「人の出会いは一瞬速からずまた一瞬遅からず。出逢うべき人には必ず会う。
しかし求める気持ちが無ければたとえ運命の人でも目の前を通り過ぎる。」哲学者森信三
多くの人に出会い、そして多くの人と別れる。
去っていく人を無理に止める事もなく自然の流れに任せる。
この人とは運命の出会いかと思っても数年で別れることもある。
「喜怒哀楽」を分かち合った友でも一瞬にして離れることもある。
かといって無理に流れを止めたり、流れを変えたりする必要はない。
人の生涯は生れた時から「生老病死」という四つの苦しみを与えられているからである。
「生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死の苦しみ」の四つである。
その上、
「愛別離苦」(あいべつりく)愛する人と別れる苦しみ、
「怨憎会苦」(おんぞうえく)恨み憎む人と出会う苦しみ、
「求不得苦」(ぐふとくく)求めるものが得られない苦しみ、
「五陰盛苦」(ごおんじょうく)存在を構成する物質的精神的五つの要素に執着する苦しみ。
これら四苦が加わり、先程の四苦とあわせ四苦八苦(しくはっく)という。
誰しもが短い人生の中でその都度四苦八苦の世界を過ごすのである。
だからどのような出会いでも無理に留める必要はなく忘れる必要もないのである。
どのような出会いでも無理に執着する必要はなく継続を重んじる必要もないのである。
それぞれ自分の人生軸を大地に打ち込んで揺るぎないものにしなければならない。
その為には出会うべき運命の人に出逢わなければならないのである。
貴方にとっての運命の人とはどのような人を言うのだろうか。
人の道を教えてくれる先輩、志を同じくする仲間、共に冒険が出来る友達、
夢を語れる伴侶、様々な人との出会いに運命を感じることがあるのではないだろうか。
運命の人と接する時は素直に実直に接することが大切である。
本音で語りあい過去の恥も失敗も曝け出す事である。
その中で、ともに笑い、泣き、励ましあえる人こそ運命の人ではないだろうか。
四苦八苦の世界である。見えない暗闇に光を照らしてくれる人が運命の人である。
その為には今を大切に純粋に一途に生きなければならない。
「因果応報」という言葉がある。
過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、
現在の業に応じて未来の果報を生ずることを「因果応報」という。
すなわち、現在の姿は前世の行いの表れであり、現在の行為は未来への果報なのである。
現在、なに不自由なく幸福な人は、前世で善の貯金が一杯残っていた人である。
その反対に何をやっても駄目な人は、前世での不善の借金がたくさん残っていた人である。
しかしどのような人生でも「四苦八苦」からは逃れようがない。
その苦しみに耐えなければならないのである。
煩悩からうまれた悩みや苦しみからの脱却は自分一人では出来ない。
運命の人との出会いが自分自身の宿命を大きく変える力になるのである。
人の出会いは一瞬速からずまた一瞬遅からず。
人生の流れに素直に準じていなければ運命の人には出会えない。
人の一生も、野に咲く草花のように、四季の移り変わりの中で、
自然のままに、生まれ、育ち、朽ちて、また咲けば良いのである。
辛くても咲き、悲しくても散り、苦しみの中から芽が出て、また花開けば良いのである。
求める気持ちを失わずに運命の人に出会うべきなのです。
4月 3rd,2016
恩学 |
人の出会い はコメントを受け付けていません
子供にボールを投げるにはどれぐらいの距離が必要だろうか。
少年や青年に投げる距離は、女性に投げる距離は、野球好きな人にはどうだろうか。
勿論、子供には4メートルから6メートルぐらいが安全であり、
少年や青年には10メートル以上でも十分補獲出来るだろう。
女性には5メートルから8メートルぐらいが安全で、
野球好きなら16メートル以上ぐらいなくては練習にはならない。
意思を伝える言葉も「キャッチボール」と同じように距離が重要である。
子供に伝える言葉は優しくて分かり易く説明する事が大切で、
少年や青年には真理を厳しく伝えなければならない。
女性には女性としての立場と役割を理解した上で伝えなければ納得されない。
言葉を使うプロ(士業)の人には、質問者側の考えを明確に伝え、
異論・反論する材料も持ちあわさなければならない。
言葉もボールと同じように緩急と強弱を付けて話をしなければ理解されない。
しかし言葉の距離感がみえない便利なツール、インターネットやメールからは様々な誤解がうまれる。
画一された文字からは受け取る側の理解が違うので危険である。
ビジネス上の連絡事項であれば問題は無いが、人間関係の感情のやり取りでは注意した方が良い。
必ず肉声でやりとりをした後でのメールにすべきである。
またデジタルパネルからのニュースや情報は一方的でそのうえ無機質である。
身近な事件も事故も災害も現実感が無く、何故か他人事のようになってしまう。
悲惨な戦争や貧困や暴動も電源を切れば終わりになるから、
見たくない、受け入れたくない「拒否」が簡単に済んでしまう。
来年消費税が上がれば経済的危機が来ると言われても実感を掴み難い。
街に出れば、着飾った人が溢れ、車も溢れ、店には物が溢れている。
そこかしこにコンビニもあり、ファミレスがあるので食べるには困らない。
自分達がいくら貧困になってもこの国で暮らす限り安全だと錯覚してしまう。
身に迫る危険を知らずに安全を確保するのは無理だと言うことから目を逸らす。
全ては情報の距離感が消えてしまうから現実感が亡くなってしまうのである。
怖いのは人の感情も距離感が大切だということすら忘れてしまっていることである。
出会いの距離感も礼儀にかなった距離がある。
それは、日本人はお辞儀の距離、中国や韓国では握手の距離、中東の国では鼻をこすり合わせる距離、
アメリカ人は抱きしめ合あう距離で信頼を確かめる。
その距離感も知らずにサービスすることが美徳のように報じられる。
日本人が大好きな言葉「おもいやり」のサービスである。
この言葉は一期一会の礼をもって他人に尽くす作法の意味を持つ。
しかし初対面の外国人に対して「おもいやり」を無理強いするのはどうなのだろうか。
相手との正しい距離感を保ちながらの「おもいやり」でなければ意味を為さないのではないか。
いたずらに「おもいやり」を待ちあげる政府やメディアにも疑問を感じる。
親切を強要することに迷惑と感じる人も多いことを知るべきである。
程良い距離感が無ければ「言葉のキャッチボール」もうまくいかないことを知るべきである。
言葉を投げて言葉を受け取る距離感を訓練をしなければならない。
更にその距離感に感情が乗らなければ意味を為さないのである。
4月 3rd,2016
恩学 |
キャッチボール はコメントを受け付けていません
江戸時代の儒学者石田梅岩の言葉によれば、
「たとえば形とは、ボウフラは水の中では人を刺さず、成長して蚊になってから、人を刺す。
蛙は自然に蛇のことを怖れる。これは蛙の親が、「蛇はおまえを食べる、恐ろしいものだ」と
教えたからではない。こういったボウフラや蚊、蛙の行為や反応からは、
外形がそのまま心の在り方を決めていることがわかるだろう。
人が自身の心を知り、それを本源である性に至らしめるためには、
形に従って生きる必要がある。その形とは何かと問われればまずは職分であると答えよう。
職分とは、「その職務にある者がしなければならないこと」であり、
もっとも簡単な言葉に言い換えるならば、仕事としても良いだろう。
つまり、今ある仕事に励むことは、心を性へと近づける修養となる。」
石田梅岩は貧農の農家から11歳で丁稚奉公に出され、独学で儒学、仏教、神道を学び、
人として心の在り方を説いた人物である。
後に弟子たちによって「石門心学」と名付けられる思想を創始した人物でもある。
「学問とは、ものを覚えることではなく、考える力を身につけること」
学問とは知ることに専念することではなく、実践を以って学ばなければならない、
即ち、知と行いが同時になさなければ意味を為さないと教える。
梅岩は朱子学の「知先行後」を学んだが、この教えの部分は陽明学の「知行合一」である。
従来の学者のようにただ知識を蓄えるだけでは理屈理論に走る「文字芸者」になってしまう、
現状の仕事に専念しながら知識を研鑽することの方がもっとも正しいと説く。
「形あるものは」とは、今ある現状の中でベストをつくせば、
自然に現れて来る姿の事を言っているのである。姿とは「心性」の事である。
学ぶことを私利私欲の為に使うことは愚の骨頂である。
商人出身の梅岩は「利潤は追求すべきだが、公共性を失わない範囲にとどめるべきものだ」
と言っている。近江商人の三方の教え「自分良し、他人良し、社会良し」と同じである。
江戸時代と言えば士農工商の時代である。
武士が偉くて商人は最下位に属し金儲けは卑しいとされた時代である。
しかし裏では多くの武士が商人から金を借りていた時代でもあった。
その為にさまざまな宗教家たちや学者が梅岩に難癖の質問をした。
武士に雇用されていた彼らにとって梅岩は目障りそのものであったに違いない。
一番の批判の原因は、高尚に崇めるべきものである学問を、「心の磨種(とぎぐさ)」として、
平易に誰でもが理解できる教えにしてしまったからである。
「心の磨種」とは心を成長させる為に学問が必要だと言っている。
返して言えば学問をしたから自然に心が成長するのでは無いとも言っているのである。
梅岩自身「人の人たる道」を求め勉学に勤しんだ。
11歳の時口減らしの為に丁稚奉公に出されてから終生自分の家族を持たず勉学に励んだ。
苦労を重ねても私利私欲に走らず、誰でもが学ぶ権利があると無料の私塾を開いたのである。
元々生まれてきた姿に本来の心を見出すことが正しいと信じて疑わなかった。
全ての人の外形がそのまま心の在り方を決めていることを教え説いたのである。
4月 3rd,2016
恩学 |
形あるものは、形がそのまま心である はコメントを受け付けていません
会ったこともない人の本を読み
会ったこともない人の成功話を聞き
会ったこともない人の幸福を真似ようとする
行ったこともない所の写真を見て
行ったこともない所の景色に憧れ
行ったこともない所の知ったか振りをする
やったこともない仕事を始め
やったこともない技術を学び
やったこともない社長の肩書を持つ
そこから目に見えるものは何だろうか。憧れと満足と自慢だろうか。
ただ情報の世界にいることを経験したことと勘違いしていないだろうか。
成功者のまねをしても自ら挑戦しなければ自信と誇りは生れて来るものではない。
自分の姿、自分の喜び、自分の夢の実態を見つけるためにはどうすれば良いのか。
それは知識を重ねて、尊敬する人に出逢い、経験を積み、感動する景色に接することである。
正に吉田松陰の「奇傑非常の士に交わる」の一説である。
しかし尊敬する人の型は真似が出来ても真意まではなかなか真似が出来ない。
それは歴史と時代背景が違う為に当時の真意が当てはまらない為である。
真意の意味は真実の意義、本当の気持ちである。それは時期に応じた志にもつながる。
真意は、その時代・その瞬間だからこそ価値があり重要なのである。
大人達は多くの若者に向けて「夢」を持てと言う。
おおいなる「夢」を持たなければ何事も達成しないという言葉が必ず付いて来る。
夢を持つことは大切だが行動の末に辿り着く願望が夢であることを知るべきである。
漠然とした夢を見つめ過ぎると、近くのものが霞んで見えなくなってしまう。
元来「夢」という文字は夕暮れ時に薄眼を空けて遠くを見ている状態を現わす文字である。
ハッキリと見えない状態を「夢」というのである。
だから知識や経験のない時に「夢」など見るべきでない。
現在のようにネット社会で生活するということは仮想の社会で生きることなのです。
大切なことはリアルな社会を毛嫌いせずにネット社会と両立させることです。
沢山のデーターからシュミレーションして自分の生き方に応用することが大切なのです。
その為には絶対に直感を信じて会いたい人に必ず会うようにして下さい。
スケールの大きな大自然の中でじっくりと身を委ねて下さい。
成功者の上辺だけの真似ばかりせずに地道に活動する事も行って下さい。
何もしないで悩んでいるよりは、何かをして失敗をする方が良いのです。
現実の世界で生きている我々にとって一番大切なものは真実なのです。
貴方の目の前の世界だけに真実があるのです。
4月 3rd,2016
恩学 |
目に見えるもの はコメントを受け付けていません
見ず知らずの人と出会える奇跡に感謝して下さい。
言葉を通じて相手を探るのではなく表情から良い波長を感じ取ってみて下さい。
そして少しでも共通点があれば心の扉をすこし開けてみて下さい。
あなたの素直な感情がきっと出会いの真実を気付かせてくれます。
学校で学んだことの知識だけで世の中を見ると判断ミスをおかします。
学校で学んだ知識に経験を取り入れて自分の考えを少し足してみて下さい。
経験からえた知識が見識となり世の中が少し見えるようになるのです。
その上ですべてを決断する強固な胆識が生まれて来るのです。
胆識とはあらゆる判断の末に責任を取る覚悟の様なものです。
「胆が据わっている」というのは胆識を持っていることなのです。
リーダー格の人は必ず胆識を持たなければなりません。
人の出会いは数ではありません。少数の出会いでも充分に人生を知り得るのです。
見ず知らずの人との共感は素晴しいハーモニーとなります。
それぞれの音が集まり一つの塊になった時に美しいハーモニーが生まれるのです。
目の前の人と本音で心の音を出し合ってみて下さい。
相手の違う音を理解して自分の音を乗せてみて下さい。
音楽のように別々の音が混ざり合って感動が生まれてくるのです。
無理に相手の音に合わせることはないのです。
いつでも本音を出し合うことが大切なのです。
茶道のおもてなしの言葉に「一期一会」というのがあります。
徳川幕府の大老井伊直弼が好んで言った茶道の心得です。
「一生涯にただ一度会うことかも知れぬという心情で、風炉の前に主客端坐いたします。
その時、今生においてこれ限りかも知れぬ、人命というものは朝露の如きものである。
朝あって夕べは計ることができない。
ここで会えばまた会うことは人間として必ずしも期することができない。
今生にこれを限りと思う気持ちになる。
そこで茶を点てると、人間はふざけた心、雑念というものをことごとく脱落して、
真心が表れる。その真心を重んじたのが「一期一会」の精神である。」
出逢いというのは人生という船で「同床異夢」の人達と乗り合わせる事を言います。
その為に見ず知らずの人と出会った時の最初の挨拶(自己説明)が肝心です。
過去の話しばかりをしては駄目です。未来を多く語るのです。
自分が何者で、これから何をするか、何の為に生きているかを話すのです。
相手に自分の意思と人生の目的を明確に伝えるのです。
世の中を嘆たり、人の悪口を言っている時間などはありません。
長い船旅(人生)では天候が荒れ、時化に遭ったり、座礁するかもしれません。
同乗者と最後まで協力して助け合うことを約束するのです。
おのおの自己を見直し、相手を理解して、目的地を目指すのです。
旅の間に強い信頼関係を築きながら前に進むのです。
これからも「一期一会」の精神を忘れずに出会いの奇跡に感謝して下さい。
12月 23rd,2015
恩学 |
奇跡の出会い はコメントを受け付けていません
「九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。」
哲学者森信三
みんな他人と違うからいいんだよ。
他人に合わせた人生なんて無意味だと早く気付いてほしい。
自分で考える事ことを面倒ぐさがらないで、
本当に自分のやりたい事を見つけて欲しい。
自分の望みは理屈でなく直感で分かっているはずだから、
素直な気持ちを消さないでほしい。
なにも怯える必要はない。
嫌われる事を恐れて自分の意思を失くさないで欲しい。
一番悪いのは他人の悪口に同調することなのだ。
自分の利益を守ろうとして強いものに意見を合わせる。
他人の意見が間違っていると思ってもただ同調する。
これをイネイブラー(同調者)といい発言者と同罪なる。
結局最後に悪口からは信頼関係等生まれないことを知る。
人前で他人の悪口を言う人は、あなたの事も他人に悪口を言う人である。
それはフレネミー(密告者)といって一番卑怯な人間なのである。
政治家も経営者も就労者もクラスメイトもママ友も、
自分の意見を持たないことがどれほど危険か知るべきである。
個人的な利益の消滅を恐れずに反社会的な集団からは離れて欲しい。
自分を見失わないでほしい。
貴方が離れた先には貴方と同じ価値観を持っている友が待っている。
「強く無くても」
強く無くても良い 信念があれば
偉く無くても良い 人として価値があれば
貧しくても良い 心が豊かであれば
能力が無くても良い 誠実で有れば
夢が無くても良い 毎日を大切にすれば
恩学より
個人が集まって集団となり組織となり国家となる。
画一化された人の集まりからは個人の意志は消えてしまう。
様々な感情の表現がありその国の文化となる。
他人と違う事を恐れる必要はない。
12月 23rd,2015
恩学 |
個人 はコメントを受け付けていません
彼は何故すぐに怒るのか。
怒る理由は何だろうか。
気分が悪いから、じゃ何故気分が悪いのか。
それは自分の弱い所を指摘されたからである。
能力不足、努力不足、不器用、優柔不断な性格を他人から言われる。
普段から気になる所を指摘されたので本能的に防御する。
人は本能的に弱い所をつかれるとアドレナリンが発生して興奮状態になる。
怒らない方法としては聞き流すことである。
もしくは自分に対する戒めの言葉として素直に取り入れることである。
勿論、あまり理不尽な内容であれば聞き流すことである。
相手が悪(あし)き言葉を発している間は「ありがとう」を連呼するのである。
そうすればセロトニンが発生して落ち着いて来る。
攻め込まれるのは自分が未熟で至らないかだと思えば腹も立たなくなる。
その内にドーパミンが発生して来て嬉しさに変わるのである。
自分の顔に怒りが出なければ相手の興奮も収まる。
アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」に書かれています。
「暗い感情、幸福が失われた感情、不幸を感じる感情があまりにも強烈になると、
じっとしていられません。
さらに強くなってしまうと、さまざまな行動の中で、いろいろなものを破壊していきます。
まっ先に破壊するのは自分です。
自分を破壊して、それで他人も破壊していくのです。
世の中の破壊の原因は怒りなのです。
この世の中にある、ものを作り上げる創造の源泉は愛情であって、
創造したもの破壊していくのは怒りの感情なのです。
それは普遍的な、世の中にある二種類のエネルギーの流れです。
ですから、強いていえば、愛情と怒りは一つのセットなのです。
世の中にはそういうふたつのエネルギーの働きがあります。」
「世の中の破壊の原因は「怒り」
あらゆる宗教はそういった二つの感情をバランスよく保つ為に介在します。
怒りを怒りで制圧すると戦争がはじまります。
怒りの原因を追及して愛情の種を見つけ出さなければなりません。
自然と季節の中で子供等を花を動物を育てるのです。
それらを強く抱きしめる度にオキシトシンが出ます。
オキシトシンは愛情のホルモンなのです。
平和は愛情によって作られるのです。
彼は何故すぐに怒るのか。
怒る理由はオキシトシンが足らなくなっているからです。
12月 23rd,2015
恩学 |
怒り はコメントを受け付けていません
人は欠点があるから学ぶ事が出来る。
もし欠点が無く長所ばかりなら学ぶ必要はない。
しかし少し学び始めるとまた新たな欠点が見つかる。
だからまた学ぶのである。
人は認められたいから努力する。
もし地位も名誉も財産も関心が無ければ努力する必要は無くなる。
しかし少し認められるとまた違う望みが出て来る。
だからまた努力するのである。
人は孤独に耐えられないから友を作る。
もし孤独を苦痛と思わなければ友を作る必要はない。
しかし自分に都合のよい友ばかり集めるとすぐに離れて行く。
だからまた友達探しが始まるのである。
人間の欲望は穴のあいたバケツのようなものである。
いくら満たしても一杯になる事は無い。
その為に足る事を知るべきである。欲には限度が無い。
その果てしない無限大の欲を追いかけるのではなく、
少しの欲が満たされただけで十分だと云う満足感を持つ事が重要である。
シェル・シルヴァスタインが書いた「ビッグオー」という絵本がある。
これは「ぼくを探しに」の続編である。
前作では、大きな丸い円(ビッグオー)に少しだけ欠けた部分があり、
この円の欠けた部分を探しに行き、ついにかけらと出会ったけれど、
また別れていくという物語でした。
今作では、小さなかけらが自分に合う、あいてを待つのではなく、
みずから行動を起こして、転げ回り、段々と角がとれ、丸くなり、
ついには小さなビッグオーになるという話です。
前作では共生をおしえ、今作では自立を教えた大人の絵本です。
人間は欠けた部分を埋める為におおくの欲望に囚われる。
能力も美貌も財産も求めて学校や就職や結婚までも打算的に考えてしまう。
人を押しのけて手に入れた欲望は決して心に満足を得られるものではない。
単純に共存・共生を叫ぶのではなく、自分にできることは自らしなければならない。
その自立の精神が大切なのである。
多くの不平不満は依存症から生まれて来るのです。
他人に頼らなければ不平不満は出て来ません。
欲望を追うのではなく足りないところを足すことを学ばなければなりません。
「小欲知足」合掌
12月 23rd,2015
恩学 |
足りないところを足す はコメントを受け付けていません
人間力が無ければ学びは生きた学問の活学にはならない。
教えの初めに「人間力」と「志」について語り始めることが重要である。
「人間力」とは知識を見識に変え見識を胆識に取り入れる力の事である。
学問を知り経験を積んで自分の判断とする。
その判断で決断しなければならない時に胆に座った覚悟を決める。
ここに何事からも逃げない責任感が生れる。
また「志」とは自分がいかに社会に役立つ事が出来るかと言う決心である。
五常である仁・義・礼・智・信を守り通し、
「志」いう軸を強固にして社会のおける役割を明確にする事である。
この二つの精神的な強さが社会との関わり合いを教えてくれる。
志の軸がない人は目先の欲に溺れて物質優先主義になってしまうのである。
ここで江戸時代の儒学者佐藤一斉の「言志四録」を講義の手引とする。
「士は当に己に在る者を恃むべし。
動天驚地極大の事業も、亦都べて一己より締造す」
志に生きる男子は、己の中にある真の自己をたのみとすべきである。
天を動かし地を驚かすような大事業も、すべて己れ自身から造り出されるものである。
士は「+」と「-」の会意文字である。
「+」なる欲求群を「-」の志によって統括する意で、
その志によって統括された人格生活者を「士」というのである。
すなわち志に生きる男子のことである。
そういう士君子というものは、常に己の中にある一己、
良心を恃みとして生きる者である。
驚天動地の大事業もこの真の自己、「一己」が主体で成されるというのである。
戦後日本の教育から三つの教育が米国によって削除されてしまった。
それは「地理」と「歴史」と「修身」である。
日本人の基本とする強い意識を恐れて、米国はこの三つの教育を教える事を禁じた。
特に「修身」を恐れたのである。
「修身」とは中国の書物「大学」にかかれた一節である。
その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修。
その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠(まこと)す。
その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
知を致むるは物に格(至)るに在り。
ここに米国が恐れた大和民族の心髄がある。
知識・見識・胆識を身に付け人間力を持つことである。
12月 23rd,2015
恩学 |
学びの心 はコメントを受け付けていません
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。
我に与(あず)からず。我に関せずと存控」By勝海舟
隠れたり、進んで物事をやることは、自分の意思でやること、
それに対して他人が褒めてくれるのも良し、拙者の与り知らないことです。
福沢諭吉の著「瘠我慢」で勝海舟に対する批判に対して送った手紙の言葉である。
常日頃から福沢諭吉は明治政府の中で安穏と暮らす勝海舟に文句を付けていたのである。
立派な行いをやりながらいけしゃしゃと爵位を授かる神経が分からぬ、
お前の大義は褒美を受け取ることだったのか・・・瘠我慢が足りぬ。
所謂、福沢諭吉が勝海舟にいちゃもんをつけたのである。
我々の生活に於いてもいちいちいちゃもんをつけに来る人がいる。
とやかく人のやる事にあれやこれやと口を挟む人だ。
これらのタイプは自分の主張が絶対的に正しいと誤解をしている人達である。
本音で話したことを噂で広め、高飛車に批判を繰り返しやる気を奪って行く人である。
自分が正しいと信じているから他人から社会までも平気で悪者にする。
大切な明かりの部分を見ずに一点の影の部分を追求して否定論者になる。
失敗するのを恐れ、行動を起こさない傲慢なタイプの人である。
虚勢を張り大声で持論を繰り返す人に追随する人が多いのも信じがたいことである。
自分の主義主張を持たず自ら行動をおこさない優柔不断な人である。
自立よりも依存の方が楽だと考えている人たちに多い思考である。
本来ならば、自分は何をしたいのか、どのように生きたいのか、どうあるべきか、
自問自答しながら生きて行くのが人生である。
他人の評価や顔色を伺いながら窮屈な人生を過ごすことは無い。
自分が選び信じた道で胸を張って進んで行くべきである。
たとえ経験不足と能力が欠けていたとしても恥じることは無い。
失敗の経験を体いっぱいに受け止めるべきである。
常識を信じて嘘の情報に翻弄されて無責任な助言に惑わされる事も一切無い。
自分を信じること、誰よりも自分を愛する事、自分の約束は絶対に破らない事である。
その為には自己に徹することである。
安岡正篤「照心語録」にこの様なことが書かれている。
「人間にとって「独を抱く」ことは非常に大切なことだ。
独とは単なる一人ではなく、相対に対する絶対の境涯を示す。
つまり群衆に伍する、ものに混ずることもなく、自己に徹するということだ。
人は自己の絶対に徹して初めてあらゆる相対に応ずることができる」
いかに自己に徹することが重要であるかを分かって欲しい。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与(あず)からず我に関せずと存控」
自分の責任は自分で取る。そして自分で評価する。
自分の行動に、他人が何を言おうと、自分には関係ないことである。
12月 23rd,2015
恩学 |
行蔵は我に存す はコメントを受け付けていません