時期を待つ




人は木と同じ。型にはめない。癖を見抜く。
西岡家は歴代法隆寺専属の宮大工であった。
最後の棟梁と呼ばれた西岡常一氏は,法隆寺や法輪寺の補修,
薬師寺再建に尽力をされた方。祖父から技術を学び,
大工として技術一筋で生きてきた。

技術を丸暗記したほうが早く,世話はないんですが,
なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。
丸暗記してもろうても後がありませんわな。
面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え,
極めるには大変な時間と労力がいりますが,
後で自分流の木割りができますのや。
そうして初めて本当の宮大工といわれるようになるんですな。

丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。ですから物覚えが
いいということだけでは,その人をうまく育てたことにはなりません。
丸暗記には根がありませんのや。根がちゃんとしてなくては木は育ちませんな。
根さえしっかりしていたら,そこが岩山だろうが,風の強いところだろうが,
やっていけますわ。なんでも木にたとえてしまいますが,人でも木でも
育てるということは似ているんでしょうな。 

ただ,育て方にも棟梁の形がありますな。
全部,無理矢理,自分がしたようにせなならんというて,
それに押し込もうとする人もあるでしょうが,
それは無理ですな。木の使い方と同じように,癖を見抜いてその人の
いいところを伸ばそうとしてやらななりませんわな。
育てるということは型に押し込むのやなく,個性を伸ばしてやることでしょう。
それには急いだらあきませんな。

人を育てるっていうのは「場」を与えて、その環境に置いてやればいいと
わかっているけど,なかなか難しいものです。

「暗黙知」という言葉はすでに日本語として普通に使われている。
現場の人が日々の仕事の中で蓄積してきた熟練の技やノウハウなどの
「暗黙知」を「形式知化」、すなわち、数値化したり言語化したりなどして
マニュアル化することで、社内で共有したり、継承されやすくする、
などという使い方がビジネスの世界では一般的だろう。
こうした「暗黙知の形式化」の効用は大きい。

しかし、『暗黙知の次元』を表したマイケル・ポランニーが。
その著書で意図していた「暗黙知」はこのようなビジネスにおける用法とは
まったく異なる意味である。
アカデミックな文脈では、そちらの意味で使われているということは
意外に知られていないかもしれない。

暗黙知は生を更新し、知を更新する。
それは創造性に溢れる科学的探求の源泉となり、
新しい真実と倫理を探求するための原動力となる。
隠された知のダイナミズム。潜在的可能性への投企。
生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、
思考はつねに新しいポテンシャルに満ちている。
暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。
より高次の意味を志向する人間の隠された意志、
そして社会への希望に貫かれた書」

私がプロデューサー業を始めた時に日本にはお手本がなかった。
強いて言えばCBSSONYに入った時に見たスタジオワークである。
アーティストがいてアレンジャーがいてスタジオミュージシャンがいて、
それを手配するインペッグ屋がいてチームが動いていた。
普通の歌手の場合は作詞家がいて、作曲家がいて、アレンジャーがいて、
ワンセットであった。ディレクターはレコード会社の社員で、音源を作り、
工場へ送り、レコード盤を作る、それらの手配の担当であった。

音楽制作の教科書が無かった時代である。
全てが見た経験から自分なりの解釈を加えて覚えるしかない。
いわゆる「暗黙知」で仕事を覚えるしかなかった。

私は海外のプロデューサーをお手本にして発掘から育成、制作、
宣伝、営業と全部こなした。
逆に周りにお手本がなかったのでやり易かった。
テレビ局も、ラジオも、雑誌社もプロデューサーを名乗って駆け回った。
売り込みアーティストもさることながら私も一緒に業界へ売り込んだ。

何度も学校や経営者の会から依頼されて「ヒットの出し方」という
タイトルでセミナーや講演会をしました。
アーティストという種を見つけて発芽させて花を開かせることを話した。
見ると熱心にメモして書き残そうとしている人が大勢いた。
メモをただ書き残しても意味がない。話の流れから自分なりの解釈を加えて、
「暗黙知」で記憶することが重要である。

いつも最後にヒットは作る事ではなく「待つこと」ですよと言って終了した。
準備は山ほどするがタイミングが合わなければヒットにならない。
ヒットは楽曲の良い悪いではなく大衆の求めるタイミングが重要なのです。
「砕啄同時」鳥の雛が卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが
同時であるという意味です。

自分なりの「暗黙知」のデーターを増やしてください。
「暗黙知」は教科書を覚えることではなく、
体験者の背中を見て自分なりの解釈を加え未来を見ることです。