江戸の文化は中国明の文化




江戸のよもや話Vol1

明の禅宗開祖黄檗宗が徳川幕府から呼ばれて土木から上下水道などの知識を与えた。
漢字文化もお茶の文化も医療文化も数々の功績を残し日本の発展に尽くした。

孫文は京都大学で学び日本製の漢字2700ケを持ち帰った。
ちなみに我々が普段使っている明朝体の文字は書いて字の如し、
明から入って来た文字である。
原稿用紙も黄檗の経典を書き写すものとしてあのマス目が使われていた。

中国では明が滅び新しく漢が制定され漢字が生まれた。
日本へ入って来て今もよく使われる漢民族の文字「漢字」
「好漢、酔漢、悪漢、暴漢、巨漢、痴漢、無頼漢、冷血漢」など
漢という文字は男性を表す文字である。

また明治維新は「明が治める新しい時代」になるという革命である。

日本製の豆腐と納豆の漢字の誤解がそのまま中国へ伝わり今も使われている。
(一説では孫文が京都大学んでいる際に解釈を間違えて持って帰ったという)

天麩羅も然り、我々はポルトガルから入って来たと学んだが、
中国にも昔から野菜のかき揚げボールのような料理や、
里芋に衣をつけて揚げたものがある。中国から入ってきた可能性もある。

江戸の屋台といえば蕎麦と寿司と天麩羅の3つが主流で屋台の「暖簾が汚れている」
店は繁盛店として人気があった。
(元々暖簾は客が食事後に手を拭くために掛けてあった)

縁日の参道にずらっと並んだ風鈴売りや金魚売りはお祭りの人気店で繁盛していた。

そして江戸の金持ちが狂ったように手に入れたいと思ったのが、
朝顔の品種と種である。
自分たちの家・屋敷と交換しても手に入れたい代物だったらしい。

それらの種がオランダに渡りチューリップに改良されたのである。
投機としてのチューリップは瞬く間に世界中に広がって行った。

お茶の歴史は煎茶、抹茶、プーアール茶、ウーロン茶などがあるが、
もともとは漢方薬の医療品として重宝されたのである。

中国の古典「三国志」の戦いはお茶の葉を争奪する戦いであったともいう。

日本人の好きな抹茶は遠くにいる友人にお茶を固めて送り、
それを削って飲んでいた粉茶である。
プーアール茶のように発酵して固めたお茶は腐敗しにくいので重宝された。

9世紀になり仏教学者・最澄と空海が中国に訪れた際にお茶の葉と種を持ち帰ってきた。
これが日本で初めてのお茶の輸入であったと言われている。

紅茶は中国からヨーロッパへ船で輸送中に船底に詰めていたお茶が発酵してうまれた。
英国に着いた時に最初に港湾労働者が飲んだという。

まさしく紅茶の発祥やコーヒーの発祥も偶然から生まれた産物である。
ブランデーも修道院が火事になりワイン貯蔵庫の燃えた樽の中にあった
焦げたワインを飲んだら美味しかったので後にブランデーとして売られた。

13世紀に入って今のコーヒーの飲み方になったのは、偶然起きた何らかの火事で
豆が焼かれたときに出た芳香がきっかけとなって飲まれたと言われている。
それまでは生の赤い実を修道士たちが眠気覚ましとして服用していた

いずれの国でも昔の趣向品は修道院やお寺で管理するのが決まりであった。
秩序ある人たちが管理しなければ麻薬と同じように法外な値段で取引が行われ
犯罪の道具として使われる恐れがあるからである。

もう一つ日本のお寺には過去帳(戸籍)の管理もあった。
出生届、死亡届、転居届などの管理していた。現在の役所のような役割であった。
寺は病院として心と体の悩み事などの相談もうけていた。
その時にもお茶が薬として用いられた。鎮静剤として使われていたのではないだろうかか。

江戸のよもや話Vol2

先代の話は正倉院の話、大英帝国の話、日本の美術工芸品の話など話題は尽きない。
知れば知るほど歴史に興味がわく。

お茶関係の名品(茶器・掛け軸など)は茶の本家に集まる話も面白い。
名品は所有者が手放す時、礼状を添えて無料で本家へお返しする習わしがある。

大英博物館は泥棒の戦利品が集まっている場所、英国本来の歴史的な美術品は無い、
世界各地から奪ってきた金品、財宝、ミイラまでバイキングの展示会場である。
さしずめ王室は泥棒の親玉である。

祇園祭の時、町屋では「見せ間」と言って個人所有の名品を表に並べて、
見ていただいたという。その中でも礼儀を知っている人には触ることも許したという。
本物は触らなければ分からない。茶器は肘を膝につけて見るのが習わしである。

寺子屋はお寺が無料で運営していた施設である。
そのために賭場を開き場所代(ショバ代)を頂いていた。それを「寺銭」という。
そして戻し金と合わせて売り上げの2割~3割を徴収!する。
お金の管理は寺側が行なっていた。教育と共に医療行為も無料で行っていた。

江戸の火消しは放火犯だった。
疫病防止の策として患者が住んでいた場所を燃やすのが最良の方法として考えていた。
また飛び火による延焼を防ぐために火をつけていたともいう。
火消は火をつけて屋根に上がり纏いを振り回して風を起こしていた。

江戸時代は孤食の時代である。
いわゆる一人一人がそれぞれのお膳で食べる事を習わしとした。
主人の膳、次の間に長男の膳、奥方と娘の膳は台所で黙って食べることが普通であった。
風邪などのウイルス感染の予防も兼ねていたのかもしれない。
当時は現代のように一日三食ではなく二食が一般的であった。

天才浮世絵師若冲の作品は座敷に燭台を置いてみるのが良い。
少し閉じた襖に描かれた鶏の絵がローソクの明かりによって動いて見えるという。
風流の極みである。黄檗が若冲のパトロンであったという説もある。

南天(解毒作用)の木は何故厠(トイレ)の側に植えたのか?
要人は食事中に毒を盛られることが多いので、
咄嗟の場合に南天を口に含み厠で吐き出すためである。

金魚の出目金は何故目が頭についているかというと、
壺の中で飼われているので上を見るしかなかった。
それで目がドンドン頭に近づき今の状態になった。
頭部に目が付いている出目金ほど高値で取引されたらしい。

以上は煎茶道黄檗売茶流家元「中澤弘幸」氏の講話を聴き脚色しました。
このような雑談の話も知ることにより会話が楽しくなります。

美しい文章




美しい文章を書く機会が少なくなりました。
手紙を書かなくなってから素敵な漢字が頭に浮かびません。

美しい文章には趣のある漢字を使わなければなりません。
私の好きな美しい文章は、特に自然をモチーフにしている場合が多いように思われます。

万葉集では「万葉集表現方法」というのがあります。
寄物陳思(きぶつちんし)恋の感情を自然のものに例えて表現
正述心緒(せいじゅつしんしょ)感情を直接的に表現
詠物歌(えいぶつか)季節の風物を詠む
譬喩歌(ひゆか)自分の思いを物に託して表現

人の考え方や感情を直接的に表現するよりも、自然界の花鳥風月で比喩されると、
文章に温かみや膨らみが感じられてとても癒やされます。

パソコンのなかった時代では辞書を片手に一文字一文字丁寧に調べながら書きました。
お手本として尊敬する作家の文体を真似たり、大好きな詩人の言葉を引用したり、
俳句や短歌からも時節の言葉を借用したりして夜通し悩みながら書いたものです。

同じ文でも引用する漢字によって文章が見違えるほど説得力を増します。
私は未だ散文のような文章しか書けませんが、常々美しい文章を書く努力をしています。

私が目指す美しい文章とは「音楽のような文章」です。
音楽の三要素は、「リズム・メロディ・ハーモニー」
この三つの調和がとれた流れが「美しい」音楽となるように、
文章も、この三つが整うと「美しい」・「流れるような」文章になるのです。

音楽プロデューサーの書く文章ですから、
スムーズに流れるような読みやすい文章になるように心がけています。

先ずはタイトル(表題)を決めます。
楽曲のタイトルと同じように重要なポイントになります。
タイトルは読み手が読みたくなるようなタイトルでなくてはなりません。

私がレコード大賞作詞大賞でいただいた河合その子「涙のジャスミンLOVE」は
香港を舞台とした失恋ソングです。

ジャスミン(茉莉花茶)を入れることによって中国のイメージを出しました。

そして核となる文体を決めます。
タイトルの意味が伝わるようなリズミカルな流れを構成します。
言いたいことを最初に持ってくるか、盛り上がるサビの部分に持ってくるか、
それともエンディングに持ってくるかを考えます。

「涙のジャスミンLOVE」ではイントロの部分はスローテンポで入り、
歌詞も、
「このまま瞳を閉じてあなたと(二人で)Fall in love Again 
黄昏くれるAh Ah 異国の丘の上で」と続いて本編でテンポをあげて
丘の上から車で降りて来るスピード感を取り入れました。

次に流れるようなメロディー(主題)を書き込んでいきます。
ひとつの文章が長くなると読む方は辛くなります。
音楽の詩のように歯切れの良い長さで調整します。
歌詞を書く時には体言止めの手法をよく使います。
また末尾の言葉を同じ韻で止めるとテンポ感が出て来ます。

E-ZEE BAD「悲しみのLOVE TRAIN」という曲では、くの体言止めで印象を残しました。
悲しみのLove Train Love Train 遠く
走り出したこの愛は君へと続く
逃げ込んだ夢までが崩れてく
ささやかな愛でも君が欲しい
誰に笑われようが構わない
出口のない迷路は君に向かう

最後に読者が共感するハーモニー(和音)を決めます。
歌の世界で云うとコーラス(合唱大サビ)の部分です。
調和の取れた音同士を選ばなければなりません。

時代にあった言葉をはめ込むことが多くの人の共感を得られます。
分かりやすくて口ずさみたくなるような調和の取れた言葉です。
美しい文章を作るためには、美しいハーモニーが必要になるのです。

久保田利伸「失意のダウンタウン」では黒人音楽を伝えるために、
Shine on my Shine on my dangerous road
Drive on my way keep on my own
Shine on my Shine on my wonderous future
With all my conscious response
夜を超えていくのさ 流星のサドルで
ゴールなんてなくていいのさ 星をつかもう

英語の歌詞と印象に残る「流星のサドル」が功を奏して一躍大ヒットとなりました。

先日、友人から「ある文章」に対して過分なお褒め言葉を頂きました。
私の書いた拙い文章に最大の賛辞をいただけたのです。

皆様はこの言葉(表現)を知っていましたか?

「錦心繍口」
きんしんしゅうこうと読みます。

唐代の詩人・柳宗元(りゅうそうげん)による『乞巧文(きっこうぶん)』
を出典とします。その意味は、詩文の才能に優れている例えで、
美しく優れた思いと言葉を操る文筆家への讃辞といったところでしょうか。

「錦心(きんしん)」は錦のように美しい思いや心を意味し、
「繍口(しゅうこう)」は刺繍のように美しい言葉を指します。

このような言葉を知っているだけで良き文章が書きたくなります。

如何だったでしょうか?
今回の文章は読みやすくて意味が伝わる内容だったでしょうか?
美しいハーモニーやコーラスが聞こえて来たでしょうか?
これからも素敵な「美しい文章」を書けるように精進します。

好奇心と猜疑心




好奇心とは、新しい情報や知識を求める強い欲求や興味のことを指します。
好奇心のある人は、世界や周囲のことに対して積極的に問いを投げかけ、
探究し、理解しようとする傾向があります。
この欲求は、新しい発見や学習を通じて満足感や喜びを得ることがあります。
好奇心は創造性を刺激し、成長や発展の機会を提供する
重要な要素とされています。

猜疑心とは、他人や状況に対して疑念や不信感を抱く心の状態を指します。
猜疑心のある人は、他人の意図や行動に対して常に疑念を抱いたり、
信頼しにくいと感じたりする傾向があります。
これは時に過度の不信感や疑心暗鬼によって人間関係のコミュニケーションが
影響を受けることがあります。
適度な猜疑心は自己保護や慎重さの側面を持つことがありますが、
過剰な猜疑心は人間関係や健康に悪影響を及ぼすことがあります。

好奇心と猜疑心は一般的な感情や心理的な側面です。
好奇心は新しいことを学びたいという健康的な欲求を表しており、
知識を深めたり新しい経験を積むのに役立ちます。
一方、猜疑心は状況を慎重に評価し、自己保護や冷静な判断を支援する
役割を果たします。ただし、これらの感情が過度に強い場合や、
日常生活に支障をきたす場合は、専門家と話をすることを検討することが
大切です。バランスの取れた感情の経験が良好な心理的健康の一環と言えます。

皆様お分かりになりましたでしょうか?
ここまでの文章はCHATGPTが作成したものです。

CHATGPTで「好奇心」と「猜疑心」を検索して、その後に「好奇心と猜疑心」
の組み合わせで検索すると以上のような文章が出てきます。

何度も使っていると自分用にカスタマイズされてどんどん進化するのです。

今までは知りたい事は教師に尋ねたり、辞書で調べたり、専門家に聞いたりしていた
ことが、その努力も必要が無くなり一瞬にして文章が手に入ってしまうのです。

難しい宗教の本や哲学の本、芸術や科学に関する専門書なども
徹夜して覚える必要がなくなるのです。

そしてその内容を精査することも無く、実体験することも無く、反芻することも無く、
そのまま自分の知識として使うと大きな危険を招く恐れがあります。

それは真実を知らないのに真実のように使うと人間性が失われるということです。
卒業論文や研究論文、企画書や提案書までもCHATGPTで作成すると、
種明かしをしたマジシャンのようになるということです。

人間としての本質や特質が表現されずに、言葉だけが先行する恐れがあります。
多少、理論的には理解されても説得力や人間性まで伝わるわけではありません。

ゴルフ場へ行きラウンドせずにゴルフゲームで勝敗を決めたらどうなるのでしょうか?
AI相手にチェスや将棋をしても勝っても負けても観客は喜ぶのでしょうか?

科学の進化は丸呑みするだけではなく程よい距離を置くことが重要です。

好奇心も猜疑心もバランスよく取り入れれば正しい判断が出来ます。
未だ本格的に学ぶことを知らない人がCHATGPTで手に入れた文章を使うと、
物知りだと誤解されて質問があった時にどうするのだろうかと心配します。

将来は電子翻訳機と同じようにCHATGPTも瞬時に声となり
プロとしての会話を始めるようになると思います。

自分の人格を飛び越えて無機質な意思伝達のみになるのではないかと危惧します。

未来の人類の仕事はマニュアルを覚えて機材を使いこなすだけになります。
品質管理も生産性も在庫管理も作業員は必要なくなります。
スイッチ操作の速いものは優秀で操作の遅いものは無能とされます。
果たしてそれで良いのでしょうか?

人は恩から始まり、恩で終わります。
優しさや気遣いなどの思いやりはどこに行ってしまうのでしょうか?
無能と言われても不器用な人間として「心」を失わないようにしましょう。

音楽と哲学「革命意識」




音楽とは何ですか?
音楽は、音の要素を組み合わせて作られる芸術形式です。音楽はリズム、メロディー、
ハーモニー、テクスチャなどの要素を使用して構築され、
感情の情報を伝えるために用いられます。
音楽は文化や時代によって異なるスタイルやジャンルに分けられ、
歌唱や楽器演奏、電子音楽などさまざまな形態で表現されます。
人々は音楽を楽しむだけでなく、社会的なイベントや文化的な儀式、
個人的な表現などで広く活用しています。CHATGPTより

哲学とは何ですか?
哲学は、根本的な問いに対する探求や考察を通じて、現実、知識、存在、倫理、道徳、
真理などの広範な主題について深く考える学問や思考の領域です。
哲学は、抽象的な概念や原則に関する理論的な考察や論理的な分析を行い、
深い洞察力を得るために使用されます。主要な哲学的な問いには、
「何が真実か?」「善いとは何か?」「人間の存在の意味は何か?」などが含まれます。

哲学は、人間の思考や価値観を探求するための重要な方法論となっています。
CHATGPTより

学校では形通りの理屈・理論ばかりの授業で本当に聞きたいことは教えてくれません。
自分がやりたいこと、自分がワクワクすること、自分が夢中になれることは、
受験に影響するから差し控えるようにと、教師からも両親からも言われてしまうでしょう。

小中高・大学合わせて16年間学んだことがGOOGLEBARDやCHATGPTで
検索すると一瞬にして答えが文章として出てきてしまう。
徹夜で覚えた難解な方程式や文法は何の意味があったのだろうか?

それならば子供の時から好奇心を持ったことの学びを追求した方が、
世の中に役立つことが多いのでは無いでしょうか?

先人たちを追い抜くことが成功の早道と教えられても、
AI時代の我々の役目は何だろうと疑問を持つべきです。

あなたたちは日本の教育の枠組みからはみ出して自由な学びを勝ち取る世代です。
畏れることはありません。老朽化したレールの上を歩き続けても得るものはありません。
しかし目の前の大自然から学ぶことは多くあります。

そして耳をすませば様々な音楽が聞こえてきます。
あなたたちの脳や心がトキメキを求めているのです。
自分の得意なことを活かしてこの国を変えていきましょう。
「革命意識」を持ちましょう。

「夢や希望は必要ですか?」

将来の話になるといつも夢はありますか、希望のある生き方をしていますか、
と言われますが、一体夢とは何ですか?希望とは何ですか?
それが無いと生きていけないのですか?

AIの時代にも夢や希望は必要ですか?誰も教えてくれません。
「夢中説無」夢の中で夢のようなことをいう。
本来は夢であっても目の前にあればそれに向かって真剣勝負で取り組めというのだ。

現実に生きている今を大切にすることが一番大事な気がする。

パンクバンド・ブルーハーツの「夕暮れ」
幻なんかじゃない、人生は夢なんかじゃない、僕たちははっきりと生きているんだ。

道元禅師辞世の句「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり」

ブルーハーツの「キスしてほしい」
はちきれそうだ、飛び出しそうだ、生きているのが素晴らしすぎる。

凄いお坊さんが言っていることもブルーハーツが言っていることも同じなのだ。
難しいことなど一切言っていないのだ。

好きなことをやって良いんだよ。ワクワクする人生を歩んで良いんだよ。
個性を大切にしなさいと言われながら、
社会や会社では決められたルールの中を生きていかなければならない。

同調圧力がある中で自由とか希望とかは詭弁にしか聞こえてこない。
世界中が戦争や天候異変や不景気で大変だから我慢することが当たり前になっている。
それでも僕らは夢や希望を持たなければならないのですか?

大人はいつも将来の計画はあるのかと聞くけど、
がんばって学校の勉強をしても幸福は約束されるのでしょうか?

誰からもワクワクドキドキするような提案もなく、毎日SNSやニュースで流れてくる
情報は、コロナの後遺症やウクライナの戦争や、この国は中国に乗っ取られるか、
不況により経済的に破綻すると言われて、我々は何を計画するのですか?

それらに対して大人たちは何も行動を起こさないのですか?

コロナから社会全体に同調圧力がまん延して、マスクをしなければワクチンを
打たなければ仲間外れ的な雰囲気で将来の計画を立てろと言われても無理な話です。

物価高、保育園問題、教育費、親の介護などを考えると結婚すら出来ない状況になる。
自立できるほどの能力と行動力がある人は問題ないでしょうが、
多くの人はそれが出来ない人です。

頑張っている人の話ばかりで基準を決めないでほしいです。
スポーツが上手で勉強も出来てかっこよい人などそんなにいるわけじゃないのに、
そんな人を目標にしても現実味が感じられないのです。

これから「老人と孫」のテーマとして話し合います。

ジレンマ




ジレンマとは二つの相反する事柄の板挟みになること。
AとBどちらかを選択しなければならないのだが、どちらを選んでも不利益が出る。

英語表記「dilemma」と書きます。「di」は二つという意味を持ち、二重の問題や、
二つの仮設といった意味を持ちます。

「二方からの相容れない要求によって身動きが取れない」といった表現で言い表される
ような状態のこと、「抜き差しならない羽目」と言った翻訳もされる。

仏教的運命の解釈で述べると、

生きるとは死と隣り合わせである。
では死と隣り合わせなのに何故生きるのか?

4苦「生老病死」しょうろうびょうし
「生」まれて、「老」いて、「病」気になり、「死」が訪れる

8苦「四苦八苦」
「愛別離苦」(あいべつりく)大切な愛すべき人といつかは離れなければならない苦しみ
「怨憎会苦」(おんぞうえく)大嫌いな人と顔を見たくない人でも出会ってしまう苦しみ
「求不得苦」(ぐふとっく)求めているものごとが手に入らない苦しみ
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)自分の身体や自分のこころすら思い通りにならない苦しみ

仏教では、この四苦八苦は人間が生きている上では避けては通れない、
根源的な(苦)として表します。

なぜ避けては通れない苦しみがあるのに人は生きることに悩むのだろうか?
知ってしまったから悩むのか、知らなければ悩まないのか、ジレンマに陥ります。

苦労して死に向かって生きるのであれば生きる喜びはどこにあるのだろうか?

学問を追求して真理に近づいたとしても「悟り」は得られるのだろうか?
個人の財産をいくら増やしても絶対的な「満足」は得られるのだろうか?

政府の言いなりになってワクチンを何度も打ったが「安全」は得られるのだろうか?
環境問題は気になるが生活スタイルは変えないで「責任」を果たせるのだろうか?

社会のゆがみ(常識)から判断するから目に映るものにしか意識が向かない。
自分の意識を内面(心)に合わせれば答えはおのずからと見えて来る。

Aだから良いという考えではなく、Bにも良いところがあると分かれば、
不利益が出たとしても、どちらかを選択すれば悩まないのである。

もしCという仮説を立てたときにはどうなるのだろうか。

帰納法的考えで行くと人は必ず死ぬ。死ぬから人なのだ。だから死を学ぶ必要がある。
演繹法なら死があるから生きる。生きるから死がある。だから生きていく。

そして自分の悩みの解決方法は自分の経験からしか見つかりません。
他人からいくらアドバイスを聞いたとしても経験がなければ理解が出来ません。

我々は普通の人間だから「喜怒哀楽」から「死」を追求するしかないのです。

デジタル社会の仮想体験はエンターテインメントでは通用しても現実では通用しません。
意識の中の感情で興奮を作れたとしても脳や身体には響かないのです。

仮想よりも実感する痛みや苦しみや涙の感情が大切です。体力と病気の関係も大切です。
悩みの根元は全て仏教の世界「四苦八苦」で表現されています。

頭の中=心の中いわゆる精神が病気の大本(おおもと)です。
人の一生にある運命を信じないからジレンマが起こるのです。

仕事と学び、学びと実践、実践と成果、成果と評価、身体と精神、成功と敗北、
その間に存在する思考の「原因」を突き詰めて考える必要があります。

人生は多くの人が同意する理屈・理論通りに動いてくれません。
心の中に秘めた自分自身の夢を描いてまっすぐ進むことが大切です。

ジレンマに陥っている場合はまだ時間の余裕がある証拠です。

帝王学では賢者は歴史から学べと言われています。
「賢者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ」ビスマルク(独)
歴史から学ぶか経験から学ぶかジレンマに陥ります。

残念ですが我々のような凡人は経験から学ばなければなりません。

枝の多い木は少しの風にも揺れる




一瞬の出会いで感動して涙する。多くの人にそれを伝える。
一瞬の不信で絶望して攻撃する。多くの人にそれを伝える。
一瞬の別離で自分を正当化する。多くの人にそれを伝える。

SNS上には真実と嘘が混在する。妬み、中傷、批判、諍いなどが氾濫する。
しかし自分が正しいという思い込みから、他人を攻撃して良いのだろうか?
目の前にいない人に向かって勝手に毒をまき散らしても良いのだろうか?
ネットいじめは決して許されぬ行為である。

自分勝手な思い込みの正義感で執拗に追い込んでいくことに怒りを覚える。

「小人閑居して不善をなす」礼記・大学

働く意欲も働く場所もなく少年少女たちが犯罪に手を染めてしまう。
不当な収入でももらえれば嬉しくて大騒ぎをしてしまう。
振り込み詐欺や闇バイトの連中もこの手の類である。

この国が若者たちを無気力にしてしまう。
努力する者を評価しなくて、結果だけで判断するから、益々無気力になる。
メディアは世界中が大変だと言いながら、合間に流れるCMは浮かれ過ぎである。
だから危機感が薄れて短絡的な若者が増えるのである。

子供の時から情報操作の中で生きているから真実を見つけられない。
大人としての自立が遅いから即断力に欠けてしまう。
心の中に悩みの枝が多いから少しの風にも動揺してしまう。

将来の夢を描けないから木(本気)が育たず気移りの枝ばかりになる。
社会はそんな若者達に税金と称して少ない収入をむしり取る。
結婚も出来ない、家族も持てない、高齢者の面倒をみろでは負担が多すぎる。
若者たちはこの国に対して夢が持てなくて反発精神だけが育ってしまう。

枝の多い木(気)は少しの風にも揺れる。

お大人も子供も他人の考えを持ちだして説教じみた話にすり変える。
SNSの発信者のつぶやきに反応するだけでは何も結論は出ない。
現実に在る事実を無視して無駄な時間のシェアーをする。

見知らぬ人からの「いいね」で安心する。お返しに「いいね」を押し続ける。
不幸な出来事にも「いいね」で反応する。「いいね」が「どうでもいいね」に変化する。
愚痴には同意するが、成功には攻撃をする風潮がまん延する。

「少し波がある方が海はきれいに見える」

子供達は日々の出来事を母親に伝える。

子供が枝にとまるカブトムシを発見する。
夢にまで見たカブトムシが目の前にある。
生まれて初めての興奮の絶頂を味わう。

子供は両親に発見した時から捕獲するまでの状況を事細かく説明をする。
親が言葉で反応すれば子供は嬉しくて大騒ぎをする。

新しい友達、新しい遊び、新しい出来事、宿題や塾での報告なども同じである。
親は聞きながら頷き、少しの助言を与える。時には修正も加える。

子供は学校という社会の中で波風を受けて成長する。

友達の悪口やいじめの問題、学校の対応や先生の考えも、両親に話をする。
子供達は怒り涙して苦しみながら成長する。

両親として大切なことは全てを同調する事ではなく見守る事である。
子供の苦しみや悩みを側に居て聞いて感じてやることである。

「親」という文字はナイフの刃先が顔に当たるぐらいの距離という文字である。
「親」は子供の悩みを分かち合い痛みをじかに感じる距離に居なければならない。

時には子供の感情に同調するだけでは無く、秩序・法律・常識・恥・志を教え、
社会の決まりを通して大人として助言すべきである。
感情に左右されずに冷静に判断して助言すべきである。

自分の感情を表に出して自己説明に徹底してしまうと人は聞かないものである。
誰しもが悩み問題を抱えている。確固たる理由がなければ助言はすべきでない。

信念とはそんなに簡単に揺らいではならないのである。
少しの風で揺れる人はリーダーに向いていない。

韓国の友人が教えてくれた二つの教訓、
「枝の多い木は少しの風にも揺れる」
「少し波がある方が海はきれいに見える」。

人は人生の中でさまざまな問題を抱えて悩むのです。
心の中の木が育たず枝が多くなると少しの風にも反応してしまいます。
他人の言動にすぐに反応して左右に揺れ動くことのない人生を送ってください。
落ち着いて生きてくださいという意味だそうです。

そしてもう一つは、
誰しもが波乱の人生よりは穏やかな人生を望むのですが、何もない穏やかな海で
過ごすより、少し波がある方がきっと楽しい人生を送ることが出来ますよ。
という激励の意味だそうです。

感謝・合掌

迷い道くねくね




人生において度々進路が見えなくなります。

自分なりの強い意識を持って挑戦するのですが、
求める先が見えないのに答えを出さなければならないのです。

人生の長さを考えれば常に限界の先を目指して突き進むしかないのです。


「うを(魚)水をいくに、ゆけども水のき(際)はなく、
鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのき(際」はなし、
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。」
「正法眼蔵隋文記」道元

魚は泳げども、泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。
鳥は飛べども、飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。
いずれも究極まで行こうとするのでなく、その都度必要なだけ進むにすぎない。

限界を目指して修行は行われるが、限界の先に到達した人は少ない。
悟りを得た修行僧も、その限界の先を何度も挑戦するが行きつくことは無い。
その都度己の必要な分だけ前へ進めば良いのである。

「百尺の竿頭にまだ一歩先を進めず」道元

人間はおろかである。究極の先には何もないことを知りながら前へ進もうとする。
しかし先に行くことを恐れる者には「悟り」は存在しない。

般若心境に書かれている「色即是空・空即是色」そこにすべては無い、
しかしそこに全てが存在する。存在とは誤認識の中の錯覚であり、
ミクロまでたどり着けばそこには何も存在しないのである。

視覚で捉えた世界を在ると信じるのは間違いである。

目標をライバルにしてしまうと目的が見えなくなる。
同じポジションにいるから同等だと勘違いをして後れを取ることが多い。
ライバルが先を行くことになると目線の中では自分の方が先に行っている勘違いが起こる。

そして気のゆるみから大きく後れを取ってしまうことがある。
目的が明確でないと常に目標に気が取られてしまう。

「人、舟に乗りてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、
身心を乱想して万法を肯するには、自心自性常住なるかとあやまる。」

例えば船に乗っていて岸辺を見たら、岸が動いているように見える。
しかし船べりに視点を移せば、やはり船の方が進んでいることがわかる。
あれこれ頭を使いすぎると、さっきの岸辺なんてもうなくなったのに、
まだあるかと錯覚してしまう。

目に映るものがあっても、その実態はないのだ。
目に映る世界が正しいと勘違いしている人が多い。
それが常識だと教え込まれるからである。

真実でなくとも脳が記憶した常識で反応してしまうのである。

常識を妄信するとコントロールされやすい人間になる。
果たして自分の目に映る世界は、他の人と同じものを共有しているのだろうか。
自分は動いていないのに他の人が動いていれば、
勘違いのまま自分が動いていると信じてしまうのである。

SNSでいくらフォロワー数を上げて人気サイトになっても、
半年後には消えていく運命であることを知るべきである。
そこには実体がないのだ。

名もなく貧しく美しく




自分の身を正すには自分なりの覚悟が必要です。
凛とした純粋な気持ちの中でいきなり高みを望むのではなく、
人として最低限の決まりを持たなければなりません。

おかれた環境の中で名誉より大切なものは何か?
名前(肩書き)が無ければ人として認められないのか?
名がなくても万人を手助けする事が出来るのではないか。

穢れなく生きるために自問自答を繰り返してください。

優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。
つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。
人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。
老子

自分の夢を叶えるためにはお金が必要です。
有り余るお金でなくても挑戦が出来る多少のお金は必要です。
お金を溜め込むとお金に束縛されて身動きが出来なくなります。

貧しくとも世の中の役に立つことは出来るはずです。
必要最低限のお金は心まで奪われることはありません。

自分の身の丈にあった必要な金額を知るべきです。

貧しさはぼくにとって必ずしも憎むべきものではなかった。
なぜなら、太陽と海は決して金では買えなかったから。
アルベール・カミュ(フランスの作家)

どんなに辛くても胸を張って生きることが大切です。
悲しみに包まれた中で、笑顔で過ごすことで輝き始めるのです。
他人の苦しみを共有して励ます言葉を投げかけることが大切です。

泥の中のハスのように最後まで花を見せずに生きることも大切です。
姿・形の美しさより見えない心の中の美しさが尊いのです。

あなたの思考は全てのスタートになるのです。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから。
人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ(カトリック教会の聖人、修道女(ノーベル平和賞受賞))

私たちは望む世界で生きることは容易に出来るのです。
しかし、身体に障害を持っている人達はどうだろうか?
貧困で苦しむ人も、不治の病で苦しむ人も、災害で財産を失った人も、
望む世界で暮らしていけるのだろうか?

私たちは美しい言葉を自由に使える特権を持っているのです。
その美しい言葉を学ぶ必要があります。
美しい言葉で人を助けることも出来るのです。

『愛語よく廻天の力あり』というものがあります。
愛語とは、先に申し上げましたとおり、
《愛情に満ちた思いやりの言葉》ということです。
廻天とは、天を廻ると書いて、天地をひっくり返すと言うような意味です。
つまり、“愛情に満ちた言葉を掛け続けると、
人の気持ちはやがて変わっていく”と言うことです。
トゲトゲしい気持ちだった人が、穏やかな気持ちの人に変わっていったり、
暗く沈んでいた人が、徐々に明るさを取り戻していくなど、
愛語によって人の気持ちが最初とは反対の良き方向に変わっていくことを言います。
曹洞宗開祖 道元禅師

その昔同タイトルでヒットした映画があります。
「名もなく貧しく美しく」1961年1月15日公開
松山善三が自らの脚本を、初めて監督したもので、
聾唖者夫婦の物語。出演は小林桂樹と高峰秀子。

不幸の連続の中で慎ましく生き抜く物語です。

機会があればご覧になってください。

自己賛美「生きる」




カナダのエスキモーは火傷や大怪我では死ぬことは無いと信じている。
病院へ行っても2~3日で何事もなかったかのように帰っていくという。
エスキモーはこれぐらいの症状で絶対に死なないと信じ込んでいるので回復も早い。

また白人はやけどやケガの治療は病院で治ると信じている。
しかしエスキモーと違って重症な場合は50%の確率で死んでしまう。

さらにヘアーインディアンはチョットした火傷や怪我で簡単に死ぬことが多い。
大地の神々が何らかの罰を与えたのだという恐怖が死に追い立ててしまい、
急に亡くなるケースが多いという。

白人は医者に頼りきりで薬や手術に依存するだけで成り行きを見守る。
ヘアーインディアンは火傷も傷もなにか「悪霊」に取りつかれたのかと心配して
「私は一週間以内に死ぬ」と宣言してその通り一週間後に亡くなっていくという。

日本には昔から「病は気から」という言葉がある。心配事が多いと病気になる。
まさに様々な思い込みこそが病気の原因を作るのです。
いかにストレスが身体に悪い影響を与えるかということです。

ストレスの多くは、食生活から始まり、睡眠や運動に影響を与え、
全身の免疫力が低下して、最終的には気力を奪ってしまうということです。

その上に人間関係や社会的プレッシャーがかかり脳に悪影響を与えてしまう。

勿論、個人的な悩みは千差万別ですが安易に「死」を選択してほしくは無い。
もし、死をイメージするのなら「生」もイメージしてほしい。

心理療法士の世界的権威ミルトンエリクソンは、

レジリエンスのみなぎる問題状況への対応は、
持って生まれた自己の良いところを信じる気持ちから発生する。

健全な自己賛美がないと、エネルギーを自己に対して否定的に位置づけたり
(拒食症で身体を飢餓状態にするなど)、
最低でも、自分のリソースを呼び起こすことができなくなったりすると言う。

エリクソンははっきりと、自分の目的は患者の良好で健全な部分と
コミュニケーションを取ることだとしている。

エリクソンによれば、患者は自分自身の身体のなかに安心感を持つ必要がある。
精神であれ、心であれ、消化器系であれ、他のいかなる身体的部分であれ、
心理学的に権利を剥奪されたままになっている部分の良さを確信できれば、
新たな自己効力感が生み出される。

健全な自己賛美、自分を否定するのではなく全面的に肯定するのです。
レジリエンスを呼び起こすためにも「生きる」という意識を持ちましょう。

安易に死を前面に押し出すのではなく生きるためのレジリエンスを鍛えましょう。

主人公




「私」ばかりで会話を始めると相手は聞くだけになる。
「あなた」と問い掛ければ相手は話しやすくなる。

自分本位で暮らしていると周りの人が無関心になる。
他人本位で生きていると周りの人の笑顔が集まる。

短くてささやかな人生でも自分1人の人生である。
そして誰しもがその物語の中では主人公なのです。

私とあなたが出会えば悦びが始まるが同時に悲しみも共有する。
あなたはあなたで生きてきた人生がある。

あなたが望むことを誰にも伝えられずに我慢してきたことも、
時が移れば楽しい思い出となる。

社会に出て一人暮らしが始まり、人恋しくなり、会話の相手を探す。
学校や会社で知り合った人との交際が始まる。

二人の間に好きという感情が芽生えて物語はいつか静かに終わりを迎える。

会話の中に「私」が増えるとわがままな要求が増えて「あなた」が遠ざかる。
「あなた」を入れず自分中心の物語に、他人は関心がないことを知るべきです。

プロ野球選手の田尾安志さんが引退後に記念CDを出したいと依頼があった。
歌自慢の彼がカラオケで得意な曲がさだまさしの「主人公」だった。
さだまさしさんも快く「良いですよ」と返事をいただいたのでレコーディングをした。

主人公

「或いは」「もしも」だなんて
あなたは嫌ったけど

時を遡る切符があれば
欲しくなる時がある

あそこの別れ道で選びなおせるならって
勿論 今の私を悲しむつもりはない

確かに自分で選んだ以上精一杯生きる
そうでなきゃあなたにとても
とてもはずかしいから

あなたは教えてくれた 小さな物語でも
自分の人生の中では誰もがみな主人公

時折思い出の中で
あなたは支えてください

私の人生の中では
私が主人公だと

この録音の時にさだまさしさんと一緒に青森へ行きました。
高木恭造さん(日本の方言詩人(津軽弁))へナレーションのお願いです。
さだまさしさんのリクエストだったのですが、
「主人公」のCDにナレーションを入れたかは記憶が定かでない。笑い
B面かもしれない。(昔は代表曲がA面で補助曲がB面で表示しました)

女性は一生のうちに何回も呼び名が変わると言います。
結婚前の名前、結婚後の名前、何々ちゃんのお母さん、夫からのお前です。
親から頂いた名前は子供が生まれると同時に消えてしまいます。
そして独身の時に描いた物語はクローゼットの奥深くへしまい込んで忘れてしまいます。

その分、叶わなかったロマンスを韓流ドラマやジャニーズに求めるのでしょうか。

いつまでもあなたが「主人公」のままで良いのですよ。
年齢を重ねても「夢見る少女」のままでいてください。
全ての出会いに「恩」を感じてお過ごしください。