愛すべき人




常に人から愛されるのは自分が人を愛しているからです。
その反対に人に騙されるのは自分が人を信じていないからです。

明るく元気な人が集まるのは自分も明るく元気にしているからです。
その反対に暗く不健康な人が集まるのは自分も病んでいるからです。

子供の笑顔が好きな人は自分も子供の時に笑う家庭で育ったからです。
その反対に子供がそばに集まらないのは自分が子供の時に愛されていなかったからです。

自然や小動物を愛している人が集まるのは自分が平和を意識しているからです。
その反対に自己欲の強い人が集まるのは自分も人生に満足していないからです。

人生、元々裸のままで生まれて邪(よこしま)な感情もなく、
誰もが天使のままで生まれたのに、意識が芽生えてから強欲になり
物に執着するようになった。

仏教でいうところの「三毒」が思考に住み着いたことになります。
貪・瞋・痴(とんじんち)は、むさぼることで貪欲に際限なくあれこれ欲する心です。
妬みや、嫉妬から怒りが起こり、人を疑うことになり、争いが始まるのです。

子供が生まれて子供を罵(ののし)る親はいるのだろうか?
子供は光であり生きる希望です。貧しい国や戦時下の国で子供が多いのは
自分たちの夢を子供に託したいからです。

爆撃で壊された瓦礫の中を笑顔で走り回る子供たちを叱る大人はいない。
厳しい戦時下の中であどけない笑顔が唯一の救いになるからです。

誰もがマザーテレサになれないかもしれないが、マザーテレサの気持ちは
受け継ぐことが出来る。見返りのない愛、感謝を求めない愛、
尽くすだけの愛、奉仕の愛を、自分なりに真似することは出来る。
自分の欲求を少し抑えるだけで多くの人が助かる奉仕の気持ちを持ちましょう。
何もないところに愛が生まれるのは、人は元々慈愛の心を持っているからです。

マザーテレサは修道女として若い頃から献身的に働き、インドのベンガル地方に
派遣された際に、スラムの貧しい人々の現実を目の当たりにします。
そしてそれまで在籍していた修道会を退会してインドでの活動を本格的に始めます。
その後、マザーテレサは「神の愛の宣教者会」を創立し、修道院や診療所、
孤児院などを相次いで開設。貧しい人への奉仕に生涯を捧げました。
活動は世界中に広がり、1979年にはノーベル平和賞を受賞しています。

ラオスに新しい小学校の寄贈や古い壊れた小学校の修復をしている、
ボランティア団体があります。全員美しいモデルの女性たちです。
彼女たちは自分たちの栽培したモリンガやハーブティーを売り、
収益金を建築材料に充てているのです。その上小学校を寄贈するだけではなく、
先生としても参加しているのです。本当に頭が下がります。
私も数年前から少ないですが寄付金などで協力をさせていただいています。

禅語の「本来無一物」という語は、誰でも知っている禅の代表的な言葉である。
誰でも知っているけれど、ほんとうに分かっているかどうかはまったく別である。
普通には、「もともと何も無い」というように理解されやすいが、
しかしこの「本来」という語は、もともとという意味ではなく、「本質的に」とか、
「根源的に」ということである。また「無一物」は何も無いということではない。 

禅宗で言う「無」は大乗仏教の説く「真空」の中国版で、有と無の両方を
超えた次元を意味しているのである。したがって「本来無一物」もまた、
有も無もそこから出てくるような「根源」をいうのである。 

われわれの身体や心もまた、そういう「一切を超えた根源」から現れ出て
いるものであるから、それを「清浄なもの」だと考え、煩悩のような
「不浄なもの」を避けようとするのは、「小乗仏教的」な二元論に過ぎないのである。 

大乗仏教では、「清」も「濁」も、ともに根源の「空」の現われ方の違いであるとする。
だから清と濁、善と悪というように、分別してしまうのは、真実についての誤った
理解で、それを「迷い」というのである。

なるほど清らかな処に塵が溜るなら払わなければならないが、
何にもなければ塵も溜らないというのが、大乗仏教の尊い考え方である。 
清も濁も同じ「空」の現われであるから、両者は同じ価値である。
それを差別することが迷いである。「悟りは迷いの道に咲く花である」
という句は、それを言うのであろう。

小乗仏教と大乗仏教の違いとは
「小乗仏教」は自分が幸せにならないと他人を幸せにできない?
まず1つ目は、小乗仏教の場合は、出家した人は、まず瞑想などの自分の修行を
することを優先して、自分が悟りをひらくまでは他人を救おうとはしないからです。
出家していない人は、僧侶の集まりに布施をして、僧侶の修行をサポートします。
しかし自分も修行しない限り、救われるわけではありません。
出家して修行した人にしか救われず、出家した人は自分の幸せを優先する、
小さい乗り物のような教えなのです。

「大乗仏教」の教えに一貫する特徴は、「自利利他」(じりりた)です。
「自利利他」の「利」とは幸せになることですから、「自利利他」とは、
自分が幸せになるままが他人も幸せになるということです。
分かりやすいように、儲かるとか得するということでいえば、自分が儲かるままが、
同時に他人が儲かることになる。他人を儲けさせるままが自分の儲けになる、
ということです。

最近よく言われるような、
「自分がまず幸せにならなければ、他人を幸せにすることはできない」という
ことではありません。自分が幸せになると同時に他人も幸せになるのです。

常識に縛られることはありません。しかし知識を知らなければ判断基準が
分からなくなります。私は知識より感情を優先した為に多くの過ちを犯しました。
自分にとって親切だと思ってやった行為は、本当にその人の役に立ったのだろうか?
無理やりにした親切は相手のお礼の言葉が欲しかったのだろうか?疑問が少し残ります。

CBSSONYを退社して独立した時に自分は人を騙すことがないから、
他人も自分を騙すことは無いと思っていて大きな詐欺にあってしまった。
取引先の会社も社長も世間から注目されていたので高額の借り入れの保証人になった。
その為にしばらく騙されていることに気が付かなかった。
ある日突然銀行から返済通知が届き裁判沙汰になってしまい支払いが課せられた。
自社の従業員にも家族にも仲間にも迷惑をかけてしまった。

親しい友人が困っていても金銭にまつわる保証人にはなるべきではない。
しかしどうしても断れない場合は寄付をしたと思い返済は望まないことです。

感性重視で生きてきた私を「お人よし」と笑う友人がいます。
お人よしは経営者に向いていないことを高い授業料を払って学びました。

しかし、人を疑わず人を愛して良き音楽家に多数巡り会えたのも事実です。
これからも私のお人よしは変わらないと思います。

私の周りには自分のことはさておいて、他人の世話ばかりしている「お人よし」
が沢山います。今度「日本お人よし倶楽部」でも立ち上げようかと思っています。
大笑い!

私がこうして「恩学」のブログで伝えたいのは自分の体験を通じての助言です。
読者の皆様が読んでいただき少しでも参考の言葉となれば嬉しいです。

私の人生の悩みは「禅語」を知ることによって解消されました。
皆様もどうか機会を見つけて禅語を学んでください。
「騙されても騙さず」、共に愛されるべき人になりましょう。