見つめる目(心眼)




『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明

「悪い音は誰でも聞き分けられるけど、いい音を聞き分けるのは、
そのための耳を磨いておかなければできない」稲葉瀧文

「人の欠点は誰でも感じられるけど、長所を感じるには、
そのための心を磨いておかなければならない」恩学

「真・善・美」という言葉があります。

「真・善・美」(しんぜんび)の意味は、“人間が生きる上での理想の状態を
3つの言葉で具現化した表現”です。人間としての最高の状態が「真と善と美」の
樹立であるとするものです。
「真」とは、うそ・偽りでないこと、真実、誠意を意味します。
「善」とはよいこと、道徳的に正しいことの意味を持ちます。
「美」とは、美しいという意味とともによいこと、価値のあること、
また調和の状態を表す意味があります。

「真・善・美」は学問の目的としての普遍的な価値を意味する言葉でもあります。
「認識上の真・倫理上の善・審美上の美」と整理され、
それぞれ「論理学・倫理学・美学」における主題とされます。
さらに「真善美」は、相互に関連しあう統一的な価値として、学問全体の究極的な
目的として追究される概念でもあります。

「お 魚」
海の魚はかはいさう。
お米は人につくられる、 
牛は牧場で飼はれてる、 
鯉もお池で魅を貰ふ。 
けれどもうみのお魚は 
なんにも世話にならないし 
いたずら一つしないのに 
かうして私に食べられる。
ほんとに魚はかはいさう。
 (『金子みすヾ詩集』 より)

この詩は、近年注目をあびている金子みすずの代表作の一つである。
食卓にのぼったお魚の生命を思いやる心は、私たちにズシンと響いてくる。 
何事にも常に相手の身になって考え、奥深いところ(心眼)から
あたたかいまなぎしで見つめる時、思わずわきおこってくる世界である。
あまりに豊かな暮らしからは感謝の念が生まれにくい。

我がままでエゴ的な世情にあって、とかく私達が忘れているもの、
それは、あたたかい思いやり、慈しみの心である。 
人間だけに生命があるのではない。
石ころにも草花一本にも森羅万象全てに、生命の通じ合いを感じていきたい。 

今、私達にとって何が大切なのか、心眼でしっかりみつめ、
思いやりの心をもって、あまねく一切に只々尽くしていきたい。 
悠久に続く生命の為に。

『心眼を得る』 ダグラス・E・ハーディング

バーナデット・ロバーツの『自己喪失の体験』という本をご紹介しました。
それは、文化伝統のなかに“悟り”という現象に対するいわば免疫がなかった
(当時)キリスト教圏内で起こった、覚醒体験の報告とも言える本でした。

あまり類書のない本として紹介したのでしたが、今回ご紹介しようと思うのも
じつはキリスト教圏内で起こった覚醒体験であり、その後の著者の奮闘の記録です。
このダグラス・E・ハーディングという方は、33歳のときヒマラヤを歩いていて、
いわゆる禅語でいう“見性(けんしょう)”をします。

自分が何者かを“見る”(知る)わけです。真我を垣間見るんですね。
ま、悟ったわけですが、ただ、西洋の方なので、自分が“見た”ものを
確証してくれるような人がまわりにいないんですね。

ダグラス・E・ハーディングと言えば、今ではウェスタンのスピリチュアル
世界ではとても著名な方らしいですが、当人がこの体験をしたときは、
まだ大学生で、むろん、まったく無名の存在です。
当たり前ですね。(^^;) 言いたかったのは、当人が自分の体験を
相談できるような相手が彼のまわりにはまったくいなかったということです。
そのため、彼は自分が足を踏み入れた世界と、そのなかでの自己探求の道を、
まったく自分ひとりで、独自の探求で切り開いていかなければならなかったわけです。

後に、彼はそれを「無頭道」と名づけたそうです。
いまでは、彼に“斬首”されて頭を失った方が、世界中に万人のオーダーでいる
みたいです。 もっとも、頭を切り落とされた方が、そのことに気づいているか
どうかはまた別ですが。

ハーディング氏が西洋文明のなかで独自に切り開いた「無頭道」の観点では、
誕生後の人間は「八つの階梯」のどこかに位置することになります。
すなわち、 (1)頭のない幼児 (2)子供 (3)頭のある大人 (4)頭のない
見る人 (5)頭をなくす修行 (6)前進 (7)関門 (8)突破 の八つです。
この「八つの階梯」の叙述もじつに秀逸で、ハーディング氏がひとりで歩んだ探求の
道がどのようなものだったのかが推測される感じです。

見性は仏教僧だけが得られる悟りの極意かと兼ねてから思っていたのですが、
キリスト教やイスラム教の信者には経験として得られないものかと思っていたのです。

やはりそのような経験をした人がいたのですね。

「心眼は自分が何者かを見る目として紹介されています」

庭の掃除をしていた時に箒で飛ばされた石ころが木に当たった音を聞き、
悟りを得た人や、桜の花咲く瞬間に目の前がひらけて悟りを得た人もいます。
人は情報過多により真実を見る目を失っています。
ある意味無頓着になっているのです。見ているようで見ていないし、
考えているようで何も考えていないのです。
それではいつまで経っても「心眼」を得ることはありません。

「正法眼」とは、正しい法の眼、すなわち真理が見える心眼のこと。
「蔵」とは、それを納めておく蔵のこと。「涅槃」とは、不生不滅なる
安楽円寂の世界。「妙心」とはその心。「実相無相」の実相とは、ありのままの
姿のことであり、その実体は無相であるということ。
「微妙の法門」の「微妙」とは言葉で説明尽くせない境涯のこと。
「不立文字、教外別伝」とは、文字通り文字にも言葉にも表現できない境地のこと。
つまり「微妙の法門」は正に不立文字、教外別伝だからこそ、”心を以って
心に伝える”以外にはなかったのです。

見つめる目とは、心を開き素直に飛び込んできた景色を、言葉を受け取る力です。
我々はついものごとを見る時に情報に左右されてしまいます。
そこにあるままの素直な姿(形)を頭で見るのではなく、
心で見るように心がけてください。

『悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、
そのための目を磨いておかないとできない。』黒澤明