善意と美しさ
あなたは善意を素直に受け止めることが出来ますか?
そして善意と親切の違いも分かりますか?
善意は見返りを求めない善い行いを指しどちらかというと気持ちで表現できる。
道に大きな石があれば端によけて、自転車が倒れていれば元通りに置き直し、
ゴミ置き場のゴミが散らかっていればゴミ袋にまとめておくような、誰の指示でもなく
誰が見ているわけでもなく行う行為を善意というのです。
親切は「お先にどうぞ」「荷物持ちましょうか」「そこまで送ります」のような
行動を伴う行為である。そっとさりげなく声をかけるのがマナーです。
注意しなければならないのは親切の言葉は下心があると警戒されることもあるのです。
どちらにしても相手がやってくれた行為に「ありがとう」と素直に返せますか?
海外の人から日本人は親切で正直な国民だと言われます。
それは経済が安定していて個人の所得も多かった時代の話です。
今の日本の経済状況は最悪の状態です。
作り笑いとマニュアル化された「おもてなし」は親切の代名詞ではありません。
日本は30年間所得が増えず物価は上がり経済は疲弊仕切っています。
ウクライナやイスラエルの戦争で海外からの輸入品が届かず、食料もエネルギーも
不足がちになり、価格が高騰しています。このままだとどうなってしまうのか
不安な材料で溢れています。
私は昨年何度かカンボジアへ訪問しました。
経済成長著しい現状を自分の目で確かめるためにです。
アジアの中でも1・2位を争う貧困国だと聞かされていたカンボジアの現状は、
経済発展途上の真っ只中で街には活気が溢れていました。
高級車は普通に走り、オシャレなレストランはそこかしこにあり、若者達の服装も
高級品を身に纏っているのが分かります。
カンボジアは平均年齢が26歳〜28歳の若い国です。
若者達が経済の原動力となり国を動かしているのです。
国の通貨ニューリエルもあるのですが一般的にはカード払いか米国ドルを使います。
海外からの観光客は価格表示がドルで書かれているのでとても便利です。
多くの世界企業が中国離れをして労働賃金の安いカンボジアへ流れてきました。
今まで農地だったところが高値で取引されたのです。
不動産で手にした大金を商売に注ぎ込み街にはお金が溢れています。
勿論、田舎にはその日暮らしの人たちも大勢いるのも現状です。
人は勢いがあると歩くスピードが速くなり目の輝きも違って来ます。
輝く希望の中にいると笑い声も話す言葉も元気いっぱいになります。
日本のように経済停滞期を迎えると人の歩くスピードは遅くなり、
目にも輝きがなくなり、その上に笑い声も遠慮がちになり笑みを返すだけになります。
「禅の美しさ」とは、人への思いやり、曇りのない目でものを見たときに得られる
清らかさなど、心の内面から輝く美しさです。移りゆく季節の尊さ、新しい毎日を
感じること。人と人との出会いのなかで互いに敬い合うことを学ぶこと。当たり前の
日々の暮らしそのものが禅の修行であること。忙しい日々に流されるのでなく、
ちょっとだけ「私」を休む時間を作る必要があります。
それだけでも、何かが変わってくるかもしれません。仏教には心の不安や悩み、
落ち着ける方法など、さまざまな生き方の教えがたくさんあります
現代を生きる私たちの指針になるヒントが数多く示されているのです。
その教えを、わかりやすく、優しく紹介し、これからも解き明かします。
私なりの解釈ですが、ぜひ皆様の毎日にお役立てください。
大切なのは「人の善意や好意を受け入れる」ことです。
御馳走するから自宅へおいでよと誘われて「借りを作りたくない」
という気持ちから断ったら友達関係の縁が切れる恐れがあります。
この場合は「貸し借り」ではなく、
快く「お願いします」と返事をした方が良いのです。
昔から善意や行為を素直に受け入れる人は婚期が早く訪れると言います。
「借りを作りたくない」、私たちは、「他人に甘えてはいけない」
「自分の力で解決しなさい」と言われて育てられてきましたが、もしかしたら、
その過程で、「とても大事なものを忘れてきた」のかもしれません。
その大事なものとは、「人の善意や好意を受け入れる」ということです。
相手の人が「2人分の食事代を払いたい」「払うことで、幸せな気分になれる」のなら、
それを「貸し」「借り」とは言わないで、受け入れてあげる(感謝する)ことこそ、
優しさであり、美しさではないでしょうか。
どうしても「借り」を感じてしまう人は、「ありがとう(感謝)」を言っていない
のではないでしょうか。 善意や好意を「貸し」「借り」に置き換えてしまう人には、
同じように、「貸し」や「借り」で物事を考える人しか近づいてこないように思います。
実は「ありがとう」の語源は、仏教に由来するといわれます。
お釈迦様が説かれた「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」に「ありがとう」の
語源があるのです。
それは、お釈迦様が、阿難というお弟子になされた、こんなたとえ話です。
「盲亀浮木」の譬えです。
「果てしなくひろがる大海原を思い浮かべるがよい。その底深くに、目の見えない
一匹の亀(盲亀)がいる。その亀は100年に一度、海面に顔を出す。
一方、海面には一本の丸太棒が浮いている(浮木)。
その丸太の真ん中に拳くらいの大きさの穴が空いている。
丸太は波のまにまに風のまにまに波間をただよっているのだ。
阿難よ、この眼の見えない亀が、浮かび上がったとき浮木の穴に、
ひょいと頭を入れることがあるだろうか」
「さようなことはとても考えられません」
お釈迦様はなおも尋ねられます。
「絶対にないと言いきれるか」絶対にないか、といわれれば、一応、
亀の頭が入る穴は開いているのですから「絶対ない」とは言いきれません。
「確かにないとはいいきれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿難よ、人間に生を受けることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れる
ことが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦様は教えさとされているのです。これが「ありがとう」の語源です。
では「ありがとう」の反対語は何でしょう? 次に「ありがとう」の反対語について
お話ししましょう。「ありがとう」の反対語は何か。答えの1つが「あたりまえ」です。
「有り難い」の逆だから「あたりまえ」。これでは幸せも逃げていってしまいます。
何より、人間に生まれたことは、あたりまえどころの話ではありません。
しかし、そこまで考えが及ばず、人間に生まれたことを、あたりまえに思い、
恨み呪いがちです。
人間に生まれたことを有り難く感じ、親に心から「生んで育ててくれて、ありがとう」
といえる身になりたいものです。
次に、心から「ありがとう」と言えない理由について考えてみましょう。
誰もが祝福されてこの世に生を受けました。人間に生まれたことを、
みんなが「おめでとう」と歓迎したのです。
ところが歓迎された当の”主人公”は、成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」と生まれたことを後悔し、「なぜ俺を生んだ!」と、
親を恨む人さえあります。人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。
本当は、誰もが、人間に生まれたことを心の底から喜びたいはず。
なぜ生まれ難い人間に生まれたことを喜べないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだと仏教で教えられます。
何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に真正面から答えたのが仏教なのです。
人身とは人間のこと、今生とは、生きている時、現在のことです。
「人身受け難し、今すでに受く」とは、「生まれ難い人間に生まれることが
できてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜です。
人間に生まれることが、いかに有り難く、喜ばねばならぬことか。
そう、お釈迦様は教えられているのです。
「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と人生の目的が果たせた時にこそ、
「人身受け難し、今すでに受く」「人間に生まれてよかった!」
という幸せに満ちた心があふれでます。
これからも善意を素直に受け入れて美しい人生をお送りください。