古池や蛙飛び込む水の音




冬空を見て何も考えていない時にふとこの俳句を思い出した。
「古池や蛙飛び込む水の音」松尾芭蕉
頭の中が空っぽの時だったのでストンと音を立てて流れ込んできた。
季語は蛙(春)古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、
という単純な景を詠んだ句とされています。
芭蕉が一時傾倒していた禅の影響も受けていた句としても有名です。

僅か17語の世界で無限大の景色が浮かび上がる。
日本語の表現力の豊かさは世界が認める文化的遺産である。
大切なことは、我々はその言葉を受け取れる感受性豊かな国民だという事です。

禅は鎌倉時代に、中国から日本に入ってきた仏教思想です。
そしてそれは当時の武士たちの精神性ともうまく合致し日本で普及して
いくことになります。

禅は質素・倹約・簡略化を重んじます。
まさに引き算の美学を提案しているのです。

禅の概念を具現化した代表的なものが京都竜安寺などの石庭です。
石庭の代表的なつくりに「枯山水」というものがあります。
この枯山水はまさに引き算の美学です。最小限の素材を使用し
ほとんど何ものない状態にすることによって、水や山などの
自然を感じさせる空間をつくりだしています。

例えば金閣寺のような豪華絢爛な建築と庭から味わう贅沢さではなく、
銀閣寺のような質素であるが故に贅沢であるという感覚です。
「何もないからこそ、最高の美を感じる」という逆転の発想です。

茶道の世界を究極まで高めたのは千利休でした。
その主人は豊臣秀吉です。
田舎の足軽から天下人にまで昇りつめた豪華絢爛の象徴である秀吉。
利休茶道の「侘び寂び」思想はいわば秀吉が信じてきたことを否定するような
問いをチクリと彼に投げかけました。

その後、「侘び・寂び」精神性は後の江戸時代に活躍した俳人、
松尾芭蕉にも受け継がれてきます。

松尾芭蕉の代表的2句の解説をするとこのようになります。

「古池や蛙飛び込む池の音」

耳をキーンとするほど静寂さが漂う古い池。
その畔に1つの大きな石が転がっている。
おっ、よく見るとその石の上には1匹の蛙がいるね。
しばらくするとその蛙が池に飛び込んだ。
その刹那「チャポーン」と弾む音と鏡面のような池にスパッーっと広がっていく波紋。
その瞬間はまるで永遠の時間を感じさせるようだね。

「夏草や兵どもが夢の跡」

またここで戦があったのか。
勝った側も負けた側もそれぞれの夢や希望を持ち大義名分を抱えて戦ったんだろう。
でも戦が終わってみると一面には多くの亡き命。
その周辺には、夏草が伸び、自然のサイクルが何事もなかったかのように
ただただ続いていく。本当に無常なものだ。

それにしても本当に美しいものです。
たった17文字で構成されている文章なのに、頭の中で物語がバァアアっと
広がっていきます。この「侘び寂び」の思想も
中国の禅とそれまでの日本文化が編集されて出てきた概念なのです。
それしても「もののあわれ」や「侘び寂び」の美意識。
やっぱり日本ってとてもカッコいいです!

日本人の心にはもう一つ「陽」よりも「陰」を好む感性もあります。
明るい場所よりも、その明るさを際立てる影の部分を重んじるのです。
是も「侘び寂び」の影響を受けているものと思われます。

谷崎潤一郎の「陰影礼賛」

谷崎潤一郎は、1933年(昭和8年)当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の
変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について以下のように語りながら、
最後には文学論にも繋がる心情を綴っている。

日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなった
のでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に
住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、
やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く
陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見て
その簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に
感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、
それは陰翳の謎を解しないからである。

われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり
縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透して
ほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力のない、わびしい、はかない光線が、しんみり落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。

土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、
座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、
その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。
われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて
辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。
我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、
しみじみと見飽きがしないのである。

尤も我等の座敷にも床の間と云うものがあって、掛け軸を飾り花を活けるが、しかし
それらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、陰翳に深みを添える方が
主になっている。われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、
即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の
重要さをに置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら
如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。
それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、
茶の間の床に掛けてみると、非常にその部屋との調和がよく、
軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。

俳句の世界、茶の湯の世界、日本人好みの陰翳の世界。
どれもこれも禅と武士の真意があるように思えてなりません。
贅沢を廃止、質素を重んじて、簡素で簡略化された中に、
人としてあるべき姿が浮き彫りにされている気がします。
豪華絢爛に騙されずに、流行に目を奪われずに、シンプルに人の心を大切に
してきた結果が、俳句であり、茶の世界であり、陰翳礼賛の世界です。

いつまでも日本人の感性を楽しみましょう。