 

人生の長い道のりで重要な決断をしなければならない時に、どのような行動を取るかという事が大切です。

目の前の状況だけを見て自分一人で行動を起こしてしまうタイプ。
自分の判断よりも常に提供されたデーターに頼ってしまうタイプ。
目の前の状況を俯瞰で見ながらも地元の意見を取り入れるタイプ。
全ての知識や情報が手に入ったとしても行動に移さないタイプ。

このテストで大切な事は、何故その橋のたもとに不自然に座る老婆がいるかという事です。

貴方にはつり橋のたもとに座る老婆の存在が、偶然か必然か考える余裕がありますかということです。

重要な決断をする時に強い人や成功した人の話ばかりに耳を傾けてしまうタイプ。
重要な決断だからこそ失敗経験者の意見や弱い立場の部下の意見に耳を傾けるタイプ。
重要な決断だからこそあらゆる情報を収集して思考を繰り返すタイプ。

人それぞれですが、いつかは決断を下さなければなりません。

ポイントは何が本当に重要な助言になるかという事です。
冷静に判断して心の中で考え、見える物や聞こえる音に敏感に反応する事が老婆の「助言」に繋がるのです。

「助言」は確立の高い架空話です。
絶対に成功するという話ではありません。

過去の多くの出来事の中から予測される現象を伝えるだけです。
それを聞き入れるか聞き入れないかは貴方の判断なのです。

古今東西を問わず、どのような名将も99%の自信の中で、残りの1%は「助言」に頼って来たのです。

貴方は1%の自信で99%を「助言」に頼っていませんか。

 

人間の幅

 

人間の幅は一本の扇である。
その扇の開き方が重要である。

多くの人は いつも半分しか開いていない状態になっている。
好きなこと 得意なこと 嬉しいこと 心地よいことだけの、
楽しい片面しか開いていない。

もう一方の嫌いなこと 苦手なこと 悲しいこと 気分の悪いことなどの、
辛い片面が閉じたままになっている。

本来は二つの面が広がって、初めて人としての幅になる。

人生の喜びは楽しい片面が開いているから生まれる。
人生の悩みは辛い片面を閉じたままにしているから生まれる。

得意な事も苦手な事も、好きな人も嫌いな人も、喜びも悩みも、
全部受け入れて何事にも動じない泰然自若の人となる。

西郷隆盛は人として器量(幅)が大きいことで有名だった。
勝海舟から西郷隆盛を紹介された坂本竜馬は、
「大きく打てば大きく響く 小さく打てば小さく響く まるで梵鐘のようだ
全く掴みどころが無いほど 器の大きな人物」だと西郷隆盛を評している。
西郷隆盛は国政の話から女郎の話まで幅広く会話に応じたと云う事です。

まさしく扇が全開の人物であったということです。

対人関係で好き嫌いが起きても、好きな人だけを相手にするか、
苦手な人も相手にするかで人間の幅は変わります。

通常気の合う人だけと交際すると波風は立ちません。
好き嫌いの感度が同じで合ったりするからです。
言葉に出して確認をする必要が無い為に深い関係には成り難いのです。
そのためにほとんどの場合予測された穏やかな関係だけで終わってしまいます。
扇の片面だけだと微風ていどの風しか吹きません。

しかし苦手な人も含めた交際だとどうなるかです。
思考回路が違うために何事にも確認が必要になります。
これまで自分で判断して来た事に別の判断材料が加わるのです。
意見の食い違いが起きても、そこで得る予測されない結果は大きなものがあります。
扇の両面が開くと気分爽快な風が巻き起こります。

今迄閉じていた扇が開くと諦めていた人間関係が始まるかもしれません。

自分自身の意外な一面の発見にも繋がるかもしれません。
苦手な相手の気持ちも理解が出来るかもしれません。

スイスの「アミエルの日記」より

心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、人生が変わる

中国の「教育心理学」より

思想という種を蒔き、行動を刈る。
行動という種を蒔き、習慣を刈る。
習慣という種を蒔き、性格を刈る。
性格という種を蒔き、それがやがては運命を収穫することになる。

変化を加えなければ何も変わる事は有りません。
扇を開くのもあなた、扇を使いこなすのもあなたです。
人生の風を豪快に巻き起こして下さい。

あなたの変化に周りの人はすぐ気がつきますよ。