振り返る勇気と全てを捨てる決断




例えばこれだけ会社再建で頑張ったのにもう少し頑張ろうとする気持ちは正しいですか?
これだけ開発に時間を費やしたのにもう少し資金を投じようとする行為は正しいですか?
険しい山を登ってきたのだから少し天候が悪くても登ろうとする努力は正しいですか?

私はそう思いません。過去のものを経験として残すことは大切にしますが、
今あるものに執着して経済的損失や命の危険を伴うことは絶対避けなければなりません。
日本の社会では汗を流して頑張ることを褒め称える風潮があります、
その上に一度始めたらやり続けることが正しいと評価する傾向があります。
そんな考えは今の時代には合いません。

実は私もこの考えで取り返しのつかない失敗をしました。
自分のプライドを大切にするあまり収入以上に投資をして、
過分に人を雇い海外との取引を始めてしまったのです。
今、思えば一時メリットがあっても、最大限のリスクを負わないようにする為に、
立ち止まり、全てを捨てる決断をすれば良かったと反省します。

仕事上の問題(経済的困窮)で追い込まれると冷静さを失います。
普段ならすぐ分かることも分からなくなってしまいます。
その為の解決方法としてこのような手引書があります。

Harvard Business Review
by レベッカ・ザッカー

追い込まれた時に取る対処法として5つの提案がこのようになります。

●一番の原因を突き止める
「どれか1つ、あるいは2つのことを人に引き継いだら、
いま感じているストレスを8割緩和できるか?」を考える。
実際には引き継げなかったり、その責任から逃れられなかったりしたとしても、
これを考えることが、ストレスの一番の要因を突き止めるのに役立つ。
それがもし完了間近のプロジェクトなら、片付けてしまおう。
プロジェクトやタスクの大きさがプレッシャーになっているならば、
手に負える大きさに小分けするか、人を増やしてもらうか、
可能ならば期限を交渉し直すか、あるいはその全部を行う。

●時間と労力に上限を設ける
タイムボックス(時間割)をつくり、タスクやプロジェクトに費やす時間を
あらかじめ設定する。決めた時間に退社する。あるいは、特定の種類の仕事を断る。
アジャイは、チームメンバー同士の衝突の仲裁に、かなりの時間を割いている
ことに気づいた。それによって自分の時間を生産的に使っていなかった
ばかりでなく、みずから解決しようとせずに、すぐに上司の指示を仰ごうとする
部下たちの姿勢を助長していた。
そうした相談に応じるのをやめ、自分のところに来る前にできるだけ
自力で解決するよう伝えたおかげで、仕事をじゃまされる頻度が減り、
優先課題に集中する時間をつくれるようになった。

●完璧主義を見直す
完璧主義の人は、タスクやプロジェクトを必要以上に大きくしてしまう嫌いがあり、
それが先延ばしや精神的苦痛につながることもある。
やることがたまるとますますプレッシャーになり、その結果、さらなる先延ばしと
プレッシャーを呼ぶ。シェリル・サンドバーグの有名な言葉がある。
「完璧より完遂」。これで「よしとする」タイミングを知るためには、
「このタスクやプロジェクトにもっと時間をかけた場合、限界利益はいくらか」を
考えよう。利益がほんのわずかなら、そこでやめて終わりにする。
何でも完璧にできる人はいないと、自覚することも大事だ。
スーは結局、時々メールを見過ごすことは仕方がない、重要な内容であれば
相手からまた連絡がある、という考えを受け入れることができた。

●外注するか引き継ぐ
「自分の時間を最も有効に使える仕事は何か」を考える。
その答えに当てはまらない仕事は、他の誰かを教育し、託そう。
たとえば、一部のプロジェクトの管理や会議への代理出席、一次採用面接などを
チームのメンバーに任せたり、家の掃除や料理の代行を利用したりする。
マリアは、いつも自分がやっている毎週の営業会議の進行を、他でもない
営業統括が行うべきだと気づいた。
その社員を採用してから1年以上経つのに、自分が「習慣的にやっていた」
仕事にしがみつき、手放すのが不安で、きちんと仕事を任せていなかった。
ようやく、自分は会議の報告をメールで受けるだけで十分だと認めた。
このタスク1つを手放しただけで、1年で52時間も手が空き、他の優先度の高い
戦略的課題に集中できるようになった。

●思い込みに疑問を持つ
常に追い詰められているように感じている人は、思い込みが強く、つい非生産的な
行動を取ってしまっている可能性が高い。
キーガンとレイヒーはこれを「強力な固定観念」と呼んでいる。
スーの思い込みは、「何か見落としがあったら、自分はおしまいだ、
二度と立ち直れない」というものだった。
アジャイの場合は、「人の助けにならなければ、自分に価値はない、
人から必要とされなくなる」。
マリアの場合は、「私がしっかりしなければ収拾がつかなくなり、会社が潰れる」
という思い込みだ。
本人たちは自分の固定観念を本気で信じていたが、こうした狭量な考えが
100%正しいはずはなく、彼らは過去のパターンに囚われ、
自分で自分の首を締めていた。

こうした思い込みを時間をかけて突き止め、真実ではないことを理解していくことで、
彼らはそれまでの窮屈な世界観を広げ、それによって人に振り回されるという
感覚が減り、自己主体感を高めることができている。
仕事や生活が大変なとき、誰もが追い詰められているように感じることはあるが、
その頻度や程度を軽減するために、上記の対処法を役立てほしい。

能登半島地震の高校3年生避難者の決断。
最後の追い込み期間に被災した受験生は、厳しい環境を強いられていました。
人口約500人の能登町姫地区では地震が起きた後、電気や水といった
ライフラインが止まってしまったため地域住民たちの手により、
避難所が立ち上げられました。
避難所で率先して手伝っていたのは、大学受験を控える高校3年の
堂前和海(どうまえなごみ)さんです。

【堂前和海さん(18)】「共通テスト近いんですけど、諦めるわけじゃないんですが、
最悪、受験は来年もできるんで、今できることをしっかりやろうかなと」
関西にある国立大学を目指す和海さんは、家が倒壊した訳ではありませんでしたが、
少しでも助けになれるよう避難所で寝泊まりをして、手伝ってきました。
持ってきた勉強道具は参考書1冊のみで、勉強できるのは寝る前のわずかな
時間だけでした。

1年間を無駄にしても今やるべきことをやる、この選択が大事です。
受験を無事に済ました人も、堂前和海さんのように浪人を決断した人も
想いは同じです。

禅語に「千里同風」という言葉があります。
どこも同じ風が吹いている – 千里同風 –
「論衡(雷虚)「夫れ千里風を同じゅうせず」
遠隔の地にも近くにも同じ風が吹く意から、天下がよく治まっている太平の世。
万里同風。」と言われています。

『論衡』というのは、中国の後漢時代の書物であります。
千里同風は、禅語としては玄沙禅師の言葉として知られています。
玄沙師備禅師(835~903)は中国唐代の禅僧です。
もと漁師であったといいます。

毎日父と共に漁に出ていましたが、一説によれば、父が水中に落ちてしまったのを、
救おうとしたものの救い得ずに、そこで無常を感じて出家したとも
伝えられているのです。
既に三十歳であったともいいます。

また「謝三郎」とも呼ばれ、禅語に「謝三郎、四字を知らず」とあるように、
字も読めなかったという説もございます。
後に雪峰義存禅師について修行します。
師匠の雪峰禅師も一目置いていたほどの、熱心な修行ぶりでありました。

ある時に、師の雪峰禅師から、諸方を行脚してくるように勧められました。
四度も勧められて、ようやく旅に出ました。
旅支度を終えて嶺上に到り、道の石ころにけつまずいて、忽然と大悟したのでした。
その折りに「達磨東土に来たらず、二祖西天に往かず」と言われました。
どこにも出かけてゆく必要はないということであります。

玄沙はその後生涯福州を出ることはありませんでした。
行脚するといって出かけた玄沙が、すぐに帰って来たので、不審に思った
雪峰禅師が子細を聞きました。
玄沙は自分が体験したことを話すと、雪峰禅師も大いにその悟りの心境を認めました。
そして玄沙は雪峰禅師の教えを受け継いで禅風を大いに挙揚しました。

後に寺に住してからは大いに教化活動をなさっていました。

ある僧が「私はまだ入門したばかりで、どのように修行したらいいか分かりません。
どこから手をつけたらいいでしょうか」と聞きました。
玄沙禅師は「川のせせらぎが聞こえるか」と問いました。
「聞こえます」と答えると、「そこから入れ」と答えました。

ある時に、玄沙禅師は、師の雪峰禅師のもとに一通の手紙を修行僧に届けさせました。
雪峰禅師が、久々の玄沙からの書状を開いてみると、何とそれは白紙でありました。
届けてくれた僧に、「これはどういうわけなのか」と問うても、僧は答えられません。
雪峰禅師は、白紙の手紙を取りあげて、「分からないのか、君子は千里同風だ」と
説いたのでした。

「千里同風」です。
千里離れた土地であっても、同じ風が吹いているのです。
どこにいても、心と心は通じ合っているのです。
このように白紙の手紙を見事に読み解かれました。
師弟の心が一枚になっていて実に奥ゆかしいのです。

「オンラインもない昔の人は、たとえ遠く離れていても、
同じ月を見ていると思って、心が通じ合えたのでした」と書いておきました。
玄沙禅師は石にけつまずいて開悟しました。
思わず「痛い」と叫ぶ、それはいのちある確かな証拠です。
川のせせらぎを聞くのも、いのちあればこそです。
そのいのちはどこから来たのでしょうか。
計り知れない無限のいのちを今ここにいただいて生きているのです。
吹き渡る風にも無限のいのち、仏のいのちを感じることができます。
吹く風に「千里同風」を想い、この世の争いが無くなることを祈ってやみません。
円覚寺官長横田南嶺のページより

以前、一度お会いしている横田南陵禅師の教えは、
とても分かりやすく納得するばかりです。
勿論、納得するばかりではなく、多くの人へ伝える役目として
度々ブログで紹介をさせていただいています。
これからも学びながら感謝ある毎日を過ごしていきたいと思います。
人生において「振り返る勇気と全てを捨てる決断」があれば大丈夫です。