おおらか




皆様は「おおらか」という言葉をご存知ですか?
クヨクヨ小さなことには気にしないということです。
豪放磊落に生きながら細事にはこだわらない精神。
誰しもがおおらかな人生を歩みたいですよね。

おおらかの意味
「おおらか」とは、心がゆったりとしているさまをいいます。
こせこせしておらず、些細なことにも動じない。そんな雰囲気ですね。
この言葉は、基本的には人柄について述べるときに使われるもので、
男性、女性問わず用いられます。

おおらかな人の特徴「性格」
「おおらか」な人の性格的な特徴として、
まず思いつくのが「落ち着き」があることです。
些細なことには決して動じず、じっくりと事態を把握してから
行動に移します。

また、「おだやか」な性格の持ち主であるともいえます。
人前で激しく怒ったり、泣いたりという姿は見せません。
いつも柔和な笑顔が見られる、そんな印象ですね。

おおらかな人の特徴「行動」
「おおらか」な人は、人によって態度を変えたりしません。
どんな人ともいい関係を築くことができるので、「あの人は嫌い」
「あの子は苦手」というような選り好みもしません。

また、「おおらか」な人は許すことができる人ともいえます。
人のミスや失敗をにこやかに許し、落ち着いて適切な対処方法を
考えようとします。人のミスを自然にカバーできるという頼りになる
存在でもあります。

さらに、せかせかしていないというのも「おおらか」な人の行動の
特徴だといえます。本当は忙しいはずなのに、いつも余裕に
見えてしまうのが「おおらか」な人。真似したいですね。

おおらかな人の特徴「言動」
「おおらか」な人がよく使う言葉があります。
それは「ありがとう」と「いいよ」「大丈夫」の3つ。
「おおらか」な人は感謝上手。ちょっとしたことでも人に感謝することを
怠りません。「ありがとう」といわれて気を悪くする人はいませんよね。

そんな魔法のような言葉でもある「ありがとう」をたくさん発するからこそ、
「おおらか」な人は人に好かれるのかもしれません。

また、行動面の特徴でも述べたように、「おおらか」な人は人に対して寛容です。
相手のミスや失敗を責めることはせず、「いいよ、大丈夫だよ」と
次に取るべき行動を一緒になって考えてくれるのです。

禅語は漢字が連なり堅苦しい印象もあるかもしれませんが、
これほど含蓄に富んだものはありません。
日常のしがらみから抜け出して、いつもおおらかに、
明るく笑って過ごせるような、軽やかに生きるための
禅のことばをいくつか集めてみました。

「両忘」りょうぼう
私たちは日常生活の中で、生と死、喜と怒、哀と楽、好きと嫌い、
美と醜、善と悪、真と偽、そして幸と不幸など、対立する二つの
価値観の間で右往左往しています。
あれかこれかという決断を迫られ、どうしたらよいかの判断に
窮してしまうこともしばしばです。
これは生きていく中で避けられない事態だとも言えましょう。

しかし、この「両方忘れる」という禅語は、そうした対立的な
価値観へのこだわりを忘れ、二元的な思考を乗り越えるべきことを
教えたものです。白か黒か、自分の内か外か、というようなこだわりを捨て、
時には「どっちだっていいではないか」と大らかな気持ちになることによって、
清新な気持ちで物事を見つめ直すことができるかもしれません。

「知恩」ちおん
自分が今ここにあるのは他あってのことで、
一人では生きられないことを自覚し感謝する。
まずは両親あっての自分、囲りの人々、はては自分を
取りまく大自然全ての力あっての御蔭である。

たとえ食卓に一品の食事であっても、その食材の種を蒔き、育て、運び、
またそれを調理する者がいる。他からなされる恵み、慈しみの心を感じ取り、
常に感謝の気持ちを忘れてはならない。

「看脚下」きゃっかをみよ
人は他(人)と自分を比較し、その優劣をもって幸不幸の尺度とし、
自らの悩みの種とする。他と比較する必要はない。
足を地にしっかりつけた自己の確立こそが、
全てを凌駕することの源泉となる。
そのためには、自己追求を怠るな、ということである。

禅寺の玄関などに「看脚下」と書かれたものが、貼られている。
ぬいだ履物を揃えなさいということであるが、その語句の裏には、
修行僧ばかりではなく、あらゆる人達が真理、幸福を求めるに、
遠くばかり求めることを諫める意が籠められている。
真実、幸福は自分の中にあるからである。

私の「おおらか」は、生まれ持った性格ではなく
人生の経験から身に付いたものです。
沢山の失敗から学ぶことが多くありました。
その中で他人を恨むことなく自分の責任だと戒めたのです。
そうすることでくよくよすることが無くなりました。

いつも笑顔でいると自然にチャンスが巡ってきました。
反対にいらいらしてしかめっ面をしていると
チャンスは逃げて行ってしまうのです。
どんなに裏切り行為があっても、その人にはその人の事情が
あったのだろうと思うと怒りは無くなります。

辛い時には心身ともに健康でいられることを感謝していました。
空に向かって、太陽に向かって「ありがとう」を連呼するのです。
スーツと気分が落ち着き「おおらか」な気分になります。
解決できない悩みをいつまでも持ち続けても仕方ないですよ。
現実には未だ起こっていない不安を抱え込まないでください。

人間って少しぐらいは能天気な方が良いですよ。
女性の方は宇野千代さんや瀬戸内寂聴さんの本を参考にしてください。
なんとも気持ちが良くなるくらいにおおらかな人生をお過ごしになりました。

今日も一日おおらかに生きていきましょう。


人の処世術




今見える人をどの様に判断しますか?
容姿ですか?経歴ですか?仕事の実績ですか?
それとも自分にとって好意的か戦闘的かですか?
その人の才能や人間性は見た目だけでは分かりませんよね。
同じように自分も誰かに上辺だけを見られているのです。

森に生まれた人は森の全てを掌握しています。
海で生まれた人も海の全てを把握しています。
森や海で育った人は自然が相手ですから、人間の力で作為的に
変化させることはしてはいけないことを知っています。

また都会で生まれた人は情報の洪水の中にいます。
そこには真実は無く虚栄の社会が潜んでいるだけです。
早く自分なりの情報を取り込み、戦う準備をしなければなりません。
自分を知って自分の方向を決めるのです。

例えば目の前の混んでいる電車に乗るべきか一本遅らせるべきか
考えた時に、あなたは飛び乗りますか、それとも次の電車を待ちますか?
若い時の私は何がなんでも飛び乗りました。
少しでも早く到着場所に着きたいために無理に身体を車内へ押し込んでも、
乗り込むことをしていたのです。しかしここに心の余裕はありません。

団塊の世代は高度成長期の真っ只中で「我先に!」が合言葉でした。
人を押し除けてでも前に出ることが一番と勘違いをしていたのです。

人は自分本位の価値観で行動を決めます。
自分が正しいと思うので迷いはありません。
本来は他人と身体を触れ合うことも嫌うのに通勤だからといって我慢します。
確かにそれで日本はGNP第二位のランクまで上がり、人々の暮らしは
良くなったのですが、調子に乗り株やギャンブルに手を出して、破滅する人も
多くみられました。その上にバブルが弾けて一文無しになった人も大勢いました。

これと同じ様に人とのお付き合いも仕事だから仕方なく
承認するのが大人の行動だと考えて我慢をします。
しかしそれらの辛さを我慢するのが人生ではありません。
自分の成し遂げたいことを目標として生きるのが人生です。
浮かれた情報に惑わされて自分を見失わないようにしなければなりません。

以前のブログでもご紹介したのですが、
吊り橋の前で老婆がいて「危険な吊り橋を渡るのも、
少し遠回りして向こう岸に渡るのも自分で選びなさいと
問いかけられます」あなたはどちらを選ぶタイプですか?

人生で悩む時には必ず自分本位で決断を迫られます。
成功する人は必ず急ぐことでは無く良き答えを探します。
失敗する人はとりあえず急いで渡り切ろうとして結果を求めます。
その時の気分で決めるのでは無く
計画に沿った考え方で選ばなければなりません。

その為には時流を読むという力が必要になります。
季節も人もその時の時流を読まなければならないという事です。
時流とは、その時代の社会一般の風潮や思想の傾向を指します。
向こう岸へ渡るときには季節の変化も考慮しなければなります。

この様な禅語があります。

禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)という語がある。
 「本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)
お悟りを自負する弟子の厳陽尊者は、師匠である趙州和尚に尋ねた。
「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。
この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。
すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」。
弟子は納得のゆかず「一体何を?」。最後には「その、なにもないとの意識を
どこまでも担いで行け!」と一喝されてしまいます。 

とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、
苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、
自分で自分を苦しめてしまう私達。 満開の花びらが散り終わって葉桜となる
染井吉野に対し、山桜の一種「大山桜」がある。 

大ぶりな少し濃い桃色の花弁が開くと同時に滑滑(ぬめぬめ)とした
立派な葉がその存在感を際立たせて見事だ。 
新たな環境に踏み出したのには、必ずやむを得ない理由があり、
決して甘美な過去には戻れない。
しかし、その離別の最中、既に新たな環境に適合できる力を
私たちは内部に育んできているのだ。

それを信じて、まっさらな裸の心で、目の前の一つ一つの事柄に、
誠実に取り組んでゆくことで、必ず事態は切り開かれる。 
潔(いさぎよ)く次の季節に向かう自然の移ろいにじっくりと目を凝らし、
わたくしに内在する大いなる命の営みを感じ取る好時節でもあろうか。

先を急いだからといって人よりも早く幸福になるわけではありません。
その時期にはその時期の花しか咲かないのです。無理に急いでも桜は、
その季節にしか咲きません。あなたの人生にとって花開くときは必ず来るのです。
慌てても無理なものは無理なのです。
凡人の欲も執着もかなぐり捨てて「無一物」になる事が必要です。

若き人が順調な時に「無一物」といわれてもピンときません。
自分が選ばれし人間だと過信する心が無謀な選択をするのです。
残念ですが「悟り人は教義に学び凡人は経験に学ぶ」ことしかできません。
その為に苦労が襲い掛かる危険な道を選んでしまうのです。

お気を付けて人生の選択をしてください。


井戸の中のロバ




「災い転じて福となす」という言葉があります。
災難だと思っていたことが後に好転して福(幸福)を成すことです。
手に入れたいと思った仕事を逃したら思いがけずに大きな仕事が舞い込んだ。
搭乗予約をした飛行機に遅延したおかげで事故に遭遇しなかった。
階段を踏み外して病院へ行ったら違う病気を発見してもらった。

現象をネガティブに捉えると災難だと思えるが、
ポジティブに捉えると難が有って有難(ありがたい)となる事がある。

「井戸の中のロバ」
ある農夫のロバが、枯れ井戸に落っこちた。
ロバが哀れな声で鳴き続ける間、農夫はどうしたら良いか考えをめぐらせた。
結論はこうだ。
ロバはもうかなりの歳で、この井戸はいずれ埋めなければならない井戸だ。
ロバを引っ張り上げることに、意味はない。

農夫は近所の人々全員を呼び集め、手伝いを頼んだ。
人々はショベルを手に取り、土を井戸に放り込み始めた。
初めの頃は、ロバは何が起こっているのか気付いているようで、
ひどく鳴いていた。
ところがその後 …皆が驚いたが… ロバは静かになった。

その後、何杯か土を放り込んでから、農夫は井戸の中を覗いてみた。
すると、驚愕(きょうがく)の光景がそこにあった。
ショベルで落とされた土がロバの背中に当たる度に
ロバは体を震わせて土を落とし
踏み固めて登っていたのである。

農夫の隣人達がショベルで土をかける度に、
ロバは土を振り落としてまた登る。
そのうちに ロバはついに井戸の縁にまで達し、
嬉しそうに地面に駆け降りたのだった!

教訓:
人生はあなたの上から土を落としてくる。土の種類は様々だ。
井戸から脱出するためには、土を振りはらい、踏み固めて登るのだ。
全てのトラブルは、踏み台であると考えよう。
休まず、あきらめなければ、どんなに深い井戸からでも脱出できる!
振りはらって登るのだ。

幸せになるための5つのルールを覚えておこう。
1. あなたの心を、憎しみから解放してあげよう。敵を許すのだ。
2. あなたの心を、不安から解放してあげよう。不安な事の大半は、
実際には起こりはしない。
3. シンプルに生きよう。そして、あなたが持っているものに感謝しよう。
4. 自分からいくらでも与えよう。奉仕の心を忘れないようにしよう。
5. 人々に期待を寄せるのを控えめにしよう。その代わり、
神様にもっと期待しよう。
私たち全ての者に、神の恵みがありますように。
By: Hormuzd J Dadinath
(筆者註:インド、ムンバイの方です)

中国には「人間万事塞翁が馬」は、「じんかんばんじさいおうがうま」と
読みます。「塞翁が馬」と表されることもあり、人の人生の幸・不幸は
予測し難く、幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない
ということを意味しています。

「人間万事塞翁が馬」は紀元前の中国の書物『淮南子(えなんじ・わいなんし)』
に由来します。この『淮南子』の中に、「人間万事塞翁が馬」の由来の
逸話があります。「塞翁が馬」の「塞翁」は、塞(とりで)に住んでいる
翁(おきな)という意味で、「人間万事塞翁が馬」の由来となった
あらすじは以下のようなものです。

塞に住む老人の馬が逃げたところ、老人は「これは福となるかもしれない」と
言いました。そしてしばらくすると、その馬が駿馬(足の速い馬)を連れて
戻ってきたのです。周りの人は喜んだのですが、老人は、
「これは禍となるかもしれない」と言います。そして今度は、老人の子供が
その駿馬から落ちて骨折をしてしまいました。

老人は再び、「これは福となるかもしれない」と言うのです。
その後、戦争で男子は兵役で連れて行かれたのですが、骨折が幸いして
老人の息子は兵役を免れ、命が助かったというものです。

これは、天邪鬼(あまのじゃく)な老人の話ではなく、
「禍福は予測ができないものだ」ということを伝えるものです。
このことから生まれたのが「塞翁が馬」、
「人間万事塞翁が馬」の教訓です。

この「人間万事塞翁が馬」には、さまざまな解釈があります。
「幸不幸は予測し難い」、さらには「幸不幸は予測し難いので、
安易に悲しんだり喜んだりするべきではない」という意味や、
「幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらない」という意味、
また、「幸不幸は予測できず、何が禍福に転じるかはわからない」という
意味にも使われます。

順風満帆な人生を送っていたところ突然の出来事で転落してしまう。
それまでの地位や名誉や財産までもが無くなり路頭に迷う。
私も2000年にそのような経験をしました。
しかし、そのお陰で韓国に映画配給会社を作り日本に韓国ドラマを紹介しました。
その後すぐに中国から音楽関係の仕事が入ってきてまたプロデューサーとして
復活をしました。そこで再び大成功するのですが、音楽学校設立の野心が芽生えて
全額投資をして突然の反日運動で一文無しになりました。

2012年に日本に戻り腹をくくりました。
何もかも無くなりマイナスになって自分なりの下座業を開始しました。
そのお陰で講演依頼やセミナー講師の話も来るようになり、
挙句は10数年音沙汰が無かった会社の会長よりお声がかかり
顧問として働くことも出来ました。
まさに「人間万事塞翁が馬」を経験したのです。

今、不幸だなと思っている皆様は私の経験を参考にしてください。
不幸の後には必ず幸福がやってきます。
問題は自分の中にあるので乗り越える勇気を持ってください。
幸不幸も自分のイメージが作り出しているので
諦めることなく幸福を手に入れてください。

「恩学」のブログは人生の一番大変な時期からスタートしました。
困難のさなかに良き言葉を求めて良き言葉を発信してきたのです。
この恩学が少しでも皆様のお役に立つことになれば嬉しいです。


静かに生きる




私はいつも「静かに生きる」という文字を見る度に、
このお二人のことを想っていました。
人間として生まれ僧侶になられ、そして人間味を残して亡くなる。
最後はジタバタしても始まりません。泣き笑いの人生を楽しみたいですね。
皆様もこの恩学をお読みになり静かに歩いて来た人生を振り返り、
残る人生を考えてみては如何でしょうか。

一休禅師
1481(文明13)年の大燈国師の命日に、マラリアに罹った一休は
この世を去りますが、その時「一休の禅は、一休にしか分からない。
朦々淡々(もうもうたんたん)として60年、末期の糞を晒して梵天に捧ぐ」
という辞世の句を残しました。何とも強烈な辞世の句です。

そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか…。
禅の道を極め、悟りを得た高僧には相応しくない言葉ですが、
一休の88年間の波乱に満ちた人生を思えば、一休らしい
最期の言葉だったと言えるのではないでしょうか…。

生涯を通じて鋭く社会を批判し、名声利欲にとらわれず、庶民の中に分け入り、
禅の民衆教化に尽くした一休。禅僧でありながら、女性を愛し、肉を喰らい、
酒を呑み、頭も剃らず、権威に反発し、弱者に寄り添い、民衆とともに、
笑い、泣き、生きた一休は、なんとも人間味溢れる男だったのです。

良寛和尚
良寛は道元の道を実践するため、草庵で一人暮らしをはじめ、
所持品は文字どおり、一衣一鉢(いちねいっぱつ)、着のみ着のまま、
すり鉢一つであったようです。

このすり鉢が調理道具であり、食器であり、托鉢の鉢だったわけですが、
それを見かねた村人が着物や食物を施しますが、
良寛はそれをもっと貧しい人たちに与えてしまう。
なんとも凄い坊さんがいたものです。

良寛が詠んだ句に
『たくほどは 風がもてくる 落葉かな』というのがありますが、
落葉を集めようと、あくせくすることはない。
必要なぶんだけ風が運んでくれるものだ。

釈迦はこう述べている。
『(人は)ひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、
(生まれ変わって)ひとりで来る(ものなのだ)』
(独生、独死、独去、独来)。
そんな身に余分なものは必要ない、良寛はそう考えていたのかもしれません。

「生き方の底にあるもの」
良寛は自分で「僧に非ず、俗に非ず」と言いきり、酒を好み、タバコも
たしなんでいたといい、晩年には、40も歳の離れた若い尼僧、
貞心尼と恋に落ちています。

良寛は本音で行動し、何ものにも執着しない生き方だったようです。
死期のせまった良寛に対し、貞心尼は「生死など超越したつもりなのに、
いざ別れとなると悲しい」という意昧の歌を送ったとき、
良寛は次のように詠み返したということです。
 
『うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ』

散っていくもみじでさえ、おもての葉も裏の葉もすべてをさらけ出して、
隠すことなく散っていく。

良寛さんも貞心尼との短い4年間のお付き合いであったけれど、
正直に包み隠すことなく過ごしてきましたという辞世の句でしょう。
そして、良寛は最愛の貞心尼に看病され、蒲団の上に坐り直し静かに
1831年、74歳で亡くなったということです。

良寛には、もう一つ、辞世の歌が残されている。

 形見とて
  何か残さむ 春は花
    山ほととぎす 秋はもみじ葉
桜の季節に詠んだ
    散る桜 残る桜も 散る桜
というのも記憶に残る良寛さんの言葉です。

このお二人の歴史を読んで同世代は納得して
若い世代の方は笑うかもしれない。
二人の辞世の句、最後の言葉を未練がましいと
思うか潔いと思うかは分かりません。

私の人生も陰で家内が支えてくれた人生だった。
夫婦のことは夫婦にしか分からない。
迷惑をかけても逃げられないのが夫婦である。
裏も表も見せられるのはやはり家内しかいない。

私の辞世の句は「恩学」です。
まだまだ書き残さなければならない言葉があります。
言霊の力を信じて「愛語よく廻天の力あり」を贈り続けます。


100人いると思え




提案された企画が会議に通り新しい事業が始まる。
発表をして広く大衆に知れ渡ったところで、
他のメーカーから類似商品が発売される。
市場があることを確認してからの発売だから
商品内容も価格も高品質・低価格で棚に並べられる。
次の商品開発に手を付けなければ敗北になる。

会社役員は開発費用とそれに割いた人員の経費に頭を痛める。
自由経済では誰にでもチャンスはある。他メーカーの動向も気になる。
生き馬の目を抜いても勝たなければビジネスが成立しない。
その時に学んだのが「会議室に提案された内容は我々だけのものではない」
同日・同時刻に国内外を問わず100人以上の人が同じ内容で話し合っている。

知人から耳元でこの情報はオフレコであなただけに教えます。
これを信じた人は自信たっぷりに他人に伝える。
自分だけの情報だからビジネスの先手を打てるから成功すると目論む。
投資家から資金を調達して意気揚々と会社で発表する。
「あ、それ知っているよ」「有名な話だよね」とスタッフから言われる。
ここで最大のミスを犯したことに気づくが手遅れである。

アメリカの戦略の方法の一つ「OODA」(ウーダ)がある。
これはビジネスの「PDCA」の進化版で政府が採用している考え方である。
最初のOはオブザーブのOである。観察・徹底的調査
次のOはオリエンとのOである。調査結果・状況判断
そしてDはデシジョンのDである。参加者の意思決定
最後のAはアクションのAである。実行・行動開始

これを、時間の経過とともにループ状に何度も繰り返す。
「PDCA」だと計画に沿って動くのでスピードと変化に遅れてしまう。
「OODA」は常に状況の変化に対応する戦略と戦術である。
アメリカが得意とするデータードリブンを活用する。

本日のテーマは「100人いると思え」です。

あなたが今日受けた恩は何処かで同じように100人の人も受けている。
あなたが昨日受けた心の傷は何処かで同じように100人の人が受けている。
あなたの喜びも悲しみも何処かで同じように100人の人が感じている。
何が起こっても同じように100人の人が感じていると思えば心強い。

あなたの人生はあなただけのものだが同時刻に同じ考えの人もいる。
あなたに舞い込んだ素敵な話も同時刻に同じ体験をしている人もいる。
だから喜びも苦しみも1人で抱えているのじゃなくて誰かと共有している。
あなたは孤独になる必要はない。そして難しく考える必要はない。

幸福になろうとして人と比べて生きることは無意味である。
あなたはあなたなりに自分をもっと知らなくてはならない。
そして自分との約束で計画したことは絶対に破らないこと。
何よりも誰よりも自分を愛することを守りなさい。
周りを見すぎると疲れるから空を見る習慣をつけなさい。
生きていることに敏感になり使命感を感じて毎日を過ごしてください。

日本人と西洋人の考えに大きな違いがあるのを知っていますか。
日本人は「無」の世界があり、西洋人は「有」の世界だけで生きているのです。
仏教の「無一物」空(くう)の世界が日本人の奥深さに繋がるのです。
西洋人は狩猟と略奪を繰り返し手に入れることが生きることでした。

日本人は自然と共存共栄しながら自然に合わせて生きてきたのです。
西洋の一神教の考えでは「天・地・海」全てが神の創造物です。
そして西洋人は森や山や湖には魔物が住んでいると教えるのです。
しかし我々は自然界には神々が住んでいるので神聖な場所としてとらえています。
環境豊かな日本と環境劣悪な西洋との思考の違いです。

「色即是空、空即是色」そこには何も無いだが何も無いところに全てがある。
日本では文化が花開き、西洋では化学が発展した。
E=mc2は究極の「有」の追求である。そこまで手に入れる必要はあるのか?

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。
それでこれを「有(う)」という。これに反して、第2の心のわかり方は、
決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。
だからこれを「無(む)」という。しかしながら、無が根底にあるから、
有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。

日本人も少なくとも明治までは知っていた。
そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。
何でもすべて本当に大切な部分は無である。
だから日本本来のよさというのは無である。
ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。
戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、
言葉で云えないものは何もないと思っている。

戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も子供達に有ばかり教えた。
無を教えなかった。ところが日本というのは、一言に云えば無である。
だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。
つまり、日本を知らないのである。
それではもはや、日本人ではないと云ってもよい。
それで世代の断層というものが出来てしまった。

だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。
これは健在なようである。だから、
なんとなくそれでいけないものを感じはする。
しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。
それが根本的な間違いである。言葉で云えるものなどに、
それほど大事なものはない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。
「真、善、美」はすべてその源を無の世界に発して、
有の世界へ流れこんでいる。
有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

全ては民族の意識調査から始めて適時・適材の商品開発が重要である。
あなたのアイデアは100人の人との共有であることを知っておいてください。

常に100人の人がそばにいるのです。


哲学を考える




大切なことは自分自身で考える

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは哲学的な思考を、面白いもので
譬(たと)えています。それは、風です。風にははっきりとした形がありません。
風がどこにあるのか、どこからやってくるのか、そしてどこへ行くのかは、
目には見えません。でも、それは確かに存在します。そこにあるにもかかわらず、
実体の摑めないもの考えるという営みは、そうしたものだと彼は考えたのでした。
でも、果たして本当にそうでしょうか。

たとえば、考えたことを言葉にして、本にすることができたら、
それは思考に形を与えたことになるのではないでしょうか。
ソクラテスの考えでは、おそらく、そうはならないでしょう。
なぜなら、たとえ私たちが思考を言葉で表現しても、私たちの思考は
その言葉を通り抜け、あるいは解体してしまうからです。
たとえば、何かが存在する、ということの意味を考えて、
「存在とは○○である」という結論に行き着いたとしましょう。
そのとき私たちは、自分の思考を言葉で表現し、その思考に形を与えた
ことになります。

一時は、そのことに満足し、私たちは考えることを止めるかも知れません。
しかし、時間が経ってくると、だんだんとまた風が吹き始めるのです。
「あれ、そもそも○○ってなんだっけ」と。
哲学は「当たり前」を問い直す営みであり、それはもう少し堅い言い方を
すれば、概念のネットワークを解体し、相対化し、検証する営みです。

それに対して、言葉で言い表されたものは、すべて、何らかの概念の
ネットワークに落とし込まれます。そうでなければ意味が伝わらないからです。
だからこそ、思考は形にならないのです。このことは、哲学について
書かれた本を読むときには、特に注意するべき点です。

私たちは、つい、偉い哲学者が言ったことをそのまま信じようとして
しまいます。あるいは、信じるまでいかなくても、
「この哲学者はこう言ったのだ」と、ただ引用することだけで
満足してしまいます。でも、その言葉そのものには、正直に言って
あまり意味がありません。大事なのはあくまでも考えることなのです。

しかし、当然のことながら、哲学者が考えていたことを、言葉になる前に
遡って知ることなんて、誰にもできません。私たちにできることは、
その本を糧にして自分で思考することでしかありません。

哲学者が何を言ったのかよりも、その言葉から自分が何を考えたのか、
ということの方が、哲学にとってははるかに重要です。
ですから、そこに思考が伴(ともな)っていないなら、本を一冊、
初めから終わりまで全部暗記しても、あるいは、ものすごいスピードで
速読し、何冊もの哲学書を読んでも、あまり意味はないのです。

では、どういう読み方をすればいいのでしょうか。
本を読み直すとき、あるいはこれから新しい別の哲学書に挑戦するとき、
どんなことに注意すればいいのでしょうか。私が大切だと思うのは、
書かれていることに対して問いを連想しながら読むことです。

もしもあなたが、本を一回読み終えることができたなら、
ぜひもう一度、最初に戻って、今度はもっとゆっくりと読み直して
みてください。私は最初に読んだ時に気になる文言に付箋を貼ります。
そして解決するごとに付箋を一枚一枚とはがすのです。楽しいですよ。
探偵になったつもりで文章を追ってください。そして、ちょっとでも
違和感を抱いたら、その感覚を、決して手放さないでください。

ソクラテスも言う通り、思考は風です。それは急にあなたのもとにやってきます。
でも、何もしないでいたら、すぐにどこかに消えてしまいます。
だからそれを手のなかに包み込み、じっくりと吟味(ぎんみ)してほしいのです。

私のオススメは、読書に疲れたら思い切って本を閉じてしまうことです。
ぱたん、という音が、自分の思考が始まる合図になります。
ソファーに腰掛けたり、畳の部屋で寝っ転がったり、お風呂に浸かったり
しながら、違和感を言葉にし、なぜ自分がそう思うのかを、問い直してみて
ください。私が思うに、これが、哲学的な思考の一番クラシックな
スタイルです。たぶん、古代ギリシャの哲学者たちも、
そんなことをしていたのではないでしょうか。

当然ですが、そんな読み方をしていたら、いつまでたっても
本を読み終われません。でもそれでいいのです。
先ほども述べましたが、哲学書に関して、
早く読み終えることには何の価値もありません。

大学の専門的な哲学教育では、一週間かけて数行の文章を
読む授業が行われるくらいです。焦らず、自分のペースで、
じっくりと思考すること、それが哲学の営みにとって
もっとも重要なことなのです。
そんなことを言うと、次のような疑問を持つ方もいるかも知れません。
「そんなことをして、いったい何の役に立つんだろうか」と。

科学の進化はあるゆる物を簡略して使いやすくしました。
商品の中身を知らなくても電源のオン・オフだけですべてが動き出します。
科学は人間が思考する楽しみを奪ったのです。
我々は自然界の美しい景色を時間の移り変わりの中で、
楽しむことが出来る能力を持っているのです。
ゆっくりと何も考えずにその変化を楽しむことが日本の文化です。

哲学書の答えをすぐに求めるようにしても意味がありません。
哲学書は何度も吟味しながら繰り返し読み進めるのが正しいのです。

「老人と孫」の対話集会でも議題はあるのですが答えはありません。
世代も性別も経験も違う人たちと話し合うのです。
議論し合うことに意義があるのです。まるでギリシャのスタジアムの様に
円形になり自由に意見を交換するのです。ときには大人たちの意見に
孫の意見が重なりたじたじになります。

哲学の英語表記フィロソフィーは「知識を愛する」です。
智慧や叡智を確かめるという事です。
老人たちの言葉は意味が理解できるまでに時間がかかります。
それでも孫たちと話し合うことに意義があるのです。

老人と孫の会場には心地よい風が吹いています。
あなたもその風を感じに来ませんか?
見えない風を探すのです。


音楽のちから




大切な記憶が少しずつ失われ、人格が変わってしまう。
単純な計算や日常動作ができなくなり、妄想・徘徊・暴言などを繰り返す。
やがては家族の顔も、自分が誰なのかも分からなくなり、
もうろうとしたまま寝たきりの最期を過ごす・・・。
こんなイメージのある認知症だが、決して大げさな表現ではない。
できれば生涯認知症とは無縁のまま、人生の最後までハッキリと自分らしく
過ごしたいというのは、人類共通の願いだろう。

新潮社より「認知症にならない最高の習慣」という書籍が出版された。
それによると、認知症の発症には40代頃からの生活習慣が大きく
関わることが分かってきたという。ようは、脳に悪い暮らしを
長く送っている人ほど早くボケが始まってしまう、ということだ。

実際にアメリカでは生活習慣改善と栄養補給を中心とした
アルツハイマー病の治療プログラムが開発され、大きな成果をあげている。
特に早期の患者であれば、その改善率は9割にも達するというから驚きだ。
“認知症は予防も改善もできない”という常識が、医学の進歩によって
少しずつ変わりつつある。

このようなブログの書き込みがありました。
「音楽の力で、体と心をほぐしていく」

「ひばり馬事公苑」と書かれた扉を開けると、
松田聖子さんの『赤いスイートピー』のイントロが聴こえてきた。
しかも力強い歌声! ここはデイサービスには珍しく、
音楽療法を行う施設だ。日中はこんなふうに、
70代以上の利用者たちが賑々しく“音楽会”を開いている。

「高齢者でも音に合わせて体が動くケースがあるんです。
私の祖母も『♪もしもし亀よ』と歌ったら足が動いたと言っていました。
それに、認知症の方が童謡のメロディを聴いた途端、
歌詞がスラスラ出てきた
例もあるそうです。精神的なリラックスにも繋がりますし、
音楽の力って不思議だなと思います」

昨年春から働く平田ひなさんは、音楽療法士の資格を持っている。
故郷の鹿児島では奄美大島出身の祖父が歌う島唄を聴き、
音楽が身近な環境で育った。音楽家になろうとは思わなかったが、
仕事には繋げたい。出会ったのが音楽療法だった。

「近代では約100年前にイギリスで体系化されました。
日本では障害のある子どもたちに行うケアでしたが、近年、
脳の活性化や心身に安定をもたらすリハビリテーションとして
介護の分野でも注目されるように。
私も介護での音楽療法を経験しておきたいと思い、
調べてこの施設を知ったんです」
 
出勤したらお茶を沸かし、消毒をして、送迎に出かける。
利用者が揃うと昼なので、お弁当を準備。午後はいよいよ音楽会だ。
担当する回は歌う曲や歌詞パネルを用意し、そうではない日は
事務作業を行う。夕方はまた送迎へ出向き、終礼。8時半から17時半まで、
慌ただしく毎日が過ぎてゆく。

「皆さんが目を輝かせて歌うのを見ると、私まで嬉しくなります。
休憩時間も楽しいんです。様々な経験をされてきた方がご縁で
集まる場所なので、お話が聞けるのがありがたくて」

当初は「介護」という言葉の持つイメージに不安もあったが、
現場に入るといい意味でギャップがあったという。

「音楽デイということもあってか、自立して歩かれる方が多いですし、
トイレ介助も多くありません。介護にも様々な仕事があると知りました。
ですから、気になったらまずは見学をしてみてほしいです。
結局のところ、介護は対人関係じゃないかなと思います。
人と向き合い、思い出話や好きな歌の話を聞く。
それがケアに繋がっていくと思っています」

平田ひな
ひらた・ひな 1999年、鹿児島県生まれ。
奄美大島出身の祖父の島唄を聴いて育つ。
音楽を嗜み、吹奏楽からロックまでオールジャンルを好む。
音楽療法の学校を卒業後、2023年に上京し、ひばり馬事公苑に就職。
音楽はライブで観る派。

九州福岡県大宰府にデイサービスセンター「ららら」があります
私の友人鹿子生實子さんが理事長を務めている
健能レク体操を取り入れたセンターです。
特徴は北九州大学と共同開発をした「健能リハビリテーション」を
基本プログラムとしています。

これまでの高齢者一人ひとりの人生や生活背景を把握し、
その一環として創作されたのが、独自のロコモ体操です。
曲は九州で人気のシンガー冨永祐輔が提供しています。

その他、機能回復訓練に基づいてさまざまなサービスが付帯されています。
聞き手の反対側の手を使い習字や簡単な裁縫などすることで健能に繋がります。
センターの庭の自家菜園で作られた野菜を使いお料理をしたり、
漬物を作ったり、干し柿にもしてホテルなどへ販売もしています。
もちろん自分達の食卓にも出して楽しんでいます。

また施設の壁一面(高さ2・5メートル、幅5メートル)に描かれた
四季折々のテーマに沿った下書きに合わせて、利用者が新聞を丸めて、
チラシに色を塗り、棒状にして貼り付けて見事な壁画を創り出します。
毎年一回福岡の中心地の展示会場で発表を行いマスコミにも紹介されています。
素晴らしい作品の仕上がりに見学者のみなさん驚きます。

そして毎月らららコンサートと銘打ってプロの音楽家が
コンサートを行っています。
普段、デイサービスでは取り上げない、生演奏のクラッシックから
ポップス・ジャズまで多才な出演者で、近隣にあるライブハウスも
共同企画を考えるほどです。

民謡や童謡やカラオケで時間つぶしをするのではなく、
プレスリーや流行りのロックでも年寄扱いをせずにBGMで流して、
若いスタッフと共に笑いの絶えないデイサービスの施設です。

みなさまも音楽のちからを信じてください。
私も施設のアドバイザーとしてお伺いしています。
開放感にあふれた素晴らしい施設です。



青春とは愛と革命だ




まず紹介したい詩と書籍がある。
サムエル・ウルマンの「青春」と倉田百蔵の「愛と認識の出発」である。
若い時には難解で理解できなかったのが、経験を重ねると徐々に理解が
できるようになった。一般的に社会に出ると読書の時間を取るのが難しくなり
難解な本は避けるようになる。教養の研鑽が失われるのである。

プロデューサーは人を説得する仕事です。知識が信頼を生み、
情熱が引き寄せる力になります。ただの音楽好きでなく
世の中を変えていきたい革命家だと思わせることも大切な要素になります。
あらゆる知識と情熱を語る時、愛が基本的に無ければならない。
それは男と女の愛ではなく人道愛からくる優しさとして
語らなければならない。

この言葉「青春とは愛と革命だ」は瀬戸内寂聴さんの言葉です。
美輪明宏と俳優の藤原竜也さんとの対談記事に記載されていました。
昔から多用された言葉ですが、改めて今の時代に必要なメッセージだと思います。
今回の文章は長文になりますがお付き合いください。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
サムエル・ウルマンの詩の一節がよみがえってきた。

         青    春

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
 
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
こう言う様相を青春と言うのだ。
 
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
 
年は七十であろうと十六であろうと、
その胸中に抱き得るものは何か。
曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、
その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、
事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、
人生への歓喜と興味。
 
 人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる
 人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
 
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば
この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
「原作 サミュエル・ウルマン  訳詞 岡田義夫」

「愛と認識の出発」
この書を出版してよりすでに十五年を経ている。私の思想はその間に成長、
推移し、生の歩みは深まり、人生の体験は多様となった。
したがって今日この書に盛られているとおりの思想を持ってはいない。
しかし私の人間と思想とのエレメントは依然として変わりない。
そして「たましいの発展」を重視する私は永久に青年たちがそこを通って
来ることの是非必要なところの感じ方、考え方の経路を残しておきたいのである。

私は今や蕭殺たる君と僕との友情を昔の熱と誠と愛との尊きに回めぐらさん
との切実なる願望をもって、君の利己主義に対して再考を乞わねばならない。
君と僕との接触に対する意識が比較的不明瞭であって、
友情の甘さのなかに無批評的に没頭し得た間は、われらはいかに深大なる
価値をこの接触の上に払い、互いに熱涙を注いで喜んだであろう。

その大胆なる態度と、純潔なる思索的良心には私は深厚なる尊敬を捧げる。
僕だって君との接触についてこの問題に想到するとき
どれほど小さい胸を痛めたかしれない。始めから利己、利他の思想の頭を
擡(もたげ)なかったならばと投げやりに思ってもみた。
しかしこの思想は腐った肉に聚あつまる蠅のごとくに払えど払えど
去らなかったのである。このとき私の頭のなかにショウペンハウエルの
意志説が影のごとくさしてきた。

ああ私は恋をしてるんだ。これだけ書いたとき涙が出てしかたがなかった。
私は恋のためには死んでもかまわない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。
なぜならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、
一度私が恋してからなんだか役に立たなくなったように思われるからである。

私はじつに哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。
私に恋愛を暗示したものは私の哲学と芸術であったに相違ない。
しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術とに支えられて初めて価値と権威とを
保ち得るのではない。今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれみずから
ただちに価値の本体である。それみずから自全の姿において存在し
成長することができるのである。私の形而上学上の恋愛論は
それが私に恋愛を暗示するまで、その点において価値があったのである。
倉田百蔵「愛と認識の出発」

そして我々世代は革命という言葉を聞くたびにフランス革命の時の
女性リーダージャンヌダルクを思い出す人も多いはずである。
救国の聖女と名高く、映画などの題材になるジャンヌダルク。
わずか16歳の頃に戦争へ身を投じ、国を救った彼女はどんな人生を
送ってきたのでしょうか。まずは彼女の生涯を簡単にまとめて紹介します。

ジャンヌは1412年頃、フランスのドンレミ村で農夫婦の家に生まれました。
いたって普通の村娘だったジャンヌは、12歳のときに神のお告げを聞きます。
「戦争に参加してイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王にしなさい」
という内容の神のお告げに従い、ジャンヌは16歳になった頃にドンレミ村を出ました。

親戚のデュランと共に王太子のいるヴォークルールへと向かったジャンヌは、
当時の守備隊長であるボードリクール伯に、王太子へ謁見する許可を願います。
しかしボードリクール伯にとって、ただの村娘にすぎないジャンヌの話は
聞き入れられませんでした。

しかしジャンヌは諦めることなく、再びボードリクール伯と面談し、
「ニシンの戦いでフランス軍は敗北する」という予言をします。
予言は見事に的中し、ジャンヌは王太子シャルル7世に
謁見する許可を得られました。
ジャンヌはシャルル7世に、自身が受けた神のお告げについて話し
「私ならばフランスを救うことができます」と言いました。

ジャンヌが入ってから、フランス軍の快進撃が始まります。
ジャンヌが入隊してから、フランス軍は次々とイングランド軍の砦を落とし、
敵の手に落ちていたオルレアンを開放しました。
オルレアンの解放、シャルルの戴冠式などの功績が認められて、
ジャンヌの一族は貴族として迎え入れられます。しかし栄光は続かず、
1930年コンピエーニュ包囲戦でジャンヌは捕縛されてしまいました。

勢いのついたフランス軍は奪われていた領土を取り返していき、
ランスに到達します。そしてついに、1929年7月17日ランスにてシャルル
7世の戴冠式が執り行われました。
オルレアンの解放、シャルルの戴冠式などの功績が認められて、
ジャンヌの一族は貴族として迎え入れられます。しかし栄光は続かず、
1930年コンピエーニュ包囲戦でジャンヌは捕縛されてしまいました。
捕縛されたジャンヌは身代金と引き換えにイングランド軍へと引き渡されます。

当時は魔女や悪魔の存在が信じられており、神の声を聞いたというジャンヌは
異端者扱いされました。
ジャンヌは罠にかけられてしまい、男装をしていたのを理由に宗教裁判で
異端者認定されてしまいます。ジャンヌは、男装にはやむを得ない
事情があったことを訴えましたがすべて無視されてしまい、死刑判決を受けます。
死刑の中でも最も残酷と言われている火刑に処され、
ジャンヌは19歳という若さで亡くなりました。

最後に岡本太郎の言葉より
芸術家、岡本太郎とその秘書であり、養女であり、実質の妻であった岡本敏子。
二人の愛の言葉がつらぬく、はぐくむ、ひきあう、かさなる、ぶつかる
の項目で連なる。
「つらぬく」ことをしなければ愛は得れず
「はぐくむ」努力なしには愛は続かず
「ひきあう」者同士はやはり自然とひきあう
「かさなる」ことでより大きな変化や成長がある
「ぶつかる」ことは最も大切。
ぶつかりながら歩み続ける。

愛に溢れた、愛しか詰まってない一冊。「愛する言葉」も参考にして欲しい。
これを紹介して文章を終わりにします。今夜も熱くなりました。


科学と音楽




一言で科学を言い尽くせる理論はない。

これをChatGPTで検索すると。
科学は、自然界や現象についての俊樹の体形化し、観察や実験、推論、
仮説検証などの科学的方法を通じて理解しょうとする学問の体形です。
科学は客観的なデーターや証拠に基づいて知識を構築し、その知識を利用して
現実世界の問題を解決し、技術や社会の進歩に貢献します。と1秒で出て来た。

現代文明の最も大きな特色は、科学・技術の急速な進歩と
それが人間生活に与えてきた多大な影響力である。
科学と技術は、人類の進化と共に、古くはそれぞれに互いに独立したもの
として進歩・発展したが、近代自然科学の手法が科学と技術を結びつけて
両者の飛躍的な進歩を促した。

さらに、今世紀に入って、現代物理学をはじめとする
自然科学の各領域における新しい展開とその急速な進歩に伴って、
科学と技術は、さまざまな面から相互にそのつながりを深めてきた
特に、現代自然科学の新しい成果から生みだされた技術は、
20世紀の後半に目覚ましい進歩を遂げて、人間の物質生活にも
精神生活にも多大な影響を与えるようになった。

それは音楽にも共通する人類の歓喜と英知である。
科学は音楽理論から音響工学の発展により、楽器の設計や
音楽の録音・再生技術が向上した。
また、心理学や神経科学の研究により、音楽の効果や、
人間の音楽に対する反応について深く理解されるようになった。
さらに、数学や物理学が音楽の構造や作曲に応用されることもある。
そのために、科学と音楽はお互いに影響し合い、相互に豊かな発展を遂げている。

「科学・技術の進歩とその意義」
科学も技術も、元来、人間が環境に適応する現象であり、
それは人間の能力を延長し強化する営みである。
科学・技術は、人間を飢餓、災害、変腐などからも救い、
人間実生活に多大な利益をもたらしてきた。

ごく一部の人々によって占有されていた高度な人類文化が、
多数の人々にまで及び、その成果が広く享受されることを可能にしたもの
科学・技術の進歩である。自由・平等という価値を形に表わして
人間社会に実現する上でも、科学・技術は大きな力を発揮し、
人類社会に多大な貢献をしてきたといえる。

古来、実生活における切実な必要が、多様な現象に共通する法則性の
発見と、その実利への適用としての技術の進歩を促してきた。
人類が受け継いできた科学と技術は、人間が生命を維持し
人間としての生活を保持するために、久しくことができないものである。
また、つねに普遍的法則を追究し新しい技術を開発し利用しようとすることは、
生命体としての人間の本性によるもので、科学・技術の進歩には、
人間にとって、その直接の効用以上の意味がある。

1 現代科学技術の人間への影響
現代科学技術は、まず、肉体的にも精神的にも労働と生活の質を変え、
大小の苦痛や困難から人間を解放し人間に多大な便益と満足を与えてきた。
しかし、それと同時に、多くの新しい問題も生みだした。
また、肉体的にも精神的にも人間を変え、人間関係の在り方と内容にも
大きな影響を与えた。

現代科学技術の開発によって、次のような人間間題が生じている 。
1. 技術至上主義、能率至上主義により人間性が見失われる。
技術のリズム(規模・速度などを含む)と生命体としての
人間のリズムの間に不一致・不開和が生じている 。
2 分業・複雑化・専門化によって、技術の内容や影響についての
理解が困難になり、そのことから技術および技術者に対する不言も生し、
また新しい科学技術の影響や予測される問題についての
見通しなども困難になってきた。
3 技術化できるものだけが偏重され、倫理・宗教・芸術などの
精神的な人間活動が二次的なものと見なされる傾向を生む。
4 価値が画一化され、総合的な判断力が弱まる。また、
機械の能力を根幹で補い活かす熟練の価値を見失い喪失しつつある。
5 人についても、物についても、精神的なつながりが希薄になる。
その結果として、精神の孤立化、虚弱化が起こる。
人間の肉体が虚弱化する。
我々はもっと科学の恐怖や弊害を調査しなければならない。

私がロダンの「言葉抄」で学んだのは、
芸術は科学の応用がより大事であるという事です。
芸術家たちは科学の理解が深まるにつれて、
自然界や人間の身体の構造などのテーマにより深く
掘り下げるようになれたのです。
画家の描く構図も科学の力を応用しているのです。

「彫刻を掘りあてるために、私は全力をつくし、できる限りのことをした」
と語ったロダン(1840年~1917年)には自ら書いた文章は少ない。
本書は、詩人の高村光太郎が折にふれて訳出したロダンの談話筆録を
編集し、詳細な注と全作品年表とを付して、ロダン研究の基礎的な
資料となるよう配慮したものです。

つまり、ロダンという近代西洋彫刻の父の言葉が、それに感化された
日本の彫刻家によって訳され、その後輩たちが解説を加えている、
「彫刻家の、彫刻家による・・」(と続くと「彫刻家のための本」と
結びたくなるところだが、ここは、)「全ての芸術家のための本」で括れるだろう。

これは、芸術家だけの内容ではない、万人に通じる美への手引き書である。
恩学でも引用された部分が多い。これからも引用するだろう。

科学の暴走を止めるのは芸術しかない。
科学は人間の倫理観の成長に伴う。
科学は人類の幸福を追求するために開発されるべきで、
兵器として開発すのは赦されないのである。

伊丹谷良介2024「うた」=科学=東京ライブ
4月13日(土)恵比寿BAR Voices 18:30open,19:00start
1月「ブッダ」2月「生命」3月「芸術」そして4月は「科学」

ロックミュージシャンが難解なタイトルでライブを行う理由は?
ロックは時代に応じたメッセージが含まれなければロックではない。
世界が混乱している中で伝えなければならない言葉がある。
E=mc2(アインシュタイン)
「ほんのわずかな物質にも、膨大なエネルギーが秘められている。」
科学の進歩が戦争に使われることには断固反対である。

ライブ終了後に観客と対話をする時間を設けている。
サロン形式を取り入れた自由討論である。

映像とナレーションを組み合わせた手法、その為の制作に費やす時間、
テーマに合わせた新曲制作、リハーサルと膨大な時間をかけて、
伊丹谷良介は毎月取り組んでいる。凄いエネルギーである。
E=mc2(アインシュタイン)は人間にも適用できるのである。

毎回チケットは発売と同時にソルドアウトである。

先月は東京と京都の2ケ所で開催した。今月は名古屋も含めて3ケ所になる。
全国各地どこでも呼ばれればライブ活動をおこなう。
もちろん海外でも呼ばれれば出向いていく予定がある。

2024年辰年にあわせて「うた」は空を駆けあがります。
戦場へ続くドラゴンロードを走り抜けます。
益々、ロックシンガー伊丹谷良介から目が離せない。
是非とも一度生ライブを鑑賞していただきたいと思います。


詩人




皆様も経験があるかもしれません。
美しい言葉とは感じる心と受け取る波長が
同じでなくては詩の本質を掴むことが出来ません。
また詩人の詩をいつでも同じように感じるかはその時の状況にもよります。
山に行ったことがない人が山にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
海に言ったことがない人が海にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
戦争の経験のない人が戦争にまつわる詩を読んでも心の響くことはありません。
しかしある時に見過ごしていた詩が腑に落ちることがあります。

今回ご紹介する詩人茨城のり子さんの詩を読んだ時に、当初、何を意図して
作られたのかは理解が出来ませんでした。しかし数年たってから読み直して
驚くほどの感動を覚えることが出来たのです。
私の経験と心の変化が理解できる脳になったのだと思います。

茨木のり子
1926年に大阪で生まれ、現・東邦大学薬学部在学中に空襲や勤労動員を体験し、
19歳のときに終戦を迎えた。1953年には川崎洋らと同人誌『櫂』を創刊。
彼女の詩集『自分の感受性くらい』『倚りかからず』などに綴られた
数々の名作は、今の時代も人々の心に響き続ける。

「内部からいつもくさってくる桃、平和」これは「内部からくさる桃」という詩。
1926年に生まれた茨木のり子にとって、かつて体験した戦争、敗戦、
その後の暮らしがとても重要で、詩やエッセイなどで折に触れ言及している。

この詩では夏に旬を迎える桃を取り上げたことで、同じく夏に終結した
第二次世界大戦、茨木のり子が体験した戦争を「平和」という単語の背景として
想起できる。そして「平和」は社会や世界という大きなところではなく、
自分自身を含む「ひとびと」の心の持ちように懸かっている。

毎年、桃が出回る時季になると、私はこのフレーズを思い出す。
果物の桃とは全く意味が異なるところで、平和というものはまさに桃の如く
内部から傷んでいくものというイメージを抱くようになった。
詩を読むことで受け取った警句として私の心に響いている。

茨木のり子の詩を通じて、描かれる「わたし」の輪郭の凛としたところに
感銘を受ける。自宅や街角、あるいは旅先で、手を動かし足を運ぶ日々の
営みによって言葉を醸していく方法は、日常の傍で一人考えながら
身近なものごとを見つめる孤独さと隣り合わせだと思うが、
そのような強さに憧れる。 そして好きな作品を一つ挙げるとしたら、
「波の音」(1977年刊行の詩集『自分の感受性くらい』収録)。

茨木のり子は「海」を心象風景として抱いていたようだ。
この詩でも波音が聴こえるが、内面に降りていくような静謐さがある。
茨木は夫を亡くした後に韓国語を始めたという。
この詩には、孤独でありながらも自分自身を支える時空間があるように思う。

詩人に問われるのは、まずはその作品だが、茨木のり子という詩人については、
その人格と詩とを切り離すことができず、存在まるごとが語り継がれる。
最後の最後、身の処し方までも含めて、一つの成熟した人格が、見事に生き切った
生涯だったと思う。

「波の音」という、一人、酒に酔う詩がある。
「波の音」
「酒注ぐ音は とくとくとく だが
カリタ カリタ と聴こえる国もあって

波の音は どぶん ざ ざ ざァなのに
チヤルサー チヤルサー と聴こえる国もある

澄酒を カリタ カリタ と傾けて
波音のチャルサー チヤルサー 捲き返す宿で

一人酔えば
なにもかもが洗い出されてくるような夜です

子供のころと 少しも違わぬ気性が居て
悲しみだけが ずっと深くなっていく

それを読むとこの詩人が、年々歳々、哀しみというものを、
深く熟成して生きた人だということがわかる。哀しみを知る人は、
人と深く出会った人でもあった。
誰かと「知り合う」のは簡単だが、深く「出会う」というのは
簡単なことではない。それは運命に属する恐ろしいことでもある。

「出会い」はいくつかの作品にもなっていて、たとえば韓国の
女性詩人との温かい友情は、「あのひとの棲む国」という素敵な一篇になった。
一番大きい出会いは、茨木のり子が49歳のときに亡くなった夫だったろう。
その人を恋う詩集が、茨木の死後に『歳月』という一冊にまとまっている。

「私」を慎んだ詩人の、秘められた官能が読み取れる。
しかし一篇を選ぶというなら、「わたしが一番きれいだったとき」
(1958年刊行の第二詩集『見えない配達夫』収録)を挙げたい。

「わたしが一番きれいだったとき」
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていった
とんでもないところから
青空が見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね

高らかに歌うリズムは、焦土を闊歩する若い女性の靴音のよう。
明るい解放感とともに、戦争によって青春期を失った哀しみと、
空虚さが、青空に溶け、静かに詩の底を流れている。
戦後を代表する、もっとも美しくけなげな詩。今も私たちを、根底からゆるがす。

彼女が紡ぐ、飾らない真っ直ぐな言葉は温かく、そして力強い。
自立した精神性に惹かれる。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
というトドメの言葉に奮い立たされる。

部分的に日本近代文学研究者「矢部真紀」、詩人・小説家「小池昌代」の
対談から引用させていただきました。
余りにも私の感性と近くてどこをどう引用したのかが
分からなくなりました。笑い
ブログ上で勝手に3人対談といたしました。

皆様はどのように感じましたでしょうか。