耐えるところから




幼い時に寺の住職から言われた言葉です。
「真珠はな、あこや貝の稚貝が石ころを飲み込んで、貝殻やサンゴの破片を飲み込んで、
痛さに耐えて時を経て光り輝く真珠になるのじゃ。
お前も人生の試練を早くから経験して、それに耐えてこそ立派な人間となるの
じゃ、頑張れよ」
子供の時に不遇だった自分の人生を嘆いていた時にかけられた言葉でした。
絶対に不幸だからと言って悪の道には入るまい、
この不遇を活かして成功するのだと決心した瞬間でした。

私たちの時代は未だ儒教の「男女席を同じにせず」の風潮が残っており、公で恋愛を
することはありませんでした。目を合わせるのに一年、会話するのに2年、手を
握るのに3年はかけていたのです。そのためにハイネやゲーテ、北原白秋、などの
詩集を購入して自分なりの表現を探したのでした。

その当時流行ったのが「交換日記」です。クラスの思いを寄せた人へ
お願いをして「交換日記」をしたのです。
友達も親も知らないところでの秘密のやり取りは、まるでシェークスピアの演劇の
主人公になったようでとても興奮しました。
人を愛するとは気持ちを抑えて耐えるところから始まるのです。

山本常朝「葉隠」忍ぶ恋(しのぶこい)

「恋死なん、後の煙にそれと知れ、つひにもらさぬ中の思ひは」
恋い焦がれたまま死のう。最後まで告白しなかった胸の内は、自分の亡骸を焼く
煙を見て、それと知ってください。

忠=真心」+「義=正しい行い」=真心をもって正しい行いをすること、
正しいと信じる事に真心をもって尽くすこと、というような意味合いになります。
むしろ、主君が間違った方向へ進もうとするなら、命をかけてお諫(いさ)めする
ことこそ「忠義」本来の意義であって、主君への盲信などは、媚びへつらい
として嫌われていたようです。
そういう視点を持ってみた上でこの和歌を読んでみると、「忠義」というものが
ほんの少し身近に感じられたりしませんか?

「好きな家族のために」とか「愛する人のために」とか、時には「仲間のために」、
「自分の属する組織のために」、そして「故郷のために」など、偶然か必然か、
自分が属する世界や、その中にあるものを守りたいというような感覚は、
誰にも少なからずあるものでしょう。

そういうもののために「何かしら役に立ちたい!」と思うこと。
絶対的主君とその家来という関係の中ではなく、もっと根本的な「愛」の中に
本来の「忠義」はあるのだと思います。

偉大な芸術家や作曲家も耐えるところから作品を作り出していたのです。

モーツァルトの例え
「交響曲第3番変ホ長調」は、モーツァルトの作品だとされてきましたが・・・
1912年他人の作品を移した写譜だということが判明しました。
ロンドンで出会ったカール・フリード・アーベルの作品でした。
同時代の作家を写譜したのは、インスピレーションを高めるためで、
一生努力していたようです。

どんな曲でも真似したり、自分のものにできる・・・色々な場所で、多くの作曲家の
影響を受けるモーツァルト。
ロンドンでは他に・・・ヨハン・クリスティアン・バッハに夢中に。
パリではヨハン・ショーベルトの曲を研究。
イタリア・ボローニャでは、マルティーニ神父と出会い、彼の収集している膨大な
楽譜を研究しました。

後にモーツァルトは・・・
「旅をしない人は、全く哀れな人間です
 凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと凡庸なままです。
 でも、優れた才能の人は、
 (僕自身それを認めなければ、神を冒涜するものです。)
 いつも同じ場所にいれば駄目になります。」
と言っています。

モーツァルトは、貪欲に研究し、絶え間ない努力をしていたのです。

伊東若冲の例え
「若冲が個性的というのは、誰もが感じられることだと思いますが、どれほど
個性的だったのか理解しようと思ったら、彼が何を参考にして自分の絵をつくって
いったのかを知る必要があります。ふつう模写をすると、模写の絵は死んでしまう
のですが、若冲が模写すると原本よりも生き生きとしたものになる傾向があります。

それは、自然を生命力のあるものとして描きたいという気持ちが若冲にはあって、
それが模写をしても彼の絵に現れてくるのだと思います。若冲の絵は、ニセモノを
つくるのがとても難しいんです。マネして描こうにも、肉眼でできる最大限の細かい
描き込みがあるからです」

青物市場の裕福な問屋の跡取りとして生まれた若冲は、40代で家督を弟に譲るまで、
家業を継いで働いてもいた。マーケットの、生き馬の目を抜く世界でのストレスを、
現実にはない美を追求することで、若冲は精神のバランスをとっていたのではないかと
考える。

山本常朝「葉隠」の例え
万治2年(1659)生まれの佐賀藩士で、「葉隠」の口述者。通称神右衛門。童名不携。
市十郎、権之丞とも名乗った。佐賀藩士山本神右衛門重澄が70歳の時、その末子として出生

。重澄は中野神右衛門清明の3男で山本助兵衛宗春の養子となり、山本家を継いだ。

幼少の頃の常朝は、20歳以上は生きながらえることはできないだろうといわれるほどの
虚弱な体格の持ち主だった。しかし、臨終の病苦に耐えて呻き声を出さなかったほどの
剛の者の父重澄は7歳の常朝に武者草鞋をはかせて、小城市三日月町の勝妙寺までも
墓参に赴かせるほどのスパルタ教育を行なった。

常朝は9歳で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側小僧になり、次いで小々姓、成人後は
御傍役、御書物役となり、光茂に近侍した。
その間、儒教、仏教の造詣深く、当藩第1の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之の薫陶を受けた。

一鼎は、そのころ松梅村下田(佐賀市大和町下田)に閑居していた。

また、同村松瀬の華蔵庵にいた禅僧湛然にも師事した。元禄13年(1700)藩主光茂が
没すると、常朝は出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠棲した。
佐賀藩士田代又左衛門陣基がその庵を訪ね、宝永7年(1710)から7年間をかけて、
常朝の談話を筆録したのが、「葉隠」の中核となった。
常朝の法名は旭山常朝、墓は、佐賀市八戸の龍雲寺にある。

ワンピースの例え
大人気の『ONE PIECE』で知られる尾田栄一郎さんが「嫉妬した漫画」について
取り上げた。尾田さんの出演はならなかったが、アンケートに直筆で回答してもらえた
ことによりその作品が明らかとなった。

尾田さんはネットで面白そうな漫画を調べては購入して読むという。
原稿の締め切りが迫っていたある日、気分転換に1、2巻読むつもりだったところ
「全巻読んでしまって、こっちが原稿を落とすところだった」
「グイグイ引き込むんじゃないよ! 冗談じゃない!!」とまでに彼を夢中にさせた
作品こそ、新川直司さんの『四月は君の嘘』だった。

「雰囲気のある1カット…次のコマに目をやるのがもったいないくらいイイ」と
絶賛するこの漫画は、神童と呼ばれる中学生ピアニスト・有馬公生と同い年の
ヴァイオリニスト・宮園かをり、2人の恋と音楽家としての成長を描いたもの。
なかでも尾田さんは「聞こえる音楽、漫画の苦手ジャンル“音楽”の表現がまあ見事」と
ヴァイオリンの音色を絵で表現した1カットを示した。

日本のみならず海外のファンも多い『ONE PIECE』の尾田栄一郎さんがその表現力に
嫉妬したのだ。「『四月は君の嘘』公式(shigatsuhakimi)ツイッター」では、
放送後に原作担当者が「尾田栄一郎先生が嫉妬した作品として紹介されました!!」
「それにしても、話を伺ったときにはびっくりしました」と明かしている。

最後に「鋼は叩かれて名刀になる」例え
私のところへ沢山の相談事が持ち込まれます。その中でも多いのが中小企業の社長さん
だった。ある時経営不振から倒産を余儀なくされた社長さんがお見えになりました。
私は詳しい事情を聴いてから一言「善かったですね」と答えたところ社長さんは
激怒されました。毎日・毎夜借金取りが押しかけてその対応に苦しんでいるのに
何が「善かったですね」だと興奮して席を立ちあがりました。

もう一度席に戻っていただき同じ経験をした私のいきさつを詳しく話をして、
最後に「鋼はハンマーに叩かれて名刀になる、叩いているハンマーは幾ら叩いても
名ハンマーにはならない」。今は叩いている人に「ありがとう」と言葉を伝えるだけで
いいのですよ。「ありがとう」と言われたら取り立てに来た人も、返済で追い込むことは
しなくなります。社長さんは涙を流して笑いながら帰っていきました。

耐えるところから人生が磨かれます。みなさまも耐えてより良い人生をお過ごしください。


無駄の論理




有意義だと思うものばかり追求する人生。
無駄をなくして効率よくできたと得意顔をする大人達。
お金も時間も人間関係も有意義なことしか頭にない。
学習とは無駄をなくして有意義にすることなのか?

人生の目的が有意義な図面通りに作られるのなら何のための人生なのか分からない。
これでは生成AIに自分たちの人生が乗っ取られてしまう。
人間は自由な発想のもと予測不可能なことをするからAIに負けないのだが、
予測通りなら必ず生成AIに乗っ取られてしまう。

「好奇心」も「疑問」も有意義な生き方をする人達にとっては無駄なのである。
それは常識という辞書の中には無駄を奨励していないからである。
つまらない、本当につまらない、無駄のない人生なんてつまらない。
結果が分かっている人生を過ごしても悔いは残らないのだろうか?

そんな有意義を尊ぶ大人達が大きな過ちを犯している。
自民党議員のキックバック問題、女性議員のエッフェル塔問題、県会議員の
パワハラ問題、ダイハツの不正部品問題!ビッグモーターの不正請求問題など
枚挙にいとまない。世の中、真面目人間ほど不真面目な人間はいないのである。
有意義を主張する人間ほど不正が多いのは何故だろうか?
自分達が犯した罪は裁かれないと勘違いをしているのだろう。

科学者も芸術家も音楽家もみんな無駄な人生を真剣に生きている。
疑問を持つことが現状を進化させる最良の方法だと知っているからである。
未知の領域では失敗が当たり前で笑われても気にすることは無い。
子供の時の道草と同じで遊びながら好奇心を育てている。
星を見れば天体に興味を持ち、草花を見れば植物学に興味を持ち、野球を見れば
大谷翔平に興味を持ち、将棋を見れば藤井聡太に興味を持つのである。

音楽プロデューサーは無駄な発想のもとに生きている。
世代に応じた旬の音楽は何かをいつも考えている。
若い子たちの会話の内容も聞き耳を立てて参考にしている。
日本で最初に売られた携帯電話も持っていた。
話題のレストランへは足繁く通ったのである。

そうして集めた情報を参考にして何枚もアルバムを制作してきた。
素晴らしい楽曲もヒットしたら文化になるがヒットしなければただのゴミになる。

私の一番の無駄は大学へ行ったことである。
人生の一番輝く時にアルバイトばかりして、ギリギリの旅費で英国へ行った。
そして多くの時間を費やしてロンドンへたどり着いた。

ロンドンでは週に何回かレストランの皿洗いをして音楽の勉強をしていたのだが、
もっと効率よく英語も勉強して音楽の勉強も出来たはずである。
あえて、無駄な道を選んだのは自分の好奇心を信じていたからである。

単独でライブハウスへ行き、コンサートへ行き、楽器屋へ行き、アーティストフェス
へ行き、ミュージカルへ行き、出会いのチャンスを楽しんだ。

あらゆる好奇心に理性が負けたのである。無駄な時間を楽しんでいたのである。

休みの日にはポートベローへ行って古着を買い、美容室サスーンでヘアーカット
のモデルをしてカット代をうかしていた。歯が痛くなればロンドン大学の歯科医療部へ
行って無料で治療をしてもらった。勿論、インターンの医者達に簡単に虫歯を抜かれるのは
苦痛を伴った。また、小遣い稼ぎに地下鉄の通路で歌も歌っていた。
貧乏に無駄はつきものであるが、その対価として智慧が付くことは確かである。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                当時はこれらの経験が何か役に立つのだろうかなんて考えもしなかった。
ただ無駄をおろそかにしなかっただけである。

篠田桃紅  
「107歳になってわかったこと」

人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまいます。
真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、
求めているところにはありません。

しかし、どこかにあります。
雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。

用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられていますから、
兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。

無駄が多くならなければ、だめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。
安いから買っておこうというのとも違います。
無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、
なんとなく買ってしまう行為です。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。

私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。
毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。
時間も無駄にしています。
しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。

最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、
どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。
なにも意識せず無駄にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。
ああ無駄遣いをしてしまった。

そういうときは、私は後悔しないようにしています。

無駄はよくなる必然だと思っています。
もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。
やることなすことすべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、
効率的で全く無駄のなかった人生。

もしいたとすればの話だが、およそつまらない人間が
そこに存在していることになる。

人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に
遭うという、人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。
「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。

篠田桃紅(日本の美術家・版画家・エッセイスト)

「無用の用」という老子の言葉がある。
一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしていると
いうこと。無駄のある人生も、時にいいものだ。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』にある、
「愛とは相手のために時間を無駄にすること」という言葉を教わりました。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために
費やした時間だったんだ」と『星の王子さま』にはあります。

禅僧の修行時代には、常に無駄骨を折れ、無駄骨を折れと言われたものでした。
修行のほとんどは、無駄といえば無駄なことでしかありません。
「雪を担って古井を埋む」という禅語があります。
井戸にいくら雪を埋めても、埋まるはずもないのです。それでも埋め続けるのです。

ある時、宮大工西岡常一の弟子小川三夫さんのことを語ってくれていました。
小池さんが「人は無駄をしないと、何が無駄なのか本当の意味で分からない。
たくさん無駄をして、その人が、ああこれが無駄なんだと気づくことが大事なんだ。
気づいたことではじめてその無駄をなくせるのだ」と語っていました。
大本山「須磨寺」寺務長小池陽人

この忙しい世の中に、坐禅しているということが無駄なのかもしれません。 
この我々僧侶という存在自体が無駄なのかもしれません。
しかし、その無駄の尊さもあるはずなのです。
臨済宗大本山「円覚寺」 官長横田南陵

人生に無駄はありません。無駄こそが有意義に繋がるのです。
無駄をした人は少しの違いに気づく力を授かります。
科学者も芸術家も音楽家もみんな無駄な人生を真剣に生きているのです。

皆様もこれは「無駄かも知れない」と思えることをどんどんしてください。
私は来年も無駄な時間を費やして年齢を重ねたいと思います。


見つめる目(心眼)




『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明

「悪い音は誰でも聞き分けられるけど、いい音を聞き分けるのは、
そのための耳を磨いておかなければできない」稲葉瀧文

「人の欠点は誰でも感じられるけど、長所を感じるには、
そのための心を磨いておかなければならない」恩学

「真・善・美」という言葉があります。

「真・善・美」(しんぜんび)の意味は、“人間が生きる上での理想の状態を
3つの言葉で具現化した表現”です。人間としての最高の状態が「真と善と美」の
樹立であるとするものです。
「真」とは、うそ・偽りでないこと、真実、誠意を意味します。
「善」とはよいこと、道徳的に正しいことの意味を持ちます。
「美」とは、美しいという意味とともによいこと、価値のあること、
また調和の状態を表す意味があります。

「真・善・美」は学問の目的としての普遍的な価値を意味する言葉でもあります。
「認識上の真・倫理上の善・審美上の美」と整理され、
それぞれ「論理学・倫理学・美学」における主題とされます。
さらに「真善美」は、相互に関連しあう統一的な価値として、学問全体の究極的な
目的として追究される概念でもあります。

「お 魚」
海の魚はかはいさう。
お米は人につくられる、 
牛は牧場で飼はれてる、 
鯉もお池で魅を貰ふ。 
けれどもうみのお魚は 
なんにも世話にならないし 
いたずら一つしないのに 
かうして私に食べられる。
ほんとに魚はかはいさう。
 (『金子みすヾ詩集』 より)

この詩は、近年注目をあびている金子みすずの代表作の一つである。
食卓にのぼったお魚の生命を思いやる心は、私たちにズシンと響いてくる。 
何事にも常に相手の身になって考え、奥深いところ(心眼)から
あたたかいまなぎしで見つめる時、思わずわきおこってくる世界である。
あまりに豊かな暮らしからは感謝の念が生まれにくい。

我がままでエゴ的な世情にあって、とかく私達が忘れているもの、
それは、あたたかい思いやり、慈しみの心である。 
人間だけに生命があるのではない。
石ころにも草花一本にも森羅万象全てに、生命の通じ合いを感じていきたい。 

今、私達にとって何が大切なのか、心眼でしっかりみつめ、
思いやりの心をもって、あまねく一切に只々尽くしていきたい。 
悠久に続く生命の為に。

『心眼を得る』 ダグラス・E・ハーディング

バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』という本をご紹介しました。
それは、文化伝統のなかに“悟り”という現象に対するいわば免疫がなかった
(当時)キリスト教圏内で起こった、覚醒体験の報告とも言える本でした。

あまり類書のない本として紹介したのでしたが、今回ご紹介しようと思うのも
じつはキリスト教圏内で起こった覚醒体験であり、その後の著者の奮闘の記録です。
このダグラス・E・ハーディングという方は、33歳のときヒマラヤを歩いていて、
いわゆる禅語でいう“見性(けんしょう)”をします。

自分が何者かを“見る”(知る)わけです。真我を垣間見るんですね。
ま、悟ったわけですが、ただ、西洋の方なので、自分が“見た”ものを
確証してくれるような人がまわりにいないんですね。

ダグラス・E・ハーディングと言えば、今ではウェスタンのスピリチュアル
世界ではとても著名な方らしいですが、当人がこの体験をしたときは、
まだ大学生で、むろん、まったく無名の存在です。
当たり前ですね。(^^;) 言いたかったのは、当人が自分の体験を
相談できるような相手が彼のまわりにはまったくいなかったということです。
そのため、彼は自分が足を踏み入れた世界と、そのなかでの自己探求の道を、
まったく自分ひとりで、独自の探求で切り開いていかなければならなかったわけです。

後に、彼はそれを「無頭道」と名づけたそうです。
いまでは、彼に“斬首”されて頭を失った方が、世界中に万人のオーダーでいる
みたいです。 もっとも、頭を切り落とされた方が、そのことに気づいているか
どうかはまた別ですが。

ハーディング氏が西洋文明のなかで独自に切り開いた「無頭道」の観点では、
誕生後の人間は「八つの階梯」のどこかに位置することになります。
すなわち、 (1)頭のない幼児 (2)子供 (3)頭のある大人 (4)頭のない
見る人 (5)頭をなくす修行 (6)前進 (7)関門 (8)突破 の八つです。
この「八つの階梯」の叙述もじつに秀逸で、ハーディング氏がひとりで歩んだ探求の
道がどのようなものだったのかが推測される感じです。

見性は仏教僧だけが得られる悟りの極意かと兼ねてから思っていたのですが、
キリスト教やイスラム教の信者には経験として得られないものかと思っていたのです。

やはりそのような経験をした人がいたのですね。

「心眼は自分が何者かを見る目として紹介されています」

庭の掃除をしていた時に箒で飛ばされた石ころが木に当たった音を聞き、
悟りを得た人や、桜の花咲く瞬間に目の前がひらけて悟りを得た人もいます。
人は情報過多により真実を見る目を失っています。
ある意味無頓着になっているのです。見ているようで見ていないし、
考えているようで何も考えていないのです。
それではいつまで経っても「心眼」を得ることはありません。

「正法眼」とは、正しい法の眼、すなわち真理が見える心眼のこと。
「蔵」とは、それを納めておく蔵のこと。「涅槃」とは、不生不滅なる
安楽円寂の世界。「妙心」とはその心。「実相無相」の実相とは、ありのままの
姿のことであり、その実体は無相であるということ。
「微妙の法門」の「微妙」とは言葉で説明尽くせない境涯のこと。
「不立文字、教外別伝」とは、文字通り文字にも言葉にも表現できない境地のこと。
つまり「微妙の法門」は正に不立文字、教外別伝だからこそ、”心を以って
心に伝える”以外にはなかったのです。

見つめる目とは、心を開き素直に飛び込んできた景色を、言葉を受け取る力です。
我々はついものごとを見る時に情報に左右されてしまいます。
そこにあるままの素直な姿(形)を頭で見るのではなく、
心で見るように心がけてください。

『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明


善意と美しさ




あなたは善意を素直に受け止めることが出来ますか?
そして善意と親切の違いも分かりますか?

善意は見返りを求めない善い行いを指しどちらかというと気持ちで表現できる。
道に大きな石があれば端によけて、自転車が倒れていれば元通りに置き直し、
ゴミ置き場のゴミが散らかっていればゴミ袋にまとめておくような、誰の指示でもなく
誰が見ているわけでもなく行う行為を善意というのです。

親切は「お先にどうぞ」「荷物持ちましょうか」「そこまで送ります」のような
行動を伴う行為である。そっとさりげなく声をかけるのがマナーです。
注意しなければならないのは親切の言葉は下心があると警戒されることもあるのです。

どちらにしても相手がやってくれた行為に「ありがとう」と素直に返せますか?

海外の人から日本人は親切で正直な国民だと言われます。
それは経済が安定していて個人の所得も多かった時代の話です。
今の日本の経済状況は最悪の状態です。
作り笑いとマニュアル化された「おもてなし」は親切の代名詞ではありません。

日本は30年間所得が増えず物価は上がり経済は疲弊仕切っています。
ウクライナやイスラエルの戦争で海外からの輸入品が届かず、食料もエネルギーも
不足がちになり、価格が高騰しています。このままだとどうなってしまうのか
不安な材料で溢れています。

私は昨年何度かカンボジアへ訪問しました。
経済成長著しい現状を自分の目で確かめるためにです。
アジアの中でも1・2位を争う貧困国だと聞かされていたカンボジアの現状は、
経済発展途上の真っ只中で街には活気が溢れていました。
高級車は普通に走り、オシャレなレストランはそこかしこにあり、若者達の服装も
高級品を身に纏っているのが分かります。

カンボジアは平均年齢が26歳〜28歳の若い国です。
若者達が経済の原動力となり国を動かしているのです。
国の通貨ニューリエルもあるのですが一般的にはカード払いか米国ドルを使います。
海外からの観光客は価格表示がドルで書かれているのでとても便利です。

多くの世界企業が中国離れをして労働賃金の安いカンボジアへ流れてきました。
今まで農地だったところが高値で取引されたのです。
不動産で手にした大金を商売に注ぎ込み街にはお金が溢れています。
勿論、田舎にはその日暮らしの人たちも大勢いるのも現状です。

人は勢いがあると歩くスピードが速くなり目の輝きも違って来ます。
輝く希望の中にいると笑い声も話す言葉も元気いっぱいになります。
日本のように経済停滞期を迎えると人の歩くスピードは遅くなり、
目にも輝きがなくなり、その上に笑い声も遠慮がちになり笑みを返すだけになります。

「禅の美しさ」とは、人への思いやり、曇りのない目でものを見たときに得られる
清らかさなど、心の内面から輝く美しさです。移りゆく季節の尊さ、新しい毎日を
感じること。人と人との出会いのなかで互いに敬い合うことを学ぶこと。当たり前の
日々の暮らしそのものが禅の修行であること。忙しい日々に流されるのでなく、
ちょっとだけ「私」を休む時間を作る必要があります。

それだけでも、何かが変わってくるかもしれません。仏教には心の不安や悩み、
落ち着ける方法など、さまざまな生き方の教えがたくさんあります
現代を生きる私たちの指針になるヒントが数多く示されているのです。
その教えを、わかりやすく、優しく紹介し、これからも解き明かします。
私なりの解釈ですが、ぜひ皆様の毎日にお役立てください。

大切なのは「人の善意や好意を受け入れる」ことです。
御馳走するから自宅へおいでよと誘われて「借りを作りたくない」
という気持ちから断ったら友達関係の縁が切れる恐れがあります。
この場合は「貸し借り」ではなく、
快く「お願いします」と返事をした方が良いのです。
昔から善意や行為を素直に受け入れる人は婚期が早く訪れると言います。 

「借りを作りたくない」、私たちは、「他人に甘えてはいけない」
「自分の力で解決しなさい」と言われて育てられてきましたが、もしかしたら、
その過程で、「とても大事なものを忘れてきた」のかもしれません。 

その大事なものとは、「人の善意や好意を受け入れる」ということです。 
相手の人が「2人分の食事代を払いたい」「払うことで、幸せな気分になれる」のなら、
それを「貸し」「借り」とは言わないで、受け入れてあげる(感謝する)ことこそ、
優しさであり、美しさではないでしょうか。 

どうしても「借り」を感じてしまう人は、「ありがとう(感謝)」を言っていない
のではないでしょうか。 善意や好意を「貸し」「借り」に置き換えてしまう人には、
同じように、「貸し」や「借り」で物事を考える人しか近づいてこないように思います。

実は「ありがとう」の語源は、仏教に由来するといわれます。
お釈迦様が説かれた「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」に「ありがとう」の
語源があるのです。

それは、お釈迦様が、阿難というお弟子になされた、こんなたとえ話です。
「盲亀浮木」の譬えです。

「果てしなくひろがる大海原を思い浮かべるがよい。その底深くに、目の見えない
一匹の亀(盲亀)がいる。その亀は100年に一度、海面に顔を出す。
一方、海面には一本の丸太棒が浮いている(浮木)。
その丸太の真ん中に拳くらいの大きさの穴が空いている。
丸太は波のまにまに風のまにまに波間をただよっているのだ。

阿難よ、この眼の見えない亀が、浮かび上がったとき浮木の穴に、
ひょいと頭を入れることがあるだろうか」
「さようなことはとても考えられません」
お釈迦様はなおも尋ねられます。
「絶対にないと言いきれるか」絶対にないか、といわれれば、一応、
亀の頭が入る穴は開いているのですから「絶対ない」とは言いきれません。

「確かにないとはいいきれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」

「ところが阿難よ、人間に生を受けることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れる
ことが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」

「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦様は教えさとされているのです。これが「ありがとう」の語源です。

では「ありがとう」の反対語は何でしょう? 次に「ありがとう」の反対語について
お話ししましょう。「ありがとう」の反対語は何か。答えの1つが「あたりまえ」です。
「有り難い」の逆だから「あたりまえ」。これでは幸せも逃げていってしまいます。

何より、人間に生まれたことは、あたりまえどころの話ではありません。
しかし、そこまで考えが及ばず、人間に生まれたことを、あたりまえに思い、
恨み呪いがちです。
人間に生まれたことを有り難く感じ、親に心から「生んで育ててくれて、ありがとう」
といえる身になりたいものです。
次に、心から「ありがとう」と言えない理由について考えてみましょう。

誰もが祝福されてこの世に生を受けました。人間に生まれたことを、
みんなが「おめでとう」と歓迎したのです。
ところが歓迎された当の”主人公”は、成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」と生まれたことを後悔し、「なぜ俺を生んだ!」と、
親を恨む人さえあります。人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。

本当は、誰もが、人間に生まれたことを心の底から喜びたいはず。
なぜ生まれ難い人間に生まれたことを喜べないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだと仏教で教えられます。
何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に真正面から答えたのが仏教なのです。

人身とは人間のこと、今生とは、生きている時、現在のことです。
「人身受け難し、今すでに受く」とは、「生まれ難い人間に生まれることが
できてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜です。
人間に生まれることが、いかに有り難く、喜ばねばならぬことか。
そう、お釈迦様は教えられているのです。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と人生の目的が果たせた時にこそ、
「人身受け難し、今すでに受く」「人間に生まれてよかった!」
という幸せに満ちた心があふれでます。

これからも善意を素直に受け入れて美しい人生をお送りください。


負ける悔しさ




挑戦とは失敗を想定して戦いに臨むことです。
勝つことばかりを想定して戦いに臨めば少しの敗北にもアタフタしてしまいます。
そして負けることの経験から大きく成長することも確かです。
悔しさは緻密になり、慎重になり、周りをよく見る目を養ってくれます。

先日最終回を迎えたNHK大河ドラマ「どうする家康」
あの家康公も戦で大敗を喫したことがあります。
武田信玄に敗れた「三方ケ原の戦い」。
ほうほうの体で自分の居城に逃げ返った直後、自分の苦々しい姿の似顔絵を描かせて、
これ以後その絵を自分の戒めにしていた。
これが260年余続いた江戸幕府の基礎になりました。
「負け」は己を成長させる糧になるのです。

中国の諺「臥薪嘗胆」の気持ちで悔しさを忘れずに名将となったのです。

「臥薪嘗胆」は故事成語です。 「十八史略(じゅうはっしりゃく)」の
「春秋戦略」に見える次の故事に由来しています。 そのあらすじを説明すると、
「春秋時代、呉王の闔呂(こうりょ)は越王の勾践(こうせん)に敗れて戦死。

闔呂の息子である夫差(ふさ)は、父の仇を討つために固い薪の上に寝て、その痛みで
復讐の志を忘れないようにし、三年後に会稽山で勾践を降伏させた」 となっています。
「臥薪」は「薪(たきぎ)の上に臥(ふ)し寝ること」、「嘗胆」は「苦い胆(きも)を
嘗(な)めること」で、どちらも自身を苦しめることで復讐の志を奮い立たせることを
表しています。
それが転じて、「目的を達成するために苦心し努力を重ねる」といった意味で
用いられるようになりました。

2023年WBC準決勝メキシコ戦で痛恨の3ランを打たれた佐々木朗希
ロッカールームへ戻りグラブを床にたたきつけて一人静かに泣き出した。
普段感情を表に出さない佐々木選手はメンバーの足を引っ張ったと悔し涙を流したの
です。この悔しさが将来の大成へと導くのでしょう。

「 三災五濁(さんさいごじょく)」
最澄(さいちょう)(767~822 / 平安時代の僧侶 天台宗の祖 伝教大師)
最澄が世の無常を嘆き、比叡山入りを決意して衆生 (しゅじょう)のため修行に
尽くすと誓願した書「願文(がんもん)」の一節に『 牟尼(むに)の日久しく隠れて、

慈尊の月未だ照さず。
三災の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに没(しず)む』とある。

現代語訳は「お釈迦様が亡くなられてから、次の仏様も未だ現れず、災いによって
この世の終わりが近づきつつあり、人々は道を誤り汚れに満ちた世の中に沈んで
しまった。」「三災」は自然災害を指し、「五濁」は戦争、悪疫、飢饉、人間の資質の
低下や偏見・悪徳の横行などを指す仏教用語である。

「一燈照隅・万燈照国」(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)最澄
<意味> 一人ひとりが 自分の身近の一隅を照らす。それだけでは 
小さいあかりかもしれないが、その一隅を照らす人が増えていき、
万人のあかりとなれば、国全体を照らすことが出来る。

私の大好きな言葉であり目指す位置でもあります。

「利他心、布施、救済、慈愛、ボランティア」
素晴らしい言葉はいくつもありますが、言葉に壁を作り経済的余裕ができてから、
時間的に都合がつけばとかさまざまな理由をつけて、一切行動に起こさない方が
多いかと思います。

しかし日々の暮らしの中でも意識して行動に移すことが大切です。
道端のゴミ拾いをしている団体もあります。子供達が危険な目に遭わないか
見回りをしている自警団の方々もいます。
もっと言えば電車の中で騒いでいる子に注意することも救済になります。
あなたの善意の行為が灯になるのです。

王陽明の「知行合一」という言葉があります。
知識と行動は共に合わさなければ意味がないという言葉です。
どんなに立派な学問を収めても文字だけの知識なら役に立たないということです。

幼き子供が池のそばで遊んでいるとすると「危ないよ」と声掛けと同時に手を
引いてやることです。
悩みを抱えている人にどんな立派な人生訓を教えてもあまり意味がありません。
本来ならばその場で悩みを共有して解決への道へと具体的に指導をすることです。

「知行合一」の語源・由来は陽明学の思想からきています。
もともとは中国明の時代に儒学者である王陽明(おうようめい)が唱えた思想です。
影響を与えたのは、朱子学の大成者である朱熹(しゅき)が唱えていた
「先知後行説」という学説です。

「先知後行説」とは、「広く知を極めていなければ、実践できない」とする説のことです。
当時、「先知後行説」が広まり、実践の前に知識を蓄えるべきという考え方が一般的に
なっていました。この「先知後行説」に対するアンチテーゼとしてできたのが、
「知行合一説」です。
「知識ばかりを蓄えたあとで行の工夫をするようでは、真の知行には至りません。
知行合一説とは、正にこのような病への薬です」といった内容を王陽明が述べ、
「知行合一説」ができたと伝えられています。

負ける悔しさをバネにして、知識を蓄えて、世の中に役立つように生きて行きましょう。


表現の距離




あるカメラマンの写真展へ行った。
薄暗くした会場の中での展示だがその意図は作品を見た時に直ぐに分かった。
写真で一番大切な陰影と構図の撮り方が見事であった。
どの写真も被写体の人物の呼吸と一瞬の思いまでを写し出している。

人物の肉体の内臓の部分までを抉り出してファインダーでのぞき込んでいる。
まるで鑑賞者に挑戦状をたたきつけているかのようである。


作品の一つ、海岸沿いの女性の向こうに一羽のカモメが飛行している。
まるでショートムービーの映画を見ているような錯覚に陥った。
このカットの瞬間を撮るのに何時間も待ち続けたのに違いないと想像に難くない。
カメラマンはただ風景を撮っているのではなく心象風景を撮っていたのである。

世界中をロケハンして自分だけのスペシャルな場所を記録しておく。
一年を通じて撮影時のベストタイミングとシーズンも頭に入れておく。
被写体になるモデルも各国のエージェントを通じてリストアップを依頼する。
現像に対しても色味や紙質や粒子の粗さまで決めてお気に入りの現像所へ持ち込む。
それは国内だけではなく海外でも同じ条件で仕上がるか確認をする。

一枚の写真を撮るにしても様々な経験と膨大な情報量が使われるのです。

そしてカメラマンのこだわりがプロとして認められて初めて収入に反映するのです。
こだわりは妥協からは決して生まれません。

その人の名前は「JUNPEI TAINAKA」ドイツを拠点に活躍しているカメラマンです。
彼は写真に思想を入れ込んでいるのです。
一枚の写真から一冊の哲学書を著作しているのです。

世界で最初に写真に思想を入れたマンレイというカメラマンを彷彿とさせてくれます。
20世紀のフォト・アートを代表する芸術家で、特にダダイズムやシュルレアリスムを
写真の世界に持ち込んだことで知られている。

インスタ映えするからと花でもケーキでも動物でも撮るのとは訳が違うのです。
SNSで撮影のテクニックとして露出や構図や加工まで説明しています。
誰でもが簡単に手に入れられるテクニックは個人の楽しみとしては良いのですが、
写真本来の価値はありません。

「アマチュアは記録を撮影して、プロは記憶を撮影するのです」

昔、黒澤明監督が仲代達也のワンシーンを撮ったときの秘話です。
(お二人は世界中が憧れる大監督と演技力抜群の名優です)

「君が先頭になって歩け」
撮影開始の9時過ぎから歩き始めた。ただ歩くだけのシーンだが、NGが飛ぶ。

「駄目!カット!」
テイクを重ねるも一向にオッケーが出ない。何度も何度も歩くがNG。

「何やってんだあいつは!」
騒然300人のスタッフは仲代のテイクのオッケーをひたすら待っている。

三船敏郎も志村喬もひたすら待つ。

黒澤がたまりかねて仲代に放つ。

「おまえはどこなんだ!」
「俳優養成所です」
「俳優養成所では歩き方も教えんのか!」

そして、OKがでないまま午前が終わる。

早速、仲代達也は映画が封切られたときに映画館に飛び込んで自分のシーンを確認した。
使われていたのは、たったの4秒。バストアップのみ。朝の9時から午後3時まで
掛かって撮ったシーンはわすが4秒。

一流の仕事人の拘りは、歩く姿ではなく、その場面に必要な空気の拘りです。
脚本にある役柄の人物の空気感が必要なのです。

また黒澤明監督はサインを頼まれると「随処作主 立処皆真(ずいしょさしゅ 
りっしょかいしん)」と書きます。「どんな場所(仕事)でも主体性を持ってあたれば、

その人のいるところに真実がある」という意味です。出典は禅の本か何かじゃなかったかな。

たとえ押しつけられた仕事でも、嫌だと思うんじゃなくて

「さあ、どうやろうか」と自分の考えを持って臨めば、きっと成果が得られるというふうに解釈しています。
まあ、僕の仕事はそういうパターンが多かったからね(微笑)。

「恩学」がいう、常に自分の立ち位置を明確にして、やることが決まれば、
どんな場所でも、どんなスタッフでも、逆境を喜びとして受け止めることが出来る。
「逆境」こそ自分を育てる学校であり、自分を表現する最高のチャンスなのです。
神様から与えられた「試練」を乗り越える楽しみでもあるのです。

私が音楽業界から身を引いたのは録音がデジタルになったからです。
音の職人を自負していた私のこだわりが活かすことが出来なくなってからです。
スタジオにオーケストラを入れてバンドとボーカルを配置して緊張の中で作る醍醐味が
一切無くなったからです。生ギターだけを録音しにLAにも行きました。

制作費用を出している会社の人間から「そんなこだわりはI-Podやスマートホンでは
聞こえませんから」と言われた時には激怒と共に時代が大きく変わったことを
身に沁みて感じました。

カメラマンの新人がデジタルでしか写真を撮ったことが無いという姿に、
新人の歌手がカラオケで練習して高得点を得たからと喜んでいる姿に、
また料理のレシピを見て作ったら褒められたから料理人になり店を出しますという姿に、
どう接してして良いのか分かりません。
多分本物を知らずにインスタント食品で育ったのかと危惧してしまいます。残念です。

この人たちは表現には距離が必要だということを知らないのだと思います。
手間暇かけて日々研鑽して技を磨くとか、ボイスレッスンをして基礎を固めてから
譜面を読んで歌うとか、床掃除と皿洗いで3年間親方の味付けを盗むとか、
一流と言われて来た人たちの下積み時代を見ずに生きてきたのです。

一流の人は「功から始まり、拙に終わる」と言います。
長年習得した巧(たくみ)の技を難しいように見せるのではなく、
簡単なように見せるのがプロの技なのです。

みなさん勘違いをして「拙に終わる」部分だけ真似をする。
デジタル社会の情報で「早くて・便利で・使える」ばかりを追求するからです。

本来の「耐えるところから文化が生まれる」ことを知らないのです。
新年あけてからこの「耐えるところから文化が生まれる」ことを発表します。
愉しみにお待ちください。

今一度「表現には距離がある」ことを知っておいてください。


七つの穴(荘子)




あなたは本当の絶望を知っていますか?
何もかもが失われて生きる望みを断たれるほどの苦しみを。
息もできない、声も出せない、逃げ場もなくなるような苦しみ。
目の前の景色ですら色をなくして灰色のモノトーンになってしまう苦しみ。
耳に聞こえる音は自分の呼吸と心臓の音ぐらいになる苦しみ。

現代ならSNSの世界にいっとき逃げ込むことは出来るので最悪の苦しみからは逃れる。
僅か20年前の時代では手紙か電話しか無くて逃げ場を探すのには時間が掛った。
絶望のどん底では正常な意識が保てなくて、考えることすら億劫で無理な状態になる。
見ることもできない、聞くこともできない、臭いも無くて、味もしない世界で
立ち往生してしまう。

いわゆる人間の持つ五感が働かなくて骨もなくなる世界に取り残される感じです。
私の解決方法は宗教と哲学で救いを求めた。各地の寺社仏閣に出向き救いを求めた。
絶望の原因を追求して解決方法を探して回って救われたのです。
そんな中でも時折、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫の小説も読んだ。
いずれも三人は究極の選択で(自死)を選んだ作家である。

フィンセント・ファン・ゴッホ(自死)やサルバトーレ・ダリ(自死)、
エゴン・シーレ(病死)の絵も見た。人間の内面を描いた作品です。
そうすることによって徐々に体内に血が巡り出して五感も少しずつ戻り始めた。

私の短い人生の中でいくつもこのような体験をして来たのです。     

突然成功したり、突然失敗したり、突然孤独になったりして来たのは、
これらの体験を人に「伝えよ」という運命に生きているからだと思います。
ブログ「恩学」はその経験が活かされている内容です。

『荘子』の中に「応帝王篇・渾沌」の話があります。

「南と北に儵(しゅく)と忽(こつ)という極めて人間的な二人の神と、その両者の間に
孤高の存在である渾沌(こんとん)という三人の神がいた。

ある時、南北の儵と忽がその間に住んでいる渾沌の地で会った。
すると、そこに居合わせた渾沌は、この二人を大変もてなし、これに喜んだ儵と忽は
渾沌にお礼をすることにした。

そこで二人は、『人はみな、眼に二つ、耳に二つ、鼻に二つ、口に一つ、

合計七つの穴を持っているが、渾沌はこれを持っていない。だからこの穴を開けてやろう』と決めた。

こうして、儵と忽は渾沌に一日に一穴ずつ空けていったが、七日目の最後の
一つを開けた時、渾沌は死んでしまった」という何ともせつないお話です。

仏教では、「眼耳鼻舌」それに付随して身、「見聞覚知」の感覚器官が備わっているからこそ起こる意、

これら六つ(眼耳鼻舌身意)を合わせて「六根」といいます。

先ほどの話にこれを当てはめると、「眼耳鼻舌」を持たない渾沌にこれらを与えたら、
渾沌は死んでしまったということです。つまり、「眼耳鼻舌」を持っていないものが
急に眼耳鼻舌を持つと、生きるに耐えられない程の苦しみや悲しみを背負わなければ
ならないとも言えます。よって、生まれながらに六根を持っている我々人間は、
最初から生きるに耐えられないほどの苦しみや悲しみの元を背負っているということに
なります。しかし、我々は渾沌のようにそれらがあるために死んだりはしません。

生まれたその瞬間から何とかその六根を使いこなし、悲しみや苦しみを背負いながらも
生きているのです。ですから、我々は無意識のうちに「死ぬほどの覚悟」で六根を
もって生まれてきているとも考えられます。では、六根から得られる様々な苦しみとは
いったい何なのでしょうか。それは「憎い・可愛い・惜しい・欲しい」といった
人として決して無くすことができない感情です。

私はこれが「人情」なのだと思っています。しかし、それは苦しみだけではなく、
安楽もあるはずです。ですから、それら全てが人情なのであり、それがあるから我々の
人生に彩りを添えてくれるのです。この物語では、

儵と忽の二人によって「眼耳鼻舌」を付された渾沌は最後に死んでしまいます。
しかし、私は「本当は死んではいない」と思っています。

禅語に「大死一番絶後に甦る」とあるように「徹底的に死に切り、その後しっかりと
甦った」のだと思います。つまり、六根を得たことで人の心の苦しみを知り一度は
絶望し死に切った。しかし、人の苦しみを知ることで他人を思いやる心、すなわち
慈悲心も生まれたのです。そしてその時、自ずと心の底から
「全ての人々が健やかで幸せでありますように」という大慈大悲の願いが湧き上がり、
絶後に甦ったのだと思います。

これにはここまでの物語は書かれていませんが、仏教を信じ出家している者として、
渾沌がそうあってほしいという私の切なる願いでもあります。参考臨黄ネットより

仏教で人生を語るとき「四苦八苦」という言葉が出てきます。
四苦「生・老・病・死」(しょうろうびょうし)
八苦「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」という表現を使います。
私はこの解釈の中で一番辛いと思ったのが「五蘊盛苦」です。
自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ。
健康で元気なのにやりたいことがやれない苦しみです。

人間の持っている能力「七つの穴」を渾沌は持っていない。
儵と忽は渾沌に良かれと思って毎日一つずつ穴を開けたところ七日目に混沌は
死んでしまった。人間の持つ様々な苦しみを知ってしまったからである。
混沌は不自由だと勝手に思い込んだ儵と忽の善意が仇となって死んだのである。

他人が感じる絶望は本人の苦しみとは違うところに存在しているのです。
お金があれば幸福でお金がなければ不幸、美人に生まれれば幸福で美人でなければ不幸。
実際は不治の病に悩まされ、親が作った借金に苦しめられて、男運が悪く家族にも恵まれ
なくて絶望を抱えているかもしれません。絶望を感じたら自分で基を解決するしか
方法がないのです。

私の拙い文章「恩学」が皆様の人生に少しでもお役に立つと信じています。
皆様も「六根」全てを使い尽くしてより幸せだと思える人生を送ってください。

冬場の寒い季節ですが、お互いの思いやる心で、心を温かくして、
更なる良い年をお迎えください。


引き寄せ




人に感謝、人を尊敬、人を慈しむ、見返りを求めない心が人を引き寄せてきます。
あなたに出会えたことに感謝いたします
あなたの生き方を尊敬します
必ず人生のお礼は倍返し(恩返し&恩送り)をします。
そして「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流す」精神を貫き通します。

どれほど罵詈雑言を浴びせかけられても文句は言わないこと。
人前で恥をかかされても怒りを見せないこと。
ただひたすら低身低頭に徹する。
悔しさに耐えてこそ道が開かれるのです。
人を愛して笑顔でいれば自然に人は集まるのです。

引き寄せは自己主張の多い人よりも忍耐強い人の方へやってきます。

「金盥と水の法則」
手前に水をひくと水は逃げます。しかし前方に水を差し出すと水はやって来ます。
欲深い人よりも差し出す人の方へ幸運は流れて来るのです。

そしてどんな状況でも「自分は運が良い」と強く思うことです。
私は仕事でうまくいかなかったときにも「自分は運が良い」と口に出していました。
自分の頭の中で「自分は運が良い」と言い続ければ不安なことが消えるのです。
引き寄せはポジティブシンキングな人を好むのです。

引き寄せの法則には手順があります。ポイントと併せて手順をご紹介します。
叶えたい願いに集中するまずは、叶えたいと強く思う願いを思い浮かべます。
引き寄せたい現実や手に入れたいものなど、たくさん願いがある場合は、
最初に叶えたいと思うものひとつに集中しましょう。

ひとつめの願いが叶ったら次の願いに集中するという具合に、
ひとつずつ願いを叶えていくのがポイントです。

「イメージするだけでは漠然としてしまう」「願いを整理できない」という場合は、
ノートに願いを書き出してみるのもおすすめです。

アファメーション(肯定的な宣言)を使う願い事をする時は、
「私は友達が欲しい」「すでに叶っている」「出会いをありがとう」など、
現在形もしくは現在完了形の言葉を使いましょう。

願い事と聞くと、「お金が欲しい」「夢が叶いますように」という言葉を
思い浮かべる人もいるかもしれません。しかしこれらの言葉は、
「まだ実現していない」ということを潜在意識に刷り込むことになりかねません。

「ない」ことではなく、「手に入った」「叶った」ことに意識が向くような
言葉遣いをすることが大切です。

すでに願いが叶った姿を具体的にイメージする「願いがすでに叶っている状況」や
「引き寄せたい現実の中にいる理想の自分」をイメージしましょう。
より具体的にイメージするため、言葉を書き出し、欲しいものや理想の状況を表す
絵や写真を見えるところに飾ったりするのもおすすめです。

引き寄せの法則では、「自分なら願いが引き寄せられる」「望む現実が手に入る」と
心の底から信じることが大切です。「思考は現実化する」なのです。

喜びを味わい、感謝する引き寄せたい現実に集中し、願いが叶った自分の姿を
イメージできたら、手に入れられた喜びや幸せを存分に味わいましょう。
幸福で満たされているポジティブな気持ちや雰囲気が、
より良いものを引き寄せてくれると言われています。

また、願いを叶えることができた自分や、力を貸してくれた人、自然や運など、
周りのすべてに感謝することも大切なポイントです。

引き寄せの法則とは、「強く願ったり、考えたり、信じたりしたものは実現しやすい」
という法則のこと。「運に任せて願うだけで努力をしないなんて…」と
言われることもありますが、実は思考が変わることで行動が変わっていることも
少なくありません。

「思考が変わると行動が変わる、行動が変わると性格が変わる、
性格が変わると運命が変わる」のです。
強く願うことで無意識にでも毎日の行動が変わり、より良い未来が手に入るなら、
引き寄せの法則を活用しない手はありませんね。

私は多くのアーティストのプロデュースに関わり一番大切にしていたことは、
情報の発信でした。このアーティストに必要な情報を考えてイメージを明確にしました。
受け手側が求めていることは何か?今の時代に必要なスターはどのような人か?
その世界でアーティストが成功している姿を想像しながら「成り切り」をしました。
誰もが憧れるスターのイメージをより早く伝えることが「期待を高める」のです。

「成り切り」とはアーティスト自身に徹底的に成り切ることです。
言葉や姿やメッセージを伝えるにはアーティストに成り切ることが重要です。
アーティストに変わり関係者へ音楽性や人間性を伝えていくのです。
プロモーションは「音と言葉と成り切り」で成功を収めました。

アーティストに「成り切り」、放送局や出版社へ出向き、宣伝の意図を伝えると、
ほとんどの場合ゲストが入り、芸能欄の記事に掲載されました。
そして早い時期に本人を連れて挨拶に出かけると、番組制作者も編集者も
どんどん引き寄せることが出来ました。

オリコンチャートに順位が出た時点で、担当者にゲストと取材を優先することを
約束することで長きにわたり応援してくれました。

そしてアーティストのコンサートについて行き、その土地の主要な放送局や新聞社にも
挨拶に出かけました。それ以外に地元のレコード店、有線放送へ本人を連れて行くと
大変喜ばれました。

「願う形を明確にすること」、その為に必要な「戦略を計画」すること、
その上に出来る限りの人たちに「恩返し」すること、これの繰り返しです。

脳科学者中野信子最新版「運のいい人」の新聞広告に書かれていました。
「運は100%自分次第。強運は行動の結果」です。

☆運は偶然じゃない!考え方や行動パターンで決まる。
☆強運に絶大な効果のドーパミン、その分泌のカギは「妄想」にあった。
☆いつも同じものを買う人より、冒険する人の方が、運が良くなる
☆「まじめ」「人を疑わない」「素直」、すべてそろうと「運が悪い人」に。
☆自分は運がいいと感じている人は、死亡リスクが35%低い
☆「人のための行動」が脳を刺激、何重もの快感が体中に!
☆強運も不運も伝染する。

皆様お分かりでしょうか、私の引き寄せの術とほとんど重なります。
皆様もドンドン引き寄せながら強運な人生をお過ごしください。


言葉のカタログ




「審美眼」

表面的な美しさは誰でも分かるのですが、果たしてそれが本当の美しさでしょうか?
内面の美しさを知らなければ美しさの追求にはなりません。
製作者の意図するところを理解して時代背景や技術研鑽の痕跡まで追求して
美を理解すると楽しみ方が変わります。

私が納得しているからこれで良いのだと主張する人もいますが、
個人の好き嫌いで美を評価することはありません。
本物を求めずにイミテーションでもウィキペディアの情報でいいやという人でも、
美術館や展覧会などで本物に触れることで「審美眼」が鍛えられます。

「審美眼」は「美を見極める眼力」を表す言葉で、芸術作品をはじめとする
美しいもの、価値のあるものの真価を、評価する「眼識」を意味します。
世の中には表面上で綺麗に見えても、中身はあまり価値のないものが多く存在します。
目先の美しさにとらわれず、内側に隠れた本物の美しさ、それらを作り上げた背景など、

独特な見識と感性、こだわりを持つのが特徴で、それに触れることが大切です。
「審美眼」がある人は、デザイナーや鑑定士など、本物の美と真価を正しく評価する仕事が向いています。

ぜひ「審美眼」という才能と職業をつなげてみませんか?

「挫折と落胆」

挫折は「特定の目的を達成するために行ってきた行動そのものが
無駄になること、心折れて途中で投げ出すこと」。
今までの頑張りを無駄にしてしまうような心理状態になっているケースで
使います。挫折を一度も経験していない人の方が少ないと言えるでしょう。
落胆は「落ちぶれること、惨めになること」惨めな感覚が芽生えてくるという
意味では、挫折に近いような状況があるでしょう。
挫折は本来諦めたくないことに関して、諦めざるを得ない状況になるため、
惨めな雰囲気がどうしても存在するはずですから、そこが落魄(らくはく)と
共通しています。

「忍と敏」

1 がまんする。じっとこらえる。「忍苦・忍従・忍耐/隠忍・堪忍・堅忍」
2 むごいことを平気でする。「残忍」
1 頭の働きがすばやい。さとい。「敏活・敏感/鋭敏・過敏・不敏・明敏」
2 行動・動作がすばやい。「敏捷(びんしょう)・敏速・敏腕/機敏・俊敏」

あらゆる試練に耐えることと敏速に行動に移すことを、
常に持たなければなりません。
夏の暑さに耐えながら飛んでくる虫を待つアメンボと同じです。
ただじっと水面に漂いながらその機会を待つのです。
いわゆる「感即動」咄嗟に感じて即動くということです。
間違っても落ち着きのない人間になってはいけません。
ソワソワするような腰骨のない生き方はしてはいけません。

「面倒臭い」

「煩わしい」とほとんど同意で使われ、面倒でいやだと思う気持ち、
避けたいと思う気持ちが含まれている。非常に口語的な語です。
熟練の職人さん達の作業を見ていると、同じ緻密な動作をなん度も繰り返して
商品に作り上げていく。一般の人から見れば面倒臭い作業であるが、
緻密さと遊びを融合させる技が職人の表現なのです。

近年はこのような作業もロボットに任せてオートメーション化することが
当たり前になっています。大量生産にすることで安価になるメリットがあるから
多くの企業が取り入れています。

酒造りで最高責任者を「杜氏」(とうじ)と呼びます。この杜氏のさじ加減一つで
お酒の味が変わるのです。長年の勘と緻密な作業で最高の日本酒を作り出します。
最近ではバイオテクノロジーを学んだ人が職人として雇われることもあるという事です。
杜氏のもつ知識をコンピューターに入れて作り出した日本酒が世界中で売れています。
これはお酒という商品であって本物のお酒ではありません。

私は海外でも日本でもこのお酒を勧められて飲んだのですが翌日必ず頭痛がしました。
私の身体と相性の悪いことが分かりました。そのお酒は「獺祭」です。

「道元禅師」
前段に「香巌撃竹」、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。
百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の潙山を訪ねるのだが、そこで、
「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって
何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。

何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は
「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」
と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、
ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。
ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。
これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。
香巌が「悟り」を得た瞬間である。

「有言実現」
アメリカではFake it till you make it !という諺があります。
「なるまで偽れ!」です。
私がCBSSONYへ入社した動機は「日本一のプロデューサー」になることでした。
まさに「なれるまで偽れ!」でした。
まだ仕事を覚えていないころから「私は日本一のプロデューサー」ですと偽った。
洞(ほら)も百回言い続ければ本当になるという事です。

「運気をあげる4つのポイント」岩手花巻高校硬式野球部佐々木洋監督
① 言葉のマジック。「5点差じゃない2点差なんだぞ」と表現を変えて檄を飛ばす。
② 一緒にいる人「親は選べませんが、友人は選べますよね」友の大切さを教える。
③ 表情、態度、姿勢、身だしなみ「負けているときに笑顔でファイティングポーズ」
これが一番重要です。強くなるチームはどんな時にでも笑顔です。
④ 感謝と謙虚「花巻東が使ったあとはベッドメイクがいらないくらい綺麗にする」
菊池雄星選手はごみが落ちていると「神様が自分を試している」と思うと話をして
くれました。そうやって、いつも神様が見ていると思っているのです。
我々が使ったロッカールームはいつも入った時以上に綺麗にして出て行きます。
大谷翔平は菊池雄星の一年後輩です。共に佐々木監督の教えを学びました。

「成り切る」
一流のカメラマンになるには成り切ることを教えます。
憧れのカメラマンに成り切って過ごせば一流になるのです。
我々は真似をすることはあっても成り切ることはしません。
その中途半端な態度が一流になれないのです。

禅寺ではトイレを掃除する時にトイレに成り切れと教えます。
うわべだけの掃除では本当にきれいにはならない。トイレに成り切るのです。
禅宗ではただ掃除をするという作業ではなく、ご不浄をきれいにすることは、
心をきれいにすることにつながる教えです。誰もが嫌がる仕事を率先して行うこと
が重要です。

また、スランプの高校球児に打てないのはバットに成りきってっていないからだと
アドバイスをするそうです。打とうとする気持ちが、打てなかったら
どうしようという気持ちになり体が思うように動かなくなる。
腕ではなくバットに成り切って打てと教えます。

私も新人アーティストがステージに上がる前に、今日はおまえ自身ではなく
「スターに成り切れ」と檄を飛ばします。
そして大切なことは「音程は外しても客の心は外すな」です。
お前はただの失敗と思うが客は失望に変わり記憶に残るのだ。

成り切ることにより難攻不落な高い壁を乗り越える力を得るのです。
あなたも憧れの何かに成り切ってください。

あなた自身を離れるのです。


音は心の中で音楽になる




イヤホンを通して音楽が聞こえる。ギターの音、ドラムの音、サックスの音、ピアノの音、

でもモバイルホンから聴く音は本物の楽器の音ではない。

送信しやすいように作られた圧縮された加工の音なのです。
いわゆる切り身の魚のように原型をとどめていないのです。
それでも聴くのは現実の世界から一歩でも逃げ出したいからである。
現状の意識を切り替えるには音楽が一番だからです。

私はそれよりも雨の音を聞きながら子供達の声、走り去る車の音、お店の中から
聞こえて来る笑い声、電車の中の人々の声を聴いている方が癒されます。
その時の状況で聞こえて来る音は生きている音の証です。
山に行けば小川のせせらぎ、鳥の声、木々の揺れる音、小動物の鳴き声、滝の音、
全ての音が音楽に聞こえるのです。

モバイルを利用した音楽を全面的に否定しているのではなく、
脳内の掃除をするために時折自然の音をきくことが大切だと伝えているのです。

そう音は心の中で音楽になっているのです。
本来人間の脳は視覚と音の情報により反応することが多いのです。
脳内ホルモンの活性化のためにも加工された画面や音ばかりを見たり、聞くのではなく、
自然の景色や自然の音を脳内にたくさん取り入れてください。

谷口高士の同名のタイトル「音は心の中で音楽になる」の書き出しの一説に
このようなことが書かれています。

心理学の本を探せば音楽心理学のことがわかるかというと、まずそんな項目は
存在しない。それなのに、世間では「音楽心理学」とか「音楽療法」などという
言葉だけが、どこからともなく現われて目の前にちらついている。
これでは、「音楽心理学って何?」とたずねたくなるのも無理はない。
特に最近は、「音楽」と「癒(いや)し」がセットになって頻繁にマスコミに
登場している。

いったい「癒し」とは何か、音楽の何がどのように人間に効果をもたらすのか
ということを曖昧にしたまま、音楽療法のなにやら身近でとっつきやすそうな
イメージだけが広まっている。
楽器を演奏できる人が、自分にも「音楽療法とやら」ができるのではないかと
勘違いしてしまう。そのような、音楽を知っているが音楽心理学に対しては
疑問や期待(あるいは幻想)を抱えている人のために、本書の企画は生まれた。
もちろん、これから音楽心理学研究を始めようという人にも役立つものである。

難解で退屈な本であるが音楽心理学を学ぶ人達には読んで参考にすることは出来る。
興味のある人は読んでみてください。

また、音楽は脳や心にどのような影響を与えるかにこのような文章があります。

「文字文化を持たない社会はあるが、音楽文化を持たない社会はない」といわれるほど、

人にとって音楽は身近なものである。

音楽を聴くことで自然と気分が向上したり、リラックスしたりするという経験は、

おそらく多くの人にあるだろう。
その経験からも分かるように、音楽は人の心と身体にさまざまな影響を与える。

音楽には特定の感情を誘発させる効果や、“覚醒水準を調整する効果”があることが
多くの実験によって確かめられている。覚醒水準を調整する効果とは、脳や神経の
覚醒水準が高いときはそれを抑え、低いときは高めるという働きである。
すなわち、過度の興奮状態であればそれを抑え、過度の落ち込み状態であれば
気分を高める効果を持つ。

音楽は音の集合体です。澄んだ音であれば澄んだ音楽になります。
自分の大好きな音が集まればそれだけでも音楽になり脳にも心にも影響するのです。

子供の頃から大好きな人の話す声は音楽のように聞こえていた筈です。
そして大好きな人の表情は素敵な映画を見ている様だった筈です。
大好きな人と経験を共にすれば思い出が色あせても記憶にずっと残るものです。

日常の風景が全て音と繋がるのです。

「ドライフラワー」
作詞:優里 作曲:優里

多分、私じゃなくていいね
余裕のない二人だったし
気付けば喧嘩ばっかりしてさ
ごめんね

ずっと話そうと思ってた
きっと私たち合わないね
二人きりしかいない部屋でさ
貴方ばかり話していたよね

もしいつか何処かで会えたら
今日の事を笑ってくれるかな
理由もちゃんと話せないけれど
貴方が眠った後に泣くのは嫌

声も顔も不器用なとこも
全部全部嫌いじゃないの
ドライフラワーみたい
君との日々も
きっときっときっときっと
色褪せる

この様な歌に出会うと嬉しくなります。
歌から誘い出される世界がまるでショートストーリーのようであるからです。
ヒットになったのは歌詞に共感する人が大勢いたからです。
歌う声も語りかけるようにしてサビで心の思いを一気に歌い上げる。
ギターとベース・ドラム・ピアノのみでとてもシンプルなカラオケです。
せつなく「きっときっときっと、色褪せる」と歌いあげる。

派手なカラオケで誤魔化すのではなく歌唱力で勝負する音楽はとても癒されます。
喧嘩の声、沈黙の部屋、啜り泣く声、全てが音楽に聞こえるのです。

人は無意識、人間は意識といいます。その状態その場面で感情を露わにするのが人で、
メールで済まし、本音を言わずに嘘をつき、虚勢を張るのが人間です。
大人だから感情を露わにするのは情けないとか、男女関係なくみっともないとか体裁を
考えるのではなく、感じた音に素直に反応して、人として生きる方が素晴らしいと
思います。

全ての音は心で音楽になるのです。
出来れば、好きな音、素晴らしい音を取り入れてほしい。
いつまでも忘れないで欲しい「音は心の中で音楽になる」ということを。

自然のままの音を騒音として記憶しないでください。