音楽は国籍も人も選びません。たとえ盲目の少年であっても
音楽は見放しません。暗闇の世界だからこそ見える景色と音が存在するはずです。
それは憧れと感謝の気持ちが入り混じった素晴らしいサウンドだと思います。
障害を持ってかわいそうと思う心が間違った感情なのです。
禅の世界では「無分別」や「分別知」と言われるものがあります。
見えるから邪念が生まれ考えるから誤解が生まれると言われるものです。
また分別するから好き嫌いも生まれ、それがまた物事の真実から遠ざける
要因となります。主観で物事を捉えるのではなく客観も取り入れて考えましょう。
心の意のままに音楽を奏でるとしたら共に演奏する人も、それを聞く人たちも
魂が震えるのでは無いでしょうか。
私の好きな民族音楽は昔からの楽器と地元の有志が演奏している場合が多いのです。
洗練された都会の音楽や最新の電子楽器を加える必要の無い素朴な民族音楽です。
音楽を上手に演奏しようとして大事なことを忘れてしまうアーティストが多いのです。
それは形を整えて気持ちを入れることが疎かになっていることです。
伝えたいことは何か?伝えたい思いは何か?それを表現できる楽器とは何かを考えると、
最後は声(うた)に帰着するのです。
素朴な楽器と歌声、地元民の掛け合う言語が最高の楽器です。
南米の最南端の国アルゼンチンへ行った時に、小さな酒場の小さな舞台で
繰り広げられたアルゼンチンタンゴ。
ギターと歌い手とダンサーの3人が神様に祈りを捧げるかのような雰囲気の中で、
心からの叫びを歌と踊りで表現していたのです。
途中、男性のダンサーも加わり舞台の狭さを一切感じさせない、
大胆な踊りを繰り広げた時には、観客の誰もが立ち上がり手拍子と歓声で
参加したのです。
そこに舞台がある。大きさの問題では無いのです。
そこに灯りがある。照明の数では無いのです。
そこに音がある。大音量を出す必要が無いのです。
そこに楽器がある、ドラムが鳴りギターと歌が交われば素敵な演奏になるのです。
民族音楽の素晴らしさは地上の神々のエネルギーも加わることです。
民衆が生きている場所がすべて会場なのです。
酒井響希くん物語
2歳のときに目の小児がんで両目を失明した、大阪府東大阪市在住の12歳の
酒井響希(さかい・ひびき)くん。全盲でありながら、数回聞けばほぼ
再現できるという天才少年ドラマーの10年を追ったドキュメンタリーが、
読売テレビで放送された。
響希くんが1歳10カ月の頃、母の康子さんが、息子の眼球に異変を感じ、
病院で検査をしたところ、両目に網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)
という小児がんが発覚。その日のうちに、医師から「両目を摘出するしかない」
と宣告された。2歳の幼い少年にはあまりにも過酷な現実。
本人も家族も毎日、悲しみの淵にあった。
そんな絶望の日々のなかで、救いとなったのは「音」だった。
家中の壁や柱などが傷だらけになるまで、鉄製のマドラーで叩いていた響希くん。
本人が興味を持つものはできるだけサポートしたいとの思いから、
両親は自宅に電子ドラムを購入し、響希くんの興味を応援した。
響希くんの人生を大きく変えたのは、人気ユニット・Def Techとの
出会いだった。2013年12月20日。メンバーのMicroが彼に伝えた
「4年後、Def Techのステージでドラマーとして共演しよう!」という
言葉を胸に刻み、響希くんはドラムに熱中する。
プロドラマーを目指し、自宅にも防音設備を整えたドラムセットを設置。
プロの指導者にも教わるようになった。
そして響希くんは憧れのDef Techとの共演を果たす。
大歓声に包まれた夢のステージで、「音楽を通して同じような境遇の人に
勇気を与えたい」という熱い想いで演奏を披露した響希くんは、
最後にこう叫んだ。「ママ、もう泣かんといてな!」。
観衆のなかにいた母への感謝の想い。「見えない世界」で前向きに生きる少年と、
それを支える母の10年の軌跡。
私はこの番組を見ました。途中から涙が止まらず困りました。
盲目だから可哀想という気持ちでなく、生きる望みを託してドラムを叩きつける
少年の姿に神々しい阿弥陀如来を見た感じがしたからです。
絶望の淵から甦り自分を支えてくれた、母親に感謝の言葉を伝える場面に
涙が溢れました。「ママもう泣かんといてな!」
音楽を好きになるのは一人の人間です、でもその一人の人間が一千人の観客を
感動させることができるのです。たった7つの音の組み合わせで万人の心を
とらえることが出来るのです。
私の好きな言葉です。「一燈照隅・万燈照国」最澄
一つの小さな灯りは隅を照らすことしか出来ない、
しかし、それが万の光を集めると国を照らすことになる。
響希くんの小さな音が万人の心を照らしたのです。
盲目のアーティストといえばこの人を思い浮かべる人が多いのでは無いでしょうか?
世界的なスーパースター、スティーヴィー・ワンダーです。
スティーヴィー・ワンダー / Stevie Wonder
1950年5月13日、アメリカ・ミシガン州サギノー出身のミュージシャン、
音楽プロデューサー。6人兄妹の3番目として生まれたが、早産が原因で
視力に障害が残る。幼少の頃からハーモニカやピアノの演奏に長け、
友人らとともに路上でパフォーマンスを披露していた。
その後スティーヴィー・ワンダーは11歳で、自身で作曲した「Lonely Boy」を
オーディションで歌い、デトロイト発祥のレコードレーベル、モータウンと
契約。以来、同レーベル一筋で活動している。デビュー後しばらくはヒットに
恵まれなかったが、これまでグラミー賞に計22部門で輝いており、過去最多の
受賞経験を持つ男性ソロ・シンガーとされている。
1963年に、シカゴのリーガル・シアターでの演奏を収めたアルバム
「Recorded Live: The 12 YearOld Genius」がビルボードチャート200のトップに
ランクインする大ヒット。
同月にシングルとして発表した、「Fingertips – Part 1 & 2」もビルボードチャート
100で1位を獲得する快挙を成し遂げた。
スティーヴィー・ワンダーが弱冠13歳で打ち立てたこの記録は現在も破られていない。
チャリティー活動にも取り組んでおり、2009年12月には、国連平和大使に任命された。
私生活ではこれまで、5人の女性との間に9人のこどもが誕生している。
酒井響希くんとスティーヴィー・ワンダーに大きな拍手を送ります。
神様は二人に大きな障害を与えたけれど、
同時に音楽という大きな才能も与えてくれたのです。
スティーヴィー・ワンダー74歳、酒井響希18歳、年の差56歳。
神様は乗り越えられない試練は与えないのです。
頑張れ響希くん。
1月 4th,2024
恩学 |
盲目の少年ドラマー はコメントを受け付けていません
心を張り詰めたままの状態にしていると必ず体にゆがみが出てきます。
ギター奏者が毎回弦を緩めて保管するのはギター本体のゆがみが出るからです。
あなたの心の弦は張り詰めたままにしていませんか?
いつ新しい弦に張り替えましたか?思い出せないほど昔に交換したままですか?
心を緩くするとは「執着心」を取り除くことです。
お金にも、物にも、考えにも、人間関係にも執着していませんか?
これらを取り除くのは「感情をため込まない」「頼れる先を増やす」
「自分磨きをする」ことを取り込むことです。
感情をため込まない=思ったことを口に出して言う。
黙ってしまうとそのことの執着から離れられなくなります。
口に出せない場合は日記でもよいので書き出すことです。
頼れる先を増やす=気軽に話せる人を増やす。趣味を増やす。
推しを作るなどの方法で執着の心を分散させてください。
自分磨きをする=バランスの取れた食事や軽い運動を繰り返し体力をつける。
良書に親しみ心を磨く。毎日「恩学」を繰り返し読むこともお勧めします。
執着を手放すには、自分と向き合うしかありません。自分が何に執着しているか、
どうして執着しているのかを知り、自分に合った方法で、少しずつ執着と適度な
距離を保つことです。張り詰めたままの弦だと心が固くなります。
柔軟な心にすると、今まで気にしていたことが離れていきます。
ここからが本日の教えです。
あなたの心が硬いと自然の恵みが感じられなくなります。
雨も嵐も暴風も邪魔だと思えば害になるのです。
しかしそれが自然からの恵みだと思えば全てが益につながります。
人の縁も心が硬いと邪念が働き素直な気持ちが失われてしまうのです。
自分が利用されていると思えば怒りや憎しみが現れる。
そして相手を信用しなくなる。これで負の連鎖が始まることになるのです。
心を緩める方法として「無言の行」がある。
目があるから不要なものを見る。耳があるから真実の音が聞こえなくなる。
口があるから不要な言葉を発してしまう。鼻があるから不要な匂いを嗅いでしまう。
どちらにしても坐禅の世界へ入れば全てが消えて無くなるのです。
自己流ですが座禅は道場に通わなくても自宅でも出来るのです。
静かな環境で音も臭いも無くしてあぐらをかいて目を閉じればよいのです。
深い呼吸の中で雑念を振り払い、心を整えるのです。
時間は気にしなくても出来る範囲の中で行えばよいと思います。
欲も損得も分別も無い平常心が心をゆるくするのです。
人は不要な知識に縛られて身動きができない状態を自ら作り出しているのです。
フランスの作家/思想家ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の有名な言葉に
こんなものがある。いわく、「人間は自由の刑に処せられている」。
不自由の中の自由を知らなければ動物と変わり無いのである。
何も無いところにただ置かれて自由だと勘違いするのは愚の骨頂である。
「平常心是道」
この言葉の由来は中国南栄時代の無門慧開(1183‐1260)によって編まれた仏教書、
または禅書・公案集と呼ばれる著作にある故事からなる公案です。
登場人物は中国の唐時代の禅僧「趙州(778年‐897)」禅師とその師にあたる
「南泉(748‐835)」禅師との問答が元になっています。
また、南泉禅師はその師の馬祖道一(709‐788)禅師が「平常心」を説かれた
語録があります。今回は有名禅問答である趙州と南泉禅師の問答を参考にいたします。
「無門関」第19則
趙州和尚が師の南泉和尚に「如何是道(道とはどんなものでしょう)?」と
尋ねた。その答えが「平常心是道(ふだんの心、そのものが道である)」と
答えた。※ここで言うところの「道」とは仏道である。
趙州「その心とはどのようにしてつかむことができるのでしょうか」
南泉「つかもうとすれども、つかむことはできない。」
趙州「つかむことができなければ、それは道ではないのでは」
南泉「道は考えて理解できない。しかし、わからないといってしまうこともできない。
考えて分かるのであればそれは妄想である。わからないものであればまったく
意味のない事になってしまう。」
南泉「理解できる理解できないという分別を離れると自ずからそこに道が現れる。
まるで澄み切った秋空の如く、分別を入れる余地はまったくない。」
趙州「なるほど」
趙州はその答えを聞いて悟ったという・・・。
皆さん、理解できましたか(笑)
勿論この問答で悟りを得た趙州禅師が希代の高僧でありますから、
凡夫(一般人)の我々が理解できないのは至極当然であります。
簡易な言葉の羅列である、この禅語が実に奥深い言葉であります。
南泉禅師は簡潔に悟りの境地(悟りといっても様々である事は留意しておく)
を述べているわけですが、仏教の基礎知識やある程度の実践を伴い、
初めて身心共に納得できるのが禅語には多分にあります。
その代表格がこの「平等心是道」になります。
特に今回の禅問答で理解しなければならないのが「分別」の意味でしょう。
分別とは人間にある相対性的で両極端の思考を嫌う為にある、相反する見方です。
例えば「美しい」があれば即ち「汚い」があり、「幸せ」があれば「不幸」が
あります。更にいうと「金持ち」⇔「貧乏」「賢い」⇔「愚鈍」「好き」⇔
「嫌い」の必ず人間は違いを明らかにします。
更にいうと「悟り」⇔「迷い」のように悟る悟らない、も分別として捉えます。
即ち「分別を離れる」ということはこの相対性で図る事(造作)をやめる事。
また、馬祖禅師も「造作無く是非無く、取捨(選択する)無く
断常(死後の断絶)無く、凡聖(凡人と聖人)無しと説かれています。
造作無くというは、平常心を持とうとか平常心になろうと心かけるような
作りごとをしないと言うことです。
迷いも悟りもない。その造作しない(分別しない)ありのままの心こそ
そのまま道であり仏であります。
そこに自己に「気づき」初めて「仏性現起(全てのものに仏が宿る)」が
ある事を自覚し、ありのままの自己こそが「平常心」であり「仏」そのもので
あるいうことです。
「気づく」ことが大事であり、それがなければ「仏」を自覚する事もなく、
分別して平常心とはかけ離れた一生を歩むことになります。
すべてのものに「仏」がある事に気づけば世界は一層素晴らしいものになると
思います。
「平常心是道」。簡易な言葉の真髄こそ正に「禅」そのものであるし、
全ての禅語は基本的にはこの考え方を元に見ると理解しやすいかもしれませんね。
今回は少し難しかったかもしれませんが、この禅のニュアンスを伝えるのは
なかなか高度であります。
私も常に平常心になり「心を緩くする」ことを心がけています。
日常生活の中で雑念を取り除くことは大変難しいのですが、
みなさまもあれこれ悩むのではなく「心を緩くする」ことを心がけてください。
2024年1月3日
1月 3rd,2024
恩学 |
心を緩くする はコメントを受け付けていません
能登半島地震
令和6年1月1日午後16時03分能登半島地震が発生。
天災は忘れた頃にやって来る。ふいをつかれた地震である。
昨年まで(昨日)世界は、戦争、自然災害、食糧枯渇、物価上昇、ガソリン不足、
円安不況、等様々な災害に見舞われた。
2011年3月の東北大震災から12年ぶりの大地震である。
年が明けて今年こそは良い年になると願っていたのに龍がいきなり暴れてしまった。
石川県の人には予期せぬ出来事になってしまった。
初詣を済ませて家族が一堂に介して、
お酒を飲みながらご馳走に舌鼓を打っていた時の地震である。
津波情報も発令されて「今すぐ山か高台に逃げろ」のアナウンスが鳴り響いた。
新年の番組も地震速報一色になりお祝い気分が飛んでしまった。
被災地は先日の雪が未だ残っている状態恐怖と寒さの中で揺れに耐えなければならない。
午後11時3分にまた震度7が発生して揺れは更に恐怖を重ねる。
先ずは命の安全の確保です。助け合うことは勿論ですが、
お年寄りとか体の悪い人たちへの救助を優先してほしい。
元気な大人と若者たちが頑張ってほしいと願うばかりです。
過去の例ですと3日間耐えることができれば救助が始まると言われています。
ライフラインの復旧や支援物資の到着までが3日間です。
住民の方々は壊れていない家に集まり暖を取り、
お正月料理を持ち合えばどうにか空腹は凌げるはずです。
ホテルも旅館も開放して住民の安全と命を守ってほしいと思います。
今やれることだけを考えて下さい。
この時に思い出したのが以下の話です。
「看脚下」
脚下を看よ、足もとをしかと見よという意味であります。
佐藤一斎の『言志晩録』に「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。
只一燈を頼め」という言葉があります。
一つの灯火を掲げて暗い道を歩いているときに、
暗い夜だからといって不安になることはない、
その持っている一つの灯火を頼りに歩めという意味であります。
お釈迦さまやキリストや孔子というようすぐれた聖賢の言葉や禅の言葉などを
頼りにして暗い道を歩いてゆくのだということであります。
確かにこの通りで、混迷する世の中を生きてゆくには頼りとすべき灯火が必要です。
しかし、この灯火が消えたらどうするのかというのが、禅の問題でもあります。
中国の宋代に五祖法演という禅僧がいました。
当時衰退しかけていた臨済宗の教えを再興したので、「臨済中興の祖」と
崇められている方です。
ある時に三人の弟子と共に夜、話していて、帰りに夜道を行こうとすると、
行灯か提灯の灯が消えてしまいました。
月でも出ていなければ、提灯でも持っていないと真っ暗闇で何も見えなくて
歩けないのであります。
そんな真っ暗闇になったところで、法演は三人の弟子に、それぞれ一句を言えと
迫りました。
禅の問答というのは、いつ何時始まるのかわからないものです。
それだけに日常いつも油断なく暮らしているのであります。
先ず一番に、後に佛鑑禅師と称せられる慧勤は、「彩鳳、丹霄に舞う」と答えました。
「彩鳳」は、五色の美しい鳳凰のことです。
「丹霄」は、赤く染まった空であります。
「美しい鳳が彩雲ただよう天に舞う」様子をいいます。
目出度い言葉として、今では慶事などにも用いられています。
二番目には、後に佛眼禅師と称せられる清遠は、「鉄蛇、古路に横たう」と答えました。
鉄の蛇が、誰も通らないような古い道に横たわっているという意味です。
鉄は黒いという意味がありますので、真っ黒な蛇が人も通らぬ路に潜んでいるというのですから、
なにが潜んでいるか分からないことを言います。
そして、最後には、後に法演の仏法を受け継いで、『碧巖録』を編纂する
佛果禅師こと、圜悟克勤が、一言「脚下を看よ」と答えたのでした。
それに対して法演は、「吾が宗を滅するは、克勤のみ」と言われました。
言葉通り受け止めると、自分の教えを滅するのは、
克勤だけだということになりますが、これは禅家独特の表現であって、
自分の教えを真に継承してゆくのは、克勤だけだと、
克勤を大いに肯った言葉なのであります。
「最初の答えは、極彩色の中に極彩色のものがある。
人生は真っ暗闇で先はどうなるかわからないけれども、極彩色の人生というものが
あって、その中を極彩色の存在が歩いて行くのだから、先は見えなくとも自信を持って
一歩一歩進んでいけばいいじゃないかということです。」
「超ポジティブな考え方だ」と言っていました。
更に「それに対して仏眼のほうは超ネガティブですね。
すべてが不幸、すべてが苦しみだというわけですから。」というのです。
「仏眼は「暗闇の中にいて先が見えないのだから、不幸だということはあまり考えずに
不幸の中を生きていこうじゃないか」と言っているわけですね」というわけであります。
「圓悟克勤は「そんなきれいな言葉で飾って生きるとはどういうことなのか。
観念的なことを言わずに、ただ脚下を見ていればいいじゃないか」
と言ったわけですね」と解説してくださっていました。
頼りとしていた灯りが消えて、どうしようかという時に、
実際にあるかどうか分からないにしても、輝かしい未来を心に思い描くことは、
決して悪いことではありません。
高い理想ばかりを思っていたのでは、足下が危ういものです。
これから先には、何が起こるか分からない、これから歩む道には何が潜んでいるか
分からないと、慎重に歩を進めることも必要です。
頼りとする灯火を失ったら、まずは落ち込んでいないで、高い理想に心躍らせましょう。
すぐれた先賢の教えを学び、実在の方の成功談を読んで心を鼓舞することです。
次に、現実は何が起こるか分からない、慎重にゆかねばならないと注意します。
「先行きの見えない暗闇の中でどうするのか、希望を失わないようにすることも
大切でありましょう、最悪の状況を想定することも必要でしょう。
しかし、大事なことは足下を見ることです。自分は今どういう状況にあるのか、
しっかりと足下を見つめて、一歩一歩を歩んでゆくことが最も肝要であります。」
大災害の時には家を失い、家族を失う場合があります。先のことの不安を考える前に
今をどう過ごすかを優先してください。東北の大震災を思い出してください。
過去の教訓から役立つ方法を見つけ出して下さい。
まずは自分自身と周りの人達の命を守ることだけを考えることです。
「看却下」
今はただ足元だけを見つめて下さい。
2024年1月2日
1月 2nd,2024
恩学 |
予期せぬこと はコメントを受け付けていません
あいうえお
かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
やいゆえよ
らりるれろ
わゐうゑを
ん
にほんのひらがなはあい(愛)から始まりをん(恩)で終わります。
私がいつもテーマにしていることです。
優しさから始まり有難うで終わる国なのです。
恩に始まり恩に終わるのです。
日本語は「ん」を含む51音になっています。ガやパの濁音・半濁音を加えると
76音を作っています。アルファベットの26文字に比べると覚えるのが大変です。
加えて、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、絵文字で6表記の国です。
読み方も左から書くメールや書類などの通常の書き方と、右から縦文字で書く書道や
古文書などの書き方もあります。世界広しといえど、右も、左も、縦も使って
表記するのは日本だけです。そんな国だから詩や、俳句や短歌や川柳などの表現文化が
育まれてきたのです。
愛は「気」です。父と母の愛で生まれたのが私たちです。
命は「気」です。命の気だから、息(いき)をするから「生きる」です。
気は木のように空に向かって伸びていって空気と繋がり、地中に根を張っていろいろな
根っこと繋がると、根気になります。
根気がつくと元気になります。元気になると勇気が起こります。
有難うは許すことから始まります。
心を許すから、相手のことは何もかも許してしまうのです。
許すは、言偏に午(うま)と書きます。午の字は十二支の真ん中にある文字です。
午前・午後を言い表し、午を中心に前と後ろがあるのです。
君とはウマが合うね、きっとウマく行くよ、これウマいねなどに繋がります。
認め合うから人間関係がウマく行くのです。
お金を足すことばかり考えると「針」という文字になります。
針は人を刺します。人を刺してまでお金を儲ける必要はありません。
「小欲知足」自分に必要な分で足りていると思えば十分なのです。
奪い合えば足りず、分け合えば余る。簡単なことなのですがこれが出来ません。
一人では乗れない車を何台も買い求める人、着れない服を何着も買い求める人、
履けない靴を何足も買いそろえる人、針だらけになって嫌われるのです。
忙しいという漢字は心を忘れると書きます。人の心を忘れると悪魔になります。
悪魔という「魔」は嫌われます。私も心を忘れて嫌われたことがあります。
しかし人は、誰でもが、時間、空間、瞬間という間に生きています。
それらを包んでいるのが世の中の世間という文字です。
間(ま)は「あいだ」とも読みます。そう間は「愛だ」なのです。
誰かが喧嘩を始めると「ま、ま、ま」と間に入ります。少しは落ち着きなさいと
「ま」を連呼します。親しい仲間が間に入り仲裁してくれるのです。
命という文字は人を一つ叩くと書いています。毎日・毎時間・毎秒心臓を叩いてくれて
いるから生きていけるのです。赤ん坊が生まれてすぐ泣くのは、それをきっかけに
息呼吸が始まるのです。泣かない子にはお尻を叩き泣かさないと死んでしまいます。
我々は命をいただき大切な人生を生きているのです。
咲くは、花が咲く(さく)と読みますが咲くは「笑う」とも表現しました。
花を見て満開に咲いている景色を見て怒り出す人はいません。
桜や桃やチューリップやヒヤシンスなどが咲くと長い冬が終わり、
いよいよ春になるという兆しに笑みが溢れるのは仕方ないことです。
ちなみに「山が笑う」は俳句の春の季語です。
新緑を前に新芽が出始める時を笑うと表現した日本人は本当にすごいと思います。
日本は山の幸に恵まれ、海の幸に恵まれ、自然の果樹にも恵まれた国です。
その上に日本は四季があり色とりどりの草花を咲かせてくれるのです。
争いのなかった縄文時代、奪い合うことを知った弥生時代、自分達の財産を守ろうとした
鎌倉時代、領土を広げようとして始まった戦国時代、文化の百花繚乱を謳歌した江戸時代、
無理やりに開国を迫られた江戸時代後期から明治初期。
平和と文化芸術を愛した日本人が他国の侵略により戦に引っ張り出された。
武士がこの国を治めるようになってから「潔く死ぬことが美徳」となった。
愛国心という名のもとに多くの若者が犠牲となった。
現代は経済戦争とテクノロジーの時代である。ビジネスの世界では常に最前線にいる
企業だけが利益を上げている。全てが数値で管理され豊かさを求める論説は
詭弁だらけである。日本人が日本人を嘘でコントロールしているのです。
だからこそ今一度日本人の心を学び直し、
日本のあるべき姿を若者たちと作り出さなければならない。
2024年は積極的に「恩学」を広めていきたいと思います。
愛から始まり恩で終わる国です。
この国を愛してこの国を守りましょう。
2024年元旦
1月 1st,2024
恩学 |
愛から始まる国です。 はコメントを受け付けていません
2024年は辰年です。
私の名前が瀧文なので皆様から来年は稲葉さんの年ですねと言われます。
でも私は1949年(昭和24年)の丑年です。笑い
しかし昔から龍を祀る神社へは足繁く通いました。
一般の神社でも清めの手洗いの場所へ行くと龍の形の蛇口が付いています。
何故かどこの場所でも龍を見ると安心します。
干支は十二支のほかに10種類の十干(じっかん)を組み合わせたもののことを
言います。それぞれを組み合わせると60種類あることから、六十干支
(ろくじっかんし)とも呼ばれています。季節や運勢、吉凶などを表す暦注
(れきちゅう)の多くは古代中国の陰陽五行説や易経から起こり、
その代表となるのが干支です。
十二支と月
十二支「 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
読み ね うし とら う たつ み うま ひつじ さる とり いぬ い
対応月 十一月 十二月 一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月
十干
十干 「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」
読み こう おつ へい てい ぼ き こう しん じん き
五行と
読み 木の兄 きのえ 木の弟 きのと 火の兄 ひのえ 火の弟 ひのと
土の兄 つちのえ 土の弟 つちのと 金の兄 かのえ 金の弟 かのと
水の兄 みずのえ 水の弟 みずのと
2024年の「甲辰」の干支でいう意味
十二支や十干は数や方角だけでなく、それぞれ独自の意味を持っています。
例えば「甲」が持つのは第1位であり、優勢であることを表す他、まっすぐに
堂々とそそり立つ大木を表しています。
「辰」は十二支の中では唯一の架空の生き物、龍(竜)を意味します。
水や海の神として祀られてきた龍は、竜巻や雷などの自然現象を起こす
大自然の躍動を象徴するものであり、「龍が現れるとめでたいことが起こる」
と伝えられてきました。
この2つの組み合わせである甲辰には、「成功という芽が成長していき、
姿を整えていく」といった縁起のよさを表しているといえそうです。
皆様どうでしょうか。
これほど強い運気がある年になるのですが準備はできていますか?
今年もウクライナとパレスチナの戦争はまだ終わりません。
世界的に物資とエネルギーが不足して物価が高騰しています。
自然災害も今まで経験したことがない規模で起こっています。
行き場を失った若者たちが犯罪と隣り合わせで暮らしています。
給料は上がらず税金は上がります。
お年寄りが増えて子供が減っている状況は亡国の兆しです。
与党自民党の腐敗は誰も止められないのでしょうか?
節約ばかりしていると経済が止まり悪い方向へと進んでいきます。
今こそ若者たちへ伝えるのは世界へ飛び出し頑張ってほしい。
もっと生きるための努力をしてほしい。
日本語と円だけの守られた暮らしから抜け出してほしい。
この国は鎖国をしているのではない、
自由に開かれた国なのでグローバルな生き方をしなければ生き残れない。
みなさんは「茹でガエル」という言葉を知っていますか?
カエルを釜に入れて少しずつ温度を上げていきます。
温かいお湯に入れると勢いよく飛び出すカエルも、
水から徐々に温度が上がると気がつかないのです。
勿論、茹で上がったカエルは死にます。
今の日本人は茹でガエル状態なのです。
30年間所得が上がらず物価が上がっているのに誰も釜から出ようとしません。
平和慣れして危機感が麻痺しています。
あと数年もすればアジア諸国の中でも最貧国となる可能性があります。
それでよいのでしょうか?
何故このような状況になってしまったのでしょうか?
戦後アメリカの政策で強い日本人が骨抜きにされたのです。
この政策に反対せずに奴隷のように従っているのが自民党です。
自民党は我々の税金で私腹を肥やす大犯罪人なのです。
アメリカの言いなりの妾の根性です。
札幌オリンピックは中止になったのですが、大阪万博は開催するつもりです。
予算を大幅に超えて何か利益につながると思っているのでしょうか?
この不景気で世界に見栄を張る必要があるのでしょうか?
これには裏がありそうです。コロナも戦争もネオコンやフリーメイスンが
関わっているという噂です。ディープステート(闇の政府)といわれている
組織が世界を動かしているとも言われています。
来年の干支の辰の語源を見ると漢字の「辰」の原字は「蜃」。「蜃」は、
二枚貝が開き、弾力性のある肉をピラピラと動かしているさまを描いたもので、
「振」「震」の意味をもつ。
『漢書 律暦志』では「動いて伸びる」「整う」の意味とし、草木が盛んに成長し
形が整った状態を表すと解釈されている。
この「辰」を「竜(龍)」としたのは、無学の庶民に十二支を浸透させるために
動物の名前を当てたものであるが、順番や選ばれた理由は定かではない。
過去、辰年にはこんなことがありました
最近では2012年、2000年、1988年が辰年にあたります。
起こった出来事を抜粋すると次の通りです。
2012年:2006年、京都大学の山中伸弥氏は、成熟した細胞を多能性幹細胞
(IPS細胞)へと初期化できることを発見しました。この発見は、
再生医療の分野に革命をもたらす画期的な成果として、
2012年12月にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
2000年:2000年9月15日から10月1日までの17日間、シドニー五輪が
開催されました。女子としては史上初の金メダルを獲得した女子マラソンの
高橋尚子や、日本女子柔道史上初の金メダルを獲得した田村亮子などの活躍で
過去最多の18個のメダルを獲得しました。
1988年:1988年3月13日、世界最長の全長53.85kmの青函トンネルが
開通しました。開通までに1400万人を超える作業員が携わり、工事期間は
約24年間にも及びました。これは、日本の土木史上空前のスケールを誇る
仕事でした。
努力した成果が実を結ぶような出来事が多く起こっています。
これらは、甲辰年の「成功の芽が成長し、姿を整えていく」という
傾向の表れかもしれませんね。
あくまでも干支は統計学です。その時代、その年に何が起こったのかをデーター化した
ものです。当たる確率はフィフティー・フィフティーです。
神社のおみくじと同じで大吉が出れば喜び、凶が出れば慎重にすればよいのです。
みなさまも来年の上昇運気に乗ってみませんか。
良いお年をお迎えください。
2023年12月31日
12月 31st,2023
恩学 |
辰年に想いを寄せて はコメントを受け付けていません
いよいよ「恩学」が365作目となりました。
2011年から書き始めて12年目になります。
途中、定職についてからしばらくお休みをしていたのですが、
2019年コロナ禍が始まった時期からまた書かなければならないと思ったのです。
お休み中も時折、あの「恩学」のあのタイトルの文章が心に響きましたと、
たくさんお便りをいただきました。
大阪の見知らぬ女性の方から、この言葉をラジオ番組で使用しても良いですかと
問い合わせをもらったこともあります。
北海道の老舗和菓子屋さんの経営者の方からも、この文章を使っても良いですか
と連絡を頂いたことがあります。
英国在住の日本人の方からも母がとても楽しみに読ませていただいておりますと
メールを頂いたことがあります。
最近ではロックシンガーの伊丹谷良介さんが若者たちに向けて、教科書代わりに
読みなさと言ってくれていることには感謝の言葉もありません。
こういう一言がとても励みになりました。
元々音楽プロデューサーの独り言で「恩学」を書き始めたのですが、
改めて哲学書や仏教書を読み直すと、人が「生きる」という貪欲さの中から
「文化・芸術」が生まれ、育ったことを再認識して、これは稚拙な文章でも
書き伝えなければならないと思った次第です。
デジタルが進化すればするほどアナログ的な感情が大切になります。
100回「好き」という文字をLINEやメールで伝えるより、
1回会って言葉で伝える方が効果はあります。
「ありがとう」の言葉も直接対面で伝える方が感謝の気持ちが伝わります。
お年寄りには効果抜群です。
あなたにとって心に響いた文章はありましたか?
もしかしたら「恩学」の一番の愛読者は自分だったかもしれません。
ときたま自分の文章を読み返した時に励まされることがあります。
これからも良き文章が書けるように努力します。
一年は365日 私の一念は365作
2023年12月30日
12月 30th,2023
恩学 |
本日365作目 はコメントを受け付けていません
気の置けない仲間たちと夜通し夢を語り合い、
希望が沸々と湧き上がる時に、恐れるものは何もなくなり、
この燃ゆる想いを大切にして生きていこうと決心する。
与えられた運命に一寸の悔いも残さず、
この情熱を燃やし尽くして、
誰かの勇気になれば本望だと笑いが込み上げる。
仲間がいる、一緒に泣き笑いする仲間がいる、
未来にどんな困難が待ち受けようと乗り越えられる自信がある。
たとえ傷つき倒れそうになっても支え合える仲間がいる。
来た道を振り返り、行く道に希望を持てば、未来が近づいて来る。
そう輝く明日を無駄にせず出来ることの最大を発揮しよう。
俺たちにはかけがえの無い音楽がある。
ガキの遊びと言われてもやり続け、
バカな事はやめろと言われてもライブハウスに通い、
音楽で成功するのは1割もいないから、
定職につけと怒鳴られても平気だった。
俺たちは金のために音楽をやっているのではなく、
最高の仲間と生きる為に音をだしつづけているからだ。
そこには惜しみない拍手をしてくれるファンがいる。
人気のあるバンドを追いかければ良いのに、
わざわざ無名の俺たちのギグを楽しみに、
バイトで稼いだ金を払って遠くから来てくれるファンがいる。
みんなの声援や拍手は俺たちにとっては最高の楽器なのだ。
一緒にセッションをしてくれているバンドメンバーと同じだと思っている。
楽器車もなく、ローディーもいなくて、もちろんマネージャーもいなくて
毎回みんな自分で機材を運ばなければならない。
セッティングから音合わせも1人でこなしリハーサルを始める。
演奏後いくら汗をかいてもシャワールームもなくてグダグダの状態、
楽屋の壁に書いてある「夢を追いかける」という落書きを見ながら、
今日も燃え尽きる。
仲間と別れた後に夜の道を自宅に向かって歩き出す。
何故だろう疲れより沸々と湧き上がる「燃ゆる想い」が身体を包む。
一瞬笑いがこみ上がり大きく息を吸う。
これで良いのだ、これが俺たちの求めていた世界なのだとつぶやいた。
「燃ゆる想い」に包まれると、
今まで高い壁だと思っていたのに低く見え始める。
今まで遠い国だと思っていたのに近くに感じられる。
今まで無理だと思っていたのに全てが叶うと思い始める。
「たとえ九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。」
森信三
嘘だらけの世の中に合わせるより、自分たちの人生は自分たちが作る。
大変な人生も仲間といればいつでも怖く無い。
大きなステージが成功ではなくて、仲間と目の前のファンの笑顔が、
何よりもの俺たちの成功の証なのだ。
この文章を書いているときに思い出したバンドがある。
ニルヴァーナ(英: Nirvana)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド。
オルタナティブ・ロック、またはグランジ(汚れた)の先駆者として知られている。
1987年にワシントン州アバディーンで、リードシンガー兼ギタリストの
カート・コバーンとベーシストのクリス・ノヴォセリックによって結成され、
チャド・チャニングなどのドラマーを経て、1990年にデイヴ・グロールを加入させた。
ニルヴァーナの成功は、オルタナティブ・ロックを世に広め、ジェネレーションXの
代表的なバンドとして言及されることが多かった。また、彼らの音楽は人気を維持し、
現代のロック文化に影響を与え続けている
ドラッグにのめり込んでいたカートは、自殺未遂や奇行を繰り返していた。
ついには1994年4月5日にシアトルの自宅にてショットガンで頭を撃ち、
自殺。(享年27歳)とても気になるバンドでしたが残念でした。
興味があればカートの詩を見ながら聞いてみてください。
同時代1985年日本ではブルーハーツがデビューをしていた。
甲本ヒロトと真島昌利が解散の1985年まで10年間、日本のパンクロッカーとして
一世を風靡していた。余談であるが甲本ヒロトは禅学をこよなく愛していたという。
私の周りには情熱に燃える熱きアーティストがたくさんいる。
純粋に音楽が好きでファンの喜ぶ顔を見るのが大好きな連中です。
私は彼らと「恩学」でつながることによってメンバーになった気分です。
彼らと夢を共有できることに感謝でいっぱいです。
ありがとう、これからもよろしく!
12月 29th,2023
恩学 |
燃ゆる想い はコメントを受け付けていません
小さい頃は神様がいて
不思議に夢を叶えてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
おとなになっても奇跡はおこるよ
今の世の中に神様がいるのならこんな世の中にはなっていない。
どれだけ多くの子供達が泣いているのか神様は気づいているのだろうか?
何故キリストの生誕の地でイスラエルとパレスチナは争っているのか!
家族全員を殺し民族虐殺を許している神なら神など不要である。
ロシアにもロシア正教があり神がいるにも関わらずウクライナを占領しようとしている。
そしていつも被害者は罪なき子供達である。
世界中の宗教(神)は誰を救うために存在しているのか理解に苦しむ。
神がいるとすれば神は自分の中にだけ存在している。
自分の中に理想とする神を作り出し崇めれば良いのである。
誰にも邪魔されず厳粛な儀式を行えば良い。
徒党を組むから悪が芽生える。悪の大王が正直な国民を騙して勧誘を募る。
それらの上納金で巨万の富を得る。
そしてもっと強欲になり信者の心までコントロールしてしまう。
合同結婚式など神聖な結婚式を冒涜する何ものでも無い。
「神は人類発生の遥か以前より、そして人類滅亡の遥か以後までの存在なり。
人類の存在は神の存在に較ぶれば一弾指の間なり。
神といふものを人間の形で考える事は愚な事なり。
形を与へれば限定され、小さなものになる。
神を茫漠たる形でならば自分にも考える事が出来る。」
志賀直哉
一般人なら何故あのような宗教を信じてしまうのかと理解に苦しむ。
彼らは騙すことが目的で人々を救う気持ちは微塵もない団体である。
それどころか反日をうたい日本を陥れる邪悪な団体である。
いくら身内や報道が真実を伝えても脱会しないのは、信者以外は悪魔の集団だから
耐えることが一番の徳を積むという嘘の教義を刷り込んでいるからである。
優しさと安らぎを求める困った人たちを利用して巨万の富を築き上げる。
それに加担した日本の政党自民党の罪は大きい。
彼の宗教団体と同じで裏金作りに奔走するだけの卑しい政治家集団である。
子供達に必要なことはいつの時代にも「やさしさに包まれて」生きる事である。
人間の際限なき欲望が地位と名誉と財産であっても幼き子供達には必要が無い。
あらゆる国のリーダーたちが簡単に戦争を仕掛ける時代である。
ここに崇高な愛の良識が消えたのは何故だろうか?
小さい頃は神様がいて
不思議なことに願いを叶えてくれた。
我々が「Love & Peace & Freedom」で動き出さなければならない時代に入った。
ジョンレノンが「イマジン」を歌い、
マイケルジャクソンが「ヒール・ザ・ワールド」を歌い、
ボブ・ディランが「戦争の親玉」を歌うことによって世界は変わってきた。
反戦運動を叫ぶ活動家の演説よりも一曲の歌の持つ力の方が影響はある。
ボブ・ディランの2ndアルバム「The Freewheelin’ Bob Dylan」(1963年) の
3曲目に収録されている曲です。
強いメッセージが込められたプロテストソングです。
すこし長い歌詞ですが最後までお読みください。
「戦争の親玉」
Come, you masters of war
おい、戦争の親玉ども
You that build the big guns
大砲を造る奴ら
You that build the death planes
戦闘機を造る奴ら
You that build all the bombs
爆弾を造る奴ら
You that hide behind walls
壁の後ろに隠れている奴ら
You that hide behind desks
机の後ろに隠れている奴ら
I just want you to know
お前らに知らせておいてやる
I can see through your masks
お前らの本性などお見通しだ
You that never done nothin’
But build to destroy
破壊行為以外
お前らは何もしないよな
You play with my world
Like it’s your little toy
お前らは小さなおもちゃのように
俺の世界をもてあそぶ
You put a gun in my hand
お前らは俺に銃を握らせ
And you hide from my eyes
俺の視界から身を隠す
And you turn and run farther
When the fast bullets fly
そして銃声が響いたら
一目散に逃げていく
Like Judas of old
いにしえのユダのように
You lie and deceive
お前らは嘘をつき、欺いている
A world war can be won
世界大戦は勝てるんだと
You want me to believe
俺に信じさせる
But I see through your eyes
だけどお前らの視線も
And I see through your brain
お前らの考えも
Like I see through the water
That runs down my drain
下水の水(俺の小便)のように
透けて見えてやがるのさ
You fasten all the triggers
For the others to fire
Then you set back and watch
お前らは自分の引き金は固定しておきながら、
他人には平気で発砲させ
自分は後ろで眺めている
When the death count gets higher
死者の数が増えたなら
You hide in your mansion
お前らはお屋敷に身を隠す
While the young people’s blood
Flows out of their bodies
若者たちの遺体から
血が流れ出し
And is buried in the mud
泥の中に埋められていく、その間にも
You’ve thrown the worst fear
お前は最悪の恐怖を振りまいた
That can ever be hurled
Fear to bring children
Into the world
お前の恐怖が世界中の子供たちに
振りまかれたんだ
For threatening my baby
Unborn and unnamed
まだ生まれてもいない、名前さえついていない
俺の赤ん坊を脅かしている
You ain’t worth the blood
That runs in your veins
お前らに赤い血が
体に流れる資格は無いぜ
How much do I know
To talk out of turn
俺が身の程知らずな
口をきいてる事はわかる
You might say that I’m young
お前らは俺をまだ若造だと言うだろう
You might say I’m unlearned
学が無いと言うだろう
But there’s one thing I know
Though I’m younger than you
確かに俺はあんたより若造さ
Even Jesus would never
Forgive what you do
だけど神様だって
お前らの事は許さないはずだ
Let me ask you one question
一つ訊きたい事がある
Is your money that good
そんなに金って大切かい
Will it buy you forgiveness
Do you think that it could
金があれば許してもらえると
思っているのかい
I think you will find
お前らはきっとわかるだろう
When your death takes its toll
お前らの死が代償を払う時
All the money you made
お前らが稼いだ金でも
Will never buy back your soul
魂は買い戻せないと
And I hope that you die
お前らは死ねばいいのさ
And your death’ll come soon
もうじきその時がやって来る
I will follow your casket
By the pale afternoon
薄暗い午後に
俺はお前らの棺桶についていく
And I’ll watch while you’re lowered
Down to your deathbed
お前らが葬られるところを眺めて
And I’ll stand over your grave
‘Til I’m sure that you’re dead
お前らの死を確かめるまで
お前らの墓の上で見張っているんだ
Written by Bob Dylan
高校生の時にこの曲と出会って必死に覚えました。
ギターで練習をしてハーモニカースタンドを手作りして首から下げて歌いました。
大学生の時に反戦のデモ隊から頼まれて大声で歌ったことが懐かしいです。
正に、今このような歌が必要なのです。
子供達を守りやさしさで包むように音楽家たちが立ち上がる時です。
12月 29th,2023
恩学 |
やさしさに包まれて はコメントを受け付けていません
自信を持つことと過信することは違います。
私のブログでも常に挑戦が素晴らしいと書いていますが気をつけることがあります。
誰もやっていない事に自分一人で挑戦して大きな結果が出た時に落とし穴があります。
それはこうすればうまく行くのだと勝手に記憶に刷り込まれてしまう事です。
何回かこの状況で成功すると知らないうちに「過信」が育ってくるのです。
自信よりも過信が増えると真実の声が聞こえなくなってくるのです。
その対処法は「謙虚」しかありません。
謙虚になると他人の言葉がよく聞こえるようになり、見える景色も大きく広がるのです。
私がプロデューサー時代、自分一人ではヒットは出せないと思いつつも、
忙しくて他人に対する「思いやり」の時間を作れなくなってしまったのです。
いつしか裸の王様になり人の話を聞けなくなっていました。
ある時、先輩のプロデューサーから稲葉が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」が、
分かるようになれば幹部社員に推薦するのにもったいないとも言われました。
謙虚は失敗から学ぶことが多く抜き差しならぬ状況になって初めて気づきます。
常に見栄を張り湯水の如くにお金を使い、自分よりも収入の多い人たちに
ご馳走して六本木や青山・原宿と毎夜歩き回っていました。
プロデューサーとしては情報収集のために当然の行為と勘違いしていたのです。
家族も友人も過信には気づいているのですが止めることは出来ません。
成果が上がっているし、マスコミにも注目されているし、収入も増えているので
ブレーキが掛からなくなっていたのです。
「躓いて初めてわかる人の声」
もっと肩の力を抜いて一歩下がってもヒットは作れたと思います。
新しい時代の音楽を作るのだという意気込みが勘違いの原因でした。
自然界では水を生み出す雲が重要な役割を担っても偉そうにするわけではありません。
そんな時にこの禅語に出会いました。
「行雲流水」
これは禅語で、空行く雲や流れる水のように澱みなく、一定の形をもたず、
深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せることとあります。
行雲流水は決して「自由奔放に行動することがよい」と言っているわけではありません。
一般には細かいことは気にしない、ありのままを受け入れるという意味で、
使われることが多いです。
茶道では、山や岩にぶつかっても形を変えてするすると動いていく
雲や水のように、起きたことにも柔らかく対処していく心構えを示すことも
あります。
雲は山にぶつかり雨として降り注ぐと、川を流れて海にたどり着き、
水蒸気となって再び空を行く…。水の循環を魂の巡りに重ね、
禅では輪廻という解釈も。さらに、恐いものと考えがちな死や老いを自然の
流れだと受け入れて、気持ちよく年を取っていく道理を説いているという
考えもあります。
また「和光同塵」 (わこうどうじん) 慎みという美徳「老子」
個性や自己主張をアピールして、自分を立派にみせることが現代流の生き方で、
それが主流のようになっています。現代は少しでも他人よりすぐれ、
自分の長所を磨き抜きん出ることが評価されているようです。
あからさまな自己主張の時代に失われてゆくのが、謹みや謙虚さ、
奥ゆかしさなどです。派手な光を放つことはないけど、いぶし銀のような
深みのある人、ピリッと鋭い意見をさりげなく言えるような人は
少なくなっています。
こんな時代だからこそ、見直したい言葉が「和光同塵」です。
老子は「その光を和らげてその塵に同ず」と言いました。
「和光」とは自分が勉学、修行によって得た道徳性や知性、才智の輝きを和らげ、
顕(あらわ)にしないこと。
「同塵」とは塵やゴミに汚れた現実世界に同化すること。
聖人であっても、悟りを開いた禅師であっても、その学徳や才智を表面に出さず、
俗塵の中にまみれて衆生済度をするという意味です。と記されています。
禅者のようにいかないまでも、私たちにも出来ることはあります。
自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている
人たちにささやかでも役に立つことをする。
私はその昔プロデューサーになりたての頃、ある雑誌の編集長から言われた言葉が
あります。一流のプロデューサーになるためには、
「電車の乗客を見て物語が書けるようにならなければなりません」
働く女性を見て彼女はどのような人生を送っているか、疲れた中年の男性を見て仕事は
何か役職にはついているのか、子供連れの母親を見ていま幸せなのかと考えるのです。
私は一生懸命車内を見まわしました。その時に気付いたことがあります。
電車の中の誰もが疲れていて楽しそうではないことにです。
見た目だけでは分からない苦しみを抱えてみんな頑張っているのだという事をです。
少し肩が当たっただけで怒る人、バッグが邪魔だと怒鳴る人、高齢者に席を譲れと
文句を言う老人を見て、寂しくもあり悲しい気持ちにもなりました。
それらの風景を見ていつか心を癒せる文章が書ければ良いなと思っていました。
常に音楽プロデューサーとして見たこと、聞いたこと、感じたこと、学んだことを
書き続けて来たのです。誰かの評価を期待していたわけではありません。
そのような経験を経て「恩学」が誕生したのです。
数年前から私は出せる範囲の中で子供達への寄付を続けています。
そしていくつかの団体の理事としても所属しています。
私を必要としてくれる人がいる限り参加するようにしています。
残りの人生は恩を返す人生ですから。
色々な講演会の依頼もあります。無理がないところでお引き受け
させていただいています。感謝でしかありません。
新しいプロジェクトの参加要請も来ています。
村おこしを兼ねて若者たちを育成する養成所の話です。
きっと私の「恩学」が教科書として役に立つと思います。
死ぬまでワンサード精神を貫きとおします。
3/1は自分の為に、3/1は自然の為に、3/1は未来の子供たちの為に
「あとから来る者のために」出来ることはすべて行いたいと思います。
12月 28th,2023
恩学 |
自信を持つ はコメントを受け付けていません
何も考えない、何も求めない、たまには人間を離れて人に還ろう。
人間は意識の動物、人は無意識の動物、魂の赴くままに行動しよう。
昨日は昨日、明日は明日、全ての存在を否定して、今を生きる。
何故、人間は、誰しも身体は洗っても心を洗おうとしないのか。
生きることが精一杯で外見を良くして中身を洗うことを忘れてしまっている。
頭の中は常に上位を目指し、財産を増やし、快楽に溺れ、欲望に捕らわれている。
煩悩まみれになって外見は幸福でも内面は地獄のことが多いのです。
我々は安っぽい知識(常識)に支配されて権力者の操り人形になっている。
学校で嫌というほど社会に従うことを教育されてしまっているからです。
経済不況だから右手をあげて、戦争が始まりそうだから左手をあげて、
AI時代になるから両足を挙げてと、思うがままに振り回されている。
健康な老人まで安心のために朝からサプリメントを大量に服用する。
老人達は歩けば健康に良いからと寒風雨吹き荒ぶ中徘徊している。
意識は健康の事ばかりなのでクリニック通いが日課となる。
製薬会社や医者から脅されてありもしない病名を言われて更に病院通いをする。
「減るのは貯金残高、増えるのは診察券」笑い事ではない。
自分が「自分という存在」に自信が無いから世の中頼りになって騙される。
言いたいことを言って、好きな場所へ行って、食べたいものを食べて、
数着のお気に入りの服があり、お芝居や音楽会へ行ければそれで十分満足である。
それがフランス流の生き方である。彼らはいつもセラヴィー「これが人生さ」という。
たまには芸術作品に触れ、哲学的な話をして、綺麗な川のそばを歩ければ良い。
老人は経済的な心配も、健康の心配も、孤独の心配も、合わせて3Kあるが、
最後まで人を好きになり、オシャレして、わがままに暮らしても良いのでは
無いか。わがままこそ老人に与える最高の福祉である。
誰しもが思考に縛られるから悩みに纏わりつかれて身動きができなくなる。
個人の欲求を満たすために酒やギャンブルやモバイル中毒に溺れる。
そこに答えがないのにいっときの快楽が救いの神だと勘違いをしている。
目的もなく「生きるために生きる」のは結構辛いことである。
「思い邪無し」(おもい、よしまなし)と読みます。
『論語』にある言葉です。
「思い邪無しというのは、道徳思想を説いている論語のことばです。
これが禅の世界で使われると、思いというのは人間のいろいろな想念、
邪(よしま)とは分別の心を表わします。
つまり人間の想念の中に分別の心がなくなったことを表わしています。
それが「大悟徹底」の心境です。
道徳的にいわれる善とか悪とかの悪を思わないということでは決してありません。
仏教的な意味で、それこそ善いことも悪いことも全部超えてしまったところを、
思い邪無しということばで表現していますが、そこまで徹底しないと、禅でいう
心の本当の姿を自覚することはできません。」
思いそのものは生きている限り消えてなくなることはありません。
そこに分別の心がはたらくのがよくないというのであります。
もっとも、分別もなくしては生きていけませんので、禅では一度「無分別」を
体験して、その上で、自在に分別をはたらかせてゆくことを説くのであります。
邪(よしま)な心というと、仏教ではなんといっても「煩悩」を思います。
円覚寺 官長横田南陵「今日の言葉」より
お金があればお金がある暮らしをして、お金が無くなればお金がない暮らしをして、
悩みながらあるがままの暮らしをしていけば良い。今あるもので満足すれば良い。
そのような考えに至るのは心の洗濯を忘れないことです。
そろそろ人間を解放して人に戻ることをしなければ、
短い人生の中で個人の存在がないままで消えていくことになる。
無思考・無関心の学びを取り入れるべきである。
縄文時代は、昼間は人の時間、夜は神(妖怪)の時間とされていた。
人間が光を作り出してから夜遊び(悪行)が横行するようになった。
文明は破壊をもたらし、文化は創造を作る。文化とは人間の知恵である。
「高齢者の田舎暮らし」
自然の中では都会の高齢者は暮らせないという常識を変えるべきである。
買い物の不便さや、病院の不便さは、地元の若者たちと解決は出来ます。
今やドローンが活躍する時代です。AIも解決のために仲間になります。
あれこれ思考する人間をやめて、欲望に無関心になり、
自然と共に人を取り戻しましょう。
人間的な知識を頼りしすぎて怖がるのはよしましょう。
文明社会の欲望にも無関心になりましょう。
これからの人生を心の洗濯も兼ねて第六感の旅へと出かけるのです。
仏教では「無分別」という教えがあります。
知識であれやこれや考えるのを止めて人本来の姿に戻りなさいという事です。
心の洗濯をすればスッキリしますよ。
年末年始の大切な時間に「心の洗濯」をしてみてはどうでしょうか?
良い年をお迎えください。
12月 28th,2023
恩学 |
無思考・無関心 はコメントを受け付けていません