呪縛から逃れる




海外へ行くと日本の情報が入って来なくなる。
勿論、求めれば新聞やネットからの情報は手に入る。
しかし多くの場合はその国に慣れ親しむために無理やりに日本の情報を求めない。
そういう生活を一週間も続ければ何が起こるか!
日本における様々なゴミ情報が頭から一掃されるのである。
自分にとって何が大切で、何が無駄かハッキリ分かるのです。

所謂、日本に於ける常識と言われる部分が無くなり呪縛から解き放されるのである。
あれは駄目、これも駄目、それは食べてはならない、食品添加物が体に悪い、
自民党がこの国を駄目にしている、ウクライナの戦争は聖戦でイスラエルは悪魔の所業、

天候異変は地球環境を壊した人間のせい、熊が人を襲えば全頭殺してしまえ、
円安・物価情報も騒ぐだけで何も解決案が出されない、あれだけ大騒ぎしたコロナも
ワクチンも下火になれば、今度はインフルエンザが猛威を振るっていると国民を
騙し続ける政府、裏情報としてここ2〜3年以内にワクチンによる不審死が大量に
起こると言われている。

一体我々国民はどうすれば良いのか具体的対策はどこからも全く出て来ない。
中国や北朝鮮が核ミサイルで戦争を仕掛けてくる恐れがあるから、日本も核ミサイルを
保有すべきだとなると完全に恐怖の呪縛を、政府とマスコミが仕掛けているのである。
我々国民は恐怖をあおられるだけです。

先日テレビ番組で京都大学出身の夫婦が脱サラをして田舎で農業と民宿を経営して
いるのを見た。子供達も農業を楽しんでいる元気な姿に、日本の原風景を見た思いが
した。貧しいから都会から脱出したのでは無く心の豊かさを求めて移住したのである。
京大出身となればもっと国の為に活躍する場もあったのでは無いかと勝手に
憂いてしまった。しかし昔から考えてみたらこのような姿は存在していたのである。

武士の社会では定年が早く40代から隠居生活に入るのが当たり前の時代であった。
家督制度のために長男に早くからバトンを渡さなければならなかったのである。
そこで隠居した武士は、寺子屋や私塾で学問を教えたり、田舎へ移り農業を営んだり、
植木を育てながら盆栽を作っていたのである。まさしく晴耕雨読の時間を楽しんでいた。

ある意味地方出身の子供達が学問に才長けて運動能力も高かったのは、引退した武士
たちが一緒に暮らしたその延長線上にあったからでは無いかと思います。

そして世界でいちばんの識字率国家でモラル意識が一般の人たちに備わっていたのは、
お寺の貢献も見過ごしてはならない。村々のお寺は学校であり、病院であり、
人々の憩いの場であり、おとなの社交場でもあった。
子供達は自然にお坊さんを敬い、大人たちから躾を習い、取れた農作物を分け合う
「和を持って貴すとすべし」共存共栄の精神を学んだのである。
問題が起これば村人全員の問題であり、個人の悩みとして考える必要はない。

我々は身近に人生の助言者としてのお坊さんを忘れてはならない。

「我思う、故に我在り」16~17世紀のフランスの哲学者

デカルトは疑い得るものはすべて疑って、とうとう最後にいくら疑っても疑えぬもの
として、「考える私」というものに行きついた。
デカルトはその卓越した洞察力と思考力において、天才と言われるにふさわしい
人物であることは間違いない。しかし、内観という点においては修練を経た禅僧には
一歩及ばなかったのである。

ヨーロッパ語の「私は考える」という文法の呪縛から最後の一歩で逃れることが
出来なかった。「考えられたこと」と「考える私」を混同してしまった。

禅仏教においては、デカルトが「考える私」と見たものを「無」と称している。
私が考える時、そこに「考える私」というものは認められない、
確かなことは「考え」があるだけである。

「無」は存在者であるとも無いとも言えないようなものである。
無門慧海も彼の手になる「無門関」において「虚無の会を作ること莫れ、
有無の会を作ること莫れ」と述べている。
「無」は何もないという意味でもなく、有る・無しという考えにとらわれても
ならないという意味である。

道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節がある。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

最後のフレーズの「万法」というのはすべての事物を意味する。
山川草木やすべての自然現象、私達の感官に触れるありとあらゆるものを万法という。

「証」は悟りの意味で、大方の解説では「森羅万象が私に悟らせてくれる」と
いうような解釈が一般的だが、私はあえて
「森羅万象がそのまま自己の証(あかし)である」と読みたい。

つまり、森羅万象の関係性の中に自己というものが形式的に成立している、
とした方が哲学としてはすっきりするからである。
表現方法を工夫すれば、仏教哲学は西洋哲学と同じ土俵で論じることができる
はずである。 究極の主体としての「無」はよく鏡の面に例えられる。
鏡はあらゆるものを忠実に映し、しかも鏡面の存在を感じさせないからだ。

禅僧は山を見れば「私は山である」と言い、木を見れば「私は木である」と言う。
そこに山や木を認識する主体はなく、ただただ映し出された山や木があるだけだと
いうような感覚を表現しているのだろう。

宗教としての禅においては感覚的な表現で十分なのかもしれないが、感覚的なたとえに
終始してしまっては、公共の学門としての蓄積につながらない。
これからはもっと哲学の方から仏教にアプローチして、その表現方法を洗練していく
ということを考えても良いのではないだろうかと考えている。

呪縛が自然氷解してほしいと望むのは愚か者のすることで、自分の知の力で
解決しなければその答えは永遠に見つけることは出来ない。

「人間は考える葦である」フランスの思想家パスカルの名言
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」
人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを
言い表したものである。

真実は考えに考え抜いて自分自身の理解と追求から姿を現す。
その為には仏教書(禅)と多くの哲学書から学ぶことである。
悪戯に「考えよう」とする呪縛から解き放されるのである。