和敬清寂(わけいせいじゃく)




人との距離には正しい距離がある。お付き合いの距離である。
もっとも大切にしなければならないのが礼儀です。
「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
友愛を示すために、大声で挨拶をして、いきなり抱きついてくる人がいますが、
その場の雰囲気を見て行わなければ礼儀に反します。
斯くいう私の周りの友人も私もハグは大好きです。笑い

諸外国では当たり前のように行われている動作でも、日本では場に合わないことが
あります。大切なことは礼儀を知って礼儀を崩すのは許されるのですが、
礼儀を知らずにくだけてしまうと恥知らずになります。

要するにお付き合いの距離とは、
干渉・依存・無関心。どれもギクシャクの種になります。身近にいる人にはつい
甘えてしまうものですが、お互いにある程度の距離感を保っていくことは必要です。
どうもぶつかりやすいな、という相手とは程よい距離を図りましょう。
しかしあまりに気を使い過ぎて、ぎこちなくなるのは居心地が悪くなります。
距離=気持ちの離れ、ではありません。相手の良さが一番見えやすく、
自分のペースをもっとも維持していきやすい、距離感を見直してみてください。

西洋人は握手とハグの距離感が親しみの礼儀だといいます。
我々東洋人はお辞儀をして頭が当たらない距離感が礼儀です。
中東はいきなりハグをして顔をつけあうのを礼儀としています。
最近ではメールやチャットでX0X0とついているのがあります。
これは「hugs & kiss」を表しています。

そして「和敬清寂」とは

「お茶を点(た)てる主人と、そのお茶をいただく客が互いの心を和(やわ)らげて、
敬い合い、精神だけでなく茶道具や茶室、露地を清浄な状態に保つことで澄み切った
こだわりのない境地に達することができる」という意味。

考えが違う人々が、一緒に生きるためには、お互いに尊敬し合わなければならない。
そうした心は、清らかで静かな心境からしか生まれない。
昔から茶道の精神を言い表した言葉で、禅でもよく取り上げられている。

千利休は、茶道の会合に共する懐石料理として「茶懐石料理」を作り出した。
懐石料理(精進料理)に「和(あ)え物」がある。例えばほうれん草の胡麻和え。
2種類以上の材料を混ぜて、調和のとれた「第3の味」を生み出す調理法だ。
それぞれの食材の個性を活かしつつ、互いの味を引き立て合う。

「人間」で考えれば、それぞれの個性を尊重しつつ、「和」を生み出していく
ことにも通じる。

「和敬清寂」は簡単な文字が並び、よく知られているため、つい軽く考えられがちだ。
しかし、激しい競争社会に生きる私たちにとって、忘れてはならない言葉です。
このマナーができる人を大人(たいじん)といいます。

日本には精神修養の場がたくさんあります。茶道、華道、香道、能、歌舞伎など、
昔から続く伝統的な作法や礼儀が日本人の心を鍛えて来たのです。
鎌倉時代から江戸時代まで「武士としての嗜み」として、心を落ち着かせる
手段として取り入れられました。これらは全て禅と繋がりがあります。
臨済宗禅は仏教の中でも無駄と格式を取り除きシンプルに真理の追求に
こだわったのです。

お稽古事の始まりが幼年期から始まり成人になると諸動作の中に深みと奥行きが
増していきます。歌舞伎では3歳から芸の仕草を教えます。
能では6〜7歳の頃から本格的な修行を始めます。
世阿弥が書いた「風姿花伝」は代表的な教科書です。

流石に茶道、華道、香道の修行には年少では無理ですが、その場にいるだけで
高度な精神性は学ぶことができると思います。

お付き合いの距離には、身体的距離と精神的距離があります。
さらにその人の持つ教養(文化的レベル)の距離が重要になります。
教養は表情から仕草までにじみ出て来ます。

それは大人の嗜みです。
「嗜み」(たしな-み)の意味は、大きく分けて以下の3つです。
1. 好み、趣味。特に、芸事にかんする心得。
2. 心がけ、用意。覚悟。
3. つつしみ。遠慮。
現代においては、「大人の嗜み」「酒の嗜み方」などのように、好んで親しむこと、
何かに打ち込むことや、その心得という意味での用法がよく見られます。
辞書的には上記のように、「芸事にかんする心得」を含んでいますが、実際には単純に、
「趣味・嗜好」の言い換えとして用いられることが多いようです。

「心得があること」(=技能があること、承知しておくこと)と、「好み」は、
必ずしも両立しませんが、「好きこそ物の上手なれ」の格言通り、「好み」と
「心得」を橋渡しする言葉が「嗜み」であると言えるでしょう。

礼儀と教養を押し付けるのではなくさりげなく表現する。
「和敬清寂」の精神でお付き合いを楽しんでいきましょう。


そのまま




「そのまま」とは漢字で書くなら「其の儘」です。
「儘」には成り行きに任せること、という意味があります。
成り行きに身を任せると言うと向上を求めず現状維持、という悪い意味で
とらえられることもありそうですが、仏教の教えで「そのままである」
ということには特別な意味があります。 

其の儘の反対は「我が儘」ではないかと思います。
自分勝手な我心我欲にお任せするのではなくあえて、今、ここのあるがままに
お任せするという選択をするのです。
これが仏教の説く「自由自在」という大切な教えです。 

明治から昭和期にかけて活躍した仏教学者の鈴木大拙の言葉に
次のようなものがあります。

人間以外のものは、いずれも、「そのまま」で存立し、「そのまま」に生きて行く。
松は松なりに竹は竹なりに生きて行く。(中略)ただ人間になると、
「そのまま」のところに二の足をふむようになった。
「これでよいのか、な」と、一歩退いて考え込むようになった。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

ここで鈴木大拙が言っている「そのまま」とは例えば『白隠禅師坐禅和讃』で
冒頭に述べられる「衆生本来仏なり」と同義であると考えて良いと思います。
衆生本来仏なりと言われても私たちがそれを素直に受け入れるのが難しいのと
同じように「きみはそのままで良いんだよ。」と言われてもやはりそれを素直に
受け入れる事はなかなか簡単ではありません。これは何故でしょうか。 

「そのまま」であることをためらう理由の一つには他者と比較、区別することが
あります。本来、自分がそのままで良いと思えばそのままで良いはずなのです。
それなのに、そこに他と比べてああだ、こうだという余計な考えが生まれるから
私たちはそのままであることに二の足を踏んでしまうのです。

哲学くさくなるかも知れないが、人間は根本的な”そのまま”を忘れ、
働かしてはならぬところに「分別知」を働かして、ありもせぬ苦しみをこしらえて、
その中に自分を投げこんだ。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

と、鈴木大拙は続けます。あれこれ気を回したり、考えたりすること
(=分別知を働かせること)を「しなくても良い」と言っている訳ではなく、
考えなくても良い所に気を回してしまうから余計に苦しくなってしまうのだ、
ということです。 例えばお墓参りにはいわゆる作法と呼ばれるものが存在します。
テレビなどでもお彼岸やお盆の時期になると盛んに墓参の作法が紹介され、
私たちはどこかでそれを常識として受け入れている所があります。

墓参の時に一番大切なのは目の前のご先祖さまや仏さまを想って心静かに
拝むことのはずなのに、いざ墓参の時になると私たちが勝手に思い込んでいる
「常識」に縛られ、人の目が気になってそわそわしてしまう。

作法を正しく遂行することが気になりすぎて拝む心がおろそかになってしまえば
それこそ本末転倒です。そのままであるというのは外部からの情報を鵜呑みにする
ことではありません。自分自身の「信心」にそのままであるということです。
信心を持っているからこそ正しい作法を知りたいと思うし、墓前の方を思って
手を合わせた時に心が落ち着くのではないでしょうか。 

信じる心に対してそのままである時には、自分が良ければそれで良いという
わがままな心が自然と消え去っています。自分のことしか考えられない。
不安だ。カリカリしている。そんな時に心静かにご先祖さまや仏さまに手を合わせる
余裕はありません。あれこれ考えるのをやめて、あえて「そのまま」の生き方に
飛び込んでみるという選択肢も忘れないように日々を精進して参りたいと思います。

私がストレスに強いのは心の中にいくつものチャンネルを持っているからです。
元々激しい感情の持ち主だったのでまわりは手が付けられなかったと思います。
何度も人生の辛酸を舐めて、年齢も重ねて、哲学や宗教本から冷静な心が芽生えました。
怒りが起こった時にはすぐにチャンネルを変えて違う場面にしてしまうのです。
それでも収まらない時には怒りの電源を切れば良いのです。

しかし創作活動をしているときには「そのまま」の感情を大切にします。
ここでは他人の意見より自分の意思を大切にすべきなのです。
「分不分別」で考えるのではなく、自分の率直な感情を信じるべきなのです。
「これでいいかな」ではなくて「これでいいのだ」と強く言い切るのです。
これは「我儘」ではなく「そのまま」なのです。

辛い時に救われる言葉・心が楽になる名言

【マザー・テレサ】
「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」
人は、何に挑戦しようとするとき、リスクを考えてためらってしまうことがあります。
この言葉は、成功するかしないかという結果よりも、まず挑戦することの大切さを伝えて
います。

【ヘレン・ケラー】
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」
彼女の言葉は、重い障害を乗り越えた上での言葉だけに、私たちの心を奮い立たせます。
困難があっても、挑み、乗り越えることで道が開ける、そのようなことを教えてくれる
名言です。

【ニーチェ】
「まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。」
実績は関係なく、自分を愛し、肯定することの大切さを説いています。
「毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、
翌日も駄目になるおそれがある。」
「今日もこれができなかった」と落ち込むのではなく、
「優先順位をつけつけて取捨選択をしたまでだ」と前向きに考えるだけで、
心が軽くなるものです。

【トーマス・エジソン】
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ。」
エジソンは、幼少期学校を退学になり、最初の発明が営業的に失敗するなど、
決して順風な人生ではありませんでした。しかし、どんなに失敗を重ねても
「上手くいかない方法を知っただけで、これは失敗ではない」というポジティブな
スタンスで努力を続けた結果、偉業を成し遂げています。

【アインシュタイン】
「挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。」
人は挫折や失敗を恐れて、ついチャレンジすることを辞めてしまいますが、失敗を
恐れて何もチャレンジせずに終わる人生は楽しいのでしょうか? 「挫折」と聞くと
マイナスな印象が強くなりがちですが、「挫折」があるのはチャレンジしたからこそ。

私達もそのままに、あるがままに、心のなすがままに生きて行きましょう。


自分らしさ




学校や親から教えてもらうことは「常識と基本」です。
一生懸命覚えて社会へ出ていくと何かが違う事に戸惑います。
世の中では必ず他人と違う「貴方らしさ」を問われます。
今までは「常識と基本」だけで十分だったのにこれからの社会では通用しません。
それらは生成AIが担うのであまり役に立たなくなるという事です。

一般的に自分らしさとは個性です。個性とは幼児期から成長期にかけて培われるもの
です。その貴重な時期に画一化された教育を受けても個性は育ちません。
自分が好きなことや得意な事を教師や親に伝えても反対されます。
教師からはそんなことをしていたら試験に落ちてしまうぞ。
両親からは好きなことをやるのだったら協力しない。これは紛れもなくパワハラです。

一体全体「自分らしさ」とは何でしょうか?

デンマークでは早くから子供達に学びを選ぶ権利を与えます。
学校も教室も、家庭でも、授業のやり方も、自分で選ぶことができます。
青空教室でも近くの美術館でも博物館でも自宅でも構いません。
課外授業で海外へ一人旅に出ても一向にかまいません。
世界中の教育者や親たちが「そんな無茶な」と驚きます。
しかし教育水準が世界一なのにもっと驚きます。

デンマークの義務教育は、小学校と中学校にあたり、年齢にすると6、7歳から
16歳となります。ただ、ここでいう義務教育の意味は、学校へ行く義務ではなく、
教育を受ける義務。
そのため、基準を満たしていればホームスクーリングという形でも可能です。
実際は、8割程度の生徒が公立の小・中学校(フォルケスコーレ)へ通っています。
また、近年わずかながら増えているという私立学校に通う場合でも、
国から80%ほどの補助が出るため、教育費で諦めることはありません。

自身の望む教育を受ける権利がしっかりと保障されているのです。

フォルケスコーレでは「生徒が民主主義社会の一員としての役割を全うできるよう、
教育すること」を目的に据えています。
学年は0~9年生の10年制。0年生は学校への導入段階として設けられている
学年で、保育士の資格をもつペタゴーが担当します。従来は選択制でしたが、
2009年から義務教育に組み込まれました。9年生修了後には10年生があり、
希望すれば一年長く学習できます。また、到達度によっては、再度同じ学年で
学ぶこともあります。その判断は、本人と親と教師との話し合いで決定。

実際、クラスに年齢のちがう子がいるのはごく普通で、本人も負い目を感じる
ことはありません。

OECDの調査によると、GDPに占める教育への公的支出の割合は、

デンマークは6.3%、OECD諸国の平均は4.4%、日本はデンマークの半分程度の3.2%となっています。
(2014年公表)

教育への投資は将来への投資であることは、言うまでもありません。
教育は社会をつくる、といっても過言ではありません。
そして、私たちの教育の場は学校だけではありません。
探究型の学びです。自身の「なぜ」からはじまり、「知りたい」を求め、
「おもしろい」を感じる学び。自分発の学びが人生を彩る、と断言できます。

デンマークは日本と同じく天然資源に乏しい国で、人を育てることが国の成長に
欠かせないことを早くから認識し、投資をし、充実化を図ってきました。
教育はいつでも、どこでも、誰にでも開かれている。
人あっての国の姿勢が見て取れます。

日本の教育者や指導者は子供達をグライダーのように上に引っ張るのですが、
その後、卒業と同時に手を離して自力飛行を強制します。
その為に多くの若者が社会に出ると戸惑っているのです。
私はこれだけ出来るという自信が、いきなりその程度では使い物にならないと
宣告されます。
大人は自分達が通って来た指導法をそのまま当てはめようとします。
自分達も苦しんだのだからお前たちも同じ苦しみを味わえと言っているようなものです。

大学や自衛隊の体育会系にある暗黙の威圧意識です。
最近では宝塚歌劇団も同じような問題が指摘されました。

自分らしさとは何なのでしょうか?
それはわがままで、そのままで良いのです。
わがままは自分の主張です。これがやりたいのだという気持ちです。
そのままとは駄目だとか恥ずかしいとか嫌われるのではないかという気持ちが出ても、
そのままで良いのです。素直な気持ちこそが自分らしさなのです。

それが音楽に表れて自分なりの表現力が高まるのです。
それがデザインに表れて着る人の心をとらえるのです。
それが絵に現れて万人の心を癒してくれるのです。

この人を目指して頑張りなさいというアドバイスは、その人の真似をして
頑張りなさいという間違った言葉に聞こえてしまいます。
あらゆる技量は真似をしての表現だと自分ではなくなります。
技量に自分なりの味つけをすることが大切です。

私が以前紹介した韓国のピアニストがいます。
HJリム・ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ」を発表した女性です。
ベートーヴェンが力を入れたジャンルの一つがピアノ・ソナタです。

スター演奏家になるために必要なことは? 技術やセンスはもちろんだけど、
答えは「音楽コンクールでの優勝」。
ただ、審査員により「お決まりごとができているかな?」が審査されるコンクールでは、

真に個性的なスター演奏家が生まれにくいと言えなくもないのです。

パリで学ぶ韓国出身の若きピアニスト・HJリムは、熱い情熱で独自の表現を深化させ、
コンクールに関心を持たず。母国の両親に見せようとYou Tubeに上げた演奏会の
動画が大評判になった。なんとレコード会社から声が掛かり、24歳という若さながら
大作ベートーヴェンのピアノソナタ全曲でデビューした。
正にインターネット時代のシンデレラ・ストーリー!です。

日本では4つに分売され、最後の第4集(CD2枚組)がこちら。1枚目はゲーテの『ファウスト』から引用した

『永遠に女性的なもの – 成熟期』というテーマで24番、27番、30番、31番を収録。

理想の女性を求め続けたベートーヴェンの賛美や優しさが際立たされた恍惚とする演奏の収録盤です。

私の愛聴盤です。

如何でしょうか「自分らしさ」の教育と、ピアノで「自分らしさ」を表現したHJリム。
どちらも常識的にはあり得ないことです。
私の人生もあり得ないことの連続で「自分らしさ」を作りあげたのです。

もっとわがままで、そのままで自分らしさを表現してください。
昨日お会いしたピアニストへ贈ります。


逆境の中を生きる




例えば、山の中に迷い込み二股の道に差し掛かった時に、右は人が通った跡があり、
左は獣が歩いた道があったとする。果たして貴方はどちらの道を選ぶだろうか?
一瞬にして判断する時に多くの人は人が歩いた右の道を当然選びます。
サバイバルの方法では必ず獣が歩いた左側の道を行けと書かれています。
遭難した人が歩いたかもしれない右側の道は一見安全なように見えるが、
果たしてそうなのだろうか?それよりも獣が頻繁に行き来する道の方が確かなのである。

獣は本能的に安全な道を選んでいるからです。

私は今まであえて困難と思える道を選んで来ました。
楽だと思える道は多くの人が選ぶ道でそこには競争があっても癒しはないからです。
困難から生まれる癒しとは険しい山道を登り頂上に着いた時に感じる爽快感です。
スポーツで言えば箱根マラソンのように自分の任された区間で息も絶え絶えに走り切り、
次の走者へ襷を渡した途端倒れてしまうランナー。

しかし彼らがゴールに集まった時にはいたずらをした後の子供の笑顔に溢れています。
誰しもが辛いと思えるランナーにはなりたいと思わないが、彼らはあえて過酷な道を、
自分のために、仲間のために、学校のために走れる喜びを知っているから走るのである。

私が担当した多くのヒットは制作会議で反対されたものがほとんどでした。
それは、管理者は安全と思われる道を進めるからです。
暴走族の親分の歌は会社に似つかわしくない、アメリカングラフィティーのひ弱な歌は
時代に合わない、黒人音楽は日本人に合わない、

女子高生の放課後の歌を誰が聞くのか等々いろいろ言われて来ました。

しかし、それらが全て爆発的なヒットとなったのです。

みんなが選ぶ安全道には過酷な奪い合いがあり、
みんなが選ばない道にこそ勝利があるのです。

禅語の中に「七走一坐」と「一日一止」という言葉がある
(『心配事の9割は起こらない』枡野俊明著/三笠書房)。
「七走一坐」とは、七回走ったら一度は坐れという意味だ。
ずっと走り続けていないと仲間から後れをとってしまう──ついつい私たちは
そんなふうに考えてしまう。しかし、長い目で見れば、ずっと走り続けることは
良いことではない。しばらく走ったら休息をとり、自分の走りを見直すのが賢明である。
「一日一止」とは、一日に一回は立ち止まりなさいという意味だ。
ずっと歩き続けるのではなく、一日に一回くらいは自分の歩き方を見つめ直す。
そうすることで、正しい歩みをつくっていくことができる。
「一止」という字を見てみよう。「止」の上に「一」を乗っけてみると「正」という
字になる。一日に一回、止まって自分を省みることは正しいのだ。

最後に最も多くの関係者が反対したのは「韓国ドラマ」と「中国古典演奏」だつた。
朝鮮人のドラマなんて日本人は見ることはないお前はプロデューサーとして終わった。
嫌いな中国のカビの生えた音楽を誰が聞くのか、
CDショップの一番目立たないところで売れ残るだけだと言われました。
結果はご存知のように韓国ドラマは日本人の女性の心を捉え、その後アジア各地でも
大ブームを起こしたのです。中国古典楽器奏者の「女子十二楽坊」も一瞬にして
世の中で空前の大ヒットとなったのです。これは演奏家のヒットの記録を作りました。

「2人の商人」

昔、江州の商人と他国の商人が、2人で一緒に碓氷の峠道を登っていた。
焼けつくような暑さの中、重い商品を山ほど背負って険しい坂を登っていくのは、
本当に苦しいことだった。途中、木陰に荷物を下ろして休んでいると、他国の商人が
汗を拭きながら嘆いた。「本当にこの山がもう少し低いといいんですがね。
世渡りの稼業に楽なことはございません。だけど、こうも険しい坂を登るんでは、
いっそ行商をやめて、帰ってしまいたくなりますよ」

これを聞いた江州の商人はにっこりと笑って、こう言った。
「同じ坂を、同じぐらいの荷物を背負って登るんです。あなたがつらいのも、
私がつらいのも同じことです。このとおり、息もはずめば、汗も流れます。
だけど、私はこの碓氷の山が、もっともっと、いや十倍も高くなってくれれば
有難いと思います。そうすれば、たいていの商人はみな、中途で帰るでしょう。
そのときこそ私は1人で山の彼方へ行って、思うさま商売をしてみたいと思います。
碓氷の山がまだまだ高くないのが、私には残念ですよ」

最後に皆様も好きな方や得意な方ばかり求めるのではなく、あえて苦手な方へ挑戦をして
みてください。辛いですけれど結果はどうであれ満足感と爽快感は味わうことは出来ます。
私はこれからも逆境の中を生き抜いていきます。


風のように




振り返れば長い人生も春の風のように通り過ぎた。
一瞬の瞬きの中に消え去る景色のようだった。
少女のため息のようで美しくもあり儚くもあった。
夏の日の陽炎のように淡く滲み出るような揺れる景色の中に、
自分の姿を映し出した。
あー揺れる空想の世界のように掴みきれないもどかしさがある。

幼き頃の悲しみは街頭芸人の踊りのように笑いを誘って消えていく。
何故だろうその寂しさは朝顔に垂れる早朝の雫のように消えていく。
夢は回転扉のように風に押されてただ回るだけ。
カラコロと回る押しグルマのように同じところから抜け出せない。
悪戯をして細き畦道のぬかるみの中を歩き続けて帰るだけ。
あー銀河の中で迷子になった子供のような不安が覆い尽くす。

思い出は桜、思い出は向日葵、思い出は曼珠沙華、思い出は梅の花。
手水のそばの水琴窟のような美しき鶯の声。
絹の裾が擦れる音に混じってため息が漏れる。
水墨画の中に色鮮やかな寒中梅を見る時期に死んでいく。
頑張った過去を振り返りながら思い残すことは何もない。
私は一人で生まれて一人で死んでいく未練も残さず。
あー命の尽きる瞬間の美しい宮殿よ幾つもの思い出を食い散らかして行くのだ。

何故かこのような詩が突然浮かんできた。
詩人でもない私の散文詩である。価値なき言葉の羅列である。

「秋の夜長(よなが) 冬 未だ来たらじ」

勿体ぶった人生の残りを潔く後継者へ伝えるつもりである。
言葉を探して言葉に行きた人生を惜しむつもりはない。
恩を学び、恩を返して行く人生だったのかも分からない。
この早朝の瞬間も言葉を探している。

真理は、実は間近にある、ところがこれをかえってどこか遠くにあると求めてしまう、

真実は簡単であるのにかえって難しくしてしまっているというのです。

嵐はかならず去る
火はかならず消える
夜はかならず明ける
このことがわかれば
大抵のことは解決する

坂村真民先生の詩を今の時期に読んでみると大きな力をいただく思いがいたします。
「もしこのまま寿命がつきるならば、願わくは大智慧の力をうけ、それによって
正念に住し、 来世は因縁のある家に生まれて、早々に出家して仏道を求めよう。」

言葉の持つ魔力は人の心に断りもなしに入り込むことである。
そして喜びを、悲しみを誘い生きる力になることである。
言葉は魂を震わすことから「言霊」と呼ばれる。
幼児期に勝手に覚えた言葉だから自分のものだと勘違いをするなよ。
大切に扱うのだ。

神様が人間は様々な感情が生まれるから伝達手段として言葉を授けてくれた。
一万年前の縄文人から簡単な言葉は生まれている。
それは海を渡って渡来人が頻繁に来るから必要とされて簡単な言葉は使っていたのだ。
縄文土器を見るとあの緻密なデザインは言葉なくして表せない。
それを子孫に伝えるために簡単な言葉は使っていたと思われる。

縄文人の祈りとアイヌ民族の祈りは同じです。
取った獲物は3/1は自分達(家族)のため、3/1は自然のため、残りの3/1は未来の
子供達のためと祈りながら分配するのです。
これをワンサードの教えと言います。奪えば足りず、与えれば余る。
世界は奪い合うから戦争が絶えないのです。

風のように流れる雲のようにゆったりとした気持ちで過ごしたいものです。

達磨大師が伝えてくださった禅の心は、文字では表現しきれません。
このことを「不立文字」と言います。 文字は日常の中で何か伝えるためには、
とても大切なものです。しかし、実際に感じたことをいくら文字や言葉を使って
表現しても、表現しきれるものではありません。
温度、痛み、喜び、悲しみなど、自分自身で体験してみることでしか
伝わらないことがたくさんあります。 
禅では体験を大切にします。だからと言って、文字や言葉が不要ということでは
ありません。文字や言葉に固執したり囚われたりすることなく、実際に体験をし、
あるがままに世界を見ていくことを大切にしているのです。

このような投稿もありました。
ある和尚様の本を読んで、どうしてもその和尚様に会いたくなってお寺を訪ねました。
そうしたら、その和尚様が参道を歩いていらっしゃったのです。
その歩く姿が坐禅をしているように美しくて感動しました。
ますますファンになりました。」

風のようになにものにも捕らわれない生き方の中で、その姿の存在感を見て
感動してくれる人がいることに感動しました。

風のようにあるがままの人生をお過ごしください。


自然の中に




「自然の中にいると人を感じる」この言葉は山伏修行者星野文紘の言葉です。
私は壁のように剃りたつ険しい山も見ると登るぞと気合が入るが、後ろにいる
後輩山伏は、これは無理でしょうと答える。無理という思考が働くために
やる前から諦める。この時点で人から人間の違いが出る。

もっと気ままにしたい事を素直に信じて行えば良いのに躊躇するのは人間だ。
私は「自然、祈り、命、魂」の四つを大切にしている。
人は無意識、人間は意識を大切にするがもっと自然に従えば良いのだ。
人間は考え過ぎなのだ!もっと解放されるべきである。

考えるな!そのままで良いのだ。自閉症の人にもそのままでいいのだという。
殺人を犯した人にもそのままでいいのだという。人を殺したお前はそのままでいいのだ。

自分で選んで望んだからそのままで良いのだ。何も解放されるものは無い。

わが師哲学者行徳哲男(91歳)は吠えた。
野生のカモ、広島原爆、キルケゴール、斎藤茂吉に当てた芥川龍之介の最後の言葉
「末期の目」、呵々大笑、富士登山など終わりなく吠え続けた。
死は縁起が悪いとか汚いとかいうけれどそんなものじゃない。
お悔やみは言わない、葬儀の際にも位牌にむがってお前と語りかける。
身体は死んだが魂は存在する。そこに話しかけるのだ。

死については日常世界から非日常の世界へと移るだけ。

生成AIの中にはデーターがあるが喜怒哀楽は無い。最終的に勝つのは人の心である。
そのためにも自然があり祈りが、命が、魂があるのだ。

これからの時代は頭で考えるのではなく感性で感じる世界が正しい。

今世の中にある問題は善悪、正邪、損得の二元でを決めたりするが、

人ならば目の前の死にゆく姿を許せるわけはないはずだ。
毎日戦争で亡くなる人がいるのに理屈で考えるから身動きがとれない。
累々と横たわる屍を他の国の出来事と達観する。

自然(じねん)の会2023/12/10
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白

芥川龍之介「末期の目」「ただぼんやりした不安」という有名な一節も記されている。
この遺書のなかで、個人的に興味を惹かれる言葉が、「末期の目」である。
氷のように透み渡った病的な神経の世界で、今にも自殺に向かおうとするとき
だからこそ、いっそう自然は美しく見える。
それは、世界が「末期の目」に映るからだ、と芥川は説明する。
死を近いものとして感じたことのある人間なら、もしかしたらこの言葉の
意味することは、感覚的に理解できるのではないだろうか。
そして、「末期の目」に映る世界の美しさを表現することができるとすれば、
それこそが芸術家と言えるのではないか、と思う。

作家の川端康成は、「末期の眼」という昭和8年に書かれた随筆のなかで、
この芥川の言葉について論じ、「あらゆる芸術の極意は、この〈末期の眼〉であろう」
と書いている。その「目」で世界を見ること自体は、あるいは「容易なこと」かも
しれない。しかし、末期の目で世界を眺めながら、自殺しないこと。
その世界で見る美しさを、寸分の狂いもなく、この手にすくい取ること。
画家にせよ、詩人にせよ、これが芸術家として存在し続けることの難しさでもある。

ちなみに、芥川龍之介に傾倒していた堀辰雄の小説『風立ちぬ』では、
死の病に冒されていた節子の台詞として、「あなたはいつか自然なんぞが本当に
美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけと仰ったことがあるでしょう」
という言葉も登場する。
出典 : 芥川龍之介『或旧友へ送る手記』

人生に悩んでいる人へ。キルケゴールの名言
「人生は後ろ向きにしか…」
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」
Soren Kierkegaard(セーレン・キルケゴール)

英語には “Everything happens for a reason.” というフレーズがあります。
これは「世の中のあらゆる出来事は理由があって起こる」という意味で、
たとえそれが悪い出来事であってもそれは自分の成長に必要であるから起こるのだ
という、そうした考えを背景にした言葉なのですが、ただ、その出来事が将来の
自分にどのような影響を与えるかは後から分かることです。

例えば、誰かと出会って、その人が自分の運命の人だと思って、ただ、本当に
その人と一生一緒にいるかは分からないですよね。
後から振り返ると、その人との出会いは自分に失恋のつらさを教えるための
ものだったということになるかもしれません。

また、中国の古代思想家孔子はこのような言葉を残している。
「人生における最大の栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
何度転んでも起き上がることにあるのだ」

「野鴨の精神」
2011年にWeb上にアップされた「IBM創立100周年記念サイト」には、
「Wild Ducks(野鴨たち)」という映像が紹介されています。
「野鴨の精神」はIBMの底流に流れるものであり、1959年当時IBM会長だった
トーマス・ワトソンJr.は、「ビジネスには野鴨が必要なのです。
そしてIBMでは、その野鴨を飼いならそうとは決してしません」と言った
というのです。1960年代から1980年代にかけてコンピュータの世界に君臨した
トップ企業を支えた「野鴨の精神」とは、どういうものなのでしょうか。

「野鴨の話」と実存哲学
この話は、コペンハーゲン生まれの哲学者、セーレン・キェルケゴール(1813-1855)
が残したものです。7人兄弟の末子として、家政婦から後妻になった母と、
裕福な商人の父の間で育った彼は、若い頃から憂鬱な傾向がある一方、物事を深く
見据え、容易には承知しない実存哲学者の先駆けとして、『死に至る病』などの
著書を残しました。

なぜ、「野鴨の話」が実存哲学とつながるのでしょうか。それは彼の死後、
ドイツの哲学者ハイデッガーが、この話を「被投的投企の哲学」と呼んだからです。

人間は誰しも生まれる場所も時間も選べない。ハイデッガーの言う「投げ込まれた
(被投)」状態ですが、その限られた状態の中で、これからどういう在り方を
すべきかは、自分の責任で瞬間ごとに決めていけます(被投的投企)。
哲学用語にすると難しくなりますが、「野鴨」に託されているのは、
そのことだというのです。

それに比べると、冒頭のIBM会長の解釈である「飼い慣らされてはいけない。

飼い慣らしてはいけない」は、いかにも明快に聞こえます。
実は「投企」は英語ではプロジェクト(project)ですから、まだ誰も行ったことのない
ビジネス上の冒険を進めていくことは、「被投的投企」の連続状態とも呼べるわけです。

私は自然(じねん)の会に参加して。
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白を聞き震えました。
魂がその言葉を求めていたからです。

良き教え良き言葉を聞くことは人の目覚めに役立ちます。


音楽の制作




「録音技術」
録音技術の進化が音楽の進化につながった。
私がスタジオで働いているころはチャンネル数4ch~16chで太いテープを回して
録音した。その後64chになるまでさほど時間はかからなかった。
そして今はコンピュータにデーターを取り込む時代なで、無限大にチャンネル数は
増やすことができる。
最小2ch時代のビートルズはアイデアの実験を繰り返して最高の音楽を作り出した
のです。それは、各楽器の録り方、歌の入れ方、効果音の入れ方、ミックスダウンの
やり方などに、毎回工夫を凝らしたのです。

日本でもそれぞれが自由にアイデアを出して制作していた。
楽器の音色を高くするためにテープの速度を速めたり、低域を増やすためにバスドラの
中に座布団を入れたりもしたのです。有名なのはフォーククルセダーズが作った
「帰ってきたヨッパライ」です。深夜番組で放送されてから町中にこの曲が流れました。
吉田拓郎のオケの作り方。加藤和彦のサポート。企業秘密なので詳しくは書くことは
出来ないが、スタジオ内でのやり取りは大変学ぶことが多くありました。
ここでも参加ミュージシャンが協力して、アイデアを出し合ってよい音楽作りに
専念したのです。良い音楽を作ることは勿論ですが、聴衆が喜ぶような音の品質向上と
仕掛け作りも重要な時代でした。

「作詞家に依頼」
安井和美、荒井由美、松本隆、売野雅勇、川村真澄、秋元康との思い出がある。
当時大御所は手直しが出来ないと評判でしたが、私は構わずに自分が納得するまで
書き直しをお願いしました。
自称、私は日本一のプロデューサーを豪語していたからです。大笑い!
川村真澄は久保田利伸で、秋元康はおニャン子クラブでお付き合いしていただきました。
毎回打ち合わせの時に笑いが絶えなかったお二人でした。

「全体のイメージの作り方」
アーティストごとに時代に合ったテーマを考えて提案をしていました。
詩が先か、曲が先か、毎回アーティストに合わせた作り方をしました。
楽曲のイメージが見えてきたらジャケットのデザインを同時に考える。
帯原稿(レコードについていた紙の帯)と楽曲紹介を考えて宣伝文句も提案していた。
制作会議で営業から初回の枚数が発表される。品切れは絶対にNo!です。
プロデューサーとして取材から挨拶回りから地方営業まで全部仕切っていました。
何度もマネージャー代わりをしてアーティストと二人で挨拶回りをしました。
ご存じでしょうか?楽曲によって営業する最初の地域が違うのです。
北海道の人が好きな曲調と沖縄の人が好きな曲調は違うのです。

ヒットに火をつけるとはこのようなことを言うのです。
この戦略が功を奏して多くのヒットを生むことが出来ました。

「仮歌の思い出」
おニャン子クラブ会員ナンバー12番河合その子のデビュー曲は、
映画「慕情」からのイメージで「涙のジャスミンLove」が誕生しました。
「慕情」は香港を舞台にした大人の恋愛物語です。通常仮歌はラララで歌うか
シャララで歌うムムムのスキャットで歌うかそれとも仮詞で歌うかです。
私が急遽、その場で仮詞を作り歌ってもらったのが「涙のジャスミンLove」でした。
通常は手本として仮歌の歌手を代用するのですが、その時はその場にいた
河合その子が、私が直接歌いたいという事でテスト録音をしました。
この時の歌がフジテレビでもレコード会社でも高く評価されてデビュー曲になったの
です。仮詞が採用されることは滅多にないのですがこのままで発売しようとなりました。
その結果、その年の「レコード大賞作詞大賞」を受賞したのです。

「私の音楽の原点」
1969年~1971年の「中津川フォークジャンボリー」でした。
私も勝手に飛び入りで岡林信康の「友よ」を第二テントで歌い続けたのです。
あの頃は、関西フォーク全盛の時代。フォーククルセダーズ、五つの赤い風船、
赤い鳥などがいました。
東京勢は吉田拓郎を筆頭に六文銭や遠藤健司、斎藤哲夫がいました。
個人的には加川良の「教訓」が好きだった。若者文化のスタート期、何もかもが熱い
時代でした。この時の記憶が音楽プロデューサーを目指すきっかけとなりました。

「歌詞の作り方」
これはどれほどいろいろなドラマを持っているかが重要です。
本からも、映画からも、テレビからも、噂話からでも歌詞の素材を探し出すのです。
私の友人のある大物女性歌手はファミレスの中での女子大生の会話を聞きながら
歌詞を創作していました。だから彼女の歌詞は若い女性が共感するということで
人気でした。
例えば、それ以外に
*タイの保険会社のCM(人間ドラマが満載)。父親が危篤の時に莫大な治療費がかかり
退院間際の請求書の最後のページになぜか支払い済みのスタンプが押してあった。
それは昔、親の病気のために万引きをした男の子を父親が救ったことがある。
その後医者になった男の子が数十年後に治療費の恩返しをしたのです。
泣けるCMとして有名です。
*日本の男の子が五年生を担当してくれた先生への思い出を胸に、成人してから送った
結婚式の招待状に「私の結婚式に母親の席に座ってください」と書かれていた。
小学校の時に明るかった子が、母親が死亡して暗い性格となり成績も下がってしまった。
それに気づいた担任の先生が彼を救ったのです。誰も気づいてくれなかった自分の心を
救ってくれたのはその先生だけだったのです。SNSの投稿で話題になりました。

気づけば日常には様々なドラマが溢れています。
感動するドラマや映画のストーリーを覚えておくことによって、アーティストにも、
作曲家や作詞家にもイメージを伝えやすくなるのです。

「楽曲の作り方」
シングルでもアルバムを制作する意気込みで臨みます。
通常シングルなら2曲もあればOKなのですがアーティストから
30曲~40曲ぐらいは提出してもらいます。
吉田拓郎は10曲入りのアルバムを作るときには100曲以上を用意していました。
歌詞の世界は基本的に歌手の年齢とファンの年齢が近い方が良いです。
同年齢の方が、時代のメッセージが伝えやすいからです。
曲の構成、曲の長さ、リズムの決定、仮メロのはめ込み、必要な楽器などを話し合って
制作をしていくのです。

私は世界の民族音楽が大好きです。その国の歴史と人間性がよく分かるからです。
そして良い民族音楽は長年国民音楽として親しまれて来ているからです。
イタリアのカンツオーネ、フランスのシャンソン、ポルトガルのファド、ジャマイカの
レゲエ、韓国パンソリ、モンゴルのホーミー、アルゼンチンのタンゴなどである。
アーティストのメッセージを聞き、耳新しい響きとリズムを取り入れる。
勿論、民族音楽ではないが、英国のマージービートも黒人音楽のリズムアンドブルース
も大好きだった。私は情報の量が多いのが自慢でした。笑い

「時代の先読み」
5人の仲間達を大切にする。代理店、映画監督、出版社、アパレル関係者、放送局
などのプロデューサーと繋がりをもてれば翌年のトレンドがわかる。
これはマーケティングの手法であり、OODAとAIDMAの手法です。
OODAとはオリエント、オブザーブ、デシジョン、アクションの頭文字です。
情報を集めるオリエント、情報を分析するオブザーブ、方向を決定するデシジョン、
行動を起こすアクションです。これを何度も繰り返すのです。
AIDMAとは注目させるアテンション、興味を持たせるインタレスト、欲望を作る
デザイヤー、記憶をさせるメモリー、商品を購入させるアクションです。
私は日本で初めてそれらの手法を使ってヒット曲を作り出してきたのです。
常に5人の仲間たちとトレンド情報を話し合った。原宿ペニーレーンはその為の集会の
場所だった。仲間が集まる大人の秘密基地を持っことは重要です。笑い

「目指す位置」
アーティストやタレントをデビューさせる時にゴールを決めてから送り出します。
売れたからヒットではなく、どれぐらい売るかを想定してヒットを作るのです。
最初から売り上げ規模に応じて経費を算出すれば無駄が無いのです。
全てのアーティストは大ヒットを狙うが、その人間の持っている才能と能力と時代性と
目指す方向でおおよその売り上げ予想は出来るのです。
アーティストには大ヒットよりも中ヒットを連続して出す方が長く活動が出来るので、
そちらを薦めていました。逆にアイドルの方は早く花開く大ヒットを薦めていました。

「信頼関係」
アーティストの担当を約3年単位で代わった。それは情熱と信頼関係の問題です。
ヒットチャートに登り始めると事務所をはじめ、多くの関係者が増えてアーティスト
にいろいろと違った助言をします。その為にプロデューサーとの制作上の信頼関係が
維持しにくくなるためです。
アーティストが宣伝・制作上で口答えをするようになった時点でプロデューサーとして
の関係は終わるのです。これは双方にとって健全であると思います。
アーティストの制作上の方向性が変われば自分で行うセルフプロデュースにするか、
違うプロデューサーと組めばよいのです。
辛いのですがハウスプロデューサー(メーカー所属)の限界もあるのです。

「プロデューサーの立ち位置」
① 音を聞き分ける、リズムを選ぶ、流れを作る能力。
② アルバム全体の構成を考える能力。
③ マーケティングに基づいた独自の売り方が提案できる能力。
④ コンサートステージ上の演出から衣装まで提案できる能力。
⑤ 売れるまでは絶対的な責任と権限があることを言える能力。

プロデューサーは売り上げ第一に考える。関係各位から仕事に文句を言われないためにも
ヒット曲を作り続けなければならないのです。能力のない肩書だけのプロデューサーが
多いのは確かです。素人バンドの付き添いがプロデューサーの肩書で名刺を出しても
私は絶対に受け取りません。

「海外レコーディング」
久保田利伸=ミネアポリススタジオ(プリンスの専用スタジオ)
SUNS=アビーロードスタジオ(ビートルズの専用スタジオ)
E-ZEE BAND=NYブルックリンスタジオ(クラブ音楽の専用スタジオ)
河合その子=フランススタジオ(パリの香りが満載のスタジオ)
女子十二楽坊=北京スタジオ(十二楽坊専用のスタジオ)
上記のスタジオ以外にもたくさんの海外スタジオを利用しました。

海外レコーディングのメリットはレコーディングに集中できることと、話題性の提供や
MVを制作できることです。勿論、ジャケットの表紙も撮影できるので便利です。

私は1990年に博多出身の「ショットガン」というロックグループのMV撮影で香港へ
行きました。トラックにバンド機材を乗せて演奏しながら街中を走り抜けたのです。
その為に逮捕されそうになりました。これが日本におけるMVの最初だと自負しています。

もっと危険だったのはNY在住のブルースシンガー大木トオルのMVを作った時です。
NYにあるマクサスカンサスというライブハウスで急遽スケジュールを入れて撮影する
ことになったのですが、キャンセルされたニューヨークドールというパンクバンドが
当日ヘルスエンジェルスを引き連れて乗り込んで来た時です。
私と大木さんは地元のマフィア・ドンキングに守られて逃げ出したのが記憶に残っています。

「最後にプロデューサーからの独り言」
CBSSONYというブランドの中で自由に活動が出来たのはラッキーでした。
いつも時代の先端を歩いていたので幅広くアーティストと交流が持てました。
メーカーの垣根や、事務所の垣根も飛び越えて、たくさんのアーティストと時代が求める
音楽作りに情熱を燃やすことが出来ました。
クリエイティブな仕事は多くのサポートが無ければ才能を発揮できないのです。
プロデューサーは他人と違うことを発想して良質な音楽を作るから認められるのであって、
CMやタイアップが付いたから売れたとは言われたくはないのです。

プロデューサーはリスクの多い仕事です。時間もお金も家族との交流も失い続けるのです。
これからプロデューサーを目指す人はけっして楽な仕事と思わないでほしい、
本気で人生をかけてほしい。そして最高にゴキゲンな音楽を作ってほしいのです。

今回のブログがプロデューサーを目指す人たちにとって、少しでも参考になれば
嬉しいのです。リスクをゲームのように楽しんでください。


美辞麗句




親切な言葉や優しい言葉を使う時には注意が必要です。
悪戯に使いすぎると価値のない口先だけの言葉に聞こえてしまいます。
そして使う相手にも気をつけなければなりません。
親切な言葉も愛の言葉も曲解して捉える人もいるからです。
私の何かを奪われるのかと恐怖を抱き逃げ出す人もいます。

言葉を話す側が自分勝手な解釈で親切な言葉は誰もが喜ぶと思わないことです。
社交辞令の言葉も行きすぎると嫌味に聞こえてしまいます。
美辞麗句は巧みに美しく飾った言葉です。真実味のない言葉です。

私達は謙虚に自重する精神を学ばなければなりません。
人の運命は決められているものですから自分勝手に行動しても得られるものはありません。

① 私も成功して勢いがあった時期にはキャパシティーを超える仕事の量でした。
その為に30代後半に突然身体を壊してしまいました。
あの時にもっとセーブして仕事をこなせば人生が変わっていたのかもしれません。

➁そして期待される分だけのお返しをしていたのです。
折角頂いた数々の報酬も全部周りのスタッフに労働対価として払い続け、
気付いた時には一文無しになりました。
自分の分を超えた見栄を張りすぎたのです。

③ 先輩から後輩に対して制作の指導をしても厳しいことばかり言い続けていました。
その為に委縮した後輩は使い物にならず、結局自分で作業を行うことになったのです。
自分の能力を過信しすぎた為に後輩の育成に失敗したのです。

④ プロデューサーという仕事柄「美辞麗句」の言葉を多用してしまいました。
綺麗ですね、声も絶好調ですね、この曲最高ですね、この歌詞は泣けますね、
あなたのお陰でヒットになりましたなど、毎日言い続けていました。

最近知った「禅語」にこのような記述があります。

中国・宋の時代の禅匠、五祖法演禅師がわが弟子の晋山(一寺の住職として
入寺する)に当たっての心得として説いた4つの戒めの一つの語である。

 第一に「勢い使い尽くすべからず」
 第二に「福、受け尽くすべからず」
 第三に「規矩(きく)行じ尽くすべからず」
 第四に「好語(こうご)説き尽くすべからず」

「何が故ぞ、好語説き尽くせば人必ずこれを易しとする。
 規矩(きく)行じ尽くせば、人必ず繁とす。福もし受け尽くせば、
 縁必ず孤なり。勢いもし使い尽くせば、禍い必ず至る。」

一禅僧が承福寺に晋山するにあたっては先輩和尚たちから「新到3年生味噌を食わず」
ということを言われたものだった。禅門の新参者の3年間は一人前とは見なされず
何事においても自重し、古いしきたりや決まりごとに対してもまずはよくこれに従い、
よく観察し、いたずらに新たな改革を試みずによく学びなさいという教訓である。

一番目の「勢い使い尽くすべからず」。若い時というのはついつい、勢いにまかせて
調子に乗り、周囲の助言も聞かずに突っ走ることもある。若さの勢いでの未熟な者が
立場を得、権力を得たりすること危険なことも多い。調子の良い時、順調な時こそ自制し
慎重でありたいものである。「栄枯盛衰試練と思え」
言葉がある通り、調子の良い時こそ試練と受け止め自戒しなければならない。

第二番目の「福、受けつくすべからず」。福というものはその人物に応じた
生涯の福分があるともいう。福は陰徳、隠れた善行を多くおこなう人のところに
集まってくるらしい。だが、いくらその福分がたくさんあるからといって、
湯水のように無制限に使い過ぎればその徳分は失われ、金の切れ目は縁の切れ目
で人も寄り付かなくなり淋しい人生になりかねないだろう。

第三番目には、「規矩(きく)、行いつくすべからず」。規矩というのは戒律などの
決まり事である。戒律はこうだ、規則はこうだと大衆に無理やりにおしつけては、
人に嫌がられ人は逃げ出して行くことだろう。

第四番が、「好語(こうご)、説きつくすべからず」
いくら立派な教えや教義であっても微に入り細にわたって説くのは親切かも知れないが
あまり説き過ぎ、美辞麗句を使いすぎるのも、その言葉の価値が薄く、深みがなく
軽いものになって心に響かない。浅い川は音を立てるが、深い流れは音もなく悠然とし
て流れるようなものである。心貧しい人は語り過ぎ、豊かな人は言葉少なく
ピリッとした一言に重みがある。
人生の生き方として何事においても余白、余裕を大事にしたいものである。


驚きました。
これを若い時に学んでいれば失敗も少なくなっていたと思いました。残念です。

しかし不思議なことに若い経営者の集まりで講演を依頼されたときに、
自分の反省からここに書いている四つの戒めと同じことを言っていたのです。

人間の過ちは古今東西変わらないものだとつくづく思う次第です。

ビジネスセミナーの講師の時にも参考資料は紹介するのですが、先ずはどのように
理解したかを発表してもらいます。大切なことは「教えない・仕切らない・纏めない」
講師が答えを先に言えば生徒の学びの醍醐味を奪ってしまうことになるからです。

過去に講座を担当した時の参考例として、
エリックリースの「リーンスタートアップ」を教材にして失敗を恐れることなく
完成前に市場に出して顧客の意見を取り入れながら成長してください。
また、顧客サービスに関してはトニーシェイの「ザッポス伝説」で痒い所に手が届く
サービスを参考にして考えてください。

ナポレオンヒルズの「思考は現実化する」をバイブルとしていた時期もありました。
また、サティ・アナデラ「Hit Refresh」やW・チャンの「ブルーオーシャン」も参考資料として提案していました。

そして必ずビジネスの話をした後に言う言葉がありました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
たっぷりと稲の実をつけた稲穂は実るほどに頭を下げていきます。
多くの成功者は成功すると「私が・俺が・僕が」を連呼し背中をそり返します。
そしてここで謙虚になることが人から尊敬を受けることになります。
身近なスタッフや家族への感謝を忘れずに事業を展開してくださいと締めくくるのです。

私は自分の経験したことを嘘・偽りなく発表しています。
そしてブログ「恩学」を通じて多くの方にお知らせしています。

本日のタイトル「美辞麗句」は自戒の念も込めて書くことにしました。
座右の銘「愛語よく回天の力あり」も使い方を間違うと誤解を与えてしまいます。
助言する言葉には気を付けたいものです。


波に乗るまで




私は若い頃に日本のプロ・サーファーから手解きを受けてサーフィンを始めました。
その時に頂いたボードも使いこなすには難易度の高い、
ボルト社(稲妻マークで有名)のプロ仕様のショートボードでした。
しかしそのボードを抱えて砂浜を歩くとプロになったような気分になりました。
砂浜にいるサーファーたちから羨望のまなざしを受けたのは確かです。
そして同時に良い波に乗るための波の見極め方も教えていただきました。

オフシュア(陸から海に吹く風)の風は波が立つのでライディングするには最適です。
オンシュアー(海から陸に吹く風)の風はソープ(泡立って白い波)になるので
乗るには不向きであること、しかしオンシュアーが好きなサーファーもいると
いうことでした。

一番苦労したのはボードに立つことよりもパドリングでした。
上半身を鍛えなければならないので苦労しました。パドリングとは両手で
波を漕ぎながらポイントまで進むことです。
何度もボードの上で胸をそらしてパドリングをしながら沖に出ていくのです。
毎日、腕立て伏せとスクワットと走り込みでへとへとになりました。

その結果、見事に上半身の身体が鍛えられて黒マッチョになってしまいました。
一般のサラリーマンが真っ黒に日焼けした顔でサーファールックのままで
出勤していました。流石に朝波乗りをして出社した時には総務から呼び出されて
怒られてしまいました。

そして病が高じてハワイのノースシュアーまで波のレコードを作りに出かけたのです。
私の師匠のプロの背中にテープレコーダーをつけて(本格的なプロ仕様の録音機材で
あったために5kg~6kgの重量はあったかと思います)
ひたすら波の音だけを録音したのです。
また、同時期に写真家浅井新平氏の監修でウクレレを加えた「サーフ・ブレーク・
フロム・ジャマイカ」もファッション誌に取りあげられてそれなりに売れていたのです。

波のレコードは仕事場で聞く環境音楽の走りでした。
しかし当時はレコード盤しかなかった時代です。必ず途中でレコード盤を
A面サイドからB面サイドに変えなければならなかったのです。
私は、音質は悪くなるのですがカセットテープに取り込み聞いていました。
そうすれば自動再生で延々と聞くことが出来るからです。

しかし当時SONYの社長大賀典夫さんが大好きなクラッシックの音楽を
聴くときに演奏の盛り上がりのところで盤面を返すと音が止まるので、
技術者に指示をしてCDの開発を着手させたのです。
そうすることで盤面を変えずに75分間は聞き続けられるからです。
大賀会長は日本でも有名なオペラ歌手でした。学生時代にSONYのオーディオの
評価を求められたときに「こんな音では駄目です」と意見を言ったところ、
当時の社長であった盛田昭雄氏から卒業したらSONYに来いと要請されたのです。

大賀さんのお陰でCDが商品化されてクラッシックファンだけではなく、
多くの音楽ファンも歓喜の涙を流しました。
その数年前にSONYは歩きながらステレオを聞く「Walk Man」を発表していました。
世界的大ヒットになった商品です。

毎年1月に開催されるCBSSONY経営方針説明会で、その年に販売される新商品の
説明が大賀社長よりありました。オーディオ機器メーカー世界一のSONYに
入社できたことを誇りに思った次第です。

話を元に戻して波の種類を簡単に解説するとこのようになります。

オンショアは海から岸、陸に向かって吹く風のことを指します。オンショアの特徴は
海面が乱れやすくなることです。海に行ったことがある方は、海面が乱れて色んな
場所で白波が立っているのをみたことはありませんか?
このように白波が色んな場所で立っている場合は、オンショアが吹いている影響の
ことが多いです。オンショアの波は高くになりません。

オフショアはオンショアの反対、陸から海に向かって吹く風のことを指します。
同じ風でもオフショアは海面が綺麗になり、波に乗りやすい最適な
コンディションの条件の一つにもなります。オフショアの波は高くなります。
サーファーの中では面ツル(海面がツルツル)やグラッシーと言う方もいます。

ただこのオフショアも風が強くなると注意する事があります。風が強く吹きすぎると
波に乗る時に波の水しぶきが自分の方に向かってくるので、テイクオフ時に前が
見えづらくなります。波が大きくなればその水しぶきの量は多くなりほとんど
見えない状況になってしまいます。良い波を乗るためにも、是非風も意識して
みてください♪

今回何故「波乗り」の話になったかというと人生の比喩で取り上げました。
波に乗るまでの準備にかかる時間と体力作りと資金の確保です。
海のそばに住んでいるのならまだしも都会の真ん中から海まで移動する為には
車が必要になります。ボードを積みやすいワゴンかバンが必要になります。
素人が見た目だけで始めるにはハードルの高いスポーツです。

そして体力とテクニックが身についてもその日の風次第というのも面白いスポーツです。
朝、茅ケ崎で波が立たなければ伊豆か千葉の勝浦の波情報を聞いて場所を移動します。
ここで心配なのは地元のサーファーとのトラブルです。よそ者には自分たちの波に
乗ってほしくなくていろいろと難癖をつけてきます。
私の場合はプロ・サーファーか学生チャンピオンがいつも同行してくれていたので
トラブルに巻き込まれたことはありませんでした。

学校で教育を受けて社会に出る。一般常識程度は理解できてもまだまだ戦力にはならない。
個人的にビジネススクールへ通い専門知識を学んでもまだまだ使えるには時間がかかる。
早く戦力になろうと焦るのだが経験を積まなければ分からないことだらけである。
その上に上司から理不尽な言葉を投げかけられるとパニックにもなってしまう。
早く社会という海に出てうまく波に乗りたいのだがいつになるのか分からない。

社会の波に乗ると言う事は準備期間に時間を割き、知力・体力・気力を養うことです。
そしてパドリングをして小さな波から大きな波に乗るために失敗を繰り返すのです。
自分の目の前の波は自分だけの波なのです。先に波のポイントに着いたら、周りの
サーファーは場所を譲り邪魔をしないようにするのもサーフィンのルールです。
年に1回~2回のビッグウェーブに奇跡的に乗れれば伝説にもなるのです。
仕事でも前に立ちはだかっていた仲間や上司も伝説になれば邪魔をしなくなるのです。

数年が経ち部下が増えると仕事はできるようになったのだが、自分の望む方向とは
違うと思い始める。危険を伴う波乗りに明け暮れたあの頃を思い浮かべます。
全身を使い体力の限界まで追い込み波に溶けていく感触は忘れられないのです。
家族や会社のことを考えると自分勝手な夢に執着するわけにはいかないのだが、
しかしこのまま毎日満員電車に乗って人生を終わらせることは出来ないと
思うと、いてもたってもいられなくなるのです。
もう一度ギラギラした太陽の日差しの中で伝説の波をめがけて飛び込みたいのです。

近年では「男のロマン」という言葉が死語になって男たちが冒険をしなくなりました。
やはり強い男性がいて優しい女性がそばにいる方が男女の仲は上手くいきます。
現代のように細身で化粧をしてホストのような男が増えたことは嘆かわしいことです。
真っ黒に日焼けをして胸板の厚い海の男は時代遅れなのでしょうか?

男は一生のうちに一度あるか分からない波を待つのです。
それまでは鍛えながらも準備して生きるしかないのです。
伝説のビッグウェーブに乗るまでは我慢をするのです。


説教を聞く




今日、我々現代人が説経を聞く機会は、全くといっていいほどなくなってしまった。
徳川時代の前半に刊行された「説教」の版本が数点残っており、それが書物として
流通しているので、わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるのである。

それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、現代人にも激しい
感動を呼び起こす。日本人の意識の底に、澱のようにたまっている情動のかたまりが、
時代を超えて反響しあうからであろう。

中世の民は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてないものが多かったに
違いない。そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと
愛を語った。語りのひとつひとつは、時にはおだやかに、時には荒々しく、
人間の情念を飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける
言葉からなっていた。

説経の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。
かれらは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、最後には
抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。聴衆は、説教のこんなところに、
自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。

このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で語られる
ことにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを蓄積していったので
あろう。
その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、時代を超えた普遍性へと
つながっていったのである

国とは民の物であり、国家元首の物ではないことを説教者たちは訴え続けるのである。
国の有り様、武士の有り様が変化するとともに国学と言われる学問も変化しなければ
ならなったのである。

下河辺長流や釈契沖が武士の出身であったことが(契沖の家は加藤清正の遺臣だった)、
「国学ムーブメント」の大きな背景になっているということだ。 

この時期の武士は宮本武蔵や由井正雪や丸橋忠弥がそうであったように、
たとえ「武の魂」を求めても、それをもはや戦場に生かすことができなくなっていた。
そこで、それを内乱か、それとも内面かに求めるようになる。

この「武の魂」が一途に「歌」や「文」に向かって昇華していったのが、
歌学の長流や契沖の国学化だったのである。ついでにいえば、談林をおこして
芭蕉に影響をもたらした大坂の西山宗因も、やはり武家出身だった。

いうまでもなく芭蕉も武家の出身である。 江戸初期、これらの魂の発揮は、
封じられ、転じて、磨かれて、江戸の歌学や俳文の骨髄となったのだ。

本居宣長は驚いた。空想の王国をつくらずとも、ありのまま、そのままの社会が
そこに歌われていけば、それが王国なのだと知ったのである。
そこで宣長が京都遊学中に書いたのが『排蘆小船』(あしわけおぶね)である。

「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、
ただ心に思ふことをいふより外なし」と書いている。
では、その「心に思ふこと」はどこから生まれてきたのだろうか。
その「心に思ふこと」の本体をどう評価すればいいのだろうか。
ここから「もののあはれ」を論ずるには、宣長はたいして苦労をしていない。 

賀茂真淵のものを読んでいたせいもあるが、ともかくもこのことだけは見極めたいと
いう思いで、記述しているからだ。それが『石上私淑言』(いそのかみのささめごと)
だった。
「すべて何事にても、殊にふれて心のうごく事也」「阿波礼といふは、深く心に
感ずる事也」が、宣長の「もののあはれ」のとりあえずの橋頭堡なのである。 

ただし、このとき宣長は「わきまへしる」ということをメモしている。
この「わきまへしる」が「もののあはれ」と決して分断されないで、
一緒に動きまわってくれるかどうかということが、
このあとの宣長の命懸けになっていく。

現在「黄檗売茶流」先代家元の中澤弘幸氏と「老人と孫」なる討論会を展開しています。
元々は中澤氏がインタビューワーと二人で始めた企画ですが、
私の「恩学」のテーマである次の世代に残したい「歴史と文化と誇り」に通じるものが
あり、ゲストコメンテーターとして参加したところ出席者より大きな反響があり、
今後はレギュラーとして企画が進められることになりました。

他にグラフィックデザイナーの今野絢さんとスーパーサラリーマンの田畑瑞穂氏が
参加されて70歳以上の老人が孫世代の質問に答えていくという形式で
月一回の開催となっています。

時には老人からの捨て台詞として最後に「説教」をします。
孫たちに説教を聞く機会を与えています。

時代はデジタル社会になり質問は全てモバイルで検索すれば回答が出てきます。
しかしそこには個人の経験から積まれた知識が含まれていません。
AIが作る集積したデーターで回答が得られたとしても理解と納得は得られません。
正しい答えには過去と未来が描かれていなければならないからです。

例えば私が最初に受けた質問は「死ぬのは怖くないですか?」でした。
過去を紐解き仏教の世界の「生老病死」の話をして、
その後に私が経験したことを加えて自分自身が満足いく人生を過ごしたと思えば
「死ぬのは怖くありません」と回答しました。

「老人と孫」の良いところは1人の老人だけが回答するのではなく、
同時にその他の老人も回答に加わっていくので孫たちは様々な「死生観」を
聞くことが出来ることです。
お茶の世界で生きてきた中澤先代の話、音楽の世界で生きてきた稲葉の話、
世界の有名なアーティストのジャケットデザインをしてきた今野さんの話、
長年証券会社で勤めてきた田畑さんの話、それぞれが違う視点で説明をするので
孫たちは喜んで聞いてくれます。

その上で質問を投げ返して「君たち死は怖いのですか」と聞きます。
そこからまた新しい話が展開されるので我々も大変勉強になります。
そこには孫たちの未来の死生観が生まれて来るのです。

吉田松陰や松下幸之助を持ち出すまでも無く、昔は一家の大黒柱のおじいちゃんが
「生き方」を色々と教えてくれたものです。
時には近所のおじさんも質問すれば答えてくれたのです。
それのサポートとして私塾が盛んになりました。「老人と孫」もいわば私塾です。

文字を目で追うデジタルの回答よりも、言葉で話すアナログの回答の方が納得するのです。

男性老人中心の「老人と孫」の続編は、女性中心の「老人と孫」も企画中です。
私は以前、男性経営者中心の「男塾」を主宰していました。
しかしコロナの影響でやむなく閉塾してしまったのです。

今度は内容を改めて「説教塾」を開催したいと思います。
興味のある方はぜひ参加してください。

「孫を叱るな来た道だから、老人叱るな行く道だから」