気づきと目覚め




教育から受ける知識と経験から学ぶ智慧がある。
知識は生きていくうえで不可欠なものであり学問に励まなければ得られない。
智慧は個人が何らかの影響を受けて問題を解決した時に得られるものである。

社会に出て仕事を覚えていくにも知識がなければ上司の指示の意味が理解できない。
大人の常識と言われるマナーから専門的な分野まで実行できる者が出世していく。
中には勘違いをして一流大学出身とか親の七光りで偉そうにする人もいる。

しかし知識は過去の学問であり未来に対応できるかは別問題である。
様々な経験や苦労を重ねて成功した時に初めて知識が自分のものとなる。
知識を得る方法は年齢に関係は無く好奇心があれば死ぬまで学び続けることが出来る。

智慧は「おばあちゃんの知恵」など代々受け継がれるものが多い。
農家には農家の知恵があり、漁師には漁師の知恵があり、林業には林業の知恵がある。
食物や家具・食器・着物まで無駄をなくしてエコとリサイクルで活用してきた。

明治に入り始めて女性が教育を受けることが許可された。
それまでは嫁いだ先の姑から口伝で女性の学ぶべきことを教えてもらった。
武士の家にまつわる仕きたり、裁縫、料理、子育て、中には和論語や薙刀の訓練もした。
勿論、専門のお師匠さんから習ったものを、その家なりの家風として伝えていくのである。

「当時の女にとって、家庭は教室でもあり、職場でもあり、哺育所でも、養老院でもあり、
いっさいを意味していました。女たちはそこで子供を育て、年寄りをいたわり技能を習得し
鍛錬もされました」山川菊枝「武家の女性」より

ユダヤの聖典タルムードも先人たちが経験した事柄や、人間関係、取引での問題解決の
方法など、民族が受け継がなければならない大切な教えが書かれている。

タルムードは、ユダヤ教の口伝律法と学者たちの議論を書きとどめた議論集で、
古代ヘブライ語で「学習」「研究」を意味する。

*「最悪なことが最良のことだと、信じなければならない」
(悪いことが重なっているように見えても、人知の及ばないところで、
もっと悪い事態から救われているかもしれない)
*「金がありすぎると人間は、獣のように警戒心が強くなるが、
金がまったくないとなりふり構わない本当の獣になる」
(ユダヤ人が経済的に成功するのは、何世代も知恵を伝承してきたからである)
*「今日あなたは、穀物倉庫を見て、穀物の量を数えようとした」
 その瞬間からあなたは神から見放される。
(ユダヤ教では、お金や物など、「数えられるもの」には幸せは宿らない、
「これだけ儲かった」と考えた瞬間に、神の庇護がなくなるとし、
「お金儲けに一喜一憂すること」を明確に戒めているのだ)
タルムードより

AIが知識を担当する時代に入った。
単語を検索する時代から文章を検索する時代に入ったのである。
今、はやりのChatGPTやGoogle Bardを使えば卒論から企画書、提案書まで、
誰でもが瞬時に作成できるのである。

智慧の役割はデーターには無い情報の裏読みと判断である。

アメリカの大統領室が会議で取り入れているのが、OODA(ウーダー)という
戦略的会議の進行スタイルである。
ObserveのO、情報収集をして、OrientのO、状況判断をして、
DecideのD、意思決定をして、ActのA、実行に移る。

それまではPDCAが主流だった。
PlanのP、計画をして、DoのD、実行をして、CheckのC、測定・評価をして
ActionのA、対策・改善をする。検証型プロセスを循環させ、
マネジメントの品質を高めようという概念。

時代が変わり、これまでのようなやり方で企業なりの理想を描いても、
顧客も市場も受け入れることは無い。
企業の一方的な生産性を高めるための方程式は通用しなくなったのです。

昔CIAの友人からCIAの意味を知っているかと尋ねられた。
セントラル・インテリジェンス・エージェンシーと返答したところ、
セントラル・インフォメーション・エージェンシーだと教えてもらった。
インテリジェンス(知識)は調べれば誰でも手に入ることであり、
インフォメーション(情報)は集め方と使う人によって価値が変わる。

大切なことは知識ではなく新鮮な情報だということです。
新鮮な情報は智慧と組み合わせれば最強だということです。

気づきによる目覚めが大切になる時代です。
今日あなたはいくつの気づきがあるでしょうか?

子供の知能マルセル・ジーバー




以前この投稿を見て感動したのでそのまま文章を掲載します。
長文ですがお読みください。

ウガンダの子供たちは出生48時間後には、腕を支えるだけでまっすぐに座り、
首はすわり、背中はピンと伸ばしていました。
赤ちゃんは母親をまっすぐに見て焦点が定まり、にこにこと笑って、
顔は知性に輝いていました。

生まれる前の赤ちゃんは母親の子宮います。
羊水の中は静かで体温と同じ温かさで安全で栄養と酸素が与えられて
なんの心配もいらない天国の状態です。

この世に生まれるということは、子宮という天国と極楽から追い出さられることを
意味しています。病院での出産は赤ちゃんには強いストレスを与えます。

眩しい手術用の照明は赤ちゃんの目にはまぶしく、焼けるように感じます。
騒がしい声が飛び交う分娩室は耳をつんざく轟音に聞こえます。
そしてすぐに切断されるへその緒は脳にダメージを与えてしまうのです。

同じように猿で人間と同じスタイルで生まれた新生児は呼吸困難に陥りました。
自然界の猿は生まれてすぐに母親にしがみつき、数時間後には歩けるようになります。
自分の足で立ち、辺りを飛び跳ねます。
ところが現代医療をほどこした猿は母親にしがみつくことも出来ず、
自分の足で立つこともできませんでした。
母親は麻酔でぼうとなっていて赤ちゃん猿を助けることも出来なかったのです。

近代文明の病院ではよく赤ちゃんに蘇生手術をほどこします。
麻酔でぐったりとした新生児の足をつかみ逆さまにして
叩いて呼吸を回復させようとします。
20%の子供に目立たない脳の損傷がみられ、
それが原因で学習と行動に問題をきたしていました。

シドニー大学の2017年の調査では出産後すぐにへその緒を切らないと、
2歳になるまでの死亡率が30%減少し脳性麻痺・視力喪失・難聴・発話障害などが
17%減少していました。

未熟児は早急に医療処置が受けられるようするために、
出産後すぐにへその緒が切られるのが一般的です。

けれど乳幼児は胎盤からへその緒を通じて母親からの血液に含まれる赤血球・免疫細胞・
幹細胞などを受け取って病気への感染抑制をしているのです。
臍の緒は抱かれて丁度お乳を飲めるくらいの長さになっています。

自然出産とテクノロジー出産の赤ちゃんは対照的です。
テクノロジー出産の赤ちゃんは臍の緒を切られて母親から離されます。
感覚遮断された保育器の中で孤独にされます。

人生最初で最大の出生経験で疲れ果てているのに
保育器の中で泣いても誰も答えてくれません。
泣いても誰も答えてくれないと赤ちゃんは刺激に反応しなくなります。
泣いても無駄なことをすばやく学習してしまうのです。

天国は失われて二度とあのような状態は望めないというメッセージを
赤ちゃんは受け取ります。生まれてきたこの地上界は好意的ではないのです。
そして無意識の中に敗北感・困難に対する自信の喪失感が刷り込まれます。

ウガンダの母親は、赤ちゃんが生まれる5分ほど前まで日常の仕事をしています。
出産間際になると一人になってしゃがみ込み赤ちゃんを産んだのです。

母親は、裸の胸にぶら下げた吊り帯の中におしめもつけずに赤ちゃんを入れました。
母親はたえず、さすり撫で、唄い絶対に赤ちゃんと離れることはありませんでした。
母親は胸に抱っこして、いつも、つれて歩くので、
赤ちゃんは絶えず裸で母親と接触して皮膚の刺激を受けていました。
常に赤ちゃんは母親のマッサージを受けていたのです。

そしてスキンシップが低い赤ちゃんは大人になった時にパートナーに対して不人情で、
自己中心的で、やさしさに欠け、他人に対しては、
社交性に欠ける傾向があるということでした。

愛と思いやりを充分に受けて育った世界中の子供たちは、人生に対して肯定的で聡明、幸福、社交的、多才、柔軟、健康で適応性に富んでいました。

修己知人




権力を行使する人が学ばなければならない学問が「帝王学」である。
帝王学の基本は「正しく己を修めて人を治める」である。

身を正して人民の手本となればおのずからと国は収まるのです。
あらゆる経営者にも通じる人間学が書かれています。

今までに、柱がまっすぐで影が曲がり、
上に立つ者が治まって下民が乱れたことがあったためしはない。

私はいつもこういうことを考えている。
人がその身を破壊するのは、その原因が外部から来るのではなくして、すべて、
その人自身の欲望のために破壊禍をまねくのである。

もし、おいしいご馳走ばかりを食べ、音楽や女色を楽しみ好めば、

欲望は限りなく多く、それに要する費用もまた莫大である。
それは政事の妨げとなる上に、また、人民の生活を乱すものである。

その上にまた、君主が一つでも道理にはずれた言葉を出だせば、万民は、
そのために統一が乱れ、君主を恨みそしる声が湧き起こり、
離反や謀反をするものも起こる。

決して自己の欲望のままに勝手気ままな行為はしないのである。
「貞観政要」より

自民党の女性議員が研修と称して税金を使いパリに行った。

一部の者はファーストクラスに家族と乗り、その他の者は全員ビジネスクラスで
豪遊をしたのである。当初、自費(30万円)で行って一部を党費で賄ったと言っていたが、

相場ならファーストクラス(120万円〜140万円)、ビジネスクラス(60万円〜70万円)、
一流ホテルに泊まり(1泊5万円〜6万円)、一流レストランで食事をして(1人3万円)、
チャーターバスで観光を楽しんで、この個人負担の金額で収まるとは誰も信じない。

タレント議員の今井絵理子は仕方ない(諦めている)としても、
東大法学部を出て外務省出身の松川ルイ氏は「大変有意義だった」と振り返っている。

一方で「パリの街の美しいこと!」と書き込み、エッフェル塔前で「女性局」の
横断幕を掲げた多人数の写真や、松川氏らが塔を模したポーズを取る写真を投稿した。
費用については「党費と各参加者の自腹」と釈明したが、
「議員の収入は税金だ」とさらに批判を招いた。

呆れたのと情けないので納税するのが馬鹿らしくなる。

本来「恩学」では政治的、宗教的、一部の団体に向けての批判記事などを
一切書かないのですが、今回は特別に書いてみました。
政治家は国民の惨状から目を背けて議員特権の恩恵に溺れてしまっています。

帝王学に「地位と名誉と財産を与えるとどのような人間も堕落してしまう」
「権力を握れば三年でバカになる」と書かれています。

いつの世も特権階層には勘違いしている大バカ者がいるのです。
間違ってもこのような輩へ投票しないでください。

今ここに覚醒をする




何も言わないことと何もしないことは若者であっても老人である。
例えば70歳を過ぎた老人が情熱をもって行動する時はまさしく青春真っただ中である。
その逆に20歳の若者が情熱もなく行動を起こさない時にはまさに老人なのである。

然るに年齢を重ねたから年を取るのではなく情熱を失った時に老人になる。
肉体は衰えても精神は衰えず志を持てばつねに前進することが出来る。

参考:米国詩人サミュエルウルマン「青春の詩」

自分が出来ないことを「無理だ」とあきらめるのでは無く、
あえて無理に挑戦する気持ちが限界を超える最良の方法である。
そして無理の先には必ずチャンスが潜んでいる。
「チャンス」とは無理だと思う挑戦の先に生まれてくる言葉である。

参考:道元「百尺の竿頭一歩を進む」

他人が描いた人生の地図ではなく自分の人生の地図を作ることが最も重要である。
毎日の時間軸を中心に克服すべきことを書き記し壁に貼る。視覚から自分を洗脳する。
自分の約束を守れないことが大きな挫折の第一歩である。
目標は通過点(マイルストーン)で目的は到達点(ゴール)です。
目指した目的に向かうために目標を明確に書き記すべきです。

参考:ナポレオンヒルズ「思考は現実化する」

そして自分を覚醒させる手短な術(すべ)がある。
それはどこでもよいから見知らぬ国へ出かけることである。
今までの常識や価値観がまったく通じない世界で自分を試すのです。
そして母国日本を外から眺めるのです。そこに新しい目覚めが生まれるのです。

参考:新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」

空港へ到着した時から自分の中にある無限大の可能性を解放するのです。

22歳の時にシベリヤ鉄道と飛行機を乗り継いでロシアから北欧デンマークを船で巡り、

イギリスの小さな港町ハリウッチへ着いた。そこから列車でロンドンへ向かい、

その日の内にアパートを探し、学校の手続きを済ませて、職探しをした。怖いもの知らずの青春一直線だった。
情熱は失敗や恐怖を取り除いてくれる。

参考:五木寛之「青年は荒野をめざす」

今は僅か15~16時間程度で自分の住んでいる街から一番遠い所へ移動できる時代です。
パスポートを取り、ビザ申請をして、現地通貨を両替すれば準備オーケーです。
しかし各国の入国管理局の審査で担当官からNOと言われればその国には入れないのです。

私は22歳の時に英国の入管でNOと言われました。しかしある秘策で入国したのです。

参考:日本の伝統奏者とは?「バンブーフルート」に救われた。

入国審査は常に緊張と共に興奮が味わえる。そこで脳内覚醒が起こるのです。
入国後は言葉が通じるか、仕事が見つかるか、眠る場所が見つかるか、
すべてが挑戦なのです。歩かなければ道は見つからず、言葉を出さなければ意志は伝わりません。

そして懇願しなければ人は動いてくれないのです。
旅は人間を成長させる絶好の機会なのです。

参考:沢木耕太郎「旅する力」

いつも誰かに守られていた祖国ではない、厳しい未知の世界を味わうのです。
私は1か月しかもらえなかったVISAで英国に1年半滞在したのです。
少しだけ人生の飛び方が分かり始め、自分流の飛び方を工夫して、もっと高く飛んでやると決心したのです。

帰国後に日本で最初のプロデューサーを名乗ったのです。

参考:リチャードバック「カモメのジョナサン」飛び方の工夫

大切なことは他人とディファレント(違い=個性=能力)な自分を作り出すことです。
自分たちの常識を信じて幸福は得られません。自分なりの挑戦をすることです。
違いが何かを探して挑戦しなければディファレントは生まれません。
おざなりの現実から飛び出さなければ自由にはなれないのです。
自分だけが認めている自分の長所をのばせばそれで良いのです。
人生を逆算すればわずか80歳~90歳はあっという間に過ぎ去るのです。
明日から始めようという人は24時間を無駄にして過ごしてしまうのです

参考:市原勝人「個性を伸ばす技術」

私は6歳の時に家庭の事情で一時和歌山県の寺に預けられた。
その時に寺の住職からお前の人生はわずか70年と言われました。
子供心に大人の事情で親兄弟と一緒に暮らせない絶望感を味わったばかりです。
寺の住職は付け加えて「泣いて生きるか、笑って生きるか」決めろと迫ったのです。
勿論、6歳の私は「笑って生きる」と応えました。

「思想という種を播き、行動を刈る。行動という種を播き、習慣を刈る。
習慣という種を播き、性格を刈る。性格という種を播き、
それはやがては運命を収穫することになる。」

参考:運命の変え方「水煮三国志」

そして悲しくて諦めるのではなく、そこから10年毎の人生計画を作ったのです。
毎年の行動計画と成功物語を書き上げて、自分の境遇を乗り越えてきたのです。
叶わない夢を自由に描き世界で活躍する姿を想像するだけで涙は止まりました。
現実と空想の世界を行き来したことで悲しみをすべて忘れることが出来たのです。
子供の時に書き込んだマンダラチャートの通りに生きてきたのです。

参考:今泉浩晃「マンダラート作成法」大谷翔平のマンダラチャート

例えば自分の満足と幸福は自国では見つからなくても他国では簡単に見つかるのです。 

当たり前の生活から当たり前の生活でないところに身を置くのです。
これは人間関係にも当てはまります。
自分の身を置く場所を変えることにより、新しい世界を切り開くことが出来るのです。
当然苦労して悩みます。そこに悩みを解決させるために哲学があり、悩みから抜け出すために宗教がある。

悩みと共に歩くところには使命(志)があるのです。

参考:吉野源三郎「君たちはどう生きるのか」

「志」とは自分の人生の役割を知るところから始まるのです。
そして生きる情熱の源である。
人として誰かの役に立たなければ生きている証にはならないのです。
外面に捕らわれずに内面の成長に注力するのです。
先人たちの教えを学び忠実に再現することが重要です。

参考:佐藤一斎「言志四録」・山本常朝「葉隠」・橋本佐内「啓発録」

自分探しは多くの本を読み、自分が傾倒できる人物像を明確にして、会いに行くことです。


私は英国から戻った次の日に宿泊先からCBSSONYへ電話をして、
当時注目されていたディレクターに会いに行きました。
「私の才能をこの会社で使ってください」とお願したのです。
そして、気に入った作品を持って自費で北海道から沖縄まで渡り歩き、
「プロモーション・マップ」を作り、新人の曲を大ヒットへと導いたのです。

私の最初のプロモーション楽曲は荒井由実作詞作曲「イチゴ白書をもう一度」でした。
バンバンが歌うこの曲を聴いて「喜んでくれる人がいる」という使命感が大切です。
自分で自分の殻を破らなければ運命は変わることがないのです。

参考:吉田松陰「奇傑非常の士に交わる」・鈴木正三「万民特用」・石田梅岩「都鄙問答」

多くの学びを得て知識を増やすだけではなく行動が伴わなければ意味のないことです。
まさに王陽明が提唱した「知行合一」なのです。
勤王の志士も特攻隊の若者も「葉隠」や「陽明学」に心酔して自死を乗り越えて、
残された家族や国家への安寧と幸福を願ったのです。

学びは一生続きます。
どうか良書に親しんで素敵な自分の運命を全うしてください。

ヨナ抜きとニロ抜き




皆様はご存知ですか?ヨナ抜きとニロ抜きという音階を?
制作者が多くの楽曲を作曲家へ依頼する時に楽曲のイメージを伝えます。

イギリスのマージービート風、フランスのシャンソン風、イタリヤのカンツォーネ風、北欧の民謡風、

アメリカのゴスペル風などと具体的に曲調を依頼します。

そこで登場するのがキーとなる音階なのです。
これはターゲットを意識して新曲を作る場合に適応されます。
どちらかというとロック系、フォーク系、アイドル系、歌謡曲系向きです。

勿論、シンガーソングライター系のアーティストには具体的に伝えません。
アレンジする時にアドバイスをするぐらいです。

それでは具体的な説明をいたします。
日本の国家「君が代」も、「ヨナ抜き音階」が使われています。 
私たちの生活にも馴染みのある「蛍の光」ですが、実は日本の曲ではなく、
スコットランドの民謡「オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)」が
原曲になります。なぜ海外の曲にここまで親しみを覚えるのでしょうか?
それはスコットランドの伝統の音階が、
日本の音階と一致していたからと考えられます。

「ヨナ」とは、数字を昔風に「ひい、ふう、み……」と数えていった時、4が「よ」、
7が「な」になることに由来します。
C-dur(Cメジャー)では、第4音・第7音にあたるファ(F)とシ(B)が、
なくなりました。これがヨナ抜き音階のうち、「ヨナ抜き長音階」と呼ばれるものです。
♪物悲しい雰囲気の「ヨナ抜き短音階」。第4・第7音にあたる、
レ(D)・ソ(G)が抜けている。
伝統的とはいえ、ヨナ抜き音階は、現在でも演歌やロック・Popsにも使われる
現役の音階です。

2016年に発売され、社会現象にもなった星野源の「恋」。
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌です。
歌謡曲調の雰囲気に、ヨナ抜き音階を用いた特徴的なサビがマッチしています。
現代日本に生きる幅広い世代や様々な背景を持つ登場人物たち、
視聴者たちに直撃した曲となりました。

2017年公開のアニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」
の主題歌、DAOKO × 米津玄師による「打ち上げ花火」。
作詞・作曲は米津玄師です。鮮やかなのにどこか懐かしい。
そんな日本の夏の雰囲気を感じるサビも、ヨナ抜き音階が使われています。
サビの間は第4音・第7音の使用をかなり抑えているのに、最後の最後のフレーズで、
拍の頭に使っています。打ち上げられた花火が消えていき、
現実に引き戻されるような感覚をイメージしてしまいますね。

次はヨナ抜き音階に比べて使われる頻度の少ない、ちょっと珍しい
「ニロ抜き音階」をご紹介します。「ニロ」とは「2」「6」に由来し、
その名の通り第2音と第6音を抜きます。
実はニロ抜き長音階は、沖縄の伝統音階「琉球音階」と同じなのです。
このニロ抜き長音階を用いた曲は、
「THE 沖縄」の雰囲気を感じられることでしょう。

琉球音階の本場、沖縄県出身の3人組アコースティックバンド・BEGINの
「島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)」。伝統楽器・三線の音色と、
原風景を思わせる切ない旋律が心に響く名曲です。

CM「三太郎シリーズ」で話題になった浦島太郎(桐谷健太)が歌う「海の声」。
BEGINが楽曲提供しました。ニロ抜き長音階が使われたサビが心にしみますね。

『キリンジ』の名曲「エイリアンズ」のサビは見事なヨナ抜き音階
(ドレミソラしか使っていない)です。
短調の曲なのでニロ抜き音階(ラドレミソ)の曲になります。
どちらにしてもファとシは使われていないですね。

ユーミンの『春よ、来い』は、1994年に発表された26枚目になるシングルです。
同名のNHK連続テレビ小説の主題歌として使用されました。
「春よ、来い」はサビだけですが、見事なヨナ抜き音階です。
でも短調の曲なのでニロ抜き音階の曲となります。

「しゃぼん玉」は長渕剛の代表曲でもある「とんぼ」に近い世界観の曲です。
サビだけじゃなく、最初から最後まで見事なヨナ抜き音階の曲です。
強い男であっても、心の痛み、悩み、どうしようもないような感情を
抱えている…。それでもまた前を向いて生きようとする…。
そんな歌詞と共にフォークロック調のミドルテンポに合わせて歌う、
長渕剛の姿と彼ならではの歌声は、湾岸戦争、ソ連の崩壊や忍び寄る
日本の不景気など…当時のひとびとの心に染み渡ったのではないでしょうか。

資料提供はGuidoor Mediaより抜粋

まだまだ探していけば多くの楽曲にヨナとニロが使われています。
それぞれの国の音階はそれぞれの民族の歴史が刻まれています。
私は世界各国へ出向き現地で伝統的な音楽(音階)に触れてきました。
昨今ではデジタルで作られた音楽は、よりアナログで作られた音源に近づけます。
しかし、実際に現地で聞いた生音の感動や情感を表現することは出来ません。

皆様もなるべく時間の都合がつけばコンサートやライブハウスへ足を運び、
生音を楽しんでください。

感謝の気持ち「有難う」の言葉もメールで送るより目の前で言ってあげてください。
生音は言葉も音楽もエネルギーの交換になります。

怒りの起源




「怒らない人」
怒らない人=優しい人ではなく、
怒らない人=他人に期待してない人、
他人に期待していないから失望もなく怒りも発生しない。

多くの人は失望が期待から生まれることを知っている。
他人は信用できないので期待すれば高確率で失望することを知っている。
無意味な期待をやめればメンタルが安定する。

私はいつのころからか怒らない人になった。

それまではプロデューサーの役割として些細なことで怒っていた。
仕事が遅くてルーズなスタッフに、その上に平気で嘘をつくマネージャーに、
努力もなく夢見ているだけのタレントたちに、いつも怒り続けて来た。

そして何故怒るのかを調べてみた。

「怒りの起源」

怒りが起こるは明確な発生原因があります。それは無常ということです。
仏陀のもっとも根本的な発見が無常です。
そしてその無常こそが怒りの原因なのです。

日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は
「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。
自分も世界も、決して一瞬たりとも同じではありません。
無常とは一切のものごとの真理です。

私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、
宇宙であろうが、すべて無常です。
つまり、変わり続けているのです。

そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。

一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源だ」とすると、
一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。

はっきり言ってしまえば、実は生命は基本的には怒りの衝動で生きています。
怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとか言えることではなく、
我々の生命はそういう構成になっているのです。

アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」

この世に安定しているものは何もなく常に変化を続ける無常の世界があるのです。

人は守るものがあると(家庭、子供、仕事、友達関係)、それを手放したくないので、怒りが発生をする。

現状の状態を維持したくなるので、少しの変化にも怒りが生じる。自分の期待と相手の行動が違うと怒りが頂点に達して爆発するのです。

「怒り」の反対は「悦び」ではなく「希望」です。
しかし、現実には希望どおりにはいかないことばかりです。
今日一日は笑顔で楽しく過ごそうと思っても、同僚や上司からいきなり注意されると、途端に不機嫌になり笑顔は消えてしまいます。それが無常なのです。

悦びを望んでも人生は一生「苦」から逃れることは出来ません。
人間は怒りを避けるのではなく、怒りをコントロールすることで精いっぱいなのです。

「親切な人」
親切な人=思いやりがある人ではなく、
親切な人=面倒を避けたい人、
他人に反論をしないで合わしていれば波風は起こらないから妥協するのです。

自分の本音を言わずに相手に同調している方が問題も起きなくて過ごせると思っている。

日本人に一番多いタイプがこれである。
子供の時から「他人とは仲良くやりなさい」と教えられるので、
互いに摩擦をおこしたくないから自然と同調主義になってしまう。

日本人は根本的に性善説を信じているから悪い人はいないという発想である。
島国の中で家族の系図をたどれば、何らかの関係がみんなとつながるので、
簡単に悪いことは出来ないという考えが今も残るのです。

親が子供達を叱るのは期待した通りの人生を歩かそうとするからである。
そして何故子供には反抗期があるのかは独り立ちを認めてほしいからです。

好きにやらせれば良いのである。ただ人としての道を外している場合は別問題である。

強く怒るのではなく過ちを正して叱らなければなりません。
親は子供に無意味に優しい人になる必要はありません。

怒らないことと親切な人との違いは解決の道を「錯覚」しているだけです。
怒らない人は1人で対応して相手を「無視」する場合が多いのと、
親切な人は良かれと思って噂を周りに「伝達」してしまうことです。

時間の流れの中であるがままの姿で過ごしましょう。

ときには怒ってもよいのです。
それが人間です。



覚悟はよいか




あれやこれや過去の些末なことを思い出して臆病になるな。
船出する時に嵐のことよりも大海原を望みながら異国の夢で帆を膨らませろ。
たかが80年ぐらいの人生で悔いは残すなよ。人生「無一物」もともと何も無い。

若者の冒険は身勝手な行動なので周りに迷惑をかけることは仕方がない。
それをやり切って達成すれば応援者の苦労は報われる。

小さくまとまるなよ、人間一人の手に入る幸福で世の中は何も変わらないのである。
大ボラ吹きだと笑われても世の中を変える「覚悟」はできたのか?
小さな冒険ぐらいで何か特別なことを手掛けていると思うなよ。

仏道には様々な教えがあり、人としての道を踏み外さぬように導いてくれる。
仏教にはいろいろな宗派があるが、教義にそれほど違いは無い。
人民救済の経文に従えばよいのである。

人は仏さまに尽くす一生を生きるべきである。ただひたすら修行あるのみ。
信念を貫き通すときに大切なことは「真俗二諦」(しんぞくにたい)である。
真俗二諦とは自分の言説に捕らわれて生活をおろそかにするなよ、
国の法律に従い納税の義務を怠らず、隣近所に義理を果たして、
土地の色々な決まり事も守りなさい。
いわゆる俗人として普通の生活も大切にしなさいということである。

しかし、心の中では「阿弥陀一仏」という信仰を抱き続けて生きなさい。
どの宗派に属しても仏様・神様を信じる心を忘れずに生きよということである。
「志」を胸に秘めることと同じである。これはあくまでも浄土真宗の教義なのだが、
一般的にも通じる信条として応用ができる。

自分の発言したことによって賛同者が多く集まると、
ついつい言説を守ろうとして意固地になってしまう。

意志が濁れば「意地」となる、口が濁れば「愚痴」となる、徳が濁れば「毒」となる。
初心が善くても時が経てばさまざまな汚れが出てくるものである。

苦言を呈する人間よりも、従うだけの人間を周りにおくと、
正道が見えなくなり、自己顕示欲が表面に出てきて、
家族や社会から離れて閉じこもった環境を作ってしまうのだ。

独裁者的な偏った価値観を押し通すと世界が狭くなり、
反対意見に対して怒りが起こり暴力的になってしまう。

偏った宗教を信じるあまりに相手を傷つけても平気になって戦争の火種が起こる。
自分たちの教義が正道であり他の教義は燃やして踏みにじるような行為が起こる。

何事においても自分で判断して行動をおこしているなんて錯覚であって、
すべては運命に導かれていると思えばよい。
素直にそれが理解できないのは「業」(ごう)の存在に気付いて居ないからである。

「仏道無上誓願成」(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
必ずや一人残らず仏に成らしめるという成仏の保証である。

仏の道は、この上もなく尊いものであるゆえに、
なんとか成就したいと、この願いが、仏教を信ずる者の願いだ。
人のためになろう、自分も完全に満足した人になろう。

この心があると、自分を粗末にできない。自分を粗末にしない人は、
人を粗末にしない。自分を粗末にするというのは、とりもなおさず、拘りと
執着、余計なものをいっぱいくっつけている姿にほかならない。
人間、身軽にならなければだめだ。

禅の世界では「水は科(あな)に満ちて流る」
水が流れていくと地面にくぼみがある。水はそこにたまる。
やがて、くぼみがいっぱいになると、あふれて流れ出し、つぎのくぼみに注いでいく。

水は無心だから、ただ法則のままに動く。高きより低きに流れる。
人間もまた自由自在に自分をあやつっているように錯覚しているが、
人間の運命もまた、法則によって動いている。

また経に「大道は無師独悟に如かず」(だいどうはむしどくごにしかず)
自分の求めている道は、いまのところ誰もやったことがない、
だから自分でやろうというのが動機だった。

そのお釈迦さまを、釈尊として、地上の存在でありながら地上を超えた存在として
今日に在らしめたのは、なんといっても座禅だ。
禅が、仏教をはじめたお釈迦さまの一番の基本的な修行だった。
だから禅を正直にやって、仏教の根元が分かってこなけりゃ嘘だ。

毎日ことあることに「南無釈迦牟尼仏」(なむしゃかむにぶつ)と
七遍以上唱えるように勧めている。

こうして常に我々の仏心をもってお釈迦さまの仏心を念じていると、
仏心の徳が自然とにじみ出て、心の暗かった人も明るくなり、
狭かった人は広くなり、体も丈夫に、日々を朗らかに暮らすことが出来、
いざという時にもあわてることがない。

「覚悟はよいか」円覚寺官長朝比奈宗源より抜粋

新たな方向付けリフレーミング




ミルトン・エリクソンは父親として子供たちにレジリエンスを教えるとき、
学校から帰ってきた子供たちに「お帰り」を言ったあと、
今日は道のどちら側を歩いて帰ってきたのか、どんなふうに歩いてきたのか、
いつもとは違う道を試したのかどうかを尋ねている。

そしてたくさんの道が見つかることやいずれの道にもその良さがあることを
子供たちに知ってもらいたくて、それぞれの道に微妙な違いがあり、
楽しい道もあればそれほど楽しくない道もあり、
それぞれにその道だけの景色があることを語って聞かせている。

方法がひとつしかなかったら、その方法に生じた支障は、
どんなものであれ大変な問題になりうる。
対照的に、方法がいくつもあれば、慌てずに方針を変え、
別角度から問題に取り組むことができる。

子供は寄り道で好奇心が芽生える。そして花や虫や草花と友達になれる。
幼き子供の時に前頭葉の発達を促すのが両親の役目である。
特に母親は幼少の時に子供と同じ目線で人間も自然の中の一員であることを
教えることが重要である。

外山滋比古「思考の整理学」に書かれているように、
現代の子供たちは一貫した教育の中で、
正しいと言われた方程式を記憶するだけの制度にはめ込まれているので、
卒業と同時に学校から見放されるのです。

まるでグライダーで空まで引き上げられ、ここまで連れてきたので、
これからは1人で、頑張ってねと手を離されるようなものだ。
社会という空の中で飛び方を教えてもらっていないので、
手探り状態で迷走飛行を繰り返していると嘆いている。

近年では企業が新卒の学生を採用しないのは、

大人として社会経験がなく常識もなく、挨拶のできない学生ばかりだからだという。
そして仕事を覚えて3~4年もすれば、自分のやりたい仕事へと簡単に転職することになる。
いきなり20代中盤からあらたに自分探しの旅を始めるのです。
16年間の教育期間はまったく役に立たず無駄な時間にお金をかけていたことになる。

幸福度No1のデンマークでは、日本のような「就学義務」はなく、
代わりに「教育義務」が保護者に課せられますが、教育選択の自由が保障され、
ホームエデュケーションも認められています。登校拒否という概念すらありません。

学校へ行く場合は公立学校と、さまざまな理念とスタイルで設立・運営されている
私立学校を選ぶ、もしくは、親が集まって学校を設立することもできます。
また、立ち止まって人生を考えるための機会が保証をされているのも特徴です。

試験もない宿題もない教室もない、学びを選ぶのは子供と親です。
海外へ出て自由に見聞を広げるのも、教育ポイントになるのです。

まさにQOL(生きることの質)とWell-being(幸福)を兼ね備えた学びを、
子供の時から受けるのです。

子供には道を発見する悦び、道を説明する悦び、道を開拓する悦びを教えてください。
好奇心への刺激は常に「リフレーミング」しながら、自由に行動することです。
そしてそこから「自立心」が生まれるのです。

本当のグローバル化を望むのなら、
子供達は早くから世界に出て海外の子供達と仲良くすることです。

無理から始まる限界!可能から始まる無限!




1969年1月30日、ザ・ビートルズはロンドンのサヴィル・ロウにある
アップル・コア本社の屋上 (ルーフトップ) で最後のライヴを行った。
全世界同時配信。当時はアナログの時代でTVケーブルを通じて配信された。
世界初の試みは狭い屋上でジョンレノンは毛皮を着ての演奏だった。
日本では早朝の配信でビートルズと同じ時間を共有出来たことに興奮した覚えがある。
その時の日本への配信は「Get Back」1曲のみだった気がする。(記憶が曖昧)

2023年7月30日、伊丹谷良介と苫小牧のバンドda-saが携帯電話を使ってライブ配信をした。携帯でのやり取りは同時に演奏が出来ないので、(電波の遅れの為にズレて聞こえる)送り出す伊丹谷さんは受け手のda-saの音を切り、1人セッションで音源を発信した。
正にアナログとデジタルの融合でノリの良い状況を作った。
音楽の映像配信は画像が良いから、音質が良いから、良いのではなくて、
配信側(演奏者)と受け手側(視聴者)が同じ空間で楽しめることが重要です。
演奏曲は「HELLO Mr ASIAN」途中からコーラスも加わり、
エンディングの掛け合いも呼吸感ぴったりで大変盛り上がりました。
演奏途中の場面から見た人には何の違和感も無く通常の配信と思ったに違いない。

「無理から始まる限界」
頭の中に無理という「単語」をインプットすると脳が硬直して、
全てがネガティブな発想になる。その状態からはアイデアも出てこなくなり、
すぐに限界を感じてしまう。
「僕は無理」「私は無理」と言えば、その場から逃れられるという甘えの構造は、
やめにしたほうが良い。
無理と思わずに何か方法があるかも知れないと発想を変えれば、必ず解決の方法が
見つかるのです。限界を超えたところに新しい発見は必ずあるのです。
デジタル社会では何でも手軽で便利になったが、そこには大きな危険が隠されている。
もし停電になって電気が通じなくなれば使えなくなるのである。
そんな時に無理と発想しても誰も助けてはくれない。
自分一人で解決の方法を考えて乗り越えなければならないのです。
あなたの頭の中から「無理」という言葉を削除してください。

「可能から始まる無限」
貧乏学生が英国に憧れて1年間工事現場でアルバイトをして片道の旅費を稼いだ。
行けばなんとかなると無謀な計画を実行した。そして英国の入管で入国を拒否された。
そして諦めずに係官と掛け合って1ヶ月の観光ビザを手に入れた。
到着した、その日にアパートを探して英会話の学校の登録をした。
次の日にアルバイト先を探して、それから1年半滞在したのです。
あの日入管で諦めて帰国していたら、負けの人生が始まったに違いない。
全ては可能だと発想して計画を書き出し、それを常に見ていれば限界を感じずに、
無限の発想が浮かんでくる。
無理と発想してしまえば帰国後CBSSONYに飛び込んで、
音楽プロデューサーになってはいなかっただろう。

無限の可能性を信じて楽しい人生をお送りください。
全てのクリエイティブは「可能」という挑戦から始まります。

観察と気づき




現代人は見えるものだけを見ている。見えないものを見ようとはしない。
見えないところの余白こそが美の極致なのに、それを知らない。

「美」は対極の「醜」と一対だから泥沼から蓮の花が咲く調和の意味を知らない。

古代人は太陽の日差しの中から希望を見つけ満天の星から夢を描いたことを知らない。
大自然の中の洞穴へ文字の代わりに絵を描き続け、人間の存在と意識を
神に向かって奉納し、後世に伝えるために残したことを知らない。

例えば仏像や彫刻を見て技巧の良し悪しを見て彫り師のノミの音を聞こうとはしない。
その時代の彫り師はどこから来てどんな暮らしをしていたのだろうかを知らない。
奈良の彫り師の大半が渡来人であったことを知ろうとしない。

例えば生花やお茶の所作を見て感動しても自然を見ようとはしない。
春先の菖蒲緑の葉を見て剣先を思い浮かべることはしない。
男の子が戦いに勝つために5月5日節句の日に祝う花だということも知らない。

茶の葉の争奪戦で世界が動き戦いの元になったことを知らない。
三国志の戦いも(魏・呉・蜀)裏には茶の争奪戦があったことを知らない。
茶の葉の栽培と管理していたのが修道院やお寺であったことを知らない。
茶の飲用は楽しむための趣向品でなく薬として用いられたことを知らない。

例えば絵画や浮世絵を見て絵師の心を見ようとはしない。
パトロンからのリクエストに応えて豪華絢爛な絵を描くとする。
色が多過ぎると飽きてしまうから逆に色を抜くことで満足することを知った。
ロダンの筋肉質の彫像は筋肉を乗せるのではなく内側から押し出すことを知らない。

襖に書かれた若冲の鶏の絵は、燭台を立て、襖を少し閉じて見ることを知らない。
軽く目を閉じた薄眼の先の鶏が羽ばたくことを知らない。

雅楽の楽曲構成に「序・破・急」の三区構成があるのを知らない。
「序」は最初の部分で拍子にはまらない、
「破」は中間部分で拍子にはまるがゆるやかな速度、
「急」は最後の部分で「序」や「破」よりも少し急テンポあることを知らない。
この三区の流れで「舞」の流れと表現を構成しているのです。

文化を知ればどの国の渡来人かが分かるのに知ろうとしない。
江戸幕府から要請を受けて中国の黄檗禅師が江戸の街づくりを手掛けたのを知らない。
そして「明治」は中国の明の時代を日本で治めるから、その名になったことを知らない。
明治維新とは「明が治めて新しく改革」をすることを云ったとは誰も知らない。

映画や舞台を見て演出家の意図を理解しなければ内容の真意は分からない。
与えられた環境の中で台詞を織り込むのだが、役者は演技を知らない。
動きに込められたメッセージを読む為には背景を見なければ分からない。
スポットライトの当たる位置の空気感(ドラマ)を誰も知ろうとしない。

見えるところばかり追いかけるのではなく見えないところに目をやると、
知らない何かの発見がある。常にリフレーミングを心掛けるようにしてください。

小さな気づきから始まる大きな納得です。