誤認識を正す




友人が病の不幸に会う。みんなで助け合って回復の手助けをする。
しかし同じ友人がまた違う病の不幸に会う。助ける人が少なくなる。
更に友人がまた別の病の不幸に会うと災いは違うところにあると認識を変える。
これ以上関わりあうとこちらに病の不幸が襲いかかるのではと恐怖が募る。
認識の変化は恐怖から誤認識と変わる。

友人の会社が不渡りを出して倒産してしまった。1回目の失敗は許されるけれど
その後も失敗が繰り返されると、同じ様に原因は違うところにあると認識する。
自分の運も悪運に引き込まれるのでは無いかと遠ざかる。
ましてや資金援助で参加していた場合はなおさらである。ご認識の後悔が始まる。

医者も最初のうちは職業柄献身的にみるが、同じ患者で同じ症状が度重なると
ぞんざいに扱う傾向がある。その上治療における自分の能力の範疇を超えると
手の施しようがなくなり転院を進めることもある。良い医者の認識がここで変わって
しまう。これらは仕方のないことである。

人の親切や優しさは期限付きであって永遠では無いからである。
親ですら養育の期間(0~18歳)は責任を持つがそれ以降は独立させるのである。
一人の人間として自立させなければ永遠に親離れは出来なくなる。
親離れをしなければ子供は不幸になる。なかよく暮らすの誤認識である。

生きる上で思いがけない窮地に陥った場合は、1人で解決の道を歩まなければならない。
その為に人々は姿・形の無い神や仏に縋(すが)ろうとするのである。
しかし縋(すが)るあなたのそこに「感謝の恩」をあるのか?

「恩返し」という言葉がある。与えた者が見返りを求めてやる行為は、
恩返しに該当しない。恩の大小に関わらず恩を受けた本人が感謝の気持ちを添えて
恩返しすることに意義がある。恩は無償の愛があって初めて成立する。

「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」

恩という字は、原因の下に心と書く。原因を心にとどめるという構成である。
恩とは何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを心に深く考えることなのである。
もっと簡単に言えば、してもらったことを思い出すことである。お蔭さまの心である。
恩の考え方は、ややもすると、封建的な古い考えであると思う人があるが、
それは恩の正しい意味がわかっていないのである。 

中国の諺に「恩を受けて恩に酬いざるは禽獣に等し」とあり、恩知らずを罵っている。

我が国に欧米から権利とか義務の思想が近代になって入ってきて、
民主主義の根幹となった。しかし、それが近頃では、権利だけを主張し、
義務を忘れるという身勝手な風潮が蔓延するようになってきたのである。 

物が豊かになり、福祉が充実してきた今日の繁栄の裏には、その享受を当然と
考える人は少なくない。当然だと思う気持ちには、感謝の念は湧かない。
そして、恩を忘れると権利ばかり主張するようになる。

権利・義務には他への厳しい要請があるが、恩は自覚するものである。 

恩について、仏教ではさまざまな経典に説かれている。『正法念処経』には、
母の恩・父の恩・如来の恩・説法法師の恩の四恩が説かれているし、
『大乗本生心地観経』では、父母の恩・衆生(社会)の恩・国王(国家)の恩・
三宝(仏・法・僧)の恩の四恩を説いている。

また、同じく『大乗本生心地観経』には、父母の恩・師長(先生)の恩・国王の恩・
施主の恩という四恩も説かれている。
人の人たる道は恩を知り、恩に報いるべきと四恩の経典は説いている。

弘法大師は、「恵眼をもって観ずれば、一切衆生は皆これ、わが親なり」と説き、
道元禅師は「一切衆生斉しく父母の、恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を、
法界にめぐらす。」と仰せられた。
自分の生命を知り、家族の力添えを知り、社会の仕組みを知れば、恩にゆきあたる。
他に厄介をかけずに生活はできないのである。

人間は、一人で生きていくことはできない。たくさんの人に支えられているから、
生きていけるのである。世間は、恩という陰の力が働いている。
その力によって私たちは、生かされているのである。

恩にまつわる話がある。
エルトゥールル号は、1887年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問への返礼などの
目的で、オスマン帝国から日本に派遣された船です。

親善使節団を乗せて1889年7月にイスタンブールを出港したエルトゥールル号は
厳しい航海の中、途中イスラム諸国に立ち寄りつつ、1890年6月に日本に到着。
無事に明治天皇に親書を手渡し、東京に3ヶ月滞在した後、1890年9月に横浜港を
出航して帰国の途につきました。

しかし、その途中で台風に遭遇し、エルトゥールル号は暴風雨によって和歌山県串本町
紀伊大島沖の樫野埼付近で座礁・沈没。使節団を含めた656人の乗員のほとんどは
荒海に投げ出されてしまいました。

このとき、エルトゥールル号の乗員を救助したのが、地元串本町大島の島民たちです。
海岸に流れ着いた乗員を発見し、遭難事故を知った大島の人々は不眠不休で生存者を
捜索し、生存者の救護活動を懸命に行いました。

海岸に打ち上げられた傷だらけの遭難者をロープで自分の身体に縛り付け40メートル
の崖を登って救護所に運び込む人もいれば、海水に浸かって冷えきった彼らの身体を
抱きしめ、自らの体温で温めた人もいました。さらに当時は貴重な食料であった
畑の芋や非常食用のニワトリを惜しみなく供出し負傷者に分け与えたのでした。

エルトゥールル号の死者・行方不明者は587人に上りましたが、こうした献身的な
救助活動の甲斐あって69名の命が救われたのです。

知らせを受けた明治政府も、明治天皇の意向を受け、すぐ現地に医師や看護師を派遣。
日本全国からは多くの義援金や物資が贈られました。
救助された69人の生存者は神戸で治療を受けてそれぞれ快方に向かいました。

そして、同年10月に比叡、金剛2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、
翌年1月に無事イスタンブールに無事入港したのです。
当時は日本との国交は樹立されておらず、軍艦2隻による送還には多額の出費を
伴うため、異例中の異例の対応でした。

トルコ側はこのときの日本人の救助活動や政府の対応に大きな感銘を受けたそうです。

エルトゥールル号遭難事故での感謝を忘れなかったトルコ人は、1世紀の時を経た
イラン・イラク戦争の際に、今度は日本人の危機を救ってくれました。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日にイラクのフセイン大統領が「48時間
後にイラン上空を飛ぶ航空機を無差別に撃ち落とす」という声明を発表。
世界各国が自国民のために救援機を出す中で、自衛隊の海外派遣がタブー視されていた。
日本は救援機を送れず、イラン在住の日本人はテヘラン空港に取り残されて
しまいました。

そんな中、2機のトルコ航空の救援機が、自国のトルコ人よりも優先して日本人を
救出し、215名全員が無事イランを出国できました。しかし、なぜトルコ政府が
自国民を危険にさらしてまで日本人を優先救助してくれたのか、当時は日本政府にも
マスコミにも分かりませんでした。

駐日トルコ大使は後に、このときトルコが日本を助けた理由について、次のように語っています。「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです。エルトゥールル号
事故のときの日本人の献身的な救助活動を、トルコ人は今も忘れていません。

私も小学生のとき、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでも
エルトゥールル号事件を知っています。だから、日本人を助けるためにトルコ航空機が
飛んだのです」

エルトゥールル号事件から95年を経て、日本への恩を返したイランでの救出劇は、
トルコの親日感情と両国の友好を象徴する出来事といえるでしょう。
(長文になりましたが当時の記事をそのまま掲載しました)

常に自分の頭の中にある認識をチェックしなければなりません。
時代や世代や環境によっても「常識」は変化しているのです。
新しい常識は古い常識をから生まれることを知り、「誤認識」を避けるようにしましょう。