子供たちに贈る言葉




心ある大人たちにも読んでいただきたいと思います。

「あとからくる者のために」坂村真民

あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために

未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ

「雨にも負けず」宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

「啓発録」橋本左内

一、「稚心を去る」:自分とその運命を変えようと思うなら、結局、自分の手で
何とかする以外に方法はない。その第一歩は「稚心」、つまり「子供っぽい
心」を捨て去ることである。
ふる
二、「気を振う」:負けてたまるか、くじけてなるものかという負けじ魂こそが
人を変えるエネルギーになる。常にそうした心を持ち、緊張をゆるめず油断
のないようにしなければいけない。
三、「志を立てる」:夢や目標を持て。自分の心の向かうところをしっかりと決
め、一度決心したからには、その方向を目指して絶えず努力するべきである。
つと
四、「学を勉める」:学問を学ぶことは大切である。そして、それを世の中のた
めに正しく生かすこともまた大切である。
えら
五、「交友を択ぶ」:互いに切磋琢磨できる良き友を選ぶこと。自分を高めてく
れ、心から尊敬でき、何かあった時に、真剣に心配してくれる友達こそ、何
よりも大切にするべきである。

左内は、十五歳という人生の節目に立てたこの誓いを守り、短い人生ながらも
素晴らしい人材として、教育や政治に大きな成果を残しました。
そして安政の大獄において二十五歳の若さで死罪となった。

教える立場の大人たちよ!
いつの時代も人の道、王道(基本)は変わりません。
お手本となる偉人たちの言葉を子供たちに伝えてください。
そして言葉の意味を話し合う機会を作ってあげてください。

子供たちよ!偉人たちの行いを学ぶのです。
同じような年齢の時に何をしていたか、何を考えていたか、何を行っていたか、
学ぶのです。

子供達へ贈る「基本の教え」

履き物を揃える、元気に挨拶をする、姿勢を良くする。この三つを守りなさい。
そして、正しい行いに努めなさい。基礎は学びなさい。友達と仲良くしなさい。
そのうえに興味のあることは二倍の時間を割きなさい。
いつも周りの人に笑顔を提供できる人になりなさい。

未来は君たちが作るのです。

陰翳のバランス




日本家屋の中に見る影の美しさを讃える。

「西洋人が日本の座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで
何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼らとしてはいかさま尤もであるけれど、
それは陰翳の謎を解しないからである。
われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、
土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。
そして室内には、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この関節の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力ない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。」
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」

海外であれば窓を大きく取り家の奥にまで光が注ぐような建物が理想とされる。
西洋は「有の思想」存在する全てのものを受け入れる。
家具も置物も観葉植物もそこに有ることを意識する。

日本であれば、庭石を配置して、風を取り込み、影を愛でる建物が理想とされる。
日本は「無の思想」形なきものの形を見る。
光や影が醸し出す空気感を楽しむのである。

見栄えを気にする海外の人と「わびさび」を重んじる、
日本人の感覚には大きな隔たりがある。

木造建築の過ごし方と石造建築の過ごし方では大きな違いが当然ある。
無駄を無駄としてとらえるか、無駄を無駄ではなく有用としてとらえるかが、
その人のセンスとなり人格を表すことになる。

「情的文化は形なき形、声なき声である」

我が国の文化の特徴として「情的」なものがある。
「知的」なものへ傾く西洋とも、「行的」なものへ傾く中国とも違っている。

老荘思想にも見られるが、「時」は無より来て無へ帰る。
時は「絶対の無の自己限定」である。そこでは、常に「無」が根底にあるので、
「形」をもって今ここにあるもの、その背後に「無」が透かし見られる。

日本文化では、ものの「形」を通して「形なきもの」を見る。ものに出会って、
その新鮮さに驚くと同時に、そこにある「無常」も透かし見るのです。
あるいは「形なきものの形」を見ることになるのです。
「情的文化は形なき形、声なき声である」
西田幾多郎「永遠の今」より

「人皆知有用之用。而莫知無用之用也」荘子
人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない。

使い手の便利や利用価値を重視するあまり、
役に立たないところに価値があることを見つけることが出来ない。

それは粘土でつぼを作るときに空間があるから用が足りるのであって、
空間を無駄だと定義したら「壺」の役目は立たなくなる。

枠から外れた人間を「落ちこぼれ」と差別して、「無用」というレッテルが張られてしまうと、普通の暮らしでは成り立たなくなるので社会の底辺で暮らしていくしかなくなる。
しかし社会には知識人は無用で、健康で体力を重視する有用な仕事は幾らでもある。
この世には無用な人間など存在しないのである。

「陰陽不至の処、一片の好風光」

一片とは、切れ間なく広々とした様子のこと。風光とはすばらしい景色のこと。
陰と陽を相比べることなく、どちらにも偏ることがなければ、
すばらしい景色になるということです。禅語

何かを選択して生きていく。右か左か。選択しなければ進まない、そう生きて行けない。
でも選択しなければ楽なんだろうと思う。

形あるものを見つめて形ないものを不要とすれば、世界のバランスが崩れてしまう。
今の世の中は形あるものを奪おうとして、
国を、地位を、財産を、守るために頻繁に不正が行われる時代である。
心が貧しくて欲に執着すると人間もバランスを崩して倒れてしまうのです。


積み木のバランスを崩さずに併せ持つ心を養いましょう。
我々の国日本は調和と尊重を大切にする国です。

文章の組み立て




英語は26個のアルファベットと数字の組み合わせで文章が成立する2表記が基本である。フランス語も、ドイツ語もロシア語もほとんどの国が2表記です。
日本語だけは5表記です。漢字・ひらがな・カタカナ・数字・ローマ字です。

多くの2表記の国では言語によって左脳の発達を促し、
それと別に右脳を刺激発達させるために、哲学・政治・芸術・体育・芸能など、
リベラルアーツの教育を大切にするのです。

日本語表記にはもう1つ特徴があります。

縦書きと横書きを無意識のうちに使い分けているのです。
とくに縦書きによる表現は、恐らく右脳に多くの刺激を与え、
縦書きの文字を読むことによって、内容が右脳で映像化されていくのでしょう。

更に文章において左から右に読む横書きの表現は、
例えば国語以外の教科書や学術論文等、理論書に解釈するものが多いように思います。
眼球が上下に動くのは恐らく右脳への刺激が強く、
眼球が左右に動くのは左脳への刺激に繋がっていると考えられています。

最近日本では絵文字も加わり世界でも類を見ない6表記になっています。

(参考文献「我思GAON」中澤弘幸)

日本の技術が、日本の伝統文化が、日本のあらゆる所作が、
繊細で美しいのはこのような脳の訓練があるからだと思います。

欧米人の二項対立の考えはマーシャルアーツ(戦闘)の考え方です。
勝つか負けるか、前進するか後退するか、はたまた勝者か敗者か、
常に答えを即求めることが大切だと教え込まれてきたのです。

これは2次元の発想方法です。文字に膨らみがありません。

そしてよく言われるように外国人は虫の音を騒音(ノイズ)としてとらえ、
日本人は虫の音を風流と受け止めるのは、
虫の音を左脳で聞く外国人と虫の音を右脳で聞く日本人の違いからです。

ロゴス的理屈の左脳で聞くか、エートス的情緒の右脳で聞くかに分かれます。

日本の親は子供に秋の風情(月見・お団子・すすきなど)を教える時、
虫の音と一緒に教えるので、情景が立体化されて美しい鳴き声に聞こえるのです。

これが3次元の発想方法です。現象と情緒を組み合わせて映像化するのです。

そしてもうひとつ日本の特徴は何気ないところに美をもとめる心です。
それは言葉や文章の立体化を図るときにとても重要な要素になります。

例えば、建築のなかで日差しよりも日陰を好のむのは世界では日本だけかもしれません。

谷崎潤一郎が書いた「陰翳礼讃」に日本人の磨ぎ澄まれた感性がちりばめられています。


「そして室内には、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この関節の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力ない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。」
「陰影礼賛」より一部抜粋

しかしこれに反論しているのが編集工学研究所所長松岡正剛である。
つまらない文章で日本人の美を歪曲した文章であると言い切っている。
私はこのような専門家による反論が大好きである。

文章の立体化をする時に必要なのは反対意見も必ず取り入れることです。
主軸をぶらさずに脇を打つことでより立体的になる。

特に気になった作品に関しては、多くの人の意見を取り入れながら、
自分の解釈も加えて、どこまで立体的になったか検証をします。

更に、同じ作家の違う作品を何冊か読むことによっても主体が見えてくる。
その時代の背景や文化や経済状態も文章の中には隠されているからです。
作家の意図するところが分かれば、より鮮明に文章が立ち上がります。

文章に酔うのではない、作家の本音に迫ることが「文章の立体化」に
つながるのです。

そして言葉もそれらに影響を受けて立体的になるのです。

これからのAIの時代には物語を立体化することによって、あらゆる世界と共存できる可能性が増えていきます。

「間」」Improve your sense




文字や言葉にできない間(ま)という現象を受け止めましょう。

間の感覚を鍛えてください。
間は日本人に与えられた能力です。
日本は文化芸能全般に「間」の力を配分してきたのです。

音と音の間(あいだ)に空間(時間)があることを知るべきです。
言葉と言葉の間に聞こえない声を聞くべきです。
雨の音にも風の音にも雪の音にも間があるのです。
浮世絵にも日本料理にも歌舞伎にもお能にも間があります。

この間(ま)の発見をする為に頭の中に空白なスペースを作るのです。
あなたの頭の中に沢山の不要な情報が詰め込まれていませんか?
残すべき情報と捨てるべき情報を振り分けるのです。
記憶の断捨離をするのです。

知識で間(ま)を見るのではなく感性で見なければ間(ま)を見ることが出来ません。
隙間を開けるとは、物と物との間のわずかに空いている所を広げることを言います。
視覚の物を完全なる実態と捉えるのではなく、物と心に隙間を開けてみることが大切です。

一番早い間(ま)の習得方法は風光明媚な自然界へ飛び込むことです。
目を閉じたまま大気に触れ、自然界の音を聞き、宇宙に抱かれるのです。
川の流れや、鳥の囀りや、季節の草花にも動的な間があります。
その中で自分を動物に近い状態において、間から来るメッセージを聞き、心を整えるのです。

この方法は脳内のセロトニンを高める効果(音域によって発生)があるので、
最近では音楽療法としても取り入れられています。

ジャズのライブもインプロビゼーション(即興音楽)で間の演奏をします。
聴衆はこの絶妙な間の中で自分の感情と反応して興奮するのです。
演奏者は与えられた小節の中で自由に音を作り上げていきます。
まるで言葉を楽器に変換して語りかけるようにまた叫ぶように演奏します。
お気に入りのアーティストの演奏が予想通りの展開だと立ち上がって拍手を送ります。

また華道の展示会へ行きバランスの良い作品を見つめてください。
花を見て葉を見て色合いを見てください。絶妙な間があることが分かると思います。
そして生け花では「数少なきは心深し」花を入れ過ぎないことが重要です。
花を入れ過ぎて間を詰め込まないということです。

「間に合った」や「間が悪い」は時間の観念です。
相撲の「はっけよい」は発気(はっき)良いか、間の準備が出来たかという意味です。
四股を踏んで間を取りながら息を吐く用意が出来ましたかという意味です。
相撲は一瞬で勝敗が決まります。呼吸1つで気合が変わるのです。

相撲は、地の邪気を祓い、清める四股を踏む行為によって、神事と関ってきたのです。
そして武士は肉体を鍛えるために積極的に取り入れた競技です。

武道の「間」は生きるか死ぬかの間です。間が悪いと確実にどちらかは死にます。
踏み込むタイミングや引き寄せるタイミングを脳ではなくて身体で覚えるのです。
刀の刃先を見るのではなく相手の身体全体を見て動作の予測をするのです。

頭で考えると一瞬の間が遅れます。心眼で捉えると次の展開の流れが見えると言います。
そして間は「魔と真」と解釈するのです。魔力・邪魔のまや真剣・正真のまとして使われます。

基本的に武術は攻撃ではなくて守りなのです。

人間関係にも時節はあります。相手の気持ちを無視して一方的にことを推し進めると、
お互いに気まずい思いをします。
言葉や顔の表情で間(ま)を読むことが出来れば時節に叶うことが出来ます。
お気を付けください。

「間」Improve your sense
あなたの感覚を向上させるためにも「間」を意識してください。

限界の先には




幸福の限界はあるのだろうか?
絶望の限界はあるのだろうか?
悩みの限界はあるのだろうか?

「うを(魚)水をいくに、ゆけども水のき(際)はなく、鳥そらをとぶに、
とぶといへどもそらのき(際」はなし、しかあれども、うをとり、
いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。
要小のときは使小なり。」
「正法眼蔵隋文記」道元

魚は泳げども、泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。
鳥は飛べども、飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。
いずれも究極まで行こうとするのでなく、その都度必要なだけ進むにすぎない。

要するに人間も人生の中で幸福の絶頂を望むが、四苦「生老病死」からは逃れられず、
絶対に「死」からは離れられないのである。
人生は生まれたときから一歩ずつ頂点の死へと進むにすぎない。

限界を目指して修行は行われるが、限界の先に到達した人はいない。
悟りを得た修行僧もその限界の先に何度も目指しているが到達した者はいない。

宇宙に限界が無いのと同じで、人間界のき(際)は無いのである。
その都度必要な分だけ前へ進めば良いのである。

千日回峰を何度か経験した僧は「大阿闍梨様」といわれて神のように扱われるが、
決して神になったわけでは無い。本人の満足は修行に必要な分だけ進んだか否かである。

理念に縛られて理想国家を作ろうとしても、国民の協力が得られずに
限界の先へ一人で暴走とすると国家存続の破滅が迫る。
「賢者は歴史で知り、愚者は経験で学ぶ」帝王学

どれほど高い地位にいても自分の「分」を知ることである。「小欲知足」
少なくても足りることを知れば戦争など起こらないのである。
奪い合えば足りず、譲り合えば余る。ワンサードの精神を学ぶべきである。

自分の能力を過信するなかれ、しかし小さくまとまる必要はない、
必要な時に必要な行動を起こせるかが大切である。

「君に忠、親に孝、自らを節することを厳しく、下位の者に仁慈を以てし、
敵には憐れみをかけ、私欲を忌み、構成を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」
武士は名誉を重んじて恥を嫌う。親に対する「恩」は一生かけても返済する。
武士道の基本を肝に銘じよ。

修行僧はあちらこちらの寺へ行き、名のある禅師に問答を仕掛ける。
いわゆる、「禅問答」で相手の器量を図ろうとする行為である。
しかし、多くの場合は禅師の一言で修行を一から始めなければならなくなる。

お釈迦様の説法された真義を理解するために「只管打坐」で何年も修行に耐える。
これは小乗仏教の考えで自分が悟りを得なければ人を救うことは出来ない。
大乗仏教は先ずは人を救え、救いながら修行に励み、そして悟りを得るのだと教える。

知識で考えることを当たり前のことだと思わず、
本当の答えは何かと自問自答を繰り返すのである。
感性を研ぎ澄まして真理の追究を限界まで追い求める。

その為に禅寺で寝泊まりをして、精進料理を食して、簡素な身なりで托鉢に出かける。
悩みに行き詰まったら、評判の良い禅師に教えを乞うために旅に出る。
決して禅僧に個人(プライベート)の時間は無いのである。

そして禅寺に着き開口一番「禅とはなんぞや」と問いかける。
禅師は微笑みながら何回訪ねてきたのかと聞く「初めてです」
そこで「喫茶去」と応える。
「喫茶去」と言われれば、今日のところは、俺の淹れたお茶でも飲んで
出直してこいという意味である。

そして、修行中のある日、鹿威しの音や、カケスの鳴き声や、満開の桜を見て
「悟り」に気づくのである。

般若心境に書かれている「色即是空・空即是色」そこにすべては無い、
しかしそこにすべてが存在する。
この「無」の境地を西洋人は理解が出来ない。

存在とは誤認識の中の錯覚であり、全てのもののミクロの細胞までたどり着けば、
目に見えないタンパク質で作られた二重らせん状のDNAがあるだけである。

そこには何もないのである。しかしそこにはすべてが存在する。
視覚で捉えた世界を在ると信じるのは間違いである。
視覚で見えない世界に神や仏が存在することを知るべきである。

幸福の限界はあるのだろうか?
絶望の限界はあるのだろうか?
悩みの限界はあるのだろうか?

人間界に限界という定義は無いのかもしれない。

自分の道




「自分の道を決めるところから始めよう」

子供の時から好きだったことや望んでいたことを書き出してみよう。
自信があるから、学びたいから、興味があるからで良い!
私は学生時代に将来何をするか考えていた時に海外へ出る決心をした。
音楽の勉強なら当時はアメリカか、イギリスが相場だった。
最終的には好きなアーティストが多くいるイギリスへ行くことにした。
それと同時に自分の経歴に海外留学が入れば音楽業界で優位に立てるかと思った。
海外でも活躍できるプロデューサーになることが夢だった。

「自分の道を準備しよう」

資金作りのために学校近くの工事現場で1年間アルバイトをした。
同級生や先生は見て見ぬふりをしてくれたのだがどうでも良かった。
1年後、パスポートを手に入れ下宿を引き払い横浜に向かった。
同じ時期にイギリスに行く仲間と横浜で会って決意を固めた。
我々が選んだルートは北回りで横浜から船でソ連、北欧経由
(シベリヤ鉄道、エアロフロスト、フェリー)でロンドンに入った。
入国審査で問題が発生したが自分の道なので乗り越えて入国を果たした。
その日に、それぞれの道を歩くためにロンドンの街で分かれた。

「自分の道を歩き始めよう」

どれぐらいの期間で、幾らぐらいの経費が掛かって、どのような成果が作れるか、
そして収入を得る方法は見つかるのか、心配事は山ほどあったが、
海外生活のワクワク感の方が大きかったので、何もかもが苦にはならなかった。
ロンドンに到着して不動産会社へ行ってアパートの契約をした。B&B
その後に英会話の学校へ行って入学手続きをした。学生ビザの取得が可能になる。
翌日にはロンドンの街を歩きながら、手当たり次第にレストランへ飛び込み
「Give me job」で掃除と皿洗いの仕事を始めた。
勿論、不法就労なので入管の立入検査のたびにレストランの裏口から逃げたのです。

「自分の道に未来はあるか考えよう」

漠然とやりたい仕事が音楽業界で働きたいと思っていた。
その為には英国のアーティストに会いたい気持ちで、
ジャズクラブやライブハウスへ通った。
ジェームズテーラー・エルビンジョン・バーニーケッセルなどと出会った。
音楽雑誌ローリングストーンで当時の音楽ビジネスの状況を調べつくした。
そして海外プロデューサーの存在を知った。
時折ロンドンの地下鉄の通路でボブディランを歌い小遣い稼ぎをしたのも懐かしいです。

日本に戻りCBSSONYに入社。電話一本で一流会社へ入社したと話題になりました。
その頃の日本のレコード会社は、作曲家の先生と作詞家の先生に曲を依頼して、
レコーディングも編曲者に頼んで、出来上がったマスターをレコード工場へ送る
作業をしていました。ディレクターもプロデューサーも不在の時代であった。
宣伝や営業も代理店に頼んであとは座ってレコード店から注文を待つのみでした。
私はここにメスを入れて独自のスタイルでヒット曲を量産したのです。

「自分の道は他人が歩ける道になったのだろうか?」

若い時からあらゆるものに興味を持ち挑戦して来ました。
自分で選んだ道なのでまったく後悔は無いのです。
少しの挑戦と、それに伴う行動と、マーケティングの手法を取り入れただけです。
人生において挫折を何度も味わいましたが後悔は一度もしていません。
どんなに時代が変わろうと基本的な仕事のやり方と、人としての生き方は変わりません。
これからは歩いてきた道を多くの人に使っていただくために、「恩学」を通じて
教えていきたいと思っています。

 正気の歌
世の中はよこしまな気風がみなぎり正しい事が通らない世相になっている。
しかし天地には正気がある。正しいと思う事を貫徹し正気を貫こうとの歌。
「天地に正気あり、雑然として流形を賦す。下は河獄(かがく)となり、
上は目星となる。人においては浩然の気となり、沛乎(はいこ)として
蒼冥(そうめい)にみつ」。
「天地には正しい気がある、混然としてはっきりしていないが、地上では河や山となり、天に上れば太陽や星になる。人においては浩然の気となり、広がり宇宙に満つ。」

「文天祥」
貧しさは強固な精神と肉体を生み、豊かさは精神を病め、
肉体を虚弱化させる。それはいつの世も変わらない事なのだけど、
南宋の最後の丞相文天祥。20歳にして科挙を状元(首席)で合格。
しかしすでに南宋は元との戦いに敗れつつあった。
元との戦いに転戦するも、捕らえられるが、脱獄し各地でゲリラ活動を行う、
再度捕らえられ元の都、大都(北京)に送られる。
モンゴルの皇帝フビライはその才能を惜しんで何度も臣下になるように進めたが、
断固として断り、獄中で「正気の歌」を詠む。享年47歳。処刑される。
フビライは「眞の男子」なりと評したという。

挑戦を恐れるな、信念を貫け、大義のために死をもいとわず。
自分の道を正々堂々と歩き続けよう。

心の時代




モノからコト、コトからサービス、サービスからココロ、物質世界から精神世界へと変わる。
啓蒙思想ルソーが定義したフランス革命「自由・平等・博愛」とは、
人間本来の理性の自立を促す。「尊厳」とは、原義はラテン語の「光で照らされること」です。

人々の心の中を光で照らすということは「夢と希望」が存在しなければなりません。
尊厳を必要とする18世紀西洋文明の時代がいかに暗くて陰湿であったかが
よく分かります。

人間の尊厳の再認識「人間らしさとは?」

人間とは二足歩行、道具を使う、言葉を話す、知識を使う動物である。

我々の学問は一般的に見えるものを対象に繰り広げられる。(唯物論)
疑問があっても目に見えないものは全て心の問題となる。(唯心論)

そして答えの無いものは全て「神の領域」だと教えてここから逃げの学問が始まる。

科学が追求する領域にも限界を感じる。宇宙無限の解明がなされないまま現在に至る。
近代哲学分野の「国家と民衆」人間が中心に国家を作り上げる。(過去は神を中心に国が成立とした)ホップス・ルソー・ロックが中心人物で、この考え方を提案した。

そしてあらゆる問題は目に見えない「絶望の壁」である。
人間が理解できないことは全て「絶望の壁」が立ちはだかるからである。
一体「壁」とは何か?自分の心を持たずして神に仕える奴隷の時代の名残である。

人間として恐怖心から生まれた心と恥を知る脳(無知蒙昧)が見えない「壁」を作る。

元々そこに問題がなかったとしたら知識がいつも邪魔をしていたことに気づく。
我々はいつも頭で考えるから答えが見つからず、心で捉えなければ解決の糸口は無い。

空回りするのは「心」というアクセルと「脳」というブレーキを同時に踏み続けているからである。心の原点に立ち戻らなければ闇夜の世界をたださまよい続けるだけである。

縄文時代に「壁」は存在しなかった。
自然の中で人間という生き物が単純に存在したからである。
自然と共に生きることが「壁」を取り払う要因かを研究する時代に入った。

縄文時代の豊富な食料と文化の存在が重要なカギになる。
文化とはすべて神に繋がっていて、古代宗教アニミズムによる万物に存在する、
全てのものに畏敬の念を持ち、神が存在するという概念を知るところから
始めなければならない。

縄文時代を語るにはアニミズムと山岳信仰は切り離せないのである。
万物の神々と一緒に暮らしていたから争うことも奪い合うこともなかった。
ここに心の時代の糸口が見つかるはずである。

都市化が進み、自然は「ない」ことにされた
木や草が生えていても、建物のない空間を見ると、
都会の人は「空き地がある」というでしょう。
人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。
空地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。
生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。
それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。
養老孟子「ものがわかるということ」より

心の時代だと知りながら心をコンクリートで固めてしまうのはどうかと思うのです。

ロゴス思考とレンマ思想




ロゴスとレンマという言葉がある。論理的思考と練磨(れんま)的思想である。
西洋的な論理思考と東洋的な練磨思想の違いは何か?

砂漠から生まれた「西洋的思考」と森林から生まれた「東洋的思想」は、
宗教も世界観も全く異なる。

西洋的思考では二者択一で物事を判断する。
神か悪魔か、有か無か、正か悪か、右か左か、男か女か、勝利か敗北か、優秀か無能か、
どちらかを選ばなければならない。

そして西洋哲学は「驚き」から始まる。
そこに物がある、見事な花がある、世界はこのようにある、それらを存在させるものは何かを問い詰めるのが西洋思考「有の思想」である。

東洋的思想の世界では生命は不変であるという意識で物事を見る。
万物はすべて空(くう)なのである。ゆえにそこに存在しないが、存在するのである。

存在を存在ともたらしているのは、何か絶対者のような究極存在ではなく、
いっさいは、ただ「無」から出てまた「無」へと帰っていくだけなのです。

二者択一で選別するのではなく、環(サークル)で結論するのが「無の思想」である。

土に種が落ちて芽が出る、芽はやがて大きくなり大木となる、大木は切られて建物になる、建物はやがて朽ちて土にかえる。「無」から出てまた「無」へと帰っていく。

「輪廻転生」の世界では一つのものごとに完全な答えはないから、
二者択一で考える必要は無いのである。循環の世の中ではすべてが平等である。
万物は永遠に流転する「円環的世界観」が成立したのです。
これが大乗仏教「廻向と空」の思想なのです。

現在のロゴス思考とレンマ思想で避けることが出来ないのがデジタルの応用です。
デジタルは悩む時間を大幅に短縮できて容易に答えを導き出すのです。
そして地球の果てにいてもコミュニケーションが取れるのです。

これは思考(考えや思いを巡らせる)ではなく、思行(思いを巡らせて行動に移る)
(思即行)なのです。

自立しようとした覚醒の中でも孤独にはなれない。
哲学者は孤独の中でもがき苦しみ心理の追求に徹したのだが、
現代では孤独になる難しさがある。

勇気をもって孤独になる必要もあるのです。
デジタル機器のスイッチを切ることが人間性を取り戻せる機会なのです。

縄文遺跡の古代人と、あるいは無人島で星たちと、無言の会話をすることが大切です。

ロゴス的思想とは、ロゴス(論理)・パトス(情熱)・エトス(信頼)の組み合わせである。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人心誘導の術として、
この3つの要素が重要だと言いました。

多くの哲学者及び学識者や政治家に究極の演説法だと提言したのです。

レンマ的思想は錬磨(練磨)=物事の真意を深く掘り下げる・追求する。
インド式論理、インド古来の思考様式。
技芸・学問などを鍛え磨く、心身を練磨すると使われる。

小乗仏教は仏僧本人の修養で大乗仏教は民衆のための修養である。
鍛え磨かれた状態の先には必ず民衆の幸福があるのです。
結果、人々が幸福になってこそ宗教は存在するのです。

ロゴスのような知識に頼るのではなく、
自然から沸き起こるようなレンマ的発想が重要だと言います。

古代仏教の答えのない真理の追求から自身の欲を捨て無の境地から「空」を知るのである。禅でいう「無分別即分別」の意識を育てることである。対極から求める答えに悩むのです。

例えばこの言葉「驢覗井」ロバが井戸を覗く、井戸がロバを覗いている、
という「禅」の発想がある。

見た目ではロバが井戸を覗いているように見えるが、
本当は井戸がロバを見ているのかも知れない。

人間が考えている意識は本人の見た目の視覚(分別)から判断するが、
禅の世界では思考の対極(無分別)から見て知恵を出すのです。

禅の研究家鈴木大拙曰く、「禅」はもろもろの具体的・現実的な問題を処理するものではなく、それらを処理する「理論・思想・指導方針」などの、
「分別の思想を働かす原理」なのだという。

所謂、般若心境「色即是空・空即是色」そこには何もないが、何もないところに全てがある。「無」の境地に立つとすることです。

これは現代の教育ではとても必要なことです。
答えにたどり着く西洋的教育から、想像にたどり着く東洋的教育が重要です。
まさしく和教の精神です。「和をもって貴しとなす」すべてを全方位から眺めることです。

西洋的に多数決ですぐに答えを求めるのではなく、日本古来の話し合いを深めて、
反対意見も取り入れながら結論にみちびくのです。

若者達の悩み




大人から若者達の悩みは軽いという発言は甚だ憤慨である。
社会の営みを少し経験したからと言って頭ごなしに批判するのは許せない。
どんなに豊かな暮らしをしようと、どんなに貧しく暮らしていても、将来に対する夢は、
若者達共通の悩みであって然るべきである。
若者は大いに悩んで苦しんで新時代を築いてほしいものである。

悩みにかける時間や大きさや重さは一定ではないのに、
本人が受けるダメージを数値で表すのは如何なものかと思う。
将来のことや、仕事のことや、キャリアを積むことをグラフで表しても意味は無い。
悩みは成長の階段であり、悩みの解決こそ人生の指標と為すのである。

私は10代の頃は貧困に苦しんだが、それを癒してくれたのが初恋である。
初めて人を好きになった感動は今でも忘れない。

「初恋」

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

島崎藤村「初恋」

初恋は地方に住んでいても都会に住んでいても誰・彼くべつなく訪れる心情である。
どのような環境どのような状況であれ思春期には普通に訪れるのである。
初めて異性を意識して「好き」という感情が芽生えたトキメキは今でも忘れない。

「若き日に薔薇を摘め」美しいバラを握りしめて、たとえ傷ついたとしても、
若者はすぐに癒されて回復する。だから好きな薔薇を思い切り握りしめるのだ。恩学

そして若者はその時から偉大なる詩人になる。
稚拙なラブレターもたどたどしいメールも新鮮な言葉であふれている。
ゲーテやハイネや若山牧水を読んで胸の高まりを文字で書き記す。

その心境が様々な楽器に触れるキッカケとなり、また絵筆を握らせキッカケともなる。
真白きキャンバスに「夢」を書き殴ることにつながるのである。
もし音楽に素養があれば大作曲家にもなれるチャンスが広がるのである。

若者よ、今この時の無限大の可能性を楽しんでほしい。

「現代の若者達の悩み」
年齢別でみると、18歳では「今後の未来のこと」(44.5%)、
19歳と20歳では「仕事・就職のこと」(どちらも51.0%)が最多となった。
20歳の悩み1位を過去の調査結果と比べてみると、2016年から2018年は
「今後の未来のこと」、2019年では「お金のこと」だったが、2021年は
「仕事・就職のこと」がはじめて1位となっている。

2021年に積極的に取り組みたい・チャレンジしたいことを尋ねた質問
(複数回答)では、「学問」(55.2%)がもっとも多く、
「趣味」(46.7%)、「アルバイト」(43.7%)、「資格取得」(35.8%)、「恋愛」(31.8%)がそれに続いた。
将来やりたいことを探したり、考えたりする際に、
誰またはどんな情報媒体を参考しているかを尋ねた質問(複数回答)では、
「インターネット(SNS以外)」(46.3%)、「両親・家族」(35.3%)、
「友人・知人」(31.5%)、「学校や職場の先輩」(28.0%)、「本」(24.0%)が上位となった。

今後、どのような生活スタイルを望んでいるのかを尋ねたところ、
「自分の好きなことや興味のあることに囲まれた豊かで楽な生活スタイル」(26.8%)が最多だった。
以下「自分の好きなことややりたいことに、
時間と手間を集中させる生活スタイル」(16.3%)、
「のんびり気ままな自然志向の生活スタイル」(15.7%)が上位を占めている。

買い物に対する意識を尋ねた質問(複数回答)では、「買物は楽しい」(51.0%)、「流行の商品でも自分の趣味に合わなければ買わない」(41.5%)、「買い物にはコストパフォーマンスを求める」(38.3%)、
「自分に必要な物だけを買う」(36.2%)「買い物をするとストレス発散になる」(28.3%)が上位を占めている。CCCマーケティング調査より

若者の特権は時間が豊富にあることです。
どんな状況であっても「夢・志」を忘れずに過ごしましょう。
夢は必ず叶います。Dreams come true.

君たちはどう生きるか



1937年11月16日発行吉野源三郎著作「君たちはどう生きるか」(日中戦争勃発)
著者(おじさん)がコペルくんの精神的成長に託して、語り伝えようとしたものは何か?
それは人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識では
何かという問題と切り離すことなく、問わねばならぬというメッセージであった。

今回、映画の「君たちはどう生きるか」はファンタジー世界での冒険を通して世界の仕組みを概念として知っていくストーリーになっている。

1944年敗戦間近、東京が焼夷弾で焼かれている場面から始まり、
母親(久子)を失った少年(真人まひと)が主人公である。
父親(正一)の再婚相手、夏子(久子の妹)のもとへ疎開した。
そこから異次元の世界へと導かれる。

この作品は単なる娯楽作品ではなく、あくまでも哲学的見地から見た少年(真人)の
好奇心と正義感と真実を求める姿を描いた作品であることは確かである。

しかし、宮崎駿(原作・脚本・監督)の制作意図を裏読みしようと苦労した。
10年ぶりの発表でこの作品が最後の作品になるのではないかと噂されている。

有から無、生から死、輪廻転生、神隠し、死後の世界、など
仏教的思考から日本的情緒に溢れていた作品である。

創造から破壊、破壊から創造、生きるとは、死の危険を間近に見る事により、
そこに親と子の、世代を超えた仲間との結びつきにより信頼関係が存在する。

世界の構造は覇権争いの結果、武力で侵略を繰り返している。
現在のウクライナとロシアの戦争を彷彿させようとしたのだろうか。

真人君の「真の友達探し」をさらっと流したのは、
現代の少年少女達への共感を得る為のものだったのか?

創造主、大叔父が本当に伝えたかったことは何、
その後ろの茶色の物体(空から降って来た隕石を囲う塔)は何、
理想的な社会とは何、映画鑑賞後に数多くの疑問は残った。

大叔父から言われた悪意を持っている人間には、理想の世界は作れないという言葉に、
真人は自分も悪意のある人間だからその権利は無いと断った。
(何故転校した先の地元の少年たちと喧嘩後に、
石を拾って自分の頭部を血が出るまで殴ったのかここにも疑問が残る)

最後、現実世界へ戻る時に真人とアオサギのドアが、
お手伝いのヒミ(若き日の久子)ときりこのドアと違ったのは、
現実(現在)と過去(昔)を分ける為に作られたタイムトンネルだったのか。
この「最後のメッセージ」が分からない。

個人的に、ペリカンの親父(アメリカ)とインコの王様(ロシア)は苦手だ。
(鳥は生理的に苦手) 
勝手にアメリカとロシアの国名を書き込んだのは、
世界はこの二大大国が揺り動かしていることを伝えたかっただけである。

勿論、中国やGAFATが追随していることは紛れもない事実である。

全体的に製作者宮崎駿との感性の交流が難しい作品であった。
多分、全ての人から共感が得られない話題性先行の作品になるに違いない。

バンクシーの絵と同じで正体不明のアーティストのゲリラ展示がSNSを通じて、
世界へ広がった現象と似通るのではないかと思います。
勿論、NYの地下鉄の落書きペイントをしたキースヘリングも同じです。
すべての人が認め、何もかも理解して受け入れることはないと思う。
プロデューサーの鈴木敏夫はそこを意図してあらゆるPRを排除したと言っている。

音楽もアートも話題性や人気だから受け入れるのではなく自分の感性に合うかが大切です。
あらゆるものが溢れている時代には受け入れない決断も必要です。
高価なものであっても、有名シェフが作った美味な食事も、世界をめぐる航空券も、自分に必要がなければ「無価値」なのです。

昔NYで話題のジャズバンドのライブへ行った時の感覚と似ています。
音楽雑誌での評価も高く、現地のプレイヤーからも、お誘いがあったので行ってみました。
日本人の私には大したプレイでないところで盛り上がっている感覚が分かりませんでした。
一瞬、私はジャズのセンスがないのかと疑ったほどです。

不思議なことに「君たちはどう生きるか」を鑑賞後にあの時のことが蘇りました。

映画や音楽や芸術は生き物です。突然襲い掛かります。・・・・・・

次回の鑑賞後にはどのように心理的変化が起こるか楽しみです。
そう!1回で判断するには宮崎駿監督に失礼に当たります。

ご覧になった皆様はどのように感じたことでしょうか?