愛はどこからが愛




他人(ひと)を好きという感情が生まれて愛が芽生えその芽が育って恋になる。
恋とは二股の関係。相手も僕を、僕も相手を理想とするか駆け引きをする。
いっときの愛か永遠の愛かは最初から分からないので迷いが出て悩み苦しむ。
だから二股の恋、信じる自分と疑う自分がいる。

「恋しあっている同志が、必ずしもお互いを理解しあっているとは限りません。
むしろ、互いに理解しあっていないところで、恋愛というのは
成り立っているとも云えるのではないでしょうか。
恋しあう二人は互いに互いを夢見合い、そしてその同じ眼で、相手だけではなく、
自分たちをとりかこむ世界のすべてを見ているのです。」詩人谷川俊太郎

やさしさを愛と受け取る世代がある。中学生の思春期の頃は理想の相手を探して
迷い道に入る。初めて経験するときめく心にこれは愛なのか親切なのかが分からない。
意地悪な言葉で相手を傷つけて反応を見る。それでも関係が残る場合に、
もしかしてこれは恋なのかと自覚する。

あらゆるものから受ける愛は、母性愛、兄弟愛、友人愛、隣人愛、動物愛などです。
ここに古代ギリシャ人が認識していた愛の種類があります。

古代ギリシャの時代、愛には次の8種類があると考えられていたそうです。
1. エロス(情欲的な愛)
2. フィリア(深い友情)
3. ルダス(遊びとゲームの愛)
4. アガペー(無償の愛)
5. プラグマ(永続的な愛)
6. フィラウティア(自己愛)
7. ストルゲー(家族愛)
8. マニア(偏執的な愛)

それぞれどのような愛だったのか説明が必要になります。
(解説は長い文章になるので今回は省きます)
日本人の愛の認識と違うところがありますが分かりますか?

私が中学生から高校生の時に愛読した詩集がある。

「ハイネ」
甘美な歌に放浪者の苦渋がこめられて独特の調ベを奏でる珠玉の詩集。
美と愛情の朗らかな使者ハイネ。だが彼はユダヤ系ドイツ人という宿命の星の下に生れ、

人類解放の旗手として、祖国を愛しながら亡命先のパリに客死した薄幸の詩人であった。
甘味な歌に放浪者の苦味が加わり、明澄さの中に幻滅や独特の皮肉の調子がまざる。
彼の代表的詩集『歌の本』『新詩集』『物語詩集』から、悩みを秘めた純粋詩人
ハイネの詩魂を伝える珠玉の作品集である。

「一層真実を守るがよい
そして死ぬほど心が苦しうなつたら
おまへの琴を手にとるがよい
絃を鳴らせば、焔と熱に燃え立つた
勇者の歌が響くだらう!
するとはげしい怒りも溶けてしまひ
おまへの心は甘く血を流すだらう」
『ロマンツェロ』より

「若山牧水」
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 – 1928年(昭和3年)9月17日)は、

戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)宮崎県東臼杵郡坪谷村
(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)
宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。
由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。
牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから
来たものであった」

「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染そまずただよふ」
「真晝日のひかり青きに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ」
「風わたる見よ初夏の青葉がうへをやよ戀人よ」

という短歌を中学で習いました。今でも教科書にあるのでしょうか?
意味もわからずに胸が熱くなったことを覚えています。

ゲーテ
《Johann Wolfgang von Goethe》[1749〜1832]ドイツの詩人・小説家・劇作家。
小説「若きウェルテルの悩み」などにより、シュトゥルム‐ウント‐ドラング
(疾風怒濤(しっぷうどとう))運動の代表的存在となる。
シラーとの交友の中でドイツ古典主義を確立。自然科学の研究にも業績をあげた。
戯曲「ファウスト」、小説「ウィルヘルム‐マイスター」、叙事詩
「ヘルマンとドロテーア」、詩集「西東詩集」、自伝「詩と真実」など。

「野薔薇」
少年がばらを見つけた野原に咲くばらを
若々しく美しく近くで見ようと駆け寄り
胸をはずませて見つめた。
ばらよ、ばら、赤い可愛いばら野原に咲くばら
少年は言った「お前を折ってやる 野原に咲くばら!」ばらは応えた
「あなたを刺すわ あなたが私の事を永遠に忘れない様に
そして私は折られやしませんわ」
ばらよ、ばら、赤い可愛いばら野原に咲くばら
ついに少年は野原に咲くばらを折ってしまった。
ばらは抵抗して刺し嘆き、泣き喚いても
少年には効かずただ痛みに耐えるばかりであった。
ばらよ、ばら、赤い可愛いばら野原に咲くばら
– ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ –訳:土田 悠平

「志賀直哉」
小説家。東京の祖父母のもとで育ち、学習院高等科卒、東京帝国大学中退。明治43(1910)年、

武者小路実篤、有島武郎らと『白樺』を創刊し、「網走まで」を発表。

その後尾道、松江、京都などに居を移し、執筆を中断した時期を経て、『城の崎にて』(1917)、
『和解』(1917)、『暗夜行路』(1921~1937)などを著す。「小説の神様」とよばれ、
多くの作家に影響を与えた。昭和24(1949)年文化勲章受章。

「自己嫌悪がないということは、その人が自己を熱愛することのない証拠である。
自己に冷淡であるからだ。」

愛は与えられるものとばかり思っていたが自らが人を愛さない限り愛は生まれない。
そのためにあれこれ苦悩して自己嫌悪に陥る。

多感な中学生のころは多くの小説や詩集を読んだ。
勉強もせずに読みふけりよく怒られたものです。
母親の愛情に接しなかった少年は女性に対して興味があっても
ふれることは出来ませんでした。純情そのものだったのです。

学校の女性教師からお弁当を貰った時、近所のお姉さんからお菓子を貰った時、
この優しさは愛なのか恋なのか幾日も悶々としたものです。
勿論、ただの妄想で手紙を携えて追いかけまわしたら叱られました。

人を好きになることに不慣れで詩集から学ぶことが多くありました。
苦き青春時代「愛はどこからが愛」と苦悩した時代でした。

先ずは自分を愛することが出来なければ他人を愛することは出来ません。
悩みの中から愛が生まれるのではなく自覚の中から愛が生まれることを知るべきです。
他人を好きになる前に自分を愛することが大切です。