超人的人間




私の友人、医師の長岡美妃先生は私の感性に近い。
言葉の選び方が同じ高さにある。
彼女の比喩する言葉がいつも同じポイントを見ていると感じる。
彼女は哲学の勉強会令和哲学の中心人物です

今回のテーマの中でこの二人を例題として持って来たのは見事である。
大人たちはよく知っているニーチェと山中鹿之助である。

ニーチェが好きだ。
彼の発する一言・一言がたまらなく好きだ。「神は死んだ!」「超人たれ!」
「アモール・ファティ」
しかし彼は最期の10年間を狂人として精神病院の中で過ごした・・・
彼は発狂する直前、鞭に打たれる馬の首を抱いて慟哭した。
当時の人々の生きる基準軸であった「神」を殺し新しい基準軸「超人」を
打ち立てたが、人間は環境の鞭によって打たれる脆弱な存在であることを
見抜いていなかった。鞭打たれる馬と人間(ニーチェ自身)が重なった。。。
己の哲学、己が吐いた言葉によって己の神経が焼け焦げてしまった。

そんな話を聞いていた時、私の意識をノックして来た者がいた。
その者は戦国武将の山中鹿之介であった。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に尼子家再興を
祈願した彼。
「我が身を救いたまえ」と神に祈る姿とは対照的なサムライの姿は、
ニーチェがいう「超人」であった。
超人・・・どんな運命であれ、その現実を直視し自分の運命を主体的
能動的に愛する人。

ニーチェは知らなかった。どうしたら軟弱な人間が超人に変容
することができるのか、を。彼に鹿之介の姿を見せてあげたかった。。。
ではなぜ、サムライは超人になることができたのか?
サムライは体が人間だとは思っていない。己のポジションを全うする
「義」そのものが人間の在り方だと思っている。彼らの脳裏には主語がない。
ポジション全う機能として己を捉えているのだ。

「自分」を握りしめた人間ほど弱いものはない。
「自分」とは宇宙一最弱な存在なのだから。
だから武士道は言う、武士道とは死ぬこととみつけたり。

日本には神武天皇よりの建国の初心がある。それは養正。
「人類を正しい方向に導く(養う)国であろう」だ。
武士道は真剣勝負の鍛錬の中、「自分」という概念を手放した。
しかしそれは日本だからこそ可能だったと言える。だから今、
自然と手放せるようになる心教育nTechが
世界にサムライの心を教えにいこうとする。

西洋のニーチェと日本のサムライが出会う、、、
一元の世界はもうすぐ近くまで来ている。そう感じる。

彼女の知性はnTechから来ている。
私は高額な授業料が払えず断念したが、ノジエスに心酔している
長岡美妃先生には敬意を表している。

時代は今本音で語る時期である。
職業や立場を抜きにして語らなければこの国が消滅してしまう。
国家再興のお手本になる大人がいなくては子供達が可哀想だ。

ここで私は山本七平の言葉を思い出す。
道徳は一国の首相を辞職に追い込むほど強力で、これからみても、
そういった規範は明らかに存在するのですから、それがどういう規範かを教えて
おかなければ、その子供が社会に出てから非常に困ると思います。

従って“現実社会には、こういう規範があります”という事実は、
一つの知識乃至は常識として、系統的に教えておく義務が教師にはあるでしょう。
そうでなければ子供がかわいそうです。」

そこでしめられていた言葉が「日本の道徳は差別の道徳であるという、
現実の説明からはじめられればよいと思います」。
これは有名な「空気の研究」の冒頭に書かれていた言葉です。
きれいごとの建前の道徳ではなく、本音の道徳を教えなければ世相の空気に
流されてしまう恐れがあるという事です。

自民党の裏金問題も悪いことだと分かっていても、先輩議員も同僚議員も
みんなやっているから断るわけにはいかなかったと、その場の空気に
押し流されて集団犯罪が行われてきたのです。
その悪の集団自民党に投票する人がまだ大勢いることに失望を感じる。

我々の周りでも似たようなケースが多々あります。
社会生活の様々な場面で威圧的で理論武装した上司には逆らえずに
理不尽な指示も受け入れてしまい鬱になった同僚。
簡単な友達付き合いでもリーダー格の人間から勝手に予定を組まれて
行きたくもない食事会へ行く羽目になる人。
飲めないお酒を無理やりに飲まされて急性アルコール中毒で病院へ運ばれる学生。
歌が苦手なのにカラオケをする羽目になる女子社員。

私は社会生活だから大人だから我慢するのだと言う周りの意見に反発した。
毎回そのような席を蹴ってその場から出ていった。
しかし首にはならなかった。仕事を二倍していたからです。

再度、この言葉を伝えます。
従って“現実社会には、こういう規範があります”という事実は、
一つの知識乃至は常識として、系統的に教えておく義務が教師にはあるでしょう。
そうでなければ子供がかわいそうです。」
そこでしめられていた言葉が「日本の道徳は差別の道徳であるという、
現実の説明からはじめられればよいと思います」。
これは有名な「空気の研究」の冒頭に書かれていた言葉です。

本音で語り合う時期です。
日本の現状を杞憂している愛国の士を集めて話し合う場を設けました。
対話集会「老人と孫」です。孫世代の子供を交えて真剣に話し合う場です。
まだ個人的な悩みが中心に会が進められていますが、来年度からは
政治的・経済的な問題から国際情勢まで議題に取り入れていこうと思います。

対話集会は無料です。皆様の参加をお待ちしています。
魂に火をつける機会を手に入れてください。