禅の人間形成とは




人間には知性と四つの感情(喜怒哀楽)がある。
知性もなく感情もなければ何ら動物と変わらなくなる。
本来知性も感情も生まれた時から兼ね備えているもので、
それを正しくコントロールする為にも知性を磨き、感情も場面に応じた
表現を変えなければならない。それぞれの階級に応じた教養と知性(行)に
裏付けられた表現と仕草(道)を学び行わなければ下民として扱われる。

例えば人間を禅的に表現するとこの様になる。

自然はどこまでも「人間のため」のものである。
この「人間のため」ということは、しかし、「人間は何のためか」という
人間存在の究極的問いに対する答えの欠落、すなわちニヒリズムと
一体のものである。人間中心主義と一体のニヒリズム、いわば人間
虚無主義は、前述のように、一面において人間の欲望中心と知性中心とを
もたらしたが、他面においては退屈.不安.懐疑・絶望という現代人の
根本気分とそれからの逃避や麻痺の手段としての気晴し文化とも称すべき
ものをもたらした。

現代のいわゆる近代化された社会の根本状況は、これら両面の悪循環の
渦巻の加速度的拡大・深化にあると言えるであろう。
すなわち、合理的知性ジーを求めるという循環とともに、その循環によって
ますますニヒリズムが深刻化され、その深刻化されたニヒリズムが新たな
気晴しを求め、その気晴しの手段としてますます欲望が追求されるという
悪循環である。

「すべては人間のため」は「すべては許されている」を惹起するのであるが、
「すべては人間のため」ということの裏面に本来的に含まれている
「すべては空しい」がとりわけ現代において露わになることによって、
その空しさの感覚の麻痺として新たな「すべては許されている」が追求され、
さらにそれが「すべては空しい」をますます増幅させるのである。

このような現代の精神状況は、最初に述べた現代における人間形成および
それにおける「行」の欠落ということと必然的な連関性を有している。
そのことが明らかになるためには、まず人間形成における行というものの
基本的特徴が簡単に確認されておかれねばならない。

その特徴は一応、1主客合一、2知行合一、3前二者の合一であると同時に
それらの成立根拠である「道」の存在、の三つにまとめられるであろう。
次にこの三つの特徴について簡単に述べることにしたい。

(1)主客合一いわゆる近代化ということの基本的特徴の一つが知性中心主義に
あることはすでに指摘した。知性の本質は一科学に代表されるように、
客体的事物に関する対象章魚にある。それは主客の対立をその働きの基本的
枠組みとしている。ということは、「客体についての究明と主体の自己究明とが
切り離せない一つのものであるようなそういう知の次元が閉ざされる」
(西谷啓二)ということである。こで「そういう知」と言われている知の特色は
「主客合一」と「知行合一」ということにある。

(2)知行合一
先に、近代化の立場が知性中心主義に陥り、全人の一部にすぎない
知性(頭)が肥大化してきた結果、他の部分である情意(心)と(狭義の)身体
(手)が澗渇し萎縮させられてきたことを指摘した。
これら三つの部分は人間(全人)において本来一体のものであるにも
かかわらず、それらが分裂してきたということは、本章の初めに人間形成に
おける行の欠落ということと関連しているが、このことは同時に前節で
述べたような知(「客体についての究明と主体の自己究明とが一つのもので
あるような」知)の欠落をも意味している。

行とは「全知行合一」とは、選る事に即しての(つまり仕事ということにおける)
全身心を挙げての自己の統一である。回る事になり切るということ,
(主客合一)において全身心が統一される(知行合一)のであり、また逆に、
全身心が統一されることによって或る事になり切ることができる。
それゆえ、主客合一と知行合一とは一体のものであると言えるであろう。
細る事柄に「身を入れ」「念を入れる」という身心一如的な行(行ない)によって
初めて、その事柄が「身につき」「身になる」のである三共に、その事柄が
その事柄そのものとして露わそこでは自己の形成と事物の形成とが一つである。

そしてそういう仕方で同時に自己の知(自知)と事柄の知(事知)とが
もたらされる。職人(古来芸術家は職人であったという広い意味で)
は、自己の具体的な職に精通することを通して、事物を形成すると同時に
自己の.人格形成や人間形成を行なうのである。真の職人になることと
真の人間になることとは切り離すことができない。古来、行とか修行と
言われてきたものには下のような意味が含まれていたであろう。

(3)道
以上、行における主客合一と知行合一とについて述べた
わけであるが、これら両者の合一を成立せしめる場が道(みち・どう) である。
行とはまず、道を行くことである。道がなければ、行ということは
成り立たない。では道とはいかなるものであろうか。

先に拙論(一)において次のように述べた。「禅は無立場であるが故に一切の
立場に伸びて行く。禅は、およそあらゆる人間の営みに伸びて行くことが
可能であり、しかもそれらのいかなる領域にあっても、それらを道とか
術とかに課することによって、どこまでも究め尽すことのできない無限の
奥行きをそれぞれに与えたのである。 ここから道について二つの意義を区別して
取り出すことができる。 ひとつは、文中で「道とか術」と言われて
いるような個別的な道であり、他は、これらの個別的な道を成り立たしめる
ものとして、文中で「禅」と言われているものである。

前者の個別的な道とは、具体的には剣道・茶道などの道、武士道・商人道など
の道、学問の道とか俳書の道などの道等々を指すが、それらのみにとどまらず、
およそ人間の行ないのある所には道がある(道が拓かれる)という意味において、
道は無数にあり「禦後者の揮」とは・例えば禅門で・大道黒門・千蘇有り唖と
言われ、また「南泉、因みに型鋼問う」、『如何なるか是れ道』。

峨と言われる場合の大道とか道がそれである。
これらの両者を強いて簡単に特徴づけるとすれば、前者が三昧
(群臣三昧・事三昧・個々三昧)とすれば後者は王三昧(一行三昧・真如三昧)、
前者が偏位(差別相)とすれば後者は正位(平等感)、また西田哲学に即して
前者が「無の一般者の自己限定」とすれば後者は「無の一般者」、等々と
言うことができるであろう。

この知的好奇心は尽きることが無くても「行」を行うことは出来ない。
何ひとつ「道」を極めたわけでもなくただの凡人である。

私は勿論学者のような知的能力も巧みな文章も書けない。
しかしその文章の内面に入ることは出来る。
禅僧なような修行の経験もなく、それらの行の修羅場も知らない。
しかし禅僧と同じ経文を読むことは出来る。

今回は「人間とは」の追求だった。
デジタル化する前の人間と言う定義の根本は自然の中における人間である。
しかし、今後デジタルAIの中における人間とは科学に中における人間である。
よって人間の努力や経験や感情は必要ないのである。
誰もが「行」とか「道」は究めなくても簡単に知ることが出来る。
完璧なAIロボットがお点前を披露してお茶を差し出す日が目の前に来ている。