音楽の制作




「録音技術」
録音技術の進化が音楽の進化につながった。
私がスタジオで働いているころはチャンネル数4ch~16chで太いテープを回して
録音した。その後64chになるまでさほど時間はかからなかった。
そして今はコンピュータにデーターを取り込む時代なで、無限大にチャンネル数は
増やすことができる。
最小2ch時代のビートルズはアイデアの実験を繰り返して最高の音楽を作り出した
のです。それは、各楽器の録り方、歌の入れ方、効果音の入れ方、ミックスダウンの
やり方などに、毎回工夫を凝らしたのです。

日本でもそれぞれが自由にアイデアを出して制作していた。
楽器の音色を高くするためにテープの速度を速めたり、低域を増やすためにバスドラの
中に座布団を入れたりもしたのです。有名なのはフォーククルセダーズが作った
「帰ってきたヨッパライ」です。深夜番組で放送されてから町中にこの曲が流れました。
吉田拓郎のオケの作り方。加藤和彦のサポート。企業秘密なので詳しくは書くことは
出来ないが、スタジオ内でのやり取りは大変学ぶことが多くありました。
ここでも参加ミュージシャンが協力して、アイデアを出し合ってよい音楽作りに
専念したのです。良い音楽を作ることは勿論ですが、聴衆が喜ぶような音の品質向上と
仕掛け作りも重要な時代でした。

「作詞家に依頼」
安井和美、荒井由美、松本隆、売野雅勇、川村真澄、秋元康との思い出がある。
当時大御所は手直しが出来ないと評判でしたが、私は構わずに自分が納得するまで
書き直しをお願いしました。
自称、私は日本一のプロデューサーを豪語していたからです。大笑い!
川村真澄は久保田利伸で、秋元康はおニャン子クラブでお付き合いしていただきました。
毎回打ち合わせの時に笑いが絶えなかったお二人でした。

「全体のイメージの作り方」
アーティストごとに時代に合ったテーマを考えて提案をしていました。
詩が先か、曲が先か、毎回アーティストに合わせた作り方をしました。
楽曲のイメージが見えてきたらジャケットのデザインを同時に考える。
帯原稿(レコードについていた紙の帯)と楽曲紹介を考えて宣伝文句も提案していた。
制作会議で営業から初回の枚数が発表される。品切れは絶対にNo!です。
プロデューサーとして取材から挨拶回りから地方営業まで全部仕切っていました。
何度もマネージャー代わりをしてアーティストと二人で挨拶回りをしました。
ご存じでしょうか?楽曲によって営業する最初の地域が違うのです。
北海道の人が好きな曲調と沖縄の人が好きな曲調は違うのです。

ヒットに火をつけるとはこのようなことを言うのです。
この戦略が功を奏して多くのヒットを生むことが出来ました。

「仮歌の思い出」
おニャン子クラブ会員ナンバー12番河合その子のデビュー曲は、
映画「慕情」からのイメージで「涙のジャスミンLove」が誕生しました。
「慕情」は香港を舞台にした大人の恋愛物語です。通常仮歌はラララで歌うか
シャララで歌うムムムのスキャットで歌うかそれとも仮詞で歌うかです。
私が急遽、その場で仮詞を作り歌ってもらったのが「涙のジャスミンLove」でした。
通常は手本として仮歌の歌手を代用するのですが、その時はその場にいた
河合その子が、私が直接歌いたいという事でテスト録音をしました。
この時の歌がフジテレビでもレコード会社でも高く評価されてデビュー曲になったの
です。仮詞が採用されることは滅多にないのですがこのままで発売しようとなりました。
その結果、その年の「レコード大賞作詞大賞」を受賞したのです。

「私の音楽の原点」
1969年~1971年の「中津川フォークジャンボリー」でした。
私も勝手に飛び入りで岡林信康の「友よ」を第二テントで歌い続けたのです。
あの頃は、関西フォーク全盛の時代。フォーククルセダーズ、五つの赤い風船、
赤い鳥などがいました。
東京勢は吉田拓郎を筆頭に六文銭や遠藤健司、斎藤哲夫がいました。
個人的には加川良の「教訓」が好きだった。若者文化のスタート期、何もかもが熱い
時代でした。この時の記憶が音楽プロデューサーを目指すきっかけとなりました。

「歌詞の作り方」
これはどれほどいろいろなドラマを持っているかが重要です。
本からも、映画からも、テレビからも、噂話からでも歌詞の素材を探し出すのです。
私の友人のある大物女性歌手はファミレスの中での女子大生の会話を聞きながら
歌詞を創作していました。だから彼女の歌詞は若い女性が共感するということで
人気でした。
例えば、それ以外に
*タイの保険会社のCM(人間ドラマが満載)。父親が危篤の時に莫大な治療費がかかり
退院間際の請求書の最後のページになぜか支払い済みのスタンプが押してあった。
それは昔、親の病気のために万引きをした男の子を父親が救ったことがある。
その後医者になった男の子が数十年後に治療費の恩返しをしたのです。
泣けるCMとして有名です。
*日本の男の子が五年生を担当してくれた先生への思い出を胸に、成人してから送った
結婚式の招待状に「私の結婚式に母親の席に座ってください」と書かれていた。
小学校の時に明るかった子が、母親が死亡して暗い性格となり成績も下がってしまった。
それに気づいた担任の先生が彼を救ったのです。誰も気づいてくれなかった自分の心を
救ってくれたのはその先生だけだったのです。SNSの投稿で話題になりました。

気づけば日常には様々なドラマが溢れています。
感動するドラマや映画のストーリーを覚えておくことによって、アーティストにも、
作曲家や作詞家にもイメージを伝えやすくなるのです。

「楽曲の作り方」
シングルでもアルバムを制作する意気込みで臨みます。
通常シングルなら2曲もあればOKなのですがアーティストから
30曲~40曲ぐらいは提出してもらいます。
吉田拓郎は10曲入りのアルバムを作るときには100曲以上を用意していました。
歌詞の世界は基本的に歌手の年齢とファンの年齢が近い方が良いです。
同年齢の方が、時代のメッセージが伝えやすいからです。
曲の構成、曲の長さ、リズムの決定、仮メロのはめ込み、必要な楽器などを話し合って
制作をしていくのです。

私は世界の民族音楽が大好きです。その国の歴史と人間性がよく分かるからです。
そして良い民族音楽は長年国民音楽として親しまれて来ているからです。
イタリアのカンツオーネ、フランスのシャンソン、ポルトガルのファド、ジャマイカの
レゲエ、韓国パンソリ、モンゴルのホーミー、アルゼンチンのタンゴなどである。
アーティストのメッセージを聞き、耳新しい響きとリズムを取り入れる。
勿論、民族音楽ではないが、英国のマージービートも黒人音楽のリズムアンドブルース
も大好きだった。私は情報の量が多いのが自慢でした。笑い

「時代の先読み」
5人の仲間達を大切にする。代理店、映画監督、出版社、アパレル関係者、放送局
などのプロデューサーと繋がりをもてれば翌年のトレンドがわかる。
これはマーケティングの手法であり、OODAとAIDMAの手法です。
OODAとはオリエント、オブザーブ、デシジョン、アクションの頭文字です。
情報を集めるオリエント、情報を分析するオブザーブ、方向を決定するデシジョン、
行動を起こすアクションです。これを何度も繰り返すのです。
AIDMAとは注目させるアテンション、興味を持たせるインタレスト、欲望を作る
デザイヤー、記憶をさせるメモリー、商品を購入させるアクションです。
私は日本で初めてそれらの手法を使ってヒット曲を作り出してきたのです。
常に5人の仲間たちとトレンド情報を話し合った。原宿ペニーレーンはその為の集会の
場所だった。仲間が集まる大人の秘密基地を持っことは重要です。笑い

「目指す位置」
アーティストやタレントをデビューさせる時にゴールを決めてから送り出します。
売れたからヒットではなく、どれぐらい売るかを想定してヒットを作るのです。
最初から売り上げ規模に応じて経費を算出すれば無駄が無いのです。
全てのアーティストは大ヒットを狙うが、その人間の持っている才能と能力と時代性と
目指す方向でおおよその売り上げ予想は出来るのです。
アーティストには大ヒットよりも中ヒットを連続して出す方が長く活動が出来るので、
そちらを薦めていました。逆にアイドルの方は早く花開く大ヒットを薦めていました。

「信頼関係」
アーティストの担当を約3年単位で代わった。それは情熱と信頼関係の問題です。
ヒットチャートに登り始めると事務所をはじめ、多くの関係者が増えてアーティスト
にいろいろと違った助言をします。その為にプロデューサーとの制作上の信頼関係が
維持しにくくなるためです。
アーティストが宣伝・制作上で口答えをするようになった時点でプロデューサーとして
の関係は終わるのです。これは双方にとって健全であると思います。
アーティストの制作上の方向性が変われば自分で行うセルフプロデュースにするか、
違うプロデューサーと組めばよいのです。
辛いのですがハウスプロデューサー(メーカー所属)の限界もあるのです。

「プロデューサーの立ち位置」
① 音を聞き分ける、リズムを選ぶ、流れを作る能力。
② アルバム全体の構成を考える能力。
③ マーケティングに基づいた独自の売り方が提案できる能力。
④ コンサートステージ上の演出から衣装まで提案できる能力。
⑤ 売れるまでは絶対的な責任と権限があることを言える能力。

プロデューサーは売り上げ第一に考える。関係各位から仕事に文句を言われないためにも
ヒット曲を作り続けなければならないのです。能力のない肩書だけのプロデューサーが
多いのは確かです。素人バンドの付き添いがプロデューサーの肩書で名刺を出しても
私は絶対に受け取りません。

「海外レコーディング」
久保田利伸=ミネアポリススタジオ(プリンスの専用スタジオ)
SUNS=アビーロードスタジオ(ビートルズの専用スタジオ)
E-ZEE BAND=NYブルックリンスタジオ(クラブ音楽の専用スタジオ)
河合その子=フランススタジオ(パリの香りが満載のスタジオ)
女子十二楽坊=北京スタジオ(十二楽坊専用のスタジオ)
上記のスタジオ以外にもたくさんの海外スタジオを利用しました。

海外レコーディングのメリットはレコーディングに集中できることと、話題性の提供や
MVを制作できることです。勿論、ジャケットの表紙も撮影できるので便利です。

私は1990年に博多出身の「ショットガン」というロックグループのMV撮影で香港へ
行きました。トラックにバンド機材を乗せて演奏しながら街中を走り抜けたのです。
その為に逮捕されそうになりました。これが日本におけるMVの最初だと自負しています。

もっと危険だったのはNY在住のブルースシンガー大木トオルのMVを作った時です。
NYにあるマクサスカンサスというライブハウスで急遽スケジュールを入れて撮影する
ことになったのですが、キャンセルされたニューヨークドールというパンクバンドが
当日ヘルスエンジェルスを引き連れて乗り込んで来た時です。
私と大木さんは地元のマフィア・ドンキングに守られて逃げ出したのが記憶に残っています。

「最後にプロデューサーからの独り言」
CBSSONYというブランドの中で自由に活動が出来たのはラッキーでした。
いつも時代の先端を歩いていたので幅広くアーティストと交流が持てました。
メーカーの垣根や、事務所の垣根も飛び越えて、たくさんのアーティストと時代が求める
音楽作りに情熱を燃やすことが出来ました。
クリエイティブな仕事は多くのサポートが無ければ才能を発揮できないのです。
プロデューサーは他人と違うことを発想して良質な音楽を作るから認められるのであって、
CMやタイアップが付いたから売れたとは言われたくはないのです。

プロデューサーはリスクの多い仕事です。時間もお金も家族との交流も失い続けるのです。
これからプロデューサーを目指す人はけっして楽な仕事と思わないでほしい、
本気で人生をかけてほしい。そして最高にゴキゲンな音楽を作ってほしいのです。

今回のブログがプロデューサーを目指す人たちにとって、少しでも参考になれば
嬉しいのです。リスクをゲームのように楽しんでください。