私はプロデューサーという立場から人が大きく変わる姿を何度も目撃している。
面接の時に目を合わせてくる子は可能性を感じるが、終始俯き加減の子は
どれほど音楽的才能があっても採用しない。
スターになる子は楽屋に集団でいても馬鹿騒ぎをしないで緊張を楽しんでいる。
私は本番の時、その子だけを見るのではなくて会場全体を見て、
楽器やバンドのメンバーの中にいる、その子の存在力を眺めるのです。
絵写りが良い子はスターになるチャンスを握っているからです。
オーディションに合格して暫くしてから会うと、
激的に変化をしている子がいる。
明らかに大勢の人間から選ばれた自信にみなぎっていて、
取材やラジオやテレビにゲスト出演をして常に見られる環境になり、
人を引き付けるオーラが身に付いてきたからです。
また作品が売れ出してきてファンから追いかけられる様になって
一段と変化する子もたくさん見てきました。
80年代おニャンコクラブというアイドルグループの女の子を
スターにしてほしいとテレビ局から頼まれて、
初めてアイドルの子をプロデュースしました。
それまではロック、フォーク、ブルース、R&B、などの
音楽専門のプロデューサーであった。
その為にテレビ局から白羽の矢が放たれたのです。
音楽専門のプロデューサーがアイドルを担当したらどうなるかです。
先ずは作曲家と打ち合わせをして楽曲のイメージを話し合い
「この不思議な女の子は異国に置くのがいい」と直感が働き、
香港を舞台にした映画「慕情」の設定で行こうと決めました。
丘の上からオープンカーに乗って街へ下るシーンと
悲しい恋の物語を歌にしました。
最初の歌合せの時に私が仮歌詞を書いて歌ってもらいました。
その楽曲を完成させて制作会議で関係者に聞かせたところ、
満場一致で採用になり、予定されていた大物作詞家の歌詞は
採用されませんでした。
そしてその年の「レコード大賞作詞家大賞」に選ばれたのです。
勿論、曲も大ヒットしたのです。
大勢のスターを輩出したということで
学校や企業から講演依頼が増えました。
時には相談役として呼ばれることもあります。
最初に学校の理事長や会社の社長と面談した時に
昔からの癖で「人」を見てしまいます。
その学校やその会社に魅力を感じても責任者に魅力がなければ
成功しない気がしてなりませんから。
初対面の時に挨拶と歩き方と言葉のイントネーションで
人間性が見えるのです。会社はトップの人間性で将来が決まるのです。
私は価値観を共有出来ない人たちとは仕事をしません。
「サルとゴリラの違い」
地球環境の根源的な問題は、人間の文化の問題でもあります。
これは初代所長の日高敏隆先生がおっしゃったことです。
私は4代目で、その意志を受け継いでいます。
環境問題は文化の問題なのです。
「“対面”ができないニホンザル」
昔のものが再び人気になるのも、文化の変化によるものってことですね。
我々が衣食住の要としているものによって、環境はがらっと変わるんですね。
もう1つ言うと、ここ100年ばかり、人間は科学技術を神話のように
信奉し過ぎていた。科学技術や経済発展を優先する方向に進んできたので、
人間の体や心と環境との間にミスマッチが起こっています。
本来なら、環境を人間に合わせる必要があった。
人間が幸福になれる環境に、つくり変える必要があった。
ところが、逆をやってしまったんです。
技術や経済の視点で環境をデザインして、その環境に人間の体を合わせようと
したから、おかしなことになった。それをもう一度、人間の本性とは何か、
人間の体に合った環境とは何かということを考えましょうというのが、
我々の方針の1つです。
フェース・トゥ・フェースのコミュニケーションとリモートとでは、
情報量が圧倒的に違います。ゴリラ研究の視点からの、コミュニケーション
のお話が大好きなんですけど、ウィズコロナ時代のコミュニケーションに
ついては、どのように考えていらっしゃいますか。
人間は他の類人猿と違って、対面というコミュニケーションによって
この社会をつくってきました。例えば、ニホンザルは、対面ができないんです。
対面して相手の顔をじっと見つめるというのは、強いサルの特権なんです。
弱いサルは、強いサルに見つめられたら視線を避けないといけない。
要するに、“眼付(がんつ)け”。顔を見つめるのは「相手への威嚇」。
相手からは「自分への挑戦」だと見なされてしまう。これがサルの世界です。
しかしゴリラやチンバンジーなど、人間に近い類人猿では、
相手の顔を見つめることは威嚇にならない。
だから人間のコミュニケーションは、そこから出発したと思うんですよ。
対面するということから。
対面のコミュニケーションは、ただ顔を突き合わすだけじゃなく、
周囲の状況、例えば誰かが近くにいるとか、そこが川の近くであるとか、
山の中であるかとか、色々な状況が絡んでいる。
だから我々が言葉をしゃべるようになっても、言葉はコミュニケーションの
一部でしかなく、相手と自分の関係、その場の状況、コンテキスト(文脈)
というものにすごく左右されるわけです。
総合地球環境学研究所所長山極壽一の話より
視線と音と景色に交わる。
アナログでは当たり前の様に行われてきた人間の特性が、
デジタルになってからとても不器用になってしまいました。
例えば気になる人に好意を持って欲しくてその人の趣味などを聞き、
情報量を増やしていきます。そうすることによって会話が続き
目を合わせる機会も増えるのです。
デートに適した場所を選び、デートに誘って2人だけの会話から
好意を持っているか嫌われているか相手の声で判断したのです。
電車の中で、喫茶店で、送り届ける帰り道で、2人だけの景色を楽しむ。
いわゆる視線と音と景色を同時に味わうのです。
音楽にデジタルが入り込み音も映像もコンピューターが作り出す様になって、
プロデュースをすることに興味がなくなりました。
空気感のない中でのレコーディング、撮影も編集も処理作業で済ませる時代です。
人間の感性が必要なくなりコンピューターがプロデュースするのです。
皆様は便利な状況で人間関係が希薄になりドキドキしなくなる
社会が好きですか?私は苦手です。
だからいつでも旅に出るのです。そこにはアナログの関係性が無ければ
信頼も生まれず、最悪は危険にも見舞われます。
その内にサルやゴリラより劣る機械的な人間になることになるかもしれません。
目の前の人を見つめて声を聞いて背景の景色を楽しむのが人間ですよ。
4月 6th,2024
恩学 |
人間とゴリラ はコメントを受け付けていません
モーパッサンの「女の一生」ではないが、
日本人女性、特に江戸時代の女性の一生に興味を持った。
その時に出会った一冊が山川菊枝著「武家の女性」であった。
男社会の武士道の話は山ほど書物としてあるが、
女性の目線で武家社会を扱った本は数少ない。
山川菊栄の「武家の女性」は、自分の母親とその家族を中心にして、
幕末・維新期の日本の武家の女性の生き方を描いたものだが、
単に女性にとどまらず、当時の武士社会の生活ぶりが生き生きと描かれている。
菊栄が生まれ育ったのは水戸藩で、水戸藩固有の事情も随分働いているとは思うが、
武士階級の置かれていた基本的な条件はさほど異なってはいないと思うので、
この本を読むと、幕末頃の武士の生活ぶりがよくわかるのではないか。
日本の人口は徳川時代を通じて、ほぼ三千万人前後で推移し、
大幅に増加することはなかった。それは生産力の限界があったからで、
その限界が人口の増加を許さなかったのである。
この限界は、農民階級の場合には耕作地の限界という形をとったが、
武士階級の場合には、禄高の限界という形をとった。
一部の例外を除いて、各藩とも禄高が増加することはなかったから、
その限られた禄高をもとに、武士団を養わねばならなかった。
水戸藩の場合には、二十数万石の禄高を以て約千人の武士とその家庭を養っていた。
そのうち百石に満たない貧しい武士が七割を占めていたということだ。
そんなわけで水戸藩においては、武家の生活は非常に苦しいものであった。
この苦しさが、水戸藩士を分裂させ、互いに血で血を洗うような
抗争に走らせた基本的な原因だと菊栄は分析している。
禄高が限られているために、少しでも収入を増やしたいと思えば、
藩の役職について役職手当をもらうほかに方法がない。
それゆえ水戸藩の武士たちは、この役職を求めて互いに争い、
それが高じて血で血を洗うような抗争に発展したと言うのである。
水戸藩に限らず、女性の力が日本の国力を底辺で支えた、と菊栄は思って
いるようだ。なかでも貧しい武家の女性たちが果たした役割は大きい。
そのことは、「日本の教育界に大きな貢献をした明治初期の女教員の
ほとんど全部が、田舎の貧乏士族の娘だったこと、また最初の紡績女工の
仕事を進んで引き受けた義勇労働者もそれらの娘たちだったこと」に現れている。
その一方で、没落した旗本の娘の中には、芸娼妓や妾奉公に出たものが
多かったと菊栄は言っている。
そうした女性たちを教育したのは、家庭での「しつけ」だったと言って、
菊栄は武家社会における家庭教育の重要性を強調している。
その教育の要諦は、女は己を空しくして人に仕えるという姿勢を
叩き込むことだった。そんなわけで女の子は男の子に比べて粗末に扱われた。
そうすることで忍耐心を養わせようとしたわけである。
女が粗末に扱われたという点では、結婚後も大きな変わりはなかった。
徳川時代には離婚率が非常に高かったが、離婚の理由には男の側の
勝手によるところが多かった。それにからめて、菊栄は「女大学」のなかの
離婚の原因を論じた部分(七去論)とそれに対する福沢諭吉の批判を
取り上げているが、それを読むと、夫人の権利がいかにないがしろにされて
いたかがわかるというわけである。
ともあれ、妻が一方的に離縁されるケースは維新後には大幅に減った。
それは新しい婚姻法の効果だと言って、菊栄は妻の地位が在来よりはるかに
安定したことを喜ばしいこととして評価している。
菊栄は言う、「封建時代の家族制度は、一面ではどういう時代にも必要な
勤労、節度、忍耐、規律への服従というような美徳を養い、
それを根強い伝統として発達させたと同時に他の一面では、
家の名で、今日から見て不合理な親権の濫用や、妻の地位の不安定によって、
かえって家族生活そのものを危うくし、子女の幸福を破壊する暗黒面をも
伴ったことは明白で、この点で、明治以来の社会の進歩は、日本の女性のため、
かつ国民全体のために祝福されなければなりません」
社会の進歩は、女性の地位の向上に加えて、武士を含めて、
人々の生活が楽になったことにもあらわれている。
徳川時代には、みな日々の生活に苦しみ、国全体として停滞していた。
それは人口が増えなかったことに現れている。
しかし明治時代になると、個々人の生活は楽になり、
また国全体も豊かになっていった。人口の増加はその最大のしるしである。
こういう面については、菊栄は素直に評価している。
武家の女性より
私が特筆する部分は「子年のお騒ぎ」の部分である。
幕府に対して謀反の罪を問われて切腹を命じられ家は断絶しました。
しかしひとしお痛ましいのはおもだつ人々の家族でした。
武田耕雲は二人の大きい息子と一緒に斬罪となりましたが、
年の行かぬ子供や孫、妻も嫁も合わせて男八人女三人、一家十一人が
この事件の犠牲になりました。
死罪が決定しているのに関わらず牢獄内で子供達に「論語」を学ばす母、
それを見て牢番が「どうせ死んでいく子に、そんなことをしても無駄だろう」
というと、この子たちの内に一人ぐらいは赦されて外に出た時に
学問が無ければ困るからと言い返した。
筵(むしろ)にくるまれて首を切られる場面では母親に先を譲り、
自分の切られている姿を見せるのは偲びないと子供心に気を使う。
何度読んでも母と子の処刑の部分は言葉が失う壮絶なものである。
日本人の残忍性を見てしまった恐ろしさが記憶に残る。
しかしこれは真実の物語である。
武家の女性の覚悟のすさまじさと美しさに感動を覚える。
戦後このような女性の姿が消えてしまったことに憂いを感じる。
現代のような自由平等は大いに賛成ですが
規律のない自由は「だらしなさ」に繋がります。
凛とした女性の覚悟も忘れないようにしてください。
4月 5th,2024
恩学 |
武家の女性 はコメントを受け付けていません
「オッペンハイマー」
人間は本当に急激な進歩・進化を望んでいるのか疑わしい。
神から錬金術を受け継いできた人間の罠に陥っているだけかも知れない。
進化はあらゆるものを犠牲にして罪を作るが、その恩恵は誰にでも平等では無い。
映画「オッペンハイマー」を観てつくづく考えさせられました。
この時期(ウクライナ、イスラエル戦争)に、この映画を制作したのは
アメリカが世界に向けて牽制のために作ったのか、きな臭さが感じられる。
アメリカは原爆を日本へ投下した経験を持つ唯一の国である。
科学者の解く疑問は必要のないパンドラの箱を開けることになる。
その必要のない箱を利用する権力者たちは末代まで地獄に落ちる。
権力の上位に居続けることは誰よりも強い武器を持たなければならない。
日本は原爆開発者の試し撃ちで二発の原爆を落とされた。
広島は原爆の威力を確かめるために、長崎は二度と戦争に立ち上がれないように
見せしめのために行われた。その結果罪のない市民が「1945年8月の広島、
長崎への原爆投下では、広島で約14万人、長崎で約7万4千人が45年末までに
死亡したとされる。 子どもたちはどんな被害を受けたのか。
広島市のこれまでの調査では、0~9歳の7万3622人が被爆した。
2022/08/09発表」
PROMETHEUS STOLE FIRE FROM THE GODS AND GAVE IT TO MAN.
(プロメテウスは神々の炎を盗み人間に与えた)
FOR THIS HE WAS CHAINED TO A ROCK AND TORTURED FOR ETERNITY.
(この行為により彼は岩に繋がれて、永遠に罰せられた)
映画の見方
オッペンハイマー視点のカラー部分をFISSION(核分裂)、
ストローズ視点のモノクロ部分をFUSION(核融合)と
タイトルをつけているのもオシャレで格好良いですね。
深い意味がありそうで、実は無さそうで、でも一周回ってやっぱり
ありそうな雰囲気がいかにも監督ノーラン的です。
映画のあらすじ
1920年代。学生時代から理屈ではなくて感覚で量子世界の真理が見えていた
若き天才科学者オッペンハイマーは、ヨーロッパで大学を渡り歩き
ボーア(演ケネス・ブラナー)やハイゼンベルク(演マティアス・
シュヴァイクホファー)など当時の最高の物理学者たちから学び、
互いに影響しあって量子力学研究の第一人者になっていく。
またこの時期に、同じ米国人物理学者として生涯にわたって支えてくれる友人、
イジドール・ラービ(演デヴィッド・クラムホルツ)とも出会う。
原爆開発と投下
1945年10月。功績が認められてトルーマン大統領(シークレットゲスト!)
と面会したオッペンハイマーは弱気な発言を繰り返し、ロス・アラモスを閉鎖して
土地を原住民に返却しますとまで言い放ち大統領の不評を買ってしまう。
更にダメ押しで「手に血がついた気持ちです」と心境を吐露するも、
大統領から「被曝者は開発者のことなど考えもしない、恨まれるのは落とすと
決めた私だ」と啖呵を切られて、そのまま面会はバッサリ中断されるのだった。
1947年。オッペンハイマーがストローズと初対面した日。庭の池で遊ぶ
アインシュタインに近づくオッペンハイマー。アインシュタインは
旧友を笑顔で歓迎する。しかしアインシュタインは続けて、オッペンハイマーが
原爆という大量殺戮兵器を作ったコンセクエンス(決着)を受けるべきだと凄む。
「そして、いつか人々は君を十分に罰したと思ったら、もう許した証として
君を表彰するだろう。でも忘れるな。その栄誉は君の為ではない。
自分たちが君を罰したことを君に許させるための物なのだ。」
それだけ言って去ろうとしたアインシュタインを引き止めてオッペンハイマーが
話しかける。「いつか地球を燃やし尽くす核爆発の連鎖反応の話をしたでしょう、
あれですけどね、成功したと思います。」ドン引きするアインシュタイン。
言葉を失い、意識も朦朧として歩いて行く。だからストローズが話しかけても
無視してしまったのだ。(それを猜疑心からストローズが勝手に誤解していただけで)
以上、割愛したストーリーです。あとは自分自身の目で確かめてください。
どのような理由でも自分達の実験のために
多くの罪のない人々を殺した罪は大きい。
日本は敗戦を認めても原爆投下には断固反対すべきであった。
日本だけが世界に向かって原爆反対を叫べる国であることを
証明しなければなりません。
現在計画中のガザ地区の子供達を救う平和活動は
愛の武器を持って向かいます。
その為に一切の武器を持たずに戦地に向かうのです。
罪もなく親を亡くした子供達を日本の里親制度で守り、
成人になれば日本に留まるかパレスチナに戻るかを
決めさせれば良いと思います。
しかし日本政府が許可するか、日本の里親制度が機能するか、
乗り越えなければならない問題が山ほどある。
すでに一部の自衛隊隊員の中に賛成している者がいる。
戦火の中で親を亡くして苦しむ子供達を見過ごしてはならない。
映画の中でストローズが「人々は太陽に集まるが権力はシャドーに隠れる」
と言った言葉が全てを物語っています。
そしてもう一つの言葉は攻撃責任者の言葉「原爆投下の候補地から京都は外せ。
以前家内と行ったことがあるが素敵な街だから攻撃の候補地から除外しろ」
こんな理由から原爆投下の候補地を選んでいたかと思うと
広島と長崎の人たちは悔しくて・悔しくて怒りが収まらなくなるだろう。
科学者たちの開発は戦争を止めることになったとしても、
多くの罪の無い市民を虐殺したことには変わりがない。
科学の罪を考えることのできる秀逸な映画作品です。
4月 4th,2024
恩学 |
科学の罪 はコメントを受け付けていません
イタリアのファッションメーカーブルネロ・クチネリ。
オーナーの経営に対するフィロソフィーが紹介されている。
高級生地を使いスタイリッシュな洋服が生産されても、
大切なことは羊を飼育している人も、それを糸に紡ぐ人も、
工場で縫製に関わる人も、店頭で販売する人も、中心にあるのは、
「愛こそすべて」の理念を共通の価値観として保有していることです。
世界各地で続く戦争や紛争、実生活にも影響を及ぼしている
気候変動やインフレーションなどにより、混乱著しい世界情勢。
では、そんな現代にあって、ファッション業界における存在感が
より際立っているのがブルネロ クチネリである。
独立企業としての体制を保ち、他と一線を画す人間性重視の企業姿勢と
モノづくりがグローバルな成功を収めているのだ。
そしてブルネロ・クチネリの語るヒューマニズムや愛の大切さが、
業界の垣根を超えて今、大きな反響を呼んでいる。
「私たちの企業活動、あるいは私自身の人生における基本的な動機づけ
となっているものは、すべて愛してやまないイタリアのルネサンスに
よって育まれたといえます。それは素晴らしい人文主義に基づいた、
伝統的な芸術や卓越した文学、そして私たちが誇る“美しい国”をかたちづくった、
尊敬に値する職人の創造性です。今も世界の人々を魅了する、
イタリアの天才たちが生み出したそれらが示すのは、
すべての仕事は倫理的な労働によって成され、
あらゆるものの尊厳を尊重しながら、きちんとした製品が製造されるべき
ということ。そして、そのためには「愛」が不可欠ということです。
それはいわば“サステナブルなヒューマニティ”であり、
“人間主義的資本主義”と名付けた私の哲学なのです」
人々が求める愛ある服の証し
世界中で進む核家族化やITの進化によるコミュニケーションの
変容により、家族間をはじめとした人間関係の希薄化が懸念されている
現在。そうした社会情勢にパンデミックや戦争が追い打ちをかけ、
人心の荒廃やヒューマニズムへの無関心が懸念されている。
その根本にあるのは、家族愛や人間愛、つまり愛の欠落ではないだろうか。
そうした社会にあって、人間性重視の企業姿勢を貫くブルネロ クチネリの
服が求められ、企業や教育機関がクチネリの言葉を聞きたがるのは、
そこに本物の愛を感じるからではないだろうか。
「今、私たちがインスピレーションを得ているのは、
新しいサステナブルなヒューマニズムであり、人間中心の資本主義です。
それと同時に、人文主義の偉大なる師たちが、時を超えて
私たちに与えてくれた助言、イタリア・ルネサンスが育んだ人間の尊厳を
大切にする文化なのです。
その代表が、ルネサンス期の人文学者ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・
ミランドラの著書『人間の尊厳について』です。
同書はまさにルネサンスのマニフェストと言うにふさわしい、
すべての学校で読み直すべき名著といえるでしょう。
私たちも、世界の美をひととき守る守護者として、謙虚な人間が生み出す
美しい文化のために、服を通して人間性や愛を伝えられれば
幸いと改めて思っています」
“欲望の世紀”といわれた二十世紀が幕を閉じ、
早くも20年以上が経過した現在。
世界各国で経済格差が拡大を続け、強欲な資本主義の問題点が
指摘されている。
そんな現代社会で評価されるブルネロ クチネリの服、
そしてその背景にあるヒューマニズムと博愛精神は、
新時代の資本主義が向かうべき道を指し示しているといえそうだ。
家族愛を重視する国イタリア。ブルネロ・クチネリの基盤も
拠点のソロメオでともに暮らす家族だ。
日本の各地にある職人たちの暮らしも同じようなものである。
伝統を引き継ぐというのは大変な作業であるが、そこに愛が無ければ続かない。
私が昨年まで顧問をしていた株式会社カインドウェアは創業128年の
宮内庁御用達のフォーマルウェアの会社である。
その製品を扱うのが栃木県那須にある自社工場である。
夢工房と名付けられて地元に住んでいる人たちの協力のもとに
伝統が引き続けられている。工場の真ん中に託児所があり働きやすい
環境を最初に取り入れられた縫製工場として注目されていた。
1973年設立以来、宮内庁御用達の儀礼服の生産から始まり、
高度な技術を要するタキシードやモーニングの縫製技術を備えた工場に
発展しました。設立当時カインドウェアが英国王室御用達のハンツマンと
技術提携を結んでいたことにより、縫製技術と礼装の近代化を取り入れていました。
さらに1985年に来日した元ラルフ・ローレン ボストン生産工場社長の
レオ・ロッジ氏から学んだイタリアのレディメイドスーツの縫製工法を
ベースに、上質で着心地の良いスーツを日々生み出しています。
洋服は第二の皮膚と表現します。そこに愛が無ければただの布切れです。
社交文化は洋服から生まれたと言っても過言ではないと思います。
良い服は何世代にわたっても引き継がれて着ることが出来ます。
皆様も愛ある洋服に出会いますように祈ります。
4月 3rd,2024
恩学 |
愛こそすべて はコメントを受け付けていません
商品を売るためにマーケティングが生まれて物流全般の改革が行われて来た。
効率を科学で判断して世界に流通網を築いた。
どこの国の商品も生産量に合わせて欲しい国へ売ることが可能になった。
マーケティングの知識はハーバード大学で集約されていると言っても過言ではない。
私もハーバードビジネスレビューを座右の書として何冊も愛読して来た。
経営の知識はMBAで鎬を削って世界中から経営者の息子と娘が学んだ。
これらは学校の権威ではなく完全に教育ビジネスの先端を行く仕事である。
結局人間の購買意欲を高める方法を教えてくれるだけです。
日本のビジネスマンが自分を売り込むのが苦手で、
勤め先の説明から始めると相手から信用されない。
自分に自信のない人間だと思われるからである。
一般的に世界情勢や文化的な話から始めると評価が高くなる。
おしなべて日本人は自分自身の売り込みが苦手である。
特に女性は奥ゆかしさが美徳とされて教育されて来たので、
人を押し除けてまで自分を売り込むのが苦手である。
幸福の定義や生き方のスタイルを知らないで年齢を重ねる。
自分の魅力も知らないうちに将来の伴侶を探すのは危険である。
最近では適齢期と言う言葉は使われなくなったが、周りの友人が
結婚し始めると急に焦り始める。
一番大切な売り込みは好きな人を射止めるマーケティングである。
理想のタイプを決めて、何処に出没するか、どんな友人と交流しているか、
着ている服装や持ち物などでセンスを探る。人間性の調査です。
例えば絵の趣味を持っている男性とお付き合いをしたいと思えば、
出会いは絵画館でスタートするのが良い。
また好みの商品はそれを売っている場所から探すのです。市場調査です。
勿論、それ以上に自分磨きは怠ってはいけません。
自分が一番得意とする趣味や習い事に時間を取ることです。
一度身に着いた教養は奪い取ることが出来ません。(ユダヤの聖典より)
やりての男性は容姿端麗より才色兼備を好むことを知らなければ
無駄な時間と無駄な美にお金を使うことになる。
あなたは今の自分が好きですか?
おにぎりを食べたい人にフレンチ料理を作っていませんか?
ある女子大の人気教授がいて女子学生達は彼の心を射止めるのに
躍起になっていた。特にその中でも容姿端麗のS子が人目を憚らず
結婚を公言していたので、誰しもが教授を射止めるのは彼女だと思った。
しかし、数年経って教授が結婚に選んだのは一番大人しいA子だった。
S子は夢や理想を語り自分がどれだけ教授に相応しいかをアプローチしていた。
しかし、何故教授がA子を選んだのか謎だった。
後日、最も親しい友人にA子が語ったのは、私から結婚の言葉は一切使わなかった。
「先生のそばにいて一生お手伝いをさせてください」と言っただけである。
海外の講演会にも呼ばれるほどの忙しい教授である。
一息つきたい時にそっとお茶を出してくれる女性がいても良いと思ったのである。
S子のように語学堪能で社交的で美しい女性は教授には必要がないのである。
A子のような心が休める清楚な女性が求められていたのだった。
A子は教授が求めるおにぎりを差し出したのです。
皆さんも相手がおにぎりを食べたいのに、
フレンチ料理を出そうとしていませんか?
女性の地位が向上すると共に料理や育児に専念することがなくなり、
男性も家庭のことはシェアして料理も掃除も子育てもしなければならない。
家族全員がお友達の様に仲良く暮らすことが幸福だと思っている。
しかしこの流れが確立されると国が弱体化して、国力を支える為に、
海外から労働者も兵士も賄うことになる。
2050年(日本の人口が半分)には、自分達の財産を身内だけで守れない時代が来る。
鎌倉時代に雇い入れた力自慢の警備員が武士になり、
いつの間にか主人よりも権力を握るようになった。
ヨーロッパの箴言「ラクダと商人」の物語。
砂漠の夜に主人のテントにラクダが「頭が寒いので」
テントに入れさせてくれと頼み込んで頭を入れた。
次は「肩が寒いので」そして「お腹も寒いので」と次々に要求が
エスカレートして最後は主人をテントから追い出してしまう。
海外からの移民・難民を人道上の理由で受け入れていたらこの危険性がある。
日本人の優しさが国を奪われることになる恐れがあるということです。
英国もアメリカもカナダも同じ悩みを抱えている国です。
これは日本国民全員で話し合うべき問題です。
新人アーティストやタレントを売り出す時にどのような売り込みが良いか、
又どのタイミングが良いか考えるのがプロデューサーの役目である。
群雄割拠するほどの芸能界である。
モタモタしていると売れるものも売れなくなる。
私が狙うのは
① 市場があるか?
② 機が熟しているか?
③ ライバルがいるか?
④ 突破口は見つかるか?
⑤ こちらの魅力を伝えることができるか?
などを考えてタイミングを見て売り出すのです。
やみくもに発売してもヒットにはつながりません。
求めるお客様が増えたところで一気に販売します。
「啐啄同時」ひな鳥が卵から出る時に親鳥が殻をつつくタイミングと
つつく箇所が同時に起こることを言います。
ヒットと婚期を一緒にするのは失礼かと思いますが、
その瞬間を逃さないことです。
女性のあなたは結婚以外にも自分を売り込む場面は多々あると思います。
決して安売りはしないで下さい。
相手に合わせすぎると安っぽい女性に見られますよ。
就職先の会社も表向きだけで判断すると
中に入ってから苦しむことになります。
女性に優しいウェルビーングな会社は簡単に見つかりません。
憧れという字は心が幼(童)いと書きます。
早く大人の女性として成長してください。
いわゆる自分の魅力に早く気づいた人から幸運は巡って来ます。
まずは自分の魅力を知るところから始めてください。
教養は顔に出ます。
プライドは歩き方に出ます。
自信は声に出ます。
女性らしさは指先に出ます。
自分売り込みの為に自分磨きを怠らないようにしてください。
4月 2nd,2024
恩学 |
自分売り込み はコメントを受け付けていません
美しさのこだわり
マズローの欲求階層説
マズローの欲求5段階説とは、人間の欲求を5つの階層に分け説明した
心理学理論です。生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求・承認欲求・
自己実現の欲求の5つがあり、最下層の生理的欲求から満たされるという
特徴があります。
先日不登校の中学生から聞いた言葉「承認欲求」です。
あなたが一番大切で不必要なものはと言う質問に答えてくれました。
彼女は世間から認めてもらいたいと言うよりは、
自分の心を満たしたいためにこの「承認欲求」を使ったかと思われます。
「私は誰ですか?」その答えを求めたのだと思います。
多くの若者が自分の空間に居場所がなくなり孤独を感じています。
その孤独を満たすために架空の世界を作り出し閉じこもるか過激な行動に走ります。
彼らはお金が目的ではなく自分を必要としている場所が欲しいのです。
ホストにハマる子も、闇バイトで犯罪に走る子も、中学生から美にのめり込む子も、
みんな寂しいのです。
最近気になったのは自撮りの写真を思いきり加工修正する子が増えています。
みんなアイドル系の似た顔で可愛く一枚に収めてしまいます。
その写真から自己満足の世界へと入ると言うことです。
パパ活「頂き女子」りりちゃんなどは典型ですね。
このような記事を読みました。
スマホの普及で気軽にできるようになった「自撮り」。
そこでついやってしまいがちな行為に負の側面があるという。
ドイツのある研究によると、自撮り写真を「加工」する人ほど、
自分をモノとして認識。他者との比較を気にしすぎたり、自尊心が低下する
可能性があると発表した。
さらに、行き過ぎると自分の身体や美しさに極度にこだわる危険性も。
「加工なしの自分の顔が嫌すぎて、かわいくないなと。自分でも見たくないし、
人にも見せられなかった」と話すねむさんは、“醜形恐怖症”に陥りかけた1人。
ねむさん
「なりたい理想のイメージは全くなくて、ただかわいいと思われたい、
誰かに認めてもらいたいという気持ちだけで加工していた。
承認欲求がどんどん満たされないまま(基準が)上がっていった」
長い時には1時間かけて加工を行い、撮る写真もかわいさよりいかに
加工がしやすいかを優先するほどに。
「最終的にプリクラを加工するまでになっていた。
それを見た時に“誰?”となり、これはダメだと思った」と明かした。
そんな中、Z世代の間では無加工・ノンフィルターが流行しているという。
リスクもある自撮りについて考えた。
渋谷トレンドリサーチによると、高校生がよく使うアプリは
1位がノーマルカメラ(49%)、2位がInstagram(40%)、
3位がBeautyCamとSNOW(3%)。
さらに、盛れないSNS「BeReal.」がZ世代のトレンドになっている。
醜形恐怖症当事者のあみさんは、「無加工が流行っているけど、本当に無理だ」
とコメント。加工をするようになっていった経緯について、「スマホアプリがない
時代から、パソコンでPhotoshopを使って加工していた。現実の顔が好きではなく、
画像の中では思ったどおりになれるので、のめり込んでいった」と明かす。
「醜形恐怖症」とは
米ボストン大学の研究者が発表した論文では、日常的に加工するのは
モデルや俳優だけだったのが、アプリなどにより誰でも同じようにできるように
なったと指摘。摂食障害や感情面に問題を持つ人が増える可能性や、
美容整形手術を受けたい人の増加につながることを弊害としてあげている。
加工の境界線について、あみさんは「めちゃめちゃ別人にはならないように
気を付けている。でも、私がちょっときれいにしたと思っていても、
周りからは全然顔違うと思われるかもしれない。程度は難しい」と語った。
自撮り講座を行うWSC世界自撮り協会創始者で国際和装モデルのさなんさん。
笑顔の神様さんは、無加工トレンドについて「アップしたものと鏡で見た自分が
違うということで、落ち込んでうちに来る方もいる。心理カウンセラー、
メンタルトレーナーとして軽くカウンセリングすると抜け出す方も
多い」と述べる。
自撮りの上では、まずライティングと加工しないアプリを勧めているという。
「リーダーシップのある肉付き、人のことをしっかり聞く顔付きなど、
環境や状況、内面によって顔は変わっていく」。
無加工の写真を他人に共有することへの抵抗感
醜形恐怖症になりやすい人の傾向として、精神科医・形成外科医の中嶋英雄医師は
「不適切な親子関係で育ち、正常な成長過程を過ごせない」
「他人に対する信頼感、安心感が持てず、レジリエンス(ストレスに対する逆境力)
が弱い性格」「成績の良さよりかわいさなどが評価された経験」
「形、容姿のわずかな変形や非対称性に気づきやすい。美に対して強い
こだわりがあったり、見た目に関して敏感」といったことをあげている。
さなんささんは「“見せているものと自分が違う”と悩み出したところがポイントだ」
とした上で、「ナルシストはネガティブに思われるが、私は“自分はかわいい、
かっこいい”という声がけを自分にし続けてほしいと言っている。
脳は自分のピックアップしたものを広げてフォーカスして拾ってくる性質がある。
鏡を見て“かわいくない”と言うとそっちを探してしまうので、良いほうにピントを
合わせてほしい」と促した。
若い時は誰しもが容姿にこだわることがあります。
特に女性なら仕方のないことです。
カッコよく見せたい、美しく見せたい、かわいいと言ってほしいなら
海外で暮らしたら如何でしょうか?
日本人女性が好きな国はたくさんあります。
アメリカでもヨーロッパでもオーストラリアでも
日本人顔が好きだという国はたくさんあります。
しかし自分とは分からないような盛写真は発信しない方が良いですよ。
誰かに認めて欲しいという「承認欲求」は普通の感情です。
若い皆さん表面の美しさより心を磨いた方が承認されますよ。
4月 1st,2024
恩学 |
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先日お会いした方から私はミニマリストなのですと打ち明けられた。
勿論、言葉は知っているのですが若い人たちの流行だと思っていました。
少しお年を召した素敵な女性だったので意外だなと思いました。
日本人はどちらかというと一カ所一住を希望されている方が
多いので意外だなと思うのです。
その昔、家は長男が継ぐもので、それ以外の子供達は家を出ることが
決まりでした。それでほとんど持ち物がない状態で出るわけですから
自力で家具などを買い揃えなければなりませんでした。
その結果、年配になると家の中には物などが溢れてしまうのです。
私が若い時に住んでいた英国のアパート(フラット)は、家具や食器が
全部揃えてあり自分の身の回りの服だけで、引越ししたその日から
普通の暮らしができます。
今のフランスでも最近ミニマリストが増えたと聞きますが、
これはあくまでも若い世代の節約観念から使われている言葉です。
EUで簡単に海外へ行けるようになり、少ない持ち物で暮らすことが、
普通になり、年間を通じて大好きな服が5~6着あれば済むという感覚です。
本来のミニマリストと少し違います。
日本には昔から伝統的に断捨離があります。不要ものは廃品回収業者に
取りに来てもらい、それを他の人へ譲り再利用してもらっていたのです。
リサイクル、リユース、リデュースは当たり前に行われていました。
日本は戦後世界でも類を見ない勢いで経済大国になりました。
アメリカ型の生活に憧れて家も車も家電も洋服もローンで買い漁ったのです。
GDP世界第2位にまで駆け上り国中が新商品に埋め尽くされてしまいました。
いまやコロナ禍、戦争、自然災害、円安不景気を経験して大量消費の時代が
ようやく終局を迎えようとしています。
安いからといって無駄なものまで買い揃える文化は無くなってきたのです。
ミニマリストとは、『ミニマル(minimal : 最小の)』+
『ist (接尾辞 / 〇〇な人、主義者)』を組み合わせた言葉で、
必要最低限のもので生活する人・ライフスタイルを指します。
2010年前後、大量消費社会への疑問を背景に
海外の富裕層に使われ始め、その後日本にも広まりました。
ミニマリストのゴールは自分の生活に余分なものをそぎ落とすことで、
質の高い生活を送ることにあります。
そのため、主にものを減らすことに焦点が当てられますが、
ものに限らず情報や行動、人間関係に関しても厳選の対象になります。
自分の大切にしている対象のみに時間やお金をかけることで、
心豊かな生活の実現を目指すのが、ミニマリストなのです。
そして断捨離は「物を減らす行為」そのもの
「不要なものを減らす」と聞いて断捨離を思い浮かべる方も
少なくないでしょう。「ものを手放す」という点では共通している
ミニマリストと断捨離ですが、
それぞれの言葉が指している対象が異なります。
断捨離とは、「断(新しいものを断つ)」「捨(不要なものを手放す)」
「離(ものに対する執着をなくす)」の三つを掛け合わせた単語です。
ミニマリストが、ものを厳選して必要最低限のもので暮らすことに
価値を見出している「人・ライフスタイル」を意味するのに対し、
断捨離はものを厳選する段階での「行動・手段」
そのものであるということがわかります。
ミニマリストの対義語:マキシマリスト
ミニマリストの対義語「マキシマリスト(maximalist)」とは、
『マキシム(maxim:最大限の)』+『ist (接尾辞:〜な人、主義者)』を
組み合わせた言葉です。より多くの物に囲まれて生活することに
価値を見出している人、ライフスタイルを意味します。
しかし「マキシマリスト=散らかっている・汚い部屋で暮らしている人」
ではありません。多くの物を所有しながら、いかにまとまった
自分好みの空間に仕上げるかという観点がある人がマキシマリストです。
ミニマリストとマキシマリストは自分の大切なものを大切にする点では
共通でありながら、ものの多さ・少なさやどちらに豊かさを感じるのかで
違いがあります。
昔、読んだ本で感動したことがありました。
中里恒子さんの「時雨の記」という本です。
夫と死別して一人けなげに生きる多江と、実業家の壬生。
四十代の女性と五十代の男の恋は、知人の子息の結婚式で二十年ぶりに
再会したことから始まった。はじめて自分の本音を話せる相手を見つけた男と、
それを受け止めてなお甘えられる男に惹かれて行く女。
人生の秋のさなかで生涯に一度の至純の愛にめぐり逢った二人を描き、
人の幸せとは、人を愛するよろこびとは、を問う香り高い長篇小説。
雅びな恋愛小説を数多く遺した中里恒子の作品です。
このストーリーの中で特に大好きだったのがこの部分です。
「秋風が吹き出しました。夏から秋へ、移るのを待って、多江は、
壬生が、泊りがけで来る日に茶道具をしらべて貰うことにしました。
多江は、壬生にもちものをさらけ出すことで、自分の生涯、
身の上の説明にはなるだろうかと考えました。金目のものはないのです。
好みのものを見てもらうつもりでした。
「がらくたも出しておきました、あやしいのは、この際処分したいので」
「そうね、ぼつぼつ探してあげるから、つまらぬものは、捨てるんだね」
死をまじかに控えた壬生の最後の思いやり
「好きな女性には本物だけを残して欲しい」つまらぬものまでとっておく必要は無い。」
子どもは欲しいものを手に入れるが、大人は必要なものしか手に入れない。
今の時代だからこそ「自分に不必要なもの」まで側におくのはやめましょう。
3月 31st,2024
恩学 |
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余りにも有名なビートルズ誕生秘話ですが、
私も何度も同じような経験をしています。
この投稿の最後に私の体験を掲載しています。
1961年12月13日、ブライアン・エプスタインの伝記から
彼はリバプールのレコード店の経営者で、当時ビートルズのマネジャーを
買って出ていた、ロンドンの大手レコードレーベルであるデッカの
A&R(アーティストの発掘・契約・育成や楽曲の制作を行う)担当である
マイク・スミスを、キャバーン・クラブに招待した。
ビートルズの演奏を生で聞かせるためだ。
ライブを観たスミスはビートルズをいたく気に入り、
翌年の1月1日にロンドンに来るようにと彼らに伝えた。
そして同じころ、ビートルズは『マージー・ビート』誌上で行われた
リバプールのバンド人気投票で、ジェリー&ザ・ペースメーカーズと
ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズを抑えて堂々1位に輝いた。
ビートルズのその年最後の仕事は、12月27日にキャバーンで開かれる
「ビートルズのクリスマス・パーティー」というイベントだった。
ところが直前になって、ドラマーのピートから体調を崩して参加できなく
なったと連絡が入った。
そこで代わりのドラマー候補として、3人が口をそろえて挙げた名前は、
リンゴ・スターだった。
セッションを終え、リバプールでデッカからの返答を待つ4人に、
ブライアンが言った。
「いいかい。たとえ僕がでかい仕事を取ってきても、
レザーの服のままじゃやらせてもらえないよ」
ジョンは答えた。
「わかった。スーツを着るよ。金になるなら、風船でも何でも着てやるよ!
別にレザーが大好きってわけじゃないからね」
これを聞いて、ポールもうなずいた。そろそろイメージを変えてもいいころだ。
「どちらにしても、全身レザーってのはそろそろ時代遅れだしね」
テレビに出るためにはスーツを着なくちゃいけない、というなら、
スーツを着るまでだ。ひらひらしたドレスだろうが何だろうが、
ライブがやれるなら何でもよかった」
「ブライアンは、僕らのイメージをクリーンにしようとしていた。
僕らは、ブライアンについていくことにした」
1月29日月曜日、ブライアンはビートルズをバーケンヘッドにある
ベノ・ドーンの店に連れていった。ブライアン行きつけの仕立屋だ。
4人は「下襟は絶対に細め、パンツもものすごく細く」することを要求し、
主任職人を閉口させた。
しぶしぶとはいえ、ジョンがステージでスーツを着てネクタイを締める、
という皮肉な事態に、叔母のミミは大喜びし、笑い飛ばした。
「ハハハ、これでみすぼらしい格好も終わりね、ジョン・レノン」。
1週間後、ブライアンはデッカの幹部に会うために、
1人でロンドンに向かった。
役員専用のダイニング・ルームに通されたブライアンを待っていたのは、
A&R部門トップのディック・ロウ、営業部長のスティーヴ・ビーチャー
=スティーヴンズ、彼のアシスタントのアーサー・ケランドという面々だった。
重役がそろっているのを見て、これは期待できそうだ、とブライアンは思った。
「ミスター・エプスタイン、率直に申し上げて、われわれはあの子たちの
サウンドを気に入りませんでした。4人組のギター・グループは、
もうはやりませんよ」
「みなさん、どうかしているんじゃないですか?
あの子たちの人気はこれから爆発的に広まります。
いずれはエルヴィスよりビッグになるはずだと、私は信じています」
そう言うとブライアンは、「ビートルズ、人気投票で1位!」という
見出しの躍る『マージー・ビート』を取り出し、幹部たちに見せた。
「この子たちは売れません、ミスター・エプスタイン。
私たちは、この手のことはよくわかっている。
リバプールでのレコード店の事業が好調なんでしょう。
そちらに専念したほうがいい」
この侮辱的な言葉と見下すような口調こそ、ロンドン特有の気取った
根性の表れだ、とブライアンは思った。
2月10日にリバプールの自分のオフィスに戻るやいなや、
トニーによるプロデュース計画を断る手紙を投函した。
手紙には、こう書かれていた。
「前回お会いした後、ビートルズは別の会社からレコーディング契約の
オファーを受けました」
これは、真っ赤なウソだった。ブライアンは、ビートルズを却下したことを
必ずデッカに後悔させてやると、心に誓っていたのだ。
「デッカの連中は、ランチ代程度の費用でビートルズと契約できたはずなんだ」
とブライアンは思った。
実際、トニー・ミーハン自身も、何年も後になってこう振り返っている。
「あらゆる意味で、完全な混乱状態だったよ。あれは、企業として
取り返しのつかない大失敗だった」
私が久保田利伸を会議に欠けた時に一斉に言われたことは
「黒人音楽は絶対に日本では売れない」「発売を認めない」
という言葉でした。
そこで私は秘策を考えて「すごいぞテープ」を自費で制作しました。
そのテープの内容は当時大ヒットしていた「ウィ・アー・ザ・ワールド」
へ出演している歌手のヒット曲を久保田の声でつなげたテープでした。
私はこれを深夜番組のDJたちに配りました。
放送では著作権の関係で流すことは出来なかったのですが、
彼らから久保田利伸の歌のうまさを拡散させたのです。
そうするとあらゆるところから会社へ問い合わせの電話が入り、
「すごいぞテープ」がほしいとリクエストが殺到したのです。
秘策はまんまと成功して社内でもテープを欲しがるスタッフが続出しました。
私は役員からテープが欲しいと言われた時には、
「何故発売しないアーティストのテープが欲しいのですか?」
「渡しません」ときっぱりと答えたのです。
その結果、次回の会議で発売の承認を獲得したのです。
そしてブライアンと同じように大ヒットさせるには、
若者受けするファッションも大切だという事で
ロンドン在住のコシノミチコへ衣装の依頼をしました。
当時、英国の有名アーティスト(スティング・ボーイジョージ)の
衣装を作っていることを知っていたのです。
結果はご存じのように久保田利伸もミチコロンドンも時代を制したのです。
女子十二楽坊の時にも同じ洗礼を受けて世界的大ヒットになりました。
「会議で反対されるほどヒットにつながる」これが持論です。
3月 30th,2024
恩学 |
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「隻手の音」
片手の音を聞く?禅とは何か?
凡人には何のことかがわからない。
片手からは音の鳴りようがないからである。
禅の世界はありえのないことを追求して真理を見つけるのである。
自分も含めた常識で問題解決を図るから解決の答えは見つからないのである。
さて瞑想知について、少しく補説しておこう。
はっきり申し上げれば禅は、前頭前野での自己認知をはじめ、
大脳皮質のはたらき全般をあまり信用していない。
外界の認識さえ自己というフィルターで歪めるし、それは世界と
直に向き合うのを妨げてさえいる。
むしろ辺縁系や脳幹部などが管理する命そのものこそ大切で、
それを妨げる脳機能には時に休んでもらうほうが天真も養える
というものだ。換言すれば坐禅とは、ああでもないこうでもないと
常に過熱する「分別知」を鎮静化させ、薄靄のなかに稲妻が走るように、
直観がはたらきやすい状態になる稽古、とも言えるだろう。
分別知とはわかることを分けることなのです。
子どもは母親を、ただ「この人」と理屈抜きで諒解している。
パーマをかけた、色白で、小太りの、などの形容詞は一切要らない。
命が命を直接把捉するためには、是非とも片手の音を聞く、いや、
憶いだす必要がある。円覚寺館長横田南嶺
あらためて考えてみますと、人命は平等に尊いものですが、
人生とは決して平等ではありません。
たとえ兄弟姉妹であったとしても、一人一人顔も違えば性格も異なります。
それぞれの命が平等だからといって、同じ様な人生になる筈はありません。
むしろ十人いれば十通りの人生がある筈です。
ところが日本人は横並び意識が強く、
「他人が持っているものを持っていない自分は不幸である」と考えがちです。
また格差が拡大している昨今では、無関係な人に不満をぶつける
無差別殺傷事件も後を絶ちません。
法務総合研究所が平成二十五年に発表した
「無差別殺傷事犯に関する研究」によれば
「事例数としては、自己の境遇に対する不満によるものが最も多く、
次いで特定の者に対する不満であった」 とあります。
一部では「親ガチャ」という言葉が流行し、
人生の価値が出自で決まるというような風潮さえあります。
しかし人生というのは誰かから与えられるものではありません。
自分自身で切り拓いていくものです。有意義な人生をおくるのも、
そうでないのも、それを決定するのは自分自身の行動です。
それはけして生まれ落ちた境遇で全て決まるものではありません。
大谷翔平選手が、高校三年生の時に書いた
人生のマンダラ・マップ表を見ると、真ん中に大きく
「人生が夢をつくるんじゃ無い!夢が人生をつくるんだ!!」
と書かれています。
「恵まれている人生だから夢を持つことができる訳ではない。
夢に向かって努力することが素晴らしい人生を作るのだ」という意味でしょう。
弱冠十八歳にして流石だと言わざるを得ません。
そうした心構えで生きてきたからこそ現在の大活躍もあるのでしょう。
勿論、育った環境など、私たちは周囲の影響を受けずに生きて
行くことはできません。恵まれた家庭に生まれた人もいれば、
そうでない人もいます。
健康な身体で生まれた人もいれば、生まれつき病気がちな人もいます。
それらは授かりものですので選り好みはできません。
有り難く頂くしかありません。
しかしどんな境遇にあったとしても、どう生きるかは自分次第です。
だからこそ大切なのは人生に正しい目標を持つことです。
そして目標を達成する為の具体的行動を継続することです。
今、幸いに私たちは、大谷翔平選手の姿から、そのことを自分の目で
学ぶことができるのですから。
私も音楽業界に入りたての頃に友人からプレゼントされた
ナポレオンヒルズの書いた「思考は現実化する」を読み
壁いっぱいに目標を書いて努力に励みました。
他人と同じことをしていても頂点には立てない、
誰もやらないことを一番にトライすることが実績として残る。
その結果多くのアーティストの成功に役立つことが出来たのです。
人は見たもので全てを判断しがちです。
しかし、それは分かったことに決して繋がりません。
私がすこしマーケティングの勉強をしたからといって
全部を把握したことにはなりません。
結果が成功したので正しいと思っているだけかもしれません。
「隻手の音」
片手の音を聞く?禅とは何か?
凡人には何のことかがわからない。
片手からは音の鳴りようがないからである。
若い時には宗教関係の本は暇な人たちが読む本だと思っていました。
様々な経験を積み重ねてから「禅」に惹かれるものがあります。
すべての現象には裏が存在するという事を体系的に知ったからです。
これからも奥深い学びを続けなければならないと思う次第です。
「分別知」を理解したうえで自分の「直観」に頼ることも大切です。
止まる学問ではなく動く学問です。「感即動」です。
3月 29th,2024
恩学 |
分別知 はコメントを受け付けていません
5感覚が人間に備わる意味…見るため、聞くため、嗅ぐため、味わうため、
触れるためだけにあるのではない。
見ても見ても、真の姿を見ることができない目
聞いても聞いても、真を聞くことができない耳
嗅いでも嗅いでも、真の香りを嗅ぐことのできない鼻
味わっても味わっても、真の味を知ることのできない舌
触れても触れても、真の感覚を感じることのできない皮膚
5感覚で真を知ることができると思うからこそ人は誤る。
自然科学は5感覚だよりに突き進んでいるからこそ、
地球を汚し、人を殺し、人間の尊厳を奪い、人類を破滅に追いやる。
5感覚がなぜあるのかをよくよく考えてみなければならない。
自分の身体の満足のために備わっている機能だということが
大きな勘違いであることに気づく。
目は心を映すためにあり、耳は存在の悦びを聞くためにあり、
鼻は他の心の匂いを嗅ぐためにあり、舌は救済の言葉を語るためにあり、
皮膚は他の心を温めるためにある。
人は目的知・完全知に辿り着いた時、
もうこれ以上知らなければならないことはないことを悟り知る。
そしてなるべきことはただ、5感覚を能動的に使った実践行動のみとなる。
これを四智の一つ「成所作知」と言うのだろう。
盲目とは視力がないことを言うのではない。
心の目を使って世界を見ることを言うのだ。
存在が深まっていく悦びに覚える。
声明(しょうみょう)
声明は日本の伝統的な仏教聖歌です。
声明は、仏教とともにインドから中国へ伝えられ、
中国で新たに作られたものも加わり、日本へと伝えられました。
もともと声明とは古代インドの学問のひとつで、
シャブダ・ビドヤーといわれ、
言葉の学問、つまりサンスクリット語(梵語)の
文法学を意味していました。
仏教発祥の地である古代インドには、 五明 という、学問を大きく
5つに分類する考え方がありました。仏教においては、僧侶が教養として学ぶ
5つの分野をいい、そのうち言葉や文法などを学ぶ分野を、
古代インドの言葉でシャブダ・ビディヤーといいました。
そして、声や音を意味するシャブダには“声”、学んで明らかにすることを意味する
ビディヤーには“明”の文字をあてました。これがルーツとなって、
僧侶がさまざまな音楽的技法を用いて経典を唱える仏教音楽を、
日本では声明とよぶようになりました。
日本では平安時代、密教僧が真言や陀羅尼の学習のために
この梵語の文法学である悉曇(しったん)を学びました。
752年、東大寺大仏開眼供養の際、
声明が唱えられたことが記録にあります。
その後、9世紀の初めに弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)
により真言声明(しんごんしょうみょう)が、また中頃には慈覚大師円仁
(じかくだいしえんにん)により天台声明(てんだいしょうみょう)が
それぞれ中国から伝えられました。
ここでは、真言宗豊山派の総本山、長谷寺に伝わる声明「四智梵語」
(しちぼんご)を紹介します。その内容は、金剛界(こんごうかい)の
大日如来を讃歎するものです。
四智(しち)とは、
阿閦如来(あしゅくにょらい)・宝生如来(ほうしょうにょらい)
・無量寿如来(むりょうじゅにょらい)・不空成就如来
(ふくうじょうじゅにょらい)の智慧を表しており、
それは金剛界の曼荼羅全体を意味するものでもあります。
また、「四智梵語」は、多くの法要で唱えられるため、
真言宗の僧侶としても、唱える機会が最も多い声明です。
ご葬儀やご法事の際にも唱えられることが多いので、
皆さんも聞かれたことがあるかもしれません。
人は煩悩のかたまりゆえに華美飽食に溺れてしまう。
贅沢の極みに金糸銀糸でおられた服を着て楽をたのしむ。
庶民には口にできない高級素材を使用した料理を味わう。
健康に良いものと聞けば世界の珍味にまで手を出して
欲望の制御が効かなくなる。
それゆえに科学の発展は際限ない欲望を満たすために使われる。
真実を追求して原因を突き止める科学が、
それを利用して悪魔の手先になった。
科学は人間が入ってはいけない領域、
戦争の道具にまで手を染めてしまった。
科学者たちは時の権力者が要求することには逆らえず従うしかなかった。
五つの感覚は、自然を楽しみ、喜びを知り、味わうために備われた
機能であり、もっとも人間の本能が満たされる天からの授かりものである。
早朝にお寺の境内から聞こえてくる声明は煩悩で汚れ切った心を
清浄にしてくれて小鳥のさえずりと共に絵も言われぬ世界へと誘ってくれる。
本来美しいものを見るための「目」が
穢れ切った世の中を見るために使われる。
本来の脳を休めるための「耳」が
世相の雑音で溢れてしまっている。
本来草花をかぎ分ける「鼻」が
都会の悪臭によって機能を失う。
本来自然の味を楽しむ為の「口」が
農薬や食品添加物まみれの食材で汚される。
本来危険を察知するための「皮膚」が
様々な薬品を摂りすぎて炎症を生み出している。
科学の進歩と近代化は崇高な人間の身体を犯してはならない。
人間は欲を抑えることにより本来の機能を取り戻すことが出来る。
声明を口ずさむことが出来ればいつでも仏さまと繋がることが出来ます。
3月 28th,2024
恩学 |
5つの感覚とは はコメントを受け付けていません