幹ではなく枝の思考




先日の投稿「写真家の哲学的思考」でも森鴎外の「舞姫」のことを書きました。
私は以前東京上野の「水月ホテル鴎外荘」へ何度か行った事があります。
森鷗外が実際に住んでいた旧居や庭園が敷地内に保存されている、
由緒のあるホテルです。ここで「舞姫」を書き上げたとも言われています。

そこには鴎外が帰国後に執筆活動の時に使っていた部屋が中庭に面してあり、
食事をしていた蔵もありました。私は女将の中村さんと面識があったので
そちらで食事をした事が三度ほどあります。
コロナの為に2021年に一度閉館をしたのですが、クラウドファンドで1200万円集め、
再建に望んだのですが、依然としてコロナで客足は戻らず、2022年8月完全閉店を
余儀なくされました。

何故このような由緒ある建物を東京都は保存の対象にしなかったのか残念です。
文化・伝統を大切にしてきた日本人が、このような施設の保存に無関心なのは
何故だろうか、東京オリンピックの時に江戸の基軸であった日本橋の上に
首都高を走らせた。誰がどう考えても政治家の文化意識の低さを嘆くしか無い。

日本人は2種類に分かれている。
文化芸術を創造し後世まで伝えようとする支援タイプと、
文化芸術は飯の種にもならない暇人の遊びだと考えている低俗なタイプである。

英国にいたときに通訳の人から聞いた話がある。日本人の政治家や経営者の方々に
時間のある時に大英博物館やお芝居など見られてはどうですかと声をかけると、
大半の人が、文化芸術には興味が無いと答えるそうです。
欧米では地位のある人が文化芸術に関心が無い人は絶対にいません。

彼らから日本人に質問をされることがあります。
「歌舞伎と能楽は何が違うのですか?」「茶道と華道の大切な作法は知っていますか?」
「浮世絵の北斎や広重はどのような方ですか?」「相撲は見たことがありますか?」
誰も何も答えることができません。あなた本当に日本人ですかと笑われてしまいます。
そしてもう一つ大事な質問があります。「あなたの信じている宗教は何ですか?」
私は宗教に興味がなく無神論者です。
この答えを出す人は欧米人からすると野蛮人だと思われてしまうのです。

ベアーテ・ヴォンデ(独)さん言葉に、私は学者ではないですし、一つのことを
掘り下げるよりもいろいろなことに興味がある。
「木の幹よりも枝なんです」ね。これまで日本語を習い、演劇を専攻し、
文学は常に私の中心。歴史の調査にも興味がある。
それらの希望を全て実現できるのが森鴎外記念館でした。

森鴎外は軍医が本職でしたが、隣には常に別の世界がありました。
文化的、思想的な世界です。両方あると、いつでもどこかに逃げることができます。
彼は軍医の仕事をこなしつつ、文学に勤しみ、本職でない方で有名になりましたよね。
実際、今も生きた存在であり続けているのは文学のおかげだと思います。

鴎外は初めて腸チフスのワクチンを行ったり、最初の衛生雑誌を出したり、
医学者として良いことをたくさんやっています。同性愛や性教育についても書いており、

私はまだ研究したいテーマがいっぱいありますよ。

鴎外のすごいところの一つは、同じ問題について専門家同志のために学術的に
書くと同時に、一般の人にも分かるように適切な言葉で伝えられたこと。
例えば、牛乳を飲んだら健康に良いか悪いかを衛生雑誌で学問的な記事を書き、
同時に読売新聞に誰でも分かる記事を寄稿したのです。

今のコロナ時代を鴎外はどう考えたかなと思います。
彼の時代には脚気の問題がありましたが、未知の病気の究明には数十年かかることも
あります。後からこれはダメ、あれは間違いだったと言うのは簡単ですが、
もっと過程を見るべきだと思います。

もし鴎外が1日だけ今の時代に遊びに来ることができるなら、
聞いてみたいことがたくさんありますね。

「他は是れ吾にあらず」
日本曹洞宗の開祖であり、福井県の大本山永平寺を開いた禅僧でもある、
鎌倉時代に日本から中国へ海を渡った道元禅師(どうげんぜんじ)が、
留学先の寺院で出会った禅語「他は是れ吾にあらず」である。
中国に留学中の若かりし道元禅師が、ある夏の日、寺の廊下を歩いていたときのことである。
空には真昼の太陽が高く上がり、辺りを容赦なく照らし焦していた。

ふと、目線を中庭に移すと、直射日光を浴びながら黙々と瓦の上に椎茸を
干している年老いた僧の姿が目に映った。
さぞかし老身にこたえる仕事のように見えた。
心配になった道元禅師は、近づいて声をかけた。
「失礼ですが、あなたさまはおいくつですか?」「68歳になる」
「それほどまでに修行を積まれた方がこのような身にこたえる仕事をせずとも、
もっと若い修行僧に任せたほうがよろしいのではないでしょうか?」

日本からやってきた道元の頭には、食事の準備というような仕事は
若い僧が行うことだという思いがあった。
当時の日本では食事は下っ端の仕事だったからである。
だから老僧が汗水を流しながら椎茸を干す姿が不憫に思えてならなかったのだろう。

すると老僧はこんな言葉を返した。
「誰かにやってもらったのでは、自分でしたことにはならんからのぉ」
これが「他は是れ吾にあらず」という禅語の意味である。
他人がしたことは、自分でしたことではない。
当たり前の、それだけの言葉なのだが、これはちょっと奥の深い言葉なのだ。

誰かがしたことは、誰かがしたことなのだから、自分でしたことではない。
私たちはこれを当たり前のことと思うが、時にこれが当たり前ではなくなることがある。
他人が代わりにしてもいいのではないかと、「自分」というものを思考の外に放って
しまうことがある。
ちょうどこの年老いた僧に声をかけた時の、道元禅師のように。

道元禅師の思いは、「椎茸を干す」という行為に焦点を当てていたのであって、
「老僧が何をするか」に思いをめぐらせていたわけではない。
しかし、老僧にとって重要だったのは、「自分が何をするか」であって、
「誰が椎茸を干すか」ではなかった。「自分が」椎茸を干すことに意味があるのであって、

「椎茸を干す」ことだけが目的なのではなかったのである。

自分で自分の本分を全うすること以上に、大切なことなどない。
それが禅の根本であることを、暗に道元禅師に伝えたのだろう。
もちろん道元は、老体に気を遣って声をかけたに違いない。
しかし、本当に気を遣うとはどういうことか、老僧は逆に道元禅師に伝えたのだ。
相手に楽をさせることが、必ずしも気遣いではないのだと。

椎茸を干すことが目的なら、それでもよかったのかもしれない。
しかし、日常生活のすべてを修行として行うことを重んじる禅にとって、
そうした考えは邪であると言わざるをえない。
修行を取り上げるような声かけは、禅において親切とはいえない。

誰かが修行をして、それで自分が成長するはずなどないことを知っていながら、
それでも誰かにしてもらえばいいのではないかとの思いを、私たちは抱くことがある。
しかしそれは、本当にその人のことを考えた上での気遣いではない。
気を遣うとは、その人にとってどうすることが本当にその人のためになるかと考えて
行うことであって、単に楽をさせることではないからである。

「他は是れ吾にあらず」
他人は自分ではない、という単純で当たり前な、しかし奥の深い禅の言葉です。

海外の名もなき人達は国籍を問わず「凄い人は凄い」と認める寛容力を持っている。
外面だけで人を判断するのではなく、内面まで窺(うかが)い知る洞察力の深さである。
私はベアーテ・ヴォンデさんのこの言葉が気になった。
私は学者ではないし、一つのことを掘り下げるよりも、いろいろなことに興味がある。
「木の幹よりも枝なんです」学者は幹を研究対象にして探求者は枝を探り当てる。

私も「恩学」で書き続けているのは、学者でもないし研究家でもないので
「幹にはならず枝の部分」で文章を書き続けているだけです。
気になる文章や、気になる話題や、気になる事柄を、文化・音楽・スポーツ・科学・
政治などと脈絡もない文章ですが、読む人の心に何かに火がつけば良いとしています。

思考の粒を広げて平面にするのは皆様です。
「他は是れ吾にあらず」学びも自分で行わなければ意味がありません。
森鴎外もベアーテ・ヴォンデさんも道元禅師も他人任せでなく、
好奇心に応じて自らが追求してきたのです。

私もこれからも怠けずに自分の出来ることは自分で行います。