耐えるところから




幼い時に寺の住職から言われた言葉です。
「真珠はな、あこや貝の稚貝が石ころを飲み込んで、貝殻やサンゴの破片を飲み込んで、
痛さに耐えて時を経て光り輝く真珠になるのじゃ。
お前も人生の試練を早くから経験して、それに耐えてこそ立派な人間となるの
じゃ、頑張れよ」
子供の時に不遇だった自分の人生を嘆いていた時にかけられた言葉でした。
絶対に不幸だからと言って悪の道には入るまい、
この不遇を活かして成功するのだと決心した瞬間でした。

私たちの時代は未だ儒教の「男女席を同じにせず」の風潮が残っており、公で恋愛を
することはありませんでした。目を合わせるのに一年、会話するのに2年、手を
握るのに3年はかけていたのです。そのためにハイネやゲーテ、北原白秋、などの
詩集を購入して自分なりの表現を探したのでした。

その当時流行ったのが「交換日記」です。クラスの思いを寄せた人へ
お願いをして「交換日記」をしたのです。
友達も親も知らないところでの秘密のやり取りは、まるでシェークスピアの演劇の
主人公になったようでとても興奮しました。
人を愛するとは気持ちを抑えて耐えるところから始まるのです。

山本常朝「葉隠」忍ぶ恋(しのぶこい)

「恋死なん、後の煙にそれと知れ、つひにもらさぬ中の思ひは」
恋い焦がれたまま死のう。最後まで告白しなかった胸の内は、自分の亡骸を焼く
煙を見て、それと知ってください。

忠=真心」+「義=正しい行い」=真心をもって正しい行いをすること、
正しいと信じる事に真心をもって尽くすこと、というような意味合いになります。
むしろ、主君が間違った方向へ進もうとするなら、命をかけてお諫(いさ)めする
ことこそ「忠義」本来の意義であって、主君への盲信などは、媚びへつらい
として嫌われていたようです。
そういう視点を持ってみた上でこの和歌を読んでみると、「忠義」というものが
ほんの少し身近に感じられたりしませんか?

「好きな家族のために」とか「愛する人のために」とか、時には「仲間のために」、
「自分の属する組織のために」、そして「故郷のために」など、偶然か必然か、
自分が属する世界や、その中にあるものを守りたいというような感覚は、
誰にも少なからずあるものでしょう。

そういうもののために「何かしら役に立ちたい!」と思うこと。
絶対的主君とその家来という関係の中ではなく、もっと根本的な「愛」の中に
本来の「忠義」はあるのだと思います。

偉大な芸術家や作曲家も耐えるところから作品を作り出していたのです。

モーツァルトの例え
「交響曲第3番変ホ長調」は、モーツァルトの作品だとされてきましたが・・・
1912年他人の作品を移した写譜だということが判明しました。
ロンドンで出会ったカール・フリード・アーベルの作品でした。
同時代の作家を写譜したのは、インスピレーションを高めるためで、
一生努力していたようです。

どんな曲でも真似したり、自分のものにできる・・・色々な場所で、多くの作曲家の
影響を受けるモーツァルト。
ロンドンでは他に・・・ヨハン・クリスティアン・バッハに夢中に。
パリではヨハン・ショーベルトの曲を研究。
イタリア・ボローニャでは、マルティーニ神父と出会い、彼の収集している膨大な
楽譜を研究しました。

後にモーツァルトは・・・
「旅をしない人は、全く哀れな人間です
 凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと凡庸なままです。
 でも、優れた才能の人は、
 (僕自身それを認めなければ、神を冒涜するものです。)
 いつも同じ場所にいれば駄目になります。」
と言っています。

モーツァルトは、貪欲に研究し、絶え間ない努力をしていたのです。

伊東若冲の例え
「若冲が個性的というのは、誰もが感じられることだと思いますが、どれほど
個性的だったのか理解しようと思ったら、彼が何を参考にして自分の絵をつくって
いったのかを知る必要があります。ふつう模写をすると、模写の絵は死んでしまう
のですが、若冲が模写すると原本よりも生き生きとしたものになる傾向があります。

それは、自然を生命力のあるものとして描きたいという気持ちが若冲にはあって、
それが模写をしても彼の絵に現れてくるのだと思います。若冲の絵は、ニセモノを
つくるのがとても難しいんです。マネして描こうにも、肉眼でできる最大限の細かい
描き込みがあるからです」

青物市場の裕福な問屋の跡取りとして生まれた若冲は、40代で家督を弟に譲るまで、
家業を継いで働いてもいた。マーケットの、生き馬の目を抜く世界でのストレスを、
現実にはない美を追求することで、若冲は精神のバランスをとっていたのではないかと
考える。

山本常朝「葉隠」の例え
万治2年(1659)生まれの佐賀藩士で、「葉隠」の口述者。通称神右衛門。童名不携。
市十郎、権之丞とも名乗った。佐賀藩士山本神右衛門重澄が70歳の時、その末子として出生

。重澄は中野神右衛門清明の3男で山本助兵衛宗春の養子となり、山本家を継いだ。

幼少の頃の常朝は、20歳以上は生きながらえることはできないだろうといわれるほどの
虚弱な体格の持ち主だった。しかし、臨終の病苦に耐えて呻き声を出さなかったほどの
剛の者の父重澄は7歳の常朝に武者草鞋をはかせて、小城市三日月町の勝妙寺までも
墓参に赴かせるほどのスパルタ教育を行なった。

常朝は9歳で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側小僧になり、次いで小々姓、成人後は
御傍役、御書物役となり、光茂に近侍した。
その間、儒教、仏教の造詣深く、当藩第1の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之の薫陶を受けた。

一鼎は、そのころ松梅村下田(佐賀市大和町下田)に閑居していた。

また、同村松瀬の華蔵庵にいた禅僧湛然にも師事した。元禄13年(1700)藩主光茂が
没すると、常朝は出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠棲した。
佐賀藩士田代又左衛門陣基がその庵を訪ね、宝永7年(1710)から7年間をかけて、
常朝の談話を筆録したのが、「葉隠」の中核となった。
常朝の法名は旭山常朝、墓は、佐賀市八戸の龍雲寺にある。

ワンピースの例え
大人気の『ONE PIECE』で知られる尾田栄一郎さんが「嫉妬した漫画」について
取り上げた。尾田さんの出演はならなかったが、アンケートに直筆で回答してもらえた
ことによりその作品が明らかとなった。

尾田さんはネットで面白そうな漫画を調べては購入して読むという。
原稿の締め切りが迫っていたある日、気分転換に1、2巻読むつもりだったところ
「全巻読んでしまって、こっちが原稿を落とすところだった」
「グイグイ引き込むんじゃないよ! 冗談じゃない!!」とまでに彼を夢中にさせた
作品こそ、新川直司さんの『四月は君の嘘』だった。

「雰囲気のある1カット…次のコマに目をやるのがもったいないくらいイイ」と
絶賛するこの漫画は、神童と呼ばれる中学生ピアニスト・有馬公生と同い年の
ヴァイオリニスト・宮園かをり、2人の恋と音楽家としての成長を描いたもの。
なかでも尾田さんは「聞こえる音楽、漫画の苦手ジャンル“音楽”の表現がまあ見事」と
ヴァイオリンの音色を絵で表現した1カットを示した。

日本のみならず海外のファンも多い『ONE PIECE』の尾田栄一郎さんがその表現力に
嫉妬したのだ。「『四月は君の嘘』公式(shigatsuhakimi)ツイッター」では、
放送後に原作担当者が「尾田栄一郎先生が嫉妬した作品として紹介されました!!」
「それにしても、話を伺ったときにはびっくりしました」と明かしている。

最後に「鋼は叩かれて名刀になる」例え
私のところへ沢山の相談事が持ち込まれます。その中でも多いのが中小企業の社長さん
だった。ある時経営不振から倒産を余儀なくされた社長さんがお見えになりました。
私は詳しい事情を聴いてから一言「善かったですね」と答えたところ社長さんは
激怒されました。毎日・毎夜借金取りが押しかけてその対応に苦しんでいるのに
何が「善かったですね」だと興奮して席を立ちあがりました。

もう一度席に戻っていただき同じ経験をした私のいきさつを詳しく話をして、
最後に「鋼はハンマーに叩かれて名刀になる、叩いているハンマーは幾ら叩いても
名ハンマーにはならない」。今は叩いている人に「ありがとう」と言葉を伝えるだけで
いいのですよ。「ありがとう」と言われたら取り立てに来た人も、返済で追い込むことは
しなくなります。社長さんは涙を流して笑いながら帰っていきました。

耐えるところから人生が磨かれます。みなさまも耐えてより良い人生をお過ごしください。