泥かぶら




『臨済録』という禅の書物に「求心歇む処即ち無事
《ぐしんやむところすなわちぶじ》」という語があります。
「求心」とは、自分の外側に評価や賞賛、あるいは「正解」めいたものを求める
心のことで、その心が歇《や》めば「無事」、すなわち本当の安心に気づくことが
できる、という禅の言葉です。

この語の意味するところを『泥かぶら』という絵本に垣間見ます。
以下にあらすじを見ていきましょう。

昔々「泥かぶら」と呼ばれた一人の女の子がいました。泥かぶらには身寄りがおらず、
村人たちからは見た目が「醜いから」「みすぼらしいから」という理由で「泥かぶら」
というかわいそうな名前をつけられ、馬鹿にされていました。
ひどい仕打ちを受けるたびに、泥かぶらは人々を恨み、口汚く反撃するようになって
いきます。一方で本心では、馬鹿にされることが悔しく、「私も美しくなりたい」と
心の中では泣いているのでした。

ある日、旅の老人に出会い「三つのことを守れば、あなたはきっと美しくなれるだろう」

という助言を受けます。それは、・自分のことを恥ずかしいと思わないこと・
どんなときも笑顔で過ごすこと・いつでも他者を思いやって行動すること。

それを聞いた泥かぶらは、早速その老人の言う通りのことを心がけます。
何を言われても笑顔をたたえ、病気の子のために薬草をとってきたり、
お年寄りの代わりにたきぎを集めるなど、人々の役に立つことを心をこめて
行っていきました。その積み重ねの結果、村人は泥かぶらに親愛の念をもつように
なります。泥かぶらはいつしか自分の容姿のことも忘れ、周囲の人々の喜ぶ顔を
見ることが自身の喜びにもつながっていくのでした。

そんなある日、借金とりの悪党・じろべえが村に来て、ある家の借金のかたに
娘を連れていこうとします。それを聞いた泥かぶらは身代わりを名乗り出て、
その娘の代わりに連れて行かれてしまいます。

ところが、泥かぶらはじろべえに連れて行かれる旅の道中でも、相変わらず
ずっとニコニコ。そして途中で「じろべえさん、あなたとの旅は身寄りのない
私にとって父親と一緒に過ごしているようでとても楽しい」と告げます。
そんな様子に、次第に悪党のじろべえの気持ちは温かくなっていきます。
そして最後には自分を悔い改めたのでした。

ある朝、泥かぶらが目を覚ますと、そこにじろべえの姿はなく、代わりに
こんな置手紙がありました。
「おまえはおれのようなあくにんにまでよくよくしんせつにしておくれだった。
おれはしょうじきでやさしいおまえのねがおをみていてはずかしくなった。
それからむねのおくがあったかくなったよ。(中略)おまえのやさしい 
えがお、あかるいわらいごえ、おれはいっしょうわすれない。ありがとうよ。
どうか、しあわせになっておくれ。じろべえ」
ほとけさまのようにうつくしいこへ

物語にその続きは具体的には書かれていません。しかし私が思うに、
これを読んだ泥かぶらは、「こんな私にも仏さまのような美しい心があったんだ。
今まで自分の外見や周りからの評価を気にしていたけれど、そんなことは
つまらないことだった。

ありのままの私でよかったんだ」と、安らかな心地に包まれたことでしょう。
そして、それからも周囲の人たちへの思いやりをいつも胸にたたえ、自他ともに
朗らかになれるような生活を送り続けたのではないでしょうか。

これが「求心」が歇《や》んだ後の「無事」の姿であり、本当の「美しさ」なのでは
ないかと私は思うのです。

泥かぶらは、始めは自分の見た目が嫌で、他の人から悪口を言われたくない、
美しくなって認められたいという「外側へないものねだりをする心(=求心)」
に自分の心を揺り動かされていました。

そして老人から三つの助言を受けた後も、その「求心」を動機に善行を重ねていました。

「美しくなりたい」という、ある意味、自らのエゴために善行を積んでいたとも
言えます。
しかし、それを重ねることで、周りの人が喜び笑顔になっていく様子を見て、
少しずつそのエゴが剥がれおち、いつしか自分の見た目や他者の評価なども忘れ、
周囲に尽くすことが自身の喜びになっていきます。
人買いのじろべえに優しい言葉を投げかけたシーンでは、「かわいそうな境遇の
この人に親切にしよう」という思いすら感じないほど自然体で接しています。

そしてじろべえからの言葉が決め手となり、自分の中に元々あった、けれども見えて
いなかった「仏さまのような美しい心」に気づくことができました。

中島みゆきが以前ラジオの番組で一人の女の子の悩みの質問に答えます。
相談者の女の子のペンネームは…「生きるのってつらいね」さん。

みゆきさんこんにちは。
わたし、世界で1番のブスです。誰が見たってブスです。
自分でもわかっています。わかってるんです。
でも人から変な態度取られると、やっぱり傷つくんですよね。
周りの友達から毎日ブスって言われて、街歩いてても吐くマネされて。
学級の男子からは睨まれて、おまけに生徒会長の人からは
目の前でいろんなこと言われて。
ああ、目の前が霞んで見えない。字も書きにくい。でも頑張って書きます。

わたし、今年受験です。志望校に願書も出します。
だけど、だけど、その高校には恐い人がいます。
中2の終わり頃、何度も何度も目の前に立って吐くマネして、
みんなの笑い者にされました。
同じ高校に入ったら、またイヤなことされて、
毎日泣かないといけないのかと思うと勉強できません。
死にたいなって思ったり、わたしが死んだらあの人たち喜ぶだろうなとか考えます。

お母さん恨んだけど、恨んじゃいけませんよね。ここまで育ててくれたんだもの。
みゆきさん、こんなわたしでも、生きてて良かったって思うこと、ありますよね。
堂々と人前歩けるようになれる日、来ますよね。
その日を夢見て頑張ります。
そして、そして、みゆきさんのコンサートの日には、
今のわたしでないわたしになってみようと思います。

これに対する中島みゆきさんの回答がこちら。

日本中でこの今の番組を聴いてる人。
誰が一番醜く見えるかわかると思います。
このハガキをくれたあなた。
そのくらいのことわかる人が、日本中にいっぱいいると思います。
今あなたの周りにいる学校の、そういうことを言う、あなたを傷つけた
仲間だけが人間だと思わないでほしいと思います。

これから色んな人に会っていくことと思います。
世の中狭く見ないでくださいね。
女の子は、金さえかければある程度いくらでも美人になれるとわたしは思います。
顔ってのはいくらでも作れます、金さえかければ。
でも、金かけて綺麗になれないものもあると思います。
コンサートの日は、アンタのままのアンタで、おいでよね。また来週。

泥かぶらのような境遇の子はたくさんいると思います。
生まれてくる子供は親の顔を選ぶことは出来ません。
たとえどんな顔であっても非難することは出来ません。
子供のいじめは家庭を反映していることが多くあります。
子供の苦しみを気にしない育児放棄の親が増えています。
たとえ親が人生を悲観していても子供には何ら関係はありません。

私が一番嫌うのは人の欠点を笑う人です。
見た目ですべてを判断して人間性を無視する人です。
でも、それ以上にいじめに負けて自暴自棄になる子が嫌いです。
辛いけれど自分を自分で守るのです。自分の未来を諦めないでください。
汚いと言われる泥の池から蓮の花は咲きます。
あなたは自分の心の中に蓮の花があることを忘れないでください。

全ては教育の問題です。子供のころから差別をしない教育をするべきです。

私の娘が行っていた世田谷の小学校に五体不満足の乙竹洋匡君がいました。
だれも乙竹君を奇異な目で見る子は1人もいませんでした。
それよりも乙竹君が学校にいる間中はクラスのみんなが彼の面倒を順番に
見ているのです。このような学校もあるのです。

日本の教育の方法は二項対立でおしえます。
悪い人がいれば良い人がいる。金持ちもいれば貧乏人もいる。正義があれば悪もある。
優秀な人がいれば無能な人もいる。美人もいれば不細工もいる。
これは決して教育ではありません。差別のラベル張りです。

教えやすい子を優遇して、かわいい子をかわいがるのはいじめの温床を作ることになります。
学校のルールを重視して子供たちの能力は無視している学校制度を変えるべきです。
子供達が未来を創るのです。未来を作る大変な作業を子供たちが担うのです。
子供達に伝えるべきは「ありがとう」の一言です。