知の追求




学生時代は知識より直感を大切に生きてきました。

学業で成績が良くなるよりも感受性を磨くことに時間を費やしたのです。
この瞬間、自分に必要なものは何か、自分が取り掛からなければならないことは何か、
自分にとっての希望とは何かを常に考えていました。
眠っている時も、食事をしている時も、学校へ行っている時も、頭の中は体裁や
見栄よりも自分でした。自分がしっかりとしなければ世間の常識に流されて、
つまらない大人になってしまうと危機感を覚えていたのです。

あるがままの人生とはやりたいことをやって自分で責任を取れるかです。
子供だからと言って世の中の成り行き任せにはしたくなかったのです。
勿論、私の言葉の「石は激流を選べず」の通りに成り行き任せも真理に
間違いはないのですが、若い時には自分の意思で抵抗することも必要かと思います。

「石は激流を選べず」とは「川上のゴツゴツした岩が流れの中であちこちの
岩にぶつかり川下に着く頃には丸い石になる」という格言です。
苦労から逃げるのではなく、苦労にたち向かうことがとても重要です
少年時代から老年になるまでの人生を表しています。

しかし、学生時代に職を求めることに邁進しても、自立するまでの期間は成り行きに
任せるしか方法は無かったのです。その都度に合わせた、あるがまま、なすがままの
人生でした。それでも激流の流れに逆らわないことでした。
自分の精神的解放を一番に考えていました。

人は常に成り行きを追い求めがちですが、真の価値は「成り行き」にこそあると
考えます。その核心には、「自我」や「我欲」を捨てることが必要です。
求めるものが多いと悩みも増えます。成り行きのなかで自己の発見をするのです。
そうすることで、心は穏やかになり、他者への思いやりや協力の精神が生まれます。

禅には、その哲学や実践の中心を示す四つの重要な言葉があります。

1. 教外別伝 ~教えの外で伝える~これは、真の知識や理解は外部の教えだけでなく、
実体験や直感を通じて得られるという考えを示しています。禅の修行者は、
指示や文章を超えて、瞑想や実践を通じて真理を追求します。

2. 不立文字 ~言葉を立てない~禅の教えは、言葉では完全には表現できない深い真実を
持っています。そのため、言葉による説明や解釈よりも、無言の瞑想や直感を重視する
のです。

3. 直指人心 ~直接心に訴える~これは、真の理解や覚悟は心の中で直接感じ取るもので
あり、他者の説明や解説を介さずに得られるという考えを示しています。

4. 見性成仏 ~真の本性を見る~私たちの内なる真の本性、あるいは「仏性」を発見し、
それを認識すること。

これは禅の修行の最終目的であり、それを見つけ出すことで真の平和や悟りを得ること
ができます。しかし、これらの言葉や考えを単に知識として学ぶだけでは、その真髄は
掴めません。日常の中での瞑想、実践、そして経験を積み重ねることが欠かせません。

「前後裁断」は、過去の出来事や未来の心配から自分を解放し、現在の瞬間、
つまり「今」を真剣に生きることを示す禅の言葉です。
この教えは、私たちが日常の中で迷いや苦しみから解放され、真の平和や喜びを感じる
鍵となります。過去の過ちや後悔、未来の不安や期待に囚われることなく、
この瞬間を心から感じることで、真の自由や満足感を得ることができるのです。

自然の変化、四季の移ろい、それらは私たちの人生の移ろいと同じく、絶えず変わる
ものです。しかし、その中でも真実の世界、自然との共生の中での生き方を模索する
ことが求められるのが禅の教えと言えるでしょう。
日常の中で、私たちが自分の意志や願いだけで物事を進めるのは難しいことも
多いです。

「あるがまま」に受け入れることの大切さを忘れがちです。
しかし、自然の流れに身を任せることで、人生の中の大小さまざまな障壁や試練も、
結果的に自分を成長させるものとして受け入れられるのではないでしょうか。

私自身も、多くの試練や困難を経験してきました。
しかし、その中で得られた教訓や経験は、私をより強く、深くしてくれました。
簡単な道を選ぶのではなく、時には回り道を選ぶことで、真の目的地に辿り着くことが
できると信じています。

犯罪に手を染めた若者たちが「あるがままに行動した」と言い逃れをします。
闇バイトで強盗や殺人を犯しても罪の意識がありません。
東横キッズと言われる女の子も売春をしても罪の意識がありません。
コンビニでおにぎりを買うことと、寝るところにお金を使うために、犯罪は必要だと
思っているのです。生きるために手っ取り早く身体を売る。驚くのは、彼女たちは
決して貧しい家の子ではないことです。家には自分の居場所がないから新宿に集まり
時間を潰す。一瞬の成り行きで人生を棒に振るのです。

しかしこの若者たちに全ての罪を着せるのは如何なものでしょうか?
彼らがそうせざる世の中を作った大人にも大きな責任があるのです。
大人もマスコミも「臭いものには蓋を」しますが、それでは何の解決にもならないのです。落ちこぼれを作ってしまう教育も社会も変えなければなりません。

私は禅に深く傾倒しています。しかし修験者じゃないので正式な訓練はしていません。
デジタル社会になりAIやメタバースという言葉が飛び交うたびに「人間とは」
「信頼とは」「生きるとは」「幸福とは」を考える様になりました。
その答えは哲学より禅語に多くありました。

深い瞑想の中で真理を追求するのは快感にもなります。
一緒に禅語を学びませんか?


みんなの課題




年齢・出身地・学歴を取り除き自分を紹介する。
何もない裸のあなたは何者ですか?
肩書・職場・趣味を取り除き他人を紹介する。
本当の友人なら堂々と人間性を伝えられると思いますか。

日本人は警戒心を持たない割には疑り深いです。
いわゆる分かったフリして全く分かっていないという事です。
自己紹介でも過去にやってきたことは結果として伝える事は出来るが、
未来に関しては自信が無いので明確な予測を伝えることが出来ない。
日常の課題に関しても解決の術を知らない。

全世界で約200の国があるが、流れるニュースを見る限りでは
問題点はみな同じようなものである。
政治・経済・環境・戦争・犯罪からスポーツ全般まで大きなポイントを伝えるが、
未来への取り組みに関してはたまに夜中の特別番組でしか報道しない。

いわゆる大きな課題は伝えているが無数の小さな真実には関心がない。
何故、貧しい国では明るいニュースを取り上げ、豊かな国では悲惨な事件ばかり取り上げるか、

ここには暗い真実が潜んでいる。悲しい人間のエゴである。
貧しい国では明るいニュースから希望を見つける必要があるからです。
豊かな国では近隣諸国から狙われる恐れがあるので絶望的なニュースを頻繁に流す。

貧乏な時には正直な人で、豊かな時には嘘つきな人で、いつの世も自分の財産を公には
したく無いのである。貧しいと人は寄り付かず、豊かだと人が群がるからです。
政治家などの既得権者が権利を手放さないのは楽(らく)して儲かる方法を、
知ってしまったからなのである。彼らは国民の税金を奪う悪者です。

ウクライナのゼレンスキー大統領が世界から集まる支援金で豪邸を建てたと言われて
いる。これはフェーク・ニュースであってほしいがあり得る話である。
アメリカの大統領バイデンも家族経営で中国から大量の資金が譲与されたと話題に
なったが、その後アメリカでは全く報道はされなくなった。
我が国でも故安倍晋三総理大臣もモリカケ問題と桜を見る会の問題で政府の金を
使って、やりたい放題だったが裁かれる前に暗殺された。
森友学園問題では近畿財務局の職員が決算文書改ざんに関与させられ自殺した。

みんなの課題をみんなで話し合う時期に来ている。
何が大切で、何が不要か、シンプルに考える必要がある。
問題点が見えない人は、先ずは、自分は何者かを知るべきである。

自分のことを年齢・出身地・学歴を言わずに他人に伝えることが出来るかを
学習する時期なのである。
私にとって生きるという価値観を提示して、他人の価値観を聞きながら
問題解決を図ることである。その上価値観の真偽を見分けることも必要である。
自分の信じてきた価値観が正しかったのかを検証するのである。

若い人の特権は悩む時間が一杯あるということで、歳をとっている人は悩む時間も
生きる時間も残り少ないということである。
孫世代が抱えている悩みは、年寄りは、一度は経験していることばかりである。
デジタル社会だから年寄りには分からないと思わずに年寄りの知恵を拝借すべきです。

「子供を叱るな来た道だから、年寄り叱るな行く道だから」立川談志

孫世代に教えなければならないことが山ほどある。

戦争や天候異変や政治経済の悪化は現実であって真実では無いかも知れない。
エネルギー不足や食糧難はそれぞれの国の陰謀で経済を安定させるための
嘘のオンパレードかも知れない。
デジタル社会に乗り遅れるな、AIに仕事を奪われる、メタバースや量子力学に
理解を持たなければ勝ち組には残らない。
戦争で貨幣価値がなくなるので今ビットコインを大量に買いまくらないと損をする。
こんな嘘はこんな嘘が好きな人たちに任せておけば良いのであって、
踊らされる必要はない。

世界には核爆弾の数が約10万発存在していてすぐに使用可能なのが3万発とも
言われている。一発で10万人を殺すことが出来るのと、その地域が福島のように
使えなくなってしまうことである。
万が一ロシアのプーチンがウクライナに向けて核爆弾を発射したら、それを止めようと
して核爆弾保有国が核爆弾を発射したら地球が壊滅状態になってしまう。

私たちは何者でどこに行こうとしているのかを伝えることによって
それぞれが今の立ち位置を理解できるようになる。
最低限の生きるとは、人間らしく生きるとは、他人と仲良く生きるとは、など諸々
話し合う時期なのである。

老人の経験から生まれた知恵を共有すれば、問題が解決して楽しい人生を送ることが
出来る。そこから生まれるコミュニティが増殖拡大すれば世界はもっと
暮らしやすくなるはずです。

数の論理、メディアの報道、嘘の情報共有に踊らされるのはやめにしましょう。
みんなの課題はみんなで解決すれば良いのである。
先ずは「自分」を知り説明する必要があります。





私が花のように生きることが出来るのなら全てを祝って生きて行きたい。
すべての人の努力が実り幸福の種を播くことが出来れば地上は楽園になる。
私が花のように美しいままに死んでいけるのなら世の中を変えてから死んでいきたい。
すべての兵士に花をささげ子供たちの笑顔が絶えない平和な世界をつくりたい。
そんなことを考えていた青春が懐かしい。

全てが全力投球で生きてきた為に疲れる時もあったが、朝になれば又全力投球の
生活が始まっていた。365日朝から夜まで録音に明け暮れて疲れていたのも確かです。
担当の歌手がヒットを出すと会社は売り上げ確保のために次から次へと新曲を
発売することを望んできます。心も体も消耗してしまいます。
その季節だけに咲く花のような生き方に想いを寄せた時期もあった。

「さくら」でデビューした森山直太朗とは子供の頃から私の家族と時間を一緒に
共にしました。度々私は酔っ払い彼のベッドで眠ったことが懐かしく思い出されます。
サッカー好きな少年が歌手として「さくら」でデビューした時には驚きました。
母親の森山良子さんとも仕事の関係で長いおつきあいでした。

森山良子さんは和製ジョンバエズと言われてフォーク会の女王の位置を長年維持して
きました。その頃よく聞いたジョンバエズの「Where Have All The Flowers Gone」
キャロルキングの「You’ve Got a Friend」も大好きな歌でした。
これらの歌は森山良子さんもよく歌い大好きな曲でした。

フォークソング全盛時代の変わり目が花の成長と被さって面白く考えられました。
「愛と平和と友情と」普通の暮らしを慈しむ「心の歌」の時代でした。

70年代~80年代、あの頃は全ての人が全力投球の時代でした。
清く貧しく美しく生きていたのでした。60年代のフラワーゼネレーションの時代です。

不思議です。突然夜中にこの歌「花」が思い浮かびYoutubeで聞き直すと、
頭から離れなくなりました。そんな経験は誰にでもありますよね。

歌手の中(あたり)孝介はCBSSONYの関連会社エピックレコードジャパン所属です。
作曲は森山直太朗で作詞は御徒町凪の「さくら」以来のコンビです。

作詞家の御徒町凪とは面識がないですが作詞家として評価の高いのも分かります。
私の好きな作詞家は歌い手が自分で描いたかのような表現ができる人です。
森山直太朗とは無二の親友だと聞き納得しました。

「花」
歌:中孝介
作詞:御徒町凧
作曲:森山直太朗

もしも あなたが 雨に濡れ
言い訳さえも できないほどに
何かに深く 傷付いたなら
せめて私は 手を結び
風に綻ぶ 花になりたい

もしもあなたの 夢破れ
行き先のない 日々は暮れゆき
信じることさえできなくなれば
せめて私が 声にして
明日に揺蕩(たゆた)う 歌をうたおう

花のように 花のように
ただそこに咲くだけで 美しくあれ
人はみな 人はみな
大地を強く踏みしめて それぞれの花 心に宿す

例えこの身が 果てるとも戦(そよ)ぐ島風 願いに染まれ

花のように 花のように
ただ風に揺れるだけの この生命
人と人 また 人と人
紡ぐ時代に身をまかせ それぞれの実が 撓わなればと

花のように 花のように
ただそこに咲くだけで 美しくあれ
人は今 人は
今大地を強く踏みしめて それぞれの花 心に宿す

感動した。子供の頃元気に騒いでいた森山直太朗の曲に泣いた。
父親とも長いお付き合いで我が家の子供達の遊び相手にもなってくれました。

人生の出会いは不思議です。


「人の出会いは 一瞬早からず また 一瞬遅からず
出会うべき人には 必ず出会う
しかし 求める気持ちが無ければ 運命の人も 目の前を通り過ぎる」
哲学者 森信三

正にその通りです。

プロデューサーとアーティストの関係はプライバシーにかかわる寸前で止めます。
深くかかわりすぎると作品作りに影響を及ぼすからです。
個人的な相談を受けることもあるのですが少し距離を置いて相談に乗ります。
それはアーティストのプライバシーも事務所の責任で管理しているからです。

森山家とは異例中の異例で家族付き合いをしていました。
事務所公認の間柄でした。
それも森山良子さんの人柄が大きかったと思います。
勿論、直太朗の父親とも仕事仲間であり人生の相談をしあう仲でした。

花のように 花のように
ただそこに咲くだけで 美しくあれ

あなたにとっての「花」とは何でしょうか?
私にとっての「花」は家族と恩学です。


夢中になる




夢中とは我を忘れて物事に没頭することを言う。
自分の意識が他人に評価を求めているうちは未だ夢中になっていない。

夢中と同義語に没頭がある。その違いは何か?

「夢中」は、「あることに心を奪われてしまい、他のことを全く考えることができない
状態になること」という意味を持っています。
・『ゲームに夢中になってしまった』
・『無我夢中で取り組む』「夢中」を含む四文字熟語に「無我夢中」という言葉がありますが、

我を忘れるくらいに夢中になるという意味で使われています。

「没頭」は「あることに我を忘れるくらいに熱中してしまうこと」、
あるいは「1つのことに頭を突っ込んでしまい、のめり込んでいくために他のことを
考えられなくなる状況」や「そのような精神状態」として解釈することができます。
「没」にはさまざまなニュアンスがあり、「もぐる」「沈む」「埋没」「失う」「終わる」
「死ぬ」などの意味があるのですが、「没頭」の場合は、「のめり込む」

「打ち込む」という意味合いが含まれているのです。
・『音楽に没頭したあげく受験に失敗してしまった』
・『没頭したあまり、あっという間に1日が終わってしまう』

また、「熱中(ねっちゅう)」は日常生活でよく使われる言葉で、「あることに集中して
取り組むこと」、または「力を注ぎ込んで取り組むこと」ということを指しています。
言い換えると「物事が終わる時点でかなり興奮した精神状態」として理解することも
できるかもしれません。
・『難解な数学の問題を解くに熱中した』
・『ゲームに熱中しすぎた』

ここで「夢中」と「没頭」と「熱中」の違いを見ていきましょう。
「夢中」は「あることに心を奪われて我を忘れること」という意味がありました。
これに対して「熱中」は「何かをするか興奮した気持ちで 何かに夢中になったことの
精神状態」のことを指しています。「熱中」は比較的に前向きでポジティブな
シチュエーションで使われることが多いのですが、「夢中」は比較的にネガティブな
場面で使われることもある点が相違点の1つとして考えられます。

その理由は「夢中」には「他のことを意識することができないほどにある物事や
人のことを考えてしまっている状態のニュアンスがあるため、それによる弊害が
生まれるのでネガティブな場面で使われることがある。

「没頭」になると「不安な人がなる状態である」という意味合いがあり、
自分はこのままではいけないと思っていたり、何か心に不安を感じるようなことが
あった場合に使われることが多いでしょう。悔しい・怖い・寂しい・悲しい・苦しいと
いったような気持ちを打ち消す時に使われることがある点が特徴です。

そして時にはすべてを解放して「無心」になってください。
若者の特権は夢中になり挫折して成長できることも重要ですが、
立ち直り新たな「夢中」を探すことも必要です。

そして夢中になって傷ついてください。「若き日に薔薇を摘む」恩学
「若者よ、失敗して当たり前、挫折して当たり前、
傷ついて当たり前の世界へ飛び込め。
若者の特権はすぐに傷が癒されることである。
恐れるものは何もないのである。
真っ赤な薔薇の花を鷲掴みにして、挫折と屈辱の棘に刺されて血だらけになれ。
他人が摘み取った薔薇を羨ましいなどと思うなよ。
自らの手で奪い取れ、それが出来るのは人生において青春という一瞬である。
どんなに迷いがあっても、「若き日に薔薇を摘め」を忘れないことである。」

私は今「禅語法話」に夢中になっています。
「対機語心」(たいきごじん)
禅語の一つであり、禅宗における指導法の精神を表現した言葉です。対機語心は、
師匠が弟子の悟りの度合いや個々の状況に応じて、言葉や行動で示すことを意味します。
この指導法は、一般的な教えの形式に囚われず、直接的で独創的な手法を用いることが
特徴です。
対機語心は、禅宗が重んじる直接的な心と心の交流を促し、言語の限界を超えて悟りへと
導くものとされています。禅の教えでは、真理は言葉によって完全に伝えることができないとされており、

対機語心はその限界を補うための手法とされています。

禅宗の歴史には、師匠と弟子の間で生じた対機語心のエピソードが数多く残されており、
それらは古典的な禅の逸話としても広く知られています。
例えば、拈華微笑(ねんげみしょう)や無門関(むもんかん)などの話は、
対機語心の代表的な事例とされています。
対機語心は、禅の独自の指導法として現代でも学ばれており、その理解と実践を通じて、禅の精神をより深く理解することができます。

「拈華微笑」
ある時、ブッダは大勢の弟子たちとともに霊鷲山にいた。弟子たちを前にして、  

ブッダは一輪の花を手に掴んで弟子たちに示した。弟子たちはブッダの意図するところが理解できずに黙っていたが、1人摩訶迦葉だけはその真意を悟り、微笑した。それを見たブッダは、「われに正法眼蔵涅槃妙心あり、摩訶迦葉に附属す」と告げ、仏法が摩訶迦葉に伝わったことを宣言した。言葉でもって教えるのは浅いものである。それは名前に関するものでしかないからである。だから言葉に依らずして、花を掴んで示すというような教えを密語の教えという。秘密の教えであるから、多くの人々にはわからない。だから多くの人にとってそれは、秘密の教えとなる。しかし摩訶迦葉にはその教えがわかった。だからブッダが花を呈したとき、摩訶迦葉は 破顔微笑して応えた。摩訶迦葉には伝わったということである。

「無関門」
趙州従諗という禅僧がかつて唐時代の中国にいました。
この趙州禅師というのは六十歳を過ぎた、高齢の頃に修行を始めた人です。
幼くして曹州の龍興寺で出家し、7~8歳で既に悟りを得たいたとも言われております。
またこの趙州禅師の師匠は南泉普願(なんせんふがん)禅師という方で、こちらも非常に有名な方です。

非常に中国禅宗史においては有名な方で、この趙州禅師を知らないという
方はそう多くはないでしょう。

この趙州禅師は六十歳で行脚の旅に出る、修行の旅に出るんですね。
その行脚の修行に出る際、
「七歳の子供でも私より優れた者があったならば彼に教えを請おう、

また例え百歳の歳老いた老翁であっても私の方がもし優れていたら彼に教えようという。」という一つの誓願を立てます。

その行脚の旅、修行の旅に出ている途中で、二人の「庵主(あんしゅ)」と言って、

一つの庵を構えてそこで坐禅三昧の修行をしている二人の修行僧に出会ったのです。
その二人の修行僧は「庵」を構えておりましたので、趙州禅師はその修行僧の所へ行って

次のように質問します。
有りや、有りや。「有りますかね?」という風に質問するんですね。
つまり、その行脚の旅、修行の旅に出ている途中で、二人の「庵主(あんしゅ)」と言って、一つの庵を構えてそこで坐禅三昧の修行をしている二人の修行僧に出会ったんです。
その二人の修行僧は「庵」を構えておりましたので、趙州禅師はその修行僧の所へ行って次のように質問します。
趙州禅師
有りや、有りや。「有りますかね?」という風に質問するのです。
つまり、いや、いや、水が浅くて舟を停める処ではない。
と言ってさっさと立ち去ってしまったんですね。
「水が浅く、とても舟を停められない」というのです。
つまり、「あなたには私を導けない」とその修行僧をけなしたような発言で
その場を退いてしまうんです。

続いて趙州禅師はもう一人の修行僧の「庵」に行きました。
つまり、「あなたは私を導いてくれる何かをお持ちでしょうか?」
という風に声を掛けた。
するとその内の一人の修行僧はですね、まぁ小さな庵に住んでおったのでありましょう。
その庵から出て来て、趙州禅師の目の前に「握り拳」をニョきっと出した。
今で言う「ガッツポーズ」を趙州禅師の目の前に出したんですね。

すると趙州禅師は、いや、いや、水が浅くて舟を停める処ではない。
と言ってさっさと立ち去ってしまったのですね。
「水が浅く、とても舟を停められない」というのです。
つまり、「あなたには私を導けない」とその修行僧をけなしたような発言でその場を退いてしまうのです。

続いて趙州禅師はもう一人の修行僧の「庵」に行きました。
先ほどと同じように、その修行僧に向かって、

趙州禅師
有りや、有りや。「私を導いてくれる何かをお持ちですか。」という風に質問した。
するとその修行僧も、先ほどの修行僧と同じように趙州禅師の目の前に「握り拳」をグッと突き出した。

しかし今回の趙州禅師は、
あなたは自由自在である。与えるも奪うも殺すも生かすも、お前さんには自由自在にできるだろう。

と言って、うやうやしくその修行僧にお拝をしたのですね。

利益を得るための学びと、教養を得るための学びは、本来同時に行うのが理想です。
自分自身を経営として考えれば成功も大切ですが人間的魅力も兼ね備えたいものです。
学びは「夢中」になると面白いものです。


悩みの深さと重さ




悩みは人それぞれに違う。深く悩んでいるとはどれほど深いのかは分からない。
しかしその重さはほとんど同じである。悩んでいる人には些細なことでも、
心が重さに耐えきれないこともある。

哲学者が悩むのも、宗教学者が悩むのも、一般人が悩むのも左程違いは無い。
悩みの種はどこからきて誰が植え付けたのだろうか分からない。
パスカルが言う「人間は考える葦である」葦という草は弱い草である、

人間も同じように弱いのだが考えることが出来る。だから悩むと言われても真意はわからない。

悩みとは、問題の解決のためにあれこれ考えて苦しむこと。しかし、いくら考えても
問題は解決されず、なんの結論も出ないからこそ苦しむわけであって、そうしてみれば、
悩みとは、なんの解決にもならない無駄なことを、あれこれ考えて苦しむことだと
言い換えられる。

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を持ち出すまでもなく悩みは若者の特権である。
学生時代にこの本を読みあまり感動は無かった。ヨーロッパではこの本を読んだ多くの
若者たちが自殺に追い込まれているということに興味があっただけである。

ウェルテルのロッテを世界だと思い込んでしまう視野の狭さに終始うんざりしてしまう。でも、それでもやっぱりここで描かれるあまりに純粋な破滅に惹かれないわけにはいかない。

人はここまで人を好きになれるのか?
ウェルテルのような文学や絵が好きで繊細な感性を持っていて、それが故に傷つきやすく恋愛で上手くいかない青年というのがあまりにも普遍的で親しみやすかったから。

多くの若者たちは自分の感情と重ね合わせて熱狂したのだと思う。
純粋な恋心は相手を追い詰めても許されるのだろうか?
現代ならストーカーとして訴えられるケースである。

本の発刊が1774年、日本で言う江戸時代の中期。
なんと解体新書が刊行されたのと同じ年にこんなにも理解しやすい文学が
あったということにまず驚いた。

この当時の江戸文学で言えば井原西鶴の「好色五人女」で取り上げられた
「八百屋お七」は、恋狂いで放火を働き死罪に会った女性である。
江戸では、「火つけは十五歳を過ぎていれば火あぶりだが、十五歳になっていなければ
島流し」という決まりがあった。

そこでお七の心根の哀れさに加え、被害もボヤだったことから、なんとか命だけは
助けてやりたいと、奉行が、「お前は十五であったな?」と声を掛けると、
奉行の思いやりを察せられないお七は「いえ、十六でございます。」と言ってしまった。
お七は江戸市中引き回しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火あぶりに処せられました。

発刊は寛文八年1668年となっている。ゲーテより106年早く発刊されているが文章の質は遠く及ばない。

両者とも芝居の脚本家としての実績は高い。

ウェルテルはもともと「死に対する憧れ」があったということ、そして自分と似た境遇の人間がたどる悲惨な運命を目にしていくうちに、それに憑りつかれてしまったという
ことなど恋愛以外の要素が多い。そしてそんな環境の中で出会ったロッテが自分にとって
唯一の希望だったというところに、どうしようもない危うさと魅力を感じてしまうのだ。
この小説にはウェルテルが本当に夢遊病の患者のようにふらふらと

ロッテに吸い寄せられているような空気感がある。

また、許婚アルベルトという自分とは全くの正反対の快活な青年にロッテを奪われて
しまったことも、ウェルテルが自分を認められなくなった理由だったと思う。
いかに正反対だったかは「自殺を認めるかどうか」を2人が話し合っているシーンに
顕著に表れている。ウェルテルは精神的な病も本当のウイルスのように心身を蝕むもの
だと理解していたが、アルベルトは終始「自殺する奴の気が知れない」という考え方
だった。

ウェルテルを通して語られるゲーテの言葉は現代にも通じる考え方というか、
「不機嫌は怠惰なのだ」という言葉には改めてはっとさせられた。

「自分をもはたの人をも傷つけるものがどうして悪徳じゃないのでしょうか。
むしろこの不機嫌はわれわれ自身の愚劣さにたいするひそかな不快、つまりわれわれ
自身にたいする不満じゃないのではないですか。」

「不機嫌が悪徳なんて言いすぎじゃないですか」とある青年に聞かれた際、
ウェルテルはこう答える。そしてこのような人間は暴君だと言い、「不機嫌によって
台無しにされた誰かの大切な一瞬を償うことはできない」ということを熱心に語る。

これはもうこの小説の発刊から249年以上経った現在でも考えさせられるテーマだと
思った。「若きウェルテルの悩み」は単に恋愛だけの小説ではなく、人間の生き方に
関する示唆に富んだ小説で、人間の精神の脆さについても考えさせられる時代の制約を
超えた名作だと思う。機会があればぜひ読んでみてほしい。

日本語の「なやむ」は、身体の力が抜けるという意味の「萎(な)ゆ」から派生したとも、「萎え」と「病む」の合成語だともいわれるように、本来は身体の病気などによって苦しむという意味だった。

ウェルテルの悩みのドイツ語Leidenも悩み、苦しみのほか、病気という意味が含まれている。

つまり「悩み」は肉体的な病気のようなものと
見なされていたわけだが、肉体的な病気のように有効な薬はないのである。

悩みの重さはウェルテルにもロッテにもアルベルトにもましてや作者の
ゲーテにとっても違いがあるはずです。死に至るまで悩んでしまう読者も、
その重さは計り知れないものがある。
繊細な人間は悩みから解放されたくて死に至れば救われると勘違いをしてしまう。
愛で死ぬなんて美しく考える人は時代の制約や環境の複雑さに負けてしまう人である。

東大の学生課の書籍で一番よく読まれていた本「愛と認識の出発」倉田百三
善とは何か、心理とは何か、友情とは何か、恋愛とは何か、信仰とは何か。
若き日に悩むことのテーマが、著者自身が考え抜いたプロセスをそのまま記している。

「ああ私は恋をしているんだ。これだけ書いた時に涙が出て仕方なかった。
私は恋のためには死んでも構わない。私は始めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。

何故ならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学の理論は、一度私が恋してから何だか役に立たなくなったように思われるからである。

私は実に哲学も芸術も放擲して恋愛に盲信する。
私に恋愛を暗示したものは私の哲学と芸術であったに相違ない。
しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術とに支えられて初めて価値と権威とを保ち得る
のではない。今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれ自ら直ちに価値の本体である。」

ウェルテルも、お七も、倉田百三も、自分の全てを投げ打っても恋愛に没頭したのである。
悩みの深さと重さに違いがあれ、これは多感な青年期に逃げることのできない現実である。
しかし恋愛の悩みこそ過ぎ去れば笑い話になることも知っていて欲しい。


誤認識を正す




友人が病の不幸に会う。みんなで助け合って回復の手助けをする。
しかし同じ友人がまた違う病の不幸に会う。助ける人が少なくなる。
更に友人がまた別の病の不幸に会うと災いは違うところにあると認識を変える。
これ以上関わりあうとこちらに病の不幸が襲いかかるのではと恐怖が募る。
認識の変化は恐怖から誤認識と変わる。

友人の会社が不渡りを出して倒産してしまった。1回目の失敗は許されるけれど
その後も失敗が繰り返されると、同じ様に原因は違うところにあると認識する。
自分の運も悪運に引き込まれるのでは無いかと遠ざかる。
ましてや資金援助で参加していた場合はなおさらである。ご認識の後悔が始まる。

医者も最初のうちは職業柄献身的にみるが、同じ患者で同じ症状が度重なると
ぞんざいに扱う傾向がある。その上治療における自分の能力の範疇を超えると
手の施しようがなくなり転院を進めることもある。良い医者の認識がここで変わって
しまう。これらは仕方のないことである。

人の親切や優しさは期限付きであって永遠では無いからである。
親ですら養育の期間(0~18歳)は責任を持つがそれ以降は独立させるのである。
一人の人間として自立させなければ永遠に親離れは出来なくなる。
親離れをしなければ子供は不幸になる。なかよく暮らすの誤認識である。

生きる上で思いがけない窮地に陥った場合は、1人で解決の道を歩まなければならない。
その為に人々は姿・形の無い神や仏に縋(すが)ろうとするのである。
しかし縋(すが)るあなたのそこに「感謝の恩」をあるのか?

「恩返し」という言葉がある。与えた者が見返りを求めてやる行為は、
恩返しに該当しない。恩の大小に関わらず恩を受けた本人が感謝の気持ちを添えて
恩返しすることに意義がある。恩は無償の愛があって初めて成立する。

「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」

恩という字は、原因の下に心と書く。原因を心にとどめるという構成である。
恩とは何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを心に深く考えることなのである。
もっと簡単に言えば、してもらったことを思い出すことである。お蔭さまの心である。
恩の考え方は、ややもすると、封建的な古い考えであると思う人があるが、
それは恩の正しい意味がわかっていないのである。 

中国の諺に「恩を受けて恩に酬いざるは禽獣に等し」とあり、恩知らずを罵っている。

我が国に欧米から権利とか義務の思想が近代になって入ってきて、
民主主義の根幹となった。しかし、それが近頃では、権利だけを主張し、
義務を忘れるという身勝手な風潮が蔓延するようになってきたのである。 

物が豊かになり、福祉が充実してきた今日の繁栄の裏には、その享受を当然と
考える人は少なくない。当然だと思う気持ちには、感謝の念は湧かない。
そして、恩を忘れると権利ばかり主張するようになる。

権利・義務には他への厳しい要請があるが、恩は自覚するものである。 

恩について、仏教ではさまざまな経典に説かれている。『正法念処経』には、
母の恩・父の恩・如来の恩・説法法師の恩の四恩が説かれているし、
『大乗本生心地観経』では、父母の恩・衆生(社会)の恩・国王(国家)の恩・
三宝(仏・法・僧)の恩の四恩を説いている。

また、同じく『大乗本生心地観経』には、父母の恩・師長(先生)の恩・国王の恩・
施主の恩という四恩も説かれている。
人の人たる道は恩を知り、恩に報いるべきと四恩の経典は説いている。

弘法大師は、「恵眼をもって観ずれば、一切衆生は皆これ、わが親なり」と説き、
道元禅師は「一切衆生斉しく父母の、恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を、
法界にめぐらす。」と仰せられた。
自分の生命を知り、家族の力添えを知り、社会の仕組みを知れば、恩にゆきあたる。
他に厄介をかけずに生活はできないのである。

人間は、一人で生きていくことはできない。たくさんの人に支えられているから、
生きていけるのである。世間は、恩という陰の力が働いている。
その力によって私たちは、生かされているのである。

恩にまつわる話がある。
エルトゥールル号は、1887年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問への返礼などの
目的で、オスマン帝国から日本に派遣された船です。

親善使節団を乗せて1889年7月にイスタンブールを出港したエルトゥールル号は
厳しい航海の中、途中イスラム諸国に立ち寄りつつ、1890年6月に日本に到着。
無事に明治天皇に親書を手渡し、東京に3ヶ月滞在した後、1890年9月に横浜港を
出航して帰国の途につきました。

しかし、その途中で台風に遭遇し、エルトゥールル号は暴風雨によって和歌山県串本町
紀伊大島沖の樫野埼付近で座礁・沈没。使節団を含めた656人の乗員のほとんどは
荒海に投げ出されてしまいました。

このとき、エルトゥールル号の乗員を救助したのが、地元串本町大島の島民たちです。
海岸に流れ着いた乗員を発見し、遭難事故を知った大島の人々は不眠不休で生存者を
捜索し、生存者の救護活動を懸命に行いました。

海岸に打ち上げられた傷だらけの遭難者をロープで自分の身体に縛り付け40メートル
の崖を登って救護所に運び込む人もいれば、海水に浸かって冷えきった彼らの身体を
抱きしめ、自らの体温で温めた人もいました。さらに当時は貴重な食料であった
畑の芋や非常食用のニワトリを惜しみなく供出し負傷者に分け与えたのでした。

エルトゥールル号の死者・行方不明者は587人に上りましたが、こうした献身的な
救助活動の甲斐あって69名の命が救われたのです。

知らせを受けた明治政府も、明治天皇の意向を受け、すぐ現地に医師や看護師を派遣。
日本全国からは多くの義援金や物資が贈られました。
救助された69人の生存者は神戸で治療を受けてそれぞれ快方に向かいました。

そして、同年10月に比叡、金剛2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、
翌年1月に無事イスタンブールに無事入港したのです。
当時は日本との国交は樹立されておらず、軍艦2隻による送還には多額の出費を
伴うため、異例中の異例の対応でした。

トルコ側はこのときの日本人の救助活動や政府の対応に大きな感銘を受けたそうです。

エルトゥールル号遭難事故での感謝を忘れなかったトルコ人は、1世紀の時を経た
イラン・イラク戦争の際に、今度は日本人の危機を救ってくれました。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日にイラクのフセイン大統領が「48時間
後にイラン上空を飛ぶ航空機を無差別に撃ち落とす」という声明を発表。
世界各国が自国民のために救援機を出す中で、自衛隊の海外派遣がタブー視されていた。
日本は救援機を送れず、イラン在住の日本人はテヘラン空港に取り残されて
しまいました。

そんな中、2機のトルコ航空の救援機が、自国のトルコ人よりも優先して日本人を
救出し、215名全員が無事イランを出国できました。しかし、なぜトルコ政府が
自国民を危険にさらしてまで日本人を優先救助してくれたのか、当時は日本政府にも
マスコミにも分かりませんでした。

駐日トルコ大使は後に、このときトルコが日本を助けた理由について、次のように語っています。「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです。エルトゥールル号
事故のときの日本人の献身的な救助活動を、トルコ人は今も忘れていません。

私も小学生のとき、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでも
エルトゥールル号事件を知っています。だから、日本人を助けるためにトルコ航空機が
飛んだのです」

エルトゥールル号事件から95年を経て、日本への恩を返したイランでの救出劇は、
トルコの親日感情と両国の友好を象徴する出来事といえるでしょう。
(長文になりましたが当時の記事をそのまま掲載しました)

常に自分の頭の中にある認識をチェックしなければなりません。
時代や世代や環境によっても「常識」は変化しているのです。
新しい常識は古い常識をから生まれることを知り、「誤認識」を避けるようにしましょう。


夜明け前




夜明け前が一番暗いと言うが本当は一番明るいのである。
絶望から始まる希望があるとすれば、その時希望が一番輝いているのです。
人の世も苦しみを味わった人達が復活に立ち上がった時が一番強くなります。
貧しい子がパンを修道院に寄付したことで世界中の人々の奉仕の光になったのです。
平和とは暗い恨みを晴らすことではなく、明るい恩を返すところにある。

日本は先の大戦で原爆を落とされて罪なき人が大勢亡くなった。
そしてアメリカに恨みを募らせることもなく、相手の力を利用して経済大国になった。
正しく武士道で言うところの「肉を切らせて骨を断つ」精神である。
これは世界広しといえど類のないことです。

悲しみを悲しみとして受け取るのではなく、悲しみを復興のバネとしたところに
日本人の本当の力がある。暗い恨みを募らせても発展的には進めない、
悲しみの現状を把握して明るく前へ進んだ時に、日本は一番輝いていたのです。

だから日本は世界のどの国よりも「平和を提案」できる国なのです。

東日本大震災の時に家族や家を流されて悲しみのどん底に突き落とされても、
食料や水の配給の列に子供から老人まで整然と待つ姿に世界中が感動した。
奪い合うところに平和はなく、分け与えるところに平和がある。
ここから世界中の支援を受けて復興の10年が過ぎたのです。

夜明け前で思い出すのが島崎藤村の書いた「夜明け前」である。
「木曽路は全て山の中である。」の書き出しから始まり、(中略)
そして、末尾はこのように〆られた。

御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの
辺鄙(へんぴ)な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。

ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし一切が

その価値を転倒し始めていた。

急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰(つい)えて行く旧ふるくからの
制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人(かみごいちにん)ですら、
この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。

中世以来の異国の殻(から)もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねば
ならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、
測りがたい神の心を畏(おそ)れた。

人智及ばぬところに時代の夜明けは訪れるのである。

「万里清風」」

昨夜一声の雁は、修行者が長い修行の末、機縁熟して、ある日、忽然として悟りを開くことを意味し、

そして、一夜明ければ、すなわち、悟りを開いて見れば、今までのモヤモヤが消し飛んで、

スカーッとした清々しい気分を「万里清風の秋」と頌したのです。

なにも禅の悟りを待つまでもありません。私たちの日常生活の中で、何か一つ
すばらしいこと、清々しいことを聞けば、残暑厳しい中でも万里清風の思いが
するのです。

こどもたちは、水筒の水をダムのえん堤から一斉に流した。拍手とかん声が起きる。
渇水で水位をさげたダム湖に、水筒の水は消えた。 
この一瞬のためにこどもたちは長い道を歩いた。豊橋をはじめ愛知県東三河地方は、
昨年秋から慢性的な水不足になった。この一帯をうるおす豊川用水の水源である
宇連ダムは、ことしはじめにはカラになった。 こどもたちの家庭でも、
水に対する関心が高くなった。そんなとき、このこどもたちは、すこしでも
水をダムに返してやろうと、近くのお寺の井戸からくんだ水を水筒につめて運んだのだった。……

道元禅師は谷川の水を汲んで杓底の水を元の谷川に還されたといわれます。
茶人は釜から柄杓でお湯を汲み、必ずその半杓の湯をもとの釜にもどします。
水筒の水を水源地のダムに還す、それは量の問題ではありません。水を大切にする
「心の問題」です。

どちらの話にも「万里清風」を渡るように、清々しさを感ぜずにはおれません。

悲しみや苦しみに対して千言万語の言葉で言い尽くすより、小さな行動で気持ちを
表した方が人々の協力を得て神々への祈りにつながる。

ここでも思い出すのが「江戸しぐさ」である。

さりげなく道を譲り、雨水が当たらぬように傘を傾げ、拳一つ空けることで席を詰める、

決して刺し言葉で相手の話を閉じさせないなどです。

江戸しぐさは争いのない平和な町を願って考えられ、そのしぐさや考え方は

現在の生活に大切なものと思います。

江戸しぐさは、その人の思いや考えが「しぐさ」として表現されるということで
「心の在り方」を大切にしたようです。「あい、澄みません」、『板橋を出るときは
「いたばし」、入る時は「いたはし」』と言って心が濁ることを嫌いました。

また、争いをしない平和な生活を送るための「往来しぐさ」や相手を尊重し、
思いやり(惻隠の情)、助け合い、共生、相互扶助の精神の「心」を大切した「しぐさ」
や「言葉遣い」が考えられ実践されました。

夜明け前の自然から受ける「万里清風の風」のエネルギーを受けて、
感謝するところから一日を始めてください。

夜明け前の暗い内から禅僧たちは明るく活動を始めます。


平衡感覚




大好きな事を仕事にしたい。そうするには嫌いな仕事をしなさい。
デジタルを極めたい。そうするにはアナログの勉強をしなさい。
貧しさから抜け出したい。そうするには金持ちと付き合いなさい。
人として素晴らしい人になりたい。そうするには苦労をしなさい。
要するに片手落ちにならないようにしなさい。
表だけを知って知ったつもりにならず、裏も知らなければ知ったとは言わないのである。

一休宗純(1394~1481)は室町時代の禅僧です。当時より多くの人から破戒僧、
異端児などと揶揄されていましたが、一休さんは今からおよそ550年も前に、
多様性の重要性と共存を説かれていました。
「世の中は 乗合船の 仮住まい よしあし共に 名所旧跡」
この世の中は多くの人が共存していて、いずれあの世に往くまでの仮住まい。
住んでいればお互いに良いことも、悪いこともありますよ。
 
一休さんは、「この世の中には様々な考え方や想いが存在していて、そのような人々が
一つの社会(乗合船)で生きている。だから自分の考えや想いだけが
正しいわけではない」と説いています。 

例えば「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という句が
あります。多くの人が正月は目出度い、楽しいと思っていることに対し、
年をとることは死に近づいている。何が目出度いかと否定をしています。
それは私達が思い込んでいるものに対し、別の見方を示しているのです。 

晩年一休さんは、森侍者(しんじしゃ)という、若い、盲目の女性と同居していました。

禅僧が若い女性と、さらに障害をもたれた方々は生きていくことが厳しい時代、
一休さんの行動に対して当時の人々は否定的に捉えています。
しかし、男性で、年寄りで盲目でなかったら、何も問題にしなかったでしょう。
そのことについて一休さんの言及はありませんが、
「年齢、性別、容姿など差別するな。同じ人間やないか」と言われるかも知れません。
私達が自分達だけの価値観を押し付けているだけなのです。 

現代になり徐々にではありますが、多様性の重要性が話し合われるようになりました。
しかし、民族、思想や宗教など様々な過去の価値観から脱却できていないことも事実です。

戦争や国家内の分断や対立で、自分とは違う人を切り捨てる傾向が見られます。
「正しいこと」は「正義」とも言えますが、「正義」とは人が創ったものです。
見方が変われば絶対に正しいとは言い切れません。宗教も同じです。
時代の変化と共に考え直す部分もあると思います。 
すべての人が穏やかに楽しく暮らせる乗合船の実現のために、
まず相手の考えや想いに対し否定するのではなく、聞くことから始めることが
大切ではないでしょうか

ドイツの哲学者カールヤスパースが「弥勒菩薩」を見たときに言った一言があります。
「このように美しいお顔のお方は生きているときには散々悪いことをしてきたのでしょう」
凛とした顔立ちの奥に秘められた思いをヤスパースは見て、
そのように言ったと言われています。

そしてカールヤスパースの親友に哲学界の巨人ハイデガーがいます。
「存在と時間」を書いた哲学者です。ハイデガーの講演は誰にも真似できないぐらいの
存在感がありレベルの高さは抜きんでていたと言われています。
しかし調べていくと性格の悪さが目立ち、仲間のユダヤ人の教授たちをナチスに通報して
捕虜収容所へ連れて行かせたのです。それは自分が学部長のポストを狙うために作為的に
行ったのです。そして自分の受け持つクラスの女生徒にまで手を付けた男です。

また「法華経」の教えの中にこのような一説が書かれていました。
「妙光菩薩」に求名という弟子がいました。名誉や利益に心が引っかかっているし、
お経を読んでも本当の意味が分からず、よく忘れてしまうので求名という名がつけられて
いたのですが、しかし、この人は自分の欠点を素直に認めてそれを懺悔し、だんだんと
いいことをしていったために、たくさんの仏にお会いすることが出来たのです。
そして仏に感謝し、敬い、ほめたたえる心持を起こしたので、とうとう悟りを開くことが
できました。それは誰かといえば、実は「弥勒菩薩」よ、それはあなたの前の姿だったの
です。

美しいお顔には悪が潜んでいる。天才的な哲学者は悪を実行していた。
その上、仏教僧の中にも駄目坊主が悟りを開き菩薩になった記述がある。
「嘘と真」「正義と悪」「虚偽と真実」「赤と黒」「光と闇」「勝利と敗北」
どちらかに偏った考えに付くのではなく、どちらも併せ持った平衡感覚が大切です。

ロダンの「言葉抄」の中にこのようなことが書かれていました。
奇妙なことには正確な科学に全然属しているとわれわれに見える事物までが同じ
法規に置かれています。私の友達の造船家が私に話したには、大甲鉄艦を建造するには、
ただそのあらゆる部分を数学的に構造し組み合わせるだけではだめで、正しい度合い
において数字を乱し得る趣味の人によって加減されなければ、船がそれほどよく
走らず、機械がうまくいかないという事です。してみれば決定された法規というものは
存在しない。「趣味」が至上の法規です。宇宙羅針盤です。

そしてロダンと言えば彫刻家として有名ですが、そのロダンが弟子に教えている記述が
ありました。筋肉は肉体の上に足していくのではなく、内側から肉体の表側に押し上げて
作るのだと云ことと、葉っぱの彫刻は枝から上に作るのではなく、葉っぱの先端を持って
枝の方へ作っていくのが正しい。ようするに、一流の人は決められた法則や表面だけを
見るのではなく、子供のような感覚で遊び心を入れながら楽しんでいるという事です。

また、仏を作る仏師も必ず言う言葉があります。

「仏像を彫っているのではなくこの木材の中から仏像をお出ししているのだ」

如何でしょうか「平衡感覚」とは常識と非常識を併せ持つことです。
芸術は遊び心(趣味)の世界で作られているのが、お分かりになったでしょうか?


呪縛から逃れる




海外へ行くと日本の情報が入って来なくなる。
勿論、求めれば新聞やネットからの情報は手に入る。
しかし多くの場合はその国に慣れ親しむために無理やりに日本の情報を求めない。
そういう生活を一週間も続ければ何が起こるか!
日本における様々なゴミ情報が頭から一掃されるのである。
自分にとって何が大切で、何が無駄かハッキリ分かるのです。

所謂、日本に於ける常識と言われる部分が無くなり呪縛から解き放されるのである。
あれは駄目、これも駄目、それは食べてはならない、食品添加物が体に悪い、
自民党がこの国を駄目にしている、ウクライナの戦争は聖戦でイスラエルは悪魔の所業、

天候異変は地球環境を壊した人間のせい、熊が人を襲えば全頭殺してしまえ、
円安・物価情報も騒ぐだけで何も解決案が出されない、あれだけ大騒ぎしたコロナも
ワクチンも下火になれば、今度はインフルエンザが猛威を振るっていると国民を
騙し続ける政府、裏情報としてここ2〜3年以内にワクチンによる不審死が大量に
起こると言われている。

一体我々国民はどうすれば良いのか具体的対策はどこからも全く出て来ない。
中国や北朝鮮が核ミサイルで戦争を仕掛けてくる恐れがあるから、日本も核ミサイルを
保有すべきだとなると完全に恐怖の呪縛を、政府とマスコミが仕掛けているのである。
我々国民は恐怖をあおられるだけです。

先日テレビ番組で京都大学出身の夫婦が脱サラをして田舎で農業と民宿を経営して
いるのを見た。子供達も農業を楽しんでいる元気な姿に、日本の原風景を見た思いが
した。貧しいから都会から脱出したのでは無く心の豊かさを求めて移住したのである。
京大出身となればもっと国の為に活躍する場もあったのでは無いかと勝手に
憂いてしまった。しかし昔から考えてみたらこのような姿は存在していたのである。

武士の社会では定年が早く40代から隠居生活に入るのが当たり前の時代であった。
家督制度のために長男に早くからバトンを渡さなければならなかったのである。
そこで隠居した武士は、寺子屋や私塾で学問を教えたり、田舎へ移り農業を営んだり、
植木を育てながら盆栽を作っていたのである。まさしく晴耕雨読の時間を楽しんでいた。

ある意味地方出身の子供達が学問に才長けて運動能力も高かったのは、引退した武士
たちが一緒に暮らしたその延長線上にあったからでは無いかと思います。

そして世界でいちばんの識字率国家でモラル意識が一般の人たちに備わっていたのは、
お寺の貢献も見過ごしてはならない。村々のお寺は学校であり、病院であり、
人々の憩いの場であり、おとなの社交場でもあった。
子供達は自然にお坊さんを敬い、大人たちから躾を習い、取れた農作物を分け合う
「和を持って貴すとすべし」共存共栄の精神を学んだのである。
問題が起これば村人全員の問題であり、個人の悩みとして考える必要はない。

我々は身近に人生の助言者としてのお坊さんを忘れてはならない。

「我思う、故に我在り」16~17世紀のフランスの哲学者

デカルトは疑い得るものはすべて疑って、とうとう最後にいくら疑っても疑えぬもの
として、「考える私」というものに行きついた。
デカルトはその卓越した洞察力と思考力において、天才と言われるにふさわしい
人物であることは間違いない。しかし、内観という点においては修練を経た禅僧には
一歩及ばなかったのである。

ヨーロッパ語の「私は考える」という文法の呪縛から最後の一歩で逃れることが
出来なかった。「考えられたこと」と「考える私」を混同してしまった。

禅仏教においては、デカルトが「考える私」と見たものを「無」と称している。
私が考える時、そこに「考える私」というものは認められない、
確かなことは「考え」があるだけである。

「無」は存在者であるとも無いとも言えないようなものである。
無門慧海も彼の手になる「無門関」において「虚無の会を作ること莫れ、
有無の会を作ること莫れ」と述べている。
「無」は何もないという意味でもなく、有る・無しという考えにとらわれても
ならないという意味である。

道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節がある。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

最後のフレーズの「万法」というのはすべての事物を意味する。
山川草木やすべての自然現象、私達の感官に触れるありとあらゆるものを万法という。

「証」は悟りの意味で、大方の解説では「森羅万象が私に悟らせてくれる」と
いうような解釈が一般的だが、私はあえて
「森羅万象がそのまま自己の証(あかし)である」と読みたい。

つまり、森羅万象の関係性の中に自己というものが形式的に成立している、
とした方が哲学としてはすっきりするからである。
表現方法を工夫すれば、仏教哲学は西洋哲学と同じ土俵で論じることができる
はずである。 究極の主体としての「無」はよく鏡の面に例えられる。
鏡はあらゆるものを忠実に映し、しかも鏡面の存在を感じさせないからだ。

禅僧は山を見れば「私は山である」と言い、木を見れば「私は木である」と言う。
そこに山や木を認識する主体はなく、ただただ映し出された山や木があるだけだと
いうような感覚を表現しているのだろう。

宗教としての禅においては感覚的な表現で十分なのかもしれないが、感覚的なたとえに
終始してしまっては、公共の学門としての蓄積につながらない。
これからはもっと哲学の方から仏教にアプローチして、その表現方法を洗練していく
ということを考えても良いのではないだろうかと考えている。

呪縛が自然氷解してほしいと望むのは愚か者のすることで、自分の知の力で
解決しなければその答えは永遠に見つけることは出来ない。

「人間は考える葦である」フランスの思想家パスカルの名言
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」
人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを
言い表したものである。

真実は考えに考え抜いて自分自身の理解と追求から姿を現す。
その為には仏教書(禅)と多くの哲学書から学ぶことである。
悪戯に「考えよう」とする呪縛から解き放されるのである。


大いなる旅路




若者たちへ忍耐の大切さを教えたい。
耐えることから生まれる自信の物語を味わいさせたい。
誰も挑戦しない物語の数々を作り出してほしい。
大きさや遠さでは無く自分が冒険をするという気持ちが大切です。

学生時代に読んだ五木寛之の「青年は荒野を目指す」を読んで北回りでロンドンへ
行った。日本へ戻った時に沢木耕太郎の「深夜特急」を読み、

バスで香港からインド経由でロンドンに辿り着くたびに憧れた。

社会人になり働き始めてからも毎年海外へ行くことが楽しみだった。
出張でNYやLAへも度々行った。自費で中国・韓国・香港・ハワイへも行った。
猛烈に働いたのは旅費を稼ぐためでもあったのかもしれない。

その後に読んだ開高健の「オーパ!」と国分拓の「ガリンペイロ」を読んで
一度は必ずブラジルに行きたいと思うようになった。

開高 健(かいこうたけし)
「オーパ!」は作家、開高健のブラジル釣り紀行である。多数の写真に彩られて派手な
外見をした本である。熱帯の魚その他の動植物や風景が被写体であるから、

豊かな色彩にあふれているのは当然であろう。「オーパ!」とは、驚いたり感嘆したりするときに
ブラジルの人たちが発する言葉だそうだ。

 献辞には次のように記されている。

何かの事情があって
野外へ出られない人、
海外へいけない人、
鳥獣虫魚の話の好きな人、
人間や議論に絶望した人、
雨の日の釣師・・・・
すべて
書斎にいるときの
私に似た人たちのために贈る。

ブラジルでは、何もかもが桁違いなのである。河やジャングルのみならず、そこに
生息するものたちの種類・量・大きさが、私たちの日常の物差しはまったく役に
立たないような圧倒的なとめどなさ、果てしなさで迫ってくる。
ブラジリアという人工都市にさえ、それはあてはまる。

そんな、釣師の法螺話の調子がぴったりくるような土地を、著者は1977年の夏、
約70日間にわたって旅をした。恐ろしい牙のような歯で知られる殺し屋ピラーニャ。
最大体長5メートル、体重200キロにも達するという巨魚ピラルクー。
尾のつけ根に美しいホクロをもつトクナレ。それらの魚を求めて。

「ドラド」という鮭に似た全身金色の猛魚は、釣師に対して激しく抵抗する。
その様子を著者は、「渾身の跳躍。不屈の闘志。濫費を惜しまぬ華麗。
生が悔いを知ることなく蕩尽される。」と表現している。

国分拓「ガリンペイロ」
ブラジル・アマゾン川流域の奥地にある、名前を口にしてはいけない場所。
そこには、《黄金の悪魔(ジャブ・デ・オーロ)》と呼ばれる男が所有する闇の
金鉱山と、一発逆転を狙う荒くれ者たちがいた――。
本書は2016年に『NHKスぺシャル』で放送された「大アマゾン」シリーズの第二集
「ガリンペイロ 黄金を求める男たち」を書籍化したノンフィクションだ。

「最初にガリンペイロ=金掘り男の存在を知ったのは、1999年に環境問題の取材で、
ブラジルに行ったときです。ある川の奥深くに、川底を攫(さら)って金を取っている
男たちがいる、と耳にしました。実際に向かうと、おびただしい量の船と、
船上で暮らす人々がいた。奥地なので他になにもなく、船上に雑貨屋や娼館まで
ありました」 いつか取材したい、との思いを持った国分さんは、2014年、
「大アマゾン」の取材で同じ場所に向かった。しかし、到着した時にはすべてが
摘発され、もぬけの殻になっていたという。

私が知っている「ガリンペイロ」は宝石採掘の男たちの物語です。
地球の内部へ、人一人しか入れないほどの小さな縦穴を掘り、体に巻き付けたロープ
一本でダイヤモンドやルビーなどの宝石を採掘する男たちの話です。
宝石は見つかる確率が低いのに命を懸けて何日も掘り続ける。駄目な場合にはまた別の
穴を掘り続けるのである。プロデューサーになりたての頃ヒット曲を作る心境と
重ね合わせて男のロマンを感じたのです。

1980年後半にフジテレビから電話がありアイドルの写真集の撮影でブラジルへ行くから
とお誘いがあった。そのアイドルの所属会社は別のレコード会社であったが、
稲葉がおニャン子のメインプロデューサー(?)だから立ち会うようにと言う事で
あった。もうCBSSONYの役員には了解を取っているから、用意するようにと言う事で、
予てから念願のブラジル行が決まった。それもリオのカーニバルのタイミングである。
ホテルで同室になった秋元康とジャングルに迷い込んだ兵隊とおかまクラブのママの
コスプレで多いに盛り上がった。(どちらがどのコスプレかは想像に任せます)

本当はアマゾン探検をしたかったのだが、その後フジテレビのプロデューサーから、
折角だからアルゼンチンへ行って生のタンゴを見に行こうという話になって
仕方なくアルゼンチンへ飛んだ。

しかし、また折角アルゼンチンに居るのだから、オランダ経由でロンドンへ行こうという
とんでもない提案があった。つい最近上演された「オペラ座の怪人」が評判だから
我々も見に行かなければならない。私はその都度、上司に連絡をして「お前はどこの
会社の社員」だと嫌味を言われていました。無理も無いですよね。

海外へ出かけていくキッカケは映像からの情報より書籍からの情報の方が多かった
気がします。映像だとイメージが限定されてしまうので、

本で読んでイメージを膨らませる方が興奮しました。飛行機に乗る前も、現地に到着した時も、

町中を歩き回った時も、自分のイメージの確認をして行動していたのです。

旅から学ぶことはとても多いのです。あらゆる国や町へ旅して思うことは自分の物語を
自分で作れる楽しみがあるからです。予期せぬトラブルがあっても自分で解決する力も
得ることが出来るようになるのです。
乗り換えの待ち時間、いつまでたっても来ないバス、得体のしれないまずい飯、

ギャングに囲まれて九死に一生を負ったこと、楽な観光旅行ではないので危険は当たり前です。

若者たちへ忍耐の大切さを教えたい。
耐えることから生まれる自信の物語を味わいさせたい。
誰も挑戦しない物語の数々を作り出してほしい。
大きさや遠さでは無く自分が冒険をするという気持ちが大切です。

一人で行っても、仲間と行っても、旅は人間を大きく成長させてくれます。

港で外国船を見るより外国船に乗って港を振り返る方が人生にとっては重要です。
それではBon Voyage(ボン・ヴォヤージュ)良い旅を!