悩みの深さと重さ




悩みは人それぞれに違う。深く悩んでいるとはどれほど深いのかは分からない。
しかしその重さはほとんど同じである。悩んでいる人には些細なことでも、
心が重さに耐えきれないこともある。

哲学者が悩むのも、宗教学者が悩むのも、一般人が悩むのも左程違いは無い。
悩みの種はどこからきて誰が植え付けたのだろうか分からない。
パスカルが言う「人間は考える葦である」葦という草は弱い草である、

人間も同じように弱いのだが考えることが出来る。だから悩むと言われても真意はわからない。

悩みとは、問題の解決のためにあれこれ考えて苦しむこと。しかし、いくら考えても
問題は解決されず、なんの結論も出ないからこそ苦しむわけであって、そうしてみれば、
悩みとは、なんの解決にもならない無駄なことを、あれこれ考えて苦しむことだと
言い換えられる。

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を持ち出すまでもなく悩みは若者の特権である。
学生時代にこの本を読みあまり感動は無かった。ヨーロッパではこの本を読んだ多くの
若者たちが自殺に追い込まれているということに興味があっただけである。

ウェルテルのロッテを世界だと思い込んでしまう視野の狭さに終始うんざりしてしまう。でも、それでもやっぱりここで描かれるあまりに純粋な破滅に惹かれないわけにはいかない。

人はここまで人を好きになれるのか?
ウェルテルのような文学や絵が好きで繊細な感性を持っていて、それが故に傷つきやすく恋愛で上手くいかない青年というのがあまりにも普遍的で親しみやすかったから。

多くの若者たちは自分の感情と重ね合わせて熱狂したのだと思う。
純粋な恋心は相手を追い詰めても許されるのだろうか?
現代ならストーカーとして訴えられるケースである。

本の発刊が1774年、日本で言う江戸時代の中期。
なんと解体新書が刊行されたのと同じ年にこんなにも理解しやすい文学が
あったということにまず驚いた。

この当時の江戸文学で言えば井原西鶴の「好色五人女」で取り上げられた
「八百屋お七」は、恋狂いで放火を働き死罪に会った女性である。
江戸では、「火つけは十五歳を過ぎていれば火あぶりだが、十五歳になっていなければ
島流し」という決まりがあった。

そこでお七の心根の哀れさに加え、被害もボヤだったことから、なんとか命だけは
助けてやりたいと、奉行が、「お前は十五であったな?」と声を掛けると、
奉行の思いやりを察せられないお七は「いえ、十六でございます。」と言ってしまった。
お七は江戸市中引き回しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火あぶりに処せられました。

発刊は寛文八年1668年となっている。ゲーテより106年早く発刊されているが文章の質は遠く及ばない。

両者とも芝居の脚本家としての実績は高い。

ウェルテルはもともと「死に対する憧れ」があったということ、そして自分と似た境遇の人間がたどる悲惨な運命を目にしていくうちに、それに憑りつかれてしまったという
ことなど恋愛以外の要素が多い。そしてそんな環境の中で出会ったロッテが自分にとって
唯一の希望だったというところに、どうしようもない危うさと魅力を感じてしまうのだ。
この小説にはウェルテルが本当に夢遊病の患者のようにふらふらと

ロッテに吸い寄せられているような空気感がある。

また、許婚アルベルトという自分とは全くの正反対の快活な青年にロッテを奪われて
しまったことも、ウェルテルが自分を認められなくなった理由だったと思う。
いかに正反対だったかは「自殺を認めるかどうか」を2人が話し合っているシーンに
顕著に表れている。ウェルテルは精神的な病も本当のウイルスのように心身を蝕むもの
だと理解していたが、アルベルトは終始「自殺する奴の気が知れない」という考え方
だった。

ウェルテルを通して語られるゲーテの言葉は現代にも通じる考え方というか、
「不機嫌は怠惰なのだ」という言葉には改めてはっとさせられた。

「自分をもはたの人をも傷つけるものがどうして悪徳じゃないのでしょうか。
むしろこの不機嫌はわれわれ自身の愚劣さにたいするひそかな不快、つまりわれわれ
自身にたいする不満じゃないのではないですか。」

「不機嫌が悪徳なんて言いすぎじゃないですか」とある青年に聞かれた際、
ウェルテルはこう答える。そしてこのような人間は暴君だと言い、「不機嫌によって
台無しにされた誰かの大切な一瞬を償うことはできない」ということを熱心に語る。

これはもうこの小説の発刊から249年以上経った現在でも考えさせられるテーマだと
思った。「若きウェルテルの悩み」は単に恋愛だけの小説ではなく、人間の生き方に
関する示唆に富んだ小説で、人間の精神の脆さについても考えさせられる時代の制約を
超えた名作だと思う。機会があればぜひ読んでみてほしい。

日本語の「なやむ」は、身体の力が抜けるという意味の「萎(な)ゆ」から派生したとも、「萎え」と「病む」の合成語だともいわれるように、本来は身体の病気などによって苦しむという意味だった。

ウェルテルの悩みのドイツ語Leidenも悩み、苦しみのほか、病気という意味が含まれている。

つまり「悩み」は肉体的な病気のようなものと
見なされていたわけだが、肉体的な病気のように有効な薬はないのである。

悩みの重さはウェルテルにもロッテにもアルベルトにもましてや作者の
ゲーテにとっても違いがあるはずです。死に至るまで悩んでしまう読者も、
その重さは計り知れないものがある。
繊細な人間は悩みから解放されたくて死に至れば救われると勘違いをしてしまう。
愛で死ぬなんて美しく考える人は時代の制約や環境の複雑さに負けてしまう人である。

東大の学生課の書籍で一番よく読まれていた本「愛と認識の出発」倉田百三
善とは何か、心理とは何か、友情とは何か、恋愛とは何か、信仰とは何か。
若き日に悩むことのテーマが、著者自身が考え抜いたプロセスをそのまま記している。

「ああ私は恋をしているんだ。これだけ書いた時に涙が出て仕方なかった。
私は恋のためには死んでも構わない。私は始めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。

何故ならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学の理論は、一度私が恋してから何だか役に立たなくなったように思われるからである。

私は実に哲学も芸術も放擲して恋愛に盲信する。
私に恋愛を暗示したものは私の哲学と芸術であったに相違ない。
しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術とに支えられて初めて価値と権威とを保ち得る
のではない。今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれ自ら直ちに価値の本体である。」

ウェルテルも、お七も、倉田百三も、自分の全てを投げ打っても恋愛に没頭したのである。
悩みの深さと重さに違いがあれ、これは多感な青年期に逃げることのできない現実である。
しかし恋愛の悩みこそ過ぎ去れば笑い話になることも知っていて欲しい。