劣性遺伝




物心ついてから自分の欠点が気になりだした。
もっと頭が良ければ可能性が広がったのに、
もっと運動ができれば人気者になったのに、
もっと背が高ければ、
もっと可愛ければ、
もっと歌がうまければと思い詰めてもどうにもならない。

だから頭の良い人を敬遠したり、
運動のできる人を遠ざけたり、
背の高い友人を見ないようにしたり、
可愛い人を毛嫌いしてきた。

誰と比べて劣っている自分を比較してきたのか分からない。
きっと家庭がつまらなかったから、
親兄弟とも自分と同じ顔をしていたから、
もっと恵まれた環境に生まれていたらと、
どんどん追い詰められていった。

心が苦しかった。
悩んでいる自分がいる、
愚痴を言っている自分がいる、
健康で走り回っている自分がいる、
それなのに辛さを全面に出して、
苦しみを楽しんでいたのかもしれません。

あなたは誰と比較して劣っていると思うのですか?
食べ物がなくて苦しんでいる人、
体の不具合で仕事につけない人、
趣味なんて持てない人もいる、
綺麗に咲いている花ばかり見て、
根元を見たことがないのですか。

我々は先祖がいるから今の自分がいるのです。
自分の劣っているのは劣性遺伝のせいだと思っていませんか?

10代の時には10代の悩みがあって、
20代の時には20代の悩みがあって、
30代の時には30代の悩みがあるのです。

日差しは影があるから明るく感じるのです。
影がなければ日差しの明るさは感じなくなります。
あなたが比較対象にしている人は、
あなたの悩みに気づかないのです。
何故なら自分が優れているとは思わないからです。

中国唐代の禅僧・六祖慧能禅師の教えに次の言葉があります。

『四弘誓願(しぐせいがん)』
第一句目「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」を
独自の見解で説かれています。
「自心(じしん)の衆生を無辺に度せんと誓願す」

衆生とは、この世の生きとし生けるすべての存在です。
それは無辺、数限りなく存在しますが、自分のみならず、
すべてのものを救っていこうと誓い願うこと。
それが「衆生無辺誓願度」ということです。 

しかし、実際には、個々の力ですべての衆生を救うのは、
難しいことであります。
そこで慧能禅師は、世の中の衆生ではなく、自分の心の中の衆生を救って
いくことの大切さを示されたのです。まずは、自分の心の中の悩める衆生、
不安な衆生を救っていく。そうすれば、自ずと世の中の衆生を救うことに
つながると仰っています。

かつて、帝国ホテルに竹谷年子さんという方がおられました。
彼女は、女性客室係第一号として入社し、大変ながらも
その仕事にやり甲斐を感じ、充実した日々を送っていました。
帝国ホテルと言えば、日本を代表する一流ホテルで、海外から国賓級の
宿泊者が訪れます。そのような中で、竹谷さんは、今の自分ではどうやっても
思い通りに対応できない場面に直面し、ずいぶん悩み、落ち込んだそうです。
その頃のことを次のように綴られています。

『なんて私はダメなんだろう。ホテルで英語ができないのは致命的だ。
どうすれば、「お前はダメだ。使い物にならない」と言われずに済むだろうか。
先輩たちに迷惑をかけずに済むだろうか。私なりにあれこれ考えました。
そうだ。私が一番下なのだから、一番下の仕事をすればいい。
人の嫌がる仕事をすればいいのだと思いつきました。』

竹谷さんの決心は、決して上を目指すことを諦めたわけではありません。
英語を話せることがベストなのですが、一気にできるようになるわけではありません。
英語を話せるように日々努力しつつ、今の自分にできることを最大限に頑張る。
竹谷さんは、このような心の転換によって自分自身を救っていかれたのです。

どうすればいいんだろうと悩む自分。どうしてできないんだろうと落ち込む自分。
そんな自分の、心の中の不安な衆生を救っていく。
これは、理想とする自分の姿を目標にしつつも、その心にとどまらない。
やみくもに背伸びすることなく、ありのままの自分を生きる。
今のありのままの自分、今の現実を受け入れるということであります。

そこに「安心」を見いだすきっかけがあるもの、
誰かと比較するのではなく自分の心と比較すれば、
昨日より今日、今日より明日と、勇気が湧いてくるのです。
その悩める心を救おうとしてから「安心」が生まれたのです。

自分の欠点ばかり見ていても仕方ありません。
自分の長所を見つけて褒めてやることです。
私は世界中の中で私だけなのです。
迷わずに自分を愛してください。

自分の中の劣性遺伝を変えて優性遺伝にすることは出来ます。
それは気持ちを変えて欠点を長所に変えることです。

注、このブログで使われている「劣性遺伝」とは、
医学的なことを言うのでなく、
精神的コンプレックを指して使っています。