知るということ




「知る」を問う。知るとは何か?
分からなかったことが分かること。
好奇心の解決。
人生の道標を見つける。
物事の本質に触れること。
など様々な答えがある。
我々は本当に「知る」を理解しているのだろうか?

頭の中には個人個人によって納得する知識の池がある。
池のキャパシティに合わせて「知る」を溜め込んでいく。
そこから溢れ出ることはすべて無関心になる。
無関心の先には知らなくて良いという結論に達する。

「知る」というのは、どういうことだと問われたらなんと答えるか?

ある修行僧は、「自分のものにすること」だと答えていた。
「見たり聞いたりすること」という答えもあった。
見たり聞いたりしただけで、知っていると言えるかどうか疑問である。
ものごとを「理解する」という答えもありました。
その中で「広がる」という答えもあってどういう意味かなと不思議に思いました。

その修行僧はこのように説明してくれた。
たとえば、花の名前を知ると、それだけ景色が広がるのだというのです。
立てば芍薬坐れば牡丹という言葉を聞いて、かつては芍薬も牡丹もよく
分からなかったのが、その名前を知り、どんな花かを知ることによって、
世界が一層広がったと解説してくれた。

囲碁の本因坊クラスの棋士と、将棋の名人クラスの棋士とが対談した話です。
碁と将棋の神様が百として、我々はどれだけ知っているかと紙に書いて見せあった。
囲碁棋士は「6」、将棋棋士は「4か5」と書きました。
囲碁将棋界きっての天才だが、これほどまでに謙虚な気持ちの持ち主で、
「5」や「6」の壁に苦しむ求道者でもあったというものです。
囲碁のプロが「我々プロも町家の素人も大して変わらない、
誰も囲碁の真髄はわからない」と述べていたのでした。

知らないことを問う時にどのような姿勢で聞いているのだろうか?
立ったままだと言葉は聞き流れていく。
座ってメモを取ると言葉の意味を理解せずに本質を聞き逃す。
モバイルで検索して答えが出てきても知ったことにはならない。
知ったことを知識が一つ増えたと知識の池にため込んでも仕方がない。
本来教えを乞うことは真剣勝負一発の気持ちで臨むべきである。

先ずは仙骨を立てることから始めるのです。
パルテノン神殿の柱は、一本の部材ではなく、いくつもの円筒形の巨石を
積み重ねたものだというのです。
垂直に積み重ねているからまっすぐの柱になっているのです。
そのように私たちも骨盤、仙骨、肋骨がまっすぐに積み重ねるように
立つことが大事だと教わったのです。

幼児~低学年の躾の教育で3つのルールを教えます。
①挨拶のできる子になる。
②履き物を揃えられる子になる。
③背筋を伸ばして話を聴くことのできる子になる。
この3つが出来ればまともな子に育ちます。
これは保護者にも言えることです。

一般の大人は子供たちの素直な問いかけに答えることが出来るのだろうか?
例えば「死ぬとは何ですか?」という問いかけに答えることは
出来るのだろうか?

それは仏教の言葉に「生老病死」というのがあります。
皆さんは今「生きて」いますよね。
お父さんとお母さんが結婚して、
お母さんのお腹から産まれて命を授かったのです。
そして毎年歳を取り70年も生きて「老いる」のです。
足腰が弱くなり目も歯も徐々に悪くなり「病」に掛かるのです。
80歳以上になり人としての役割が終える頃に「死」が近づいて来るのです。
これが人間に課せられた運命ですから「死」は怖くはないのです。

逆に「死」とは反対の「生きる」とは何でしょうか?
アメリカの偉い学者さんが「マズローの五代欲求」というのを発表しています。
生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求です。
これが生きていく為の目標になります。

自分や家族の幸せが大切ですが、それ以上に地域社会の発展や、国の平和と安寧が
保障されなければ「生きる」が辛いものになります。
「生きるとは長い坂道を重い荷物を担いで登りゆくようなものである」
この言葉は徳川家康が残した言葉です。「生きる」とはそれほど厳しいのである。

知るとは人生の哲学的な道標を見つけることです。
人それぞれ違う人生を歩むのですが、それぞれの人生が、豊かさや貧しさの中で
どれだけ他人に貢献したかが、心の満足として得られれば「知る」が完結します。

未熟な私もまだ「知る」を追求中です。
日本女性の平均寿命が86歳で男性は83歳です。
もう少し知識の池に「知る」を溜め込められるよう頑張ります。

思考の先回り




「知る」ということを会得する為には「読む、書く、話す、繰り返す」が必要です。
噂を耳にして知っているというのは、聞いたというだけで知ってはいません。
インターネットやテレビなどで流れて来る情報は、
聴いた!見た!というだけで記憶には残りません。騒音と同じです。

目標や目的も実行が伴わなければ「願う」ということだけです。
予定を組んだとしても行動が無ければ「無いものねだりの神頼み」です。
自身の経験や達成が積み重なることにより「叶う」になっていくのです。
「叶う」という文字は希望を一つ「吐く」ことによって「叶う」のです。

「感即動」
興味があり感知した時には行動が伴わなければ「知る」機会を失います。
陽明学の「知行合一」と同じで知識と行動が伴わなければ理解したとは
言わないのである。

そして「知る」を会得したら「気づき」が起こるのです。
外部からの情報が無くても、自分自身の予知が出来るということです。
気づきは知り尽くして創造力が無ければ気づくことは出来ません。

世間でいうところの「人寄せ」は出会ったときに縁があると感じることです。
それに反応して「声掛け」をしなければ運命の人は通り過ぎます。

人の出会いは一瞬早からず 又 一瞬遅からず
出会うべき人には必ず出会う
しかし、求める気持ちが無ければ運命の人も
目の前を通り過ぎる
哲学者森信三

私は何度も若い時に偶然の出会いに恵まれました。
ジャズの伝説的な巨匠であるドラマーのエルビンジョン、
ギターリストのバーニーケッセル、シンガーのジェームステーラー&アルスティワート
など。レストランで紹介され、ジャズクラブで声かけられ、
百貨店で買い物途中に出会い、音楽キャンプで目の前に座っていた人たちです。
私が会いたいと思ったら会えたのです。

勿論、英国に行かなければ、そんな偶然も起こりません。
憧れの人に会いたければ、その人の近くへたどり着かなければなりません。
会おうとする行動があれば、会えなくても気持ちの上では、出会ったと同じような
満足感が生まれるのです。

禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉があります。 
自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。
また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」
という意味です。 

例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れて
二人の方の前に出したと致します。
それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」
いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで
無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。 

理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのは
それぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。 
一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、
どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを、
私自身が実感を伴って知り得るのです。 

人からどんなに事細かにお茶の温度を教えられたとしても、
実感を伴って私自身が知り得ることはありません。
この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。 

また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続ける
ことが大切なのであります。 

気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢で
あり続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、
当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。
そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。

ある寺の禅僧が毎月お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。
そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80歳は80歳なりの、
90歳は90歳にならなければ知り得ないところがある」といわれました。 

若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、
そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや
寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、
今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと
教えて下さいました。実際にその通りなのです。

自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、会得することが
「禅」では大切であります。

だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。
それが「知るということ」ではないでしょうか。

「知る」を邪魔するのは好奇心の欠如です。
そんなこと知ってもこの年じゃ時間の無駄だし何の役にも立たないと言っては
駄目ですよ。あなた自身の心から興味を消しては生きる張り合いが無くなります。
好奇心はあなたの自らの気持ちから生まれて来るもので、
悦びの興奮は他人から薦められるものではありません。

「知る」の意味は皆さまもよくご存じのとおりで、触ってみなければ熱さ冷たさも
分かりませんよ。実感が伴わなければ「知った」とは言わないのです。

「恩学」は私の実体験をもとに書き続けています。
様々な人生を歩いてきた中で「恩に始まり恩に終わる」を実感したからです。  

今更ながら、私自身、知識としてだけでなく、体得し、活かすことが「知る」
ことの大切なところだと気づく次第です。 

現代は新聞や雑誌、テレビにインターネット等、様々なメディアによって、
自分が知りたいことを数多の情報より簡単に素早く知り得ることができますが、
私たち自身は果たしてどれだけ実感を持って知り得ているといえるのでしょうか?

又、疑うことなく、整理することなく、一方的に送られてくる情報を
信じる必要はありません。
メディアは知りたくないことまでも伝えてきます。
必要でない情報はただの騒音と同じです。
早くその場を通り過ぎてください。

思考の先回りは価値観を早く見極めることが重要です。
嘘を見破るのも思考の先回りで気づいてください。

そのままを生きる




6歳の時父親に引き取られてから一時お寺に預けられました。
ある日の夜に住職と奥様が話されているのを聞いてしまいました。
住職「あの子の親はいつ引き取りに来るのだ」「早く出て行ってもらってくれ」
奥様「可哀そうな家の子だから親が引き取りに来るまで預かりましょうよ」
そこに娘たちも加わり「汚いから嫌いだ」と言われました。

子供心に肩身の狭い思いなのかで自ら率先して本堂の掃除や廊下の拭き掃除、
庭の掃き掃除もしていたのですが、これが自分に課せられた運命なのだと思うことで
悲しくありませんでした。
辛かったのは寝泊りする部屋がお墓の近くで、外の物音も、部屋の掛け軸も、
恐ろしくて、毎夜、早く夜が明けるのを待ち続けたことです。

傍目にはかわいそうな子だと映るのかもしれませんが、
当人にすれば仕方ないと諦めているのでつらくも悲しくもありません。

赤ん坊は母親の子宮から狭い産道を通り生まれて来る。
その時に分娩室の照明や看護師さんの声や、それまで母親と栄養を分け合っていた
臍の緒をいきなり切られる地獄を味わうのです。
だから怖い幼児体験が5~6歳まで続くので、苛酷な状況でも、
子供は気にせず生きられるのだと本で読んだ記憶があります。

私の負けず嫌いと闘争心はこのような環境があったからこそ作られたのです。

たまたま同じような内容をサイトで見つけました。
参考にして読んでみてください。
 
年末に近隣のお寺に手伝いに行った時のことです。そのお寺の住職は高齢ですが
お元気で、今でも庭木の手入れをご自分でされています。
作業をしていると、ひょっこりと小学生らしき男の子がやって来ました。
近くに住んでいるそうで、以前にも来たことがあり、その時に住職から
「また来て、庭の手入れの手伝いをしてくれ」と誘われていたそうです。

住職は喜んでいる様子でした。少し手伝ってもらってから、休憩時間になったので
軒下のベンチに三人で座り、しばらく雑談をしました。

すると話をしていく中で、男の子が二歳の時に父親を亡くしていること、
住宅メーカーに勤める母親との二人暮らしであることが分かりました。

私はその話を聞いて、男の子は寂しい思いを抱えているのでないか、生活する上で
色々な不都合があるのではないだろうか、と深刻に受け止めてしまい、
どう接していいか分からなくなってしまいました。 

しかし住職はそれまでと全く変わらない様子で、和やかにこのような
お話をされました。「手伝いに来て偉い。言われたことを一生懸命にやっているのも
すばらしい。お母さんが頑張って働く姿を見ているからだろうな。
あなたはお父さんがいる友達を羨ましく感じることもあるかもしれないが、
この庭を見てごらん。木や草は種類が違うと姿が違う。同じ肥料を与えても、
真っ直ぐ育つやつもいれば、横に育つやつもいる。
あなたは身体が大きいけれど、身体が小さい友達もいる。
足が速い人や、勉強が苦手な人もいる。
違いがあるのが自然で、同じであるのが不自然なんだよ。

他の人と比べることは大切ではないんだ。自分を大切にして、自分がこれだと
決めたことを頑張ることが大事なんだよ。」 男の子は真剣に話を聴き終えると、
嬉しそうにうなずいていました。住職と男の子の交流を見ながら私は、
自分の未熟さを感じていました。自分は比較ばかりしていることに気付かされました。

男の子の家庭環境に対しても、他の子供と比較し、どちらが良いのかという
視点からしか捉えていませんでした。たとえ平等に恵みを受けたとしても、
草木は種類が違えば姿かたちは変わってきます。

鈴木大拙が説く「松は松なりに竹は竹なりに生きていく。松は竹にならず、
竹は松にならずに、自分が主人となって働くのである。」の
真意はここにあるのでしょう。 

私は、男の子にとってお父さんがいないことがマイナスだと捉えてしまいました。
しかしそういった環境で過ごすからこそ、お母さんが頑張っている姿を目にし、
見習って一生懸命頑張ることができる。
こう考えることができれば、とても気持ちが前向きで、明るくなるように思えます。

大拙と同じ時代を生きた詩人の金子みすゞさんの作品に、
『私と小鳥と鈴と』という詩があります。

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
自分の尊さを噛み締め、そのままの自分を生きていきたいものです

如何だったでしょうか?
そのままを生きるとはつまらない見栄を張って嘘をつくから辛いのであって
そのままを受け入れればストレスも無く快適に暮らしていけるのです。
他人と比べるのでは無く、自分と比べるのです。

あの時の約束は守られているか?昨日より今日は元気に過ごせたか?
明日からも自分の成長のために生きることが出来るのか?
偽りのないそのままの自分を貫き通すことが出来るのか?です。

決して他人の不幸を自分の尺度や常識で判断しないことです。
大切なことは相手がどのような環境であっても不幸だと決めつけないことです。
そのためにも分け隔てなく自然にお付き合いすることが幸福につながります。
そのままを生きていきましょう。それが一番なのです。

願いと祈り(事業編)




新しい事業を始める時大切なことがあります。
基本的には5つの決めごとです。

①目的を明確にする。
②時間計画をする。
③世の中の為になるか。
④後続にバトンを渡せるか。
⑤自己満足が得られるか。

①目的を明確にする。
市場規模、競合他社、独自性をスタッフと話し合う。
組織が小さくても「M・V・V」を作ることが大切である。

②時間計画をする。
1年後、3年後、5年後の状態を書き出す。
ゴールが分かれば進みやすくなる。

③世の中の為になるか。
「三方良し」の定義に合うか?
自社もお客様も地域も良くなるか検討する。

④後続にバトンを渡せるか。
ビジネスモデルとして確立して誰でも使えるようにする。
ビジネス先願権や使用権で縛る必要はない。

⑤自己満足が得られるか。
それぞれの承認欲求と自己実現が両立するするのか。
基本は「利他心」の気持ちを持ち続けることが出来るかが大切です。

中小企業の中には事業計画も無いところが多々あります。
今の状況で頑張っていればいつかは利益が出ると信じているからです。
絶対に「信じること」と「目標達成の願い」ははっきりと区分けすべきです。

中国の諺に「計画なくして成功なし。水槽より大きく魚はなれない。」
事業計画は水槽です。そこで働く従業員が魚です。
従業員を大きくするのも小さいままにするのも事業計画ですよ。

ビジネスを1枚の紙で表現する時に、この4つの枠組みに落とし込むことが重要です。
Rリソース(自社の持っている魅力は何か)
Sスポンサー(応援者は誰か)
CRSカスタマーリ・レーション・シップ(お客様とのリレーションをどう取るか)
Vバリュー(社会的に有意義な事か)

その事業計画を会社としてのスローガンとして壁に貼りだすのです。
仕事はすべて「S・S・L」スピード・シンプル・ロジカルで組み立てるのです。
スピードを持って取り組む。シンプルに考える。論理的に説明する。
小さな会社だからこそスローガンが活きて来るのです。

個人的な願いは当然、叶えることが目的にあるのですから、そこに向かって進んで
ゆくことになりますが、その願いが一旦成就されると、その歩みはそこで止まって
しまいます。
目的地を設定している以上は、目的地に到達してしまうと、
当然、その旅路はそこで終わりとなります。
 
禅門にこのようなことが書かれています。願いがあったということは、
もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずです。
しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、
その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまいます。 
無心の願いとは、それを嫌っているのです。
ゆえに禅では目的地を設定しません。目的地に到達することよりも、
その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は
不可分であるというのです。

山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことにはなりませんし、
帰りの下山がないことにはなりません。 
無心の願いは、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはありません。
成就してなお、その願いは自分の中に生き続けます。
願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、
人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味しています。
これを鈴木大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのです。 

私たちの人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や
大学受験を目標に勉強することもあるでしょう。では、晴れて受験に合格して
入学できたらそれで終わりかというと、もちろん違います。
入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違います。 

人生とは、終わりのない道のりです。限定的な目的や低い目標は自分の限界を
決めてしまいます。自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまいます。 
鈴木大拙は続けます。
どうしても手の届かぬところのあるものが「祈り」なのです。

(中略)いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、
限りある世界でこそ意味あるかもしれぬが、駄目なものをくり返し、
くり返しやる心、その心は実に、弥陀の本願の世界に生きているものでないとわからぬ。
(鈴木大拙『無心ということ』)

ここでは、阿弥陀如来の本願になぞらえて、その「祈り」の世界を説明しています。
「祈り」の世界とは、他でもない私たちが住むこの世界のことです。
永遠の願いを持つことができたのなら、この世界はそのままで極楽浄土となるのです。
この極楽浄土とは人の生き方そのものを表しています。 

終わりのない願いこそが本当の「願い」。マグロやカツオは常に泳いでいないと、
酸欠によって死んでしまいます。馬は常に走っていないと、血流が止まって
死んでしまいます。私たちの人生における願いというものも、
それと同じなのかもしれません

ビジネスは「願いと祈り」だけでは成立しません。
しかし、多くの困難な中で「願いと祈り」があるから救われるのです。
しっかりとした事業計画があるからこそ、常に願いを取り込んで、
働く人たちと気持ちを一つにして前に進んで行くのです。

ふと時間のある時に「自分の願い」は何だろうかと考えるのも大切ですよ。
人生が見えやすくなります。

見せると魅せる




一般的に使われる「見せる」は商品の見本や説明書などを紹介する時に、
「何何をお見せしましょうか」と差し出す時に使われる言葉です。
「見る」はあまり何も意識せずに視点を移すだけです。

ブランド商品を扱う店のショーウィンドウは華やかな中に、コンセプトメッセージが
込められています。今年のトレンドはこれです。乗り遅れる前にお買い上げください。
ご存知ですか?ファッション業界のトレンドは2年前に作られるのです。
イタリアのプッティーオモやパリコレ、ニューヨークコレクションで発表された作品は、
2年後に市場に出されるのです。
今年の新商品と言いながら実は新鮮な商品ではないということです。

音楽プロデューサーはアーティストを紹介する時に「魅せる」を意識します。
ただ紹介をするのではなく内面の魅力を全面に出して引き寄せることを意識します。
新人の場合は内面の才能を表に出すことが出来ないので、プロデューサーがフォローして
取材する方々をその気にさせます。

今は原石の石ころに見えるが将来光輝くダイヤモンドになるから、応援するのは
今ですよと誘い込みます。
私は音楽紹介の誌面を独占している時期があり、多くの同業者から妬みに近い
批判がありました。アーティストを「魅せる」紹介が得意だったのです。

『魅せる』を知る
言葉の意味だけで言うと、見せる=分かるように示す、魅せる=好ましい印象を
抱かせるこのようになりますが、もっとビジネス寄りに解釈すると、見せる = 情報の
提供魅せる = 感動の提供になります。
これらを念頭に、ご自分でビジネスをされている人に考えてもらいたいのは、
ご自分が売っている商品やサービスをお客様に対して『見せて』いたのか、
『魅せて』いたのかということです。

歌舞伎では「見得を切る」という表現があります。

感情の高まりなどを表現するために、演技の途中で一瞬ポーズをつくって静止する
演技をさし、その人物をクローズアップさせる効果があります。
多くの場合、「見得」の瞬間には「ツケ」が打たれます。
「立役」を中心に行なわれますが、役柄や作品の内容によって表現は異なります。
荒事(あらごと)の役では、より効果的に見せるために、直前に大きく首を振ったり、
足を大きく踏み出したり、手を大きく広げたりする動作を伴います。
また若衆役(わかしゅやく)や「世話物(せわもの)」の役では、
あごを引く程度の小さな動きで表現します。

慣用句として使用される「大見得(おおみえ)を切る」[自信たっぷりに装い、
大げさな言動をとる]という言葉は、歌舞伎からきています。
この他にも名称のついた「見得」は、いくつか存在します。

「魅せる」(みせる)とは、他人に対して何かを見せる行為、またはその結果を指す
言葉である。他人の注意を引き、感動や興奮を引き起こすことを目的としている。
例えば、芸術家が作品を展示する行為、料理人が料理の技術を披露する行為、
企業が新製品を公開する行為などがこれに該当する。

また、自身の能力や魅力を他人に認識させるために行う行為も「魅せる」と
表現されることがある。現代では、SNSなどのインターネット上で自己表現を行い、
他人に自身の生活や価値観を「魅せる」ことも一般的である。

「花看半開 酒飲微醺」 (菜根譚)        
花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む
大いに佳趣あり。若し爛漫・(もうとう)に至らば、
便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履(ふ)む者、宜しく、之を思うべし。・・

世間の人は一般に花は満開が一番見ごろで美しいものだと思われがちである。
まさに満開の花の美しさは感動を覚えることさえあるから美しいと思い込む
のは当然である。だが、その満開の花より半開こそ見ごろであり、
本当に生き生きとした美しさを感じさせるし、奥ゆかしさがあり、
却(かえ)って趣きを感じさせるものだ。
ここに「花は半開を看る」の語を味わいたいものである。

そしてまた、酒も十二分に飲む勿(なかれ)であり、ほんのりほろ酔い加減がいいのである。
あまり飲みすぎ、酔いつぶれてしまうのは
邪道であり、風流も解せない人であると言えよう。
酒は味わい深く飲みたいものだ。ここに「酒は微醺(びくん)を飲む」の消息がある。

このように何事においても斯(か)くのごとくで、すべてが満点、十分であるより、
ほどほどのところで満足し、分を知ることでもある。
徒然草の吉田兼好は「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは・・
すべて何もみなことのととのほりたるあしきことなり」といっている。

つまり、花と云うのは何も満開の盛りだけ鑑賞するものではなく、月も雲もなく
皓々として照り輝いている夜だけを眺めるものではない。
むしろ雨の降る夜に隠れている月を思い、満開の花より、まだこれから咲こうという
梢を見上げたり、或いはすっかり散ってしまった庭をしみじみ眺めるのも
味わい深いものである。

「よろずのことははじめ終わりこそおかしけれ」と云い、そのような見方が出来る人こそ
真の教養人、つまり奥ゆかしい品性の持ち主なんだといっているのだ。

満開の花は誰が見ても美しいと感じられることだろう。しかし、これから咲く花、
あるいは散ってしまった花を想像力で心の中に美しい花を咲かせ、
趣を感じ得るのはそれなりの教養が必要なんだと兼好は言っているのである。
これがさらにわび寂びの美意識につながるのだ

如何だったでしょうか?
「見せる」と「魅せる」の違いが分かりましたか?
漢字の意味は深いですよね。また日本人の感性の素晴らしさも理解できましたか?

感動を作る




以前、演劇集団の役者さんから感動とは何ですかという質問がありました。
個々の感性が揺れ動くことを「感動」と言います。
相手が送る演技や音に自分が反応してドキッとすることです。
それは無意識に心の中で求めていた感情が目の前に現れた時に高揚する感覚です。

本居宣長が感動は「もののあはれを知る」と言っています。
人は嬉しいときや悲しいときに、心が揺れ動きます。その心が感極まった時には、
「あぁ」というため息が漏れます。この「あぁ」が「あはれ」です。
「あはれ」というのは、もと、見るもの聞くもの触る事に、心が感じて出る
歎息(なげき)の声にて、今の俗言で(ゆおのことば)にも、「ああ」といひ、
「はれ」といふ、これなり」つまり「人間の心の動きを感じる、知る」という
意味になります。と書かれていました。

また「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉があります。
親鳥が卵の中の雛鳥にもうそろそろ出ておいでの合図で殻の一部を叩きます。
雛鳥もそれに合わせて内側から同じ箇所を口ばしで突きます。
2匹の呼吸と求める気持ちが合わなければ産まれることはないのです。
それと同じように送り手と受け手が同じ呼吸になる時に感動が起こるのです。

「とんとんとんとん」と送り手が殻をたたけば、受け手の人たちも

「とんとんとんとん」と返して大きな感動を味わっていくのです。

あなたはどのような場面で感動しますか?
①素晴らしい音楽を聴いた時
➁素晴らしいお芝居を見た時
③素晴らしい景色を見た時
④生き別れた家族が出会う場面を見た時
⑤小さな動物が車に撥ねられそれを助けた人を見た時
⑥爆撃後の瓦礫の中でピアノを弾いているアーティストを見た時
人それぞれですがきっとあなたの前世の記憶が反応したのだと思います。

舞台の上で感性を鍛える方法があります。
それは送り手も受けても同じです。

<イメージの世界をより具体的に想像することが出来るか?>
①空気をつかむ(周りの気持ちを理解する)
➁状況を把握する(今の反応を見る)
③方向性を決める(やり方の決断)
④直感が出せるか(先を予測する)
そして<歓喜の場面が見えるか>のイメージトレーニングが必要になる。
これらを具体的にメモに残して自分流の感性を作るのです。

直感を鍛えるにはどうすれば良いのか?
私は他のプロデューサーより圧倒的に情報量があった。
どんな時にも時間を見つけては必ず行くところがある。
本屋と映画館とレストランである。

①本屋で山積みの本を手当たり次第に購入して読んだ。
➁話題になっている映画は必ず見た。
③現在活躍している人には出来る限り会った。
④トレンドスポットになっているレストランへ通った。
⑤大事な情報を確かめるために国内外を問わず出かけて目で確かめた。

直感は情報の中から生まれることを誰も知らない。
直感は思いつきではないのに感性を頼りにしてしまう。
感性は育った環境で育まれることが多く、好き嫌いに起因している場合が多い。
その為に、真逆の人たちからは敬遠される。
ヒットプロデューサーになるためには直観を鍛えなければならない。
その為には真実の情報量を貯めこまなければなりません。

バランス感覚を鍛える。
陰陽、清濁、正悪などの二面性がある方がダイナミックに表現することが出来る。
欠点は悪いものだと決めつけて、欠点を取り除こうとして「常識」という除草剤を使う。
欠点も長所を補う必要があるために取り除く必要はないのである。
世の中の間違いは欠点を全て取り除くことを「進化」と勘違いしていることである。
人間の感情を狭めることは人間性の「退化」であり進化とは言わない。

歌舞伎や能楽や雅楽などの演奏に使われる手法「序破急」があります。
スタートは、ばらばらに始まり、徐々に音が合い、勢いが出てきて最後に音がまとまる。
この流れコンピューターには絶対作れない演奏家同士のバランス感覚と呼吸感である。

世界中の民族音楽を現地で聴くとほとんどが「序破急」の流れになっている。
おおむね演奏は、伴奏楽器から始まり、打楽器が加わり、弦楽器も加わり、
声が(奇声)加わり、神がかり的な恍惚感で絶頂を迎えます。

好きを整理する。
アーティストを好きになるけれど盲目の恋では意味がない。
欠点をとらえて長所を伸ばすには冷めていた方が良いからである。
舞台も理想(好き)の舞台を描くが予算の都合で叶わなかった場合には、
次のためにデーターにして心に留め置いておく。
いつでも悔しさは次の好きをやるバネとして捉えれば良いのである。

惚れた人の前では周りが見えなくなると言われます。
プロデューサーはどのような場合にも周りを見る必要があるのです。
惚れることを客観的に判断できなければ一流にはなれないのです。

感動を作るには、「情報量」と「経験」と「察知力」と瞬時の「表現力」が必要です。
それ以上に日ごろから「人間力」を鍛えて感情の機微を捉える力が必要です。
雨の日は雨の表現が、晴れの日には晴れの表現が、悲しい時には悲しい表現が
嬉しい時には嬉しい表現が、苛立つときには苛立つ表現が出せるかです。
そして良い意味での「裏切り」がプロの仕事です。
これだからこうだろうと思っている予定調和のときに、まったく違う表現を
出すことにより大きな感動が生まれることを知るべきです。

『感じる心が正常に機能していれば、人間は人として誤った方向には傾かない』
『ピカソのように、歳をとってもどんどんスタイルを変えながら生涯現役であることは、

作家としての一つの理想』ワクワクドキドキしながら生き抜くことです。

先ずは日常の生活から感動を見つけてください。
そして感動を作るタイミングを図ってください。
感動を出し惜しみしないで他人に伝えてください。
感動に敏感になると世界が違って見えます。

人間力




友人から京都の老舗料理屋「菊乃井」のご主人村田吉弘さんの
インタビュー画像「味道」が送られて来たので観ることが出来ました。
村田さんは、開口一番に料理は作り手側の「人間力」と言われたのが印象に残りました。
日本料理を世界に広めたいという目的に向かうためには人間力が必要と力説している。

私もこの「人間力」という言葉をよく使うのですが、
エンタテインメントの世界にいる人は必要不可欠な力だと思っています。
人間力のない人の作る作品は絶対に感動が生まれません。

一)基本は「利他心」の心を持って他人を思いやることができるか
二)その人の望んでいる喜びは何かという「想像力」があるか
三)自分の音楽や、絵画や、言葉にどれほどの「影響力」があるか
四)自分の悩みを見せずに相手を笑顔にさせる「包容力」はあるのか
五)現状に満足せずに次なる挑戦の為の「学習力」を持っているか
六)同じ夢を語れる友達と「使命感」を持つことができるか

通常「人間力」という言葉を使う時にはビジネスでのシーンが多いように思います。

「人間力」が何を意味するのかは、内閣府の人間力戦略研究所によって明確に
定義されています。「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として
力強く生きていくための総合的な力」であると明確に定義されていて、
「知的能力的要素」「社会・対人関係力的要素」「自己制御的要素」の
3つで構成されるものとされています。

目標を達成するために周りに働きかけ、巻き込みながら物事を先に進める力のこと。
文字通り、人に対して何らかのプラスの影響を発揮し、
周囲に「あの人の言うことならば聞こう」と思わせられる人を、
「人間力がある」と評するケースが多いようです。

ただ、対人影響力は単一のものではなく、さまざまなスキルで構成されています。
例えば、熱意をもって相手を説得する力、論理的に筋道を立てて物事を説明する力、
明確な目的を示し巻き込む力など。
周りに影響力を与えるには「相手を知る」ことも必要なので、豊かな感受性や観察力、
洞察力なども構成スキルの一つです。

目的を達成しようとする信念があり、困難な環境でも揺らぐことなく
突き進める力のこと。

「あの人に任せておけば安心」「あの人は肝が据わっていて揺るがないから
付いていきたい」と周りに思わせられる人も、「人間力がある」と言われることが
多いようです。

こちらも対人影響力と同様、さまざまなスキルで構成されています。
高いストレス耐性、ポジティブシンキングのほか、困難時にストレスをやり過ごせる
鈍感力、目的を持って臨み続ける意味づけ力、目的をぶらさず遂行する力なども
当てはまります。

また、禅の世界では「悟りの4つの型」として紹介されています。

臨済禅師の語録である『臨済録』には、「四料揀」と呼ばれる独自の教えがある。
師、晩参、衆に示して曰く、「有る時は奪人不奪境、有る時は奪境不奪人、
有る時は人境倶奪、有る時は人境倶不奪」。
と原文には簡潔に臨済禅師の言葉が記されている。
4つの料揀だが、料ははかること、揀は選ぶこと、4つの悟りの型といっていい。

臨済禅師の教えの一つに、「随処に主と作る」というのがある。
どんなところでも自らの主体性を持てという意である。
主体性を実際にどうはたらかせてゆくか、そこに四通りの型を臨済禅師は
説かれたのだと受け止めている。

教学的には難しい問題である。そもそもこの「四料揀」自体が、
臨済禅師が直接説かれたものでなく、後世に付けられたという説もある。
しかしながら、ここでは、あまり難しく詮索するよりも、
お互いの人生を歩んで行く道において、そのよすがになるものとして学んでみたい。
あえて人間学的に学んでみようと試みる。

要は人と境との関わり合いに4通りがあるということだ。
人とは主観であり、境とは客観である。人は自分であり、境は外の世界だ。
お互いの生活はこの人と境との入り組みにすぎない。
自分と外の世界との関わり合いしか、ありはしない。
その自分と外の世界との関係を臨済禅師は4つに分けられたのだ。

第一の「奪人不奪境」とは主体を奪い、客体を奪わないという。
自分が無くなって外の世界だけになり切ることだ。
第二の「奪境不奪人」とは客体を奪い、主体を奪わない、
外の世界が無くなり自分だけになることだ。この時、自分だけの天下になる。
第三の「人境倶奪」とは主体も客体もともに奪う。
自分も外の世界もともに無くなるのである。
第四の「人境倶不奪」とは、主体と客体ともに奪わない、
自分も外の世界もそれぞれが思うがまま自由に振る舞うのである。

臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺老師による「禅語に学ぶ」より


政治の世界でも人間力は尊ばれる。

第68代目内閣総理大臣大平正芳氏の言葉に「任怨分謗」というのがある。
「任怨」とは「何か思い切った新しい仕事をやる時には、
きまってだれかの怨みをかう。だが、そうした怨をいちいち気にしていたのでは、
とても新規事業はやりとげられない。敢えてその怨を受けよ。
誹謗中傷の火の粉を恐れるな。」の意味です。

「分謗」とは、「いったん志をともにした以上は、一心同体となって
その怨を分けて受ける気概がなければならない。」という意味だとか。
この言葉、今の政治家の皆さん胸に刻んでいただきたい。政治家が口にする信条に
『責任と覚悟と威厳』があった時代の名残。

昔の政治家は人間力が無ければ選ばれなかったのです。
「人間力」とは内と外の精神のバランスを言うのかもしれない。
そしてそこに重要なのは「決断力」があるということです。

盥(たらい)の水




マズローの5代欲求の最上階に位置するのが「自己実現」です。
生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現。
最近ではその上に自己超越的の「利他心」が加わると言われています。
「自己実現」は人々から感謝されたいということで、
学校や図書館を建設して地元に還元するということです。
(アメリカでは個人名を記した大学や図書館・病院が多いのはそういうことです)
さまざまな寄付をして尊敬を得たいという欲求です。

更にその上に加わるのが自己超越的「利他心」奉仕の心です。
金銭的援助だけではなく貧しい人々へ教育や仕事の斡旋や病院の手配などを通じて、
宗教家的な自己を超越した中で人々を救いたいと願う欲求です。
奪う事ばかりの半生を振り返り、最後は分け合い分配に徹する、
地球愛に目覚め一生を終えるということです。

「人生というのは、たらいの中の水と同じようなものです。
たらいに水を張って、自分の方へもってこようとすると、
水は向こうへ逃げていってしまいます。
逆に、相手方に与えよう、与えようと向こう側に押せば、
水は必ず(こちらに)返ってきます。人生とはそういうものです。
ですから是非、自分のできる範囲で精一杯、人のために尽くしてみてください。
すぐに返ってはきませんが、やがてドーンと返ってきます」

日本が世界に誇る「おもてなし」
「お客様が心地よく過ごせるように心を込めて準備し、最大限の歓迎の気持ちを
持って対応すること」相手を思いやる日本人の気質や文化が息づいています。

しかし形だけの「無理強い」する「おもてなし」が多いのも事実です。
日本旅館へ泊った時に仲居さんが荷物を部屋まで運んでくれるのは良いのですが、
ながながと旅館内の施設の説明をすると、長いドライブや、列車などで到着した時は
とりあえず荷物をほどき、普段着に着替えてさっとお風呂に入りたいと思うのに、
お客様の気持ちを無視しています。これは「おもてなし」の規則から外れています。

その上に女将さんが来てご挨拶されると迷惑もいいとこです。
そして夕食になるとこれでもかという程お料理がお膳の上に並べられて、
年寄りや子供達には量が多すぎて迷惑千万です。
特に海外の人はハラールやビーガンの人もいるので見た目に美しい料理でも、
お出しするのは気を付けなければいけません。

「おもてなし」とは手の内側を中心に行う作法です。
手を添えて「どうぞ」という行為は「盥に水」を押すしぐさに似ています。
相手に向かって水を押し出せばおのずからと水は手前に戻ります。
間違った「おもてなし」は自分たちの利益優先に行っているという、
失礼にもなりかねません。相手を思う気持ちと相手の望むスタイルで行うように
心がけてください。

石田三成がまだ寺の小姓だった頃、寺に立ち寄った豊臣秀吉を3杯のお茶でもてなした
「三献茶」の挿話は有名な話です。
後頭部が突き出た少年が持ってきた大きな茶碗には、ぬるめの茶が入っていた。
鷹狩で喉が渇ききっていたので、秀吉は一気に飲み切った。
「小気味よし!さらに一服所望じゃ」
二杯目の茶碗には前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分ぐらいであった。
秀吉はそれを飲み干し、もう一服命じた。
三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほどの熱く量はほんの僅かであった。
秀吉はこの少年の気配りに感心して長浜城へ連れ帰ったという。

これが「おもてなし」の代表例です。
「気配り・目配り・心配り」が揃っています。

「情けは人の為ならず」
「情けは人のためならず」とは、よく耳にする諺でありますが、 
よく意味を勘違いしている人が多い諺としても知られています。
「情けをかけることは、結局その人のためにならないので、すべきではない」
という解釈と
「情けは人のためではなく、いずれ巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、
誰にでも親切にせよ」という全く正反対の2つの解釈が成り立つというのです。

「善悪種蒔鏡和讃」(ぜんあくたねまきかがみわさん)白隠禅師法語全集

「情けは人のためならず、即ち孫子のためとしれ」情けは相手のためにだけではなく、
自分の孫子に恩恵が帰ってくると思って誰にでも親切にせよという意味になります。
すなわち、見返りを求めてはいけないという白隠禅師の思いが込められている。
「見返りを求める心」が少しでも残っていると「恩を仇で返された」とか
「恩知らず」などと「恩着せがましい」を生じかねないからです。

スティーブ・ジョブズの禅の師匠乙川弘文はジョブズに式師を頼まれて
1991年にジョブズの結婚式を禅宗様式で執り行った。
彼は大成功しているジョブズには興味が無く、常にアドバイスを求めにくる
一人の禅の弟子としてしかとらえていなかった。
ジョブズから自分の豪邸を好きに使っても良いとの誘いにも興味を示さなかった。
弘文の禅僧の何も求めない禅の心に寄付や協力が山ほど集まったのです。

アップル社の商品デザインには「禅」の精神が生きています。
乙川弘文に助言を求めたジョブズは無駄をそぎ落としたシンプルにこだわりました。

弘文の最大の魅力は心がいつもオープンであったことと周りの弟子たちは言う。
しかし弘文は俗にいう「破戒僧」で、家庭も持ち酒も飲み、肉も大好きであったという。
近しい人の話によると、彼は純粋無垢な少年のような性格で誰からも愛された。
特に女性信者たちからは言い寄られることが多くそれを断れない性格だったと言います。
弘文は破戒僧であったが「私利私欲」で生きていなかったのでシリコンバレーの
若者たちには絶大の人気であったのは分かるような気がします。

我々の日常の生活にも「盥の水」は多く存在しています。
日本人の好きな「しんせつ」を押し付けるのはやめにしましょう。
「しんせつ」の裏返しは「めいわく」です。

野に咲く綺麗な花を誰かに見せるために摘み取る必要はないのです。
そっとしておくことも大切です。

一月浮万水



一月浮万水(いちげつ ばんすいにうく)

私が終の住まいを山奥に移した折にはこの境地で余生を過ごしたいものである。
先日訪問をした岐阜県中津川で朝もや霞む茶畑を散策した時に感じた想いである。

空に輝くたった一つの月が、地上のあらゆる場所の水面に無数に映っている
(浮かんでいる)という情景を表現した禅語です。

天の月が地上のあらゆる水面に反射して映るように、あらゆるものの中には
他のものの働きが影響していて、他のものと互いに関係し影響し合うからこそ
存在している。つまり、何一つとして単独では存在し得ない。
つきつめると、すべては一体であるということを表現している禅語だと考えています。

「すべては一体である」といっても、実感が湧きにくいかもしれません。
例えば今、自分の目の前に一杯のお茶が置いてあると想像してみてください。
そして、この目の前のお茶を今から飲むとしましょう。

目の前に置かれたお茶は、私ではありません。
自分ではない別のものとしてお茶を認識するでしょう。
ですが、このお茶を口に含み、飲み込んでしまったらどうでしょうか。
私の中に取り込まれて吸収され、自分の体の一部になっていきます。
この時、身体に吸収されたお茶は自分でしょうか、お茶のままでしょうか。
そして、しばらくしたら体から排出することにもなるでしょう。

では、この目の前にあるお茶は、いつから自分になるのでしょうか。
そしてどのタイミングで自分でなくなるのでしょうか。
自分になるのは、口に含んだ瞬間でしょうか?胃で吸収された瞬間でしょうか?
自分でなくなるのは、体から外に出た瞬間でしょうか?
膀胱に溜まっているときでしょうか?

もし、お茶が目の前に置かれている状態で永遠に時が止まるのなら、
そのお茶と自分は別のものなのかもしれません。しかし、時は止まりません。
ですから、この目の前にあるお茶は「これから自分になるもの」であり、
「そのうち自分でなくなるもの」でもあると言えそうです。

ところで、この目の前の一杯のお茶は、お茶になる前はどんな状態だったのでしょうか。

例えば井戸水とお茶の葉だったとしましょう。この井戸水はどこから来たのでしょうか。

山に降った雨が地面に染みて、地下を流れていた水かもしれません。
では、山に降る前は…?雲でしょうか。雲になる前は…?
海や地面やあらゆるものから蒸発した水分だったのでしょうか?

一方、お茶の葉はどこから来たのでしょうか。
お茶の葉として形になるまでには、太陽、水、土、微生物…、
水と同じようにあらゆるものが関係してきた結果、
今お茶の葉という形になっているのでしょう。

そうやって関係を辿っていくと、この目の前のお茶一杯は、
世界中のあらゆるものと関係してきた結果この一杯になっているはずです。
この関係は、人間が現代の科学で辿ることができる範囲の遠く外まで
無限に繋がっていることでしょう。それこそ、検証不可能な宇宙の果てまで。

そしてこの全宇宙の関係全てを凝縮したような一杯のお茶を、私は飲むわけです。
私もつながりの一部です。この、あらゆるものが影響し合っている現実、
それが冒頭の「全てが一つである」ということを理解するのに役立つのではと
思っています。 

そして「行到水窮處」&「坐看雲起時」 
(ざしてはみる、くものおこるとき)『終南別業』  
山奥で坐禅をして、雲が生じるのを見るよう、自然と一体となり悟りに至ろう!

行到水窮處。坐看雲起時。とは
行ゆいては到いたるみずの窮きわまる処ところ、
坐ざしては看(みる)雲(くも)の起(おこる)時とき。

中歳 頗(すこぶ)る道を好み
晩に家す 南山の陲(ほとり)
興(きょう)来れば毎に独り往き
勝事空(むなし)く自ら知る
行いては到る水の窮まる処
坐しては看る雲の起る時
偶然 林叟(りんそう)に値(あ)い
談笑して還期(かんき)無し

概略の語意としては「私は中年を過ぎた頃より頗る仏道を好み、
晩年には終南山の麓に住まいして、ふと興がわけばいつも独りぶらりと山へでかけ、
景勝をぼんやりとひとり楽しみ、ぶらぶら歩いては水の流れの源へ到り、
心地よく疲れてはそこに座り込み遠く雲の湧き出るを眺めたりする。
そんな時、偶然、きこりのおじいさんに出会っては、談笑をして思わず
長話をして帰るのを忘れてしまう」というふうに解される。

悠々自適の境涯をあらわす道人の生活。
俗塵を離れ、どっぷり自然の妙境に身を
置き、水の流れに身をたくし、無心に流れ
行く雲のようにたんたんとしたその境を
楽しむ詩情を禅者はこれを禅境に重ねて
この語を好んで用い、対服の茶掛けとしても喜ばれた。

勿論、実際に俗塵を離れた隠遁生活の悠々自適を禅者は尊ぶものではない。
東京のど真ん中の雑踏、新宿駅の人混みの流れの中にあっても、高層ビルの間の
雲のかすめる時であっても心境においては大自然の中にあるように安穏無事の
境涯であってこそ、この行到水窮処 坐看雲起時が生きるのである

私はこの投稿をno+eでふと目にしたとき、これだ!この禅の世界が
わたくしが求める境地だと思わずにはいられなかった。
「恩学」のブログを書くようになって景色に音に文字に、人との出会いに、
とても敏感になったと思う。

これからも記憶に残された思いを、度々よみがえらせることを大切にしたい。

説教者とは




説教者という言葉に惹かれて調べてみました。
江戸時代に自らの経験で、ことの道理を説き「どうあるべきか」を
激しい口調で伝えし者とある。
学者や僧や歌人や茶人などの極めた人たちが、
大衆に向かって魂の叫びを繰り広げていたのである。

元来日本人は純粋さに加えて激しい「情念」を胸に秘めているので、
聞く者たちは大いに歓喜したのに違いない。
「情念」とは深く心に刻み込まれ理性では抑えられない悲しみ、
喜び、愛、憎しみ、欲などの強い感情。所謂、感受性が敏感なことを云うのです。

現在、怒りをなくした日本人!
1945年8月に原爆を2発落とされて敗戦を余儀なくされた日本。
その後GHQの方針で教科書から「歴史と地理と修身」を
排除されて骨抜きにされてしまった。
アメリカの歴史学者ルースベネディクトが書いた「菊と刀」に
描かれている義理堅い、忠義に熱い、愛国心溢れる日本人が再び復活しないように、
アメリカがコントロールしたのである。

それからの日本政府は、まるで奴隷になったというよりは、
妾(めかけ)の魂を刷り込まれてしまったという感がある。
日本は妾が旦那(アメリカ)の言うことには一切逆らいませんと
言っているようなものである。

因みに妾とは正妻のほかに愛し扶養する女のこと。経済的援助を伴う愛人を指す。
妻は妾の存在を承知している場合がほとんどで、
社会的に認められていて隠されるものではなかった。
また、妾を囲うにはそれなりの金が必要であるため、
「男の甲斐性」の象徴とされる場合も多かった。
大成した政治家や経営者が妾を囲うのは恥ずべきことではなかったのである。
そして有名なのは渋沢栄一が数人の妾を囲っていたという話である。

今日、我々現代人が説経を聞く機会は、全くといっていいほどなくなってしまった。
徳川時代の前半に刊行された版本が数点残っており、
それが書物として流通してもいるので、
わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるばかりである。

それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、
現代人にも激しい感動を呼び起こす。
日本人の意識の底に、澱のようにたまっている
情動のかたまりが、時代を超えて反響しあうからであろう。

中世の民衆は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてない者が
多かったに違いない。
そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと
愛を語った。
語りの一々は、時にはおだやかに、時には荒々しく、人間の情念を
飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける言葉からなっていた。

説経の中の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。
彼らは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、
最後には抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。
聴衆は、説教のこんなところに、自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。

このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で
語られることにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを
蓄積していったのであろう。
その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、
時代を超えた普遍性へとつながっていったのである。

世界一有名な説教としてはイエス・キリストが山上で弟子や群衆におこなった
説教「山上の垂訓」は誰をもが知るところである。

汝の敵を愛せよ
叩けよ、さらば開かれん
狭き門より入れ
右のほほを打たれれば、左も向けなさい
何でも人にしてもらいたいと思うことは、その人にしなさい

汝の敵を愛せよとは、自分に対して悪意を抱いている者や、
迫害してくるような敵こそ慈愛の心を持って接しよという教え。

叩けよとは、神の国の門は待っていても開かれず、ひたすら神に祈り、
救いを求める者に神はこたえてくれるから。

右のほほをとは、報復の連鎖を断ち切る決意である。
「非暴力、不服従」は「無抵抗」とは異なります。
はっきりと抵抗するが、ただし、暴力をもって、
決してそれはしないということです。

何でも人にしてもらいたいとは、困っている人が望んでいることは、
危害を受けることがあるかもしれません。
それでもその人にしてあげなさい。

(マザーテレサが説教の時によく引用していた言葉です)

長年プロデュースを生業としてきた経験を活かして「説教者」になる覚悟である。
多くのアーティスト(音楽家・画家・陶芸家など)と接してきた中で、
感情の発露はどのようにして生まれ、喜怒哀楽はどのようにして
コントロールされていたのかを知っているからである。

そして数多くの経営者とも話をしてきた結果を、あとから来る者たちへ
真実を伝えたいのである。人々は金儲けの技術を教えたがるが、
私はもっと根本的な人間性の質を上げるためには、
どうすればよいかを説教したいのである。

いわゆる「人間力」を高めるための説教である。

幸いにして「耕心塾」で説教しても良いとお誘いがあった。
岐阜県にあるお寺の中で悩める若者を中心に説教するのである。
畑を耕し、心を耕し、人を耕し、国を耕す「寺子屋」の塾である。

様々な人生経験をしてきた稲葉瀧文が渾身の力を振り絞り説教をします。
覚悟はよいか悩める若者達よ!
魂をつかみに行きます。