莫妄想
3年前に政府発表で外出自粛令が発表された。
あらゆる場所で人と接触したらコロナに感染するという。
報道は決まったように病院の緊急病棟を映し出し苦しむ人を見せつけた。
同時に入院ベッドと人工呼吸器のエクモが不足していることも発表した。
人々はマスク生活を余儀なくされて家庭の中でも外さなかった。
ワクチンが唯一の防御法だと喧伝し国民全てが接種するように言い続けた。
会社や学校や飲食店も移動制約と集団行動の規制が言い渡された。
様々な記念行事がなくなり子供達の記憶から卒業式や運動会が消えた。
海外へ出かける際には3回のワクチン接種証明が必要だということで、
仕方なく私は3回接種した。
ワクチンの安全性も確認しないで接種奨励は明らかにきな臭さを感じる。
アメリカ政府と日本政府と製薬会社との組織だった謀略だったかも知れない。
多くの医者や友人達から何度もワクチン接種は危険だと警告をいただいたが、
正常(?)な社会生活を営む為には打つしかなかった。
親子でも罹患しないか警戒を強めて疑り深くなってしまった。
この国はいつからお隣の中国と同じに共産主義になってしまったのだろうか?
実を言うと私は2度コロナに感染した。
1度目は2021年9月無症状感染だった。
最初の時には保健所から役所の衛生課共々大騒ぎであれこれ指示をしてきた。
毎日の検温と酸素濃度の確認、身体に異常がないかを電話とメールで
報告しなければならなかった。そして自宅待機は5日間で終わった。
そして2度目は2023年2月海外でコロナに感染をしてしまった。
その国ではコロナは風邪と同じ扱いで町の薬局で治療薬が買えた。
その為に、沢山の要人とお会いしたのだが誰もマスクはしていなかった。
しかし滞在最終日、前日のPCR検査で陽性反応が出てしまい帰国ができなくなった。
ホテルに迷惑をかけない為に人との接触を避けて部屋で過ごすようにした。
その後も2度3度と検査で陽性反応が出てさすがに辟易とした。
食欲もあり、睡眠も十分にとれて、元気いっぱいなのに原因は分からない。
今は如何だろうか?
政府からの制約が全て解除されて国内の移動も海外からの観光客も戻り
元の賑わいを取り戻した。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」である。
我々は得体の知れないものに恐怖を抱きすぎる。流言飛語に影響を受けやすい
周りに合わさなければ異端の人と思われるからである。
頭のどこかに昔の「村八分」の記憶が残っているからだろうか。
しかしいまだ街行く人の三分の一はマスクをしている。
マスクはウィルス防止に役に立たないと知りながらマスクを着用している。
先日とある山奥の村にお邪魔した時にマスクをかけて畑仕事をしている老夫婦がいた。
めったに人に出会わない空気の綺麗な場所でマスクはとても違和感があった。
地元の友人に訳を聞いてもらって愕然とした。私たちは大丈夫です。
政府も村役場もワクチンを「ただで打ちます」と言っているので6回打ちました。
7回目も打つつもりです。マスクは健康のためです。意味不明である。
莫妄想(まくもうそう)するなかれ(伝灯録・無業章)
中国から来た禅僧無学祖元を北条時宗は全面的な信頼を寄せていた。
そんな中また元軍が攻めてくると聞き時宗は眠れなくなる。
何日も眠れない日が続き無学祖元にどうしたら良いか
尋ねてみたら、一言「莫妄想」と言われた。
未だ起きもしていないことをあれこれ想像しても仕方が無い、
落ち着いて時の流れを待て。その時に考えればよい。
ご存知のように元軍は日本に二度襲来してきたのだが、
二度とも台風にやられて撤退したのである。
莫は「なかれ」と読み、妄想は誇大妄想と普段に遣う虚妄の想念。
現実からかけ離れた空想、夢想のことで、正しい考えでない状態をいう。
私たちは普段の生活においては多かれ少なかれ煩悩妄想に支配され惑わされ、
苦悩に呻吟しているといっても過言ではなかろう。
ある禅宗の住職の話より
檀家さんから「一度正式に座禅したいものと思いながら、本で読んで見よう、
見まねで座禅に取り組み、年数だけは30年選手で、齢50を過ぎますと、折に触れ、
死後のことが気になりできるかどうかわかりませんが一度じっくり座って大安心を
得たいものとこの頃は考えています。
この希望は叶えられるものでしょうか」というような書き込みがあった。
まさにこの男性に「莫妄想」と一喝かませたいところである。
「8世紀中国唐代。熱心に座禅する若き僧に対し、南嶽和尚は
『お前はそこで黙々と座禅をしているが、何のためか?』と問う。
『ハイ、仏になるためです』。そこで南嶽和尚、傍の瓦のかけらを拾ってきて、
砥石でゴシゴシと磨き始めた。
僧問う。『和尚さん何をなされているのか?』
和尚『鏡を造るんじゃよ』
僧曰く『瓦をいくら磨いても鏡になるわけ無いじゃないですか。
和尚『それなら、いくら座禅しても仏にはならんということだわい』と。
座禅を成仏の手段と考えていた若き僧は、その一言に己のすべてを打ち砕かれて
大ショック。すなわち「莫妄想」である。
禅の道は悟ろうとか、仏になろうとか真理体得をしようと計らい
執われる心がすでに妄想なのである。
さらに南嶽和尚は説いて聞かせた。『お前さんは牛車に乗って出かけるとき、
車を叩くか牛を叩くか。』
『お前は座禅を学ぼうとするのか、それとも作仏を学びたいのか。
もし座禅を学ぼうとするなら、座るだけが座禅じゃない。
もし作仏を学ぶのなら決まった相〈すがた〉などありはしない、
形や相に執われるなら、真実の座禅でもなければ作仏の道でもない』と。
そこで煩悩妄想の塊の私は、さらにこの男性に
「座禅で大安心が得られるのなら私が得たい」ものだと言い放ってやったが、
どうも理解は届かなかったようだ。
この語は中国唐代の馬祖道一禅師の門下の汾州無業禅師の語といわれ、
無業和尚は常の口癖のように「莫妄想」を唱え、
この語をもって人々を接化教化したという
ギリシャ時代の哲学者ソクラテス曰く
「この世に悩みなどは無い、悩みを持っている人間がいるだけだ!」
私はこの言葉が大好きで相談に乗ってくださいと来る人に必ず言うのである。
あなたはこの世が終わりのような悩みだというが、
周りの人たちはあなたの悩みなど誰も気にしていない。何が心配なのですか?
自分の中で勝手に悩みを膨らませて大変だというけれど、それは完全に「莫妄想」だ。
「看却下」自分の足元を見て、心で整理すれば、問題など消えてなくなるのだ。
皆様も起こるか分からないことをあれこれ悩むことなく平常心に努めてください。