自然に学ぶ




禅の教えや文化を西欧に広めた、我々臨済宗の僧侶にとってもとても偉大な
仏教学者である鈴木大拙居士は、この自然というものについて次の様に述べられました。
「人間の力で動かぬもの、人間の考えのままに働かぬもの、人間の智(ち)で
測られぬものがあるとして、これを自然と名づけておこう。
こんな自然と名づくべきものが、人間以外にあって、人間性を帯びずに人間の心理を
超越して、利害得失の考えも、善悪美醜の念もないということが、人間にとって、
如何ばかり仕合(しあわせ)なことであるとも考えられぬではないか。
ある宗教や哲学は実にこの「自然」観をもって人生を規制せんとしたのである。」
(鈴木大拙『鈴木大拙全集 第十九巻 文化と宗教 随筆 禅』より)

自然と言うものは我々人間の力の及ばないものです。さきの彼岸花の様に決まった
季節が来れば満開に咲く花々も、我々が勝手に綺麗だとか、そうでないとか
言っているだけです。花自身「よし、綺麗に咲いてやろう」等と特別力んで
いるわけではありません。正に自然体であります。美醜を追い求めたり、
物事を役に立つ、立たないと計らったりしません。
ただひたすらに自然の中で自分の役割を全うしているのです。

こうした生き様に、時として我々は魅了されるのです。 
我々人間が生きる上で「苦しい」と感じるのは、「自分の思い通りにいかない」と
いうところからくるものであり、

それは裏を返せば「全ての事は自分の思い通りになる」と言う思い込みであります。

「もっと上手くできたのに。」といった今更の後悔であったり、
「なんであの人は分かってくれないんだろう。」という責任転嫁であったり。
私自身も幼いときは勿論、大人になってからも沢山そうした経験があります。
夜ふとした時に思い出しては恥ずかしくなるばかりです。 

仕事にしても日々の生活にしても、日々工夫や努力をする事は大切です。
しかし成功を追い求めたり、失敗したくないと他人に当たってしまうようでは
ただただ苦しくなるばかりです。 周りの人の評価を求め気にし、特別なものや
完璧なものばかりを追い求めるのではなく、自分の置かれた立場で自分のするべき事を
一心にやっていく事が一番大切な自然な生き方ではないでしょうか。

思い計らわずに生きるというお手本、自然というすがたこそ美しいという
禅の教えが私たちのそばにあってくれるという事が何よりのしあわせであると
大拙居士は教えて下さっています。

昨今、熊が人を襲うから全頭射殺しろとある自治体の長が発言していました。
この町長は熊が森を作り、森を守っていることを知らないのです。

ツキノワグマは日本の野生の生き物のなかで最も多くの植物の種を運んでくれている。
ニホンザルをはじめとして、遠くまで移動しそうな野生動物ですが、
種子の散布としては500メートルぐらいなのです。それに比べ、ツキノワグマは、
最大で22キロ先まで散布できるという調査で分かっています。
夏場はさくらの実などを食べるし、多くの植物の種を食べています。
そして一日中歩き回り、だいたい20キロから40キロくらい動き回れることが
出来るのです。

今年は異常気象によりドングリや柿や栗の実りが悪く、熊も仕方なく街に出て食べ物を
探すしかなかったのです。人を襲う殺人熊もいることは確かです。
しかしそれは一部の熊であり大方の熊は人を襲わないのです。
人が騒ぐから、逃げるから追いかけるのであり、正しい対処方法を教えることにより
被害は最小に抑えることは出来るのです。

我々は熊に襲われないように腰に鈴をつけて歩くと安全と教えられますが、
あまり効果が無いということです。あるとすれば大人数の場合なら多少の効果は
出ると言います。

一番危険なのは背中を向けて逃げ出すことです。熊はおっとりしているように見えますが
走り出すと時速60kmぐらいで追いかけて来るということです。
また大声上げて退治する方法もただ「こら!こら!こら」では効果がなく、
人を追い払う時と同じように「お前は何をやっているのだ、馬鹿野郎こっちに来るな」
という会話型が最も効果があると言います。

熊スプレーに至っては熊の顔をめがけて発射しなければならないために近い距離での
使用しか効果がないとも言います。これは危険すぎて実用向きではありません。

アイヌでは熊は神様の化身で肉を纏(まと)ってこの世界に現れていると伝えられています。
冬眠中の子熊を捉えてきて、自分たちの子供以上に育てます。そしてイヨマンテの儀式で
神様へ送り届けるのです。アイヌの人たちは熊を解体してすべてを使い切ります。
そして大切な教えであるワンサードの教えに従い、3/1は自分たちのために、3/1は自然のために、

そして3/1は未来の子供たちのために分けるのです。
これが熊にも伝わる儀式なのだということを知りました。

ヒグマは鮭を取って食べますが、食べるのは一部だけで大方残します。残した鮭は
キツネが食べ、タヌキが食べ、カラスが食べ、オオワシやオジロワシが食べ、
小さな鳥たちが食べ、ネズミが食べ、虫たちが食べて糞にし、微生物が分解し土に還します。
正にワンサードの精神です。

そのヒグマが獲った鮭で森が栄養を得ます。それによって木が育ち、キノコが出来、
薬草も生えます。木が育つことで水を作ってくれます。
森は自然のダムです。雪が降って溶けることで水を土中深く染み込ませ地下水を作って
くれます。それらの水によって農作物を作ることが出来るのです。

簡単に殺処分を言う議員たちはそれらのことを知らない大バカ者たちなのです。
我々はもっと自然から学ばなければならないのです。

科学の発展やコンピューターの発展だけで生きて行けると思っているのでしょうか?
お金があれば食料もエネルギーも水さえも買えると思っているのでしょうか?
何ら解決にはならないことです。

我々は自然に学ぶことを改めて知り、実践しなければなりません。
もう時間がないのです。山々から悲鳴が聞こえてきます。
動物たちと共生する方法を考えなければなりません。


その色に馴染む




新しいクラスでも、新しい職場でも、新しいサークルでも、最初は居場所がなくて
居心地がいいものではありません。暫くして会話をする人が現れてなんとなくホッと
します。クラスに応じた学びも、与えられた仕事も、サークル内での役割も理解が
進むにつれてストレスが無くなります。

「身(み)、初心(しょしん)なるを顧(かえりみる)ことなかれ」とは、
誰しもが初めは初心者であり初めから完璧な人など居ないから、経験や知識が
ないからと気後れする事なく新しい事に挑戦していきなさいと言う意味の禅語です。

置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。時間の使い方は、
そのままいのちの使い方です。自らが咲く努力を忘れてはなりません。
雨の日、風の日、どうしても咲けないときは根を下へ下へと伸ばしましょう。
次に咲く花がより大きく、美しいものとなるように。
渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」より

運命で導かれた道を歩むのか、今流行りの仕事だからその道を行くのか、
高額の報酬だからその道を選ぶのか、人それぞれですが、あなたの行きたい
道は別のところにありませんか?
心がワクワクドキドキする様な感覚が起こる道です。
自分のこれまでの経験や知識が活かされて自分の存在も認めてもらえる場所です。
流行りの仕事でなくても、高額な報酬でなくても、気持ちが楽な仕事が一番です。

他人の推薦や見た目の体裁で選ぶと「これは違うな」とすぐ反応して後悔をします。
悔しいのはその間に費やした時間も経費も無駄になることです。

花を弄(もてあそ)んでいると、花の中に身を置いることになり、
その花の香りがいつの間にか着物にしみつくように、人もよき友、よき環境の中に
身を置いていれば、いつの間にかよくなるものだ、という意味です。

「朱に交われば赤くなる」という諺にもある通り、人というものは交わる
環境や愛玩するものに、いつとはなしに影響されてゆくものであるから、
つとめてよき師、よき教え、よき友やよき環境に身を置けというのです。

『華厳経』という経典の中にも”薫習”(香りがしみ込むの意味)ということについて、
こんなお話が伝えられています。

ある日、お釈迦様は数人の弟子を連れて町を歩いておられた。道に一本の縄きれが
落ちているのに気付いたお釈迦様は、弟子の一人に振り返り、こう言われた。
「その縄を拾ってごらん。どんなにおいがするかね」。
縄を拾って、においを嗅いだ弟子は「お釈迦様、大変いやなにおいがいたします」と
答えました。

またしばらく歩いていると、今度は一枚の紙切れが落ちていました。お釈迦様は、
さっきの弟子に振り返り「その紙を拾ってごらん。どんなにおいがするかね」と
お尋ねになられました。紙切れを拾って、においを嗅いだ弟子は「お釈迦様、大変
よいにおいがいたします」と答えました。
 
お釈迦様はそこで立ち止まり、静かにおおせられました。「弟子たちよ、縄も
初めからいやなにおいがしていたわけではなかろう。
いやなにおいのものをしばったために、縄まで人に嫌われるようになってしまった。
紙切れも、初めは何のにおいもないものが、よいにおいのお香か何かを包んだおかげで、

みんなに喜ばれる紙になることができた。
お前たちも、つとめてよき友を持たなければならない」

お釈迦様は”対機説法”の名手で、まことに臨機応変。とても、わかりやすいお話だと
思います。

藍甕(あいがめ)の中の黒ずんだ藍液に浸した白い布は、それだけでは発色しない。
最初は茶色っぽく変色し、空気に触れるとくすんだ濃い緑色に。さらに時間を経て
乾いてくると、鮮やかな青が現れた。そして何度も染め上げを繰り返すことで、
より青く変化する。

中国の思想家である荀子は「青は藍より出でて藍より青し」と書いた。
「青い色は藍から取るが、出来上がった青は、原料の藍よりももっと濃い青だ」という
藍の神秘が言わしめた言葉だ。 そもそも原料のタデアイは緑色なのに、
なぜ青い色ができるのか。藍は、時を積み重ねて一層美しく変貌すると
いうのも、なかなか魅惑的ではないでしょうか。

「石は激流を選べず」恩学
最初はゴツゴツしていた岩も流れにまかして下流へとくだっていくと角がとれて
丸い石になる。しかし流れに逆らうと丸くはならずにより角張った岩のままである。
人は運命に逆らわず、決められた人生を、流れに任せて生きろという意味です。

若い時に不良であった人が年を重ねるごとに性格が丸くなり、立派な経営者になった
という話はよく聞きます。失敗から多くの学びを得て智慧がついたのでしょう。
反対に楽な人生を求めて他の岩にぶつからないように無難な流れに身を置くと、
思わぬ問題に引き込まれてしまうこともあります。

あえて失敗の経験を望む必要はありません。しかし失敗を起こしたときには、
知識で解決するよりも、人柄で解決した方が丸く収まります。
角張った知識つめで言い訳されるより、丸く素直な人柄で詫びる方が好感を持たれます。
角は掴みやすいですが丸いと掴みにくいですよね。

さまざまな人生の激流の中を流れに身を任すことも成長には必要です。
そして、もっと年を取るとその丸みを帯びた石が光り輝く宝石になることもあります。

「流石」流れる石が「さすが」と誉め言葉になるのも面白いですね。
英語では「ローリングストーン」と言います。
世界最年長ロックグーループの名前と同じです。

良き友人や良き環境の中に身を置けば、あなたもそうなります。
その上で人生の流れに逆らわずに、丸く輝く宝石のように生きることが大切です。


うた




「うた」は声域と声量と声質で構成されていてリズムやメロディーに合わした言葉を
声に乗せていくことです。我々が作るポピュラーソングは「歌」と呼ばれるものです。
歌は歌手のためにあるのではなく聴衆のためにあるものです。旋律に乗せた言葉が
時には勇敢に、時には情念を、時には歓喜を、時には癒しを誘発してくれるものです。
民族の歌や讃美歌などは国民性や歴史や誇りなどを想起させる役割も果たすのです。
歌は人種や貧富の差はなくそれぞれの願いを叶えるためにも必ず自由であるべき
なのです。

「うた」を詳しく説明するとこの様になります。(社会人の教科書より)
「歌」の意味は、主に2つあります。1つは、「旋律やリズムをつけた言葉を、
声に出して表すもの」というものです。また、そうした出される言葉も言います。
英語では、「song」がこれにあたります。分かりやすく言うと、
普段私たちが耳にしているポピュラーソングやコマーシャルソング、あるいは歌謡曲・
民謡などのような、メロディーに乗せて発せられる言葉が「歌」にあたります。
「歌を歌う」「心にしみる歌だ」「聴いたことのない歌」のような使い方をされます。

「歌」のもう1つの意味合いが、「和歌、特に短歌」というものです。
日本における伝統的な「歌」と言えば、「短歌」を指します。
こちらは、「歌を詠む」などのように使われます。

「歌」の字は、「口」や「人が口を開けている」などの象形から成っています。
ここから「口を大きく開けてうたう」という意味の漢字として成り立ちました。

「詩(うた)」とは、文学の一様式としての「詩(し)」を意味します。
「詩(し)」は、自然や人間の営みなどから受けた感動を言葉で表したもので、
一定の形式を持つ「定型詩」と、形式を持たない「自由詩・散文詩」に分けられます。
時代ごとにさまざまな種類がありますが、特に「詩(うた)」と読む場合は、
近代詩、現代詩を指すのが通常です。
「初恋の詩」「自然の詩」などのように使われます。

「詩」は「歌」と違い、メロディーやリズムがつきません。そうしたものを
つける場合もありますが、一般的には例外にあたります。
「詩」の字は、「言う」や「ゆく」などを表す象形から成っています。そこから
「内面が言語表現に向かったもの=うた」を意味する漢字として成り立ちました。

「唄」は、辞書においては「歌」と同じ意味の言葉として載せられています。
確かに「メロディーやリズムに合わせた言葉」という意味では同じですが、
細かい使い方には違いがあります。「唄」が通常表すのは、
「伝統的な邦楽に乗せて発せられる言葉」という意味合いです。
例えば、「馬子唄」や「御座敷唄」などといったものが、それにあたります。

「唄」の字は、本来「仏の行いをほめたたえるうた」という意味合いを
持ちますが、これが日本で「音楽に合わせてうたうための韻文」を指すように
なり、現在のような使われ方になったという経緯があります。

先日東京渋谷セルリアンタワー能楽堂で開催された伊丹谷良介生誕50周年記念
「うた」のコンサートへ行ってきました。
伊丹谷良介といえば中国で活躍をしてヒット曲を多数持っているロックシンガーである。
その彼が何故「能楽堂」でライブを行おうとしたのか?
そこには彼独自の思いがあったのです。

以前から交流があり師事している観世流シテ能楽師松木千俊さんとのコラボレーションで行われた「能とうた」。テーマは能楽の中から選んだ「安達原」です。

普段はバンドを引き連れマイクを通じて煽り立てるロックシンガーが一人で舞台に立ち
ノーマイク(生声)で2時間強歌い続けたのです。上・下白の衣装で白足袋を履いて
能舞台の真ん中に立ち、魂のこもった歌声を披露した。
50年間の思いを声が枯れるまでの気迫で堂々と歌い続けたのです。

その間に能楽「安達原」が入り円熟した能楽師松木千俊さんの舞台も繰り広げられた。
能楽堂の独特の雰囲気と能舞台。この日不思議な世界観を観客は体験したのです。
初めて能を鑑賞した人たちにとっては日本の伝統的文化を、この様な形で体験することが
できたのは得難い貴重な時間となったと思います。
勿論、伝統と格式の世界でうたう伊丹谷良介の魅力をファンも充分に味わったのです。

伊丹谷良介が行った事は今の日本には必要な事です。

日本全体が過去の亡霊に取り憑かれて身動きができなくなり、それ以上に数々の
不祥事や醜聞事件が浮き彫りにされて、国民は絶望感から容易に脱却は出来ない
状態です。ジャニーズの問題や宝塚歌劇団の問題は氷山の一角であり、芸能界の
事務所では似たり寄ったりの問題を抱えているのです。

他人の問題には無関心を装う人間が多くなった為に、意識のある人間も「諦めるか
戦うか」の二者択一になるのだが、伊丹谷良介は戦う挑戦を選んだ。

ロックとお能のコラボレーションは奇異を衒っているかの様に思われるのか、それとも
彼が言う様に「温故知新」(古きを温めて新しきを知る)伝統芸能の様式を変えずに
表現の仕方を変えることにより、お能から生まれるロックンロールがあっても良いのでは
ないか。彼はあらゆる意味で「うた」の持つ力を信じて熱唱したのです。

そして、お能の中でもとても難しい演目である「安達原」を選んだのは、
単純な思い付きではなく学生時代からの思いれのある演目であり、彼の崇拝する
漫画家手塚治虫の映画でも取り入れられていたからです。

物語「安達原」

熊野那智・東光坊の阿闍梨・祐慶の一行は、本山を出、諸国行脚の旅に出ます。陸奥・
安達原にさしかかると、日はとっぷりと暮れ、ぽつんと灯った明かりを頼りに、
一軒の家に宿を乞います。

一人で淋しげに住む中年の女性(前シテ)が住むその家は、月光も射し込むほどの荒屋。
宿を貸すことを躊躇しますが、さすがに哀れに思って、一行を中に招き入れます。
女は祐慶(ゆうけい)に乞われるままに、糸車を回しながら、人の世の虚しさを
嘆くのでした。
やがて女は、寒くなってきたので薪を集めに山に行こうと言い、留守の間、くれぐれも
閨(ねや)の内を見ないように念を押して出かけます。(中入)

不審に思った能力(間狂言)が、祐慶の戒めも聞かず、こっそりと閨の内を見ると、
そこは死体が軒と同じ高さまで積み上げられていました。肝を潰した一行は、大急ぎに
逃げ出しますが、鬼女となった女が追って来ます。祐慶の祈りの法力によって鬼女は
姿を消します。

「うた」

みんなが誕生した
この星で

春夏 秋と冬と
四季に包まれて

水と太陽を浴びて
育って来れた

楽しみ 苦しみ
今ここにいる

うた
人生はうたであり
うたは人生である

うた
また何か始まる
終わりじゃない

愛情 別れ
想い出をバネに
未来へ飛ぼうよ

うた
一緒に歌おうよ
何か始まる

うたを歌おう
産まれた時のあの声で  

うたを歌おう
春夏秋と冬の中


うたを歌おう
昨日より明日成長して

うたを歌おう
苦悩の中で出逢えるから

うたを歌おう
愛情を知り 別れも知る

うたを歌おう
想い出 未来 
そして 



うた

うた

Lalalalala

Lalalalala

Lalalalala…

この日の能楽堂には万雷の拍手がいつまでも鳴りやまなかった。
有難う伊丹谷良介。


莫妄想




3年前に政府発表で外出自粛令が発表された。
あらゆる場所で人と接触したらコロナに感染するという。
報道は決まったように病院の緊急病棟を映し出し苦しむ人を見せつけた。
同時に入院ベッドと人工呼吸器のエクモが不足していることも発表した。

人々はマスク生活を余儀なくされて家庭の中でも外さなかった。
ワクチンが唯一の防御法だと喧伝し国民全てが接種するように言い続けた。
会社や学校や飲食店も移動制約と集団行動の規制が言い渡された。
様々な記念行事がなくなり子供達の記憶から卒業式や運動会が消えた。

海外へ出かける際には3回のワクチン接種証明が必要だということで、
仕方なく私は3回接種した。
ワクチンの安全性も確認しないで接種奨励は明らかにきな臭さを感じる。
アメリカ政府と日本政府と製薬会社との組織だった謀略だったかも知れない。

多くの医者や友人達から何度もワクチン接種は危険だと警告をいただいたが、
正常(?)な社会生活を営む為には打つしかなかった。
親子でも罹患しないか警戒を強めて疑り深くなってしまった。
この国はいつからお隣の中国と同じに共産主義になってしまったのだろうか?

実を言うと私は2度コロナに感染した。
1度目は2021年9月無症状感染だった。
最初の時には保健所から役所の衛生課共々大騒ぎであれこれ指示をしてきた。
毎日の検温と酸素濃度の確認、身体に異常がないかを電話とメールで
報告しなければならなかった。そして自宅待機は5日間で終わった。

そして2度目は2023年2月海外でコロナに感染をしてしまった。
その国ではコロナは風邪と同じ扱いで町の薬局で治療薬が買えた。
その為に、沢山の要人とお会いしたのだが誰もマスクはしていなかった。
しかし滞在最終日、前日のPCR検査で陽性反応が出てしまい帰国ができなくなった。
ホテルに迷惑をかけない為に人との接触を避けて部屋で過ごすようにした。
その後も2度3度と検査で陽性反応が出てさすがに辟易とした。
食欲もあり、睡眠も十分にとれて、元気いっぱいなのに原因は分からない。

今は如何だろうか?
政府からの制約が全て解除されて国内の移動も海外からの観光客も戻り
元の賑わいを取り戻した。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」である。
我々は得体の知れないものに恐怖を抱きすぎる。流言飛語に影響を受けやすい
周りに合わさなければ異端の人と思われるからである。
頭のどこかに昔の「村八分」の記憶が残っているからだろうか。
しかしいまだ街行く人の三分の一はマスクをしている。
マスクはウィルス防止に役に立たないと知りながらマスクを着用している。

先日とある山奥の村にお邪魔した時にマスクをかけて畑仕事をしている老夫婦がいた。
めったに人に出会わない空気の綺麗な場所でマスクはとても違和感があった。
地元の友人に訳を聞いてもらって愕然とした。私たちは大丈夫です。
政府も村役場もワクチンを「ただで打ちます」と言っているので6回打ちました。
7回目も打つつもりです。マスクは健康のためです。意味不明である。

莫妄想(まくもうそう)するなかれ(伝灯録・無業章)

中国から来た禅僧無学祖元を北条時宗は全面的な信頼を寄せていた。
そんな中また元軍が攻めてくると聞き時宗は眠れなくなる。
何日も眠れない日が続き無学祖元にどうしたら良いか
尋ねてみたら、一言「莫妄想」と言われた。

未だ起きもしていないことをあれこれ想像しても仕方が無い、
落ち着いて時の流れを待て。その時に考えればよい。
ご存知のように元軍は日本に二度襲来してきたのだが、
二度とも台風にやられて撤退したのである。

莫は「なかれ」と読み、妄想は誇大妄想と普段に遣う虚妄の想念。
現実からかけ離れた空想、夢想のことで、正しい考えでない状態をいう。
私たちは普段の生活においては多かれ少なかれ煩悩妄想に支配され惑わされ、
苦悩に呻吟しているといっても過言ではなかろう。

ある禅宗の住職の話より
檀家さんから「一度正式に座禅したいものと思いながら、本で読んで見よう、
見まねで座禅に取り組み、年数だけは30年選手で、齢50を過ぎますと、折に触れ、
死後のことが気になりできるかどうかわかりませんが一度じっくり座って大安心を
得たいものとこの頃は考えています。
この希望は叶えられるものでしょうか」というような書き込みがあった。
まさにこの男性に「莫妄想」と一喝かませたいところである。

「8世紀中国唐代。熱心に座禅する若き僧に対し、南嶽和尚は
『お前はそこで黙々と座禅をしているが、何のためか?』と問う。
『ハイ、仏になるためです』。そこで南嶽和尚、傍の瓦のかけらを拾ってきて、
砥石でゴシゴシと磨き始めた。

僧問う。『和尚さん何をなされているのか?』
和尚『鏡を造るんじゃよ』 
僧曰く『瓦をいくら磨いても鏡になるわけ無いじゃないですか。 
和尚『それなら、いくら座禅しても仏にはならんということだわい』と。 

座禅を成仏の手段と考えていた若き僧は、その一言に己のすべてを打ち砕かれて
大ショック。すなわち「莫妄想」である。
禅の道は悟ろうとか、仏になろうとか真理体得をしようと計らい
執われる心がすでに妄想なのである。

さらに南嶽和尚は説いて聞かせた。『お前さんは牛車に乗って出かけるとき、
車を叩くか牛を叩くか。』
『お前は座禅を学ぼうとするのか、それとも作仏を学びたいのか。
もし座禅を学ぼうとするなら、座るだけが座禅じゃない。
もし作仏を学ぶのなら決まった相〈すがた〉などありはしない、
形や相に執われるなら、真実の座禅でもなければ作仏の道でもない』と。

そこで煩悩妄想の塊の私は、さらにこの男性に
「座禅で大安心が得られるのなら私が得たい」ものだと言い放ってやったが、
どうも理解は届かなかったようだ。

この語は中国唐代の馬祖道一禅師の門下の汾州無業禅師の語といわれ、
無業和尚は常の口癖のように「莫妄想」を唱え、
この語をもって人々を接化教化したという

ギリシャ時代の哲学者ソクラテス曰く
「この世に悩みなどは無い、悩みを持っている人間がいるだけだ!」

私はこの言葉が大好きで相談に乗ってくださいと来る人に必ず言うのである。
あなたはこの世が終わりのような悩みだというが、
周りの人たちはあなたの悩みなど誰も気にしていない。何が心配なのですか?

自分の中で勝手に悩みを膨らませて大変だというけれど、それは完全に「莫妄想」だ。
「看却下」自分の足元を見て、心で整理すれば、問題など消えてなくなるのだ。

皆様も起こるか分からないことをあれこれ悩むことなく平常心に努めてください。


花のような生き方




日本の原型里山の風景を見たことがありますか?
秋の畑の周りにはコスモス、ヒマワリ、ススキ、曼殊沙華が色鮮やかに咲いています。
花にとっても村人にとっても別段珍しい光景ではなくいつもと変わらない光景なのです。
頼まれて咲いているわけでもなく、美しく見せようと咲いているのではなく、
与えられた場所でひっそりと咲いているのです。
そして、美しいだけでなく畑の作物をあらす鹿や熊から守っているのです。
村人たちは自然の恩恵を受けながら生活の苦労を花たちに癒されているのです。

これらの花のように見返りを求めない善行があるのでしょうか?

常に他人を意識してやる善行は果たして効果があるのだろうか?
またその行為に賞賛が生まれるのだろうか?
世間体があるからという意識の中で参加をすることは、
何もしない人より良き効果が生まれるのだろうか?

人の為に善い事を行なったのにという気持ちを抱え込んでいると、
お礼が無いと腹が立つことがありますし、善行もあまり誇らしげにされると
周りからは恩着せがましいと疎まれることもあると思います。
己の身を正して正しき行いで過ごすことが人として基本の生き方です。

友人や各種団体やニュースで誘われるままに寄付を続けることに疑問が生まれる。
果たしてこの行為の結果は正しいのだろうか?
近隣の身近な団体からも地域の助け合いですからと声がかかる、
一度寄付すると次々に接点のない団体からも寄付の依頼が舞い込んでくる。

断ると冷酷な人間と思われるのではないかと要らぬ心配が起こるのです。
これら全てに反対しているわけではないが疑問がわくことがある。
お金の使われ方に不正が無いかという疑問です。

正しい方法で寄付金が現地に届いているのだろうか?有意義に使われているのだろうか?
被災者は喜んでくれているのだろうか?
決して寄付行為が正しいのではなくて寄付に到る己の身を正して正しき行いで過ごして
いるのだろうかということです。自己満足ではなく他己満足なのです。

「百花春至為誰開(百花春至って誰が為にか開く)」という禅語があります。
春になると色とりどりの花が咲くけれども、花は誰のために咲くのだろうかと。
花は誰かのために咲こうとするのでしょうか。
花は何のはからいもなく無心に咲いています。それでいて、花の種ができ
命を次世代に保存しながら、花の蜜に集まる鳥や虫の役に立ち、
花を見る人の心をも和ませてくれます。花は無心に咲くことによって、
自分自身を生ききると共に、他をも活かしているのです。 

しかし、私達人間は、なかなか無心に生きられません。
目で見るもの、耳で聞くものなどを、私達の心に映し出す時、
そこに何のはからいもなく、無心に目の前のことに打ち込んで生きていければ
よいのに、好き嫌い、損得、執着、貪り、怒り、様々な煩悩妄想が湧き出て、
自らで苦しみ悩みながら生きています。

私達人間が無心になって歌う姿や踊る姿も仏の教えを立派に表現している。
歌う人が、上手く歌おうとか、感動させようといった思いがあると素晴らしい
歌は歌えません。無心になって歌ってこそ、その人は自分自身を完全燃焼して歌い、
見る人の心を本当に感動させるのです。

私達が、心に湧き上がる貪り、怒り、好き嫌い、損得などの煩悩妄想を振り払い
無心になって頑張る時、目の前にいる人のために、自分とか他人とか考えず
親身になって仕事をしていく時、その姿は相手の人の心を動かし、
周りの人を元気づける素晴らしい生き方だと思います。

宮沢賢治のような生き方もある。
「雨にも負けず」 宮沢賢治

雨にも負けず 、風にも負けず 、雪にも夏の暑さにも負けぬ 、
丈夫なからだを持ち、欲は無く、決して瞋からず 、何時も静かに笑っている、

一日に玄米四合と 、味噌と少しの野菜を食べ 、
あらゆる事を、自分を勘定に入れずに 、良く見聞きし判り、
そして忘れず、

野原の松の林の影の、小さな萱葺きの小屋に居て、
東に病気の子供あれば 、行って看病してやり 、西に疲れた母あれば 、
行ってその稲の束を背負い 、南に死にそうな人あれば 、行って怖がらなくても
良いと言い 、北に喧嘩や訴訟があれば 、つまらないからやめろと言い、

日照りのときは涙を流し 、寒さの夏はオロオロ歩き 、
皆にデクノボーと呼ばれ 、誉められもせず苦にもされず、
そういう者に、私はなりたい。

自分の分を知り、出来る範囲の最大限を使い、つねに周りの面倒を見る。
そこには偉く思われたいとか、ほめてもらいたいとか、よこしまな気持ちは一切ない。
このような生き方が素晴らしいと思うのですがなかなか実行に至りません。

また指導者として理想の形もある。
「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」
(とうり、ものいわざれども、したおのずからと、みちをなす)
桃やすももの樹はものを言わないが、その木の下には自然と人に踏まれて道ができる。
「徳のある人物のもとには、自然と人が集まってくる」ことの喩えとして用いられる。

「李将軍列伝」最後の論賛部分で司馬遷が李将軍を評するのに使った諺である。

地位や名誉や財産を残したから偉いのではなく。
無償の愛を分け隔てなく捧げることのできる人が偉いのです。

常に笑顔で元気よく明るい表情の人に人は集まるのです。
分け隔てなく「忘己利他」の精神で一生を終えたい。
たとえ貧しくても自分の分を分け与える心をつねに持ちながら生きる。
私はそんな人になりたい。


答えを見つける前に質問を見つける




私は質問に応えるが答えは言わない。
何故かと言うと質問者は事前に答えを持っているからである。
こうあって欲しいとこうなっては困るという答えです。

相談と質問の意味が曖昧な人が意外に多いのには驚きます。
「相談」の場合は、悩んでいることや困っていることの解決が目的です。
「質問」の場合は、わからないことや疑問に思っていることの解決が目的です。

例えば、恋愛の問題です。このような時の相談は必ず未練を残したままの別れ話です。
これを質問と称して回答を求めて来る場合にはほとほと困り果てます。
話だけを聞いていると必ず相手の悪い部分だけを聞かされるので別れ話に同意して
しまう。しかしその後に復縁すれば回答者が恨まれるのが常である。

一番困る質問は回答者を困らせるための質問です。
例えば「音楽における量子力学の効用」と言う質問は、明らかに悪意があって回答者を
困らせるための質問である。意味のない質問を投げかけて喜ぶ似非インテリに多い。
自分で責任の取れない質問ほど無駄な事はありません。

小林秀雄は、その人の人生に関係無い、自分で責任の取れない質問を下手な質問として
嫌った。ここで言う下手な質問とは、日本の右翼と左翼とか
天皇制とか北朝鮮のミサイル問題だとか・・憲法改正に賛成か反対かetc
当時も今もマスコミジャーナリズムが煽りたててくる。自分の事として引き受けられない
無責任な質問だ。逆に、よい質問とは、自分の人生に関わってくる、自分が責任を
取る事が出来る質問であり、そうであればこそ、真剣に考える事が出来る。

我々は得てして質問をしながら、自分が何を知りたいか?分かっていない事が多々ある。

それが他者との対話から浮き彫りになり、(俺が知りたいのは、本当はこれだったのか)と

思い当たった経験があるだろう。

小林秀雄もまた、そのような学生達の真摯な問いを通して自身の思索を深めたいという
意図もあったという・・小林秀雄曰く良き質問はそれ自体が答えなのです。
それによって自分自身も思索を深めたいという思いもありました。

「信じることと知ること」では、本居宣長の言う「身交ふ」(むかふ)に言及していますが、

同じことを質疑応答でも言っています。
昔は「考える」を「かむかふ」と言い、「か」は意味なく「む」は身であり、

「かふ」は「交ふ」です。よって考えるとは自分が身をもって相手と交わることを言うのです。

質問者本人がある程度の答えを調べたのちに質問をすると回答者と交流が出来るが、
質問者が興味もない、調べもしない、ことに回答は生まれないことを知るべきである。

質問の内容を調べていくうちに本などの情報や自分の経験が混ざり合って学習の興味は
尽きなくなる。例を挙げるとこのようになる。

先ほどの話から、本居宣長といえば、この和歌を思い浮かべる方も多いでしょう。
「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」
(大和魂とは何かと人に問われたら、こう答えよう。山奥にひっそりと咲く山桜が、
朝日に照らされて輝くのを見て、「あぁ!なんと美しいのだろう」と感動する心が
大和魂ですよ)

この歌は、宣長の61歳自画像に書かれています。この1首を詠んだだけでも、
宣長がいう「もののあはれを知る」ことの深さを感じられるのではないでしょうか。
「大和魂」というと、日本男児の力強さ・勇敢さをイメージされる方もいると
思いますが、このような自然や季節に心動かされるのも、
ひつの日本人らしいこころ(情)なのです。

そこで思い出されるのが、吉田松陰の言葉からも「大和魂」が出てきます。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
この言葉は吉田松陰が死刑になる前日に書いた一文なので、
ある意味では松陰の遺言とも言えます。

この言葉の意味は「私が処刑されて、この身体は武蔵の野辺に朽ち果てようとも
忘れないで欲しい、僕が抱き続ける日本人としての確固たる精神である”大和魂”を」
ということです。
日本の将来を案じ、日本という国に対して至誠を尽くした吉田松陰が残した名言です。

個人的な例として、私が大好きな英国には四季がありません。
全くないかと言うと一瞬春らしき秋らしきはあるのですが、印象としては冬から夏へと
一瞬にして変わったなと言う感じでした。その為の時間表示として「サマータイム」で
夏と冬の時間を1時間ずらすのです。
日本のように3ケ月ごとの等間隔で季節が移り変わる事はありません。

そして同じ様な経験を英国のパブでもしました。その頃のパブは必ず入り口が2つあり、

その意味も知らずに入って行ったらバーテンダーから大声で「お前はそのドアから入るな!」と言われました。

客の1人から一度出て違うドアから入れと言われて、
その通りにして入ることが出来ました。知らなかったのですが、
やはり詳しく調べるとこのような記述がありました。

「イギリスのパブには階級別に入り口が2つあった。ブルーカラー(肉体労働者)用と
ホワイトカラー(高級管理者)用の入り口があって、店の中も階級によって見る景色が
違っていた。」

これは昔の話。おおくのイギリス人の意見では、そのほうがきっとお互い気が楽で
居心地もよかった。ブルーカラーとホワイトカラーでは飲む物も会話の話題も
違っていたから、顔を合わせたくなかっただろうと。
だから当時の人たちは、階級によって入り口や部屋が違うというのは当然の区別と
考えていて、差別とは思わなかっただろうとイギリス人は言っていた。

結局我々は自分の思い込みで答えを見つけようとしているのです。
その現象やその言葉で全てを判断する癖が身についているのです。
周りがそういうからそれが正しいと判断したいのです。

今一度「それは何」と自分に問いかけてみてください。
質問を見つけなければ世の中の真実を見つけることは出来ません。
そして嘘も暴くことが出来ないのです。
質問を突き詰めるとすぐに答えが手に入るのです。

答えを見つける前に質問を見つけることがいかに大事かお分かりになりましたか。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とも言いますが、聞く前に必ず質問を
確かめてください。尋ねることと聞くことの意味を勘違いしないでください。


乾坤一擲


「乾坤一擲」(けんこんいってき)

サラリーマン社会だと出世に響くのでなるべく冒険はせずに無難な道を選ぶ。
しかし私のような得体の知れないものは常に「乾坤一擲」の賭けに出る。
まともな仕事の仕方ではエリートに敵わないので違う方法を考える。
私が就職したCBSSONYという会社は一流大学出身者が多く、
頭はいいのだがクリエイティブな仕事には向いていないのが大半だった。

だから私のように電話一本で飛び込んで入社した異端児は好きになれないのである。
そして彼等は独特の感覚を持っている人間(不良)には接したことがなく、
何事においても判断に窮するのである。当然私は厄介者扱いでした。
同時に、アーティストのような感覚人間には対応が出来ないのである。

背水の陣という兵法がある。自ら逃げ道を塞ぐのである。

【背水の陣】はいすいのじん(「史記」淮陰侯伝の、漢の名将韓信が趙(ちょう)の
軍と戦ったときに、わざと川を背にして陣をとり、味方に退却できないという決死の
覚悟をさせ、敵を破ったという故事から)一歩もひけないような絶体絶命の状況の中で、

全力を尽くすことのたとえ

【四面楚歌】しめんそか(楚の項羽が漢の高祖に敗れて、垓下(がいか)で包囲された
とき、夜更けに四面の漢軍が盛んに楚の歌をうたうのを聞き、楚の民がすでに漢に
降伏したと思い絶望したという、「史記」項羽本紀の故事から)敵に囲まれて孤立し、
助けがないこと。周囲の者が反対者ばかりであること

私は新規事業の担当を任された時にいつも「背水の陣」を意識して望みました。
収益の大小に関わらず敵地から手ぶらでは戻らない状況で乗り込みました。

「乾坤」は、「天地」「陰陽」「サイコロの奇数の目と偶数の目」
「一か八か」という意味。「一擲」は「サイコロを一回だけ投げて勝負にでる」という
意味になります。因みに「擲」は「なげうつ」とも読む字です。
つまり「乾坤一擲」は「天下を賭けるような大勝負に出る」ことを意味します。

由来は、中国・唐の時代の詩人韓愈の『鴻溝を過ぐ』。
休戦して互いに引いた直後に、劉邦が項羽を攻撃した時の場面に
「一擲乾坤」と書かれています。
この「一擲乾坤」も間違いではありませんが、「乾坤一擲」の方が一般的です。

「乾坤一擲の大勝負に出る」
「乾坤一擲」という言葉自体に、すでに大勝負というニュアンスは含まれていますが、
意味を重複している「乾坤一擲の大勝負」というフレーズはしばしば使われます。
ゲーム用語で「乾坤一擲の大勝負」という言葉があるので、聞いたことがある方も
いるかもしれませんね。

「天に運を任せた」意味も含まれているので、運を重視することが良しとされない時には、

使うのは控えましょう。

「どんな時も乾坤一擲の精神で、賭けに出てみよう」
人生は基本的に選択の連続です。迷った末に選択肢を選ばずに終わったり、
チャンスが来ているにも関わらず、尻込みをしてしまった経験は誰しもあるのでは
ないでしょうか。そういった時に「乾坤一擲」という精神で、挑戦してみようと
自分を奮い立たせる時にも、使える言葉です。

会社では最初から人がやりたがらない仕事を率先して手を挙げて、
自分の居場所と地位を築きました。
歌謡曲と演歌と映画音楽の全盛時代。かろうじて洋楽もありましたが、
海外とのやり取りの窓口だけの仕事でした。
(音楽制作にも立ち会えるのなら興味がありました。)

音楽業界自体に若者たちのジャンルが無かったのです。
しかし、深夜番組からシンガーソングライターなる歌手が続々と出始めた時期でした。
それでもなかなか売上数字的には苦戦を強いられていました。
初めての大ヒットは吉田拓郎の「結婚しようよ」だと記憶しています。

学生時代に関西ではフォークソングの全盛時代でした。
大阪は高石ともや、京都は加藤和彦、神戸は谷村新司、東京は岡林信康・六文銭などが
居ました。毎日放送の「ヤングタウン」では司会の笑福亭鶴瓶・明石家さんまが、
毎回、売り出し前のフォークバンドを読んで深夜放送文化を創り出したのです。
私も一時、奈良で責任者にされていた時期がありました。

74年に帰国した時に、吉田拓郎、井上陽水、チューリップ、荒井由実、井上陽水などが
活躍をしていました。CBSSONYへ入社した時に私の活躍の場はここにしかないと
率先して担当を願い出ました。
その甲斐あって、多くのニューミュージックのアーティストとも仲良くなれたのです。

歌謡曲を担当していた人たちからも、当時のマスコミからも、会社の上司からも、
お前らがやっているジャンルは、俺たちが地上波で、お前らは短波放送だと、
揶揄されました。だれもお前らのチャンネルを回さないからとまで言われたのでした。
そこで私の魂に火が付いたのです。このジャンルをメジャーにしてやる。


「乾坤一擲」という精神が、それまでの音楽業界ではいなかった、プロデューサーという
ポジションを作り上げることが出来たのです。新人アーティストとこれからの音楽を
話し合い、音作りから、ステージまで、取材も全部立ち合い、その上に日本全国を宣伝と
営業で飛び回っていたのです。地方の放送局の音楽担当者とも有線放送にもレコード店の
店長とも仲良くなり「業界マップ」をつくりあげました。
(社内外を問わずにこのマップを欲しがったのですが渡しませんでした)

それから新人を発掘するために「SDオーディション」という組織も作りました。
YAMAHAのポップコーンでは音楽スクール出身者が多く、どちらかというと正統派の
アーティストを主に輩出していました。その対極としてSDオーディションでは型破りな
アーティストを主に採用してきました。
そのオーディションからは、Xジャパン、米米クラブ、松田聖子、尾崎豊、渡辺美里、
プリンセスプリンセスなど、そうそうたるアーティストが飛び立ちました。

もう誰もニューミュージックというジャンルを笑うものはいなくなったのです。

現在のスタートアップの企業は全て「乾坤一擲」という精神で頑張っていると思います。
大切なことは時代の変化が速いので「臨機応変」ということも組み入れるべきです。
商品を発売してから徐々に進化させるのもヒットを長引かせる方法です。
中国の諺に「巧遅は拙速に如かず」という言葉があります。
完成品に時間をかけすぎて時代の要求にこたえることが出来なければ他社に負ける
ということです。乾坤一擲で気合を入れて行きましょう。

日本人の食事




私たちは何故伝統的な素晴らしい食習慣を守れないのだろうか。
それは敗戦後に全てアメリカによって変えられてしまったからである。
日本人より大きな身体を持ったアメリカ人の体格に憧れたのが大きな間違いだった。
純情な日本人は見事に西洋的な食事に騙されたのです。
明治期まで続いた食習慣が一瞬に消え去ったのです。
日本人よ!目覚めよ!私たちは世界で最高の文化と食習慣を持っていた民族です。
開国から世界中の人が日本に来て驚いた事実がそこにはあったのです。

明治期までの日本人が、今と比べればとてつもない体力を持っていたという
ことは、当時日本を訪れた外国人の残した多くの文献に記されています。
 
ドイツ人の医師ベルツが、ある日東京から110km離れた日光に旅行をした。
当時のこととて道中馬を6回乗り替え、14時間かけやっと辿り着いたという。
しかし2度目に行った際は人力車を使ったのだが、なんと前回よりたった30分
余分にかかった(14時間半)だけで着いてしまった。しかもその間は一人の車夫が
交替なしに車を引き続けたのだった。
 
普通に考えれば、人間より馬の方が、体力があるし格段に速いはずなのだが、
これではまるで逆である。この体力はいったいどこから来るのだろう。
ベルツは驚いて車夫にその食事を確認したところ、「玄米のおにぎりと
梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」という答えだった。
聞けば平素の食事も、米・麦・粟・ジャガイモなどの典型的な低タンパク・
低脂肪食。もちろん肉など食べない。彼からみれば相当の粗食だった。
 
そこでベルツは、この車夫にドイツの進んだ栄養学を適用すればきっとより
一層の力が出るだろう、ついでながらその成果を比較検証してみたいと、
次のような実験を試みた。

「ベルツの実験」である。
22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎりの食事、
他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80kgの荷物を積み、40kmの道のりを走らせた。
然るところ肉料理を与えた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、3日で
「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきた。
そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになった。
一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けることができた。

当時の人力車夫は、1日に50km走るのは普通だったという。ベルツの思惑は見事に
外れたのだった。彼はドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、日本人には
日本食がよいという事を確信せざるをえなかった。
また彼は日本人女性についても「女性においては、こんなに母乳が出る民族は
見たことがない」とももらしている。それらの結果、帰国後はかえって
ドイツ国民に菜食を訴えたほどだったという。
 
西欧人から見れば粗食と見える日本の伝統食が、実は身体壮健な日本人を
育てる源泉だったという証左は枚挙にいとまがない。
例えばフランシスコ・ザビエルは1549年(天文18年)に、「彼らは時々魚を
食膳に供し米や麦も食べるが少量である。ただし野菜や山菜は豊富だ。
それでいてこの国の人達は不思議なほど達者であり、まれに高齢に達する
ものも多数いる」と書き残している。

開国の頃、日本人は西欧人が、そして今の私たちが驚くほどに健康で頑強な 
体をしていた。なりは小さいながらも実力では西欧先進国の水準を遥かに超えていた。
これがやがては日清・日露、そして二度に亙る世界大戦で、人的能力では
実質「世界最強」を示したわが国軍事力の礎ともなるのである。

それは白人優越主義時代のただ中にあって、生の日本人の姿を見た欧米人にとっては
信じがたい、けれども歴然とした事実だった。

しかし、にもかかわらず明治政府は、ベルツの研究結果よりもドイツの「栄養学理論」を
重んじて、ドイツの栄養学の父フォイトの「欧米人並みに体を大きくする栄養学」の方を
選んでしまった。「カロリーを取れ!」「肉を食え!」の命令に服従した人類には食原病が
蔓延しています。

日本では古くから「日の当たる家に住み、根菜類を食べ、尊敬できる主人と子供を作る」
ことが幸福に暮らす条件だった。果物や野菜を生で食べる習慣は健康で長生きの
秘訣だったのです。

そしてこのような二つの言葉があります。
「身土不二」体が弱ったら生まれ育った故郷のコメと野菜を食べなさい。
子供の時に体を作ったDNAが目覚めるから体力増強になると教えられた。
また「一物全食」栄養は頭の先から根っこにまである。
大根でいえば先の葉っぱから根元まで食べることを奨励されました。
小魚であれば頭から尾ひれまで食べて栄養がいきわたるということです。

江戸時代には「江戸患い」というのがあった。田舎にいる時には問題なかった侍が
参勤交代で江戸へ来るたびに具合が悪くなった。特に足関係の病である。
田舎にいる時には玄米・粟・ひえなどを小魚と根菜料理で食べていたのが、
江戸に来ると玄米や雑穀を食べずに糠をきれいに落とした精白米ご飯を食べるように
なったのが原因である。現在でいう「脚気」である。麻痺型・水腫型の症状が現れたので
ある。その為に参勤交代の役目が終わり地元に帰ると急に回復したという話があるほどです。

日本人の小柄な体系と気候風土も食にはおおいに関係があると思います。
日本はミッシェランでも度々紹介されるように有名レストランが一番多い国です。
フレンチ・イタリアンに代表されるものから、中華・韓国・インドなどアジアンフード
が溢れている国です。美味しさに惑わされて過食になると病気になります。

我々日本人は日本の良質な水と大地で作られたお米と野菜で健康を維持しましょう。
食育は子供たちの成長に大きく影響をもたらします。
不登校や自閉症や短絡的な犯罪に走る子供たちはすべて食生活に問題があるのです。
勿論、大人の肥満症や高血圧などの成人病にも効果はあるのです。


口は災いの元




私の失敗の原因があるとすれば思ったことをすぐに口に出したことである。
誰に対しても怖いもの知らずでは無く軽率だっただけである。
同僚に対しても上司に対してもマスコミに対しても思いついたことをすぐに口に出して
しまう。若いが故に自分の思ったことを口に出すのは当たり前だと勘違いをしていた。
本音は良き人間になろうとしてその反動で歯に衣着せぬ言葉を口に出していたのです。
それは、たとえ若い時には許されても大の大人には許されないことである。

もし人生の「徳の貯金残高」があるとすれば自らその徳を減らしていることになる。
言葉の剣が誤解を招き罪なき人を傷つけていたことになる。
自分の思いは人生の善行に比例して勝手に良き言葉になると勘違いをしていた。
人生経験の無きものは言葉に重きが無く、人生経験を積み徳を重ねることにより
言葉に出さずとしても「態度」で表現できるようになると思っていた。

中国五代十国の時代、いくつかの王朝に宰相として仕えた馮道(ふうどう)
(882年~954年)が作ったとされる舌詩(ぜつし)という詩があります。

「舌詩」馮道
口是禍之門(くちはこれわざわいのもん)
舌是斬身刀(したはこれみをきるかたな)
閉口深蔵舌(くちをとざしてふかくしたをぞうすれば)
安身處處牢(みをやすんじてしょしょにろうなり)

意訳:口は禍を招く門であり、舌は自分の身を斬る刀になる。口を閉ざして、
舌を奥深く収めておけば、どこにいようとも固く身の安全を保つことができる。

この詩のとおり、馮道という人はそれなりに世渡り上手でした。
コロコロと主君を変える変節漢と非難されてもいますが、
実際はよい政治を行い、民衆に敬愛されていたと言われています。

しかし、どうでしょう。浮世を生きる者にとって、口が禍を招くのが、
いかに多いことか! 思えば「口は禍の元」「病は口より入り禍は口より出ず」
「雉も鳴かずば撃たれまい」等々、わざわざ馮道を持ち出すまでもなく、
同様の戒めは世の中に満ちています。『不用意な発言は自分の身にわざわいが
降りかかってくるから慎みなさいヨ』 とは、誰しもが分かっていることです。

「人の短(たん)をいふ事なかれ 己が長(ちょう)をとく事なかれ
 物言へば唇寒し秋の風」(芭蕉)

何故分かり切った詐欺行為に多くの人々は引っかかるのでしょうか。
最初からあれこれ甘言を言う人は必ず金銭の要求をしてきます。
たとえ身なりや車が高級品であっても騙すための小道具にすぎません。
自分の「分」を知っていれば簡単に良い話が舞い込んできたときに、必ず私に
「こんなうまい話はくるはずは無い」と疑ってかかって距離を置くのがいちばんです。

都会は嘘と欺瞞と虚飾に彩られています。何を信じて良いのか分からなくなります。
そして人間不信に陥り世間から離れて山奥へ逃げ出したくなります。

こんな時こそ「百年の愁いを忘却す」の心境を味わい培いたいものである。

この語は「寒山詩」の「一餐霞子あり」の五言八句の後半の
四句の一節を禅の境涯にあてたものである。

幽澗(ゆうかん) 
常に瀝々(れきれき)
高松風は(こうしゅうかぜ)は
颼颼たり(しゅうしゅう)
其の中に半日坐すれば
百年の愁いを忘却す

一餐霞子とは霞を食って生きている一人の仙人という意味で、
俗生活を離れた山深く水音たえぬ谷川のほとり、飄々と風渡る
老松の下はもう脱塵の別世界である。ここに半日ほどものんびり
座っていると、百年のつのる人生の愁いのどはもうすっかり
忘れてしまうものだという趣旨の詩である。

この詩の寒山というのは寒山という山に住みついて、その寒山を名のった詩人の
名であるが、其の元の山の寒山というところは、他の詩にも見られるように
本当に寒くて、寂しく、人も簡単には訪ねて来られないような人跡未踏の場所の
ようである。しかしその寒山という人物は、そのような自然を心から愛し、
ついにはその自然と感応(一体化)した人物であったようで、この不便な所こそ、
「貴ぶべし」として其の境を好んだようだ。

彼は街に住む我々が、余りにも便利さを
求める余り、自然の素晴らしさや、自然の価値を理解していない
ことを愁へてさえいるようだ。

だが、禅語としてのこの語の味わいは単に幽山渓谷の仙境で優雅な生活を享受し、
何の愁いもない生き方を賛美するだけのものではない。
誰もが仙人の住む環境にあって悠々自適を楽しむことは物質的にも現実的にも
困難である。しかし、禅者はここに心の持ち方、生き方においてこの
「百年の愁いの忘却」を奨め、たとえ、いかなる環境、十字街頭の雑踏、
喧騒の中にいても境地にあっては仙境にいる如く松風を聞き、
百年の愁いを忘却の思いの境地たるところにこの語の本旨がある。

京都・大徳寺の開山大灯国師は修行を終え、悟後の修行としての聖体長養において
京都・五条の橋の下で乞食の人に紛れておられたという。そのときの
「坐禅せば四条五条の橋の上往き来の人を深山木に見て」と歌われたと伝え
られているが、国師にとっては既に百年の愁いの忘却どころか、乞食の群れに
ありながらもその愁いさえ初めから存在しなかったかも知れない。

禅の心境を我々凡人がすべて理解することは出来ませんが、禅の言葉を知ることにより、
心の静寂を知り、知孝の整理が付き、慌てることが無くなります。

言葉が先か文字が先か分かりませんが、これら二つは人間が開発した最高の発見だと
思います。人の話を聞くときにも、自分の口から発せられる言葉も、感情の思いのままに
発信すると「口は災いの元」となります。

「物言えば唇寂し秋の風」有名な芭蕉の句です。
人の短所を言ったあとは、後味が悪く、寂しい気持ちがする。
転じて、何事につけても余計なことを言うと、災いを招くということです。


壺中日月長




1972年22歳の時に横浜からロシア船に乗って英国に向かいました。
2日目の朝ハバロスクについてシベリア鉄道に乗り換えました。
驚いたのはソ連の土が赤かったことです。やはり共産圏の国の土は赤いと
妙に感心したのです。(笑い)

シベリア鉄道の中では車掌がとても親切でロシアンティーを頼んでも無いのに
何度もご馳走してくれたのです。しかしそれには裏があったのでした。
車掌は私の履いているジーパンとセイコウの時計を狙っていたのです。

たびたび部屋に来ては(部屋付きの座席)俺にプレゼントしてくれとせがむのでした。
流石に面倒になりロシアの交通局の女性に頼んで断りました。
その当時海外からの観光客には政府の交通局のスタッフが付き添う決まりでした。
外国の旅行者が怪しげな行動をしないかの見張り役なのです。

モスクワについてもレーニングラードについてもジーパンとセイコウの時計は、
注目の的でホテルを出るたびに若者たちに追いかけ回されました。
それを振り切りホテルに戻ろうとしたら、違う若者がホテルの中の売店でウォッカを
買ってきてくれとせがんできました。ホテルの免税店では安価なウォッカが手に入るからです。

共産主義の貧しさが気になったエピソードです。

レーニングラードからスエーデン経由でオランダに行き(列車移動)
そこから船でロンドンのハリウィッチという港町に到着したのでした。
その頃のスエーデンはフリーセックスの国、オランダはチューリップの国という
イメージでした。両国とも通り過ぎるだけですが、その都度出入国の手続きは
ありました。乗り換えの時間を利用して街にも出かけました。

そして最大の難所です。いよいよ英国の入国審査を受ける段階にきました。
審査官の前に立ちいくつか質問を受けたのですが「入国拒否」というスタンプが
押される寸前でした。このままユータウンして日本へ戻れと言っているのです。
冗談じゃ無いこちらは全財産を払い何日もかけてやって来たのに、何があっても
帰るわけにはいきません。

そこで万が一の時を想定して持ってきた尺八を吹いたのです。
「私は日本の古典楽器奏者で憧れの英国へ勉強しにきたのだ」と言ったら、
後ろに並んでいる人達が入れろ!入れろと声を上げてくれたのです。
そこで係官も仕方なく1ヶ月のビザを発行してくれました。
「備えあれば憂いなし」尺八に助けられたのです。

この後の珍道中も知りたいとこでしょうが、機会がある時にお話をしたいと思います。
たった1ヶ月のビザで英国に1年7ヶ月も滞在したのです。
勿論、不法滞在ではなく正式に学生ビザを取って滞在したのです。

楽しいことには時間を忘れます。でもそんな時はまたたくまに過ぎますね。
私の英国滞在も楽しくて仕方ありませんでした。
音楽づけの毎日で何を見ても何を聞いても心が震える感動がありました。
大変だったのは3か月ごとのビザの延長です。学生ビザだったので修学の成果と滞在の
ための銀行口座にいくら残っているかを毎回聞かれることでした。

アルバイト先の日本レストランの料理長が、私をとても気に入ってくれて、
英国で働く気があるのなら正式に就労ビザを取るよと言ってくれたのですが、
そうすると私の夢をここで諦めることになるので丁重に断りました。

たった1年7ヶ月の滞在でしたが帰国すると一瞬の出来事のように感じられました。

中国の諺に「壺中(こちゅう)」は悠久の時が流れる別天地で、
「日月長し」とは、時間の過ぎるのがゆっくりだという意味ですが、
ここでは時間的制約や束縛がないことと捉えます。
つまり、時間を超越した安らぎの世界のたとえです。
 
これは次のような話に由来します。後漢の時代、汝南(じょなん=河南省)の
費長房(ひちょうぼう)という役人が、市中で薬を売る一人の老人に身を変えた
仙人にいざなわれて壺の中に入りました。
すると、そこには別天地が広がっており、立派な宮殿の中で美味しいお酒やごちそうの
歓待を受けます。やがて費長房はそこで仙道の修行を授けられることになり、
十日ほど経ったと思い現実世界に帰ってみるとなんと十数年も経っていたというのです。

(『後漢書』方術・費長房伝)。

この話は「浦島太郎」の原典です。

狭いお茶室の中の清らかで静かな時間や、小さな草庵に隠棲する道人の束縛のない
悠々自適の境地とみることもできますが、心が静まっていれば、どこにいても同じ。
一瞬の中に、永遠の心の安らぎを見出しましょう。

出典:『虚堂録』巻八

寿崇節の上堂。至人化を垂れて、形儀有ることを示す。満月の奇姿を開き、
山天の瑞相を蘊(つ)む。会すや。主丈を卓して、ただ池上の蟠桃の熟するを
知って、覚えず、壺中日月の長きことを。

人生は一つの物語では無く幾つもの物語が集まってできているのです。
我を忘れるぐらいの一瞬の出来事に時間を失うこともあります。
何かに気を取られて壺中に迷い込むこともあるかも知れませんね。
その時にはその環境を存分に楽しむことが重要だと思います。
但し、過ぎ去った数年の歳月は世の中の大きな変化にきっと驚くと思います。