正論攻撃




皆様も経験してきたことでしょう。
親も含めて教師も上司も自分たちの正論を掲げて我々を押し潰そうとします。
厄介なのは「正論」は自分も含めて共通の常識と言われているものなのです。
世間が決めた常識が正論なら過去に作られた法律は不要にならないか?
子供の頃から躾と称して制約を加えるのは宗教団体の教義と同じで無いのか?
善悪は神が決めたものだからそれに従わないものは悪魔だと言い切るのはおかしい。
それを利用する支配者が自分の利権のために都合よく「正論」を述べるのであった。

何故か子供の頃から正論と言われると反抗してきた。
目に見えない鎖のようで必死に振り払った。
何故か他人とひとくくりにされるのが嫌だった。
個人の尊厳を無視して画一化を図るのには抵抗してきた。

縄文時代の正論は自然が決めることであって人間が決めるものではなかった。
星を眺めながら多くの気候を学んできた。農作物の出来不出来も教えてくれた。
嵐も台風も季節の移り変わりも星を眺めながら知っていた。
平均寿命が30代半ばと短かった縄文人。彼らを苦しめたのは温度であった。
少しの温度の高低差も絶滅の危機が迫るからである。

上に立つものが下の部下に対して正論でねじ伏せようとするのが多くみられる。
現代ではそれをハラスメントという。「なに・なにをするのは当たり前」と喚き散らす。
「こんなことも出来ないのか」と怒鳴る。「馬鹿野郎死んでしまえ」蔑みの言葉を吐く。
過去に自分たちも先輩上司から言われたことを正論としているのである。
これは正論でも何もないただの常識はずれのパワーハラスメントである。

あらゆる組織の習慣を正論としてとらえる無知な大人も多いのは確かである。
悲しいかな人間の本能なのか誰にでも支配欲が渦巻いている。
男女に区別なく役職が付くと偉そうな物言いになり威圧感をあたえる。

世間で言う正論は一方向でしか見ることは出来ないのだろうか?
国も人種も世代も違っても変わらないのだろうか?
多様性のあるダイバーシティーは本当に実現するのだろうか?

一水四見(いっすいしけん)
さまざまな苦しみや悩みから脱却するためには、正しいものの見方が大切です。
しかし、人間は、正しいものの見方をすることはなかなか難しいと思います。
学校や会社の中でも、あるいはグループにおいても、一人でも気にいらない人がいると
落ち着かないという経験があると思います。しかし、そこには単に「その人」が、
そこにいるだけです。結局のところ「嫌い」という私自身の心が
「あの人さえいなければいいのに」という見方に傾いていき、そこから苦しみが
生まれてくるわけです。そうすると、互いに傷つけ合い、最後には苦しみ合う結果に
なってしまうのです。

「認識の主体が変われば認識の対象も変化する」仏教の考え方の一つ『唯識』に
「一水四見」という言葉があります。一口に水といっても四つの見方に見える。
つまり、同じものでも見る立場や心のもちようによって違うように見えてくるという
意味です。

① 天人には水がきれいに透き通ってガラスのように見える。
② 人間の私たちには、そのままの水に見える。
③ 魚たちには住み家と見える。
④ 餓鬼には燃えた血膿に見える。

これは「人」「人間」「魚」「餓鬼」という立場で「水」を見た場合、
それぞれ異なって見えることを例えたものです。
これを私たちに当てはめてみると、私たち人間は、みんな生まれ育った環境や境遇、
受けた教育、経験したことや考えてきたこと、興味を持ったことなどさまざまで、
それぞれその人独自の世界観があり、価値観があります。それが大きなひとつの
「ものさし」となって、いろいろな事を認識しています。

それでは、自分が見ている世界は、他人から見てどのように見えるのでしょうか。
同じものを見ていても、気づかないことがあるのではないでしょうか。
世界というのは、実は同じ一つの世界にみんながいるのではなくそれぞれがそれぞれの
世界を作り上げてそれぞれの世界を見ているということです。
つまり、人それぞれが各々の世界をもっていて、どこかの接点で同じ共有をしています。

そこから「つながり」が生まれてくるわけです。人生の中で、いろいろな苦しみや悩みに出合った時、

ものの見方を私自身が変えることによって、見えなかったものが
見えたり、気づかなかったことに気づかされたりして、世界が拓かれていくのだと思います。

「分断が、征服や侵略の「力」を現実にする。
分けると、分けられた、ものの間に争いの起こるのは当然だ。
すなわち、力の世界がそこから開けてくる。
力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。
高い山が自分の面前に突っ立っている。そうすると、その山に登りたいとの気が動く、
いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。
この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。」
鈴木大拙

人間関係に順列があるのは当然で上があり下が存在するのです
頂上に登ったことを自慢するのではなく頂上に登って何をするかが大切である。
私達が正論を掲げるよりもその場に応じた状況により判断しなければ、
世界中が混乱してしまう。ウクライナもパレスチナも宗教的な正論で戦争が繰り替え
されているのです。

日本は過去に戦争であれほどの被害を受けながらアメリカへ報復をしなかったのは
臆病ではなくて、人間の持つ「恨み」の本能を断ち切るために決断したのです。
戦力の差をまざまざと見せつけられて戦いで勝負することを諦めたのです。

しかし日本は今までの「正論」を覆して武器を捨てて誇りを取り戻したのです。
武士の考えを前面に出すことなく新しい精神論と文化を前面に押し出したのである。
そして経済活動に専念することによりアメリカに続くGDP2位の結果を生み出したのです。

これは過去にも例がなく「世界の奇跡」と呼ばれるものであった。

私たちが歴史で学んだ敗戦国日本はアジアの征服と侵略を犯したひどい国である。
これが正論と教えられたのに敗戦後数年たってアジアの各国の元首から
「あの時に日本が我々を救ってくれなかったら西欧の属国となっていた」
今頃、きっと奴隷のように扱われていたに違いないと感謝を述べていた。

戦後アメリカ軍が作った法律や教科書は日本人に自虐意識を植え付けただけである。
現代の「正論」を作り出す政治家や学者が現れないのだろうか期待するばかりです。
皆様も時には正論に立ち向かってはどうだろうか。