確固たる個性の形成




奇跡の人HJ LIM(リム・ヒョンジュン)
韓国出身のピアニスト「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」
故郷の母親に聴かせるために、個人的にインターネットにアップした動画が
世界中で大ブレークとなった。

12歳でパリに音楽留学。
韓国在住の母親に自分の演奏を聴かせようとユーチューブにアップしたところ、
それが大手レコード会社であるEMIのプロデューサーの目にとまり、
いきなりベートーヴェンの全集レコーディングに至ったという。

通常ならば、世界中で行われている各種コンテストに出場、上位入賞を果たして
何とかレコード会社と契約にこぎつけるというケースとは全く違っています。

果たして彼女は超絶技巧のピアニストなのだろうか?

テンポは微妙に揺れ動き、強弱、間の取り方、表情、
すべてがいわばやりたい放題なのですが、
それでも何かベートーヴェンそのものになっているのです。
他の演奏家と張り合うのではなく自分の感じたベートーヴェンを弾いているだけなのである。

一体個性とは何だろうか?
一般的には、「その人らしさ」とか、その人特有の性質・性格であり、
自然とにじみ出てくるものとあります。
周りの人と違っている部分が個性であり調和がとれるのです。
芸術家も、音楽家も、研究家も、経営者も個性が尊重されるのです。

ここで「個性」とは何だろうかを考える。
何故、日本の子供達から「個性」が消えたのだろうか?

個性消滅の諸悪の根源は「義務教育」である。
子供たちの個性が一番伸びる時期に均一の授業を行い、
画一化した子供たちを大量生産している。
受験のための教育に価値など何もない。
ましてやAIの時代が来れば単なる記憶は不要の長物である。

子供達の才能を引き延ばせば日本はあらゆる面で世界の頂点に立つことは出来る。
細かい手作業も、漫画やアニメに代表される物語性も、アスリートとしても、
研究家としても日本は素晴らしい環境が整っているのです。

日本では個性的な子は概して「落ちこぼれ」として扱い、
海外では「ディファレント」(違い)と言って個性があることは高く評価されるのです。

私は「個性」あるプロデューサーとして「音の職人」と言われていました。
全ての判断は自分の感性に準じています。

最初に提供された曲をアレンジャーと話し合って構成を決めます。
その後、テンポ、ビート感、抑揚(サビ)の持っていき方などを話し合います。

当日の全楽器の音色もチェックします。音の配置によってグルーブが変わるからです。
ボーカリストの声質とメロディーラインも一番良いポジションを探します。

重要なのは1~2回リハーサルを繰り返し、言葉(歌詞)の乗っかり方を確認します。
乗っかりが悪い場合はその場で歌詞を変えてしまいます。
特にボーカルの「ゆらぎ」を作り出すことに専念しました。
喉から出ている声、腹から出ている声、骨から出ている声を聞き分けるのです。
これはとても重要な作業ですが他のプロデューサーは取り入れていません。

そして出来上がったサンプルをカーラジオ、カセットデッキ、家庭用ステレオなど
音楽ファンの方々が通常CDの再生をする機材で仕上がりをチェックします。
昔の話ですから今では通用しませんが、良質なスタジオの音よりも、
一般オーディエンスが聞いている環境で再現することも必要でした。
再生機によって音の配置がガラッと変わってしまうので感動が薄れることもあります。

音楽にこれが正しいというのはありません。
プロデューサーの個性と感性で作ればよいのです。他人と比べる必要はありません。

クラッシックでは指揮者によって同じベートーヴェンの曲でも、
違う世界を作り出すことが出来ます。指揮者の個性が発揮される部分です。

ポップスやロックの世界でも「個性」ある人の方が長く活動が出来ます。

「個性」(こせい)の言葉で思い出したのが「悟性」(ごせい)です。
「悟性」は対象を直観的に把握・理解する能力、思考力、知性を言い表す哲学用語です。
その人らしさ、性格・性質に「悟性」が加わると最強だと思いませんか?

この原稿を書き上げている間、部屋のBGMとして流れていたのは、
HJ LIM(リム・ヒョンジュン)ベートーヴェン・ピアノソナタ「確固たる個性の形成」でした。

新鮮な言葉



今あなたが話している言葉はあなたの言葉だろうか?
本を読んだだけの言葉で話しかけても誰も振り向きはしません。

他人の情報を鵜呑みにして話しかけても誰も感動はしません。
自分の経験から生まれた言葉ならどんな些細なことでも伝わります。

そんな無機質な言葉を有機質に変えるのは言霊(ことだま)の力です。
古代の日本人は言葉に宿る霊力が、言語表現の内容を確実に実現することが
出来ると信じていたのです。

心からの話しかけは「祈り」と同じような祈願力を発揮するものです。

でも、話しかけるときに「わたし」を強調して話しかけると、
相手の人を突き放してしまう恐れがあります。
必ず「あなた」を優先的に話しかけると、
そこから「新鮮な言葉」が生まれてきます。

おざなりの使い古した言葉で会話をしても信頼関係は生まれません。

子供達は生後1才半~2才までに単一単語を覚えられるようになります。
「ママ」「パパ」「シッコ」「モグモグ」「ワンワン」などです。

お母さんから話かけられた言葉は全てが新鮮で自分だけの単語になります。
単一から単二なり「ママ大好き」とか「いぬ怖い」とか「これ嫌い」とか、
互いのコミュニケーションが出来るようになります。
双方の意識が通じて親は子供の成長を喜びます。

その上に3才~4才頃から絵本を読んでもらい簡単な文章が理解できるようになります。
単一単語から複数の単語の組み合わせが出来るようになるのです。
この頃の会話は子供にとっても親にとってもすべてが「新鮮な言葉」なのです。

保育園でお絵描きも出来るようになると同時に簡単な物語を作り出します。
子供は偉大なる「画家」であり卓越した「詩人」なのです。

そして小学校へ行くようになり教師から「これはダメです」「言うとおりにしなさい」「間違っています」などの威圧的な言葉を聞くたびに、言葉への興味を失っていきます。

大人は感情を抑えて現状を簡潔に伝えようとして「いいよね」「そうすれば」「まかせるよ」と相槌を打つだけです。
相手の発した言葉の意味を理解せずに「相槌言葉」は親子関係を悪くしてしまいます。
勿論、上司と部下の会話にも意思伝達の「指示言葉」だけだと信頼関係は生まれません。
若者たちが多用するSNSモバイルの「デジタル言葉」だと心が通じません。

子供時代は世界中の子供達が詩人になる。それは「新鮮な言葉」で夢を描くからです。

タイの友人が創作大学で最初の授業の時に「グーグルで検索できない言葉」の作成を
出題します。これからモノづくりをする人たちは使い古された「文言」で、
モノづくりを行ってはならないということです。
自分なりの言葉を作ることによって創造力が刺激されて個性が発揮されるということです。

「新鮮な言葉」は情熱と感動を元に作られます。
私たちが普段使っている言葉は使い古した言葉なのです。
新しい言葉を見つけて新しい言葉を使うと人間関係が楽しくなります。

中村天風の名言

「絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。
悲観的な言葉なんか、断然もう自分の中にはないのだと考えるぐらいの厳格さを、持っていなければだめなのですよ。」

「常に善良な言葉、人を勇気づける言葉、人の喜びを与える言葉っていうような、言葉のみを使っている人、そういう人は心がけなくても、人に幸福を分け与えている人だよ。」

「言葉には人生を左右する力があるのです。
この自覚こそが人生を勝利にみちびく、最良の武器なのですよ。」

LET’S IT BE{あるがままに}




ビートルズが歌った世界的な大ヒット曲である。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

僕が苦難の時
聖母マリアが現れ
知恵を授けてくれる
「あるがままを受け入れなさい」

Let it be, Let it be,
Let it be, Let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be

あるがままを
あるがままに
全てを受け容れるのです
そうさ 答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」

マッカトニーが1968年におこなわれたアルバム「ザ・ビートルズ」のための
セッションの最中で、ビートルズが分裂しつつあるのを悲観している頃に、
母メアリー・マッカートニーが夢枕に現れた際に述べた、
「あるがままを、あるがままに(全てを)、受け容れるのです」
との囁きを元に書いたと語っている。

メアリーは、マッカトニーが14歳のころにガンで死去した。
亡き母が枕元に現れたことについて、マッカトニーは、
「母に再会できたのは本当に良かった。夢で祝福された気分だった。
だから僕は母の囁きの元に「レット・イット・ビー」を書いた」と語っている。

SNSを当たり前に使うようになってから本心が心の奥に隠されてしまった。
ありのままに本音を言うと冷やかされるか馬鹿にされるので沈黙を守るようになる。
誰でもがアニメ化(擬人化)されて、当たり障りのない言葉を羅列して、
挙句の果てには経験のない素人が他人にお説教まで言えるようになってしまった。

自分は何も経験していないのに、まるで人生を分かり切ったように話をする。
学校で仕事場でも架空の自分が存在するだけ、
自分のことが理解できないから、上辺だけで他人の不幸に同情的になる。
自分の現状と重ねて涙を流すような物語を好きになる女性が多くなった。
その為か若い女性の自殺が増えてきた。

戦いのある国では女性は家族を守ることに命懸けになる。
平和な国では男性は弱くなり女性が社会の表面に出てくる。
命がけで家庭を守ろうとする男性が少なくなった。
それ以上に無気力な男性が増えてしまった。

男女平等雇用制度は本当に女性を幸福にするのだろうか?
男性と対等に収入が得られれば、男の世話にならずとも子育ては自分一人でできる。
いやな思いをしてまでわがままで幼児性のある男と暮らしたくない。
挙句の果てには結婚しない女性も増えてしまった。

もっとぎこちなくて良いのに。
もっとかわいいままで良いのに。
もっと単純で良いのに。
もっと弱さを出しても良いのに。
柔らかいままで夢見る少女のままでも良いのに。

Let it be, Let it be,
Let it be, Let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be

あるがままを
あるがままに
全てを受け容れるのです
そうさ 答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」

音楽家を目指す君たちへ(つづき)



才能の開花はどのようにして起こるのか?
オーディションへ来るアーティストやバンドマン達。
圧倒的にヒット曲のコピーを演奏する人たちが多い。
大好きなアーティストのコピーなので見た目も雰囲気も似せて来る。
それなりに評価はされるが演奏が悪いと笑い者になる。

オーディションの最初に審査員からインタビューがある。
私の場合(審査員によってそれぞれ質問内容が違う)

最初の質問は、
「好きな音楽・良い音楽・売れる音楽」のどれを望みますか?
次の質問は、
音楽をやる「目標・目的」は何ですか?
最後の質問は、
「オリジナルの楽曲」は何曲ありますか?

そして、上記の質問が終わってから演奏が開始です。
通常1曲の長さの5~6分で運命が決まります。

終了後にレコード会社のスタッフから追加の質問があり将来が決められてしまいます。
当然メジャーなレコード会社からデビューが出来れば売れる可能性は大です。
TVやCM・アニメの主題歌などのタイアップが決まれば一躍人気者になるのです。

時代が変わり現代ではレコード会社主催のオーディションは殆ど無くなりました。
路上ライブとYoutubeでデビューしてくるアーティストが多くなったからです。

ある程度のファンが出来て手売りでCDを売れば生活するには困らない人もいます。
自由に音楽活動をして自由に創作活動ができればそれで満足する人も多いのです。
音楽仲間とワイワイ騒ぎながらライブハウスで演奏が出来れば、
最高だと思っている人もいます。
しかし、アーティスト活動から営業まで大変な努力が必要とされます。

彼らはプロと言われるスタッフからあれこれ制約されるのが気に入らないのです。
自分たちの仲間か音楽事務所から紹介された一般のプロデューサーと手を組んで、
気軽に作品作りに励むほうが楽だと無難な方向へと進むのです。

そして、自主製作でCDを作り、そのCDを買い取る条件でメーカーと契約を結び、
レコード会社のインディーズなどのレーベルからデビューをしてくるケースもあります。

私はプロデューサーとして質問されれば答えることがあります。
「好きな音楽・良い音楽・売れる音楽」の違いについて。

① 好きな音楽はアマチュアで自由に活動をしなさい。
➁ 良い音楽は楽典を学び譜面で演奏が出来るようにしなさい。
③ 売れる音楽は時代を読む力を付けなさい。

そして、売れる音楽を作りたいのなら私に依頼しなさい。

プロデューサーは様々です。
三流のプロデューサーは礼儀作法を教えます。
二流のプロデューサーは悪い部分を指摘します。
一流のプロデューサーは良い部分を引き出して磨きをかけます。

才能の開花は個人でもできます。

自分の作品やライブでの反応をコマメにチェックして、
次回の作品やライブに活かせる人です。

薄暗いライブハウスの隅々までに気を配り、
歌詞のメッセージが全員に届いているか確認が取れる人です。

自分を中心に置いて演奏技術を高めても聴衆へは伝わりにくいのです。
見た目やパフォーマンス、ファンへのサービスなどに気を使える人です。

そして最も大切なことは自分の拘りを追求できる人です。
好きなジャンルの好きなアーティストを徹底的に研究して分析することです。
その作品作りの基本を活かして、自分の作品にも取り入れることが出来る人です。

才能の開花はあらゆることに挑戦して初めて花開くのです。

音楽家を目指す君たちへ
最近デジタルで手軽に音楽が作ることが可能になりました。
そして作品をSNSで流して聴いてもらえるようにもなりました。
時代の流れに乗ることも悪くはありませんが、何かが物足りなく感じませんか?

それは「人間性」です。
人として何の目標・目的をもって何を考えているかを聴衆が求めている時代です。
一過性のファッションで音楽をやっても長くは続きません。
アーティストの「人間性」を高めることが、才能を開花させ時代を作り出すのです。
作品を好きになる前に、
そのアーティストの人間性を好きになってもらう方が長く続きます。

人として音楽以外の歴史や文化や社会情勢にも興味を持ち、
果敢に異国へも出向き見識を深めることで「人間性」が出来上がります。


自分なりのサクセスストーリーを完成させてください。

音楽家を目指す君たちへ


音楽とは時間(一瞬)の芸術です。
今弾いた音が、今吹いた音が、今歌った声が、すぐに消えて行くのです。
譜面を追って周りの演奏家に合わして、あたふたしている間に終わってしまうのです。

そこで君は何をしていたのであろうか?
音楽が好きで音楽を始めたとしても、音楽の世界は必ず演奏者と聞き手に分かれる。
聞き手は何を聞きに来ているのだろうか?

音楽家の奏でる音を聴きに来ているのか、
音楽家の生きてきた過去を聴きに来ているのか、
音楽家の瞬間に出すエネルギーに酔いしれる為に来ているのかそれぞれです。
そして絶対忘れてならないのは音の気が抜ける恐れとの戦いである。

どんなに楽しく演奏をしても一瞬違う世界に引き込まれてしまうと、
「聴き合う」タイミングで音の気が抜けるのである。
メンバーと打ち合わせで決めたポジションで決められた音が出せない。
演奏家には常にこの恐怖が襲いかかる。

音は生き物である。先ほどの音は二度と戻らないのである。
演奏がたとえ上手になったとしても、褒められて有頂天になったとしても、
失敗を繰り返して何度も辞めたいと思ったとしても、すべては自分との戦いなのである。

初心者でもベテランでも音に対する情熱があれば常に苦悩するのである。
音楽とは何だろうか?音を楽しむとは何だろうか?
誰かの人生に「一瞬でもこの音楽を聴いてよかった」と思われるような
演奏は出来るのだろうか?と自問自答を繰り返す。

感動は演奏者自身が感動しなければならないのです。
会場全体の空気にまで演奏者の感動が伝わり、
共振するから聞き手にまで感動が行き渡るのです。
感動とは心が動くことを言います。
演奏する方と聞く方が、同時に魂が震えることを言います。

「啐啄同機」(さいたくどうき)
卵が孵化するときは、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、
また親鳥も外からその殻を破ろうとする、
そのタイミングがピタッと一致するからからこそ、
ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることが出来る。「禅語」

演奏家の奏でる音と聴衆の聞きたい音がピタッと一致した時に感動が生まれるのです。
つづく

泥中の蓮&慈悲心



慈悲の心を持つということは成功者や修行達成者だけの言葉ではない。
私たちの日常生活の中でも、慈悲の心を持つことは可能なのである。

慈悲の心は親切心とは違う。親切心は手助けをすることであり、慈悲心は愛をもつて支えることである。

無償の愛には「ありがとう」の言葉も必要ないのです。

マザーテレサの言葉に、

人は不合理、
非論理、利己的です。

気にすることなく、
人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをしたと
言われるでしょう。

気にすることなく、
善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に、
出会うことでしょう。

気にすることなく、
やり遂げなさい。

善い行いをしても、
おそらく次の日には
忘れられるでしょう。

気にすることなく、
善い行いを続けなさい。

あなたの正直さと
誠実さとが、
あなたを傷つけるでしょう


気にすることなく
正直で誠実であり続けなさい。

助けた相手から
恩知らずの仕打ちを
受けるでしょう。

気にすることなく、
助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを
世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。

気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。

気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。

泥池の中で咲く蓮の花のように人間世界の中でもがきながら苦しみながら時期が来れば華が開く。

すべての人を救おうとする無常の愛を持つことの大切さ。

苦しから辛いからすぐに幸福になろうと願うのではなく、

苦しみも辛さも受け入れながら耐えることが花開くことになる。

すべては忍の一字に表されている。

慈悲心とは全く見返りを求めない心のこと。

一方的であろうと評価の対象にならなくてもただひたすら奉仕すること。

私たちはラオスの子供たちに学校を作り、文房具やダウンベスト80枚を贈ることも、

今できることの最大限を感謝として心に刻めば喜びが自然にわいてくるのである。

泥の中で花開く蓮のように誠実に生きていきたいと思います。

清濁

一本の川の流れにも清らかな部分と濁っている部分がある。

また、人の心の中にも美しい部分と汚れた部分がある。

そしてひとつの言葉の中にも真実の意味と虚偽の意味がある。


<意思が濁れば意地になる。口が濁れば愚痴になる。徳が濁れば毒になる>
福(ふく)に徳(とく)あり、河豚(ふぐ)に毒(どく)あり


「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」 道元禅師御製


○ お釈迦様は、ある時弟子たちに
  「水面は、泡立っていたり、濁っていては、その姿を正しく映し出せない」
   と浄なる心を説かれました。
○ 世の中は澄むと濁るとの違いにて
    福(フク)に徳(トク)あり、河豚(フグ)に毒(ドク)あり、
    意思(イシ)も濁れば、意地(イジ)となり、
    口(クチ)も濁れば、愚痴(グチ)となる 。

呼吸を整え、身と心を整えると濁りは消えていきます。光真寺法話より

どのような大義名分があろうとも上辺だけの「意思」を貫き通すと

濁って「意地」となるのです。

「智に働けば角が立ち、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ。」草枕

教訓を「口」から出まかせに他人に伝えるといつしか濁って「愚痴」にもなるのです。

愚痴を重ねて年取れば手を差し伸べてくれる人がいなくなります。

「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」武田信玄

要らぬおせっかいで「徳」を重ねたと錯覚して、その親切がいつしか「毒」となる。

一回限りの寄付やボランティアの活動だと徳にはならず「毒」となります。

人間関係において様々な規制(きせい)が増え濁ると犠牲(ぎせい)が出ます。

お気を付けください。

思索の時

人生において道を失いかけたときに行く先の光を見つけ出さなければならない。光とは希望である。

希望とは希少な望みである。なかなか手に入れることは出来ない。

自分のおかれた運命の扉を開き「何をすべきか」を自問自答するしかない。

その運命の扉の鍵こそが「志」なのである。

何を考えて何を行動するかは志の問題である。志なき者は道に迷い、道を外すだけである。

いかに志を身につけるかは己の信念と日々の活動による結果でしか生まれない。

志とは一生の使命であり、人としての誇りである。

その難攻不落な「誇り」という壁に向かうのは「夢を持つ」以外に術はない。

夢なき者に理想なし、

理想なき者に計画なし、

計画なき者に実行なし、

実行なき者に成功なし。

故に、夢なき者に成功なし。

吉田松陰

吉田松陰に「奇傑非常の士に交わる」という言葉がある。

志を作るときには普段出会えないような大人物に会え!

その人の言葉から志とは何かを受け取り先ずは思索しろ!

さすれば、おのずからと志へと続く一本の道筋が見えるようになる。

そして、名山大川を闊歩して大気のエネルギーを吸収しろ。

大自然の中でどう生きるかを熟慮しろ。

大自然に比べれば人間なんて取るに足らないほどの卑小な存在である。

身体の底から湧き上がる感情を心に刻み込め。

江戸の儒学者佐藤一斉は言志四録「立志の巧」の中で「立志の巧は恥を知る以って要と為す」と言っている。

志を立てて実績を上げるには恥を知ることが重要である。

気持ちの高ぶりと経験のなさによる失敗を何度も繰り返してはじめて志に近づく。

すなわち、志を手に入れるのは安全で確実な方法は無く、

険しさをかき分けて危険な道を行くことが大切であることを教えている。

挑戦する者は恥をかくことを恐れるな。自分の選んだ道を行くがよい。

そこには恥など無い。恥を感じる自分がいるだけである。

一生の内に思索しなければならない時がある。それを青春という。

青春に年齢はない。夢をあきらめなければ一生青春である。

情熱をもって思索する時に希望が生まれるのだ。

対人関係

「智で計画し、理で行動を起し、情で判断する。」

智慧で計画して論理的に組み立て情緒的に判断する。骨組みは過去から学び行動は現実で動く。「温故知新」

しかし論理的だけの人は理屈が先行して行動が伴わない。そして情緒だけの人は人情におぼれて失敗をする可能性大である。

更に現代の人は「道理」を忘れている。

「道理」とは人として行う正しい道。善悪でいえば善と呼ばれることの行い、倫理的に人として正しいことを行うことを意味します。

強制的な法律の解釈ではなく人としてのつながりの掟である。

良いか悪いかではなく人間関係のバランスの問題なのである。それぞれの事情に応じて解決を図り秘密を守ることが基本である。

強いものには厳しく弱い者には手を差し伸べる「弱者救済」の考えである。

道理は「自分勝手では道理が通らないよ」というように使います。

大勢の人が住む町の中では自分よりも他人を意識して「親切」が基本でした。他人を意識した親切「江戸しぐさ」の由来を紹介します。

江戸時代は参勤交代などで武士以外にも大勢の商売人や職工や家具職人や料理人などが入り込んで町は拡大されて、一気に人口が増加されました。

大阪、京都、伊勢、近江、河内、上信越や関東各地より多くの商人が来ましたが、商いの習慣や生活文化の違いから争いごとが多く起こりました。

そこで町名主や町衆たちが、平和で住みやすく、町が発展し栄えるための「手だて」を講じました。当時これを「繁盛しぐさ」と呼び、それぞれのしぐさに名前を付けて、子供や孫に教え伝えました。

これが後々「江戸しぐさ」と名称が変わり江戸から明治・大正・昭和へと伝承されました。

「七三歩きのしぐさ」、「傘かしげ」、「こぶし浮かせ」、「韋駄天しぐさ」などの往来しぐさを「お目見えしぐさ」といって身に付けさせたのです。

更に「耳順しぐさ」「年寄りしぐさ」「失せ物しぐさ」などお年寄りの接し方の心得についても教えたのです。周りの人に言ってはいけない言葉や、生活面や子育ての仕方など、ご近所のお付き合いなどにも配慮した「しぐさ」も豊富にあります。

「道理」は倫理的「しぐさ」は情緒的に使い分けると人間関係が円滑になります。

海外の大都会、ロンドンやパリ、ニューヨークなどにもマナーとしてルールはありますが、「江戸しぐさ」のように多国籍対応の「おもいやり」的な教えはありません。

世界の人たちが争いごとから抜け出して平和に暮らしていくためには宗教的な価値観だけではなく、人間としての「おもいやり」を取り入れることが大切です。

日本には「しぐさ」以外に「互助」という互いに助け合う精神があります。また、「合力」という暗黙の制度があります。力を合わせて助け合う精神です。


百尺の竿頭

 

百尺(ひゃくしゃく)の竿頭(かんとう)に坐(ざ)する底(てい)の人、
然(しか)も得入(とくにゅう)すと雖(いえど)も、未だ真を為さず、
百尺の竿頭に須(すべか)く歩みを進め、十方世界に全身を現ずべし。「無門関」

石霜和尚と長沙景岑禅師の百尺の竿頭についての問答。
石霜和尚の「百尺の竿頭如何が歩を進めん」という問いに、
長沙禅師は「百尺の竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じた。

竿頭とは物干し竿のことですが、竿頭を崖っぷちとすれば、
さらにその先に一歩を進めれば、踏み外して落ちて死んでしまいます。

高い竿をのぼりつめたところで、そこからさらに一歩をのぼり進めれば、
もうつかまるものはなく、まっさかさまに転落して命を失ってしまう。

いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。

百尺の竿の先端に坐すことはできないでしょうが、
たとえばということで、坐しているとしましょう、
ところが坐している人は、まだ本当に悟った人ということができないのです。

百尺の竿の先端よりさらに一歩をすすめて、
十方世界に自在に自己の全身を実現できる人が悟った人だからです。

それは、きびしい修行を経て到達できる仏の境地です。

修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから
「さらに一歩を進めよ」ということです。

たとえば不幸な境遇に生まれても、不幸から逃れようとするのではなく、
不幸を重ねて、不幸の行きつく先の、もっとその先まで歩みを進めよということです。

究極の不幸を知ることによって、自在に自己の全身(幸福)を実現出来るということです。
無欲の欲が生まれてから初めて知る幸福があるということです。

「悟り」とは神と人の交わる交差点にいることをいい、
人としての欲が離れて無欲の世界に到達することである。

仏教徒は人や社会のために無心で祈ることに専念する。
あらゆる問題に対しても祈ることしかなく、
原因が分かったとしても直接手を下すことなく祈るのみである。

そこには時間も距離も無く無限の精神性の世界があるだけです。

人間関係も遠慮の先の一歩を進めることによって本質に触れることができる。
争って初めて得られる信頼は「絆」となり繋がりがより一層深まるのである。

たとえ相手から痛みを伴う言葉発言されても、目を逸らさずに受け止めるべきである。
まだまだその歩みを止めることなく、さらに一歩を進める覚悟で生きなければならない。

偉大なる成功者達は生と死を意識せずに乗り越えて来た人達である。

限界のポジションを決めて立ち止まるよりは、
限界の先に在る未来を見つめ行動することが、世の中に役立つ事になるのではないか。

我々は百尺の竿頭を更に一歩を歩み出すことに勇気を持つべきである。