知の追求




学生時代は知識より直感を大切に生きてきました。

学業で成績が良くなるよりも感受性を磨くことに時間を費やしたのです。
この瞬間、自分に必要なものは何か、自分が取り掛からなければならないことは何か、
自分にとっての希望とは何かを常に考えていました。
眠っている時も、食事をしている時も、学校へ行っている時も、頭の中は体裁や
見栄よりも自分でした。自分がしっかりとしなければ世間の常識に流されて、
つまらない大人になってしまうと危機感を覚えていたのです。

あるがままの人生とはやりたいことをやって自分で責任を取れるかです。
子供だからと言って世の中の成り行き任せにはしたくなかったのです。
勿論、私の言葉の「石は激流を選べず」の通りに成り行き任せも真理に
間違いはないのですが、若い時には自分の意思で抵抗することも必要かと思います。

「石は激流を選べず」とは「川上のゴツゴツした岩が流れの中であちこちの
岩にぶつかり川下に着く頃には丸い石になる」という格言です。
苦労から逃げるのではなく、苦労にたち向かうことがとても重要です
少年時代から老年になるまでの人生を表しています。

しかし、学生時代に職を求めることに邁進しても、自立するまでの期間は成り行きに
任せるしか方法は無かったのです。その都度に合わせた、あるがまま、なすがままの
人生でした。それでも激流の流れに逆らわないことでした。
自分の精神的解放を一番に考えていました。

人は常に成り行きを追い求めがちですが、真の価値は「成り行き」にこそあると
考えます。その核心には、「自我」や「我欲」を捨てることが必要です。
求めるものが多いと悩みも増えます。成り行きのなかで自己の発見をするのです。
そうすることで、心は穏やかになり、他者への思いやりや協力の精神が生まれます。

禅には、その哲学や実践の中心を示す四つの重要な言葉があります。

1. 教外別伝 ~教えの外で伝える~これは、真の知識や理解は外部の教えだけでなく、
実体験や直感を通じて得られるという考えを示しています。禅の修行者は、
指示や文章を超えて、瞑想や実践を通じて真理を追求します。

2. 不立文字 ~言葉を立てない~禅の教えは、言葉では完全には表現できない深い真実を
持っています。そのため、言葉による説明や解釈よりも、無言の瞑想や直感を重視する
のです。

3. 直指人心 ~直接心に訴える~これは、真の理解や覚悟は心の中で直接感じ取るもので
あり、他者の説明や解説を介さずに得られるという考えを示しています。

4. 見性成仏 ~真の本性を見る~私たちの内なる真の本性、あるいは「仏性」を発見し、
それを認識すること。

これは禅の修行の最終目的であり、それを見つけ出すことで真の平和や悟りを得ること
ができます。しかし、これらの言葉や考えを単に知識として学ぶだけでは、その真髄は
掴めません。日常の中での瞑想、実践、そして経験を積み重ねることが欠かせません。

「前後裁断」は、過去の出来事や未来の心配から自分を解放し、現在の瞬間、
つまり「今」を真剣に生きることを示す禅の言葉です。
この教えは、私たちが日常の中で迷いや苦しみから解放され、真の平和や喜びを感じる
鍵となります。過去の過ちや後悔、未来の不安や期待に囚われることなく、
この瞬間を心から感じることで、真の自由や満足感を得ることができるのです。

自然の変化、四季の移ろい、それらは私たちの人生の移ろいと同じく、絶えず変わる
ものです。しかし、その中でも真実の世界、自然との共生の中での生き方を模索する
ことが求められるのが禅の教えと言えるでしょう。
日常の中で、私たちが自分の意志や願いだけで物事を進めるのは難しいことも
多いです。

「あるがまま」に受け入れることの大切さを忘れがちです。
しかし、自然の流れに身を任せることで、人生の中の大小さまざまな障壁や試練も、
結果的に自分を成長させるものとして受け入れられるのではないでしょうか。

私自身も、多くの試練や困難を経験してきました。
しかし、その中で得られた教訓や経験は、私をより強く、深くしてくれました。
簡単な道を選ぶのではなく、時には回り道を選ぶことで、真の目的地に辿り着くことが
できると信じています。

犯罪に手を染めた若者たちが「あるがままに行動した」と言い逃れをします。
闇バイトで強盗や殺人を犯しても罪の意識がありません。
東横キッズと言われる女の子も売春をしても罪の意識がありません。
コンビニでおにぎりを買うことと、寝るところにお金を使うために、犯罪は必要だと
思っているのです。生きるために手っ取り早く身体を売る。驚くのは、彼女たちは
決して貧しい家の子ではないことです。家には自分の居場所がないから新宿に集まり
時間を潰す。一瞬の成り行きで人生を棒に振るのです。

しかしこの若者たちに全ての罪を着せるのは如何なものでしょうか?
彼らがそうせざる世の中を作った大人にも大きな責任があるのです。
大人もマスコミも「臭いものには蓋を」しますが、それでは何の解決にもならないのです。落ちこぼれを作ってしまう教育も社会も変えなければなりません。

私は禅に深く傾倒しています。しかし修験者じゃないので正式な訓練はしていません。
デジタル社会になりAIやメタバースという言葉が飛び交うたびに「人間とは」
「信頼とは」「生きるとは」「幸福とは」を考える様になりました。
その答えは哲学より禅語に多くありました。

深い瞑想の中で真理を追求するのは快感にもなります。
一緒に禅語を学びませんか?