三感王

「感動」

いつもと変わらない朝を迎えて感動する。

朝露に濡れた草花に触って感動する。
ふと見上げた空の虹を見て感動する。

子供たちが子犬と戯れている姿に感動する。
心温まる話を聞いて感動する。

何気ない一日、素敵な言葉、素敵な音楽、素敵な映画で感動する。
感動は感動を受け止める心から生まれるのです。

魂のキャッチボールなのです。

感動を受け止めるグラブをいつも磨かなければなりません。
素敵な感動を取りこぼさないようにするのです。

「感激」

誰よりも強く生きようと思うから少しの痛みでも気になってしまう。
誰よりも幸福になろうと思うから身の回りの不足が気になってしまう。

自分の行いを正当化しようと思うから言い訳が多くなってしまう。
自分の行いで満足できないと思うから他人と比べてつい溜め息も出てしまう。

何かにしがみつきたいと思うから弱さが出てしまう。
何かが・何かが・何かがと思うから迷ってしまう。

だから死んでもいいやと思えば痛みなんて気にならない。
だから不幸でも大丈夫と思えば不足なんて気にならない。

だから他人の目はどうでもいいやと思えば気楽に過ごせる。
だから気にかけてくれている人がいると思えば笑顔も出て来る。

だから誰にもしがみつかなくてもいいやと思えば孤独から解放される。
だから必要な事だけを考えればやるべきことが分かって来る。

自分の心のなかの感激を置き去りにしないことである。

「感謝」

この絶望と孤独から逃れる方法は、何も“思わない”ことである。

そして絶望と孤独を乗り越えるには四つの忍耐がある。
それは「四耐」冷・苦・悶・閑である。

冷遇に耐える。苦労に耐える。煩悶に耐える。閑居に耐える。
その中でも特に高いハードルが「閑」である。何もしないで暇でいることである。

何もしないで閑を乗り越えられる精神力こそ本物である。

「小人閑居して不善をなす」ことのないようにしなければならない。

生かされていることに感謝を忘れないことである。

未知の世界「変身」

 

ある日突然あなたが虫に「変身」していたらどうしますか。
ベッドの下にうずくまる得体のしれない毒虫です。

家族や仕事仲間から追い詰められても声をあげては成りません。

暗闇の中でじっとしているのです。
聴覚と嗅覚を研ぎ澄まして逃げ道を探すのです。
誰も助けてくれません。

どのような手引書にも、その苦しみを、その現実を、その逃げ出す方法を書いているものはありません。
自分自身の生き抜こうとする力こそが未知なる世界へと導かれるのです。

見えない光が見え始めて、聞こえない音が聞こえ始めて、微かな匂いまで気付くようになるのです。
ふとした何気ない変化こそが脱出のヒントとなるのです。

敏感になるのです。
チャンスは必ず訪れるのです。決して諦めた心から脱出方法が生れることは無いのです。
毒虫になっても楽しみはあるかもしれないのです。

1952年に第一版が発表されたフランツ・カフカの「変身」という本が話題に成っています。

関連本でも4~5冊が本屋の推薦本として店頭に並んでいました。
つい最近読みなおしたばかりなので少し驚きました。
この地味な本が何故若者に流行っているのか不思議でなりません。

ネットで調べると、若者達の間でカフカがブームになっているのは、
長引く不況と望みの仕事に付けない閉塞感から、
この本に共感を得ているだと書かれていました。

「変身」の作者カフカはオーストリア・ハンガリー出身です。
当時そこには多数のチェコ人を少数のドイツ人が支配し、カフカが受け継いだユダヤ人は
その二重構造から載然とはずされていたのです。

「変身」はハンガリーの社会状況(二重構造)とユダヤ人であったカフカの心情が反映された作品です。
カフカは半官半民の労働災害保険協会に努め日々悶々とした中で、
人間とは何か、人間の存在とは何か、人間同士で何故差別が起こるのかと苦悩していたかと思います。

その苦悩の中で愚痴が妄想を生み「変身」が生まれたのです。

現在の日本でも若者達は仕事場でも家庭でも友人関係でも自分の居場所がどんどん無くなってきています。
格差社会の中で優遇される者と不遇な者の姿がハッキリと見えています。

若者達は言葉では言い表せない焦燥感に囚われているのではないでしょうか。
自分は確かに存在しているのに居場所が見つからない、何かをしたいと思いながらもやることがないのである。

だから虫に変身をしたカフカの心境と相通ずるものがあると云うのです。
全てを放棄して薄暗い部屋の片隅で、うずくまりながら物思いにふけるのは仕方のない事かもしれない。

そして若者と同時に、この作品に反応しているのがリストラや定年に差し掛かった中高年だと言います。
午後の昼下がり、オフィス街の近くの公園のベンチで、ボーッとしている中高年のサラリーマンを見ると、
まさに虫に「変身」しているのです。

職場でも家庭でも一切発言が許されずに虫のように蠢いているだけです。

「変身」とおなじようなカフカの別作品で「城」と云うのがあります。
こちらは、虫になって居場所が無くなるのではなく、居場所を求めて村中を徘徊する作品です。

仕事を依頼された測量技師が依頼主の城に出向いたのですが、どうしても目の前の城に辿りつけない話です。

城に招かれながら、城に辿りつけない。場所があるのに存在が無い。
当時のハンガリーのチェコ人とドイツ人とユダヤ人の関係にも似ていたのではないでしょうか。

同じ場所にいながら待遇が違うという事は、
ある意味正規雇用社員と非正規雇用社員との関係にも似ている気がします。

矛盾と理不尽の世界です。

カフカの作品は問題を定義するが解決は一切ないのである。
大騒ぎしても「届かない」「伝わらない」「初めから何もない」で終わってしまうのである。

決してこの本は娯楽で読むべき本では無い。

ウェルテルの横恋慕

 

恋に悩み恋に苦しみ恋に溺れている人の話を聞いた。そしてこの書を薦めた。

ドイツの文豪ゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み」である。

この小説が発表されるや否や、ドイツの読書界は深刻な衝撃を受け、賛否両論の渦が巻き起こった。
それはこれまでの小説の常識を完全に打ち破る作品だったからである。

十八世紀の小説は、恋愛小説にせよ、旅行小説にせよ、
読者に娯楽を提供し教訓を与える事を目的としていた。

すなわち十八世紀は芸術や文学の本質的機能を、人を「娯のしませることと有益であること」に見ていたのに対して、
「ウェルテル」は根源的に人間の生き方そのものを問題にしようとした。

読者の思念は主人公がなぜ自殺しなければならなかったのかという点に拘わりあわざるをえない。
従来の小説では、愛が人間の自由意志によって死に結びつくなどということは、考えられないことだったのである。

彼は全人的な愛を求めた。しかし彼の宿命的な恋人ロッテは、
やがて人妻となることは最初からわかっているし、また人妻に対する恋は、浮世の掟が許さない。

そういうどうにもならない状態から脱出して、愛を永遠化するために彼に残された唯一の道は、
すなわち死だったのである。

青春のエネルギーのすべてを、もっぱら自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応して、
そこに自己の生活を築きあげる事を、知らない青年の悲劇が「ウェルテル」なのである。(訳者高橋義孝)

人が生きる上で愛の囲(かこい)を無視して語る事は出来ない。
愛があるから自分以外の人を守る意識が働き、愛を育み継続させようとして、愛ある環境を整えようとする。

愛があるから全ての芸術が生まれ、全ての芸術は愛の存在の証明になるのである。

愛は青年の自立を促し、向上心を煽り、独占欲と共に、未来の生きる方向性を見つけ出してくれるのである。
しかし現代では一概にそのように考えるのは難しいのかもしれないのである。

リアリティーよりもバーチャル世代で育った若者は、
愛の本質を知らずにゲーム感覚で愛を捉えているかもしれない。
愛も喜びの数あるアイテムの一つとして必要な時には使うがそれ以外では使わないのである。

愛の本質は相手をいたわる事であり、愛する事は相手の趣向も未熟さも
全てを受け入れる事から始まるのである。

リアルな愛は四六時中相手の事を考えなければならない。

愛する相手と頻繁に連絡をとり、常に愛の確認を取らなければならない。
その上に愛を育むためには、食事に誘い映画を見て旅行にも連れて行かなければならないのである。

愛する行為は現代の若者達とって、時間とお金の無駄使いと考えている節がある。
無機質な教育で植え付けられた知性が、
人間としての感情を押しのけて淡白な人生設計をしてしまう危険がある。

そのような生き方からは倉田百三の言う
「愛は謝罪を持ってする」という意味を理解する事は不可能だろう。
愛する事は一筋縄ではいかない事である。

倉田は「私は恋愛を迷信する。この迷信とともに滅びたい。この迷信の滅びる時私は自滅する外はない。
ああ迷信か死か。真に生きんとするものはこの両者の一を肯定することに怯懦(きょうだ)であつてはならない」
まさに生きるべきか死ぬべきかなのである。

ウェルテルの一方的な横恋慕で始まった恋は、経済的な理由から許嫁アルベルトに軍配が上がり、
ウェルテルの純粋な恋は叶わぬままに終わりを告げたのである。

そして恋の結末としてウエルテルは自ら死を選んだ。

ロッテはウェルテルの死を予測しながらも、ウエルテルの従僕にピストルを渡したのである。
純情可憐なロッテも許嫁アルベルトとの結婚が約束された時点で、情熱的なウエルテルが眼ざわりになったのかもしれない。

天真爛漫なロッテも魔性の女としてウェルテルとアルベルトと天秤にかけていたのだろう。

恋愛が一筋縄でいかない理由がここに在る。

結婚において情熱をとるか財産を取るか二者択一では、多くの女性は財産なのである。
それは、情熱はすぐに冷めるが財産はすぐに冷めないからである。

美しい恋の結末としての死は、永遠の愛を勝ち取ったのかもしれない。
そうなれば勝者は許嫁アルベルトでは無くウェルテルに軍配が上がった事になる。

泳ぎ方

 

人生を生き抜くためにはそれぞれの泳ぎ方を知らなければなりません。
どの泳法が良いかは人それぞれによって違うのですが、必ず自分に適した泳ぎ方があるはずです。

その為にクロール・バタフライ・平泳ぎ・立ち泳ぎ等から探し出さなければなりません。
しかし気を付けなければならないのは、泳ぐ場所によっても泳ぎ方が変わると言う事なのです。

一つの泳ぎ方で川も湖も海も泳ぎ切る事は出来ません。
泳ぎ切ったとしても理に適った泳ぎ方ではないので様々な不都合が生じるのです。
たった一回の泳ぎで疲れきってしまっては、次々に起こるアクシデントを乗り越える事は出来なくなります。

その為には泳ぐ場所の正しい判断と理にかなった泳ぎ方を学ばなければなりません。

人間関係も同じように置かれた場所で正しい人間関係が成立しなければなりません。
多くの方々との人間関係ですから上手に泳ぎきる方法を生みださなければなりません。

明るさと笑顔で他人の邪魔にならないように泳ぎ切ることが大切です。
しかし、私には私の好きな考え方があるから、他人の意見は聞かないという人がいます。
きっとその方はいままで波風の無い安定したプールのような状態の中でしか、

泳いだ事が無い人だと思います。

いつまでも周りに守られていた状態が続くのであれば構わないのですが、
実際の社会の中では千差万別の泳ぎ方で、臨機応変に泳ぎ切らなければなりません。

親や教師や数冊の書物の中で覚えた泳ぎ方で、人生を最後まで泳ぎきるのには無理があります。

少しぐらい不器用な泳ぎ方でも、常に社会の変化に応じて泳ぎ方を変えなければならないのです。
泳ぎ方を変えるには過去の呪縛にとらわれない事です。
間違った泳ぎ方で辛い経験があったとしても、すべて捨て去らなければなりません。

そして大切な事は無事泳ぎ切ったとしても、ゴールがどこかということを想定しなければなりません。
人生のゴールは短いようでもとても長いのです。
途中で息切れの無いように最後まで泳ぎ切らなければなりません。

有終の美を飾る為にも本当のゴールを目指すのです。

水泳の金メダリスト北島康介は以前「ゴール前に弱い」とコーチに言われたそうです。

良い記録がでそうなのに、ゴール前で失速してしまうそうです。
決して体力が持たないという問題ではありません。脳の機能の問題だそうです。

脳は「ゴールが間近だ」と思ったら失速を始めるそうです。
つまり、ゴールが見えると、脳はもう達成したかのように思ってしまうわけです。

顕在意識の中では必死で泳いでいるのですが、顕在意識よりも膨大な潜在意識が達成した感覚に満たされると、
発揮していた力が低下していくわけです。

ゴールが見えると低下してくるということは、ゴールまで最大の力を発揮してたどり着きたい場合、
本当のゴールをゴールと思ってはいけないということです。

そこで北島選手が助言されたのは、「壁をタッチし、振り返って電光掲示板を見るのがゴールだ」
ということを頭に刷り込ませたそうです。

つまり、北島選手の場合は、壁をタッチしてもまだゴールじゃないんです。
なので、タッチの瞬間まで最大限の能力を発揮します。

 
少しの成功で有頂天になっている経営者を多く見かけます。
才能もあって泳ぎ方も上手なのですが、本当の成功(ゴール)の前に失速してしまうケースがあります。

独走態勢で泳いでいたとしても安心することなくゴールまで力を緩めなければ失速しなかったのかもしれません。
彼等もまた北島選手がコーチからアドバイスを受けたように、

ゴールをゴールの遠く先においていれば良かったのだと思います。

切掛け

 

物事を始める時に何か切掛けが無いと弾みがつかない。

いわゆる背中を押してくれるものが無いと進めないのである。
頭の中では行動を興したいのに身体が動かない。

周りからは怠惰な人間だと思われてしまうのだが、どうしてもいま一歩が踏み出せない時がある。

キッカケという言葉を辞書でひいたら、カタカナ表記の場合は、
歌舞伎で次の舞台進行に際しての合図となる動作やせりふのことをいうと書かれていた。

これを漢字表記で切掛けと書くと、気勢、意地、物事を始めるはずみとなる機会や手がかりと書かれている。
進行に際しての合図、物事を始めるはずみ、行動を起こす時の機会や手がかりとは、
瞬間に起こる発動、いわゆる精神的意志の決定である。

何事にも切掛けがあってそこから新しい物事が始まり変化が起こるのである。

歴史が動く時の切掛けは、国政の決断の切掛けは、経営の重要な採択の切掛けは、
そして個々の人生を選択する時の切掛けはと考えなければならない。
その上に切掛けの決断とは時間を掛けずに、一瞬にして行われなければならないということである。

切掛けが起こる主な要因は、宗教観から来る場合、哲学観から来る場合、国富論から来る場合、
幸福論からくる場合、経済的損得から来る場合とそれぞれである。

幕末の草莽崛起の切掛けは「尊王攘夷」である。
この尊王攘夷の言葉で徳川幕府が終焉を迎え、そして江戸城明け渡しに伴い
「大政奉還」という歴史的事実も作られたのである。

太平洋戦争の切掛けは真珠湾攻撃である。
海軍大将山本五十六の「対米戦においては開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべき
奇襲こそ勝利の道」と決断したからである。

第二次世界大戦終戦の切掛けは広島と長崎に投下された原爆によるものである。
1945年8月15日正午天皇陛下の玉音放送によって全面降伏が国民に伝えられたのである。

いずれにしても平穏無事な場合は、個人も国家も変化の切掛けを作る必要はないと考えるのが妥当である。

しかし求めざるとも時代は変わるものである。その流れと共に政治や経済も変動するのである。
人々は平和と安心の言葉を切掛けにして、あらゆる煩悩の欲を表面化して動き始めるのである。

それでは平和と安心はどのようなものでるかを考えなければならない。
ピーター・ノスコ著「江戸社会と国学」の中に、
「まず第一に、それはおのずから調和の保たれた社会である。そこに住む人間同士の調和だけでなく、
自然界における人間と他の動物との間の調和をも意味する。

第二に、そこには裏切りや不誠実な行為はそれが実行不可能であるかのように、全く存在しない。
そして社会生活は全世界を裨益する規範に自ずから従っている。
また、人々のあるゆる身体的な欲求は満たされている。

すなわち飢えも渇きもなく、あらゆることが足りている。また自然も人間の営為と同様に、
人間の最も根本的欲求を生み出すような環境を自ら生み出しているのである。

もちろん死は人間をある日突然襲う未知のものである。
しかしここでは人々の寿命は一般的に長く、死がもたらす苦痛は存在しない。
時は流れ、昨日も明日もなく、永遠に変化のない今が続くだけである。
したがって、このような理想的な状態においては変化は起こり得ないのである。」

本来の平和が確立されていれば変化を望む者はいないのである。
江戸時代の国学者の考えが現代でも通用するのではないだろうか。

これを切掛けに今一度正しい調和を考えるのも良いのではないだろうか。

 

幸福の持ち方

 

幸福とは地位や名誉や財産だけで語ることは出来ない。

宗教家の幸福、哲学者の幸福、政治家の幸福、成功者の幸福、男女の幸福、
年齢別による幸福等それぞれが提案する幸福がある。

しかし自分自身の運命を知り、生きる目的や価値が分かった時に、初めて真の幸福を実感できるのだ。

地位や名誉や財産以外に、人生の夢を幸福に置き換える人達や、健康であることを幸福と捉える人達もいる。
弱い者同士で助けう共存を本当の幸福と思う人もいる。

人間が人間らしく幸福感を持ちながら成長できたのは、
他人を守る意識が芽生えたことからだそうだ。

暗い穴倉の生活も火を発見したのも道具を作ったのも、
家族を含む他の人達が笑顔を見せる事に幸福を感じたからである。
最も原始的な幸福は、その日の食料を分け合うところから始まったのかもしれない。

自分一人だけの満足なら限界がある。
住むところも衣服も食料も囲い込むならば動物とまったく同じ状態である。

力のあるものが弱い者の為に生きる喜びを感じた時から双方に幸福感が生まれたのである。

その為に人としての規律が宗教からうまれ、人としての生き方に哲学がうまれ、
人として安全に暮らす為に政治がうまれたのである。

ダン・ギルバート曰く、
「不幸が生じるのは、自分の人生において自分が迷い、自分が決めている時に起こりやすい。
一方、それが辛い出来事や苦しい出来事だとしても、自分以外が運命を決め、自分の決定から離れている場合、
我々は結局のところ幸福を感じてしまうようなのだ。」

ダン・ギルバートは、不幸は自分の決定によって引き起こされた現象であり、
幸福は他人に決定を委ねる所に感じるものであると言っている。

友人同士の悩みの共有は相手が解決の判断をすれば幸福を感じ、
自分が解決の判断をすれば不幸を感じるというのだろうか。私には理解できない。

ラ・ロシュフコオは「どんな不幸な出来ごとでも、有能な人ならば、そこから何か利するところがあるし、
またどんな幸福な出来ごとでも、思慮のない人ならば、災いを転じて禍となすことがあるものだ」と言っている。

第一級の貴重な箴言である。

魯迅の「阿Q正伝」の中で、「阿Qは独自の精神勝利法という考えを持っていた。
「お前らのような下等な人間から幾ら叩かれても痛くも痒くもない。俺はお前らよりも高等な人間なのだ」
阿Qは最下層の生まれで教養もなく、容姿も最悪で、村人から常に虐められていた。
しかし、殴られている最中にでも、阿Qは腹の底では勝利者として笑っていたのである。」
他人から受ける屈辱を逆に幸福として捉えたのである。

中国の歴史は常に列強大国から虐められていた。
その弱く貧しい中国が苦しい時代を乗り切った精神として高く評価された作品である。

しかし魯迅は中国の愚民の姿を阿Qに描いたのであって、
中国人の内面に潜む情けなさを曝け出しただけであると言っている。

いじめや体罰で苦しんでいる子供達が、このような強かな考え方を持てば、
加害者は不気味で手を出せなくなる。加害者は逃げるから喜ぶのである。

歎異抄には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもっと、そらごと、たはごと、
まことあることなきに念仏のみぞまことにおはします。」仏教は絶望ということを知らない。

「火宅」私を含めて人間がどれ程堕落していてもかまわない。社会がどれ程混乱していようとも少しもかまわない。
なぜか。それは人間の世界は混乱しても、それを包む大きな世界の働きかけは無限でありやむことがない。
あらゆる煩悩の中で生きている私達、まるで燃えさかる家の中にいるようである。

激しく移ろいやすいこの世界は、全てが嘘・偽りで絵空事である。
そこには南無弥陀仏だけが真実なのである。仏教は救いでは無い。

真実を知って学んだ者だけが幸福を得られるのである。

世の中には声にも出せない不幸な人達が大勢いる。
老人ホームのお年寄り達、都会の片隅で孤独死をする人達、ガード下のホームレス達、延命処置をされた病人達、
人種間の差別を受ける人達、未だ戦火が衰えない国の人達、飢餓でなくなるアフリカの子供達。
数限りない不幸が目の前には広がっている。

現代社会における典型的な苦しみは、
「俗物主義がつくりだす無責任な嘲笑に振り回されて、
不幸を感じその不幸の結果を全て自分の責任にしてしまうこと」である。

逃げ場を失った人達が行きつく先に辿りついた結果が自己反省など納得はできない。

幸福は分けあうところから始まっているのです。
笑顔を見るところから始まっているのです。

人工的な幸福を振りまく資本主義社会に踊らされては、本当の幸福を手に入れる事は出来ないのである。

辿る道

 

自ら選んだ道を探し出し、ただひたすらその道を歩き続ければ必ず目的地には到着をする。
しかし、その道は本当に自分が求めている道だろうか。

間違って砂漠で森を探している事になっていないだろうか。
山あいで海を探している事になっていないだろうか。
大空に城を築く事になっていないのだろうか。

辿る道を間違えれば目的の場所は永遠に見つからないのである。
冷静に判断をして、正しい辿る道を探さなければならないのである。
注意せず、あれやこれや気を多くしていると、辿る道をすべて見失ってしまうのである。

気が多いとは、小さな庭に沢山の果実の苗木を植える様なものである。

それぞれの苗木に適した環境も生育方法も実りの時期も知らないで、
ただ闇雲に植えただけでは苗木は枯れてしまうのである。

先ずは庭の土壌の質を知り、肥料を与え、害虫を殺して、苗木の管理をしなければ、
豊かな収穫には至らないのである。

たとえ気が多すぎて色々な果実の苗木を植えたとしても
少ない大地の滋養を奪い合い育たなくなるのである。

しかし選んだ場所が恵まれない環境で有ったとしても、
その道が果実に取って望む道で有れば本気で辿るしかない。
その為には、生育の正しい知識と正しい努力に基づいて行わなければならないのである。

そしてその努力には必ず光の活路が見えて来る筈である。
辿る道は「楽」をして通り過ぎる為の道では無い、

自分の夢を叶える為の「必要」な道であることが大切である。

ワインの専門用語に「テロワール」という言葉がある。

ワインの味や香りに深い影響を与える、その土地に由来するワインの特長をテロワールと呼ぶ。
このテロワールでは肥沃な土地より、
むしろ痩せた土地に育ったブドウの方が極上のワインになる事が多いと書かれている。

乏しい養分を求めてブドウの根は地中深くまで張り巡らされる。
その結果としてブドウは土壌中の様々な微量の元素を取り込み、
味や香りがより複雑で奥行きの有るものになるという分けである。

果実の苗木は大地を選ぶ事は出来ない。しかし持ち主は大地を選ぶ事が出来るのである。
環境に恵まれるという事は決して良好な場所だけにあるものでは無く、
その望むものに適した場所にあるという事である。

芳醇なワインを作るには大地と持ち主の知識に裏付けされることが多いのかもしれない。

自分に適した「辿る道」を探すのには大変な時間と苦労が伴います。
しかし道を探すのも選ぶのも自分で見つけなければなりません。

時間が掛ったとしても諦めずに学びながら、地道な努力の中でしか見つける事は出来ないのです。
理想を夢とせず現実を夢として歩み続けるしかないのです。

貴方が選ぶ辿る道が最悪な場所でも、努力次第では最高の場所にする事も出来るのです。

信念

 

ここに信念という名のボールがあります。

いつかは投げなければならないボールです。

もう迷いはありません。

いまからまっすぐにボールを投げます。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

最初は緩めにそして徐々に早くしていきます。

変化球は投げません。

自分のボールを受けとめてくれる未来へ、

ボールをまっすぐに投げます。

周りを気にせずに投げます。

魂のキャッチボールです。

だから変化球は投げません。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

いつかこのボールがもどるまで。

 

ここに信念という名のボールがあります。

いつかは投げなければならないボールです。

不器用だけれど大丈夫です。

力が足りないけれどまっすぐに投げます。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

左右バラバラの不揃いかもしれません。

届くまで投げ続けます。

自分のボールを受け止めてくれる貴方へ

ボールをまっすぐに投げます。

気取った言葉は言えないけれど気にせずに投げます。

飾りの無い本音のボールです。

だから直球しか投げる事ができません。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

いつか二人のグランドができるまで。

 

全てを受け入れる

 

竹筒に大きな石と小石と砂利を詰めて、
その間にシュロの葉や木炭を詰めれば即席のろ過装置が出来ます。
とても濁った水を入れてもその竹筒を通過すれば澄んだ飲み水になるのです。

自然の中には一切の無駄が無いのです。

捨てられている小石と葉っぱと炭でもひとつになると役立つ事が出来るのです。
動物も植物も鉱物も手を取り合って自然の調和が保たれるのです。

人間社会もこれと同じです。

同じタイプの人間だけを集めてグループを作ると、
一見まとまっているように見えるのですが、実はいざこざが絶えないのです。
それは同じタイプだと考え方や判断が一緒だからです。

考え方や判断が一緒だと、自分がやらなくても、誰かがやってくれているという、
他人本位の甘えが生じてくるのです。

結果、互いに何も発展が無いことからいざこざが起こるのです。
いざこざが起こると人間関係も隙間だらけになり、
その隙間から大切な物がどんどん流れ落ちて行ってしまうのです。

反対に違うタイプの人間同士だと一見バラバラの様に見えても、
バランスの取れた良い関係になるのです。
バランスの取れた良い関係とは、相手が気になる事でも自分は気にならないし、
自分が求める物でも相手には不要な物だったり、
やりたい仕事も遊びもぶっかり合う事が少ないという事です。

違うタイプの人間同士だと、考え方も判断も違うわけですから、
常に話し合いが生まれて共存の意識が生まれて来るのです。

しっかりとした人間関係では、隙間が少ないので大切な物がゆっくりと流れます。
たとえいざこざや問題があったとしても、多くの人間関係を通過することで,
いつのまにか解決しているのです。

川の水は雨が森や山に降り注ぎ、枯れ木や木の葉が落ちた大地に沁み込み、
岩の隙間から湧水となって一筋の流れになるのです。

川は自然界に存在するあらゆるものに触れて、全ての生物の命の恵みとなるのです。
湧き水から川になり大海原までの長い旅で多くの埃や塵や汚れを含んでしまいます。

しかしいついかなる時にでも母なる海が全てを浄化してくれるのです。
全てを受け入れることの大切さが、自然界では当たり前のように行われているのです。

そしてまた海水が蒸発して雨となり山々に降り注ぐのです。

思い通りに進まない人生では、悲しみも,喜びも,憎しみも,憐れみも,
全てが混ざり合っています。

しかし愛というろ過装置があるから少しずつ幸福が滴り落ちて来るのです。

希望という小石を一杯詰め込んで、不幸を避けるのではなく不幸も受け入れて、
ゆっくりとろ過すればすれば甘露な水になるのです。

天台宗大阿闍梨酒井雄哉は「ムダなことなどひとつもない」と言う本の中で、
「どろどろに汚れた友禅だって、川にポンと置いたら水にさらされて、
泥がいつの間にか消えちゃってきれいになる。

それと同じで、人間も、清流の流れの中にじっとしていたら、いつの間にか清い状態になってくる。
そういう、自然の原理やリズム中心にものを考えたら、うまくいくんとちがうかな。」

自然の原理やリズムを中心に考えるという事がとても大切です。

全てを受け入れていれば、汚れた人生も美しい清流のような人生になるということです。

芸術家

 

本来芸術家は大自然を崇拝して何も無い空間に音や映像を描き出すのである。
その表現方法は色彩を通して旋律を通して形状を通して行うのが常である。

隠された景色の中に、隠された動作の中に、隠された物象の中に、見えないものを見て、
聞こえない音を聴いて、一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

モーツワルトは父親にあてた手紙の中で
「自分は音楽家だから、思想や感情を、音を使ってしか表現できない」と伝えている。

モーツワルトは幼児期の頃より多動性症候群とてんかんの病で苦しんでいた。
彼は言葉や文字を使って意志の伝達をするよりは、ピアノを弾き音色を通じての方が
コミュニケーションを図り易かったのかもしれない。

ロダンはゴシック建築を見て「真の芸術家は創造の原始的原理に透徹しなければならぬ。

美しきものを会得する事によってのみ彼等は霊感を得る。
決して彼等の感受性の出し抜けな目覚めからではなく、のろくさい洞察と理解とにより
辛抱強い愛によって得るのである。心は敏捷であるに及ばぬ。
なぜといえばのろい進歩はあるゆる方面に念を押す事になるからである。」

また若き芸術家たちに「芸術は感情に外ならない。しかし量と、比例と、色彩との知識なく、
手の巧みなしには、きわめて鋭い感情も麻痺されます。

そして最も偉大な詩人でも言葉を知らない外国ではどうなるでしょう。

新時代の芸術家の中には、不幸にも、言語を学ぶ事を拒絶する多くの詩人があります。
やはり彼等も口ごもるより外にはありません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志だけです。

芸術は内の真実があってこそ始まります。
すべての君たちの形、すべての君たちの色彩をして感情を訳出せしめよ」と言っている。

小林秀雄の文章の中にも「ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼んでいる。
彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙って悲惨に言葉を与え、
苛まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた。

「隠された苦痛、慰めのない理解、打ち明けぬ告別のおどおどしたまなざし、
そんな音楽にもならぬものまで音楽にする才を持っていた。」

「実な微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲動物的天性の鱗屑」を表現した巨匠であると言っている。

又小林秀雄は、詩人に対して「人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。
対象の世界はいくらでも拡がります。観察している当人の主観と言えば、これ又心理学の発達により、
心理的世界と云う対象に変じます。

観察の赴くところ、すべてのものが外的事物と変ずる、
作者は圧し潰して中味を出そうにも、中味が見当たらなくなる。
極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となる。
こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリズムの小説とかレアリズムの小説とかだと考えると、
そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異なっている事に気付く筈です。

詩人は、ワグネルが音楽を音の行為、混然とした音の塊Tatと感じたように、
言葉を感覚的実体と感じ、その調整された運動が即ち詩というものだと感じている。」

芸術家にも様々な分野と形がある。

理屈なしの才能と才能があるから偏る才能がある。
真の芸術家は表現が卓越しているだけでは無く独特の個性があるから評価されるのである。

一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

私は「私の幼児期の体験により脳内に眠る記憶がよみがえり、
その力を通じて他人とは違う創造物を創り出す事が出来た。
自らの苦悩を取り除くために、また依頼者の虚栄と満足を叶える為に、
絵や音楽や芝居が必要であった。」

それが私と云う人間の存在の証でもあった。

プロデューサーや演出家は芸術家と違って個人の記憶と体験で想像力を働かせる仕事である。

「私は、ある体験をした。私は、あるものを見た。私は、あることに耐えて生き延びた。
そして、その事が私にとって重大だったように、あなたに、とっても重大なことかどうか知りたい。」
ぞれの芸術作品をとうして、これを観客に問うているもの。

「芸術家の使命は人間の心の奥底に光明を与えることである」 シューマン