曖昧

 

日本語には曖昧な表現が多い。

過酷な自然環境の中で生きて来た日本人にとって表現は常に曖昧になる。
雨を恵みと感じる人も、雨が災害のもとと感じる人もいる。
同様に晴天を喜ぶ人も、日照りの元凶と恨む人もいる。
露骨に喜びや悲しみを表現するのではなく曖昧な言葉で挨拶を交わす。

曖昧という字は日が雲に包まれて暗いさま、はっきりけじめがつかないさまを言う。

白黒つけるとどちらかが傷つくので灰色の答えを出す。
曖昧はおもいやりの表現として使われる事が多い。

日本人同士だと「言わなくてもわかりますよね」が通じてしまう。
日本人の好きな言葉「空気を読め」で静まり返る。

茶道でも華道でも想像の世界で天地人・侘び寂びを表現する。
言葉や文字よりも直接的では無いので受け取り方は千差万別である。

しかしその曖昧さで日本独特の文化芸術を創作して来たのも事実である。

創作者は作品を提供し客は作品を評価する。
客は作品の内面まで入り込んで初めて粋人と評価を受ける。

日本人には「あわせ・きそい・そろい・かさね」という発想方法がある。
平安期に流行した、歌合わせや貝合わせや前栽合わせの「あわせ」である。

合わせながら競い合うのである。競い合うから勝ち負けが出る。「きそい」である。
だからと言って勝ちが残って負けが消えていくということではない。
その負けを含めて最後に「そろい」が用意されて出揃っていく。

ここでも曖昧な感覚が重要視されるのである。

これ等に合わせてもう一つ「かさね」が加わることもある。
「かさね」は十二単などでの「色目かさね」といって重ね着をさせることである。

しかし単なる重ね着ではなくて、重ねた縁の色が短冊のように
ずらりと見えるところを演出しているのです。

そして「かさね」の手法はいろいろなところで工夫されています。
その代表格が正月の料理を入れる重箱です。
その中に入るおせち料理がそうですが「あわせ・きそい・そろい」の趣向が凝らされているのです。

まとめると「あわせ・きそい・そろい・かさね」となります。

これ等は江戸箪笥や菱餅などにも応用されているのです。
松岡正剛「フライジャイルな闘い」より抜粋

人々の挨拶にも曖昧さは擬音語で登場します。

「元気!」「ぼちぼち」「大丈夫!」「まあまあ」「天気もつかな!」「そろそろ」

京言葉には「どす」「やす」「はる」というのがあります。
京言葉が曖昧な言葉とされるのは、武士の言葉も、花町の言葉も
各地から集まる商人の言葉も、地元の言葉も取り入れた中で、はっきりと表現するよりは
曖昧な感じで摩擦を起こさない様にする為に生まれたのかもしれません。

辞退するときの「おおきに」「考えときまっき」も勧めて来た相手の気持ちを敬って曖昧にするのである。

個人的には京言葉のイントネーションが好きです。
曖昧な中に人の気持ちをはぐらかせるような抑揚感が気分をまったりとさせてくれます。

京言葉は江戸の郭の言葉に似ているかもしれません。

郭の言葉は出身地を隠す為に郭の中だけに通用する女言葉なのです。
「ありんす」「ざんす」「ござんしょ」等は店ごとに使われていた言葉なのです。
現代のギャル語や萌え語に相当するのかもしれません。

ここにも「あわせ・きそい・そろい」の精神が活かされている気がします。

最後に私の大好きな言葉があります。

万葉集137段「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは、
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情け深し」

花は満開よりも月は満月よりも、雨の中の見えない月や部屋の奥より春が過ぎるのを
感じる方が情緒深くて良いでしょう。

この曖昧さが分かるのは日本人だけだと思います。

この曖昧さに万歳です。