日本人の教養




私達の、この国日本は、江戸時代から明治にかけて
教育熱心な人物が多数排出されています。
熊沢蕃山、横井小楠、吉田松陰、山本常朝、福沢諭吉、新渡戸稲造、
岡倉天心、内村鑑三など枚挙にいとまないほどです。

その中でも商人から私学塾を開いた石田梅岩には頭が下がります。

商売人の心得から田舎から出てきた人の悩み事を解決する
「都鄙問答」という素晴らしい本を書いています。

梅岩は農家の次男坊だったために、京都の呉服商に約20年間奉公しました。
梅岩は正式な学問を収めたわけではありませんが、奉公の経験と市井の隠者
小栗了雲との出会いから思想を深めていったのです。

石門心学とは江戸時代に石田梅岩(1685年~1744年)が
開いた庶民の為の生活哲学です。
梅岩は、儒教・仏教・神道に基づいた道徳を、独自の形で、
そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で溶きました。
その為に、「町人の哲学」とも呼ばれています。

梅岩は享保14年に、京都の御池上る東側の自宅で講義を始めました。
そこで彼は一切聴講料をとらず、また紹介者も必要としないだれでも
自由に聴講できるスタイルを取りました。
初めのうちは聴衆も数人という状況でしたが、出張講釈などを続けることで
次第に評判は高まっていきました。

梅岩が独自の学問・思想を創造したのも商人の精神的苦境を救うためでした。
士農工商という現実社会の秩序を肯定し、それを人間の上下ではなく
単なる職業区分ととらえるなど、儒教思想を取り込むのような形で
庶民に説いていました。倹約や正直、堪忍といった主な梅岩の教えも、
それまでの儒教倫理を基本としたものでした。

梅岩の学問は、おおむね独学ですが四書五経や仏教・神道書など
幅広く学んだようです。呉服屋の番頭をやりながら人付き合いもほとんどなく
勉強に明け暮れたようです。

そしてもう一人紹介する武士の大志願を訴えた横井小楠です。
文化6年(1809年)8月13日、肥後国(現在の熊本県)
熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士、横井時直の次男として
誕生しました。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していたと言われています。

横井小楠は鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わる新しい国家と社会の
構想を、公共と交易の立場から模索しました。この公共性・公共圏を
実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を、
政治運営のもっとも重要な行動として重視しています。

横井小楠は、この実現のために、幕府や藩を統一した国家の必要性を説きます。
彼の体系的な国家論の文章として、「国是三論」があります。
また、学問と政治の関連を論じた「学校問答集」、ペリーやプチャーチンへの
対応についての意見書である。

明治維新の立役者坂本龍馬と横井小楠の初めての出会いは、「春嶽手記」に
松平春嶽の書いた紹介状を持って、坂本龍馬が小楠に面会をしたとのことです。
坂本龍馬は勝海舟を訪れて世界情勢を詳しく聞かされて感動し
弟子になったと言われています。

時代を動かした二人の武士は学問にたけて
教育者に相当する影響力を持っていました。
憂国の士が国を変えなければ日本が滅ぶことを懸念していたのです。

しかし横井小楠は61歳の時に暴徒の誤解によって暗殺されてしまいます。
坂本龍馬も33歳の時に京都の近江屋で暗殺されてしまいました。

令和6年11月1日に思うことは、
何故、日本から今の時代に素晴らしい教育者及びリーダーが生まれて来ないのか。
混沌とした世界情勢を乗り越えるだけの気力と建国の志をもった
不屈な教育者とリーダーが必要である。
国内だけでなく世界中が日本の強いリーダーを求めてやまない。

私の推薦書(日本人の英知)
武士の心得を書いた「葉隠」山本常朝
藩政の建直しを書いた「日暮硯」恩田木工
人としての修養書「言志四録」佐藤一斎
15歳の決心・26歳の時に斬首「啓発録」橋本佐内
世界へ日本人の精神を英語で紹介した「武士道」新渡戸稲造
世界へお茶の世界を英語で紹介した「茶の本」岡倉天心
世界へ禅の基本的な心得を英語で紹介した「禅による生活」鈴木大拙
五人の教育者を紹介した「代表的日本人」内村鑑三

若者が20代までに読んで欲しい本です。
私にはこのような本を推薦してくれる人が居ませんでした。
二度目の人生最大の山場を迎いれたときに(60歳)で読み漁った本です。

サムエル・ウルマンの詩「青春」に書かれている一説です。
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる」

良書に親しむことは尊敬する師を迎い入れると同じです。
日本人の教養から日本を学びましょう。