風のように




振り返れば長い人生も春の風のように通り過ぎた。
一瞬の瞬きの中に消え去る景色のようだった。
少女のため息のようで美しくもあり儚くもあった。
夏の日の陽炎のように淡く滲み出るような揺れる景色の中に、
自分の姿を映し出した。
あー揺れる空想の世界のように掴みきれないもどかしさがある。

幼き頃の悲しみは街頭芸人の踊りのように笑いを誘って消えていく。
何故だろうその寂しさは朝顔に垂れる早朝の雫のように消えていく。
夢は回転扉のように風に押されてただ回るだけ。
カラコロと回る押しグルマのように同じところから抜け出せない。
悪戯をして細き畦道のぬかるみの中を歩き続けて帰るだけ。
あー銀河の中で迷子になった子供のような不安が覆い尽くす。

思い出は桜、思い出は向日葵、思い出は曼珠沙華、思い出は梅の花。
手水のそばの水琴窟のような美しき鶯の声。
絹の裾が擦れる音に混じってため息が漏れる。
水墨画の中に色鮮やかな寒中梅を見る時期に死んでいく。
頑張った過去を振り返りながら思い残すことは何もない。
私は一人で生まれて一人で死んでいく未練も残さず。
あー命の尽きる瞬間の美しい宮殿よ幾つもの思い出を食い散らかして行くのだ。

何故かこのような詩が突然浮かんできた。
詩人でもない私の散文詩である。価値なき言葉の羅列である。

「秋の夜長(よなが) 冬 未だ来たらじ」

勿体ぶった人生の残りを潔く後継者へ伝えるつもりである。
言葉を探して言葉に行きた人生を惜しむつもりはない。
恩を学び、恩を返して行く人生だったのかも分からない。
この早朝の瞬間も言葉を探している。

真理は、実は間近にある、ところがこれをかえってどこか遠くにあると求めてしまう、

真実は簡単であるのにかえって難しくしてしまっているというのです。

嵐はかならず去る
火はかならず消える
夜はかならず明ける
このことがわかれば
大抵のことは解決する

坂村真民先生の詩を今の時期に読んでみると大きな力をいただく思いがいたします。
「もしこのまま寿命がつきるならば、願わくは大智慧の力をうけ、それによって
正念に住し、 来世は因縁のある家に生まれて、早々に出家して仏道を求めよう。」

言葉の持つ魔力は人の心に断りもなしに入り込むことである。
そして喜びを、悲しみを誘い生きる力になることである。
言葉は魂を震わすことから「言霊」と呼ばれる。
幼児期に勝手に覚えた言葉だから自分のものだと勘違いをするなよ。
大切に扱うのだ。

神様が人間は様々な感情が生まれるから伝達手段として言葉を授けてくれた。
一万年前の縄文人から簡単な言葉は生まれている。
それは海を渡って渡来人が頻繁に来るから必要とされて簡単な言葉は使っていたのだ。
縄文土器を見るとあの緻密なデザインは言葉なくして表せない。
それを子孫に伝えるために簡単な言葉は使っていたと思われる。

縄文人の祈りとアイヌ民族の祈りは同じです。
取った獲物は3/1は自分達(家族)のため、3/1は自然のため、残りの3/1は未来の
子供達のためと祈りながら分配するのです。
これをワンサードの教えと言います。奪えば足りず、与えれば余る。
世界は奪い合うから戦争が絶えないのです。

風のように流れる雲のようにゆったりとした気持ちで過ごしたいものです。

達磨大師が伝えてくださった禅の心は、文字では表現しきれません。
このことを「不立文字」と言います。 文字は日常の中で何か伝えるためには、
とても大切なものです。しかし、実際に感じたことをいくら文字や言葉を使って
表現しても、表現しきれるものではありません。
温度、痛み、喜び、悲しみなど、自分自身で体験してみることでしか
伝わらないことがたくさんあります。 
禅では体験を大切にします。だからと言って、文字や言葉が不要ということでは
ありません。文字や言葉に固執したり囚われたりすることなく、実際に体験をし、
あるがままに世界を見ていくことを大切にしているのです。

このような投稿もありました。
ある和尚様の本を読んで、どうしてもその和尚様に会いたくなってお寺を訪ねました。
そうしたら、その和尚様が参道を歩いていらっしゃったのです。
その歩く姿が坐禅をしているように美しくて感動しました。
ますますファンになりました。」

風のようになにものにも捕らわれない生き方の中で、その姿の存在感を見て
感動してくれる人がいることに感動しました。

風のようにあるがままの人生をお過ごしください。