七つの穴(荘子)




あなたは本当の絶望を知っていますか?
何もかもが失われて生きる望みを断たれるほどの苦しみを。
息もできない、声も出せない、逃げ場もなくなるような苦しみ。
目の前の景色ですら色をなくして灰色のモノトーンになってしまう苦しみ。
耳に聞こえる音は自分の呼吸と心臓の音ぐらいになる苦しみ。

現代ならSNSの世界にいっとき逃げ込むことは出来るので最悪の苦しみからは逃れる。
僅か20年前の時代では手紙か電話しか無くて逃げ場を探すのには時間が掛った。
絶望のどん底では正常な意識が保てなくて、考えることすら億劫で無理な状態になる。
見ることもできない、聞くこともできない、臭いも無くて、味もしない世界で
立ち往生してしまう。

いわゆる人間の持つ五感が働かなくて骨もなくなる世界に取り残される感じです。
私の解決方法は宗教と哲学で救いを求めた。各地の寺社仏閣に出向き救いを求めた。
絶望の原因を追求して解決方法を探して回って救われたのです。
そんな中でも時折、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫の小説も読んだ。
いずれも三人は究極の選択で(自死)を選んだ作家である。

フィンセント・ファン・ゴッホ(自死)やサルバトーレ・ダリ(自死)、
エゴン・シーレ(病死)の絵も見た。人間の内面を描いた作品です。
そうすることによって徐々に体内に血が巡り出して五感も少しずつ戻り始めた。

私の短い人生の中でいくつもこのような体験をして来たのです。     

突然成功したり、突然失敗したり、突然孤独になったりして来たのは、
これらの体験を人に「伝えよ」という運命に生きているからだと思います。
ブログ「恩学」はその経験が活かされている内容です。

『荘子』の中に「応帝王篇・渾沌」の話があります。

「南と北に儵(しゅく)と忽(こつ)という極めて人間的な二人の神と、その両者の間に
孤高の存在である渾沌(こんとん)という三人の神がいた。

ある時、南北の儵と忽がその間に住んでいる渾沌の地で会った。
すると、そこに居合わせた渾沌は、この二人を大変もてなし、これに喜んだ儵と忽は
渾沌にお礼をすることにした。

そこで二人は、『人はみな、眼に二つ、耳に二つ、鼻に二つ、口に一つ、

合計七つの穴を持っているが、渾沌はこれを持っていない。だからこの穴を開けてやろう』と決めた。

こうして、儵と忽は渾沌に一日に一穴ずつ空けていったが、七日目の最後の
一つを開けた時、渾沌は死んでしまった」という何ともせつないお話です。

仏教では、「眼耳鼻舌」それに付随して身、「見聞覚知」の感覚器官が備わっているからこそ起こる意、

これら六つ(眼耳鼻舌身意)を合わせて「六根」といいます。

先ほどの話にこれを当てはめると、「眼耳鼻舌」を持たない渾沌にこれらを与えたら、
渾沌は死んでしまったということです。つまり、「眼耳鼻舌」を持っていないものが
急に眼耳鼻舌を持つと、生きるに耐えられない程の苦しみや悲しみを背負わなければ
ならないとも言えます。よって、生まれながらに六根を持っている我々人間は、
最初から生きるに耐えられないほどの苦しみや悲しみの元を背負っているということに
なります。しかし、我々は渾沌のようにそれらがあるために死んだりはしません。

生まれたその瞬間から何とかその六根を使いこなし、悲しみや苦しみを背負いながらも
生きているのです。ですから、我々は無意識のうちに「死ぬほどの覚悟」で六根を
もって生まれてきているとも考えられます。では、六根から得られる様々な苦しみとは
いったい何なのでしょうか。それは「憎い・可愛い・惜しい・欲しい」といった
人として決して無くすことができない感情です。

私はこれが「人情」なのだと思っています。しかし、それは苦しみだけではなく、
安楽もあるはずです。ですから、それら全てが人情なのであり、それがあるから我々の
人生に彩りを添えてくれるのです。この物語では、

儵と忽の二人によって「眼耳鼻舌」を付された渾沌は最後に死んでしまいます。
しかし、私は「本当は死んではいない」と思っています。

禅語に「大死一番絶後に甦る」とあるように「徹底的に死に切り、その後しっかりと
甦った」のだと思います。つまり、六根を得たことで人の心の苦しみを知り一度は
絶望し死に切った。しかし、人の苦しみを知ることで他人を思いやる心、すなわち
慈悲心も生まれたのです。そしてその時、自ずと心の底から
「全ての人々が健やかで幸せでありますように」という大慈大悲の願いが湧き上がり、
絶後に甦ったのだと思います。

これにはここまでの物語は書かれていませんが、仏教を信じ出家している者として、
渾沌がそうあってほしいという私の切なる願いでもあります。参考臨黄ネットより

仏教で人生を語るとき「四苦八苦」という言葉が出てきます。
四苦「生・老・病・死」(しょうろうびょうし)
八苦「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」という表現を使います。
私はこの解釈の中で一番辛いと思ったのが「五蘊盛苦」です。
自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ。
健康で元気なのにやりたいことがやれない苦しみです。

人間の持っている能力「七つの穴」を渾沌は持っていない。
儵と忽は渾沌に良かれと思って毎日一つずつ穴を開けたところ七日目に混沌は
死んでしまった。人間の持つ様々な苦しみを知ってしまったからである。
混沌は不自由だと勝手に思い込んだ儵と忽の善意が仇となって死んだのである。

他人が感じる絶望は本人の苦しみとは違うところに存在しているのです。
お金があれば幸福でお金がなければ不幸、美人に生まれれば幸福で美人でなければ不幸。
実際は不治の病に悩まされ、親が作った借金に苦しめられて、男運が悪く家族にも恵まれ
なくて絶望を抱えているかもしれません。絶望を感じたら自分で基を解決するしか
方法がないのです。

私の拙い文章「恩学」が皆様の人生に少しでもお役に立つと信じています。
皆様も「六根」全てを使い尽くしてより幸せだと思える人生を送ってください。

冬場の寒い季節ですが、お互いの思いやる心で、心を温かくして、
更なる良い年をお迎えください。


引き寄せ




人に感謝、人を尊敬、人を慈しむ、見返りを求めない心が人を引き寄せてきます。
あなたに出会えたことに感謝いたします
あなたの生き方を尊敬します
必ず人生のお礼は倍返し(恩返し&恩送り)をします。
そして「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流す」精神を貫き通します。

どれほど罵詈雑言を浴びせかけられても文句は言わないこと。
人前で恥をかかされても怒りを見せないこと。
ただひたすら低身低頭に徹する。
悔しさに耐えてこそ道が開かれるのです。
人を愛して笑顔でいれば自然に人は集まるのです。

引き寄せは自己主張の多い人よりも忍耐強い人の方へやってきます。

「金盥と水の法則」
手前に水をひくと水は逃げます。しかし前方に水を差し出すと水はやって来ます。
欲深い人よりも差し出す人の方へ幸運は流れて来るのです。

そしてどんな状況でも「自分は運が良い」と強く思うことです。
私は仕事でうまくいかなかったときにも「自分は運が良い」と口に出していました。
自分の頭の中で「自分は運が良い」と言い続ければ不安なことが消えるのです。
引き寄せはポジティブシンキングな人を好むのです。

引き寄せの法則には手順があります。ポイントと併せて手順をご紹介します。
叶えたい願いに集中するまずは、叶えたいと強く思う願いを思い浮かべます。
引き寄せたい現実や手に入れたいものなど、たくさん願いがある場合は、
最初に叶えたいと思うものひとつに集中しましょう。

ひとつめの願いが叶ったら次の願いに集中するという具合に、
ひとつずつ願いを叶えていくのがポイントです。

「イメージするだけでは漠然としてしまう」「願いを整理できない」という場合は、
ノートに願いを書き出してみるのもおすすめです。

アファメーション(肯定的な宣言)を使う願い事をする時は、
「私は友達が欲しい」「すでに叶っている」「出会いをありがとう」など、
現在形もしくは現在完了形の言葉を使いましょう。

願い事と聞くと、「お金が欲しい」「夢が叶いますように」という言葉を
思い浮かべる人もいるかもしれません。しかしこれらの言葉は、
「まだ実現していない」ということを潜在意識に刷り込むことになりかねません。

「ない」ことではなく、「手に入った」「叶った」ことに意識が向くような
言葉遣いをすることが大切です。

すでに願いが叶った姿を具体的にイメージする「願いがすでに叶っている状況」や
「引き寄せたい現実の中にいる理想の自分」をイメージしましょう。
より具体的にイメージするため、言葉を書き出し、欲しいものや理想の状況を表す
絵や写真を見えるところに飾ったりするのもおすすめです。

引き寄せの法則では、「自分なら願いが引き寄せられる」「望む現実が手に入る」と
心の底から信じることが大切です。「思考は現実化する」なのです。

喜びを味わい、感謝する引き寄せたい現実に集中し、願いが叶った自分の姿を
イメージできたら、手に入れられた喜びや幸せを存分に味わいましょう。
幸福で満たされているポジティブな気持ちや雰囲気が、
より良いものを引き寄せてくれると言われています。

また、願いを叶えることができた自分や、力を貸してくれた人、自然や運など、
周りのすべてに感謝することも大切なポイントです。

引き寄せの法則とは、「強く願ったり、考えたり、信じたりしたものは実現しやすい」
という法則のこと。「運に任せて願うだけで努力をしないなんて…」と
言われることもありますが、実は思考が変わることで行動が変わっていることも
少なくありません。

「思考が変わると行動が変わる、行動が変わると性格が変わる、
性格が変わると運命が変わる」のです。
強く願うことで無意識にでも毎日の行動が変わり、より良い未来が手に入るなら、
引き寄せの法則を活用しない手はありませんね。

私は多くのアーティストのプロデュースに関わり一番大切にしていたことは、
情報の発信でした。このアーティストに必要な情報を考えてイメージを明確にしました。
受け手側が求めていることは何か?今の時代に必要なスターはどのような人か?
その世界でアーティストが成功している姿を想像しながら「成り切り」をしました。
誰もが憧れるスターのイメージをより早く伝えることが「期待を高める」のです。

「成り切り」とはアーティスト自身に徹底的に成り切ることです。
言葉や姿やメッセージを伝えるにはアーティストに成り切ることが重要です。
アーティストに変わり関係者へ音楽性や人間性を伝えていくのです。
プロモーションは「音と言葉と成り切り」で成功を収めました。

アーティストに「成り切り」、放送局や出版社へ出向き、宣伝の意図を伝えると、
ほとんどの場合ゲストが入り、芸能欄の記事に掲載されました。
そして早い時期に本人を連れて挨拶に出かけると、番組制作者も編集者も
どんどん引き寄せることが出来ました。

オリコンチャートに順位が出た時点で、担当者にゲストと取材を優先することを
約束することで長きにわたり応援してくれました。

そしてアーティストのコンサートについて行き、その土地の主要な放送局や新聞社にも
挨拶に出かけました。それ以外に地元のレコード店、有線放送へ本人を連れて行くと
大変喜ばれました。

「願う形を明確にすること」、その為に必要な「戦略を計画」すること、
その上に出来る限りの人たちに「恩返し」すること、これの繰り返しです。

脳科学者中野信子最新版「運のいい人」の新聞広告に書かれていました。
「運は100%自分次第。強運は行動の結果」です。

☆運は偶然じゃない!考え方や行動パターンで決まる。
☆強運に絶大な効果のドーパミン、その分泌のカギは「妄想」にあった。
☆いつも同じものを買う人より、冒険する人の方が、運が良くなる
☆「まじめ」「人を疑わない」「素直」、すべてそろうと「運が悪い人」に。
☆自分は運がいいと感じている人は、死亡リスクが35%低い
☆「人のための行動」が脳を刺激、何重もの快感が体中に!
☆強運も不運も伝染する。

皆様お分かりでしょうか、私の引き寄せの術とほとんど重なります。
皆様もドンドン引き寄せながら強運な人生をお過ごしください。


言葉のカタログ




「審美眼」

表面的な美しさは誰でも分かるのですが、果たしてそれが本当の美しさでしょうか?
内面の美しさを知らなければ美しさの追求にはなりません。
製作者の意図するところを理解して時代背景や技術研鑽の痕跡まで追求して
美を理解すると楽しみ方が変わります。

私が納得しているからこれで良いのだと主張する人もいますが、
個人の好き嫌いで美を評価することはありません。
本物を求めずにイミテーションでもウィキペディアの情報でいいやという人でも、
美術館や展覧会などで本物に触れることで「審美眼」が鍛えられます。

「審美眼」は「美を見極める眼力」を表す言葉で、芸術作品をはじめとする
美しいもの、価値のあるものの真価を、評価する「眼識」を意味します。
世の中には表面上で綺麗に見えても、中身はあまり価値のないものが多く存在します。
目先の美しさにとらわれず、内側に隠れた本物の美しさ、それらを作り上げた背景など、

独特な見識と感性、こだわりを持つのが特徴で、それに触れることが大切です。
「審美眼」がある人は、デザイナーや鑑定士など、本物の美と真価を正しく評価する仕事が向いています。

ぜひ「審美眼」という才能と職業をつなげてみませんか?

「挫折と落胆」

挫折は「特定の目的を達成するために行ってきた行動そのものが
無駄になること、心折れて途中で投げ出すこと」。
今までの頑張りを無駄にしてしまうような心理状態になっているケースで
使います。挫折を一度も経験していない人の方が少ないと言えるでしょう。
落胆は「落ちぶれること、惨めになること」惨めな感覚が芽生えてくるという
意味では、挫折に近いような状況があるでしょう。
挫折は本来諦めたくないことに関して、諦めざるを得ない状況になるため、
惨めな雰囲気がどうしても存在するはずですから、そこが落魄(らくはく)と
共通しています。

「忍と敏」

1 がまんする。じっとこらえる。「忍苦・忍従・忍耐/隠忍・堪忍・堅忍」
2 むごいことを平気でする。「残忍」
1 頭の働きがすばやい。さとい。「敏活・敏感/鋭敏・過敏・不敏・明敏」
2 行動・動作がすばやい。「敏捷(びんしょう)・敏速・敏腕/機敏・俊敏」

あらゆる試練に耐えることと敏速に行動に移すことを、
常に持たなければなりません。
夏の暑さに耐えながら飛んでくる虫を待つアメンボと同じです。
ただじっと水面に漂いながらその機会を待つのです。
いわゆる「感即動」咄嗟に感じて即動くということです。
間違っても落ち着きのない人間になってはいけません。
ソワソワするような腰骨のない生き方はしてはいけません。

「面倒臭い」

「煩わしい」とほとんど同意で使われ、面倒でいやだと思う気持ち、
避けたいと思う気持ちが含まれている。非常に口語的な語です。
熟練の職人さん達の作業を見ていると、同じ緻密な動作をなん度も繰り返して
商品に作り上げていく。一般の人から見れば面倒臭い作業であるが、
緻密さと遊びを融合させる技が職人の表現なのです。

近年はこのような作業もロボットに任せてオートメーション化することが
当たり前になっています。大量生産にすることで安価になるメリットがあるから
多くの企業が取り入れています。

酒造りで最高責任者を「杜氏」(とうじ)と呼びます。この杜氏のさじ加減一つで
お酒の味が変わるのです。長年の勘と緻密な作業で最高の日本酒を作り出します。
最近ではバイオテクノロジーを学んだ人が職人として雇われることもあるという事です。
杜氏のもつ知識をコンピューターに入れて作り出した日本酒が世界中で売れています。
これはお酒という商品であって本物のお酒ではありません。

私は海外でも日本でもこのお酒を勧められて飲んだのですが翌日必ず頭痛がしました。
私の身体と相性の悪いことが分かりました。そのお酒は「獺祭」です。

「道元禅師」
前段に「香巌撃竹」、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。
百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の潙山を訪ねるのだが、そこで、
「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって
何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。

何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は
「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」
と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、
ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。
ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。
これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。
香巌が「悟り」を得た瞬間である。

「有言実現」
アメリカではFake it till you make it !という諺があります。
「なるまで偽れ!」です。
私がCBSSONYへ入社した動機は「日本一のプロデューサー」になることでした。
まさに「なれるまで偽れ!」でした。
まだ仕事を覚えていないころから「私は日本一のプロデューサー」ですと偽った。
洞(ほら)も百回言い続ければ本当になるという事です。

「運気をあげる4つのポイント」岩手花巻高校硬式野球部佐々木洋監督
① 言葉のマジック。「5点差じゃない2点差なんだぞ」と表現を変えて檄を飛ばす。
② 一緒にいる人「親は選べませんが、友人は選べますよね」友の大切さを教える。
③ 表情、態度、姿勢、身だしなみ「負けているときに笑顔でファイティングポーズ」
これが一番重要です。強くなるチームはどんな時にでも笑顔です。
④ 感謝と謙虚「花巻東が使ったあとはベッドメイクがいらないくらい綺麗にする」
菊池雄星選手はごみが落ちていると「神様が自分を試している」と思うと話をして
くれました。そうやって、いつも神様が見ていると思っているのです。
我々が使ったロッカールームはいつも入った時以上に綺麗にして出て行きます。
大谷翔平は菊池雄星の一年後輩です。共に佐々木監督の教えを学びました。

「成り切る」
一流のカメラマンになるには成り切ることを教えます。
憧れのカメラマンに成り切って過ごせば一流になるのです。
我々は真似をすることはあっても成り切ることはしません。
その中途半端な態度が一流になれないのです。

禅寺ではトイレを掃除する時にトイレに成り切れと教えます。
うわべだけの掃除では本当にきれいにはならない。トイレに成り切るのです。
禅宗ではただ掃除をするという作業ではなく、ご不浄をきれいにすることは、
心をきれいにすることにつながる教えです。誰もが嫌がる仕事を率先して行うこと
が重要です。

また、スランプの高校球児に打てないのはバットに成りきってっていないからだと
アドバイスをするそうです。打とうとする気持ちが、打てなかったら
どうしようという気持ちになり体が思うように動かなくなる。
腕ではなくバットに成り切って打てと教えます。

私も新人アーティストがステージに上がる前に、今日はおまえ自身ではなく
「スターに成り切れ」と檄を飛ばします。
そして大切なことは「音程は外しても客の心は外すな」です。
お前はただの失敗と思うが客は失望に変わり記憶に残るのだ。

成り切ることにより難攻不落な高い壁を乗り越える力を得るのです。
あなたも憧れの何かに成り切ってください。

あなた自身を離れるのです。


音は心の中で音楽になる




イヤホンを通して音楽が聞こえる。ギターの音、ドラムの音、サックスの音、ピアノの音、

でもモバイルホンから聴く音は本物の楽器の音ではない。

送信しやすいように作られた圧縮された加工の音なのです。
いわゆる切り身の魚のように原型をとどめていないのです。
それでも聴くのは現実の世界から一歩でも逃げ出したいからである。
現状の意識を切り替えるには音楽が一番だからです。

私はそれよりも雨の音を聞きながら子供達の声、走り去る車の音、お店の中から
聞こえて来る笑い声、電車の中の人々の声を聴いている方が癒されます。
その時の状況で聞こえて来る音は生きている音の証です。
山に行けば小川のせせらぎ、鳥の声、木々の揺れる音、小動物の鳴き声、滝の音、
全ての音が音楽に聞こえるのです。

モバイルを利用した音楽を全面的に否定しているのではなく、
脳内の掃除をするために時折自然の音をきくことが大切だと伝えているのです。

そう音は心の中で音楽になっているのです。
本来人間の脳は視覚と音の情報により反応することが多いのです。
脳内ホルモンの活性化のためにも加工された画面や音ばかりを見たり、聞くのではなく、
自然の景色や自然の音を脳内にたくさん取り入れてください。

谷口高士の同名のタイトル「音は心の中で音楽になる」の書き出しの一説に
このようなことが書かれています。

心理学の本を探せば音楽心理学のことがわかるかというと、まずそんな項目は
存在しない。それなのに、世間では「音楽心理学」とか「音楽療法」などという
言葉だけが、どこからともなく現われて目の前にちらついている。
これでは、「音楽心理学って何?」とたずねたくなるのも無理はない。
特に最近は、「音楽」と「癒(いや)し」がセットになって頻繁にマスコミに
登場している。

いったい「癒し」とは何か、音楽の何がどのように人間に効果をもたらすのか
ということを曖昧にしたまま、音楽療法のなにやら身近でとっつきやすそうな
イメージだけが広まっている。
楽器を演奏できる人が、自分にも「音楽療法とやら」ができるのではないかと
勘違いしてしまう。そのような、音楽を知っているが音楽心理学に対しては
疑問や期待(あるいは幻想)を抱えている人のために、本書の企画は生まれた。
もちろん、これから音楽心理学研究を始めようという人にも役立つものである。

難解で退屈な本であるが音楽心理学を学ぶ人達には読んで参考にすることは出来る。
興味のある人は読んでみてください。

また、音楽は脳や心にどのような影響を与えるかにこのような文章があります。

「文字文化を持たない社会はあるが、音楽文化を持たない社会はない」といわれるほど、

人にとって音楽は身近なものである。

音楽を聴くことで自然と気分が向上したり、リラックスしたりするという経験は、

おそらく多くの人にあるだろう。
その経験からも分かるように、音楽は人の心と身体にさまざまな影響を与える。

音楽には特定の感情を誘発させる効果や、“覚醒水準を調整する効果”があることが
多くの実験によって確かめられている。覚醒水準を調整する効果とは、脳や神経の
覚醒水準が高いときはそれを抑え、低いときは高めるという働きである。
すなわち、過度の興奮状態であればそれを抑え、過度の落ち込み状態であれば
気分を高める効果を持つ。

音楽は音の集合体です。澄んだ音であれば澄んだ音楽になります。
自分の大好きな音が集まればそれだけでも音楽になり脳にも心にも影響するのです。

子供の頃から大好きな人の話す声は音楽のように聞こえていた筈です。
そして大好きな人の表情は素敵な映画を見ている様だった筈です。
大好きな人と経験を共にすれば思い出が色あせても記憶にずっと残るものです。

日常の風景が全て音と繋がるのです。

「ドライフラワー」
作詞:優里 作曲:優里

多分、私じゃなくていいね
余裕のない二人だったし
気付けば喧嘩ばっかりしてさ
ごめんね

ずっと話そうと思ってた
きっと私たち合わないね
二人きりしかいない部屋でさ
貴方ばかり話していたよね

もしいつか何処かで会えたら
今日の事を笑ってくれるかな
理由もちゃんと話せないけれど
貴方が眠った後に泣くのは嫌

声も顔も不器用なとこも
全部全部嫌いじゃないの
ドライフラワーみたい
君との日々も
きっときっときっときっと
色褪せる

この様な歌に出会うと嬉しくなります。
歌から誘い出される世界がまるでショートストーリーのようであるからです。
ヒットになったのは歌詞に共感する人が大勢いたからです。
歌う声も語りかけるようにしてサビで心の思いを一気に歌い上げる。
ギターとベース・ドラム・ピアノのみでとてもシンプルなカラオケです。
せつなく「きっときっときっと、色褪せる」と歌いあげる。

派手なカラオケで誤魔化すのではなく歌唱力で勝負する音楽はとても癒されます。
喧嘩の声、沈黙の部屋、啜り泣く声、全てが音楽に聞こえるのです。

人は無意識、人間は意識といいます。その状態その場面で感情を露わにするのが人で、
メールで済まし、本音を言わずに嘘をつき、虚勢を張るのが人間です。
大人だから感情を露わにするのは情けないとか、男女関係なくみっともないとか体裁を
考えるのではなく、感じた音に素直に反応して、人として生きる方が素晴らしいと
思います。

全ての音は心で音楽になるのです。
出来れば、好きな音、素晴らしい音を取り入れてほしい。
いつまでも忘れないで欲しい「音は心の中で音楽になる」ということを。

自然のままの音を騒音として記憶しないでください。


和敬清寂(わけいせいじゃく)




人との距離には正しい距離がある。お付き合いの距離である。
もっとも大切にしなければならないのが礼儀です。
「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
友愛を示すために、大声で挨拶をして、いきなり抱きついてくる人がいますが、
その場の雰囲気を見て行わなければ礼儀に反します。
斯くいう私の周りの友人も私もハグは大好きです。笑い

諸外国では当たり前のように行われている動作でも、日本では場に合わないことが
あります。大切なことは礼儀を知って礼儀を崩すのは許されるのですが、
礼儀を知らずにくだけてしまうと恥知らずになります。

要するにお付き合いの距離とは、
干渉・依存・無関心。どれもギクシャクの種になります。身近にいる人にはつい
甘えてしまうものですが、お互いにある程度の距離感を保っていくことは必要です。
どうもぶつかりやすいな、という相手とは程よい距離を図りましょう。
しかしあまりに気を使い過ぎて、ぎこちなくなるのは居心地が悪くなります。
距離=気持ちの離れ、ではありません。相手の良さが一番見えやすく、
自分のペースをもっとも維持していきやすい、距離感を見直してみてください。

西洋人は握手とハグの距離感が親しみの礼儀だといいます。
我々東洋人はお辞儀をして頭が当たらない距離感が礼儀です。
中東はいきなりハグをして顔をつけあうのを礼儀としています。
最近ではメールやチャットでX0X0とついているのがあります。
これは「hugs & kiss」を表しています。

そして「和敬清寂」とは

「お茶を点(た)てる主人と、そのお茶をいただく客が互いの心を和(やわ)らげて、
敬い合い、精神だけでなく茶道具や茶室、露地を清浄な状態に保つことで澄み切った
こだわりのない境地に達することができる」という意味。

考えが違う人々が、一緒に生きるためには、お互いに尊敬し合わなければならない。
そうした心は、清らかで静かな心境からしか生まれない。
昔から茶道の精神を言い表した言葉で、禅でもよく取り上げられている。

千利休は、茶道の会合に共する懐石料理として「茶懐石料理」を作り出した。
懐石料理(精進料理)に「和(あ)え物」がある。例えばほうれん草の胡麻和え。
2種類以上の材料を混ぜて、調和のとれた「第3の味」を生み出す調理法だ。
それぞれの食材の個性を活かしつつ、互いの味を引き立て合う。

「人間」で考えれば、それぞれの個性を尊重しつつ、「和」を生み出していく
ことにも通じる。

「和敬清寂」は簡単な文字が並び、よく知られているため、つい軽く考えられがちだ。
しかし、激しい競争社会に生きる私たちにとって、忘れてはならない言葉です。
このマナーができる人を大人(たいじん)といいます。

日本には精神修養の場がたくさんあります。茶道、華道、香道、能、歌舞伎など、
昔から続く伝統的な作法や礼儀が日本人の心を鍛えて来たのです。
鎌倉時代から江戸時代まで「武士としての嗜み」として、心を落ち着かせる
手段として取り入れられました。これらは全て禅と繋がりがあります。
臨済宗禅は仏教の中でも無駄と格式を取り除きシンプルに真理の追求に
こだわったのです。

お稽古事の始まりが幼年期から始まり成人になると諸動作の中に深みと奥行きが
増していきます。歌舞伎では3歳から芸の仕草を教えます。
能では6〜7歳の頃から本格的な修行を始めます。
世阿弥が書いた「風姿花伝」は代表的な教科書です。

流石に茶道、華道、香道の修行には年少では無理ですが、その場にいるだけで
高度な精神性は学ぶことができると思います。

お付き合いの距離には、身体的距離と精神的距離があります。
さらにその人の持つ教養(文化的レベル)の距離が重要になります。
教養は表情から仕草までにじみ出て来ます。

それは大人の嗜みです。
「嗜み」(たしな-み)の意味は、大きく分けて以下の3つです。
1. 好み、趣味。特に、芸事にかんする心得。
2. 心がけ、用意。覚悟。
3. つつしみ。遠慮。
現代においては、「大人の嗜み」「酒の嗜み方」などのように、好んで親しむこと、
何かに打ち込むことや、その心得という意味での用法がよく見られます。
辞書的には上記のように、「芸事にかんする心得」を含んでいますが、実際には単純に、
「趣味・嗜好」の言い換えとして用いられることが多いようです。

「心得があること」(=技能があること、承知しておくこと)と、「好み」は、
必ずしも両立しませんが、「好きこそ物の上手なれ」の格言通り、「好み」と
「心得」を橋渡しする言葉が「嗜み」であると言えるでしょう。

礼儀と教養を押し付けるのではなくさりげなく表現する。
「和敬清寂」の精神でお付き合いを楽しんでいきましょう。


そのまま




「そのまま」とは漢字で書くなら「其の儘」です。
「儘」には成り行きに任せること、という意味があります。
成り行きに身を任せると言うと向上を求めず現状維持、という悪い意味で
とらえられることもありそうですが、仏教の教えで「そのままである」
ということには特別な意味があります。 

其の儘の反対は「我が儘」ではないかと思います。
自分勝手な我心我欲にお任せするのではなくあえて、今、ここのあるがままに
お任せするという選択をするのです。
これが仏教の説く「自由自在」という大切な教えです。 

明治から昭和期にかけて活躍した仏教学者の鈴木大拙の言葉に
次のようなものがあります。

人間以外のものは、いずれも、「そのまま」で存立し、「そのまま」に生きて行く。
松は松なりに竹は竹なりに生きて行く。(中略)ただ人間になると、
「そのまま」のところに二の足をふむようになった。
「これでよいのか、な」と、一歩退いて考え込むようになった。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

ここで鈴木大拙が言っている「そのまま」とは例えば『白隠禅師坐禅和讃』で
冒頭に述べられる「衆生本来仏なり」と同義であると考えて良いと思います。
衆生本来仏なりと言われても私たちがそれを素直に受け入れるのが難しいのと
同じように「きみはそのままで良いんだよ。」と言われてもやはりそれを素直に
受け入れる事はなかなか簡単ではありません。これは何故でしょうか。 

「そのまま」であることをためらう理由の一つには他者と比較、区別することが
あります。本来、自分がそのままで良いと思えばそのままで良いはずなのです。
それなのに、そこに他と比べてああだ、こうだという余計な考えが生まれるから
私たちはそのままであることに二の足を踏んでしまうのです。

哲学くさくなるかも知れないが、人間は根本的な”そのまま”を忘れ、
働かしてはならぬところに「分別知」を働かして、ありもせぬ苦しみをこしらえて、
その中に自分を投げこんだ。
(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

と、鈴木大拙は続けます。あれこれ気を回したり、考えたりすること
(=分別知を働かせること)を「しなくても良い」と言っている訳ではなく、
考えなくても良い所に気を回してしまうから余計に苦しくなってしまうのだ、
ということです。 例えばお墓参りにはいわゆる作法と呼ばれるものが存在します。
テレビなどでもお彼岸やお盆の時期になると盛んに墓参の作法が紹介され、
私たちはどこかでそれを常識として受け入れている所があります。

墓参の時に一番大切なのは目の前のご先祖さまや仏さまを想って心静かに
拝むことのはずなのに、いざ墓参の時になると私たちが勝手に思い込んでいる
「常識」に縛られ、人の目が気になってそわそわしてしまう。

作法を正しく遂行することが気になりすぎて拝む心がおろそかになってしまえば
それこそ本末転倒です。そのままであるというのは外部からの情報を鵜呑みにする
ことではありません。自分自身の「信心」にそのままであるということです。
信心を持っているからこそ正しい作法を知りたいと思うし、墓前の方を思って
手を合わせた時に心が落ち着くのではないでしょうか。 

信じる心に対してそのままである時には、自分が良ければそれで良いという
わがままな心が自然と消え去っています。自分のことしか考えられない。
不安だ。カリカリしている。そんな時に心静かにご先祖さまや仏さまに手を合わせる
余裕はありません。あれこれ考えるのをやめて、あえて「そのまま」の生き方に
飛び込んでみるという選択肢も忘れないように日々を精進して参りたいと思います。

私がストレスに強いのは心の中にいくつものチャンネルを持っているからです。
元々激しい感情の持ち主だったのでまわりは手が付けられなかったと思います。
何度も人生の辛酸を舐めて、年齢も重ねて、哲学や宗教本から冷静な心が芽生えました。
怒りが起こった時にはすぐにチャンネルを変えて違う場面にしてしまうのです。
それでも収まらない時には怒りの電源を切れば良いのです。

しかし創作活動をしているときには「そのまま」の感情を大切にします。
ここでは他人の意見より自分の意思を大切にすべきなのです。
「分不分別」で考えるのではなく、自分の率直な感情を信じるべきなのです。
「これでいいかな」ではなくて「これでいいのだ」と強く言い切るのです。
これは「我儘」ではなく「そのまま」なのです。

辛い時に救われる言葉・心が楽になる名言

【マザー・テレサ】
「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」
人は、何に挑戦しようとするとき、リスクを考えてためらってしまうことがあります。
この言葉は、成功するかしないかという結果よりも、まず挑戦することの大切さを伝えて
います。

【ヘレン・ケラー】
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」
彼女の言葉は、重い障害を乗り越えた上での言葉だけに、私たちの心を奮い立たせます。
困難があっても、挑み、乗り越えることで道が開ける、そのようなことを教えてくれる
名言です。

【ニーチェ】
「まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。」
実績は関係なく、自分を愛し、肯定することの大切さを説いています。
「毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、
翌日も駄目になるおそれがある。」
「今日もこれができなかった」と落ち込むのではなく、
「優先順位をつけつけて取捨選択をしたまでだ」と前向きに考えるだけで、
心が軽くなるものです。

【トーマス・エジソン】
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ。」
エジソンは、幼少期学校を退学になり、最初の発明が営業的に失敗するなど、
決して順風な人生ではありませんでした。しかし、どんなに失敗を重ねても
「上手くいかない方法を知っただけで、これは失敗ではない」というポジティブな
スタンスで努力を続けた結果、偉業を成し遂げています。

【アインシュタイン】
「挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。」
人は挫折や失敗を恐れて、ついチャレンジすることを辞めてしまいますが、失敗を
恐れて何もチャレンジせずに終わる人生は楽しいのでしょうか? 「挫折」と聞くと
マイナスな印象が強くなりがちですが、「挫折」があるのはチャレンジしたからこそ。

私達もそのままに、あるがままに、心のなすがままに生きて行きましょう。


自分らしさ




学校や親から教えてもらうことは「常識と基本」です。
一生懸命覚えて社会へ出ていくと何かが違う事に戸惑います。
世の中では必ず他人と違う「貴方らしさ」を問われます。
今までは「常識と基本」だけで十分だったのにこれからの社会では通用しません。
それらは生成AIが担うのであまり役に立たなくなるという事です。

一般的に自分らしさとは個性です。個性とは幼児期から成長期にかけて培われるもの
です。その貴重な時期に画一化された教育を受けても個性は育ちません。
自分が好きなことや得意な事を教師や親に伝えても反対されます。
教師からはそんなことをしていたら試験に落ちてしまうぞ。
両親からは好きなことをやるのだったら協力しない。これは紛れもなくパワハラです。

一体全体「自分らしさ」とは何でしょうか?

デンマークでは早くから子供達に学びを選ぶ権利を与えます。
学校も教室も、家庭でも、授業のやり方も、自分で選ぶことができます。
青空教室でも近くの美術館でも博物館でも自宅でも構いません。
課外授業で海外へ一人旅に出ても一向にかまいません。
世界中の教育者や親たちが「そんな無茶な」と驚きます。
しかし教育水準が世界一なのにもっと驚きます。

デンマークの義務教育は、小学校と中学校にあたり、年齢にすると6、7歳から
16歳となります。ただ、ここでいう義務教育の意味は、学校へ行く義務ではなく、
教育を受ける義務。
そのため、基準を満たしていればホームスクーリングという形でも可能です。
実際は、8割程度の生徒が公立の小・中学校(フォルケスコーレ)へ通っています。
また、近年わずかながら増えているという私立学校に通う場合でも、
国から80%ほどの補助が出るため、教育費で諦めることはありません。

自身の望む教育を受ける権利がしっかりと保障されているのです。

フォルケスコーレでは「生徒が民主主義社会の一員としての役割を全うできるよう、
教育すること」を目的に据えています。
学年は0~9年生の10年制。0年生は学校への導入段階として設けられている
学年で、保育士の資格をもつペタゴーが担当します。従来は選択制でしたが、
2009年から義務教育に組み込まれました。9年生修了後には10年生があり、
希望すれば一年長く学習できます。また、到達度によっては、再度同じ学年で
学ぶこともあります。その判断は、本人と親と教師との話し合いで決定。

実際、クラスに年齢のちがう子がいるのはごく普通で、本人も負い目を感じる
ことはありません。

OECDの調査によると、GDPに占める教育への公的支出の割合は、

デンマークは6.3%、OECD諸国の平均は4.4%、日本はデンマークの半分程度の3.2%となっています。
(2014年公表)

教育への投資は将来への投資であることは、言うまでもありません。
教育は社会をつくる、といっても過言ではありません。
そして、私たちの教育の場は学校だけではありません。
探究型の学びです。自身の「なぜ」からはじまり、「知りたい」を求め、
「おもしろい」を感じる学び。自分発の学びが人生を彩る、と断言できます。

デンマークは日本と同じく天然資源に乏しい国で、人を育てることが国の成長に
欠かせないことを早くから認識し、投資をし、充実化を図ってきました。
教育はいつでも、どこでも、誰にでも開かれている。
人あっての国の姿勢が見て取れます。

日本の教育者や指導者は子供達をグライダーのように上に引っ張るのですが、
その後、卒業と同時に手を離して自力飛行を強制します。
その為に多くの若者が社会に出ると戸惑っているのです。
私はこれだけ出来るという自信が、いきなりその程度では使い物にならないと
宣告されます。
大人は自分達が通って来た指導法をそのまま当てはめようとします。
自分達も苦しんだのだからお前たちも同じ苦しみを味わえと言っているようなものです。

大学や自衛隊の体育会系にある暗黙の威圧意識です。
最近では宝塚歌劇団も同じような問題が指摘されました。

自分らしさとは何なのでしょうか?
それはわがままで、そのままで良いのです。
わがままは自分の主張です。これがやりたいのだという気持ちです。
そのままとは駄目だとか恥ずかしいとか嫌われるのではないかという気持ちが出ても、
そのままで良いのです。素直な気持ちこそが自分らしさなのです。

それが音楽に表れて自分なりの表現力が高まるのです。
それがデザインに表れて着る人の心をとらえるのです。
それが絵に現れて万人の心を癒してくれるのです。

この人を目指して頑張りなさいというアドバイスは、その人の真似をして
頑張りなさいという間違った言葉に聞こえてしまいます。
あらゆる技量は真似をしての表現だと自分ではなくなります。
技量に自分なりの味つけをすることが大切です。

私が以前紹介した韓国のピアニストがいます。
HJリム・ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ」を発表した女性です。
ベートーヴェンが力を入れたジャンルの一つがピアノ・ソナタです。

スター演奏家になるために必要なことは? 技術やセンスはもちろんだけど、
答えは「音楽コンクールでの優勝」。
ただ、審査員により「お決まりごとができているかな?」が審査されるコンクールでは、

真に個性的なスター演奏家が生まれにくいと言えなくもないのです。

パリで学ぶ韓国出身の若きピアニスト・HJリムは、熱い情熱で独自の表現を深化させ、
コンクールに関心を持たず。母国の両親に見せようとYou Tubeに上げた演奏会の
動画が大評判になった。なんとレコード会社から声が掛かり、24歳という若さながら
大作ベートーヴェンのピアノソナタ全曲でデビューした。
正にインターネット時代のシンデレラ・ストーリー!です。

日本では4つに分売され、最後の第4集(CD2枚組)がこちら。1枚目はゲーテの『ファウスト』から引用した

『永遠に女性的なもの – 成熟期』というテーマで24番、27番、30番、31番を収録。

理想の女性を求め続けたベートーヴェンの賛美や優しさが際立たされた恍惚とする演奏の収録盤です。

私の愛聴盤です。

如何でしょうか「自分らしさ」の教育と、ピアノで「自分らしさ」を表現したHJリム。
どちらも常識的にはあり得ないことです。
私の人生もあり得ないことの連続で「自分らしさ」を作りあげたのです。

もっとわがままで、そのままで自分らしさを表現してください。
昨日お会いしたピアニストへ贈ります。


逆境の中を生きる




例えば、山の中に迷い込み二股の道に差し掛かった時に、右は人が通った跡があり、
左は獣が歩いた道があったとする。果たして貴方はどちらの道を選ぶだろうか?
一瞬にして判断する時に多くの人は人が歩いた右の道を当然選びます。
サバイバルの方法では必ず獣が歩いた左側の道を行けと書かれています。
遭難した人が歩いたかもしれない右側の道は一見安全なように見えるが、
果たしてそうなのだろうか?それよりも獣が頻繁に行き来する道の方が確かなのである。

獣は本能的に安全な道を選んでいるからです。

私は今まであえて困難と思える道を選んで来ました。
楽だと思える道は多くの人が選ぶ道でそこには競争があっても癒しはないからです。
困難から生まれる癒しとは険しい山道を登り頂上に着いた時に感じる爽快感です。
スポーツで言えば箱根マラソンのように自分の任された区間で息も絶え絶えに走り切り、
次の走者へ襷を渡した途端倒れてしまうランナー。

しかし彼らがゴールに集まった時にはいたずらをした後の子供の笑顔に溢れています。
誰しもが辛いと思えるランナーにはなりたいと思わないが、彼らはあえて過酷な道を、
自分のために、仲間のために、学校のために走れる喜びを知っているから走るのである。

私が担当した多くのヒットは制作会議で反対されたものがほとんどでした。
それは、管理者は安全と思われる道を進めるからです。
暴走族の親分の歌は会社に似つかわしくない、アメリカングラフィティーのひ弱な歌は
時代に合わない、黒人音楽は日本人に合わない、

女子高生の放課後の歌を誰が聞くのか等々いろいろ言われて来ました。

しかし、それらが全て爆発的なヒットとなったのです。

みんなが選ぶ安全道には過酷な奪い合いがあり、
みんなが選ばない道にこそ勝利があるのです。

禅語の中に「七走一坐」と「一日一止」という言葉がある
(『心配事の9割は起こらない』枡野俊明著/三笠書房)。
「七走一坐」とは、七回走ったら一度は坐れという意味だ。
ずっと走り続けていないと仲間から後れをとってしまう──ついつい私たちは
そんなふうに考えてしまう。しかし、長い目で見れば、ずっと走り続けることは
良いことではない。しばらく走ったら休息をとり、自分の走りを見直すのが賢明である。
「一日一止」とは、一日に一回は立ち止まりなさいという意味だ。
ずっと歩き続けるのではなく、一日に一回くらいは自分の歩き方を見つめ直す。
そうすることで、正しい歩みをつくっていくことができる。
「一止」という字を見てみよう。「止」の上に「一」を乗っけてみると「正」という
字になる。一日に一回、止まって自分を省みることは正しいのだ。

最後に最も多くの関係者が反対したのは「韓国ドラマ」と「中国古典演奏」だつた。
朝鮮人のドラマなんて日本人は見ることはないお前はプロデューサーとして終わった。
嫌いな中国のカビの生えた音楽を誰が聞くのか、
CDショップの一番目立たないところで売れ残るだけだと言われました。
結果はご存知のように韓国ドラマは日本人の女性の心を捉え、その後アジア各地でも
大ブームを起こしたのです。中国古典楽器奏者の「女子十二楽坊」も一瞬にして
世の中で空前の大ヒットとなったのです。これは演奏家のヒットの記録を作りました。

「2人の商人」

昔、江州の商人と他国の商人が、2人で一緒に碓氷の峠道を登っていた。
焼けつくような暑さの中、重い商品を山ほど背負って険しい坂を登っていくのは、
本当に苦しいことだった。途中、木陰に荷物を下ろして休んでいると、他国の商人が
汗を拭きながら嘆いた。「本当にこの山がもう少し低いといいんですがね。
世渡りの稼業に楽なことはございません。だけど、こうも険しい坂を登るんでは、
いっそ行商をやめて、帰ってしまいたくなりますよ」

これを聞いた江州の商人はにっこりと笑って、こう言った。
「同じ坂を、同じぐらいの荷物を背負って登るんです。あなたがつらいのも、
私がつらいのも同じことです。このとおり、息もはずめば、汗も流れます。
だけど、私はこの碓氷の山が、もっともっと、いや十倍も高くなってくれれば
有難いと思います。そうすれば、たいていの商人はみな、中途で帰るでしょう。
そのときこそ私は1人で山の彼方へ行って、思うさま商売をしてみたいと思います。
碓氷の山がまだまだ高くないのが、私には残念ですよ」

最後に皆様も好きな方や得意な方ばかり求めるのではなく、あえて苦手な方へ挑戦をして
みてください。辛いですけれど結果はどうであれ満足感と爽快感は味わうことは出来ます。
私はこれからも逆境の中を生き抜いていきます。


風のように




振り返れば長い人生も春の風のように通り過ぎた。
一瞬の瞬きの中に消え去る景色のようだった。
少女のため息のようで美しくもあり儚くもあった。
夏の日の陽炎のように淡く滲み出るような揺れる景色の中に、
自分の姿を映し出した。
あー揺れる空想の世界のように掴みきれないもどかしさがある。

幼き頃の悲しみは街頭芸人の踊りのように笑いを誘って消えていく。
何故だろうその寂しさは朝顔に垂れる早朝の雫のように消えていく。
夢は回転扉のように風に押されてただ回るだけ。
カラコロと回る押しグルマのように同じところから抜け出せない。
悪戯をして細き畦道のぬかるみの中を歩き続けて帰るだけ。
あー銀河の中で迷子になった子供のような不安が覆い尽くす。

思い出は桜、思い出は向日葵、思い出は曼珠沙華、思い出は梅の花。
手水のそばの水琴窟のような美しき鶯の声。
絹の裾が擦れる音に混じってため息が漏れる。
水墨画の中に色鮮やかな寒中梅を見る時期に死んでいく。
頑張った過去を振り返りながら思い残すことは何もない。
私は一人で生まれて一人で死んでいく未練も残さず。
あー命の尽きる瞬間の美しい宮殿よ幾つもの思い出を食い散らかして行くのだ。

何故かこのような詩が突然浮かんできた。
詩人でもない私の散文詩である。価値なき言葉の羅列である。

「秋の夜長(よなが) 冬 未だ来たらじ」

勿体ぶった人生の残りを潔く後継者へ伝えるつもりである。
言葉を探して言葉に行きた人生を惜しむつもりはない。
恩を学び、恩を返して行く人生だったのかも分からない。
この早朝の瞬間も言葉を探している。

真理は、実は間近にある、ところがこれをかえってどこか遠くにあると求めてしまう、

真実は簡単であるのにかえって難しくしてしまっているというのです。

嵐はかならず去る
火はかならず消える
夜はかならず明ける
このことがわかれば
大抵のことは解決する

坂村真民先生の詩を今の時期に読んでみると大きな力をいただく思いがいたします。
「もしこのまま寿命がつきるならば、願わくは大智慧の力をうけ、それによって
正念に住し、 来世は因縁のある家に生まれて、早々に出家して仏道を求めよう。」

言葉の持つ魔力は人の心に断りもなしに入り込むことである。
そして喜びを、悲しみを誘い生きる力になることである。
言葉は魂を震わすことから「言霊」と呼ばれる。
幼児期に勝手に覚えた言葉だから自分のものだと勘違いをするなよ。
大切に扱うのだ。

神様が人間は様々な感情が生まれるから伝達手段として言葉を授けてくれた。
一万年前の縄文人から簡単な言葉は生まれている。
それは海を渡って渡来人が頻繁に来るから必要とされて簡単な言葉は使っていたのだ。
縄文土器を見るとあの緻密なデザインは言葉なくして表せない。
それを子孫に伝えるために簡単な言葉は使っていたと思われる。

縄文人の祈りとアイヌ民族の祈りは同じです。
取った獲物は3/1は自分達(家族)のため、3/1は自然のため、残りの3/1は未来の
子供達のためと祈りながら分配するのです。
これをワンサードの教えと言います。奪えば足りず、与えれば余る。
世界は奪い合うから戦争が絶えないのです。

風のように流れる雲のようにゆったりとした気持ちで過ごしたいものです。

達磨大師が伝えてくださった禅の心は、文字では表現しきれません。
このことを「不立文字」と言います。 文字は日常の中で何か伝えるためには、
とても大切なものです。しかし、実際に感じたことをいくら文字や言葉を使って
表現しても、表現しきれるものではありません。
温度、痛み、喜び、悲しみなど、自分自身で体験してみることでしか
伝わらないことがたくさんあります。 
禅では体験を大切にします。だからと言って、文字や言葉が不要ということでは
ありません。文字や言葉に固執したり囚われたりすることなく、実際に体験をし、
あるがままに世界を見ていくことを大切にしているのです。

このような投稿もありました。
ある和尚様の本を読んで、どうしてもその和尚様に会いたくなってお寺を訪ねました。
そうしたら、その和尚様が参道を歩いていらっしゃったのです。
その歩く姿が坐禅をしているように美しくて感動しました。
ますますファンになりました。」

風のようになにものにも捕らわれない生き方の中で、その姿の存在感を見て
感動してくれる人がいることに感動しました。

風のようにあるがままの人生をお過ごしください。


自然の中に




「自然の中にいると人を感じる」この言葉は山伏修行者星野文紘の言葉です。
私は壁のように剃りたつ険しい山も見ると登るぞと気合が入るが、後ろにいる
後輩山伏は、これは無理でしょうと答える。無理という思考が働くために
やる前から諦める。この時点で人から人間の違いが出る。

もっと気ままにしたい事を素直に信じて行えば良いのに躊躇するのは人間だ。
私は「自然、祈り、命、魂」の四つを大切にしている。
人は無意識、人間は意識を大切にするがもっと自然に従えば良いのだ。
人間は考え過ぎなのだ!もっと解放されるべきである。

考えるな!そのままで良いのだ。自閉症の人にもそのままでいいのだという。
殺人を犯した人にもそのままでいいのだという。人を殺したお前はそのままでいいのだ。

自分で選んで望んだからそのままで良いのだ。何も解放されるものは無い。

わが師哲学者行徳哲男(91歳)は吠えた。
野生のカモ、広島原爆、キルケゴール、斎藤茂吉に当てた芥川龍之介の最後の言葉
「末期の目」、呵々大笑、富士登山など終わりなく吠え続けた。
死は縁起が悪いとか汚いとかいうけれどそんなものじゃない。
お悔やみは言わない、葬儀の際にも位牌にむがってお前と語りかける。
身体は死んだが魂は存在する。そこに話しかけるのだ。

死については日常世界から非日常の世界へと移るだけ。

生成AIの中にはデーターがあるが喜怒哀楽は無い。最終的に勝つのは人の心である。
そのためにも自然があり祈りが、命が、魂があるのだ。

これからの時代は頭で考えるのではなく感性で感じる世界が正しい。

今世の中にある問題は善悪、正邪、損得の二元でを決めたりするが、

人ならば目の前の死にゆく姿を許せるわけはないはずだ。
毎日戦争で亡くなる人がいるのに理屈で考えるから身動きがとれない。
累々と横たわる屍を他の国の出来事と達観する。

自然(じねん)の会2023/12/10
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白

芥川龍之介「末期の目」「ただぼんやりした不安」という有名な一節も記されている。
この遺書のなかで、個人的に興味を惹かれる言葉が、「末期の目」である。
氷のように透み渡った病的な神経の世界で、今にも自殺に向かおうとするとき
だからこそ、いっそう自然は美しく見える。
それは、世界が「末期の目」に映るからだ、と芥川は説明する。
死を近いものとして感じたことのある人間なら、もしかしたらこの言葉の
意味することは、感覚的に理解できるのではないだろうか。
そして、「末期の目」に映る世界の美しさを表現することができるとすれば、
それこそが芸術家と言えるのではないか、と思う。

作家の川端康成は、「末期の眼」という昭和8年に書かれた随筆のなかで、
この芥川の言葉について論じ、「あらゆる芸術の極意は、この〈末期の眼〉であろう」
と書いている。その「目」で世界を見ること自体は、あるいは「容易なこと」かも
しれない。しかし、末期の目で世界を眺めながら、自殺しないこと。
その世界で見る美しさを、寸分の狂いもなく、この手にすくい取ること。
画家にせよ、詩人にせよ、これが芸術家として存在し続けることの難しさでもある。

ちなみに、芥川龍之介に傾倒していた堀辰雄の小説『風立ちぬ』では、
死の病に冒されていた節子の台詞として、「あなたはいつか自然なんぞが本当に
美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけと仰ったことがあるでしょう」
という言葉も登場する。
出典 : 芥川龍之介『或旧友へ送る手記』

人生に悩んでいる人へ。キルケゴールの名言
「人生は後ろ向きにしか…」
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」
Soren Kierkegaard(セーレン・キルケゴール)

英語には “Everything happens for a reason.” というフレーズがあります。
これは「世の中のあらゆる出来事は理由があって起こる」という意味で、
たとえそれが悪い出来事であってもそれは自分の成長に必要であるから起こるのだ
という、そうした考えを背景にした言葉なのですが、ただ、その出来事が将来の
自分にどのような影響を与えるかは後から分かることです。

例えば、誰かと出会って、その人が自分の運命の人だと思って、ただ、本当に
その人と一生一緒にいるかは分からないですよね。
後から振り返ると、その人との出会いは自分に失恋のつらさを教えるための
ものだったということになるかもしれません。

また、中国の古代思想家孔子はこのような言葉を残している。
「人生における最大の栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
何度転んでも起き上がることにあるのだ」

「野鴨の精神」
2011年にWeb上にアップされた「IBM創立100周年記念サイト」には、
「Wild Ducks(野鴨たち)」という映像が紹介されています。
「野鴨の精神」はIBMの底流に流れるものであり、1959年当時IBM会長だった
トーマス・ワトソンJr.は、「ビジネスには野鴨が必要なのです。
そしてIBMでは、その野鴨を飼いならそうとは決してしません」と言った
というのです。1960年代から1980年代にかけてコンピュータの世界に君臨した
トップ企業を支えた「野鴨の精神」とは、どういうものなのでしょうか。

「野鴨の話」と実存哲学
この話は、コペンハーゲン生まれの哲学者、セーレン・キェルケゴール(1813-1855)
が残したものです。7人兄弟の末子として、家政婦から後妻になった母と、
裕福な商人の父の間で育った彼は、若い頃から憂鬱な傾向がある一方、物事を深く
見据え、容易には承知しない実存哲学者の先駆けとして、『死に至る病』などの
著書を残しました。

なぜ、「野鴨の話」が実存哲学とつながるのでしょうか。それは彼の死後、
ドイツの哲学者ハイデッガーが、この話を「被投的投企の哲学」と呼んだからです。

人間は誰しも生まれる場所も時間も選べない。ハイデッガーの言う「投げ込まれた
(被投)」状態ですが、その限られた状態の中で、これからどういう在り方を
すべきかは、自分の責任で瞬間ごとに決めていけます(被投的投企)。
哲学用語にすると難しくなりますが、「野鴨」に託されているのは、
そのことだというのです。

それに比べると、冒頭のIBM会長の解釈である「飼い慣らされてはいけない。

飼い慣らしてはいけない」は、いかにも明快に聞こえます。
実は「投企」は英語ではプロジェクト(project)ですから、まだ誰も行ったことのない
ビジネス上の冒険を進めていくことは、「被投的投企」の連続状態とも呼べるわけです。

私は自然(じねん)の会に参加して。
行徳哲男、星野文紘、不二山那珂の3人の怒涛の激白を聞き震えました。
魂がその言葉を求めていたからです。

良き教え良き言葉を聞くことは人の目覚めに役立ちます。