私は子供の頃から一筋の幸福の光を信じて生きてきました。
いつかはこの不幸から脱却して幸福になれると信じていました。
だからどんな困難にも対応できたのです。
登る山があれば下る山もある両方あるから楽しいのです。
小学校の高学年になりこの幸福感を信じて貫いて来たのです。
また幼き頃に聞いた言葉は忘れないものです。
お寺の住職から言われた言葉「真珠はな!石ころや貝殻を飲み込んで
痛いのを我慢するからあんなに素敵な玉になるのだよ。
お前も苦しみや哀しみをいっぱい飲み込んで素敵な大人になれ。」
いじめられた時にも「ありがとう」を言えばいいのさ。
そうすれば、相手はいじめるのを諦めてしまうからね。
苦しみはいっときのものです。苦しみを全部受け止めるのではなく
跳ね返すことが必要です。神様は心の弱い人へ大きな石を持たせます。
そこで騒いだり泣き喚いたりするともっと大きな石を持たせます。
この困難を与えてくれて「ありがとう」と言えば突然重い石が軽くなるのです。
人間に与えられる姿・形は一緒ですが心はそれぞれ違うのです。
辛い時には言葉一つで人生が変わることを覚えておいてください。
中国の古い諺です。
「人間万事塞翁が馬」は、「にんげんばんじさいおうがうま」と読みます。
「人間」を「じんかん」と読むこともありますが「にんげん」と読むのが一般的。
短く「塞翁が馬」ともいいます。
「人間万事塞翁が馬」にはどのような由来があるのでしょうか?
まず各言葉にはこのような意味があり、由来となったエピソードがあります。
・人間… 「世間」「世の中」
・万事… 「あらゆること」「すべてのこと」
・塞翁… 「塞(とりで)に住む老人」・馬… 「老人が飼っている馬」
「人間万事塞翁が馬」の由来となったエピソード
中国、前漢の学者である劉安(りゅうあん)編の思想書「淮南子(えなんじ)」。
そこに記されている「人間(じんかん)訓」では「人間万事塞翁が馬」
の由来となったエピソードを確認することができます。
「中国の国境の塞(とりで)の近くに、翁(老人)が住んでいました。
あるとき老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、近所の人々は
同情しましたが、老人は『このことが幸運を呼ぶかもしれない』と言いました。
そしてその通りに、数ヶ月後、逃げた馬が立派な馬を連れて帰ってきたのです。
近所の人々は祝福しましたが、老人は『このことが不幸を引き起こす原因に
なるかもしれない』と言いました。その通りに老人の息子がその馬に乗り、
足の骨を折る怪我をしたのです。
近所の人々は見舞いましたが、老人はまた『このことが幸運を呼ぶかもしれない』
と言いました。一年して隣の国が大軍で攻め入ってきました。多くの若者は戦争に
駆り出され、10人のうち9人が戦死しましたが、老人の息子は足の怪我の
おかげで戦争に駆り出されず命を落とさずにすみました」
このエピソードから「人間万事塞翁が馬」ということわざが生まれました。
「人間万事塞翁が馬だから、あまり落ち込まないで!」
このように、例えば落ち込んでいる友人や後輩を慰めるときに
使うことができます。
仕事のミスや何か失敗をしてしまったとき、落ち込んでしまうのは
仕方がないこと。ですが次のステップに進む必要もありますよね。
この後に訪れるであろう幸せを信じながら前向きな気持ちでいることが
大切なのかもしれません。
「人間万事塞翁が馬。油断しすぎるのは危ないよ!」
先ほどとは反対に、嬉しくて気持ちが舞い上がっている人に使うパターンも。
嬉しいことがあれば誰かに話をして自慢をしたくなるときもありますよね。
でもあまりにも舞い上がりすぎていたり、周りの空気を読めずに
その嬉しさが誰かを傷つけているなんてときも。
嬉しいことがあっても油断せずに過ごすことが大切なのかもしれません。
さて皆様はどのように受け止めたでしょうか?
私の体験を一つ紹介します。
2001年に韓国でオンデマンド配信の映画会社を立ち上げました。
韓国で日本の文化が解禁されたのは1998年から始まり映画やテレビドラマ
などが紹介された。アニメや日本の音楽が全面解禁されるまでに4回の
規制が解除されて全面的には2004年に解放されました。
私は2000年にコンピュータの会社へ入り事業部長として新規事業開拓に
努めた。会社の取引先に韓国の会社があり何度か韓国を訪れるように
なったのです。その際ホテルで韓国ドラマを観ているうちにこれを日本に紹介
しようと思い立ち役員を説得して映画会社を立ち上げたのです。
会社の立ち上げに参加した韓国側の人達は経済界の大物ばかりで安心をしていた
のですが、その時に韓国の人が日本に対する反日感情が強いことを意識して
いませんでした。後々会計を調べていくうちに不正が見つかりこのまま継続するか
悩みました。
会社を立ち上げた時に取材が多く入り大々的に韓国で発表されたことが
気になりました。しかしその事業に不信感を持ったので日本側は手を引く
決断をしました。私は大きな被害を会社に与えた為に引き留められたのですが
退社を決断しました。
その時に中国から新人の紹介があり手掛けたのが「女子十二楽坊」です。
友人を介して紹介されて直ぐに北京へ出かけていき個人契約を結びました。
これも一歩遅れていたら大手のレコード会社に取られていたのです。
その後は皆様もご存じのように世界的大ヒットに恵まれておしもおされぬ
スーパースターになったのです。
もし韓国の事業が継続されていたら、このような話が来ても中国へは出かけて
いませんでした。
これこそまさに「人間万事塞翁が馬」でした。
皆様も山あり谷ありの人生を楽しむようにしてください。
10月 22nd,2024
恩学 |
人間万事塞翁が馬 はコメントを受け付けていません
私が6歳の時に母と兄妹と別れた町の神社の裏に「思川」という川があった。
家を突然出ていった父親と兄二人と岸辺で遊ぶ写真が手元に一枚ある。
私の悲しい記憶と川の名前の「思川」がいつも頭の中から離れなかった。
残された家族は結核を患っていた小柄な母親が毎夜裁縫で生計を支えていた。
私は6歳の時に父親側に引き取られて大阪へ行き母との交流は途絶えた。
大学生の時に母の死の知らせを聞いて栃木の実家に飛んで帰った。
私は母の死に顔よりそばに置いてあった笑顔の写真を見て泣き崩れてしまった。
小池光の最新歌集『思川の岸辺』は、短歌における「人間」を考える上で
きわめて示唆の豊かな歌集と言えるだろう。
何気ない歌がなぜかしみじみと読者の心を揺さぶる歌集である。
斎藤茂吉も小池光も家族の生老病死のかなしみ、また人間が背負う侘しさや
情けなさまで包み隠さず歌にした。
うなずける評言である。『思川の岸辺』は、妻の死を詠んだ挽歌集。
読んでいて、たしかに心が揺さぶられた。そして、人間らしい歌だと思った。
大森が「人間が背負う侘しさや情けなさまで包み隠さず歌にした」と評した
歌の数々を、自分は「人間らしい」と感じたのだ。
掃除機のコードひつぱり出す途中にてむなしくなりぬああ生きて何せむ
正座して鏡のまへに居りしきみ声をかければふりむくものを
十五歳夏のはじめの出会ひにて四十八年のちのわかれぞ
着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生ひとよをおもう
われがことちよつと書いてある新聞を遺影のまへにたたみて置くも
小林秀雄が、子どもを亡くした親は、子どもの死に顔を思い出して泣くのでは
ない、元気に笑っている顔を思い出して泣くのだ、と書いていた。
奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、これらの歌には、そのような
人間の自然で健やかな感情が紛れもない。
鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長であった今北洪川(いまきたこうぜん)は、
知り合いの老婆が亡くなった時、大声をあげて泣いた。
すると、他の僧が老師は大悟徹底したはずなのに、あんなにあられもなく
泣くとはみっともないと非難した。それを仄聞した洪川は、「悲しい時に
何のこだわりもなく泣けるようでなければ、何のための修行か」という
趣旨のことを言ったという。
ふつうに生きる人間の自然で健やかな感情が、
包み隠さず詠まれている歌を、自分は人間らしい歌だと思うのである。
挽歌のモチーフは、不在感であり、空虚感である。その感情の総量が、
すなわち喪ったものに対するいとしさの感情の総量である。
小林秀雄に倣っていえば、わたしたちは喪失感に胸を打たれるのではなく、
いとしさの深さに心を揺さぶられるのだ。小池光の歌が、情けないことも
包み隠さず詠むことについては、すでに山田富士郎が書いている。
長年連れ添った妻を亡くし、茫然自失と過ごす毎日。
偶然出会った思川はふしぎと安らぎを覚える川だった。
一筋の流れは時間であり、区切りでもあるのだろう。
死別から五年、再出発を期して送り出す第九歌集。
「肩の上にかくあたたかく雪つもる夢の中にて思ひあふれて」
「よろこびに満ちてふたりはただ居ればわが感情はしづかとなりぬ」
「こすもすの畑もとうに枯れはててくる白雪を待てるしづけさ」
「着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生(ひとよ)をおもふ」
小池光さんの歌は苦手、と思っていたが、この歌集はあたたかい緑茶のように
染み入ってきた。妻を亡くし、子供たちも結婚し、猫と暮らす。
自らは次第に老いていく。妻の不在を思う。簡単に言うとそういう歌集
なのだけれど、淡々と読まれる日々の小さな思いが短歌の形式に
ぴったりはまり、何首読んでもぬくい気持ちになる。
多分それは猫の存在が大きいし、自らを抑え気味に表現する小池光さんの
力の強さが大きい。読み終わるのがもったいない歌集だった。
(大森静佳の書評より)
偶然に私の思い出と小池光の最新歌集『思川の岸辺』と重なった。
何気ない歌がなぜかしみじみと読者の心を揺さぶる歌集である。
人は何気ない情景の中に人間らしさを曝け出す。
うたの歌詞も日常の移り変わりの中で寂しい気持ちや懐かしい気持ちを表現
するものが多い。若い人の歌詞は自分中心で吐き出す様に表現する作品が
多い気がする。
小池光の歌集を読んでこの歌を思い出した。
今回の文章は私の思い出と大森静佳さんの書評から書き添えました。
小椋佳の書いた「白い一日」
作詞:小椋佳 作曲:井上陽水
真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく
目の前の紙くずは 古くさい手紙だし
自分でもおかしいし 破りすてて寝ころがれば
僕の一日が過ぎてゆく
ある日踏切のむこうに君がいて
通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上がり振りむいた君は
もう大人の顔をしてるだろう
この腕をさしのべて その肩を抱きしめて
ありふれた幸せに 落ち込めればいいのだけど
今日も一日が過ぎてゆく
真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく
秋風が吹けば人生の儚さが蘇ります。
温かなお茶を飲みながら最後の一葉に想いを寄せています。
10月 21st,2024
恩学 |
人間らしさ はコメントを受け付けていません
75年間の人生で色々な出会いがあり色々な別れがあった。
自分一人の人生だったと勘違いをしていたが多くの支えがあって今日がある。
これまでいくつかのでこぼこ道や坂道があり何度も失敗をして立ち止まった。
私なりに地位や名誉や財産を築くことなく平凡な人生だと振り返る。
工業高校を卒業して外大に入り3年の時に中退して英国へ行った。
憧れのロンドンはファッションも音楽も街並みも最高だった。
まともな英語も覚えずに音楽三昧で1年半過ごして帰国することにした。
日本へ戻る飛行機の中で「俺は日本一のプロデューサーになると決めた」
本気で人生の生きる道を決めた時「初心」という言葉を胸に刻んだ。
これからは何があっても初心を貫き通していくと誓った。
「初心」という言葉は、仏教用語の「初発心(しょほっしん)」に由来します。
初発心とは、初めて悟りを求める心を起こすこと。つまり、
人が初めて真理を探求し、その道に進むと決心したときの志を表しています。
仏教の経典『華厳経』には、「初発心の時、すなわち正覚(しょうがく)を成ず」
との一節があります。これは「初めて悟りを求める心を発した時に、すでに正しい
悟りへの道が開かれている」という意味です。
このように、真理を探求しようとする、その心がすでに求める真理を内包して
いると説くのは、それほど最初の決心や志が大切であると考えているからでしょう。
世阿弥が語る「初心忘るべからず」とは?
さらに味わい深いエピソードをご紹介します。
「初心忘るべからず」と最初に語ったのは能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)です。
興味深いことに、世阿弥が語る「初心」は、「最初の決心」や「初志」とは
少し違う意味を含んでいます。彼は『花鏡(かきょう)』という能楽の理論書の中で、
次のように3つに分けて初心の大切さを論じました。
「是非初心を忘るべからず」
これは、まだ未熟だった頃の芸を忘れず、成長した今の実力を正しく認識し
向上させることが大切だと述べる一節です。
「時々の初心を忘るべからず」
この一節は、どの年齢であっても新しいことを始めるときには初心者であり、
未熟であることを忘れてはいけないと説明しています。つまり、
いくつになっても自分にはまだ学べることがあると受け入れることが
大切だという意味です。
「老後の初心を忘るべからず」
さらに世阿弥は、老後であっても新しいことを学ぶ意欲を持つことが
大切だと語っています。年を取ったから完成ということはなく、
一生涯をかけて学び続けることが大切だという意味です。
この考え方は、「初心忘るべからず」という言葉に、「あの頃の謙虚な気持ちを
忘れるな」という訓示以上の積極的な自己成長と学びの姿勢を付け加えている
ように感じます。
「初心」とはいつまでも自分を磨き続けるための道しるべ。
何かを始めたときの新鮮な気持ちを折に触れて思い出すことは、
自分を成長させるうえでとても大切です。しかしそれだけではなく、
いつでも「初心者」のような気持ちで学び、吸収することができれば、
さらに人生が充実したものになるような気がします。
「初発心の時、すなわち正覚を成ず」という言葉が指し示すように、
自分を磨いていこうとする気持ちを持ち続けていれば、その人本来の能力や
才能の原石が輝きを失うことはないのかなと思います。もしかすると、
人間の成長とは、何か新しい技術や考えを自分に「付け足していく」作業ではなく、
すでに自分の内にあるものを「洗練し、磨き上げていく」ことなのかもしれません。
そんな自己探求の道しるべともなる言葉、「初心忘るべからず」について綴りました。
人生において最も大切なものは「初心」である。
医師長岡美妃より
どんな芸術的な絵画も、真っ白なキャンバスに打たれる一点から始まる。
そしてその一点に絵画完成の意志がすべて込められている。
人生においてこの一点を「初心」と呼ぶ。
人生で何かを始める時、それは事業でも入学入社でもお付き合いでも
結婚でも、、、あらゆる事件が始まる時には初まりの点を打つ。
そこにどれだけの決断と覚悟があるかによって、その事件が生み出す
世界は変わる。中途半端な決断覚悟なら、生み出される世界も
中途半端なものになるだろう。いい加減な点を打ったなら、
己を取り巻く世界はいい加減なものになるだろう。
始まりにないものは終わりにもない。
もし美しい清らかな世界を生み出したいのなら、美しく清らかな点を
打つべきである。「初心忘るべからず」という諺が言う通り、
己が打った点を忘れないことだ。
それでも人は少しづつ少しづつ点をずらしてしまう。欲得、損得、貪欲、
多欲にまみれ、初めの点が何だったのかを忘れていく。
純粋な点が環境の影響によって不純物が混じっていくように。。。
だから、初心を貫く為にも「諦め不可能な夢」を持つことが何よりも
大切になってくる。「諦め不可能な夢」は裏を返せば、人間ならば誰もが
やるべきことに繋がるものである。
人間には知るべきこと、やるべきこと、期待すべきことがある。
そうではなく、知りたいこと、やりたいこと、期待したいことを
希望するから欲に翻弄されてしまうのだ。
長岡美妃先生のブログより抜粋
「初心」の意識と潜在的に存在する「本性」について考察する。
本性を語る時重要なのは盲信する自分と疑う自分が同時に
存在しなければならない。盲信するだけならニーチェのように
壊れてしまう。
疑うとは否定ではなく別の角度から見てどのように受け止めるかを
確認することである。
哲学者も宗教家もこの追求を途中で諦めて力尽きてしまうことが多い。
優しさの裏側の冷酷さ、愛することの残忍さ、信頼の中の裏切り、
聖職者の冒涜、平和に向かう戦争、笑顔と殺戮など心の中には
複雑な組み合わせが存在する。それを本性という。
純粋な気持ちで初心を描き残す。何度も失敗を重ねて不純な心が育つ。
本性は生まれ落ちた環境で決まる。
誰しも無垢な心で生まれるのだが、その時に与えられた環境で人間性が育つ。
幼き子が生き残る為に野生の本性であらゆる手を尽くす。
最大の武器は笑顔である。動物には無い人間の最大の武器が笑顔である。
人間の本性とは人間を人間とするものであり、それは獣や他の被造物と異なり、
私たち人間は理性や感性をもっています。人間以外にこれらの能力を持っている
存在はありませんし、これらの能力が神からの賜物である事は明確です。
私たちの理性は私たちが自らの本性や神のご性質について考え、
神の被造物(クリーチャー)に対する御心を知る事を可能にしています。
他の被造物に理性はありません。
聖書には神が人を神のかたちに創造されたと書いてあります。
それは神が私たちに御自身についての理解といくらかご自分と同じ性質を与えて
下さったという事です。私たち人間の本性は神のご性質を少しながら表しています。
私たちが愛するのは神が愛だからです。
私たちは神のかたちに創造されているから、私たちはあわれみを持ち、
誠実で、正直で、親切で、寛容で、義しく生きる事ができるのです。
これらの神からの性質が、堕落によって曲げられながらも
私たちの内にはあるのです。
本性とは人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念である。
社会学、社会生物学、心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を
明らかにしようと科学的な取り組みを行っている。
哲学者、倫理学者、神学者もまた古くから議論していた内容です。
今回は私なりに人間の根本を探り当てようとして論じてみました。
異論反論多々あると思いますが、みなさまはどのように受け取ったでしょうか?
ブログ「恩学」は思考のきっかけを作るために書いております。
10月 21st,2024
恩学 |
初心と本性 はコメントを受け付けていません
人間性とは性格なのでしょうか?
それとも個人の思想なのでしょうか?
行動の結果として生まれるものでしょうか?
自分の能力に対する他人の評価なのでしょうか?
周りと同一の価値観を持たなければ、
人間性が欠けているというのでしょうか?
親が子を手放す!子は生きる為に大人との順応性を身に付ける。
最初は周りが受けいれてくれなくて仲間外れにあう。
同じ境遇の子供達が群れの中に入れと言い寄って来る。
ここで楽な道を選べば一生後悔することになる。
まともな人間性など作れたものじゃない。
弱い犬が人間に飼われて吠えることを忘れる。
警戒心の強い猫が腹を見せて横たわる。
餌を与えられた猿が街に出てウロウロ徘徊する。
殴られても蹴られても鹿は公園をのんびり歩く。
人に飼われて野生の本能を失いペットとして順応性が身につく。
誰しもがほんの一瞬「自分は何者であるかを知る」時がある。
「自分はこういう人間だから」という思い込みをなくす。
未来への可能性の中で「自分はこうありたい自分」と確信を持つ瞬間である。
平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職
そうですね。禅に限らず仏教ではよく「仏(ほとけ)」とは「ほどける」
ことであると説かれます。例えば、ここに水の入ったコップが置いてあれば、
ほとんどの人は水を飲むためのコップだと認識するでしょう。
しかしそれに一輪の花を活けて花瓶にする人もいる。
水があってちょうどいいと、灰皿にする人もいるかもしれません。
ある人はコップ、別の人は花瓶、もう一人は灰皿だと言う。
このように同じものを見ても人それぞれ「これはこうだ」と思い込むものです。
世の中の争いのほとんどは、そうした思い込みに起因しているのでは
ないでしょうか。そのような思い込み、固まった心のもつれがほどけて、
「これはコップでも花瓶でも何にでもなるじゃないか」ということに
気づけば、争いの種はなくなります。
心が平らかで整った状態、つまり「ほとけ」というものになる。
マインドフルネスとは、そういう思い込みをいったんすべて流してしまう
ことをめざすものではないでしょうか。対して禅は、仏教ですから、
取り除いたあとに自分の心の中にある「自在な仏なるもの」に気づくことを
めざすのです。お釈迦様は悟りを開いたとき、「一切衆生悉有仏性
(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、生きとし生けるものは
みんな生まれながらにして仏になりうるとおっしゃいました。
しかし、いろいろな煩悩や固まった心が、内なる仏の存在に気づくことを
妨げているのです。それらを修行によって取り除いていけば、いちばん底に
仏が残るということに気づく。ここがやはり仏教である禅の精神の核です。
ころころ転がるから「心(こころ)」なのだとも言われますが、
心は水のように形を変える自由自在なものです。
それを好き嫌いや損得、是非や善悪で呪縛して、嬉しい、悲しい、
苦しいといった状態で固めてしまうから不自由になる。
その固まりをほどく方法を教えてくれるのが、仏教であり、
禅であると考えています。
坐禅をすれば無心になれるわけではないとも書かれていますね。
「無心」とは「何も考えない」ということではないと。
「何も考えない」というのは不可能ではないでしょうか。
これも言葉の難しさですが、私は無心というより「一心(いっしん)」になると
表現しています。一心とは、今、自分が行っていることに対して集中する、
心と体が一つになっている状態です。
あるいは「初心に還る」と言ってもいいかもしれません。
山岡鉄舟先生は「剣術の妙處を知らんとせば、元の初心に還るべし。
初心は何の心もなし」と書いておられます。
仕事でも坐禅でも、最初に「さあやるぞ」と思った心には雑念がありません。
「人から見られるからうまくやってやろう」とか、逆に「なぜこんなことを
しなければいけないのか」といった雑念や疑いの念がない
「素直な心」が初心です。
われわれは修行道場へ行くと、まず徹底的に叱られるのですが、
修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。
「自分が」という心の固まりをほどくことで、多少揺れ動いても最後には
元の場所へ還る、自在でぶれない心を養うことができるのです。
「人間性」とは、「人間として生まれつき備えている性質」や「人間らしさそのもの」
を指す言葉です。その人自身がもつ思想信条や社会的なステータス、外見などとは
関係ない、人としての「本性」を示し、「あるべき理想の姿」の意味でも用いられます。
具体的に言うと?「人間性が高い」といわれる人の「特徴」
「人間性」という言葉は、私たちが「あるべき理想の姿」を意味する言葉でもあります。「人間性が高い人」とは、「目指すべき理想像」、つまり「人格者」であると
言うことができるでしょう。そのため、周囲から「人間性が高い」との評価を
受けるのは、愛情の深さや他者への気遣い、知性や品格などが備わった人であることが
多いようです。とはいえ、本来「人間性」のとらえ方は、個人や社会、時代によっても
異なるため、優劣をつけるべきではありません。
私なりの「人間性」の捉え方は単純に動物と人間を区分するために作られた
言葉かと思っています。
その中でも「人間性が高い」と言う人は自分の価値観と考え方と行動が
一致している人をいうのです。
常に柔軟性を持った思考で価値観を固定するのではなく、
環境に合わせて人間関係を築ける人を「人間性が高い」と評するのです。
私達も地位や名誉や財産に執着する成功者よりも、貧富の差別をすることなく、
老若男女だれとでも話が出来る人間性の高い人になることを目指しましょう。
10月 20th,2024
恩学 |
人間性とは はコメントを受け付けていません
以前、学生からアートは人生に絶対必要ですかと聞かれたことがある。
その時に私が言った言葉は「絶対必要です」と回答した。
そして黒板に五つのスペルを書いた。
Earth(地球)我々の地球上には
Heart(思い)いろいろな人の思いが重なり
Smart(賢い)賢くなり集う
Party(集まり)様々な人たちと交流が始まり
Start(出発)ともに船出を楽しむ
この英語のスペルの中にはすべてARTの文字が入っています。
我々が生きて仕事をして生活をして暮らしていく中に
アートは無くてはならないのです。と答えた。
その時に巡り合えた文章があります。
他人の期待に応えることをやめるがいい!
それはあなたが自殺することになり得る唯一のやり方だからだ。
あなたは誰かの期待に応えるためにここにいるわけではない。
そして他の誰もあなたの期待に応えるためにここにいるわけではない。
決して他人の期待の犠牲になってはいけない。
そして誰もあなたの期待の犠牲にしてはいけない。
これが、私が個人性と呼ぶものだ。あなた自身の個人性を尊重し、
他人の個人性を尊重するがいい。決して誰かの生を干渉してはならないし、
誰にもあなたの生を干渉させてはならない。
そうして初めて、いつかあなたは精神性の中へと成長することができる。
さもなければ、99パーセントの人びとは、ただ自殺するだけだ。
彼らの生全体は、緩慢な自殺以外の何ものでもない。この期待、
あの期待に、応え続ける……ある日は父親の、ある日は母親の、
ある日は妻の、夫の期待に応え続け、そして子どもが生まれ、
彼らもまた期待する。
それから社会、聖職者と政治家。まわり中の誰もが期待している。
そしてかわいそうなあなたがいる、ただかわいそうな人間が――全世界が
あなたに、これをやるように、あれをやるようにと期待している。
そしてあなたは彼らの期待すべてに応えることはできない、
なぜならそれらは相反しているからだ。
あらゆる人の期待に応えようとして、あなたはおかしくなってしまった。
そしてあなたは、誰の期待にも応えなかった。誰も幸せではない。
あなたは道に迷い、疲れきってしまい、そして誰ひとり幸せではない。
自分自身と共にいて幸せでない人びとは、幸せになり得ない。
あなたが何をしても、彼らはあなたに不満を感じる方法を見つける。
なぜなら彼らが、幸せでいることができないからだ。
幸福とは、人が学ばなければならないアートだ。それは、あなたが何をやるか、
やらないかには関係がない。人を喜ばせる代わりに、幸福のアートを学ぶがいい。
ここでいうアートは芸術のアートではなく、自分自身の人生計画を
どれほど美しく完成させられるかという事である。
心が満足しなければ美しさの完成はあり得ない。他からくる抑圧も精神的圧迫も
拒否できない立場なら中途半端にキャンバスに向かうのではなく、
一旦絵筆を置き白紙に戻すことは出来るだろうか?
人は追い詰められた時に一番美しくなることを知っているだろうか?
幸福な時よりも姿かたちに声に緊張の張りが出て来る。
獲物が敵から追い詰められた時にその緊張から来る研ぎ澄まされた状況の時に
一番美しさが滲み出て来る。
この文章に共感して心に火が付いた。
私の人生も子供の頃に描いた人生計画がアートそのものであるからである。
この不幸を幸福に持っていく道筋を素敵な物語にするために時間を費やした。
哀しければ悲しいほどに物語はドラマチックになった。
転校先でいじめられた時にも、高校で担任の教師と喧嘩した時にも、
工業高校から外大に入った時にも、工事現場で働いて英国へ行った時にも、
帰国して一流のレコード会社へ入った時にも、プロデューサーとして活躍した時にも、
自分の物語が完成していくのを興奮して見守った。
哀しいというのはどういうことなのだろうか?
苦しいとはどういうことなのだろうか?
嬉しいというのはどういうことなのだろうか?
楽になるとはどういうことなのだろうか?
人は心の中のスイッチを切り替えることだけで、気持ちが切り替わり
価値観が切り替わり、幸福のイメージを作り変えることが出来る。
まるでキャンバスに向かって絵筆を振るい、色を塗ることにより、
景色全体がカラフルになり、悲しいことが嬉しいことに、切ないことが喜びに、
辛いことが幸福に生まれ変わらせることが出来るのである。
音楽プロデューサーは目の前の現象をアートのようにとらえて作品作りをする。
失恋した状況を悲しいと表現するのではなく、希望の第一歩として明るく表現
することもしなければならない。人の気づきは一瞬のメロディーでも、
一つの言葉でも刺激を受けて覚醒するのです。
それぞれの多種多様な精神世界を描き出すことによりヒット作品が生まれるのです。
あなたの今の人生を塗り替えることが出来るのはあなたしかいないのです。
他人の描く期待に一切応える必要は無いのです。
人生をアートで捉えると心に翼が生えたように自由になれるのです。
私は今もなお人生計画の続編を書き続けています。
10月 20th,2024
恩学 |
幸福のアート はコメントを受け付けていません
以前友人から頂いた本に心を奪われた。
「法華経の新しい解釈」庭野日敬著作
仏教にそれほど強い関心があった訳ではないが何度も読み返した。
私が少し理屈ぽいのは他人が読まない本に関心を寄せるからである。
よくこのような物語で仏教の世界を描けるということに驚くばかりです。
各宗派によってもニュアンスは変わるがほぼ同じである。
根本は仏陀いわゆるお釈迦さまの言葉から発せられたという。
そこに側近の弟子の解釈が加わり宗派が枝分かれをしていく。
しかしどの宗派も人を救う為の救済の書であることには間違いない。
ここに抜粋した文章を現代に置き換えて新解釈をしてみたい。
西洋の哲学書を読むよりは日本人には理解しやすいと思う。
「信解品」
幼い頃父の家を出て、五十年も諸国を放浪している貧しい男がいた。
父は、一人しかいない幼い子を探し続けたものの、どうしても見つからず、
自分もある町にとどまり、成功して大きな財産を築いていた。
そんなある日、貧乏のどん底にあえぐその男が、父の屋敷とも知らず、
雇ってもらおうと門の前まできたものの、あまりの豪華さに圧倒されて、
走り去る。父は、「息子にちがいない」と思いその男を屋敷へつれてこさせた。
使用人を使って「便所やドブの掃除を一緒にやらないか」ともちかけて、
安心して働かせ、息子を観察しずける。
二十年も働いていると、男は本来の素直な心を取り戻してきた。
父は、病気になると、蔵の管理を息子にまかせ、臨終が近づくと、
親戚一同を集め、初めて、父子の名乗りをあげ、全財産を息子にゆずり
渡すのである。大長者の父は仏であり放浪する息子は衆生なのだ。
息子は自分が仏の子であり、仏性をそなえていることを知らずにさまよい
歩いている衆生を、仏は、その卑屈な心を自然に温かく導いて、
自己の本質に目覚めさせ、その尊さに気づかさせるのである。
「信解品」の魅力は実に大きい。
困っている時にこそ手をさしのべるのが慈悲なのだ。
人々は、人生の大切な時間を、やたらと自分の欲望のままに、
無意味なことに消費していないだろうか。と記されています。
「三車火宅」
この比喩は、父親が留守の間に邸宅が火事になるという話です。
父の大邸宅が燃えているのに子供達はその中で遊んでいる。
その子供達とは我々無明に悩む衆生で、大邸宅は娑婆の世界なのです。
この比喩は火宅の中に居ながら、それに気づかぬばかりか、
そこにしがみついて苦しんでいる衆生の姿をリアルに描いている。
火宅の中で貪・瞋・痴の炎を燃やして遊んでいるのが、
世間の人々のことなのだと、釈尊が教えているのを知ることが出来る。
火宅の衆生は皆世間の欲心に惑わされて、つまらない事に執着し、
自分で自分の人生を苦しいものにしまっているのです。
「諸苦の所因は貪欲これ本(もと)なり」なのです。
衆生は欲望を追い求めて、執着する心が深いので、「仏の知恵」を
聴こうとしない。そういう人々に心の平安はない。
釈尊は衆生の苦しみを少しでも取り除いて、平安な人生を生きるようにと
願って下さっているのです。
人生の過ごし方は色々な生き方があると思う。苦しみばかりの人生だと
言って、自分の運命を恨んでみても、何も変わりはしない。
恨みにとらわれていては、心が狭くなり、ゆがんでしまう。
今の人生がどん底ならば、そこから人間として正しく生きる道へ
はいあがり、それをひたすら実践していくことです。
釈迦は四諦の法を説き十二因縁さらに八正道の実践を説いたのです。
そうすれば必ず苦を乗り越えた境地に達することが出来るのだ。
と言っています。
八正道とは、真理に即した八つの正しい道
「正見・正思・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」の事です。
「真実」と「事実」の意図。「事実」とは、「事柄」です。
花が咲いたり鳥が鳴いたりする目前の現象、事柄のことです。
「真実」とは、世間の通念では、嘘でない本当のことですが、
仏教用語では、さらに「真理がありのままに、隠すことなく事実に
あらわれている」と言う深い意味になります。
「真実とは、事実の奥にひそむ真理」となります。
リンゴが地に落ちる現象は、誰の目にも見える「事実」です。
この事実の奥に万有引力の法則(真理)がひそんでいると理解するのが
「事実」を知る一例です。事実は目に見えても、心理は目に見えません。
しかし、詩的な心をもってすれば、目に見えるリンゴの落下に、
目に見えない引力を見ると表現できましょう。
我々人間にこのようなことが理解できる能力が備わっていることに
感謝するのみです。我々は常に仏の加護の元に生きているのです。
私も今は何もわからずに経本の文字を追い続けるだけです。
そしていつか「朝露の道を歩けば知らずとも衣濡れる」のように
深く真理が身につくと願うばかりです。
10月 20th,2024
恩学 |
衆生とは人間とは はコメントを受け付けていません
2024年8月12日私が敬愛する知の巨人松岡正剛氏が逝去した。
友人から紹介されて一度お会いしたことがある。
たしかその時は工作舎で発行していた「游」の編集長だったと記憶している。
あらゆることに精通していて継承したままを伝えるのではなく、
自分の意見も取り混ぜて話されたことに驚かされた。
松岡氏に会うまでは知の師匠として敬愛していたのは、丸山眞男・小林秀雄・
山本七平などであるが特に山本氏の出版物は数えきれないほど読んだ。
特に日本の歴史と日本人の考え方とあるべき姿を卓越した文書から学んだ。
学生時代は金がなくアルバイトばかりの生活だったので
真剣に読書をしたことが無い。それならば文字に縁遠い仕事は何かと
考えた末にたどり着いたのが音楽の世界だったのです。
しかし、プロデューサーとして多方面から文章を求められて本を読み始めた。
本屋の店先に置かれた山積みになった最新本は毎月読み漁った。
海外のファッション誌も取り寄せていた。
イタリアの「ルオーモ」フランスの「ヴォーグ」などです。
私が思う良書とは深い洞察力と未来予測と作家の思いが明確に書かれた本である。
そして一流の作家(研究者)は詩人の様に短い言葉で時代を表現できる。
その上に人々を引き寄せる吸引力がすさまじいほどある方が多い。
丸山眞男、小林秀雄、山本七平などは読むたびに引き込まれた。
70年代後半から80年代にコピーライターという専門の職業が生まれた。
アーティストのキャッチコピーやバイオグラフィーでも大いに参考になった。
糸井重里や仲畑貴志がブームの火付け役だった。彼らが紡ぎだす言葉は
若者たちのこころの代弁を簡潔に短い文字で表したのです。
時代が変わり私たちが夜通し覚えた知識がAIの登場によって役に立たなくなっている。
本棚を探らなくてもChatGPTやGeminiを使えば瞬時にして文章が出て来る。
文字離れも甚だしいが難解な哲学書を読み解く面白さを味わって欲しい。
過去の経験で言うとハイデガー「存在と時間」と森信三「恩の形而上学」や
道元「正法眼蔵隋文記」などである。
その独特の文体と用語の難しさに頭脳が翻弄させられた。
しかし難攻不落な文章を頭の体操として度々読み返している。
まだどの本も完全理解には至っていない。
「美学・文学・哲学」
なぜ、これら人文知の価値を、日本人のほとんどが忘れてしまったのでしょうか?
論理的であることや合理的であることがもてはやされ、
ロジックで詰めたり論破したりするようなあり方が、
さもビジネスパーソンとして、大人としてあるべき姿で
あるかのように言われています。
確かに、論理的な話や科学的な話をしていなければ、納得されず、
バカにされ、変わった人扱いされてしまう風潮も一部にはあります。
しかしながら、「答えのない時代」と言われて久しいこの社会で、
論理性や科学的知識だけでは限界があると直感している人たちも
少なくありません。
では、そのような感性を持った方が最終的に行き着くものは何か?
それが「詩」です。
アリストテレス曰く!
「詩は歴史よりも優れ、またより哲学的である。何となれば、
詩は普遍を表現するが、歴史は特定をのみ表現するからである」
また、ウィリアム・ワーズワース曰く!
「詩は、あらゆる知の始まりであり終わりである」
そして、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン曰く!
「そもそも哲学は詩のように語ることしかできない」
昔から「詩」はあらゆる知の上澄みとして知られていました。
・なぜ、詩は特別視されてきたのか?
・人生の答えを教えてくれる詩とは、どのような詩なのか?
・科学全盛の時代にあってなお解き明かせない世界の本質を、
詩を通して受け取れる理由とは?
詩を通して真の美について考えることで見えてくるものがあります。
その思考の上澄みを掬うような思考空間に興味はありませんか?
「物質的には豊かになったけれど、心は貧しくなってしまった」
昔から言われていることではありますが、これはある意味で
現代日本人のありようを捉えている指摘であり、耳を傾けるべき言葉です。
(東京美学俱楽部より)
東京美学倶楽部が普及に務める知的体験とは、答えのない問いに向き合うこと。
それは分断や対立を乗り越えた先の普遍的な美の可能性を信じ、
その在り処へと思考をめぐらせること。
嘘偽りのない純粋な言葉を志向すること。
今はまだつかみどころのない内容に思えるかもしれませんが、
唯一無二のたおやかな体験となることはお約束いたします。
私も時間を見つけて「東京美学倶楽部」が普及に務める知的体験に
参加したいと思います。
もう一度本質を学び直したいと思います。
思考の行きつく先は「人間」にたどり着くと思います。
壮大なテーマ「人間」とは何か?興味が尽きません。
10月 16th,2024
恩学 |
全てを語る詩とは はコメントを受け付けていません
毎日、今日のことばかり考えているとただ予定をこなすだけになる。
朝起きて食事して学校行くか働きに出るかどちらかだ。
決められた宿題か指示された作業をこなして1日がすぎていく。
帰りに友達と息抜きにお酒を飲んで騒いでも何かスッキリしない。
そして部屋に戻りNetflixを見てシャワーを浴びて眠るだけ。
本来ならば1日が貴重で必ず無駄な時間を過ごさないように気をつける。
今日は明日の前日と思えば自分で毎夜反省会をするようになる。
自己啓発の本を片手にカレンダーに赤丸をつける。
今日は明日につながる有意義な1日として過ごすことができたかだろうか?
今日は健康に良いものを口にしただろうか?
今日は朝日を浴びて運動をして体力を鍛えただろうか?
今日は対人関係を円滑に行う為の勉強はしたのだろうか?
今日は人として生きるための本を読んだのだろうか?
若者は失敗や人間関係に悩みながら精神的ダメージを受けて立ち止まる。
酷い時には1週間ぐらい何も手がつけられなくなる。
色々なアドバイスやメンタルアップする本を何冊も読んだけど効果はない。
場所を変えれば気分が変わると言われて旅にも出たが効果はなかった。
それじゃダイエットなど気にせずに食べたいものを食べ続けて醜くなった。
どんなやり方も何も解決方法にはならなかった。
私は悩む時には徹底的に悩み続けてその原因を探った。
そうしなければ同じことで悩み続けることになるからである。
結局原因はいつも自分の中にあり他人が作ってはいなかったことが分かった。
自分の心持ち一つで陰から陽に下から上に変わることを学んだ。
悩みの解決は思考だけに頼っては駄目で悩みを紙に書き続けると
答えが見えてくる。観察して、分析して、判断して、何を行動すれば良いかを
紙に書き出す。そして実行表を作る。
メンターと言われる人は必ず自分らしさ、ありのままの自分、
素直な自分と言うけれど、それを言われても何が自分なのかわからない。
自己分析などしたことがないからね。
単純に血液型と生年月日でタイプを決められるのは不愉快だよね。
最も自分らしさが現れるのは我儘な時の自分かもしれません。
好き嫌いを言っている時が一番自分らしいかも知れない。
「恐怖は自分で作っている」
受験失敗したらどうしょう?面接でとちったらどうしょう?
大事なお客様との商談で不手際があったらどうしょう?
これ考えたら怖いよね。
一つ言えるのは、緊張は許せるけれど恐怖は許せないよね。
緊張は意識を高める為には必要なもので身体全体をドーパーミンが包み込み
挑戦モードにしてくれます。しかし恐怖は逆に身体全体をアドレナリンが出て
萎縮させて逃げるモードになってしまいます。
恐怖を緊張に置き換える方法としては又平常心に戻す方法としては
幾つかの方法があります。手のひらに人と書いて飲み込んでも駄目ですよ。
先ず苦手意識を克服する為に以下のようにしてください。
何気なく音楽を聞いているときは、メインボーカルの声や主旋律だけが
聞こえているのではないでしょうか。耳を澄ませて、さまざまな楽器の音に
意識を向けてみましょう。例えば、最初はギターの旋律だけを追いかけ、
2番目にベース、3番目にドラム、4番目にボーカルというように、
時間をかけて順番に注意(意識)を変えていきます。
その後、もう一度全体を聞いてみると、集中して聞いていた音が全体の中の
一部でしかなかったことに気づいたり、客観的に全体を把握する感覚が
得やすくなったりします。これによって、さまざまなところに柔軟に注意を
向けるスキルが身につきます。
このように、日頃から自分以外の物事に集中する練習をしておくと、
全体を俯瞰で捉えて細かく意識を区切ることが出来るようになります。
緊張しやすい場面でも、注意を向ける先をコントロールできるのです。
心や体が張り詰めた状態である緊張には自律神経のバランスがかかわっています。
普段は交感神経と副交感神経が適度なバランスで働いていますが、
不安を感じると交感神経が優位になり、筋肉が緊張して震えたり、顔が赤くなったり、
心臓がドキドキしたり、汗をかいたりと、身体に反応が表れます。
個人差はありますが、どんな人でも不安を感じることはありますし、
まったく緊張していないように見える人でも手に汗をかいていたり
するものです。
そもそも、不安は生物として必要な感情です。不安や恐怖による警戒心と
うまく付き合ってきたからこそ、人類は長く生き延びてこられたといわれて
います。また、ほどよい緊張感が必要な場面もあります。
例えば、アスリートは適度な緊張感があったほうが良い結果につながると
いわれます。不安や緊張は必ずしも悪いものではないのです。
緊張と上手に付き合う方法の一つは、緊張を極端に隠そうとしないことです。
緊張することはごく普通の反応なので、「緊張してはいけない」
「絶対に隠し通さなければならない」と思う必要はありません。
「緊張していることがばれてもいい、相手にわかってしまってもいい」と
思えるようになると、不安は和らいでいきます。
「人前で話すのって緊張しますよね」などと、不安な気持ちを自分から相手に
素直に伝えてみると、かえって初々しさや真面目さを感じてもらえて、
好印象を持ってもらえる場合もあります。
また、周りから自分がどう見えているのかという自意識が過剰になると、
誰でも不安になり、緊張してしまうものです。
緊張しやすい人は特に、不安や緊張を隠そうと自分の体の反応やイメージに
注意を向けすぎてしまいがちですが、自分のことばかりを意識するのではなく、
他の物事に意識を向けることで、不安や緊張を和らげることができます。
今日は明日の前日です。
貴重な一日を無駄なく過ごすのは自分を知ることです。
自分の器を知ることがポイントになります。
大きく見せようとか!かっこよく見せようとか!頭のいい人に見せようとか!
考える必要はありません。自分は自分です。
出来ることを精いっぱいやればよいのです。
10月 15th,2024
恩学 |
今日は明日の前日 はコメントを受け付けていません
私の哲学の師匠から聞いた話です。
ドイツの哲学者カールヤスパースが弥勒菩薩を見て「こんなに美しい仏様は
よほど悪いことをなさったのに違いない」と言われたのです。
この言葉を聞いた時に「美は悪を取り除いたところに存在する」という
自分なりの解釈に到りました。
その後がカールヤスパースを調べていくと友人に哲学界の巨人ハイデガーが居た。
あの難解な哲学書「存在と時間」の作者である。
彼の講義を聞くと誰しもが魅入るような素晴らしい内容であったと言う。
しかしハイデガーは悪い男でも有名で学部長争いの時ライバルをナチス軍に通報して
収容所送りにしたり、自分のお気に入りの女生徒を無理矢理娶ってしまった。
その哲学者ハイデガーと日本の禅研究家鈴木大拙は友人同士であった。
(鈴木大拙(だいせつ、1870〜1966)とは、禅をはじめとする仏教、広くは東洋・
日本の文化や思想を海外に伝えたことで知られる。本名は鈴木貞太郎だが、
居士号の大拙「Daisetz」の「D」、貞太郎「Teitaro」の「T」をとった英文表記
「D. T. Suzuk」の方が、ZENに関心を抱く欧米人にとってはなじみがあるだろう。)
大拙の盟友である哲学者・西田幾多郎(1870〜1945)の高弟・西谷啓治(
1900〜1990)は次のように語っている。「(大拙)先生の仕事は仏教、特に禅を
伝えることに中心があったわけだが、これは考えてみると、禅に通じていて、
同時に語学力があるという人なら、誰でもできるという種類のものでない。
この仕事が本当にできるためには、禅の長い伝統の中に深く根をおろしている
ことはもちろん、同時に、それが現代に生きている人間の血肉になり、
現代世界のものとしてつかみ直されることが必要であろう」。これは、
大拙の仕事が単なる禅籍の英訳または禅語の英語解説ではないことを示している。
余談であるがハイデガーも大拙もどちらも身長が156cmほどの背丈の低い
男たちであった。当時の二人の写真を見る前までは、ハイデガーはナチスの
軍服が似合う男だったという記述を読んで勝手に大男と勘違いをしていた。
大拙も文章を読む限りでは大男を想像していた。認識と事実の違いです。
その後友人から頂いた「法華経の新しい解釈」という本の中に「求名」という
坊さんの話が出て来た。名誉や利益に心が引っかかりお経を読んでも本当の意味が
分からずよく忘れてしまうので求名と名がつけられた。
しかし彼は、自分の欠点を素直に認めて改心して悟りを開くことができた。
そして妙光菩薩から弥勒菩薩よ!それはあなたの前の世の姿だったのですと言われた。
ぐうたら駄目坊主の「求名」を経て仏の最高位の弥勒菩薩になられたのです。
哲学の師匠から聞いたあの弥勒菩薩のエピソードを繋ぎ合わせると素敵な物語が
出来ました。これは私のオリジナルの発想であり公的なものではありません。
このようにして思考の循環を繰り返す訓練が必要だと思います。
何かに興味を惹かれたら疑問を持つことです。
その疑問の答えをつなぎ合わせて、その上に様々な思考を巡り合わせて
本質を探る訓練です。知識に対する好奇心を養ってください。
それを文章にするために気になる部分を抜き出して
自分なりの文章を作ってみてください。
私なりに良く使う文章の作り方を教えます。
ビジネス提案型の方法ですが、短い文章で簡潔にまとめることが出来ます。
「PREP」PREP法は、最初に話の結論を述べる構成方法です。
次の4つのパートに分けて展開していきます。
Point(結論):結論は○○です
Reason(理由):なぜなら○○だからです。
Example(具体例):たとえば○○があります。
Point(結論):したがって○○です。
例文
P:このビジネス書の魅力は、図解が多く短時間で理解できることです。
R:なぜなら、文章による説明だけでは体系的に理解するのが難しいからです。
E:具体的にいうと、各項目の冒頭に図解があり、これを文章で説明していく
流れで構成されています。
P:したがって、忙しいビジネスパーソンでも、短時間で要点を体系的に学べる本です。
PREP法には、「要点がすぐに伝わる」「文章に説得力が生まれる」というメリットが
あります。プレゼンのように、限られた時間内で相手の納得感を得たい場面でも
多く使われています。
PREP法が適しているのは、次のような文章です。
ブログ記事(ノウハウ・知識系の記事など)
ビジネス文書
プレゼン資料
Web記事の場合、ユーザーが知りたい結論が最初に書かれていないと、
すぐにページ離脱されてしまう傾向があります。
PREP法は冒頭で何について話すか明示するため読者の離脱を防ぐ効果もあります。
そして文章にとって最も大切なことは起承転結です。
起承転結の構成とは、物事の始まりから終わりまでを順に説明していく方法です。
次の4つのパートで構成されます。
1. 起:物事の前提を説明(導入部分)
2. 承:物事の始まり・何が起きたか
3. 転:物事が転換する事柄や場面
4. 結:結果、どうなったのか
起承転結の構成にするメリットは、ストーリーとしての面白さで読者を惹きつけ、
共感を得られる点にあります。
起承転結の構成が適しているのは、次のような文章です。
• インタビュー記事
• ブランドストーリー
• 企業ストーリー
起承転結の構成は、読者のイメージや感情に訴える力があるため、人や商品、
企業などのブランディングを進めたいときに有効な方法です。
一方で、ブログ記事やビジネスシーンでは結論を最初に示してほしいという
ニーズが高いため、この書き方は適していません。
文章の目的によって、使い分けるようにしましょう。
単に思考の循環を繰り返すのではなく文章にまとめることが重要です。
私も文章を作るのが苦手でしたがブログ「恩学」を500以上作品に
書き上げることが出来たのはPREPのお陰です。
皆様も試してみては如何でしょうか?
思考の循環を繰り返しながら自分なりの文章にまとめてみてください。
10月 14th,2024
恩学 |
思考の循環 はコメントを受け付けていません
詩人茨城のり子に接したのはいつの頃だか忘れてしまった。
しかし妙に惹かれるものがあり幾度となくページをめくった。
21世紀に入ってデジタル社会になり、アナログ的な感情をどこかに
置き忘れたのか、何もかもが効率重視になり、人間らしさが失われてしまった。
仕事も恋愛も人生までもマニュアル化したテキストどおりに行動するのが
正しいとされてきた。
我々世代は会議資料にアルファベットとカタカナが多用されると
小馬鹿にされているようで腹立たしかった。日本人なら漢字を使えです。
昨今、詩人の言葉はなぜ色褪せてしまったのだろうか?
学生時代に読んだゲーテ、ハイネ、北原白秋、中原中也、荻原朔太郎、宮沢賢治、
社会へ出てから読んだ谷川俊太郎、寺山修司、早川義男などである。
大人になると青春時代に狂ったように読み耽った詩集が心ときめかなくなるのは、
社会の理不尽さを知ってしまったからなのか?
置かれた立場によって言葉の重さが変化することに気づいた。
詩人は哲学者と違い短い言葉で真理を表現する。
俗人とは違う目で、感性で本質をえぐり取る。
言葉の刃先を社会へ向ける。
それを自分の感性と合わせて理解する。
友人から茨城のり子という詩人がいます。
読んでみたらどうですかと二冊頂いた。
私は正直言って少し苦手な詩人でした。
口うるさい老婦の愚痴のようで言葉がきれいでないからです。
しかし徐々に慣れてくると何度も読み返しているのです。
この詩を紹介したいと思います。
「自分の感受性ぐらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
詩集「自分の感受性ぐらい」(茨木のり子)
私の仕事は言葉をメロディーに乗せて楽曲として完成させることである。
昔ターゲットたちの生の言葉を探して学生街の喫茶店に入り浸った。
女子学生が小声で話すときには決まって異性の話である。
たわいもない会話の中にも光る音葉が時折あるものです。
男子学生が大声で話すときにはクラブ活動の話か飯の話である。
果てない夢を語りながら一杯のコーヒーで長居するのが常でした。
勿論、時代が変わり若者たちは推し活関係の話で盛り上がる。
少女たちが店に入りバッグを開けてパステルカラーの小物を取り出した。
そして好きなタレントの写真やキャラクターグッズをアクリルスタンドに並べて
話しかけながら自撮りをする。一人の世界に入り込んで悦になっている。
だからほとんど会話がないのである。
男子たちは昔の女子がそうであったように小声で会話をする。
皆一様に背が高く眉毛をそろえていて韓流ドラマの役者のようである。
最新ゲームの攻略法や携帯の裏技で盛り上がる。
ネット上で繰り広げられる危険な会話にも耳を傾ける。
昔の男子学生は国の行く末を熱く語り合っていた。
校内にも腰にタオルを下げて大股で歩く硬派の若者は見なくなった。
彼らは「君たちはそれでいいのか」を常套句に会話は盛り上がる。
仲間と喜怒哀楽を共有していつも泣いたり笑ったりしていた。
デカルト・カント・ショウペンハウエルを合言葉に「デカンショ」を歌った。
現代の若者はある意味で心がパサパサになった経験がないのである。
失意のどん底に落ち込んで何もかも奪われた経験が無いと
心がパサパサにはならないのである。
「大恋愛」、最近ではこの言葉も死語になっているのかもしれないが、
狂う程の恋を経験していないとパサパサ感は分からない。
倉田百三「愛と認識との出発」のような苦しみは分からないのである。
恋愛はときめく心から入り肉体関係に至るまでに相当な時間がかかった。
現代の若者には考えられないのである。
これは男だけの問題だけではなく女も性に関しては無防備になったからである。
好きな相手を口説き落とすまでに詩が生まれて文学が発達してきた。
恋が成就できない場合は駆け落ちをして二人で死を選ぶこともあった。
これに演出家達が音楽を添えて台詞を入れた。
有名な「ロメオとジュリエット」の作者シェークスピアなどは
演劇を通じて愛の悲哀を表した代表格である。
日本では「好色一代男」江戸時代の井原西鶴も同じような存在であった。
私が日本レコード大賞作詞大賞を受賞した曲「涙のジャスミンLOVE」は
(検索するとT2とでてきます、これはもう一人のTと言う意味です)
歌手河合その子の不思議な魅力を歌で表すのであれば物語を作ることだと考え、
香港を舞台にした映画「慕情」をモチーフにしたのです。
河合その子の独特の歌唱法が受けて大ヒットになりました。
最近読書離れが進んで映画離れも多いと聞いています。
本の中の行間を読み、想像することが人々をどれだけ豊かにできるか。
又、良質な映画の中から空気感を読み、感情の機微はどのようにして起こるか。
自分の感受性ぐらい自分で育てるべきです。
何もかにも便利で安価を求めるのではなく、少し時間を取って図書館に出かけ、
映画館へ出向き読書と映画鑑賞に時間を割いてください。
秋の夜長ですよ。芸術の秋ですよ。こころを少し湿らせてみてはいかがですか?
10月 14th,2024
恩学 |
自分の感受性ぐらい はコメントを受け付けていません