創造力と思いやりと愛




人間関係は全て「想像力」に基づいて行われています。
何事にも想像力を働かせなければならないということです。
言葉が伝達のツールだと教えられて、言葉の持つ力を過信してしまうと、
おもわぬ誤解を生むことがあります。
なぜならなら他人(ひと)は自分の聞いた言葉を自分なりに解釈するからです。
そしてその言葉の意味に捕らわれて行動すると、発信者の意図してないことをする恐れがあります。

東北震災の時に流された家屋の手立てとして仮設住宅を大量に作り被災者を住まわせることにしました。

一見するととても大切な行為なのですが、それ以上に心のケアの方が先にしなければならなかったのです。

一瞬にして家族や思い出を奪われた人たちにとっては住むところも大切ですが、プレハブハウスに送り込んでしまった結果、たくさんの人が自殺で亡くなりました。生きるためには衣食住は大切ですが、生きる希望が無ければ頑張る理由が消えてしまうということです。世界中から多くの義援金や物資が届きましたが、

心の支援ももっと届けば良いなと感じていました。
ここでの「想像力」は人助けのために何が必要かの順番を間違わないことです。

日本の「思いやり」の精神も想像力から生まれてくるのです。
相手のことに関して自分も同じような経験をしていれば少しは理解出るのですが、

海外のお客様となればまったく未経験の白紙状態です。
その国の習慣や価値観、および宗教上の規律も視野に入れなければなりません。
少なからずとも学びと想像力は鍛えることが出来るのです。

思いやりというのは結局「想像力」なのです。想像力で相手の辛さを理解して、
想像力で相手を助けようとする。つまり、「想像力イコール思いやりイコール愛」だと思うのです。

そして、もともと想像力というのは、みんな生まれてきた時に同じように持っているのです。

そういう能力を神様からもらってきているのですよ。
だけどそれは、生きている間に、どんどん育つ人と、だんだん失われていく人が
いるのですね。で、どうやったら想像力が育つかと言えば、一番いいのは本を読むこと。とにかくどんな本でもいいから読みましょうねと言っているのです。
そうすると、想像力ができて、自分以外の人がどう思っているかとか、何かに悩んでいるらしいとか、わかってくるでしょう。そうすると、あの人は何だか嫌な顔しているけど、どこか痛いんじゃないとか、そういうことがわかるじゃないですか。
それが「思いやり」ということですよね。思いやりは愛です。
失恋した人の悲しみは、失恋しないとわからないでしょう?貧乏したことのない人には、貧乏人のつらさはわからない。飢えたことのない人は、飢えた人の悲しさなんて理解できません。

でも、簡単にわからないからこそ、もっともっと「想像力」を使って、相手を思いやろうとしないといけないのです。
「相手のつらさを全部、想像力で理解することなんてできない」と自戒しながら、それでも、ちょっとずつ、そのつらさを理解しようと思うことが大事なのです。
瀬戸内寂聴の言葉より

「小善は大悪に似たり」
「小さな善行」が、結果的にはかえって「大きな悪」に転じてしまうという意味です。
一緒になって悲しむ事は、もちろん「善」なのですが、

私にはそれが「悪」になることがあるかもしれないと思うのです。
「大善は非情に似たり」被災者にいつまでもめそめそしないで、などと言えば、
なんと非情な言いかたか、お前はそんなに冷たい人間なのかと言われるかもしれませんが、

今はその冷たいことをあえて言ってでも、生きていく気力を奮い起こさせることが、真の愛ではないかと思うのです。
稲盛和夫の言葉より

想像力の無い親切は「悪魔の笑みを持つ善行」になります。被災地の人を助ける気持ちで、家庭にある使わなくなった衣料や、賞味期限切れまじかの食料や、履き古した靴などを送る人がいます。それを運ぶお金は、それらを仕分けする人は、それらを求める人はと考えなければ、ゴミを被災地に送ることになります。

ありがた迷惑な話になります。
このように中途半端な善意はかえって被災地の人に迷惑をかけることになるのです。
相手の気持ちを考えて受け入れ先の体制も十分なのか確認をしてから行動してください。

例えば「暗黙知」という教えがあります。親方の背中を見て弟子が学ぶことを言います。
親方は言葉で教えると言葉通りに従って自由な発想の妨げになるから何も教えません。
弟子は親方の道具箱の中を見て、親方の背中の動きを見て、一連の流れを覚えていくのです。

そこには好奇心と逞しい想像力が無ければ十分に理解する事は出来ません。
親方の作った完成品を手に取り、何を伝えたかったのかをじっくりと考えるのです。
それも創造力のなせる業です。そこが理解できなければ一流の職人にはなれないのです。

「想像力イコール思いやりイコール愛」は別々ではなく関連しているのです。
思いやりと愛を感じるのは創造力があるからこそ感じることです。
勘違いをして思いやりをサービスと捉えてしまうと、愛も勘違いをして押し付けになる恐れがあります。

やさしさならなんでも受け入れてくれると思わないでください。
時にはきつくたしなめて突き放すことも「思いやり」には必要です。

忘己利他




忘己利他(もうこりた)と読みます。
己を忘れて他人の利を考えることです。

私が発表した5つの仕事というのがあります。
20代では「仕事」を覚えなさい。30代では「支事」を出来るようになりなさい。
40代では「私事」で家族を守りなさい。50代では「志事」に徹しなさい。
60代以降は己を捨てて「死事」で周りの事を面倒みながら、
迷惑のかからないように生きなさい。

20代30代では私利私欲に溺れても仕方が無い。
そこで人生を学ぶ事は貴重な経験として後に役立つことになる。

しかし40代からは社会の一員として国を守ることも考えなさい。
それはいつしか家族も守ることになるからです。

50代では今一度学び直して人としての志に気づくようにしなさい。
もうここからは私利私欲ではなく利他の心を持って他人の喜びを
求めるように成りなさい。

60代以降は「欲の欲するところ矩を超えず」の通り、身の回りを清潔に保ち
心身ともに健康でいるようにしなさい。そして隣人を愛しなさい。

新しく求めるものは物ではなくて知識以外には必要ないのです。

忘己利他の精神を生活の中に取り入れると、争いごとはなくなり、
ありがとうと感謝の言葉が増える。最後には死ぬことにドタバタせずに
寿命を受け入れるということです。

天台宗の開祖である最澄(さいちょう)さんの言葉に『己(おのれ)を
忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり』
という言葉があり、そこからきているようです。
忘己利他とは、自分を忘れて他人のためにつくすことを言います。

「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べているが、
世界宗教といわれるもののなかで、この精神を否定するものはない。
ヨーロッパのノブレス・オブリージュも同じ精神である。 

人間同士がうまくやってゆくための秘訣は相手を尊敬し、
相手を第一に考えることである。
すなわち、忘己利他の精神である。しかし、実はそれが一番難しい。
自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、
自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次
三の次になる。

しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いである。
それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらがうれしくなるというのは
大人の喜びであるともいえる。

桶に水を張り、ぽちゃんと小石を投げ込むと波紋が同心円状に広がる。
その輪はやがて縁にあたり、また真ん中に戻ってくる。
相手を喜ばせてあげると、やがて自分のもとに喜びが戻ってくる。

ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持っては
ならない。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、これには(密かに)
見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がする。

忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのだ。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよい

長きにわたって縄文時代が平和だったのは、自然に忘己利他で暮らしていたからである。
狩猟・採集・漁労で得た獲物は村人の全員と分け合っていたので争うことが無かった。
奪うことが無ければ戦いは起こらず、分かち合えば平和になる。
その平和を天空の神々や地上の神々に感謝として祈りを捧げてきたからである。

その後、おおくの渡来人により稲作が持ち込まれ、弥生時代から争いごとが
多くなったのは、収穫を己の財産として保存したからである。

その為の交渉のために言葉が生まれて貨幣も生まれた。移動しながら暮らしていた縄文人が土地を耕して定着するようになり、争いも増えたという。

アイヌの教えに「ワンサード」というのがあります。
狩猟・採集・漁労したものを、1/3は自分のために、1/3は自然のために、
1/3は未来を受け継ぐ子供達のためにという教えです。

奪い合えば足りなくなり争いが増える、分け合えば有り余って平和になる。
忘己利他の精神こそが平和を維持できるのです。

もののあはれ




音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、
感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情。
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏。
喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽のガラスの針を持っているのです。
些細な事で喜んだり悲しんだりするのは、そのガラスの針が左右に振れるからです。
感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。

若い時には理性が足りなくて感情だけで行動してしまいます。
好きになるときも別れる時も、花が咲くときも枯れる時も、心に「あはれ」と感じるものがあります。

ここで生まれる「あはれ」とは何でしょうか?

本居宣長はこのように伝えています。
「もののあはれを知る」とは何でしょうか。人は嬉しいときや悲しいときに、
心が揺れ動きます。その心が感極まったときには、「あぁ」というため息が漏れます。

この「あぁ」が「あはれ」です。本居宣長は、こう述べています。
「『あはれ』といふは、もと、見るもの聞くもの触るる事に、心の感じて出づる歎息(なげき)の声にて、

今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」

つまり、「もののあはれを知る」とは「人間の心の動きを感じる、知る」という意味になります。

なお、現代では「哀れ」という漢字のイメージから哀しみに対する心の動きだと誤解されることがありますが、

嬉しいときの「あぁ!良かった!」という心の動きも「あはれ」です。

宣長は、人が物語を読む目的も、和歌を詠む目的も、この「もののあはれを知る」つまり「人のこころを知る」ためだといっているのです。そしてこの「こころ」という言葉には、「情」という漢字があてられています。

「情」という字を使った熟語には、感情・情熱・風情(ふぜい)などがありますね。

人間は生きていくうえで、そういったものを大事にして生きていこうよと宣長はいっている気がします。

物書きも音楽プロデューサーも「もののあはれ」を知らなければ成り立ちません。
何故なら作品のテーマは喜怒哀楽が元になるからです。

ものの成り立ちの瞬間は人間の誕生および自然界の花開く時に感じる喜びの心です。
そして叛逆と改革の変化を求める精神です。いわゆる怒りの心です。
そして「あはれ」へとつながります。いわゆる「あはれ」「哀れ」の心です。
最後には「生老病死」の病や悩みから解放され気持ちが落ち着くことです。
いわゆる死を意識した楽の心です。

仏様は目に見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。

問題はその事実に気づく事ができるかどうかなのです。

仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬどあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見え給ふ
(梁塵秘抄)

目に見えないものと有りもしないものは、似ているようで全く違います。
仏さまは常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。

見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。

感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。
目に見えないものは第六感で受け止めるしかないのです。
これらを音に乗せ言葉に乗せてよき音楽が成り立ちます。
勿論、これらの文字に感情を乗せれば名著と言われるよき本になるのです。

愛と恩




「恩学」の恩とは、さまざまな人生を歩んだものが、最後にたどり着くところに
生まれるものです。今まで人生に関わってくれた人に対して、素直に感謝の気持ちを伝えるものです。

全ては「愛」から始まり、恩返しの「返恩」で終わります。
多くの「愛」で関係が始まり、終わりは悔いを残さぬように「恩」で締めくくるのです。
日本語のア行の最初の言葉「あ」から始まりワ行の最後の言葉「ん」で終わるのです。

「与えし恩は水に流し、受けた恩は石に刻む」ことが日本人の美徳の現れです。

「恩返し」も「恩送り」も感謝の気持ちがなければただの儀礼でおわります。
我々日本人は言葉を大切にする民族です。そして、その言葉の流れも美しくなければなりません。

「恩学」はそれら「恩学び」のお手伝いをさせていただくのです。

仏教の言葉に「代受苦」(だいじゅく)というのがあります。
ほかの人に代わって私が苦しみを引き受けますという意味です。
菩薩様やお地蔵様の慈悲を指しますが、人間にもそういう貴い人がいるのです。
キリストやガンジーやマザーテレサなどがそうですね。
ある意味「代受苦」は「恩」を返す以上の、究極の返礼かも知れません。

主君が受けた屈辱は、我々が引き受けますと、立ち上がったのが赤穂浪士なのです。家族・一族に災難が降りかかると知りながら「武士の誇り」を捨てられなかったのです。家臣たちは、罪はすべて我々が引き受けますからと「代受苦」を受け入れたのです。

「愛」も「思いやり」も創造力から生まれます。この二つの言葉に定義はありません。
相手の環境や現状を創造しながら、求めていることはこうなのではないかと、思いつくことが大事です。

見た目のイメージで、こうしてあげれば喜ぶのではないかという行動は、ただのお節介となります。

正しい創造力を鍛えるためには学習が必要です。

そのポイントの一つはたくさんの良書に親しむことです。
全ての物語は愛と憎しみと非情と慈しみが描かれています。
そしてあらゆるものに恩を感じることによって読者が恩を習得するのです。
あらゆる艱難辛苦を乗り越えて幸福にたどり着く人、同じ運命でも不幸のままで終わる人。

またどん底の人生から再起を図る人など千差万別ですが参考にはなります。

例えば倉田百三の「愛と認識の出発」を読むことを薦めます。
旧制の第一高等学校(現代の東京大学)の学生たちが、最も愛読した書物は何か?
同校で行われた調査で連続第一位となったのが「愛と認識の出発」なのです。
倉田は「国民」ではなく「人間」としての自己を見出すのですが、それと同時に
「他人は本当に存在するのか」という唯我論に陥ってしまう。
「愛と認識の出発」はそのような状態から出発し、唯我論を克服し、他者との
かかわりの持ち方を学ぶ過程が描かれているわけです。思想的自伝というのでしょう。

「異性の内に自己を見出さんとする心」
例えば大野の黎明に真白い花のパッと目覚めて咲いたように、私らが初めて因襲と伝説とから脱してまことのいのちに目醒めた時、私らの周囲には明るい光がかがやきこぼれていた。……

しかしながら私らがひとたび四辺を見まわすとき、私らはわたしらと同じく日光に浴し、空気を吸うて生きつつある草と木と虫と獣との存在に驚かされた。
さらにわたしらと共に悩ましき生を営みつつある同胞(Mitmensch)の存在に驚かずにはいられなかった。

実に生命の底に侵徹して「自己」に目ざめたるものにとっては自己以外のものの生命的存在を発見することは、ゆゆしき驚きであり、大事であったに相違ない。

ああ私は恋をしているんだ。これだけ書いた時涙が出て仕方なかった。
私は恋のためには死んでも構わない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。
何故ならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、
一度私が恋をしてから何だか役に立たなくなったように思われるからである。

私は実に哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。私に恋愛を暗示したものは
私の哲学と芸術であったに相違ない。しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術に
支えられて初めて価値と権威とを保ち得るのではない。
今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれ自ら直ちに価値の本体である。
倉田百三「愛と認識との出発」

『女の一生』(おんなのいっしょう、原題・Une vie)は、主人公の少女ジャンヌが
成長するにつれて人生における様々な不幸を経験していく様を描いた
著者ギ・ド・モーパッサンの代表作である。

修道院を出て両親と共にレ・プープルの屋敷で暮らし始めた17歳の少女ジャンヌは、美しく素晴らしい人生が自分の前にあると心躍らせ、美青年ジュリアン子爵と結婚する。だが結婚すると夫はジャンヌに対する愛情を無くし、金に執着するようになる。
夫はジャンヌの乳姉妹のロザリや、友人のフルヴィル伯爵の妻とも関係を持ち、
さらにジャンヌの母もかつて父の友人と不倫関係にあったことを知り、ジャンヌは人生に対する希望を失っていく。妻の不倫を知ったフルヴィル伯爵は、ジュリアンと伯爵夫人が逢瀬している移動小屋を斜面から突き落とし、二人は死ぬ。

未亡人になったジャンヌは息子ポールを溺愛するが、ポールは外国で女と暮らし、金の無心にしか手紙をよこさなくなる。両親も死に、ひとりきりになったジャンヌの元に、屋敷を追い出されたロザリが戻ってくる。ロザリの助力でジャンヌは財産を整理し、屋敷を売って小さい家に移り住む。やがて、ポールから、恋人が子供を産んで死にそうだと手紙が来る。
ロザリはポールの元に行き、女の子の赤ん坊を連れて戻り、明日ポールも帰ってくるとジャンヌに告げる。

これら二冊の本が何を述べたかというと、自分を見失いながら愛の苦悩に溺れる青年と、

幸福を夢見た少女が恵まれながらも悲惨な人生を歩む姿です。
今の世の中は、短絡的に成功して、短絡的に結婚して、短絡的に人生を過ごすのです。
今の時代に比べると不自由な時代だったかもしれないが、思索の時間が十分にあったということです。

悩み苦しみ葛藤して倒れては起き上がり、人間とは、愛とは、人生とは、と答えを求めて生きていたのです。我々が普段使わなくなった言葉の表現方法が、感情の学びには必要です。

多くの書物の中から「愛」を見つけ、「恩」を学ぶ事が大切です。
そして創造力を鍛えてください。


名言&恩学




The planet does not need more successful people.
The planet desperately needs more peacemakers,
healers, restorers, story tellers and lovers of all kinds.
Dalai Lama
地球はこれ以上成功した人々を必要としません。
地球はこれからも多くの平和主義者、ヒーラー、修復者、
あらゆる愛に基づいた人々を切実に必要としています。
ダライラマ

人々にとって一方的な科学の発展や経済活動の進化は本当に必要でしょうか?
一部の富裕者たちの策略に乗り民衆は奴隷のような暮らしを続けています。
現代人たちにとっての便利で豊かな暮らしの為に自然環境も破壊されています。
我々に必要なリーダーとは「奪うことを目的」として生きている人ではなく、
愛を「分かち合う」理想のもとに生きている人です。
昔からアイヌ民族に伝わるワンサード・スピリット「3/1は自分の為に、3/1は自然の為に、3/1は未来の子供たちの為に」が理解できるリーダーが必要な時代です。
奪い合えば足りなくなり戦争になる、分け合えば余るから平和になる。
ALL YOU NEED IS LOVE愛こそ全てです。

Continuous effort-not strength or intelligence-is the key to unlocking our potential.
Winston Churchill
力や知性ではなく、地道な努力こそが能力を解き放すカギである
ウインストン・チャーチル

西洋の思考から生まれる判断は、正しいか間違っているか、正義か悪か、
豊かか貧しいか、右か左かなどの、二項対立のシンプルな判断でしか答えはない。
その反対に力や知性とは別に、感情から生まれる判断もある。
感情に基づいて行動を起こす時に、自分が目指す方向へ、多くの批判が集まろうと、
地道に前へと進む勇気が自己の能力を最大限に解き放す。
意見を同じにする同調主義が安全だと勘違いしてはいけない。
世の中の大きな流れの中に飲み込まれて自己を失う危険を知るべきである。
個人の判断と勇気がイノベーションを作るのだ。
そして新しい道を進むのはいつも孤独である。孤独との戦いなのです。

「たとえ九十九人が向こう岸で騒いでいても、自分一人はスタスタとわが志した
こちら側の岸を、わき目もふらず川上に向かって歩きとおす底の覚悟がなくてはなるまい。」
森信三

Success is to repeat failure that succeed in failure without losing motivation.
Winston Churchill
成功とは意欲を失わずに失敗につぐ失敗を繰り返すことである。
ウインストン・チャーチル

レジリエンスとは失敗の連続でも乗り越える勇気があることである。
それはおのずから失敗の次に来るのは成功だと知っているからだ。
一度の失敗でくじけるのは日本人、一度の失敗は成功の道筋と喜ぶ米国人。

チャレンジ精神のある人ほど多くの失敗を重ねます。
そして失敗という経験をネガティブに捉えない人はダメージを受けることはありません。
トーマスエジソンの言葉に「私は今まで一度も失敗をしたことがない。
電球が光らないという発見を今まで二万回しただけだ」
大きな成功体験をしている人ほどその数倍も失敗を経験しているのです。
私も何度も人生のどん底を味わいながらチャレンジ精神を失わなかった。
そのお陰で常に新しい市場で成功を収めてきたのです。

Life is really simple but we insist on making it complicated.
Confucius
人生は単純なものなのに、我々が複雑にしようとしているのです。
孔子

世の中に悩みなどは無い。悩みを抱えている人間がいるだけである。ソクラテス
悩みを抱えている人間は近くで見ると悲劇だが遠くから見ると喜劇である。チャップリン
成功するためには悩みという種は必要だがその種に惑わされることは無い。恩学

「悩みのリフレーミング」悩みの元を中心に置いてあらゆる方角から見つめてみる。
例えば、「仕事のことで悩んでいる」
先ずは前方から見て「経験」がないから悩んでいる。
そして後方から見ると「専門技術」が足りなくて悩んでいる。
頭上から見ると誰も気にしていないのに「被害妄想」で悩んでいる。
右横から見ると「人間関係」がうまくいっていないから悩んでいる。
左方向から見ると「収入」が少ないから悩んでいる。
色々と悩みの分析をしてみるべきです。感情的にはならずに冷静な判断ができます。
それ以外に健康に問題ないのか、悩みを打ち明けられる友達はいないのか、
身体は鍛えているのか、息抜きは出来ているのか?などと、
生活全般に問題が無いのかを調べる。心が健康だと悩みに負けることはありません。
DNA研究でノーベル医学賞受賞したフランシスクリックの机の前に貼りだしている
メモには、「今まで自分が悩んだ98%は現実には起こらなかった」と書いてある。
皆様も起こらない悩みで悩むのは止めましょう。

Being honest may not get you many friends but it’ll always get you the right ones.
John Lennon
正直であることは、多くの友人を得ることはできないかもしれないが、
常に正しい友人を得ることが出来る。
ジョンレノン

平和活動や奉仕活動を行うと偽善だと笑う人がいます。
彼らは正しい道を歩く人を嫌うのです。批判する友達を数で自慢するのではなく、
生きる情熱を持っている小人数の友達を誇りにしましょう。
昔の親たちの言葉に「お天道様が見ているよ」というのがあります。
たとえ人が見ていなくても、悪いことをすればお天道様だけは見ているから、
やっては駄目ですよという意味です。
一生涯の内に誰にも評価されなくても、自分の選んだ道をまっすぐ歩くようにしましょう。
正しい友達を見つけることが大切です。それは自分に正直であるということです。

今後も「名言&恩学」はシリーズでお届けします。



感情的にならない




感情的になって良いことはない。
振り返ると後悔するだけ。
なるべく怒らないように、
その人から離れて、時間を置くこと。
本当に怒るべきなのか、自分に問いかけること。
自分にとって大きなことでも、
まわりからすれば、そうでないこともある
問題と相手を分けてとらえて、
解決するためにはどうすればよいか考えるようにする。
Pinterestより

若いときには何度も感情的になり失敗を繰り返した。
振り返ってみればとても些細なことでも気に留めて相手を困らせた。
自分の望むことを中心に置くと相手の行為に苛立ちを覚える。
こだわりや価値観が認められないと絶交にまで発展してしまう。

しかし感情的になって損したことは多々あるが得したことは一度もない。

芸術家にありがちな、心理学的でいうところの<攻撃性>、<易怒性>、<被害妄想>
的な面が、アーティストやプロデューサーにも多く見られた。
自分の価値観やこだわりを面前で笑われてしまうと、その怒りを止めることは出来ない。
私を含む感情の起伏の激しさや直情径行は、創造制作を生業としている人たちには
必要だから一切咎めることはしませんでした。

人は何故言葉に強く影響されてしまうのでしょうか?

人は言葉に強く影響される理由に・・
言葉が情報や感情を伝える強力なコミュニケーションツールであるためです。
言葉は以下のような要因によって影響力を持っています:

1. 情報伝達:言葉は情報を伝えるための主要な手段であり、知識や考えを共有し、
学び、理解するのに役立ちます。
2. 感情表現:言葉は感情を表現し、共感を生み出すのに使われます。人々は
他人の感情を理解し、共感することができるため、言葉は感情に強い影響を与えます
3. 説得力:言葉は説得力を持つ力を持ち、他人の意見や行動を変えるために
使用されます。説得力のある言葉は人々に影響を与え、行動を誘導することができます。
4. 文化と社会的影響:言葉は文化や社会的な価値観を伝え、形成するのに重要な役割を
果たします。特定の言葉やフレーズは社会的な規範や自己同一性に影響を与えます。
5. コミュニケーションの基盤:人間関係の形成と維持において言葉は不可欠であり、
コミュニケーションの基盤を提供します。言葉を使って他人とつながり、協力し、
共感することができます。

したがって、言葉は人々の思考、感情、行動に強い影響を与えるため、
注意深く使うことが大切です。
ChatGPTより

私の考えとしては生まれ育った環境による影響が大きいと思います。
幼児期に親から発せられた言葉で思考が形成されます。
いわゆる親の価値観が子供の脳に刷り込まれてしまうのです。
そして、子供は自我が目覚めて自分の感情も徐々に表現できるようになり、
大人の社会へ参加するようになります。

温かい家庭で成長した子は、人の意見を聞ける大人へと育ち、
問題の多い家庭で成長した子は、人の意見を批判する大人へと成長します。
もちろん、一概にそうではないと言う方も多いかと思いますが、
その傾向はあると思います。

言葉には人格が宿ります。どのような言葉も発せられた人の気持ちが加わります。
「言霊」は発する方も、受け取る方も、理解が均一のものではありません。
ちょっとした言葉で誤解を生んだり、さりげない言葉で感動したり、
思いやりのある言葉が人を惹きつけたり、引き離してしまうのです。

権力者(親、上司、各種リーダー、先輩)の言葉は絶対的に従わなければならないという、無言の圧力が感じられます。そのために自分が同等の立場になった時に、同じことを下のものに強制してしまいます。人の世は同じことの繰り返しかと思います。同じ言葉でも使う立場によって意味が変わることをご注意ください。

人生経験を多くした人ほど感情的にならないのは、経験から生まれた判断で物事を
対処するからです。教科書の文言(常識)をそのまま信じるのではなく、
自分の経験を加えるので結論を急がないのです。相手の言い分の本音は何なのか、
要求は何なのか、何故感情的になっているのかを、相手に気づかれないタイミングで
分析して対応をします。そして傾聴することを心がけします。

韓国の友人から「海は少し波風がある方が美しい」という言葉を頂き、
人間関係において少しもめ事はあった方が良いのかと思いました。
何もかも自分の思い通りになる人生は逆につまらないかも知れませんね。

感情的にならないのが大人としてのマナーです。

脳は鍛えられる



さまざまな経験をすると「心」が強くなると思っていたが、
それは間違いで「脳」が鍛えられて強くなるのだと知った。

感情をつかさどる右脳と視覚で情報を取り込む前頭葉が経験をデーター化して、
この出来事は以前にも経験したことがあると処理をする。
同じ経験を2度、3度繰り返すと脳のデーター処理が早くなり迷うことが少なくなる。

例えば、恋愛において死ぬほどつらい経験をしていれば、

それが次の経験に活かされて、喜びも悲しみも失恋の痛みも調整されるのである。
それは恋愛の興奮まで奪い去るのではなく、いつでも感情のアクセルとブレーキを
踏みながらコントロールが出来るようになることである。

人間関係や仕事においても同じようなことが言える。
良い経営者ほど辛い経験を明るく語るのは、成長期には何度も辛い経験をする方が
必要だと考えているからである。仕事での失敗や取引先でのもめ事もすべて糧となり、
将来に活かされると信じているからこそ暗くなる必要はないのである。

そして鍛えられた「脳」が自信と明るさを表面に出して人間性を伝えられるようになる。

人生の目的は現状に一喜一憂することではなく、将来の目的を達成することなので
目の前の壁の高さは気にならなくなる。もっと脳を鍛えましょう。

年齢を重ねると頼まれる事が多くなりました。
最近若い人達とのやり取りで「それは違うだろう」という思いがありました。
しかし、すぐに怒り、諌めるのではなく「自分も若い時には同じだった」のかと
流れに合わせます。いずれ相手の機嫌の良い時に注意をすればそれで良いのです。

自分の思い通りの内容でなくても、若者たちが一緒に時を過ごしてくれるのですから、
ありがとうと常に感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。

目の前の本棚の中に、今の私の心境を語っている本がありました。
「おかれた場所で咲きなさい」ノートルダム清心学園理事長渡辺和子著
とても心が清らかな気持ちになります。また素直にもなります。

私なりの解釈で加筆もしております。ご了承ください。

「自分の思い通りにならなかったらすぐに腹を立ててしまうのはやめなさい」

自分のルールを相手に求めてもそれが違ったらそれで良いのです。
流れるままに生きることは周りを見ないのではなく、
自分本位ではなく相手も取り入れた形で行うことです。

つまり自分が清らかで勢いのある人生なら相手は自然に巻き込まれて来るのです。
暇は別字で「日間」と言います。日間は日の当たる間ができたということです。
忙しいのは心が亡くなると書きます。太陽の日が当たらなければ草木も育ちません。

心が亡くなるような仕事に追われて自分を見失うほど悲しいことはありません。
自分なりの光を見つけて周りを照らすことに心がけましょう。

「一燈照隅万燈照国」最澄
一人の人のテラス光は隅にしか届きませんが、大勢の人の光は国をも照らすのです。

「清く優しくいきるには」

主は問われる。
「何を望むか」
「謙遜を」
「次に何を」
「親切を」
「さらに何を」
「無名を」
「よかろう」
岡山県玉島にいる牧師「河野進」先生作

地位や名誉を求める為にどれほど多くの人を傷つけたか、
そしてそれを自慢げに話す愚かさが人間です。

尊大な私を取り除き「謙遜」に関係を保つ。
強欲な私を取り除き「親切」を忘れずに応対する。
傲慢な私を取り除き「無名」名もなき一人の人間として対応する。

素敵な教えも守らなければいみがありません。

「NHKスペシャルで取り上げたアメリカの非行少年の改心の物語」

崩壊家庭に生まれ育ち、友達はワルばかりでした。自らも非行に走り刑に服したのです。
刑務所を出所した少年が働く作業場に、ホームレスの男が来てのべた言葉。

お前は、何かにぶつかった時、
「反射的に行動し」、「それから感じ」、「それから考える」という順序で
生きてきたのか。それともその逆の順序だったのかい。
少年は「言われた通りの順序だった」と答えると、だからお前はここにいるのさ。
これからは逆の順序でやってみな。

「考えてから」、「感じてから」、「行動する」
この時から少年の自分自身との戦いが始まりました。

「心が変われば、行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。」座右の銘です。

「親の価値観が子供の価値観を作る」

3歳ぐらいの子供を連れた母親が水道工事のそばを通り過ぎる時に、
「おじさんたちが、こうして働いてくださるおかげで、坊やは美味しい水が飲めるのよ」
ありがとうと言って通りましょうね。

同じ水道工事のところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。
子供に向かって言いました。
「坊やも勉強をしないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

価値観はこのようにして、親から子供に伝えられることがあるのです。
最初の母親は、「人間はお互い同士、支えあって生きていること」、
労働への感謝の念を子供の心に植え付けたのに対し、2番目の母親は、
「職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する」価値観を植え付けたのです。

母親から出た言葉は幼き子供の脳に焼き付きます。良き言葉を使うようにしてください。

「私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」

寸暇を惜しんで、他人より良い木を、より速く、より多く切ることに専念したこの人が、

仕事をしなくてよくなった時に見出したのは、刃がボロボロにかけた斧でした。
木を切る手を時に休めて、なぜ、斧を労ってやれなかったのを悔やんだことばでした。

死の間際に残す言葉の一つに「もっと仕事より自分を見つめる時間を作れば良かった」

「家族ともっと話し合う時間を作れば良かった」というのがあります。
どれほど偉くなり地位や名誉や財産を残したとしても、子供達や友達と
楽しい時間を作れなかったのが悔やみ後悔すると残しています。

そして「自分の趣味をもっと楽しめれば良かったのに」
子供の時にあれほど好きだった趣味が受験によりできなくなり、
社会へ出て出世競争に明け暮れてそのうち忘れてしまう。
お金が少し残せたとしても趣味に時間が取れなかったことが悔やまれるというのです。

多くの団塊の世代は働くことに専念して楽しむことが出来なかったのです。

「堪忍のなる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍」

どうしても我慢できないようなことを許すのを堪忍というのであって、
普通に簡単に許せるようなときには堪忍とは言わない。

自分が寛容であると考えている人は、許すということの心構えが欲しいものです。

良き言葉を学ぶことは人生を変えるほどの力が備わります。
「愛語よく回天の力あり」より

ルサンチマン(ニーチェ)




弱者が敵わない強者に対して内面に抱く「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと。

ニーチェはキリスト教の起源をユダヤ人の支配者ローマ人に対するルサンチマンで
あるとし、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。

「貧しきものこそ幸いなり」
「現生では苦しめられている弱者こそ来世では天国に行き、
現生での強者は地獄に落ちる」といった弱いことを肯定して、欲望を否定しながら
現実の生を楽しまないことを「善い」とする、キリスト教の原罪の価値観・考え方、
禁欲主義、現生否定主義につながっていった。

キリスト的道徳はルサンチマンの産物と主張した。実際に憎悪やねたみが、
キリスト教を作り上げてしまう程の創造的な力に変換された歴史がある。

哲学史では「ペシミズム」(厭世主義)「オプティミズム」(楽観主義)と二極に分けて
考え方を発表することが多い。

ニーチェはプロテスタントの牧師の息子として生まれた。
ニーチェアはロマン主義的ペシミズムを揚棄することに始まる。

「人間が復讐から解放されること、これが私にとって最高の希望の橋であり、
長かった悪天候ののちにかかる虹である」

ニーチェは神を、道徳を、正義を次々に打倒して、ニヒリズムの奥に隠れていたものを
晒していく。それが「ツァラトストラ」の物語である。

人は生きるために目的を明確にして突き進むしかない。
民主主義や自由経済では地位や名声や財産が人生の目的になることがほとんどである。

上司を恨んで経営者に嫉妬して、優秀な同僚を敵にまわして、
弱者が「善」とする考えには同意が出来ない。

文明は自然を守り文化は自然を破壊する。
科学の進歩に合わせる形で世の中の歴史は作られてきた。

それらの枠組みを取り外して頂点に立つことが武士道であるという。
このような飛躍した考えにも同意はできない。

武士の社会にも出世欲にまみれていた武士もおり、金に執着した武士もいた、
藩主は領土を拡大しようとする侵略行為も平気で行なっていた。

男性社会の武士の世界では男色に走る武士も大勢いた。
そのうえ安全確保のために子供を人質として敵に送りことも平気で行われていた。

戦いは勝った方が「善」で、負けた方は「悪」になるのは世の中の定説である。

山本常朝「葉隠」を拡大解釈して美化することには反対である。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」武士の確立した自立の頂点は「刹那」である。
その「刹那」から「現生」(うつせみ)を見て貧しき領民を救うために生きるなど
きれいごとに過ぎない。うわべを美化して内面を腐らせる精神論である。

しかし(戦国武士の開放性と溌剌生が歪められて陰にこもった
色調に蔽われているとはいえ)その強調する主君への純粋無雑な「忠誠」と
「献身」が決して権威への消極的な恭順ではなくて、
むしろ「諸人這い廻りおじ畏れ、御尤(ゆう)ともばかり申す」
卑屈な役人根性や「出る日の方へ」向く大勢順応主義に対して、
吐き気をもようすばかりの嫌悪感に、うらうちされ、学問と教養のスタテックな
享受にたえず抵抗する行動的エネルギーを内包し、
中庸でなくて「過度」謙遜でなくて「大高慢」―要するに「気力も器量も入らず候。
一口に申さば、御家を一人して荷ひ申す志出来申す迄に候」というような、
非合理主体性ともいうべきエートスに貫かれていることを看過してはならないだろう。

お家の「安泰」は既成の「和」の維持ではなくて、行動の目標となる。
こうした側面は集団の危機感に触発された際に奔騰する。

忠誠が真摯で熱烈であるほど、かえって「分限」をそれぞれ守る形で静態的な忠誠と、
緊急の非常事態に際して分をこえて「お家」のために奮闘するダイナミックな
忠誠とが、生身を引き裂くような相剋をひとりの魂の中に巻き起こすのである。

武士道の価値の転換である。

多くの宗教はキリストと同じルサンチマンである。貧しき人たちもルサンチマンである。
世界四大聖人たちもルサンチマンである。人間は生きる理由を見つけなければ
生きてはいけない。だから「死ぬこと」とは「生きること」なのである。

人民から起こる革命はルサンチマン的発想のもとに起こるのである。
貧しきものが、必ずしも「善」である発想は悪を容認することであり、
地位や富を持っている者たちを「悪」と標的にして、
いたずらに攻撃することにつながりかねない。

尊王攘夷を掲げた勤王の武士は全て正しい人間だと定義付けるのも危険である。
武士道を美化するあまり本質を忘れて脇道にそれることの可能性もある。

「草莽崛起」を掲げた吉田松陰も一部の情熱を持った、
地方の下級武士と豪商が結束しなければ何も起こらないことを伝えていた。

必ず正しい行いの裏側には悪意に満ちた欺瞞が渦巻いていることは事実なのである。
それはバラを見てアブラムシを見ないことと同じで、
バラの美しさだけを表現するのは片手落ちなのである。

王道の哲学は表面的よりも全体を見て知識を高めなければならない。
そして自分の意見を明確にして立ち位置を定めなければただの「言葉遊び」に過ぎなくなる。

「恩学」も言葉遊びに捕らわれるが、あくまでも私個人の、
その都度の感性に触れた事柄を表現している文章に過ぎない。

音楽プロデューサーの独り言に何かを感じていただければ、それで良いのです。

子供と大人の垣根




18歳から選挙権が与えられるから大人ですか?
20歳からお酒も飲めるから大人ですか?
22歳で大学を卒業して16年間の勉強が終わったら大人になるのですか?

今までのように両親から食事や自分の部屋を与えてもらえるなら子供のままの方がいいや。
今までのように泣き叫べば子供だから助けてもらえるからいいや。
欲しいものがあれば子供だからなんでも買ってもらえるからいいや。
と思っていませんか?

しかし、突然地震や台風に襲われたときにあなたはどうするのか分かりますか?
もし戦争がはじまりミサイルが飛んで来たらあなたはどうするのか分かりますか?
その時に親や国が安全を保障してくれると思いますか?

コロナウィルスの時のように国が強制的に意識操作をしたときに抵抗が出来ますか?
国民を混乱と恐怖に陥れて、マスク着用、外出禁止、会食制限、大人数での会合禁止など、
数々のルールを作り施行しました。この国は共産主義の国ではないのです。

専門家が言う予防対策としてのマスクの効果って本当にあるのですか?
スパーコンピューター富岳の実験でも咳や唾は通り抜けていましたよね。

国内外は問わずに多くの医者がワクチンの危険性を発信していました。

ワクチンを何回も打っても大丈夫なのですか?コロナにかかったら死ぬのですか?
私は2回罹りましたが死んでいません。

マスコミも誰も本当のことは言ってくれません。政府が言っているから、
学校が言っているから、親も隣近所も言っているから従うしかないのですか?
同調主義だと個性が奪われ自分の意見が反映されなくなると教えられていませんか?

自分の意志は何処に出せばいいのか分かりませんか?
「未来は子供たちが作るのです」と言われてもどうしていいのか分からないと思います。

あなたたちはこの国の歴史を知っていますか?
日本の経済のこれからの状況を心配したことはありますか?
政治家は正しい判断をしていると思いますか?
マスコミは真実を報道していると思いますか?

世界中が自国の経済を回すために混乱を作っているとしたら
どうすれば勝つことが出来るのですか?
学校で学んだ知識は役に立ちますか?

残念なことに「努力」は役に立ちますが「知識」は役に立ちません。

これからは知識の部分はAIが担当しますからあまり役に立つことはありません。
知識を活かした情報分析をして「何をしなければならないか」を探すのです。
その基礎となるのが「生き方」なのです。AIに提案できない領域です。

どう生きるかを知らなければ遊びばかりに夢中になり気づいた時には、
貧しくなり結婚も家族も手に入れることはできなくなります。

いまこそ「志」を学ぶのです。志の第一人者吉田松陰先生の教えを学ぶのです。
江戸幕府を崩壊させ新しい時代を下級武士たちと作り日本の状況を180度変えたのです。
「明治維新」に、これからのやるべきことがギュツト凝縮されています。

この時代の活躍した人の行動を学ぶことにより、自分がなさなければならない目標
「志に軸を置いた生き方」が分かります。

先ずはあなたたちと近い年齢の「橋本佐内」を学んでみましょう。

福井藩のご殿医で「橋本佐内」という人物がいた。
僅か15歳の時に「啓発録」を書き記した人物である。
そして安政の大獄により、26歳という若さで命を落としています。
幼少の時からあらゆる書物(四書五経・論語・六韜三略)を読み天才とうたわれた
偉大なる志を持った武士である。その「啓発録」には五つの項目が記されていました。

一、「稚心を去る」自分と運命を変えようと思うなら、子供っぽい心を捨て去ることである。
二、「気を振るう」負けてたまるか、くじけてなるものかという負けじ魂こそが人を変える。
三、「志を立てる」夢や目標を持て。その方向を目指して絶えず努力する。
四、「学を勉める」学問を学ぶことは大切である。世の中のために正しく生かすことも大切。
五、「交友を択ぶ」互いに切磋琢磨できる良き友を選ぶこと。自分を高めてくれ、心から尊敬でき、何かあった時に、真剣に心配してくれる友達こそ、何よりも大切にすべきである。

佐内は15歳という人生の節目に立てたこの誓いを守り、短い人生ながらも
素晴らしい人材として、教育や政治に大きな成果を残したのです。
現代でもこの五つの項目はそのままあてはまるものであり、
私たちの気持ちを奮い立たせてくれます。

大人になるということはただ年を取るだけではありません。
人生の目標や目的を明確にして社会に貢献することです。

米国の詩人サムエル・ウルマンに「青春」という詩があります。
「年を重ねただけで人は老いない。人は理想を失うとき初めて老いる。
20歳の若者に情熱がなければそれはすでに老人である。
70歳の老人が情熱を持って生きていればそれはまさに青春なのである。」

温かな愛に満ち、生を讃える詩の数々。困難な時代の指針を求める、
すべての人へ贈る。珠玉の詩集です。

結論は「子供と大人の垣根」は無いということです。
今日から大人ですという境界線はありません。
自分がどう生きるかで正しい大人になるスタートです。

不思議な力



合気道の先生から教えていただきました。
「私の手を思い切り押してください。」
男の私が真剣に推しても先生の手は微動だにしませんでした。

私は日頃から鍛えているから当然の結果だと思ったのです。

しかし今度は相手の喜ぶ言葉を唱えながら押してみてください。
と言われたので「先生が幸せになるように」と心の中で唱えたら、
いとも簡単に押し切ることができたのです。

この不思議な力を分かりやすく,合気道の表現で『極意』を説明します。

「真中」(まなか)は,体の仕組みです。

「伸張力」(しんちょうりょく)は,力を感じない体の筋肉の使用方法です。
     気のイメージにつながります。
     前腕の伸張力で発現するパワーが「小手の合気」と呼ばれるものです。

「重力」(じゅうりょく)は,重力場に生きる我々が,どうやって重力を
     使うかのやり方です。

これらにすべて共通するのは,自らの「マインドコントロール」です。
極意を身につけるには「マインドコントロール」は大切ですが,
いずれも,物理的な,身体的な,技術的な原理です。

これらの原理は「気」とか,「気持ちを合わせる」とかの表現で
説明されるものとは違います。

先生はこれが人間の不思議な力で「負けないぞ」と思って押す力と、
「怪我しませんように」と相手を思って押す力では、
後者の方が力の入り具合が断然違うのだと言っています。

先生は「我々も武道の試合の時に相手を倒すことばかり考えるのではなく、
相手を思いやる気持ちを持つ方が勝つ確率は全然違うのだ」と教えてくれました。

日本では競技試合で「勝つぞ」が一般的ですが、欧米では「ファイト」と
声をかけるのが一般的だと誤認していました。

英語で“Fight!”は「頑張れ」という意味では一般的に使用しません。
英語の”fight”は「戦う」という意味の動詞で、相手に対して”Fight!”と使うと、
「戦え!」「やっちまえ!」というような意味になってしまいます。

どちらかといえば、けんかをしている相手をけしかける、
ボクシングや格闘技などで対戦している人に対してかける言葉なので、
普段は使わないものとして覚えておいてください。

英語では声をかける時にはHang in there「負けないで」、You can do it
「君ならできる」、Believe in yourself 「自分を信じて」、Keep it up
「その調子だ」、Don’t give up「諦めないで」が、一般的だそうです。

日本語の「勝つぞ」は「負ける」と一対で使われますが、ここでは「負けたくない」
と逆に力を入れ過ぎてしまいます。敗者の弁で「緊張しすぎた」はプレッシャーが
過度に働いたせいだと思います。

勝つと言う言葉はポジティブな言葉なのですが、それだと全身に力が入りすぎて、
力が分散するのだと言っています。

スポーツの世界だと円陣を組んで掛け合う言葉は「絶対勝つぞ」という
言葉ばかりです。そして精神的にハイになり良き結果と繋げていきます。
しかしその為に怪我をする人も多くいると言います。

個人のやる気と可能性を引き出すには欧米風がいいと思いませんか。

友人のお手伝いする時に、面倒だけど仕方が無いやと思ってすれば、
折角協力をしても依頼ごとを叶えてあげることが出来ません。
この友人が成功すれば大勢の人がハッピーになるのだと信じて、
協力すれば予想以上の成果が出るのです。

仕事に対しても自社の利益ばかり追求するのでは無く、取引先もお客様にも利益が
出るように考えることが大切です。ギバーとテイカーの関係の成立です。
「今日も業績を上げるぞ」。その一生懸命さが相手には不愉快になります。
取引先にもお客様にも喜んでもらえる誠意が必要です。

ボランティアの場合も自分が出来る範囲で奉仕をするのですが、
見返りを求めないことが必要です。困っている人の手助けは無償で
行うのですが、繰り返して行わないと本当のボランティアにはなりません。

絶対間違ってはいけないのが寄付の行為です。
自分たちが不要なものを寄付と称して送る人がいます。
困っている人たちが必要でないものは「ごみ」と同じです。
ましてや輸送料も現地での税金も考えずにいきなり送る団体もあるということです。
まさしく「地獄への道は善意で舗装されている」ということです。

最後に合気道の師範曰く、
「年をとって弱くなってしまうよう技は,本当の技ではない」
ここでの極意を修得すれば,生涯現役です。

とても説得力のある言葉です。
年取って失われるプロデューサー力は本物ではない。
肝に銘じます。