話を聞く




私たちはどれだけ相手のことを知り話をしているのだろうか?
話の中心は自分ではなく相手なのに一方的に話し続ける。
良かれと思った話題でも自分中心だと相手の心は遠ざかる。
自分は知っていることを話しているのだが相手にとっては皆目見当がつかない。

自分の知り得た情報と知識が全てだと勘違いをして話しかける。
相手のことを無視して相手もきっと知っているだろうと勘違いをしたままである。
言葉の選び方も完全に間違っている。自分が専門的に使っている言葉を、相手の気持ちも
わからずに使うと全くコミュニケーションが取れないままの状態になる。

話をする段階がある。最初は当たり障りのない共通の話題から入る。
その反応を見て少し専門的な話に持っていく。ここで相手の表情を見て理解できて
いるかを知る。相手の経験や仕事の知識から説明に笑顔が出れば、投げたが言葉が
着実に届いたことになる。届いたことが確認出来てから初めて本気で語り合えばよい。

大愚和尚:お釈迦様は教えを説くのに、
「決して人々が分からない言葉で語ってはならない」としました。
35歳で悟りを開かれてから、80歳で亡くなられるまでの間、ずっと人々の苦しみを
聞いてアドバイスをなさった。

その際お釈迦様は、自分が話している相手の能力、
育った環境や背景を見越した上で、その人に伝わるような例え話を出したり、
伝わるような順番を考えたりして、お話をされたといいます。
画一的なお説法をしたわけではないんですね。

これを「対機説法(たいきせっぽう)」というのですが、相手を見て、
自分の伝えたいことを伝える。これがお釈迦様のお説法なんです。
(「対機説法」:相手の資質に合わせ、理解ができるように教えを説くこと。)

大愚和尚:お釈迦様は、お弟子さんが「言葉巧み」であることを、
ものすごく奨励されたんです。真理を人に伝えたいのであれば、伝わらない
話し方ではダメだと。話し方の順番までこだわられたのには、
「伝えたい」という強い思いがあったからです。
 
仏教というのは、お釈迦様が一人ひとりに合わせて、それぞれの苦しみを救って
こられたというエピソードを、側近の弟子が人生をかけて聞き取り、記したもの
なんです。
「いつ、どこで、誰に対して、お釈迦様はこんなことを語られた」という
エピソードが、お経なんですよ。
 
そのエピソード集であるお経を、後の人が調べていく中で、その中に共通した
考え方を見いだして体系立てていったのが「仏教学」です。
お釈迦様という方は、何かを書き記したり、残したりしたわけではないんですね。
会う人会う人、皆さん一人ひとりに対して、その苦しみに合わせてお話を続けた。
コミュニケーションの人だったんです。

大愚和尚:それはお経も同じです。私たちは直接お釈迦様にお会いすることは
できないわけです。ですから私たちにとって、お釈迦様の教えというのは、
全て「経典」なんです。つまり、文字として書かれたものです。
お釈迦様は書を残していません。ただそばにお弟子さんがいて、
そのエピソードを私たちが分かるような形で残してくれた。
お弟子さんたちの巧みな文章術、つまり「型」がなければ、仏教の教えは2600年の
時を超え、民族を超え、国境を超えて、日本にまで伝わってこなかったかもしれません。
 
「般若心経(はんにゃしんぎょう)」にしてもそうですが、この文章の
「型」というのが、ものすごく美しい。文字の配列、言葉の音、一つの作品なんですね。
語り継がれているのには、書き記したお弟子さんの文章術の巧みさがあったわけです。
(「般若心経」:膨大な般若経の内容を簡潔に表した経典。1巻。日本では
「色即是空、空即是色」の句のある玄奘(げんじょう)訳が読経用に広く
用いられている。)

大愚和尚:コミュニケーションの基本について皆さんにお話しするときに、
大事な原則があるんです。それは概念ではなく、体感をしていただくということです。
 
例えば、研修会や勉強会でコミュニケーション力や対話力について話をするときには、
実際にキャッチボールをするところから入ります。

質問者:「会話はキャッチボール」であることを、体感してもらうためですね。

大愚和尚:本当に何かものを投げようと思ったら、相手がそれを受け取る準備がないと
いけません。相手が受け取らなかったら、キャッチボールは成立しませんからね。
でも、私たちは会話のキャッチボールにおいて、「言ったでしょ」と相手を責める。
相手は全く受け取っていなかったり、受け取る準備が整っていなかったりしてもです。
もしくは投げる側が、受け取れないところに投げたり、すごいスピードで投げたり
している場合もあります。
 
特に、近しい人、親子、夫婦、同僚、友達だと、「分かってくれるでしょ」といって、
ひどい球を投げてしまいます。そして受け取ってもらえなかったことに対して、
怒ってしまうんです。

質問者:「あの人は分かってくれない」というパターンですね。

大愚和尚:やっているのはそういう滑稽なことなのだと、物理的なキャッチボールを
すると分かるようになる。言葉のキャッチボールだと、自分と相手には違いがあるのが
当然だということを忘れてしまうんですね。それはボールと違って、言葉に対して
しっかりと意識が向いていないからなんです。これが英語などの普段使わない言葉で
あれば、自分の言葉を吟味して話せるんですけれど、自然に使える日本語だと、
使いこなせているという錯覚を持つんですよね。

質問者:「慣れている」ことと、「きちんと使えている」ことは、別の話なんですよね。

僕も日本語には慣れていますけど、じゃあ、僕たちの本に書かれてあるルールを
守って言葉を使えているかといえば、そうじゃないことがたくさんあります。
だからこそ、話し方の本、書き方の本が必要なのでしょうね。

大愚和尚:学校に国語という科目はありますけれど、「こういうことを伝えるために、
こんな『型』がある」ということは、話し方においても、書き方においても、
教えてもらいませんからね。
<仏心宗大叢山福巌寺住職大愚元勝>講話一部抜粋

顧問先の会社や専門学校の理事として私は時々会議のファシリテーターを
頼まれることがあります。
会社の会議では顔見知りの方たちばかりなのでいきなり本題から始まりますが、
色々な人たちの集まりの場合にはアイスブレークから入ります。

私は「長さ千切り」「ボール回し」という手法をよく使いました。
用意するのは新聞社やボールです。会議室の机を隅に寄せて円陣を作ります。
ここから共同作業がスタートします。

各グループに新聞紙を渡して一人が新聞紙を千切り、次の人へ渡していきます。
そしてまた次の人へ回してどこまで長くちぎれたかを競うものですが、新聞紙を
短冊状に千切るのは大変で途中で切れて各グループから笑い声が聞こえてきます。

またボール投げは人数にもよりますが各人に動物の名前を付けて、
名前を呼びながらボールを回していきます。これを投げる時間をどんどん短縮して
いくと、最後は大笑いの内に和やかな雰囲気になります。

そうして会議を始めます。

心を緩ませることによって緊張感が取れます。
緊張感を緩めながら本日のアジェンダと成果目標を発表します。
ここでファシリテーターとして大切なことがあります。
絶対に「教えない・仕切らない・まとめない」を守ることです。
これは新潟の人材育成の会長さんから教えていただいた話です。
特に子供たちの育成には鉄則だと言われました。

ファシリテーターがルールを威圧的に伝えると、その時点で参加者が意見を言うのを
控えて他人任せになります。参加者の意見を引き出すのが務めなのに歯止めをして
しまうのです。注意しましょう。

昨今、「傾聴」という言葉をよく聞くようになりました。
他人の発言に耳を傾けるという事ですが、自分の意見を持って聞かなければ
意味がありません。先ずは自分の主張を持って他人の意見を聞きましょう。