侃侃諤鰐
多くの人は記憶した時にそれが正しいと記憶してしまいます。
しかし正しく覚えないと人前で恥ずかしい思いをしてしまいます。
我々は熱く議論を戦わすことを「侃侃諤諤」(かんかんがくがく)と使うのですが、
多くの方は「喧々諤々」(けんけんがくがく)と間違って使われるのです。
放送局のアナウンサーもよく間違えるので下のような手引書が出ているということです。
「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」の「喧」と「囂」には、ともに「かまびすしい」
「やかましい」「さわがしい」という意味があります。この文字を重ねた
[ケンケンゴーゴー]は、「口やかましく騒ぎたてるさま」
「たくさんの人がやかましくしゃべる様子」を表すことばです。
一方、「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」の「侃」には「性格などが強いさま、
のびのびとしてひるまないさま」、「諤」には「正しいことを遠慮せずにいう。
ごつごつと直言する」(『学研 漢字源』)という意味があります。
この文字を使った[カンカンガクガク]は、「正論を吐いて屈しないさま」
「みんなが率直に意見を述べて議論している様子」を表すことばです。
ご指摘の[ケンケンガクガク]という言い方は、いずれも4文字で構成され、
語形と語感や響きも似ている「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」と
「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」という語が混同して用いられた混交表現です。
国内の主な新聞社や通信社では、「用語ハンドブック」や「用字用語集」の中の
「誤りやすい用字用語・慣用語句」の1つに「けんけんがくがく」をあげています。
放送にあたっては
① [ケンケンガクガク]という言い方は混交表現であり正しい使い方とは言えないこと。
② 「喧喧囂囂[ケンケンゴーゴー]」と「侃侃諤諤[カンカンガクガク]」は、
それぞれ意味が違うことを留意しておく必要があります。
「間違いに気づく」とは何でしょう?
世の中の理屈理論と合わないことでしょうか?世間にある体裁とのズレでしょうか?
自分の信念に背く事でしょうか? 誤認識は人それぞれがあると思います。
ただ一つ確かに言えることは、自分が間違えた!と気付いた時、すぐ反省できる
方は素晴らしい方だということです。 昨今の世の流れでは、間違えるという事に
特に厳しくなっているように見えます。
私も若い時に会議の進行役を頼まれて会の冒頭で「本日は忌憚ある発言を期待します」
と述べたそうです。本人としては「忌憚ない発言」と言ったつもりが、
出席者が指摘することなく笑っているのが不思議に思って後で聞いたら、
だって「忌憚ある」は、稲葉さん特有のジョークで言っていると思ったから
笑っていたのだと言われてしまい、
穴があったら入りたいほど恥ずかしい思いをしました。笑い
しかし、人間は間違いをしたくなくてもしてしまいます。
自分で、または誰かに言われて自分の間違いに気付いた時に投げやりに
そのままにしてしまうか、すぐに反省し、改めるかです。
正しいことはどちらかわかっていても、自分の間違いを心底認める事は
中々に難しいものです。
時にまわりの厳しい指摘に反発し、余計に意固地になってしまう事もあります。
お釈迦様は自分が間違いと気付いたら、すぐさま反省した方がいいと
我々に促してくれています。間違えた!と気づき反省する時に新たな自分への
気づきがあるという教えです。『四十二章経』の第四章の中で、
「悪いことをしても、それが良くない事であったと気付き、自ら反省し、
過ちを悔い改め、善いことをしつづけていけば、これまでの罪は日ごとに消滅して、
ついには道を得る事ができる」とあります。
間違いは無くすことはできないけれども、放っておくとまわりに、
あるいは自分に更なる迷惑を掛けてしまう。間違っていた自分をまず認識しないと、
人生の道が更に困難になる。
間違えた!と気づき反省し自分を改めると、間違いは消えて、
人生の大事な気づきがあるとお釈迦様から伝えられています。
「間違い」は虫歯のようなものです。自分が気づいていながら、
放っていては自分の痛みが増すばかり。
虫歯の治療には歯医者さんに行けば良いのですが、「間違い」の治療には
自分が心底反省し、自身を改める事が必要になります。
時代を経てもこれは我々に共通して大切なことです。
間違えたくなくても人は間違えてしまいます。誰かに指摘される時もあれば、
実は自分で気づくときもあります。気づいた間違いに対してどう向き合うか。
自分を反省し、改め、新たな自分と出会う大事なきっかけです。
何かと忙しく、厳しい時代なのはいつの時代も変わりません。
だからこそ自分を見つめる時間を持ち、自分の間違い探しをして、
反省する時間を持ちたいものです。