冬空を見て何も考えていない時にふとこの俳句を思い出した。
「古池や蛙飛び込む水の音」松尾芭蕉
頭の中が空っぽの時だったのでストンと音を立てて流れ込んできた。
季語は蛙(春)古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、
という単純な景を詠んだ句とされています。
芭蕉が一時傾倒していた禅の影響も受けていた句としても有名です。
僅か17語の世界で無限大の景色が浮かび上がる。
日本語の表現力の豊かさは世界が認める文化的遺産である。
大切なことは、我々はその言葉を受け取れる感受性豊かな国民だという事です。
禅は鎌倉時代に、中国から日本に入ってきた仏教思想です。
そしてそれは当時の武士たちの精神性ともうまく合致し日本で普及して
いくことになります。
禅は質素・倹約・簡略化を重んじます。
まさに引き算の美学を提案しているのです。
禅の概念を具現化した代表的なものが京都竜安寺などの石庭です。
石庭の代表的なつくりに「枯山水」というものがあります。
この枯山水はまさに引き算の美学です。最小限の素材を使用し
ほとんど何ものない状態にすることによって、水や山などの
自然を感じさせる空間をつくりだしています。
例えば金閣寺のような豪華絢爛な建築と庭から味わう贅沢さではなく、
銀閣寺のような質素であるが故に贅沢であるという感覚です。
「何もないからこそ、最高の美を感じる」という逆転の発想です。
茶道の世界を究極まで高めたのは千利休でした。
その主人は豊臣秀吉です。
田舎の足軽から天下人にまで昇りつめた豪華絢爛の象徴である秀吉。
利休茶道の「侘び寂び」思想はいわば秀吉が信じてきたことを否定するような
問いをチクリと彼に投げかけました。
その後、「侘び・寂び」精神性は後の江戸時代に活躍した俳人、
松尾芭蕉にも受け継がれてきます。
松尾芭蕉の代表的2句の解説をするとこのようになります。
「古池や蛙飛び込む池の音」
耳をキーンとするほど静寂さが漂う古い池。
その畔に1つの大きな石が転がっている。
おっ、よく見るとその石の上には1匹の蛙がいるね。
しばらくするとその蛙が池に飛び込んだ。
その刹那「チャポーン」と弾む音と鏡面のような池にスパッーっと広がっていく波紋。
その瞬間はまるで永遠の時間を感じさせるようだね。
「夏草や兵どもが夢の跡」
またここで戦があったのか。
勝った側も負けた側もそれぞれの夢や希望を持ち大義名分を抱えて戦ったんだろう。
でも戦が終わってみると一面には多くの亡き命。
その周辺には、夏草が伸び、自然のサイクルが何事もなかったかのように
ただただ続いていく。本当に無常なものだ。
それにしても本当に美しいものです。
たった17文字で構成されている文章なのに、頭の中で物語がバァアアっと
広がっていきます。この「侘び寂び」の思想も
中国の禅とそれまでの日本文化が編集されて出てきた概念なのです。
それしても「もののあわれ」や「侘び寂び」の美意識。
やっぱり日本ってとてもカッコいいです!
日本人の心にはもう一つ「陽」よりも「陰」を好む感性もあります。
明るい場所よりも、その明るさを際立てる影の部分を重んじるのです。
是も「侘び寂び」の影響を受けているものと思われます。
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」
谷崎潤一郎は、1933年(昭和8年)当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の
変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について以下のように語りながら、
最後には文学論にも繋がる心情を綴っている。
日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなった
のでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に
住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、
やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く
陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見て
その簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に
感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、
それは陰翳の謎を解しないからである。
われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり
縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透して
ほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力のない、わびしい、はかない光線が、しんみり落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。
土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、
座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、
その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。
われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて
辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。
我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、
しみじみと見飽きがしないのである。
尤も我等の座敷にも床の間と云うものがあって、掛け軸を飾り花を活けるが、しかし
それらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、陰翳に深みを添える方が
主になっている。われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、
即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の
重要さをに置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら
如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。
それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、
茶の間の床に掛けてみると、非常にその部屋との調和がよく、
軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。
俳句の世界、茶の湯の世界、日本人好みの陰翳の世界。
どれもこれも禅と武士の真意があるように思えてなりません。
贅沢を廃止、質素を重んじて、簡素で簡略化された中に、
人としてあるべき姿が浮き彫りにされている気がします。
豪華絢爛に騙されずに、流行に目を奪われずに、シンプルに人の心を大切に
してきた結果が、俳句であり、茶の世界であり、陰翳礼賛の世界です。
いつまでも日本人の感性を楽しみましょう。
1月 16th,2024
恩学 |
古池や蛙飛び込む水の音 はコメントを受け付けていません
カブク、ハグレ、ウツケ、フヌケ、全て世間から異端の目で見られた者を
いう言葉である。
日本の芸能の歴史は異端の人間から始まってきた。
歌舞伎や能の歴史には必ず登場した「阿国と世阿弥」。
どちらとも決して恵まれた環境で華々しく登場したのではなく、
どちらかというと世間においては変わり者と疎まれていた。
伝承文化を伝統文化に変えていくのは、ある意味その時代の不良と呼ばれた
者たちが発火点を作る。それは革新的破壊である。
頭の中にある「当たり前」という時代の意識が、「あり得ない」「無理」という
認識に変わる。しかしあり得ないところに未来が創造される。
「出雲の阿国」
生没年不詳。慶長八(1603)年、京において歌舞伎踊を演じ、
歌舞伎の創始者となった女性芸能者。出雲大社の巫女みこと称していたが、
出身地は不詳。おそらくは京もしくはその周辺の出身であろう。
歌舞伎踊を創始する以前は、ややこ踊と呼ばれる芸能を演じていた。
ややこ踊の名称は、天正九(1581)年ごろから見出せるが、そのころ10歳前後
の幼女であったと思われる。時の宮廷や上級公家の邸に招かれて演じているが、
西日本各地から東海北陸地方まで巡業していた形跡がある。
天正一六年にはすでに出雲の巫女と名のって、神楽や小歌なども演じていた。
美人ではなかったとの記事もあるが、芸能に対するぬきん出た感覚の持主で
あったと思われる。歌舞伎踊での成功の前後は、京では北野神社の境内の
舞台を本拠としていた。慶長一二年には江戸城内でも興行している。
慶長一八年以降の消息はつかめない。
「能楽の世阿弥」
世阿弥は、父・観阿弥(かんあみ)の後を受けて、能を飛躍的に高め、
今日にまで続く基礎を作った天才といえるでしょう。
生涯を通してどのような能が感動を呼ぶのか探求し、手ごわいライバルが
いたにせよ、足利義満(よしみつ)・義持(よしもち)の2代の将軍の時代を
通して、一定の評価を得ることに成功します。
ライバルの芸の長所を取り入れることもうまく、特に犬王(いぬおう)の
天女舞(てんにょまい)を大和猿楽に取り込むことなどにより、物まねの
面白さが中心だった大和猿楽の能を、美しい歌と舞が中心となる
能に洗練させました。
世阿弥は能の台本を作ることをとても大切にし、世阿弥の時代に能の数は
格段に増えています。その中で、人間の心理を深く描き出すことのできる
「夢幻能(むげんのう)」という劇形式を完成させたことは、大きな業績です。
また、和歌や連歌の技法をふまえて、詩劇と呼びうるような文学的情緒に
あふれた能の台本を制作する方法も確立しました。
その昔日本の伝統文化は「河原乞食」と言われて最下層に位置付けられていた。
海外においても似たり寄ったりですが、文化は贅沢とされてそれを行う者は
逸れ者とも言われてきたのである。
モーツァルト然りでパトロンの貴族に呼ばれてパーティーで演奏していた。
リクエストに応じてその都度曲を創り出さなければならなかった。
モーツァルトの手がけた数々の曲は、当時存在していた音楽ジャンルの
ほぼすべてに渡っていました。
ピアノやヴァイオリンのソロから、室内楽、小編成のオーケストラ、大編成の
オーケストラに、オペラまで手掛けており、そのどれもが名曲であると
言われています。
モーツァルトほど数多くの曲と多様なジャンルを手掛けた作曲家は他に
例がなく、まさに奇跡の音楽家といわれているほどです。
しかし晩年のモーツァルトは、音楽家として活躍しながらも生活を満たせるだけの
収入が得られずに苦しい状況が続いたと言われています。
さらに晩年には度々病に臥せるようになり、薬も服用していました。
そして1791年、ウィーンで35年の生涯を終えます。
ファッションデザイナー、ココシャネルの言葉に「流行はその国の不良を見ればわかる」
これは言い得て妙である。パンクファッションのように服は言葉なのである。
流行とは外面だけで無く内面に狂気じみた思想が無ければならない。
ここ数年思想を映し出すほどのファッションは生まれていない。
ココシャネルは孤児院や修道院で育ちました。 18歳で修道院を出た後は、
洋品店でお針子の仕事をしながら、ラ・ロレンドというショーパブで歌うようになり、
人気を博していました。 「ココ」の愛称は、その時に歌っていた歌
「Qui qu’a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのは誰?)」に
ちなんで付けられたものです。 しかし、実力ではなく客寄せとしてステージに
立たされていたことを知ったココは、歌手の道を断念します。
文化に翻弄されたモーツァルトとココシャネル。
しかし時代に大きな爪痕を残したのは確かである。
「ロックの伊丹谷」
20人も入ると一杯になる恵比寿のバーで、今年最初のライブ「うた」が行われた。
あらゆる規模の会場でパフォーマンスを繰り広げてきた伊丹谷が、あえてここを選んだ
理由がある。今の自分の意思を伝えるために、ライブハウスではなく、小さなバーで演奏
するのは「うた」本来の強いメッセージを伝えやすいからである。
今の時代、レコー会社と契約してタイアップを付けてヒット曲にして、ドーム級の
コンサートをしても、それはアーティストという存在ではなく、
商業主義のキャラクターとなり「うた」本来の持つメッセージを伝えたことにはならない。
あまりにも時代を変えるほどの「うた」の存在が無く、好きなアーティストが
歌っているからその場所へ行くアミューズメントライブになっている。
今、世の中の意識ある人を集めて魂を投げかけなければ市民レベルの革命は起こらない。
この会場で音楽ファンも画家も写真家も大学教授も能楽師もお茶の家元も参加できる
空間を作りたかった。
その日のテーマによっては、観客もライブの最中に飛び込んでもいい、
歌であったり演奏であったり、詩の朗読であり、果てはマイクに向かって激論を
飛ばしても良い。
第一回目のテーマは「仏陀」。あえてこのテーマからやり始めたのには意味がある。
仏教の世界の理念とロックの融合の可能性を試したのである。
人生の喜怒哀楽、悩みの原因、そしてそれらを抜け出すための仏陀の理念を、
映像とナレーションを組み合わせて、そこに生声で「うた」が入る。
観客が理解できるかできないかでは無く歌声でしっかりとメッセージを伝える。
初めての試みなので面白いとか好きではないとか色々意見があっても構わない。
歴史の上では世界の各地でいつもこのような市民活動は繰り広げられていた。
私が80年代のNYへ仕事で出かけた時に、音楽関係者から今一番トレンドな会員制
クラブがあるから行かないかと誘われた。名前は「タンネル」いわゆる地下鉄の
トンネルの中である。
音楽家も画家も役者も先端を言っている尖った連中のたまり場であった。
後で聞いた話ではその時アンディーウォーホルもいたらしい。
そこはまさしく歌っているやつ、踊っているやつ、話し合っている連中がいて、
新しい時代を求めている叛逆児のパワースポットであった。
音楽は人がコミュニケーションを取りやすいただの環境音楽だった。
私に言わせればバンクロックも心地よい環境音楽であり、
眠っている魂を呼び覚ますためのカンフル剤であるに変わりがない。
伊丹谷良介の決意書。
「新春うた」テーマ「ブッダ」「心を整える合理的な方法」
他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は煩悩の汚れが増えていくでしょう。
他人の過ちを見るのではありません。他人のしたことしなかったことを
見るのでもありません。
あなたはただ自分のしたこと自分がしなかったことだけを見れば良いのです。
まず自分を正しく整え、次に他人を教えることです。
そして他人に教えるとおりに、自分でもおこなうのです。
自分をよく整えた者こそ、他人を整えることでしょう。
無益な語句を千たび語るよりも聞いて心の鎮まる有益な語句を一つ聞く方が
優れています。無益な語句よりなる詩が千あっても聞いて心の静まる詩を
一つ聞く方が優れています。
戦場において100万人に勝つよりも ただ一つの自己に克つ者こそ実に最上の
勝利者なのです。勝利すれば、恨みが起こり敗北すれば、
苦しみに悩まされます。勝敗を捨て去った者が、安らぎの境地へと
向かうのです。恥じなくてもよいことを恥じ恥ずべきことを恥じない人々は
よこしまな見解をいだいて悪い所へ赴くでしょう。
恐れなければならぬことを恐れない人々はよこしまな見解をいだいて悪い所へ
赴くでしょう。避けなければならぬことを避けなくてよいと思い避けては
ならぬことを、避けてもよいと思う人はよこしまな見解をいだいて悪い所へ
赴くでしょう。あの人も言っていた心を開いてYESって言ってごらん
全てを肯定して見ると見つかるもんだよYES YES YES
何もいらないただ歌おう僕らの愛のうた僕らの愛のうた
「仏陀」をテーマとして企画した、その為に100時間以上費やして
作った映像とナレーション。それらに絡み合っているサウンドがピッタリと合っていた。
デジタル音の合間に登場して生ギターで、生ピアノで熱唱する。
まるで伝説の革命家チェ・ゲバラのアジテートように叫び大声を上げる。
その覚醒した姿に観客は度肝を抜かれた。
ある時期、時代を制したボブディランもゲンズブールもスティングもサルトルも
彷彿とさせた。要するに文化の発信のスタイルがそれぞれ違っても、
時代を刺激させたことには変わらない。
ここから歴史が始まる。伊丹谷良介の哲学がロックに乗って響き渡る。
過去の価値観を共有して新しい時代を求めていく、まさに「温故知新」の
世界である。狂え!伊丹谷良介!今からもっと狂え!そして時代の孤児になれ!
そこに知的革命が起こるまで。
1月 16th,2024
恩学 |
「温故知新」そして始まり はコメントを受け付けていません
私たちはどれだけ相手のことを知り話をしているのだろうか?
話の中心は自分ではなく相手なのに一方的に話し続ける。
良かれと思った話題でも自分中心だと相手の心は遠ざかる。
自分は知っていることを話しているのだが相手にとっては皆目見当がつかない。
自分の知り得た情報と知識が全てだと勘違いをして話しかける。
相手のことを無視して相手もきっと知っているだろうと勘違いをしたままである。
言葉の選び方も完全に間違っている。自分が専門的に使っている言葉を、相手の気持ちも
わからずに使うと全くコミュニケーションが取れないままの状態になる。
話をする段階がある。最初は当たり障りのない共通の話題から入る。
その反応を見て少し専門的な話に持っていく。ここで相手の表情を見て理解できて
いるかを知る。相手の経験や仕事の知識から説明に笑顔が出れば、投げたが言葉が
着実に届いたことになる。届いたことが確認出来てから初めて本気で語り合えばよい。
大愚和尚:お釈迦様は教えを説くのに、
「決して人々が分からない言葉で語ってはならない」としました。
35歳で悟りを開かれてから、80歳で亡くなられるまでの間、ずっと人々の苦しみを
聞いてアドバイスをなさった。
その際お釈迦様は、自分が話している相手の能力、
育った環境や背景を見越した上で、その人に伝わるような例え話を出したり、
伝わるような順番を考えたりして、お話をされたといいます。
画一的なお説法をしたわけではないんですね。
これを「対機説法(たいきせっぽう)」というのですが、相手を見て、
自分の伝えたいことを伝える。これがお釈迦様のお説法なんです。
(「対機説法」:相手の資質に合わせ、理解ができるように教えを説くこと。)
大愚和尚:お釈迦様は、お弟子さんが「言葉巧み」であることを、
ものすごく奨励されたんです。真理を人に伝えたいのであれば、伝わらない
話し方ではダメだと。話し方の順番までこだわられたのには、
「伝えたい」という強い思いがあったからです。
仏教というのは、お釈迦様が一人ひとりに合わせて、それぞれの苦しみを救って
こられたというエピソードを、側近の弟子が人生をかけて聞き取り、記したもの
なんです。
「いつ、どこで、誰に対して、お釈迦様はこんなことを語られた」という
エピソードが、お経なんですよ。
そのエピソード集であるお経を、後の人が調べていく中で、その中に共通した
考え方を見いだして体系立てていったのが「仏教学」です。
お釈迦様という方は、何かを書き記したり、残したりしたわけではないんですね。
会う人会う人、皆さん一人ひとりに対して、その苦しみに合わせてお話を続けた。
コミュニケーションの人だったんです。
大愚和尚:それはお経も同じです。私たちは直接お釈迦様にお会いすることは
できないわけです。ですから私たちにとって、お釈迦様の教えというのは、
全て「経典」なんです。つまり、文字として書かれたものです。
お釈迦様は書を残していません。ただそばにお弟子さんがいて、
そのエピソードを私たちが分かるような形で残してくれた。
お弟子さんたちの巧みな文章術、つまり「型」がなければ、仏教の教えは2600年の
時を超え、民族を超え、国境を超えて、日本にまで伝わってこなかったかもしれません。
「般若心経(はんにゃしんぎょう)」にしてもそうですが、この文章の
「型」というのが、ものすごく美しい。文字の配列、言葉の音、一つの作品なんですね。
語り継がれているのには、書き記したお弟子さんの文章術の巧みさがあったわけです。
(「般若心経」:膨大な般若経の内容を簡潔に表した経典。1巻。日本では
「色即是空、空即是色」の句のある玄奘(げんじょう)訳が読経用に広く
用いられている。)
大愚和尚:コミュニケーションの基本について皆さんにお話しするときに、
大事な原則があるんです。それは概念ではなく、体感をしていただくということです。
例えば、研修会や勉強会でコミュニケーション力や対話力について話をするときには、
実際にキャッチボールをするところから入ります。
質問者:「会話はキャッチボール」であることを、体感してもらうためですね。
大愚和尚:本当に何かものを投げようと思ったら、相手がそれを受け取る準備がないと
いけません。相手が受け取らなかったら、キャッチボールは成立しませんからね。
でも、私たちは会話のキャッチボールにおいて、「言ったでしょ」と相手を責める。
相手は全く受け取っていなかったり、受け取る準備が整っていなかったりしてもです。
もしくは投げる側が、受け取れないところに投げたり、すごいスピードで投げたり
している場合もあります。
特に、近しい人、親子、夫婦、同僚、友達だと、「分かってくれるでしょ」といって、
ひどい球を投げてしまいます。そして受け取ってもらえなかったことに対して、
怒ってしまうんです。
質問者:「あの人は分かってくれない」というパターンですね。
大愚和尚:やっているのはそういう滑稽なことなのだと、物理的なキャッチボールを
すると分かるようになる。言葉のキャッチボールだと、自分と相手には違いがあるのが
当然だということを忘れてしまうんですね。それはボールと違って、言葉に対して
しっかりと意識が向いていないからなんです。これが英語などの普段使わない言葉で
あれば、自分の言葉を吟味して話せるんですけれど、自然に使える日本語だと、
使いこなせているという錯覚を持つんですよね。
質問者:「慣れている」ことと、「きちんと使えている」ことは、別の話なんですよね。
僕も日本語には慣れていますけど、じゃあ、僕たちの本に書かれてあるルールを
守って言葉を使えているかといえば、そうじゃないことがたくさんあります。
だからこそ、話し方の本、書き方の本が必要なのでしょうね。
大愚和尚:学校に国語という科目はありますけれど、「こういうことを伝えるために、
こんな『型』がある」ということは、話し方においても、書き方においても、
教えてもらいませんからね。
<仏心宗大叢山福巌寺住職大愚元勝>講話一部抜粋
顧問先の会社や専門学校の理事として私は時々会議のファシリテーターを
頼まれることがあります。
会社の会議では顔見知りの方たちばかりなのでいきなり本題から始まりますが、
色々な人たちの集まりの場合にはアイスブレークから入ります。
私は「長さ千切り」「ボール回し」という手法をよく使いました。
用意するのは新聞社やボールです。会議室の机を隅に寄せて円陣を作ります。
ここから共同作業がスタートします。
各グループに新聞紙を渡して一人が新聞紙を千切り、次の人へ渡していきます。
そしてまた次の人へ回してどこまで長くちぎれたかを競うものですが、新聞紙を
短冊状に千切るのは大変で途中で切れて各グループから笑い声が聞こえてきます。
またボール投げは人数にもよりますが各人に動物の名前を付けて、
名前を呼びながらボールを回していきます。これを投げる時間をどんどん短縮して
いくと、最後は大笑いの内に和やかな雰囲気になります。
そうして会議を始めます。
心を緩ませることによって緊張感が取れます。
緊張感を緩めながら本日のアジェンダと成果目標を発表します。
ここでファシリテーターとして大切なことがあります。
絶対に「教えない・仕切らない・まとめない」を守ることです。
これは新潟の人材育成の会長さんから教えていただいた話です。
特に子供たちの育成には鉄則だと言われました。
ファシリテーターがルールを威圧的に伝えると、その時点で参加者が意見を言うのを
控えて他人任せになります。参加者の意見を引き出すのが務めなのに歯止めをして
しまうのです。注意しましょう。
昨今、「傾聴」という言葉をよく聞くようになりました。
他人の発言に耳を傾けるという事ですが、自分の意見を持って聞かなければ
意味がありません。先ずは自分の主張を持って他人の意見を聞きましょう。
1月 14th,2024
恩学 |
話を聞く はコメントを受け付けていません
年齢を重ねると女性は美貌を失い男性は気力を失う。
果たしてそうだろうか?美貌も気力も失わない人もいる。
上手い年の取り方と下手な年の取り方がある。
目的・健康・活力の3つを実行している人は美貌も気力も失わない。
目的(Purpose)とは残りの人生でやりたいことを決める。
健康(Health)とは自分の体に合った食事を摂り運動を欠かさないこと
活力(Vitality)とは若い人たちと交流を持って彼らの手助けをすること。
巷では微小の効果データーでヘルスケア商品が大量に売られている。
医療機関認定のデーターで集めた資料をもとに健康食品会社が次々と商品を作る。
長期にわたるエビデンスが無くてもテレビCMを流して栄養剤として売られる。
街のそこかしこにある調剤薬局にも高齢者目当ての怪しげな商品が並べられる。
今や高齢のタレントをCMで起用して売上重視で企業が不正を働き、
日本人が日本人を騙す。それも力ない高齢者をターゲットにしている。
国も高齢者のタンス預貯金を引き出そうと躍起になっている。
海外では問題がある商品は市民活動で不買運動が起こり会社を倒産へと追い込むが、
日本ではかっこ悪いと誰も立ち上がらない。悪を見逃すことになる。
国会議員の不正も許せないと思いながら誰も声を上げない。
漢字の金偏にプラスを書いて「針」になる。人を刺してまで儲けることが仕事なのか?
「儲」けるとは信用する者と漢字で書くが彼らは信用されず信頼を失う。
一般企業は高齢化社会で年寄りが増えたから年寄り目当ての商品が売れるのでは
ないかと売り急ぐ。
それに輪をかけて年老いた父母を持つ子供達も、自分の親には絶対着せないような服や、
効果が疑わしい健康器具、認知症予防の薬や防犯グッズを与えて、役割は済んだと
思ってしまう。
人生の上り坂で見えていた景色が下り坂に差し掛かると突然景色が変わる。
上り坂ではみんなと光り輝く希望が見えた。
下り坂では一人で辛い人生がはっきり見える。
慌てて死亡保険に加入する人達も、死んでいなくなる人達も、愚痴を言い続ける人達も
それぞれの景色の中で暮らしていかなければならない。
禅語に「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)というのがあります。
中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の禅語で知られる。
雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって「十五日以前のことはさておき、
これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねた。
だが誰もすぐに返答が出来ずにいると雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えた。
この語を文字通りに解釈すれば「毎日が平安で無事の日である」と云う意味であるが、
単に毎日がよい日であるのでは禅的解釈にはならない。
雲門はなぜ「日々是好日」と云ったのかに疑問を抱き、
その心を解くところにこの語の教えがあり真意があるのだ。
「十五日以後の心境を」を問われた弟子たちは皆、十五日後に答える
ことを考えたことだろう。しかし、雲門は自ら十五日と云う期間を示しながら、
実は即今、即座の答えを求めていたのだ。
「無常迅速 時人を待たず」である。
親鸞聖人は「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな」と
歌われているように、今ここで自分の境地が述べられなくて、
一体いつ言うときがあるのか。
「無常迅速、時人を待たず」であり、はたして明日と云う時があるとは
限らないではないか?
この一瞬のところを大事にせよ」と云うこと教え示した言葉が
「日々是好日」なのである。
平々凡々、何事のさわりの無い穏やかな日々だけが「日々是好日」ではない。
多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。
しかし現実はその願いの通りにはいかないで、雨の日、風の日があるように
様々な問題が起き、悩ませられることばかりかもしれない。
しかし、どんな雨風があろうとも、日々に起きる好悪の出来事があっても、
この一日は二度とない一日であり、かけがえの無い一時であり、一日である。
この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに「日々是好日」となるのである。
好日は願ってえられるものではなく、待っていてもかなえられるものではない。
自らの生き方に日々に好日を見出しえなければならないのだ。
時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく主体的に時を作り
充実したよき一日一日として生きていくところにこの語の真意がある
我々高齢者は牙を抜かれたライオンではない。
不況という灼熱のサバンナを駆け抜けて、豊かな社会を支え続けたライオンである。
まだ戦える。戦ってきた知恵もある、戦いに勝つ方法も知っている。
囲いの中で飼われていた羊ではない。周りを騙すキツネでもない、ハイエナでもない。
我々は現役のライオンなのである。
年相応の美貌を持つ女性と少し尻の小さくなった男性のロマンが生まれても良い。
まさしくフランス流の生き方をすればこの世は天国である。
人を騙してピエロのような生き方をする連中とは死ぬまで仲間になれない。
老人は弱者だから、こうしなければならない、こうするべきだと、言われ続けている。
勝手に人生100年時代だから2000万円の貯金がないと暮らせない。
あらゆる介護サービスを紹介しながら保険会社の広告が入る。
そして葬儀屋のCMも増えてきた、高齢者の病気の名前も増えた。
家族葬がお得です、樹木葬のお墓が安いですよ。みんな死ぬのを待っている。
こうしてテレビの前でニュースに向かって文句を言いながら「日々是好日」でした。
みなさま右のポケットには文化を入れて、左のポケットにはオシャレを入れた
暮らしをすれば毎日が「日日是好日」ですよ。
「時人を待たず」今やらなくていつやりますか!
1月 14th,2024
恩学 |
日日是好日 はコメントを受け付けていません
人間が怠けたいと思うのは本能です。本能には理屈はありません。
快感か不快か、苦しいか楽かで判断するだけです。
この力関係を認識していないと、常に自己嫌悪にさいなまれることになります。
自己嫌悪はもっとも抱いてはいけないマイナス感情です。
そういった意味で「怠け心」に強い罪悪感をもつことは良くありません。
人間なら「怠け心」はあるのが当然という意識で良いのです。
しかし何故、人には「努力したい心」とそれを圧倒的な力で拒む「怠け心」が
共存しているのでしょう。
音楽制作の仕事は集中力の連続です。人によっても違いますが1枚のアルバムを
作るのに約2か月~3か月はかかります。
制作意図を話し合い、楽曲の選曲、歌詞のチェック、アレンジの構成などを含めて
夜通し作業をすることが度々あります。
そして一度録音した楽曲が気に入らなければ録音のし直しも起こります。
全ての録音作業が終わればMixdownをしてマスターを作ります。
音が完成したらジャケットの撮影が入り、営業・宣伝の会議が連日這入ります。
プロデューサーとしてヒットに持っていくために努力したい心でいっぱいになります。
このあたりで疲労がMaxになり現場から逃げだしたくなります。
かといってそれが辛いかといえばそれほど辛くありません。
音楽の作業は音により脳内にドーパミンが出るので心地よい疲労感に包まれるからです。
私は現役のころ3~4か所のスタジオ進行でアルバムを作る作業をしていました。
作業中いつも怠け心が出ると外での打ち合わせと称して、映画館や本屋や喫茶店へいき
隠れて息抜きをしていました。
しかし最高の息抜きは海外スタジオでのレコーディングです。
特にLAでのレコーディングはプール付きのモーテルに宿泊するので一気に回復します。
ホテルの周りをランニングしてから部屋に戻り水着に着替えてプールへ直行です。
プールサイドではピナコラーダを飲み、日差しの強い太陽を浴びると、エネルギーが
溢れてきます。ストレスをためないためにも適度な「怠け心」は必要です。
やる気が出ない 仏教的解決法で「怠け心」を退治する。
厳しい修行を積む僧侶たちにも「怠ける心」はある。
お釈迦さまは、弟子である修行僧たちに対して、常々「不放逸(ふほういつ)」を
大事にしなさいと説いていました。放逸(ほういつ)とは、怠けてしまうこと。
つまり不放逸とは「怠けるな」ということになります。
仕事や家族の元から離れ、覚悟を持って出家したのだから、さまざまな言い訳をして
修行への努力を怠ることのないように、とおっしゃったのです。
しかし、仏道を進む多くの修行僧たちも、「怠けてしまう」「集中できない」
ことに苦しんできました。仏教とは、覚(さと)りを開いたお釈迦さまをお祈りし、
苦しみから救ってもらおうとする教えではありません。
修行僧自身が、お釈迦さまのように覚りを開くための道です。
修行僧は皆、厳しい修行道を選んだ人たちです。
お釈迦さまはそんな修行僧たちに向け、修行の妨げになる「怠け心」が出ている時は、
次の5つが起きていると説きました。現代語訳で説明します。
目標達成を妨げる「5つの蓋」
日々の頑張りや目標達成を妨げてしまうもの、それを仏教では「五蓋(ごがい)」と
言います。心に覆いかぶさる蓋という意味で、自分の心に向き合えなくなってしまう
障害になるものです。
1つ目の蓋は、貪欲蓋(とんよくがい)といって、むさぼり求める「欲」を指します。
貪欲にはさまざまな欲がありますが、中でも異性に対する性愛の欲望である
「愛欲」は、人から集中力を奪います。恋をして勉強が手につかない。
好きな人から連絡が来なくて、仕事に集中できない。
自分の好むものを過度にむさぼり求めると、目の前の物事に集中できなくなります。
2つ目の蓋は、瞋恚蓋(しんいがい)、怒りです。仕事やプライベートで嫌なことが
あったとき、それを思い出してはイライラしたり、ムカムカしたりしていませんか。
怒りはパフォーマンスを下げる要因の一つです。怒りの感情にとらわれると、
本来自分が持っている能力を狭めてしまいます。
3つ目の蓋は、惛沈睡眠蓋(こんじんすいめんがい)といって、もうろうとしている、
ぼうっとしている状態を指します。心身の働きが弱まり眠りこんでしまうのは、
持病がある人は飲んでいる薬の影響があるかもしれません。
しかし、多くは睡眠不足や食べ過ぎなどによるものだったりします。
やらねばならぬことがあるのに、眠くなってしまう。修行のみならず、
勉強や仕事では大きな妨げとなり、集中力をそぐものです。
4つ目の蓋は、掉悔蓋(じょうげがい)。心がそわそわしている状況です。
まるで小動物が、物音がするほうをあちらこちらと見るかのように、
あっちもこっちも気になって気持ちが落ち着かない。
もうすぐ昼休みだなとか、あの漫画の続きが気になるなとか、
気持ちが分散してしまう状態を指します。
掉悔蓋は「後悔」とセットになっていますが、あんなことをしなければ
よかったという後悔は、自分の心の底に引っ掛かり、心ここにあらずな状態になります。
これも気にし続ければ、パフォーマンスは著しく下がります。
5つ目の蓋は、疑惑蓋(ぎわくがい)です。疑うという字を書きますが、
何かを疑うわけではなく、イエスノーがはっきりしないという意味になります。
仕事であれば、心からやりたいと思っておらず、なんとなくやっている状態です。
何をやっていいかが実はよく分かってない。やり方が分からない。自分の中で
目的が明確ではない。それでは当然、乗り気がせず、やる気も湧かないでしょう。
ここに書かれている5つの要因は悩みに対する原因をあげているのです。
明確な目標と目的を持って世の中のために生きる決心すれば無くなります。
5つの要因は人がこのように精神的に不安になればこうなりますよという話です。
勿論、多くの人がこの5つで悩み苦しんでいるのは分かります。
私もこの「5つの蓋」に何度か悩まされました。
そして大きな失敗の経験をしてようやく落ち着いた人間になりました。
その時に気づいたのが努力ばかりではなく「怠け心」の重要性です。
現在は文明の進化により複雑な競争関係が出来てしまいました。
一見、テクノロジーのお陰で便利になったと誤解するのですが、
通常の人間関係よりも様々なスキルアップの努力を続けなければなりません。
常に他人よりも「知っている」という競争心が大きなプレッシャーとなります。
このままでいくと頭の中が情報の詰めすぎでパンクしてしまいます。
そうさせないためにも適度な「怠け心」は大切です。
怠け心の休息時間を利用して「自分」を考える必要があります。
① 生きることを知り、生きることで悩み、生きることを楽しむ。
② 夢を描くことではなく、理想をしっかりと描くのです。
③ 利他心、少しでも他人の役立つことに力を注ぐことです。
人は欲を持つと悩みが増えるのです。自己中心の幸福を求めると敵が多くなるのです。
邪念や疑う心が出てくると楽しいはずの人生がすべて被害者意識に変わるのです。
精神的な「怠け心」は、つよく罪悪感を持たないことです。
それがなければ重度なストレスがかかります。
肉体的な怠け心は体を休めてから、自分発見の旅に出かければ解決します。
精神的な悩みは心を休めてから、次の目標が見つかれば解決します。
ある意味すぐに解決する必要がなければ「そのままでいいんです」を信じて
過ごしましょう。私たちは修行僧ではないので過激に解決を求めなくても大丈夫です。
それから人生には大切な「道草」が必要です。
生きる上で途中下車も「怠け心」が出た時には必要です。
「道草こそ人生の哲学」効率重視で決められたことばかりするのではなく、
一見、道草は無駄に見えるが、その経験が人を成長させる。
多くの経験で新しい考え、新しい人との出会い、それが道草後の生き方次第で
その人の財産となるのです。
医学博士であり精神科医の斎藤茂太も人生に必要な100の言葉の中で
「人生は“道草”“寄り道”“回り道”」が楽しい
「人も時間も、旅として考えよう」を奨励している。
時には不効率で不可解な答えが出ることも人生の醍醐味です。
元々行き当たりばったりの人生を歩んできた私には「道草」が本筋で、
他人が歩む「本筋」は、ほとんど歩いたことがありません。
そんな「道草精神」があったからこそ時代を制するヒット作品が多く生まれたのです。
そうでなかったら自由と解放と夢を求めていた若者たちの琴線に
触れることは無かったと思います。
みなさまも「怠け心」が出た時には胸を張って「道草」をしましょう。
明日どうなるか分からない時代です。
「道草」の回数が多い人ほど乗り切る案をいっぱい持っていると思います。
今日も仕事の途中で「道草」をしてください。
何かワクワクドキドキすることを発見すると良いですね!
1月 13th,2024
恩学 |
「怠け心」を受け入れる はコメントを受け付けていません
祝い膳、勝ち膳、悔み膳、別れ膳と色々な膳がある。
食あるところに安らぎがあり疑惑・欺瞞は起こらない。
しかし食を利用して権力の奪い合いもあったことは確かである。
朝鮮の王様の膳には数人の毒味役がいて銀の箸とスプーンを持ち
全て味見をするのである。
運ばれてきた時には温かく量もあったのが毒味をしていると、
食べ物は冷めて量は減り淋しい食事であったという。
西洋のテーブルマナーでテーブルに両手をつくスタイルがあります。
それは、私は武器を隠し持ってはいませんという意思表示です。
食事の複雑なテーブルマナーにも暗殺阻止の策が隠されていたのです。
日本では簡単に主人を毒殺する文化はありません。
しかし完全になかったかというと怪しいものです。
食事に少しずつ毒薬のヒ素を混ぜるだけで体に不調が現れます。
体力が弱まると気力が衰え冷静な判断が出来なくなります。
武士はいくら憎く横暴の城主であっても従順に仕えるのが習わしでした。
従う事も戒める事もお側に使える用人の勤めです。
簡単に毒薬を盛るようなことはご法度だったはずです。
日本の食事は基本的に孤食です。
箱型のお膳で一人一人に配られて父親から箸をつけ、その後は長男に始まり兄弟へと
食事が始まります。この時代では母親と手伝いの人間は台所で余ったものを
食する習慣であった。
家族全員でお膳を囲んで食べるのは、貧しき庶民の間ではあったのかも
しれませんが(家にちゃぶ台が一つしかない為)、
今のようなスタイルになったのは明治末期から昭和に入ってからです。
「婚礼の膳」とは
最初の祝儀は、「式三献」と呼ぶ酒式から始められる。
この時各人に御膳が三つずつ置かれ、そこに盃が三つ添えられている。
女房(貴人の家に仕える女)三人が出て、嫁より盃を始め、婿、待上臈と三人が
三度ずつつぐのである。式三献のあと、初献、雑煮が出て酒も燗酒,塗盃で宴を行い,
十二組の菓子が出る。これは夫婦だけの宴で、父母、兄弟は立ち会わない。
こうして祝言が終了すると、いよいよ床入となる。
さて「色直し」の衣裳は婿の方から土産に出されるもので、二日目の夜に
赤や青の衣裳を着ることになるが、それまでは男女とも白の衣裳を着る。
そして嫁は色直しがすんだあとで、初めて舅、姑と対面した。
「お七夜(おしちや)」とは、赤ちゃんの生後7日目に行う行事です。
昔は医療が未発達で衛生状態も良くなかったため、7日目を迎える前に
命を落とす赤ちゃんも少なくありませんでした。
そのため、お七夜では赤ちゃんが無事に7日目を迎えられたことに感謝し、
今後の健やかな成長を願います。
お七夜の祝い膳は、縁起のいい尾頭付きの鯛や赤飯などを用意します。
ママの体調が回復しきっていない時期なので、準備や片づけが必要ない
仕出し弁当やケータリングで手配するのが一般的です。
「お斎(おとき)」とは葬儀や法事の後の会食のことをいいます。
僧侶による読経が終わると、僧侶や参列者を招いてお礼の気持ちを
表すとともに、一同で故人を偲ぶために会食を行います。
お斎はもともと仏教徒の習わしということで肉や魚介類をとらず、
穀物や野菜のみで作る精進料理を午前中にふるまうものでした。
お膳にはいろいろな種類があります。
折敷(おしき)
30cm四方ほどの正方形や長方形の足のない形のお膳
平膳とも呼ばれます。
もともとは白木でしたが、茶懐石では黒塗り(真塗)が正式
四隅が直角のものを角膳(もしくは角切らず)といいます。
角が丸いものを、なで角(俵型)といいます。
縁の綴じ目をお客様から見て向こう側になるように置きます。
(角の場合)丸い形の膳は丸折敷といって、角膳とは逆に綴じ目のある方が
正面でお客様の前に置くという約束事があります。
丸前角向(まるまえかどむこう)
半月膳
丸が欠けた半月の平膳のことです。
折敷や半月膳は 床や畳に直接置いて使われてきたものですが、
正式な料理では足のついた本膳が使われます。
最近は座卓の上に折敷や半月膳を置いて本膳替わりとすることもあります。
足打折敷
折敷に二枚の足板をつけたもの。
お客様に対して足が縦になるように置きます。
猫足膳
中足膳ともいいます。 折敷の下に猫の脚のような足をつけた略式膳
蝶足膳
婚礼の時新郎新婦の前に置かれるお膳(結婚式場ではなく和室での場合)
四本足に美しい彫刻が施されていて蝶の形に似ています。外側が黒、
内側が朱塗りで祝い膳とも呼ばれます。
宗和膳
折敷の縁と四本の足が一体になったお膳のことです。
本膳料理の膳として隆盛を見ました。最近では少なくなっています。
不吉な縦膳
お膳の正面は刷毛目がお客様の横になるように置きます。
杉・檜材のものなどの板は木目に沿って割れては一大事です。
昔の土葬の盛り土の上に膳の木目を縦にして置いたことを、縦膳といいます。
不吉な膳とされています。朱塗りのお膳は精進料理や仏式宴に使われています。
【通解】
1. 本膳料理の基礎は、一汁三菜にある。「菜(さい)」は「な」のことであり、
副食物のことを指す。
2. 一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、
飯と香の物は、数えない。
3. こうして見ると、料理の品数が「4品」ということになる。で、
「4」 という文字について、これが「死」と同じ音であることから忌み嫌い、
一汁三菜という分割した呼び方にしている。
4. また、菜の数は、かならず、奇数である。このことは、日本において、
奇数を陽とし、偶数を陰とする思想があり、奇数をめでたいものとすることによる。
一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、三汁七菜など、三汁十五菜まであるが、
一汁四菜(偶数の菜)はない。
5. 膳は、高足(たかあし)膳を用いる。高さ 40cm。
6. 膳の配置は、かならず、まず、本膳 (一番目に出す膳) を膝前に置き、
二の膳 (二番目に出す膳) を右側に置き、三の膳 (三番目に出す膳)
左側に置く。
7. 昔は、すでに盛りつけた料理を、目八分目の高さにささげて、
客前に出していた。
8. それぞれの膳には、何をどこに置くかという約束がある。これを、「膳組み」と
呼び本膳料理という名称は、室町時代に始まったのであるが、
現在、明治・大正時代に完成された膳組みを用いている。
9. で、膳組みは、江戸前期のころ、一の膳、二の膳、三の膳として分けていたが、
天保のころ、まず、最初に出す膳を、「一」と書かずに「本膳」と書くようになった。
10. さて、二番目に出す膳は、本膳より小型である。で、この膳のとき、「汁」のない
場合がある。これを 「引落(ひきおとし)」 と呼んで、正確には、二番目に出す膳
ではあるが、 「二の膳」 と呼ばない。引落の配置は、二の膳と同じであるが、
高さは、二の膳よりも低い。
11. つまり、「二の汁」がつく膳が「二の膳」であるということ。
これに、「焼物」が別の膳でつく。「焼物膳」という。脇膳の1つ。
12. さて、酒について。酒は、元来、「飯」を食べ終わってから飲むもので、
最後に出された。「吸物」が出されると、「酒」が出ることになっていた。
これを「吸物膳」と呼ぶ。
13. で、酒を出す合図が、「吸物」であること。
14. が、のちに、酒は飯を食べ終わってからでなく、二の膳に二の汁 (すまし汁)
から盃事に移るようになった。
15. 会席料理になると、はじめから、箸の上に、盃を載せている。
16. で、つゆとして、「飯」につくのは「汁」であり、「酒」につくのは
「吸物」であるということを知っておかれよ。
17. 最後、菓子に、濃茶と薄茶、あるいは、そのどちらかが出る。
• 濃茶抹茶の量を薄茶より多くし、泡立てず、茶筅(ちゃせん)で濃くぼってりと練る。一碗を数人で飲み回す。
• 薄茶抹茶に湯をさし、茶筅で泡立てる。濃茶に比べ味わいは、淡白である。
• 抹茶うすでひいて粉末にした茶。煎茶は、煎じ汁にするが、抹茶は、茶の葉を粉末に
してすべて飲んでしまう。
18. 本膳料理でも、食前に、茶の菓子(干菓子、蒸し菓子)がだされ、食後には、
一汁三菜であれば、煎茶か抹茶に菓子。二汁五菜であれば、濃茶に蒸し菓子、さらに、
薄茶に干菓子がだされる。
19.干菓子(ひがし)乾いた菓子をいう。打ち物(らくがん類)、掛物(こんペいとう類)、焼物(煎餅)がある。原則として薄茶のときに出す
日本の風習を守ることが伝承文化を守ることに繋がります。
私達は今一度良き文化を発掘し学ぶ必要があります。
今後も機会を見て日本人の風習を取り上げて行きたいと思います。
1月 12th,2024
恩学 |
食膳を思う はコメントを受け付けていません
「楽」は記憶にだけ残り「苦労」は身に染み付いて残る。
人柄は行動に現れる。行動を起こした分だけ表情に現れる。
苦労した分人生に自信がつくから見た目ですぐ分かる。
韓国の囲碁用語に未生(ミセン)と完生(ワンセン)がある。
未生は未熟な碁士である完生した碁士との違いは学びと謙虚である。
完生の碁士は余裕の構えがあり百戦錬磨の驕りが勝ちを急ぐ。
未生の打ち手は常に攻撃ばかりで完生の打ち手は鉄壁の守りがある。
すべては負けて身になる勝負の世界である。
囲碁の世界では「捨石」という言葉があります。
「捨石」には様々な意味がありますが、「将来、または大きな目的のために、
その場では無用とも見える物事を行うこと」や「大きな目的を達成するために
見捨ててしまう事柄」と「自分の形成を有利に導くために、あえて相手に
取らせるように打つ石」を言います。
勝利を得るためには小さな犠牲も払わなくてはならないのが囲碁なのです。
日本人は子供の時から足すことばかり教えられてきて、
多くのものを手にした者が偉いとされてきた。
成績を足し、運動を足し、図画工作を足し、クラス委員を足してきた。
社会に出れば昨日より今日と売り上げを足さなければ地位が上がらない。
家族を足して、家を足して、車を足して、旅行を足していかなければならない。
呼吸も吸うばかりでは息苦しくなりたまには吐き出さなければ死んでしまう。
我々は窒息寸前で呼吸困難な現代人です。
武術の世界に「肉を切らせて骨を断つ」という言葉があります。
「肉を切らせて骨を断つ」の意味は以下の通りとなります。
(1)自分も痛手となるが、それ以上に相手に打撃を与える。
(2)自分も肉を切られる(覚悟だ)が、相手の骨を切って(折って)
それ以上のダメージを与える事。
(3)現代的な解釈として、こちらも痛手があるがそれ以上のメリットがある事。
(4)「肉を切らせて骨を切る」も同義。
「肉を切らせて骨を断つ」は大きな勝負事を前にして使われる諺で、
半ば玉砕も厭わない覚悟を決めた上で発する言葉です。
発祥が剣道とされ、強敵との試合を備えた心境や決意として使われていたので、
そこから現在も特に格闘技などで使われる傾向がありますが、
他にも大きな勝負事や試合を前にして次の事は考えていなく、
目の前の勝負に集中しているとして使われます。
柔道の世界では「柔よく剛を制す」という言葉があります。
「柔よく剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」とは、
柔軟なものでも強いものを制すことができるという意味のことわざです。
柔道用語としても知られており、体の小さい人が相手の力を利用して
大きい人に勝つことを指して使われます。
日本人の精神を表した「日本の美は引き算の妙義」という言葉があります。
ヨーロッパは足し算の文化、日本は引き算の文化だと言われることがあります。
ヨーロッパの建築や街並み、歴史を見ているとそれは1つずつ構築されてきた
足し算の文化なんだということがなんとなくわかります。
また論理に基づいて、哲学や音楽を構築してきたドイツの歴史を鑑みても
足し算の文化を伺うことができます。ところでこの日本の引き算的思考は
どのようなものに反映されているのでしょうか?
村田珠光は「侘び茶」を広めた茶人です。
村田珠光(1422~1502)は大和国(現・奈良県)に生まれました。
珠光は、成長し浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い
京で能阿弥(水墨画家・茶人・連歌師・鑑定家・表具師)に師事します。
そこで茶の湯・和漢連句・能・立花・唐物目利きを習い、能阿弥の推薦で
足利義政の茶道師範となったといわれています。
また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流があり、彼から禅を学びました。
禅の影響を受けた珠光は「物を極限まで排することで現れる美」を追究しました。
そして、物の不足を「心の豊かさ」で補うことを目指したのです。
茶の湯の「心・精神」を重視した珠光は、茶の湯の道にとって最も大きな
妨げとなるのは「慢心と自分への執着」であるとし、どんなに上達しても
人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いています。
さらに、珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」
があります。「移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする
立場になりなさい」という意味です。
珠光は茶の湯を、心をコントロールし自分自身と対峙する「精神修行の場」
とすることを目指したのです。
能阿弥から学んだことは、茶の湯・和漢連句・能・立花など、
当時の一流の文化です。それらを学ぶことにより審美眼を磨き、
後述の禅の思想が融合することで、珠光の目指す茶の湯が作られました。
なかでも和漢連句には、強く影響を受けたと思われます。
和歌と漢詩の受け答えを繰り返す和漢連句に親しむことにより、
「和漢のさかいをまぎらかす」との考えが生まれたことは容易に想像できます。
和と漢どちらも知った上で融合し、さらに新しいものへ発展させるという
考えがここから生まれました。
珠光は、「一休さん」として有名な禅僧・一休宗純からも
大きな影響を受けています。
禅僧・一休宗純は自由を追い求め、反骨精神にあふれた禅僧でした。
珠光は、「無駄を排する禅の教え」や「何ごとにもこだわらず、
本質を追い求める心」を一休から学んだのです。
侘び茶は珠光により完成された訳ではありません。
しかし、珠光は「佗び茶が目指し、進む道を示す」という
重要な役割を果たしたのです。
その後、珠光の考えは富裕層の支持を得て広まり、
弟子達が研鑚を重ねたことで茶の湯文化の完成につながって
いくこととなります。
昔の人は「苦労は買ってでもしろ」とよく言われました。
平々凡々な暮らしからでは望む意識が低くて常に人の後ろを
歩くことになるからです。
現代のように海外の人とも仕事をしなければならない時代、
咄嗟の問題に直面した時に苦労した分、解決の方法が早く見つかります。
知識だけで解決をするのでは無く、生きた知恵で解決が出来る人に
ならなければなりません。
禅の世界では「小欲知足」といいつねに大きな量を求めるのではなく、
少しの量でも満足することを言います。
日本は、1990年代前半にバブルがはじけて以来、成長は滞ったままであり、
経済的には「失われた十年」などと言われ、日本社会全体が閉塞状況にあると
言われてから久しい。さらに、12年前に東北の大地震や津波、
福島の原発事故に直面した後、私たちは自らの生き方や社会のあり様を
根本的に見直すことを余儀なくされている。
その中で見えてきたのは、19世紀初めのヨーロッパの進歩思想を根とする、
「際限のない成長(特に経済におけるもの)や進歩(特に科学・技術における
もの)」を基礎とした現代社会の根本にある価値観に対する疑問である。
「際限のない成長や進歩」という考え方は、私たち人間を無限の可能性へと
突き動かす原動力ではあるが、実際は欲望の本性とも相俟って止まることの
ない卑近な「もっと、もっと」の欲望を生み続け、いつも現状に満足しない
状況を生み出していたのである。
仏教は、欲望に内在するこの「もっと、もっと」という本性に気づき、
先ずそれを止めるために「少欲・知足」ということをもって、
生きる出発点としてきた。「少欲」とはいまだ得られていないものを
欲しないことであり、「知足(足るを知る)」とはすでに得られたものに
満足し心が穏やかであることである。
唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘(げんじょう)は「知足」をさらに
踏み込んで「喜足(足るを喜ぶ)」と訳し、「少欲・喜足」とする。
このほうが内容に適った訳語ではあるが、一般には「知足」が
受け入れられている。
私たちは、物や知識や名誉・地位などの中、すでに得ているものに
対してはもっと良いもの、もっと多くのものを欲しがり、
いまだ得ていないものに対してはそれを得ようと欲する。
したがって、欲望とは現状に満足しないことと表裏の関係にあり、
逆に言えば、満足を知り、喜ぶことによってこそ
欲望が減少するのである。
「少欲知足」と言われる所以である。
「少欲知足」は、これまでは何か高徳でストイックな生き方を示す語として
敬遠される傾向にあった。しかし、成長や進歩を考え直さなければならない
今こそ、自分自身や社会が真剣に受け止めるべき語であろう。
2024年は強欲な心を捨て分かち合うことを大切にする1年に
しなければなりません。
念頭からの大地震と航空機炎上の事故は「大丈夫」という自身の気持ちの安心が
さらに被害を大きくしています。
我々は常に過去から学び成長をしていかなければなりません。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」を今一度肝に銘じるべきである。
1月 11th,2024
恩学 |
苦労は身になる はコメントを受け付けていません
先日の投稿「写真家の哲学的思考」でも森鴎外の「舞姫」のことを書きました。
私は以前東京上野の「水月ホテル鴎外荘」へ何度か行った事があります。
森鷗外が実際に住んでいた旧居や庭園が敷地内に保存されている、
由緒のあるホテルです。ここで「舞姫」を書き上げたとも言われています。
そこには鴎外が帰国後に執筆活動の時に使っていた部屋が中庭に面してあり、
食事をしていた蔵もありました。私は女将の中村さんと面識があったので
そちらで食事をした事が三度ほどあります。
コロナの為に2021年に一度閉館をしたのですが、クラウドファンドで1200万円集め、
再建に望んだのですが、依然としてコロナで客足は戻らず、2022年8月完全閉店を
余儀なくされました。
何故このような由緒ある建物を東京都は保存の対象にしなかったのか残念です。
文化・伝統を大切にしてきた日本人が、このような施設の保存に無関心なのは
何故だろうか、東京オリンピックの時に江戸の基軸であった日本橋の上に
首都高を走らせた。誰がどう考えても政治家の文化意識の低さを嘆くしか無い。
日本人は2種類に分かれている。
文化芸術を創造し後世まで伝えようとする支援タイプと、
文化芸術は飯の種にもならない暇人の遊びだと考えている低俗なタイプである。
英国にいたときに通訳の人から聞いた話がある。日本人の政治家や経営者の方々に
時間のある時に大英博物館やお芝居など見られてはどうですかと声をかけると、
大半の人が、文化芸術には興味が無いと答えるそうです。
欧米では地位のある人が文化芸術に関心が無い人は絶対にいません。
彼らから日本人に質問をされることがあります。
「歌舞伎と能楽は何が違うのですか?」「茶道と華道の大切な作法は知っていますか?」
「浮世絵の北斎や広重はどのような方ですか?」「相撲は見たことがありますか?」
誰も何も答えることができません。あなた本当に日本人ですかと笑われてしまいます。
そしてもう一つ大事な質問があります。「あなたの信じている宗教は何ですか?」
私は宗教に興味がなく無神論者です。
この答えを出す人は欧米人からすると野蛮人だと思われてしまうのです。
ベアーテ・ヴォンデ(独)さん言葉に、私は学者ではないですし、一つのことを
掘り下げるよりもいろいろなことに興味がある。
「木の幹よりも枝なんです」ね。これまで日本語を習い、演劇を専攻し、
文学は常に私の中心。歴史の調査にも興味がある。
それらの希望を全て実現できるのが森鴎外記念館でした。
森鴎外は軍医が本職でしたが、隣には常に別の世界がありました。
文化的、思想的な世界です。両方あると、いつでもどこかに逃げることができます。
彼は軍医の仕事をこなしつつ、文学に勤しみ、本職でない方で有名になりましたよね。
実際、今も生きた存在であり続けているのは文学のおかげだと思います。
鴎外は初めて腸チフスのワクチンを行ったり、最初の衛生雑誌を出したり、
医学者として良いことをたくさんやっています。同性愛や性教育についても書いており、
私はまだ研究したいテーマがいっぱいありますよ。
鴎外のすごいところの一つは、同じ問題について専門家同志のために学術的に
書くと同時に、一般の人にも分かるように適切な言葉で伝えられたこと。
例えば、牛乳を飲んだら健康に良いか悪いかを衛生雑誌で学問的な記事を書き、
同時に読売新聞に誰でも分かる記事を寄稿したのです。
今のコロナ時代を鴎外はどう考えたかなと思います。
彼の時代には脚気の問題がありましたが、未知の病気の究明には数十年かかることも
あります。後からこれはダメ、あれは間違いだったと言うのは簡単ですが、
もっと過程を見るべきだと思います。
もし鴎外が1日だけ今の時代に遊びに来ることができるなら、
聞いてみたいことがたくさんありますね。
「他は是れ吾にあらず」
日本曹洞宗の開祖であり、福井県の大本山永平寺を開いた禅僧でもある、
鎌倉時代に日本から中国へ海を渡った道元禅師(どうげんぜんじ)が、
留学先の寺院で出会った禅語「他は是れ吾にあらず」である。
中国に留学中の若かりし道元禅師が、ある夏の日、寺の廊下を歩いていたときのことである。
空には真昼の太陽が高く上がり、辺りを容赦なく照らし焦していた。
ふと、目線を中庭に移すと、直射日光を浴びながら黙々と瓦の上に椎茸を
干している年老いた僧の姿が目に映った。
さぞかし老身にこたえる仕事のように見えた。
心配になった道元禅師は、近づいて声をかけた。
「失礼ですが、あなたさまはおいくつですか?」「68歳になる」
「それほどまでに修行を積まれた方がこのような身にこたえる仕事をせずとも、
もっと若い修行僧に任せたほうがよろしいのではないでしょうか?」
日本からやってきた道元の頭には、食事の準備というような仕事は
若い僧が行うことだという思いがあった。
当時の日本では食事は下っ端の仕事だったからである。
だから老僧が汗水を流しながら椎茸を干す姿が不憫に思えてならなかったのだろう。
すると老僧はこんな言葉を返した。
「誰かにやってもらったのでは、自分でしたことにはならんからのぉ」
これが「他は是れ吾にあらず」という禅語の意味である。
他人がしたことは、自分でしたことではない。
当たり前の、それだけの言葉なのだが、これはちょっと奥の深い言葉なのだ。
誰かがしたことは、誰かがしたことなのだから、自分でしたことではない。
私たちはこれを当たり前のことと思うが、時にこれが当たり前ではなくなることがある。
他人が代わりにしてもいいのではないかと、「自分」というものを思考の外に放って
しまうことがある。
ちょうどこの年老いた僧に声をかけた時の、道元禅師のように。
道元禅師の思いは、「椎茸を干す」という行為に焦点を当てていたのであって、
「老僧が何をするか」に思いをめぐらせていたわけではない。
しかし、老僧にとって重要だったのは、「自分が何をするか」であって、
「誰が椎茸を干すか」ではなかった。「自分が」椎茸を干すことに意味があるのであって、
「椎茸を干す」ことだけが目的なのではなかったのである。
自分で自分の本分を全うすること以上に、大切なことなどない。
それが禅の根本であることを、暗に道元禅師に伝えたのだろう。
もちろん道元は、老体に気を遣って声をかけたに違いない。
しかし、本当に気を遣うとはどういうことか、老僧は逆に道元禅師に伝えたのだ。
相手に楽をさせることが、必ずしも気遣いではないのだと。
椎茸を干すことが目的なら、それでもよかったのかもしれない。
しかし、日常生活のすべてを修行として行うことを重んじる禅にとって、
そうした考えは邪であると言わざるをえない。
修行を取り上げるような声かけは、禅において親切とはいえない。
誰かが修行をして、それで自分が成長するはずなどないことを知っていながら、
それでも誰かにしてもらえばいいのではないかとの思いを、私たちは抱くことがある。
しかしそれは、本当にその人のことを考えた上での気遣いではない。
気を遣うとは、その人にとってどうすることが本当にその人のためになるかと考えて
行うことであって、単に楽をさせることではないからである。
「他は是れ吾にあらず」
他人は自分ではない、という単純で当たり前な、しかし奥の深い禅の言葉です。
海外の名もなき人達は国籍を問わず「凄い人は凄い」と認める寛容力を持っている。
外面だけで人を判断するのではなく、内面まで窺(うかが)い知る洞察力の深さである。
私はベアーテ・ヴォンデさんのこの言葉が気になった。
私は学者ではないし、一つのことを掘り下げるよりも、いろいろなことに興味がある。
「木の幹よりも枝なんです」学者は幹を研究対象にして探求者は枝を探り当てる。
私も「恩学」で書き続けているのは、学者でもないし研究家でもないので
「幹にはならず枝の部分」で文章を書き続けているだけです。
気になる文章や、気になる話題や、気になる事柄を、文化・音楽・スポーツ・科学・
政治などと脈絡もない文章ですが、読む人の心に何かに火がつけば良いとしています。
思考の粒を広げて平面にするのは皆様です。
「他は是れ吾にあらず」学びも自分で行わなければ意味がありません。
森鴎外もベアーテ・ヴォンデさんも道元禅師も他人任せでなく、
好奇心に応じて自らが追求してきたのです。
私もこれからも怠けずに自分の出来ることは自分で行います。
1月 10th,2024
恩学 |
幹ではなく枝の思考 はコメントを受け付けていません
友人が亡くなった。友人の人生はどのようなものだったか思いを馳せる。
人が良くて歌が好きで陽気な性格だったのがいまや悲しい思い出となった。
亡くなる1週間前に葬儀は身内で済ますので見送りには来ないでくれと言われた。
その代わりに1月8日(月)の誕生日には密やかに祝ってほしいと頼まれた。
彼の誕生日は彼が大好きなエルビス・プレスリーと同じ日だった。
生きていればプレスリー89歳、友人は80歳の人生だった。
「CAN’T HELP FALLING IN LOVE」が十八番の曲だった。
その日は故人を偲んで何度も聞き返した。
いくつも会社を立ち上げて失敗を繰り返した。
彼の家族が名のある人たちだったのでいつも周りから利用された。
最後には力尽きて頑張る気力を失ってしまった。
それでも私との交流は変わりなく続いていた。
カラオケが好きでお肉が好きで駄洒落の好きな人だった。
お酒が入ると世の中の役に立たなかったことを悔やんでいた。
それでも世の中に不用な人間はいるのだろうか?
この世の中は成功者だけの世の中だけではない。
どんな人生を生きてきても役たたずの人間はいない。
ひそやかに清く貧しく美しく真面目に生きた者たちもいるのだ。
決して人を裏切らず実直に生きた者にも頭を下げるべきである。
大勢の人たちからの賛辞はなくても生きてきたことに意味がある。
あなたは私たち家族にとって大恩人なのには変わりは無い。
「花は愛惜に散り 草は棄嫌におうるのみなり」
この言葉を聞くと、「花は皆から愛でられ、散る時も惜しまれて散っていく。
草は生えてきても抜かれ嫌がれしまう。
だから、草のように憎まれてはいけない、人の生き方として人から
好かれるようにしないといけない」。
この言葉は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べている言葉です。
花のように誰からも愛着したり、いつまでもあり続けてほしいものに限って、
早く枯れてしまったり、消えてなくなってしまう。
このように惜しまれるものほど、壊れたりなくなったりする。
しかし、嫌なものやあってほしくないものや、居続けてほしくないものの方が
かえってあり続ける。嫌なこと災いが近くまで押し寄せてきて、
そしてそれらがいつまでも居続けてしまうことが多い。
このようになかなか世の中はというものは、ままならく思うように
ならないのが、世の中の偽りのない本当のすがたで、それが本当のありようだ
逃れられるものではない。だから、それから逃げることを考えるのではなく、
それと向かい合っていかなければならないと、教えているのだと思います。
「雑草という草はない」
植物学者・牧野富太郎のことばとして知られている。
牧野は、NHKの朝ドラ「らんまん」の主人公槙野万太郎のモデルである。
この牧野のことばは、これまで牧野が語ったものだという
確実な根拠は見つかっていなかったらしい。
その根拠になる史料が、ついに見つかったようだ。
1年ほど前の高知新聞の記事「『雑草という草はない』は
牧野富太郎博士の言葉 。戦前、山本周五郎に語る。
田中学芸員(東京・記念庭園)が見解」
2022年8月18日)でその詳細が報じられている。
木村久邇典(くにのり)著『周五郎に生き方を学ぶ』(1995年、実業之日本社)
にその根拠となる内容が記載されているというのだ。
木村は山本周五郎の研究者として知られている。
若かりし頃、雑誌記者をしていた周五郎が牧野のもとに取材に行ったとき、
周五郎が「雑草」ということばを口走ると、牧野はなじるような口調で
「世の中に“雑草”という草はない。どんな草にだって、ちゃんと名前が
ついている」と言ったのだそうだ。
「雑草という草はない」ということばは、辞書にできるだけ草の名を載せたいと
思っている辞書編集者としても、まさにその通りだと思う。
確か上皇天皇も同じことを言っていたと思う。
1948(昭和23)年には、皇居に招かれて生物学者であられた
昭和天皇へ植物学のご進講を行いました。牧野富太郎、86歳の時でした。
また、昭和天皇の植物標本を初めて鑑定したのは牧野であり、
昭和記念筑波研究資料館には、大正から昭和初期に牧野が鑑定した
標本が現在も収められています。 そして、昭和天皇の静養中に侍従らが
皇居周辺の草刈りを実施し、お帰りになった際に一部雑草を刈り残したことを
お詫びしたところ、陛下が牧野の言葉を引用して「雑草という草はない」
どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で
生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として
決めつけてしまうのはいけない。ってことです。
注意するように。」とおっしゃったというエピソードも残っています。
成功者ばかりを尊ぶ世の中にしたのは誰でしょうか?
花咲く前の名もなき花の美しさを讃えることのない世の中です。
貧しい国の人たち、貧困度に苦しむ人たち、戦禍を逃れ難民キャンプで暮らす人たち、
災害に遭われて避難所暮らしを余儀なくされる人たち。
その痛みや苦しみを分からなければ本当の人生を歩んだことにはなりません。
日本人に根深く残る記憶!があります。
世界の中でも「愛された記憶」が一番長かった民族です。
縄文時代は、一万年から一万五千年続いた愛と平和で溢れていた時代だったのです。
そして亡くなった人すべてに刺し傷、切り傷が無かった平和国家でもあったのです。
愛していたということは、愛されていた、だからとことんまで優しい日本人は
愛された記憶を持っているから「素晴らしい日本人の記憶」を忘れないでいて欲しい。
太陽も草木も動物も山も川も海も神様と呼ぶ国は日本だけです。
どうぞ優しさを失わないでください。
今一度「雑草という名前の草はない」を心に刻んで下さい。
人目を奪う美しい花よりもそれを支えている草たちの存在も忘れないでください。
1月 10th,2024
恩学 |
雑草という草はない はコメントを受け付けていません
皆様「目標と目的」の違いが分かりますか?
生きる為の「目標と目的」を明確にして前に進んでください。
目標はマイルストーンで進むべき道標です。
目的は自分の人生の最終ゴールです。
必ず合わせて考えるようにしてくださいとお伝えしています。
出来ればマンダラチャートにして壁に貼りだすのです。
何故そのような考えに至ったかというと20代の時にLA在住の画家の友人が
プレゼントしてくれた一冊の本、ナポレオン・ヒル「思考は現実化する」を
読んで、自分の計画を書き出して壁に貼り出すことを知りました。
頭の中でぼんやりとイメージするのではなく、書き出すことによって意識に
しっかりと植え付けられるのです。
私はすぐにこの考えを取り入れて「日本一のプロデューサーになる」と
紙に書き出して壁に貼りました。
それによって道に迷うことはなくなり愚直に突き進みことが出来たのです。
それからはどんな困難にぶつかっても乗り越えることが楽しくなりました。
最近、知ったことですが岩手県花巻東高校硬式野球部監督佐々木洋監督も
同じ経験をしていたのです。
致知出版の「365人の生き方の教科書」で紹介されています。
「私は岩手の田舎に育ちましたから、遊びも野球くらいしかなくて、
周りに導かれるように自然に野球を始めました。
甲子園に出場してプロか社会人で活躍したいと思っていましたが、
結局選手として花を咲かせることはできなくて、大学2年生の時に戦力外で
寮を出されました。
初めての一人暮らしに最初は心を躍らせていたんですが、
家具を揃(そろ)え、テレビのスイッチを入れた途端、急に虚しくなったんです。
悩んだ挙げ句に、それまで活字を見るのも嫌だったんですが、
答えを求めて初めて本屋に行きましてね。
そこで目に留まったのがナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という本でした。
そんなわけないだろうと思いながら手に取ったんですが、ページをめくるうちに、
自分はそれまで大切なことを教わっていなかったことを痛感したんです。
それまで「夢を持て」「目標を持て」と散々言われてきたんですが、
ではどうやって夢や目標を立てたらよいのかということについては、
何も教わっていなかったんです。
類書を片っ端から読んだら書かれていることは同じで、数値で具体的に表すこと、
期限を決めること、ワクワクする内容であること、紙に書き出すことなどが
大事だと分かってきました。
それで、野球選手としてはダメだったけれども指導者として成功したいと思って、
「28歳で最年少監督として甲子園に出る」と書いたんです。
そうしたらいろんな巡り合わせの中で花巻東の監督に就任することができて、
本当に28歳で甲子園に出場することができたんです。
ですから生徒にも、夢は必ず叶うとハッキリ言うんです。
具体的に立てて具体的に行動していけば、必ず夢に近づくんだと。
大谷翔平が入部してきた時は、「先輩の雄星さんみたいになりたい」と言っていました。
私は、夢というのは掲げたところより少し下で実現するような感覚があるので、
「それでは菊池以下になってしまう。菊池を越えると言え」と指導しました。
当時、菊池の投げる球は155キロくらい出ていましたから、
絶対に160キロ出せると暗示をかけましてね。
ただ、実際に目標を書く時に、160キロと書いたら158キロになってしまうと
心配していたのですが、大谷はもう目標の立て方を心得てくれていて、
163キロと書いてありました。
菊池も大谷も、入部してきた時から間違いなくプロに行ける選手でした。
そんな逸材が名もない私の所へ来てくれたわけですから、
私も生半可な指導をするわけにはいきません。
自分自身にプレッシャーをかけるために、ドラフト1位で送り出せなければ
監督を辞めると宣言したんです。それを確実にするために、
その上のメジャーへ送り出すという目標を掲げて二人と共有していました。
不思議なことに、その夢もどんどん近づいて、いまでは二人とも海を渡っています。
彼らはたまたま海を渡ったのではなくて、高校の時に自ら思い描き、
自らの脚で海を渡ったと思うんです。
今や大谷翔平は誰でもが知るメジャーリーガーの最高峰に君臨しています。
菊池雄星もブルージェイズで活躍しています。
まさに「思考は現実化する」を実践したお二人です。
私は同時に昔読んだ童話「ウサギと亀」から目的の達成方法を学びました。
ご存知のように足の速いウサギと足のノロイ亀のレースです。
勝敗の行方は、誰しもが戦う前から決まっていると思っていたのです。
しかし予想に反して亀がウサギより先にゴールにたどり着いたのです。
何故かというと原因はウサギの慢心と驕りが敗北につながったのです。
あんな歩みの遅い亀には昼寝をしていても勝てるという慢心が常に亀を、
「目標」にしてしまったのです。その反対に亀はウサギなど一切目もくれず
「目的」のゴールしか意識をしていなかったのです。
お分かりでしょうか?同僚やライバル会社などを意識して彼らに勝つために、
売上記録を伸ばし、業績を伸ばしていたら、彼らを追い抜くことは出来ないのです。
高校生の時に大谷翔平が菊池雄星を目標にして頑張っていたら、
今の大谷翔平は存在していなかったのです。
私は常に新人アーティストの面接の時に「目標と目的」の違いを質問します。
殆どの人が明確に答えることが出来ません。
しかしカリスマ・ロックスター矢沢永吉は、最初から目的しか言わなかったのです。
当時、日本のロック業界は30代になればお払い箱で、海外のロックアーティストは
50~60代でも現役で活躍している。音楽と年齢は関係がない、だから自分は
70歳過ぎても武道館でコンサートを開催すると強く言い切ったのです。
まさに彼はその通りの人生を歩いているのです。尊敬に値します。
そして矢沢永吉に関してもうひとつ思い出すことがあります。
「稲葉さん矢沢はジョンレノンと同じキーで歌える、そしてこの新曲は億を稼ぎ出す」
一枚の楽譜を前にして熱く語ったのです。そしてギターで歌ってくれました。
その数年後には何十億も稼ぐロックスターになったのです。
まさに「思考は現実化する」を実践した男です。
どうか皆様も「目標と目的」をマンダラチャートに書き出して
壁に貼りだしてみてください。
皆様の願いが叶うことをお祈りします。
2024年は辰年です。まさに登り龍のごとく目的に向かって上昇してください。
1月 9th,2024
恩学 |
目標と目的の設定 はコメントを受け付けていません