犬も歩けば棒に当たる




私が22歳の時に英国に行かなければ、
エルビンジョーンズ(世界的なジャズドラマー)にも、
バニーケッセル(世界を代表するジャズギターリスト)にも
アルスチュワート(英国を代表するギターリスト)にも
ジェームステイラー(米国を代表するフォークシンガー)にも
出会わなかった。その経験のおかげで帰国後に大手レコード会社へ入れた。

憧れは現実化する象徴的な出来事である。
座っていても運は開きません。歩いていたから棒に当たったのです。
成功話を聞いて遠い向こうの人の話とは思わずに、
自分にも可能性はあると信じることです。
「思考は現実化する」ナポレオンヒル著

家柄も才能も無くただの風来坊が東大出身に勝てるのは、
同じ青春の時期に机に齧り付いて勉強してきた人達と
闇雲に経験をつみ重ねてきた私の時間の差である。
勿論、長い目で見れば管理能力に優れているのは
彼らであって私ではない。
これは中国の朱子学「知先行後」知識が先で行動は後の考え方である。
私はあえて陽明学「知行合一」の知識と行動が共にある方を選んだ。

大学の時には別れた母親に会いたくて京都から栃木まで
徒歩とヒッチハイクで訪ねて行った。
まさに「母を尋ねて3000千里」を実行したのである。
思い立ったらすぐに行動に移した。立ち止まってメソメソするのは性に合わない。
SONYに入った時も英国から戻ってすぐに電話を入れた。
「私は能力があるのできっとお役に立ちます」この一言で入社した。

スタジオでアルバイト中に聞いた「いちご白書をもう一度」が気に入り
宣伝を独自にやる依頼を事務所にして、その日の夜から深夜番組から雑誌社、
有線放送など電話帳で調べて歩き回った。
全国の大学の映画研究会へ「イチゴ白書再映推進委員会」の手紙を送った。
映画配給会社へラルドへ再上映のお願いにも行った。
たちまち話題になり大ヒットになった。
特に文化放送の深夜番組「セイヤング」谷村新司さんにはお世話になった。

あの頃は手書きで書いたプロデューサーの名刺を持って、
北海道から沖縄までライブハウスや放送局を訪ね歩いた。
そのうちに個人的にプロモーションマップができておおいに活用した。
協力していただいた関係者には最新音楽情報をいち早く届けたのである。
東京の放送局や雑誌社にも海外の情報を含めて送り続けた。
音楽は勿論、ファッションから若者たちのトレンドまで
送り続けているうちに個人的ONAIR率&占有率がNo1になっていた。
いわゆる独占状態になったのである。自社・他社からクレームが入った。

何故かいつも扱いの難しいアーティストは必ず私へ担当依頼が回ってきた。
勿論、私が探して来たアーティストも会社では嫌がれていた。
私は元来天邪鬼なので人が良いとする音楽には興味がなく、
他人が批判する音楽へと関心が向いた。
これが他人よりヒットが多く出た要因である。
これはマーケティングの手法にある。

私はここで「日本人の肩越し文化論」を持論として話し回った。
多くの日本人は人が群がっているところへ肩越しに覗き込み様子を探る。
そして面白そうだったら初めて前へ出る。それから吟味して仕事に導入する。
これじゃスピードに乗れないしオリジナリティの作品は作れない。
この文化論をあちこちで話しているうちに沢山の人に興味を持たれて
いくつも講演の声がかかった。

代理店も雑誌社も放送局もファッションブランドからも声がかかった。
そのうちにレストランのオーナーからも相談に乗ってくれと頼まれた。
文化服装学院からも特別講座を頼まれて講師もやるようになった。
海外にもよく出かけた。レコーディングや撮影を兼ねて
現地のヒット商品を見て回った。
そして必ず地元の食堂やライブハウスへ行き地元民と触れ合った。

現代は情報化社会になり世界がネットワークでつながり
座っていても最新情報が手に入る。
これじゃ歩いて棒に当たる機会が完全に失われてしまった。
80年代後半レコーディングにコンピュータが入り込み、
偽物の音楽が安価で作れるようになって引退を覚悟した。
現場から離れて音楽制作の経営をLAと東京でするようにした。
しかし私が気に入ったアーティストのみ自分で作るようにした。

2000年に入り韓国の映画会社や中国の音楽事務所とも仕事をした。
どちらも反日感情が根底に残っている国である。
だから相手も日本人と仕事をするとなると覚悟がいる。
表面上の友好は結べても腹の底までは分からない。
これは日本側にもあることである。

親の職業や財産の保有、出身校、後ろ盾のある無しで
値踏みをする人が多くいました。今も昔も上から目線で話をする人たちです。
権力を一度握った連中は全てを正当化する。
戦争もこのような人たちの間違った判断で行われたのです。

日本がどんなに言い訳しても侵略した事実は変えられず、
戦時中に悪いこともした人も沢山いたということです。
まだ、中国や韓国の様に反日感情を全面に出している方はマシです。
日本はアメリカに対して一切反米感情を出しません。
日本人は敢えて悔しさを飲み込んだのです。

私の恩学に近い表現をする人がいました。
参考例として取り上げます。

予備校で古文のカリスマ講師吉野敬介さんの言葉です。
俺の考える成功の三原則とは「機敏さ」「行動力」「社交性」だ。

①機敏さというのは、フットワークの軽さだ。気になる情報を耳にしたら、
すぐに調べてみる。興味をひかれた本は、すぐに読んでみる。
思い立ったら、すぐに動くことが大事だ。
②行動力は、まず自分自身が動けということ。どんなに素晴らしいアイデアを
思いついても、自分から動かなければ、何も始まらない。
③社交性とは、積極的に人間と関われということだ。メールより電話、
電話より会いに行け。自分の体と時間を使って、誰かに会って話す時間を
何よりも大切にしろということだ。

如何でしょうか?「感即動」機敏さと行動力です。
そして何よりも人に愛される性格になる事です。
あちらこちら歩かなければ犬も棒に当たることは無いのです。

「犬も歩けば棒に当たる」とは、
① 何かをしようとすれば、何かと災難に遭おうことも多いというたとえ。
② 出歩けば思わぬ幸運に出会うことのたとえ。
さてあなたはどちらのたとえを選択しますか?


不登校な子を持つ親




【 学校に行かないという選択 】
平岡亮子さんの投稿(掲載に関して承認済みです)

うちの娘は中学1年の
GW明けの中間テストの後から
あまり学校に行かなくなりました

中2で行ったのは数日かな?

娘の学年の子どもたちは
あたしの独断と偏見では
小学生の頃は驚くほどみんなお利口さん

よく言えば
「躾がよくできた模範的な子たち」

悪く言えば
「面白みがなくてちょっと怖い」という感じ

娘は授業参観のときに
騒ぎはしないものの
明らかにやる気のなさがダダ漏れで
退屈そうな態度をしていました…

ただ6年生の時の
担任の先生が素晴らしくて
その時は楽しそうに毎日学校に行ってたし
授業態度も「かなりまし」なってました

中学に行くと
勉学のできるできないで
差がつく事が明確になったし
授業の難易度も増すし
制服や髪型なども含めて
あらゆる面で自由も制限されて
もの凄い窮屈になったのだと思います

授業参観に行ったけれど
相変わらずお利口さんが多めで
模範解答を答える子が多くて凄いんだよね

教育熱心な親が多いと
こうなるんだな…という感じ(笑)

娘は「行く意味が分からない」
と言って行かなくなったのだけど
行かない選択をして断固行かないというのも
なかなか大した精神力だよな…と思う(笑)

あたしも中学時代は楽しくないし
行く意味がないと思っていたのだけど
病気でもないのに休んだら叱り飛ばされるので
皆勤賞を取るほど休まず通っていたのね

体だけは健康で
インフルもかかった事がなくて
かかる子が羨ましかったくらい

で、勉強は嫌いだから
成績はボロボロで
再試や再提出を何回やったか分からないし
授業中はよく寝ていて
ただただ終わる時間を大人しく待ち
帰宅部なので帰宅して
夕飯まで寝て待つようなひどい学生時代

中高は私立で
授業料が高かったはずだけど
今思うと申し訳ないことをしたと思う

でも、子どもの適性と合わない学校に
行かせると無駄使いになるということは学べた

自分の経験からして
叱って行かせるのは違うと思うので
娘に学校に行くようには言った事はない

駄菓子菓子

担任の先生は不登校の生徒がいると
評価に影響するから困るんだろうね…

ショートメールで
テスト前に必ず連絡をいただく

「お世話になります。
先程、お電話でまいさんとお話させて頂きました。
来週、14日~16日が期末試験になっています。
別室での受験もできることをお伝えしました。
ご家庭でもお話を頂けたらと思います。
よろしくお願い致します。」

いつもなら当たり障りなく
「ご連絡ありがとうございます。話してみます。」
と答えても、特に何もしないのだけど
何となくそう答えるのに違和感があった

担任の先生は3年ほど会社に勤め
教師に転職して2年前に教師となり
今年は初めて担任を持った27-8歳の男の先生

高校野球に出るほど
アオハル学生時代を謳歌していた
熱血系の体育教師なので
おそらく学校に行かないタイプの子を
理解するのは難しいと思ってやり過ごしていた

彼は娘の体調が悪いと
思い込んでいるけれど体調は悪くない

当たり障りないお返事を
続けるのも何か違うと思ったし
もう少し生徒の氣持ちも
考えてみてって思っちゃったんだな

「ご連絡ありがとうございます。
授業を受けていない中、
期末試験のために登校するのは厳しいと思います。」

ただそれだけお返事しました^_^

授業に出るのが嫌で学校に行かない子に
期末試験だけ受けに来るように連絡が来るって
どんだけハードルが高いことか…

察する氣持ちが持てないまま
アプローチをし続けてくるのは
いかがなものなのだろうと…

「この子は行かない選択をして
そのリスクは自分で負うしかないので
無理に行かせようとは思ってません」
とは面接で言ってるんだけどね^_^

同じように不登校の中学生の親御さんで
悩んでいる方に言えるとしたら

「決して無理して学校行かせる必要はなく
人生において用意されている課題を
早めに取り組みたい魂なだけだから
いずれよくなると信じて
自分に合った高校を探させてあげて」
ということかな^_^

心配するだけ損だし
下手したらそれは呪いになるからね

中学生の死因の断トツのトップは自殺

不慮の事故の中に
遺書がない自殺が
かなり含まれているはずだからね
(遺書がないと自殺と認定されない)

誘拐でも殺人でも病気でもなく
自殺なのだけど、
その原因は自分らしく生きられないからだよね

もし学校が、自分らしく
生きられない場所だとしたら
行かせたら死に近づくことになる

そして、行かない選択をした子に
行くように叱ったり期待したら
やはり子どもは居場所を失うことになり
家が自分らしく居られない場になる

それは一番避けたいところ

娘は高校には行きたいと言っていて
「学生生活を味わいたい」と言っている

居場所は家庭以外に欲しいもんだよね^_^

でもさ、とりあえず
生きていれば上等じゃない

人生なんていくらでも
自分の力で切り開けるからね

そもそもこれから
世の中がひっくり返るって時に
生きる力があるかないかが
一番大事になるんじゃないかな

これは大人もそうだけど

もし一時的に絶望感を味わっても
軽やかにそれを脱ぎ捨てて
いかに自分の居場所を作ったり
みんなが生きやすい社会を作れるか
が大事になるでしょう^_^

まいちんには
期末試験を受けさせることが
生きる力にはならないし
むしろ奪いかねません…
という話なんですよ、先生^_^
以上

私も時々子育ての相談を受けます。
しかし多くの大人は自分たちが受けた過去の教育で子供を育てようとします。
大幅に時代が変化しているのに旧態依然として変わらぬ方式です。
一律に学校や世の中に従う「素直な子」として教育します。
それで良いのでしょうか?
今、我々が作った世界で子供たちが苦しんでいます。

人生経験のない教師が学校の規則に従い教壇に立つ、
しかしそこに愛はありません。
学校は入学させて卒業させるのが仕事ですから
校則の枠からはみ出す子供に悩むのです。
本来学校といのは悩みを解決させる為にあるのであって、
悩んでる子供を連れ戻す為にあるものではないのです。
悩みのもとを探さなければ同じことの繰り返しになるばかりです。

ニイルのサマーヒルが原点の自由な学校があります。
「まず子供を幸福にしよう。すべてはそのあとにつづく」
子どもたちが優先で授業内容を作り、課外授業で野菜を作り、
好きなプロジェクトを選びさまざまな活動をする学校があります。
先生も宿題もテストもない学校です。
和歌山県橋本市にある「きのくに子ども村、小学校・中学校」です。
(興味のある方は調べてみてください)

未来のこの国は子供たちが作るのです。
大人はそれを応援するのが役目です。


悩みのもと




一鏃破三關 (いちぞくさんかんをやぶる)

悩むとは?
漢字の成り立ちで検索するとこのような解説がなされていた。
「なやむ。思いわずらう」
惱の右側は、まるい頭の上に毛のはえたさまで、頭脳の脳(=腦)の原字。
惱はそれを音符とし、心を加えた字で、頭脳をなやますこと。
予期せぬことへの悩みか、起こりえることへの悩みか、
それとも無理難題な要求の元への悩みか分からない。
いつの世も悩みは単純で解決するのは自分自身である。

「ちょっとした覚悟と工夫で難関もあっけなく通り抜けます」

一本の矢で鹿の群を全部射倒すことができますか?
そんなことできるわけがない、というのは常識の人です。
禅の世界ではそれができると言います。どうするのでしょうか。
簡単に言いますと、弓も矢も捨ててしまえばいいのです。
簡単すぎましたか。
 
さて、同じような言葉、一本の矢で三重の関門を射抜く、
とはどういうことでしょうか。

人の真のあり方を求めても、それは何重もの煩悩や関門に
取り囲まれたごとくで、何一つ思い通りになりません。
その難関を一挙に突き破る、という力強い表現で、
禅の奥義を示しています。
 
「三関」は三つの関門。いくつもの難関の意味です。
それを打ち破るには矢を、つまり標的を自分の心に向ければいいのです。
そうすれば難関は一挙に消え去ってしまうのです。

仏だの凡夫だの、悟りだの迷いだの、全部とっぱらって、
ただ信ずる道を真っ直ぐに突き進む。
その瞬間、目指すべき到達点は足元にあります。
出典:『碧巌録』第五六則

良禅客、欽山に問う、一鏃もて三関を破る時、如何。
山云く、関中の主を放出し看よ。そこに真理が存在する。

いつでも矢を放つのは自分の心です。
目の前の問題にあたふたするのでは無く
自分の中に取り込み解決する方法を導き出すのです。
そうすれば悩みから解放される。他人のせいにするのでは無く、
全て自分の心が起因していると思えば、自ずから解決の道は開かれる。
悩みから逃げるのでは無く、悩みの中に飛び込む勇気が必要です。

私が誰に対しても物怖じしないのは、子供の時に聞いた
仏教語「生老病死」の言葉です。
人間なんてどんなに偉くなっても、どんなに金持ちになっても、
道端に寝転んでいる乞食と同じで、僅か70年の人生しかない。
生まれて、老いて、病気になって死んでいく。
これは誰にも平等に訪れる運命なのだ。

この言葉を聞いてから教師に対しても大人に対しても
医者や政治家に対しても怖さがなくなったのです。
それは馬鹿にしているのではなく、人間皆対等だという意識が芽生え、
みんな同じ人生の長さでしか生きられないじゃないかということです。

自分の人生がどんな状況でも他人に向けて悩み苦しむのであれば、
一切そこを的としなかったのです。自立心の芽生えです。
自分で高校・大学を選び、自分で海外に出掛けて、自分で会社を選び、
問題が起こっても、うまくいっても判断は自分だったのです。

子どもの時からやりたかった事を正直にやって来たので、
問題が起こるとすべて自分で解決することを覚えたのです。
他人に委ねると上手くいっても、失敗しても他人の結果でしかありません。
もしあなたを守ってくれる人がいるのならもっと冒険をするべきなのです。

子供の時からむやみに憧れを持ったり、自分を卑下したりしないで
その時、その時を大切にして生きてきました。
そうすると自分のしたいことが足元にある事を知ったのです。
それはいつでも自分の望む事、直観の感性を大切にする事でした。
誰もが本当にしたいことが分かっているはずです。

それを表現できないから悩み苦しむのです。
「夢」という感情を引き出しの奥にしまい込んでは駄目です。

悩んだ時には、他人に矢を放つのでは無くて、
自分の心に矢を放ってください。
そこから見えるもの、気づくものがあります。
他人の行動や結果を羨ましく思うのではなく、
また他人から言われる言葉に一喜一憂するのではなく
自分の心に聞いてみるのです。

私が禅語を愛しているのは論理的に考えて答えが出ない場合、
あらゆる問題を一言で教えてくれるからです。
皆様も悩んだ時には禅語をお調べください。スッキリします。

例えば「莫妄想」
「莫妄想」とはどういう意味かというと、
「莫」とは、なかれのことで、禁止の意味を表わします。
「妄想」とは、一般的には実体のない虚妄の想念のことで、
色気、食い気、欲気などの邪念、空想、迷心を意味しますが、
禅ではもう少し深く考えます。
私たちは、常に、生死、善悪、是非、勝敗など、
二つの相対する概念を作り出し、その一方に執着して苦しみ、
迷うのですが、この二つに分けて見る相対的な分別心
そのものが、すでに妄想というのです。

故に莫妄想とは、生死、善悪、是非になり切ってやって行け!
というわけです。“莫かれ”という消極的な言葉に反して、
より積極的に、生死、是非、善悪、勝敗などにこだわることなく、
全身全霊を挙して一心不乱にやり貫けというのです。

最後に「自動扉は近づかないと開かない」
悩みや困難から逃げていると一生扉は開きません。
勇気をもって悩み困難の扉に立ち向かってください。
想像している以上に扉は簡単に開きますよ。


幼児教育




私の友人の演劇プロデューサー堂本麻夏さんの投稿です。

「ニューヨークではどんな幼児教育があるか知りたい」

今回は私が主催しているコンペティション形式のミュージカル・ライブ
「SMASH CABARET」の年間チャンピオンが、長年お世話になっている
大好きなBroadway Sessionでブロードウェイの俳優さん達と
同じステージに出させてもらうのでニューヨークに来ました!

それとは別でニューヨークに来る時はテーマを持ってくる。
今1番気になっていることは、やっぱり幼児教育。

3歳になったばかりの息子は保育園に通っていて、先生方もみんな優しいし、
3歳にして発表会でソロの台詞まであったり(1番ちびっこだけどヤギパパ役)
いろんな経験させてもらってるけど、ベストな環境とは言えないことが多々ある。
クラフトの時間はみんな同じロボットを作って、同じ場所に同じパーツを置くように
指示されて、そこまではわかるけど、違うことした時に修正されたのは、
そこまでしなくてもと思ったり。幼稚園の見学もいっぱい行ったけど、
やはり園長先生の発言で「お母さんに優しい」という表現があっただけで
疑問を持ってしまってなかなか決められず一年見送ることに…。

そこでニューヨークではどんなところがあるのかなと歩きまわって
見学させてもらうことに。現在初日にも関わらず何軒も見学させてもらい、
本当にありがたいことに飛び込みにも関わらずみんな優しくツアーしてくれる
ユニークなところもればうーんというところもあるけど、運命の一軒に
出会ってしまった…!

モンテッソーリとレッジョ教育をベースにしていて、
先生方はみんなアーティスト(アクター、ミュージシャン、ペインター)
それぞれ得意分野があって、何十年も幼児教育に携わるGregという
オーナー自身もアーティストで、クラスルームに限らず廊下階段、
どこまでもアートに溢れている。

自由なアートキッズが登園する時間は外で先生が楽器を演奏して迎えたり、
先生たちが愛にあふれている。先生たちが楽しんでキッズ達と
アクティビティをしているのが伝わってくる!
ツアーをしてもらったあとはなんだか夢のようで
こんな世界を作ってくれてありがとうという気持ちになった!

まだポツポツとした計画しかないけど、こんな場所があったらいいな、
作っていきたいなと思った!

そしてやっぱり大好きなニューヨークを歩いてて改めて思うのは、
違いがあるからこそクリエイティブなものが生まれていくんだなということ。

子どもには安全第一に、自由な想いを大事にしてほしいし、小さいかもしれないけど
必ず何でもできると信じてほしいなと、何時間も街を歩き回りながら思いました。
そして私にとってはこういう発見は本当にエネルギーの源!

以上が堂本麻夏さんのFBに上げた投稿です。
(ご本人の許可を得てアップしました)

ここに出て来る「レッジョ教育」を深堀しました。

レッジョ・エミリア教育とは、イタリアの都市レッジョ・エミリアで発祥され、
子どもが主体的に活動し、それぞれの個性を引き出すことを大切にした
教育方法のひとつです。
教育理念の象徴として100人子どもがいれば、100通りの考え、
表現方法があるという「100のことば」を掲げています。

また、アート活動やドキュメンテーションなどを取り入れ、
子ども自らが展開したい事柄や物事を中心に、プロジェクト型の教育を
行うことも大きな特徴です。日本においては、アートを楽しむ時間を設けたり、
子どもたちの活動を写真や動画で残したりと、この教育を取り入れている
保育園や幼稚園があり、保護者の方々も注目している教育方法でしょう。

レッジョ・エミリア教育は、子どもそれぞれの個性を引き出す方法として
「社会性」「時間」「子どもの権利」3つの教育理念を唱えています。
• 社会性:子どもの社会性を育むために、4名~5名のチームを作り、
意見交換の中で活動を展開していく
• 時間:時間割やタイムスケジュールなどは設けず、長期的なテーマに
チャレンジし、深堀していく
• 子どもの権利:子どもが主体的な活動を行うことができるよう、
否定的にならず、子どもの権利を尊重する

子どもたちが「自ら考えて行動する力」「自ら学習する力」を高められるよう、
関わる大人は、子どもの取り組みを急かさず、否定せず…といった、
自主性を大切にした教育を実践しています。

自らの意思で活動を展開すると、学習意欲を高め、関心を抱く事柄を選択する
能力も育まれることでしょう。
また、時間割を設けずに長期的なテーマ(アート作品など)に取り組むことは、
ユニークなアプローチ方法のひとつといえるかもしれません。
集中力や探求心、持久力などさまざまな力を養うことにつながりそうですね。

レッジョ・エミリア教育方法と一般的な教育方法の違いは
「教師の指示で動くのではなく、子どもたちが自ら行動する力」を
大切にしている点かもしれません。
ただ、日本の保育園や幼稚園では「導入」という方法を大切にしており、
子どもたちが主体的に活動に参加できるようサポートしています。

例えば、先生が活動の前にその内容に関する手遊びや歌遊びなど
さまざまな導入方法を行い、楽しく活動を進められるような声かけが
行われているようです。
また、自立心や社会性を養うことの大切さは、日本の保育・教育活動の
指針である「保育所保育指針」、「幼稚園教育要領」においても
記載されています。

レッジョ・エミリア教育方法とのアプローチの仕方は異なりますが、
子どもの成長を支えるという方向性は、共通する点が多いかもしれません。

以前の投稿「大切なこと」(恩学)で各国の青少年教育の方法を紹介しました。
マリア・モンテッソーリー教育(イタリア)自己教育力
ロドルフ・シュタイナー教育(ドイツ)総合芸術
A・Sニイル・サマーヒル(イギリス)自己決定・個性化・体験学習
フルケ・ボイスコーレ(デンマーク)民衆の大学

それぞれに良さがあります。
お子様をお持ちのお母さんは調べてみてくださいね。
均一化された教育から個性は生まれません。


行雲流水




他人の言葉を素直に受け取ることが出来ますか?
他人の笑顔を素直に信じることが出来ますか?
他人の親切を素直に従うことが出来ますか?
目に見える世界を全てだと思いますか?
耳に聞こえる音を全て心地よいと思いますか?
口に入れる物を全て栄養だと思いますか?

遍界不曾蔵(へんかいかつてかくさず)

「遍界」とは、すべての世界、世の中のことです。 
「不曾蔵」とは、隠していない、ありのままそこにあるという意味の言葉です。
真実を隠すものは他でもない、あなた自身の疑いという名の眼差しなのです。 
真実、知りたいことはそのまま表れているものなのです。 
知りたいことがどうしても見えないのだとしたら、それは自分の目が
曇っているから、心が違う方向を向いてしまっているからに他なりません。

人は疑い深い生き物です。 例えば残業を手伝おうかと言われても、
何か見返りを求めているのではないかなどと疑ってしまいます。 
その疑念を捨てて、正直にありがとうと言いましょう。 
疑いの気持ちは相手に伝わってしまいます。

疑いなく世界を見つめれば、ものごとの本質にたどり着くことも、
さほど難しいことではないと思います。 
誰かが何かを隠そうとしていても、そこには「隠そうとしている」
という事実が見えてくるはずです。
まずは、自分の中の疑いを取り除くことから始めましょう。
疑いのフィルターを外して真実を見抜くのです。
そこに全ての解決がある。

任運自在(にんうんじざい)
自然を見ても、世の中のすべてのものは自ら運び動いていることに
気づかされます。
春になれば植物は芽吹き、夏に向かって花を咲かせる。
そこにたくさんの虫や動物たちが集まってくる。
これらはすべて自然の計らいごとです。
こうした大きな流れに任せて、人間も生きることが大切です。

私たちはつい、物事に対して損得で考えてしまいます。
これは得なのか、損なのか。
そして計算通りに運ばないところに、悩みが生まれてくる。
あるいは物事に執着してしまう。
これだけは手放したくない。これだけは絶対手に入れたい。
これもまた、思いが叶わないところに悩みが生じてくる。

つまり、人間の持つ悩みというのは、自らが生み出しているものが
多いのです。悩みには大きく分けて3つあります。

1つ目は、自分の努力で解決できる悩み。例えば仕事ができない、
家事が苦手だということ。
これらは自分の努力で解決するしかありません。

2つ目は、悩む必要のない悩み。ほしい鞄を買うお金がない。
楽しいことがない。やりたいことが見つからない。
もしこんなことに悩んでいるのなら
人生を無駄にしているようなものです。
まずはこういう悩みを取り去ること。

3つ目は、自分の力ではどうしようもない悩みです。
自分自身や家族が病気になる。災害に見舞われる。
そんな時は自然の流れに身を委ねるしかないのです。
人間にはとても及ばない見えない力。それに任せてみることも必要です。
その中で生きる勇気を失わなければ、きっといい方向に運んでくれます。

ほとんどの情報は視覚から入って来ます。
その視覚の判断は脳がするわけですが、
脳は生まれた時からの環境と育った状況の中から、
左脳で判断する論理性思考と右脳で感じる情緒性思考で
答えを出すのです。

ということは私が見ている世界とあなたが見ている
世界は違うということです。
簡単にいうと美しさを競うミスユニバースを見て、
その美しさを手放しで喜ぶ人と、解剖学的に骨を思い浮かべる人と、
美しいという文字は羊が大きいと書くということを
思い浮かべる人もいるのです。人それぞれです。

AIが論理的に判断する内容がすべて正しいとは思わないでください。
カラオケマシンが採点した結果が歌の上手な人と思わないでください。
デジタルカメラで送られてきた画像が真実なのだと思わないでください。

理性と感性のバランスの良い人は冷静に判断が出来ます。
ネット通販の写真を見て、良質か粗悪か、真実か偽物か
直観で見極めることが出来ます。

「遍界」とは、すべての世界、世の中のことです。 
「不曾蔵」とは、隠していない、ありのままそこにあるという意味の言葉です。
真実を隠すものは他でもない、あなた自身の疑いという名の眼差しなのです。 
真実、知りたいことはそのまま表れているものなのです。 
知りたいことがどうしても見えないのだとしたら、それは自分の目が
曇っているから、心が違う方向を向いてしまっているからに他なりません。

「行雲流水(こううんりゅうすい)
水や雲のように自由に生きようという意味の禅語」
水の流れや雲の流れは誰の指示も受けていません。上から下へ、
風に流されというように悪いイメージも想像してしまう言葉ですが、
水は岩も穿ち、雲もこだわりなく姿を変えていきます。
みんな自由でいいという言葉です。
誰かに翻弄された人生や行動は自分の生き方とは言えません。
もう少しだけ、禅語に従って自分に素直になってみましょう。

眼は心の入口です。
常識の捕らわれずに素直な目で物事を見つめてください。
溢れるフェーク情報に惑わされては駄目ですよ。


Don’t Look Back




過去を見るな、過去に縋り付くな、過去を振り返るな。
歩いてきた道ばかりを見ていても何も始まらない。
その上に遺跡のような教科書を読み漁っても得られるものはない。
自分が劣っている部分を何度も確認しても成長するわけではない。
前向きな行動こそ最良の解決方法である。
今こそ手を動かして足踏みをして土まみれになるのだ。

若者たちよ!都会の病院で生まれてコンクリートの家に住み、
金儲けばかり考えて、果ては精神的に壊れて行き場を失う。
これが幸福かと高層ビルを眺めてため息を吐く。
どこにも自分の居場所が見つからず夜の繁華街を彷徨歩く。
騒音のダンスホールでおかしな動きの奴らと共に踊りまくる。
夜明けのカラスたちと始発電車に乗り込みねぐらに帰る。

今こそ目覚めよ!沢木耕太郎の「深夜特急」を片手に海の向こうへ渡る時だ。
今やパソコンとスマートフォンがあれば何処の国でも道に迷わない。
最悪なアナログの状況と最強のAIを組み合わせて生き残ることを薦める。
生きるために働き、生き残るために仲間を作る、生きる夢を掴むために彷徨。
諦めずにワンピースのルフィと同じ体験をするのだ。
きっと自分の国で2〜3年行方不明になっても誰も気にしない。
今こそチャンスである。

グローバル!世界が一つなんてまやかしである。
SDGsなんてスローガンは理想であって実行不可能である。
トランスジェンダーの意味もわからずに議員たちが騒ぎ立てる。
ウェルビィーングな働き方も報酬に反映されなければ意味が無い。
若い労働者が響きの良い音に騙されているだけである。
そろそろ目を覚ましてくれよ。

これから最強の敵はAIなのだ、ここに勝つのは
人間性と想像力なのだが、SNSのフェークニュースに
惑わされて臆病になるなよ。
自分の意識と感性で敵が味方かを判断するのだ。
無意識の意識を働かせて野生に戻るのだ。
不登校はもはや当たり前、出社拒否も当たり前、
結婚拒否も当たり前の時代になっている。
過去の枠(常識)から離れ無ければ未来に手が届かないのだ。

後ろを振り返るな!未来は前方にしかないのである。
歴史に学び過去の書物からエキスを搾り取り現代に応用する。
所謂、アナログとAIの化学反応を起こす能力が必要になる。
古代地層に堆積された動植物の死骸が石油となり、
我々人類のスピードアップに必要な原動力となったように、
全てをエネルギーとして新世紀の化石燃料を現代に甦らせるのだ。

現代の若者たちはスマーフォンとコンピューターで
世界と繋がることが出来る。
大切なことは違う音が集まって音楽になるように、
世界の個性が集まって改革を進めることだ。
そして全て世の中の摂理は複雑でなく単純なである。
均一化させようとする政府に教えていかなければならない。
違う音とは個性なのである。世の中を構成するということは、
異種の集合体であることなのです。それは楽しいことである。

一つの国の言語(英語)と一つの通貨(ドル)を使わせ、
世界中で仕事を薦めるのは奴隷の鎖とおもわないか?
その鎖を操るのはアメリカなのである。鵜飼の鵜匠と同じである。
我々は自国の文化や風習をもっと大切にすべきだ。
レジリエンスの時代はグローバルからグローカルへと移行する。
自分たちで自然資源を利用して燃料と食料を自給自足する、
そして自然圏の保全と管理をする事になる。

リーダーとは最悪な状況を想定して次の手を打てる者をいう。
そして手を打つ順番を間違えないことである。
自国の被災者の救済より他国の支援を支援する必要は無いのである。
我々は持てる力を最大限に発して最小の災いごとで済ませるのだ。
快楽を手に入れる前にもっと学びを取り入れなければならない。

至急ジェレミー・リフキンの「レジリエンスの時代」を読み、
未来の参考書として語り合うべきである。
もう後ろを見てもそこから未来は見えないのである。

これまでの「進歩の時代」において人類は、地球の恵みを収奪し、
商品化し、消費を最大にして生きてきた。
だが、無限の成長と超効率化を絶対視したせいで、
環境危機と地球温暖化が発生。洪水、干ばつ、熱波、山火事、台風が、
生態系とインフラを破壊し、人類の生存を脅かしている。

この危機を脱するために必要なのは、「レジリエンスの時代」への大転換。
地球を人類に適応させるのではなく、人類を地球に適応させるのだ。
自然と共感的に関わるためには、経済・政治・社会の見直しが必須である。
科学技術にも精通した世界的な経済社会理論家が、未来への処方箋を示す。

著者紹介ジェレミー・リフキン
経済社会理論家。欧州連合、中国、メルケル独首相をはじめ、
世界各国の首脳・政府高官のアドバイザーを歴任。
経済・社会・科学技術を分析し、未来構想を提示する手腕への評価が高く、
アメリカ政府の政策形成にも大きな影響力をもつ。
経済動向財団会長及びTIRコンサルティング・グループ代表。
ペンシルヴェニア大学ウォートンスクール上級講師。
『限界費用ゼロ社会』、『エイジ・オブ・アクセス』、『第三次産業革命』
などが世界的ベストセラーに。
1980年代から気候変動の危機を訴えるなど先見性にも定評がある。

暫くは私の座右の書として何度も読み返すことになる。


道元禅師




私の座右の銘である道元禅師(曹洞宗開祖)の言葉。
「愛語能く廻天の力ある」を学すべきなり。

私は幼き頃からずっと良き言葉、未来を誘ってくれる言葉を
探し求めていました。父親の実の姉が浄土真宗本願寺派の
女性宣教師で地位の高い人でした。
父親は自分の不遇を嘆き色々な新興宗教団体に関わり、
私はいつも連れ回されて各宗教団体の教義を強制的に学ばされていました。

少しの時期預けられた寺の住職よりいただいた言葉が記憶に残っています。
「人生わずか70年、泣いて生きるのも、笑って生きるのも、わずか70年だ!
どちらを選んで生きるのか!」と言われたのです。

僅か6歳の子供ながらも「笑って生きる」と答えたのです。

それと同時に、
「真珠は石や貝殻の破片をたくさん飲み込んで痛さに耐えて光り輝くのだ。
人間も真珠と同じようにたくさん悲しみや辛さを耐え忍べば光り輝く人とになる」
子供だったので詳しい内容までは覚えていませんが、
この言葉によって生きる勇気をもらったことは確かです。

密かに今の不幸を恨むのではなく、また誰かを恨むのでもなく、
一日も早く輝く機会が訪れることを願っていました。
自分自身が良き言葉を受け取ることも大切ですが、
良き言葉を他人に与えることは、もっと大切なことなのだ思います。

「愛語能く廻天の力ある」
このことについて大谷先生と境野先生がこのように語られていました。
参考までに記載させていただきました。

東北福祉大学学長:大谷哲夫
東洋思想家:境野勝悟

境野『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』の
現成げんじょう公案の巻に有名な次の言葉がありますでしょう。

「仏道をならふといふは、自己をならふ也なり
自己をならふといふは、自己をわするゝなり」

私は臨済の公案(禅宗で師から与えられる問題)を
すべて解いてきましたが、それまで仏道を習うとは
仏の道を学ぶことなのだと思っていました。
ところが、道元禅師はそうではない、自分自身を習うことだと
おっしゃっているんですね。これが分かるようで分からないんです。

一般的に考えれば、習うのはやはり自分の外から習うんです。
哲学書を読んだり、宗教書を読んだりすることと考えちゃうんだけど、
道元禅師はそういうものを一切忘れることだと説かれている。

そして、一番尊いものは、いま生きている素晴らしい自分の生命の
中にこそあると説かれている。このことに何よりも驚かされました。
臨済宗も曹洞宗もそれぞれに特徴があって、今日までいろいろと
勉強させていただいたわけですが、道元禅師との出会いがなかったら、
私の成長はどこかで止まっていたでしょうね。

そういえば、先ほど「最後は道元さんだよ」という
玄峰老師の言葉を紹介しましたが、公案禅を嫌っていた澤木興道老師も
愛弟子には「山本玄峰老師は本物だ」とおっしゃっていたそうです。

大谷 お互いに認め合っていらっしゃったんですね。
そういう世界があるのは素晴らしいことですね。

大谷 身心脱落とは、道元禅師の大悟の証明のような言葉です。
この言葉は要するにただ坐れ、それが修行であり身心脱落である。
焼香をしたり、礼拝をしたり、念仏を称となえたり、懺悔をしたり、
本を読んだりすることではないとおっしゃっているわけです。

別の言い方をすれば、焼香も礼拝も念仏も修懺も看経もすべて心の揺らぎを
呼び起こす。それは「只管打坐」の坐禅ではないといえます。
それが分かったのは私が『寳慶記』と出合って約10年後です。

私は『正法眼蔵』について根掘り葉掘り先生に質問しました。
そうしたら最後に「あんたのはただ読んでいるだけだ。
読んでいるだけじゃ『正法眼蔵』は分かるはずがない」。
「では、どうするんですか」と聞くと
「それはね、衣を着てお袈裟けさをかけて、
見台(けんだい)を持ってきて、そこに『正法眼蔵』を載せて三拝をして、
正座してそれから声を出して拝読するんだ」と教えてくださいました。

三か月間、毎日続けましたよ。だけど全然分からない。
癪障さわって言いました。「先生、分かりません」と。

良いですね。このような問答が出来ることに憧れを持ちます。
何もかも捨てて「心身一如」の世界へと入る。無分別で何もかも手放す。
これってとても難しいですよね。川に流されている時に師匠から
何も掴むなと言われてそのままの状態を保てるかというと無理ですね。
「百尺の竿燈まだ一歩を進まん」これ以上は前に行けませんと言っても、
その先へ行けと言われているようなものです。以上。

私は何もかも無くして人生最悪の時に「解脱・無心」になろうと
何度もトライしたのですが、頭から煩悩が離れられずに
折角のチャンスを逃がしてしまいました。

私の窮状をみかねた友人から紹介されて入った
コンピューター会社で、しばらく自分復活の計画を練っていました。
本当はこのような考えを持って会社勤めは駄目ですよね。
しかしその会社の会長さんは、私の素性を知って頂いていたので
大目に認めてくれました。

それから暫くしてコンピューターの会社の協力で
韓国に映画の配給会社を作り、韓国ドラマを日本へ紹介したのです。
またすぐ後にレコード会社の協力で中国北京に音楽事務所を立ち上げました。
急ぎ安定した生活の場を築こうとして飛び回ったので、
それなりの成果を上げることが出来ました。
特に中国での音楽会社の新人「女子十二楽坊」は大成功を収めたのです。

常に挑戦して成功を収めてきた驕りがまた出て、
ここでも人格形成のチャンスを逃してしまいました。

私にとって大きな誤算は2012年に起こった中国での反日運動です。
それまでに蓄えてきた全財産を注ぎ込み、計画してきた中国での音楽事業が、
一瞬にして終わりを迎えたのです。

流石の仏さまもこの欲に執着している男は
完全につき落とさなければ気が付かないと思われたのでしょうね。
又しても一文無しの私はその時に他人に頼らずに自力で立ち上がるのは
「下座業」をするしかないと思ったのです。

下座業とは寺に入り、下足番やトイレ掃除及び庭の掃き掃除を
毎日行うことです。いままで蔑(さげす)んできた仕事を行うことで
徐々に人間らしい人格が作られていくのです。

私は道路工事の旗を振る誘導係や高所作業の危険な
LDC照明の取り付けの仕事をしばらくしました。

その中で人格形成を行うために毎晩哲学書から仏教書、
偉人伝から成功者の本まで読み漁りました。
多くの成功者は自分と同じように悩み苦しみ、
人生の奪落者になった人がほとんどでした。
そこで国が違っても人が犯してしまう過ちは、
同じなのだという事も知りました。
とても勇気を頂いた言葉を毎日文章に残してきたのがこの「恩学」なのです。

人は過ちを何度も繰り返し成長をしていくのです。
「俺だけは特別」など無いのです。

成功して偉くなった時ほど「石橋を叩く」慎重さと、
他人を思いやる「善意・善行」が大切になります。
お釈迦さまの教え、「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」
「涅槃寂静」を学び、人間とは、人生とは、生きるとは、を取得して
自分自身の心を悔い改めなければなりません。

「愛語能く廻天の力ある」吾れ未熟者故まだまだ精進いたします。
人生まだまだこれからが本番です。


共感と愛着と信頼




人との繋がりのきっかけは共感から始まる。
共感が積み重なり愛着が生まれる。愛着が続いて信頼が生まれる。
商品を販売する企業では多種多様なお客様がいる中で、
誰がコアなファンになってくれるかを考えなければならない。
その為には集客の方法を学ばなければならない。

①世の中の足りない部分を見つけること!
②ファンが満足できる部分は何か?
③それを埋める為には何が必要か?
④どんなファンに伝えたいのか?
⑤どう魅力を伝えて引き寄せるか

私がプロデュースに参加した
アーティストに照らし合わせて説明します。

☆集客とは「Ex女子十二楽坊」
集客とは提供するサービスや商品の魅力を発信し、
興味のある見込み客に行動を引き起こさせるための施策です。
商品やサービスの購入につなげるには、魅力をアピールして
興味や関心を抱いてもらわなければなりません。

つまり、集客を厳密に定義するなら「顧客を惹きつけること」と
言い換えることもできます。集客で呼び込んだ顧客が次に起こす行動は
購入であることから、「集客=購買行動が起こりやすい環境を整えること」
ともいえます。自社の商品がヒットしそうな層にターゲットを絞り込んで、
最大限に魅力が伝わる施策を打ち出すことが大切です。

2000年にバブルが弾け企業が早期退職を募り失業者が増えました。
そして街中の公園で、本屋で、図書館で時間をつぶす
中高年男性が多く見られました。
この人たちを元気にさせるヒット商品を探したところ、
韓国のドラマと中国の音楽に魅力を感じたのです。
早速、韓国に映画会社と北京に音楽事務所を立ち上げました。
その結果いち早く中国から連れて来た女子十二楽坊が
ファンの心をつかみ空前絶後の記録的売上を作ったのです。

☆集客のカギは顧客像を明確にすること「Ex浜田省吾」
あらゆる集客方法を全て実践するのは、労力やコストを考えても
現実的ではありません。また、効果的な集客方法は顧客像(ペルソナ)に
よっても異なるため、まずは自社が求めるペルソナを
明確にすることが大切です。

アメリカン・グラフティー的なストーリーは女子高生がカギになると
市場を絞ったのです。女子高生が立ち寄りそうな場所へポスターを貼り、
女子高生が読む雑誌セブンティーンなどへ取材を依頼して
ターゲットを一本に絞ったのが功を奏したと思います。
女子高の通り道にある電信柱にコンサートの予告ポスターを貼って
三回警察に捕まりました。ヒットを出すのはそれぐらいの覚悟が必要です。

☆顧客はどんな人かを考える「Ex矢沢永吉」
集客を増やしたいのであれば、顧客像を明確に想定しましょう。
例えば、富裕層に高級な商品を売りたいと思っているのに、
安さを売りにチラシでアピールしても興味を持ってもらえる
確率は低いでしょう。
顧客像を明確にすることで商品やサービスのコンセプトに
ズレが生じにくくなる他、どの集客方法でアプローチするかが
定まりやすくなったり、顧客に響くキャッチコピーを
考えやすくなったりします。

矢沢永吉のソロデビュー当初は、まだキャロルと
暴走族のイメージが強く残っていました。
それを打ち破るには一般女性が憧れるようなイメージが必要でした。
資生堂のCMで「時間よ止まれ」と自伝本「成り上がり」の
出版が功を奏しました。発表と同時に新規顧客を確保したのです。
ファンの中心であった過激なファンから、スーパースターに憧れる
女性たちにターゲットを移行して、新旧のファンと合わせたことが
大成功につながったのだと思います。

☆自分の顧客に適した集客方法を検討する「Ex久保田利伸」
顧客像を明確に想定できたら、
それを基に顧客がどんな行動を取るかを考えます。
セミナーや会合、展示会などに足を運ぶ人物なのか、
どのような店に出入りしているのかなど、
できるだけ詳しく行動パターンを割り出して適切な集客方法を探りましょう。
顧客像がセミナーに参加するタイプならセミナー、インターネットで
情報を取得するならWebサイトなどといった方法があります。

当時、黒人音楽は日本では流行らないと言われた時代です。
会社の制作会議で発売に対して猛反対を受けました。
それを押し通してデビューをさせてマンスリーライブを決行したのです。
当初、音楽ファンならきっと応援してくれると思ったのですが、
毎月集客数は減り評判はイマイチでした。
それならと視点を変えてファッションビルでコンサートを開催すると
発表したところ、一日でチケットが完売したのです。
その後フジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」にゲスト出演したところ、
オシャレ好きな女子大生から支持を受けて一躍スターの仲間入りを果たしました。
ロンドン在住のデザイナーMICHIKOへ衣装を依頼したのも、
メディアの応援のきっかけになったのだと思います。

☆多くの方法を使い分けて効率よく集客しよう「Ex CBSSONY」
集客において大切なことは、特定の方法に固執しすぎず、
臨機応変に集客方法を使い分けることです。
まずは集客の目的と求める顧客像を明確にし、
自社に適した集客方法を探してみましょう。
複数の方法を組み合わせるなど工夫することで、
集客につながりやすくなります。
状況に応じて集客方法を変えながら、
効率の良い集客を目指してみてください。

私はニューミュージックを音楽界のメインストリートに押し上げるために、
プロデューサーとして仕事をしていました。
私を応援してくれていた深夜番組のDJ及びレコード店の店長へ
番組や店内で流す専用のレコードをプロモーション用に作りました。
名前は「Home Made」ハワイのFM放送から流れるような
軽快なDJの語りによるアーティストの紹介です。
これが評判を呼び多くのアーティストが一躍人気者になりました。
その後新人発掘のためのオーディション「SDオーディション」も開催して
今でも話題に上る大物アーティストを次から次にデビューさせたのです。
(SDオーディションからのデビューで検索すると出てくると思います。
私は1979年~1989年まで関わっていました。)

新人アーティストにコンサート前に必ず言う言葉があります。
「演奏があらくて音程を外しても絶対にファンの気持ちを外すな」と
言い続けてきたのです。
ファンが何を求めているかも分からずにプロとしてステージに上がるな。
いくら見栄えを良くしても心の交流がとれなくては一流にはなれない。
常にステージの反対側(客席)から自分たちを見る訓練をすること。
ファン目線でステージが見られるようになって一人前です。

ファンミーティングで「ファンがどこを好きで何を喜んでくれるのか」を
知った次に大事なのは、ファンからの支持を強くしていくこと。
そのために重要なのは、「共感」「愛着」「信頼」の
3つを地道に強くしていくこと。

テクニックやマニュアルはないのです。
感情は一人ひとり違うので、ファンをよく観察して、
ふさわしいやり方をその人に合わせて考えることです。

仏教における愛着
仏教における愛着は煩悩の一種であり、
これに対応するインド古語はたくさんの種類があるが、
基本的な働きとしての愛着をパーリ語でローバ(lobha)といい、
伝統的に「貪」と漢訳される。 意味は、ある対象を気に入るという、
原始的で単純な心の働きを指す。
対象への拒絶である瞋(dveza)、無関心である痴(moha)と
あわせて三毒ともよばれ、苦しみを生み出す原因として扱われる。

ヒットを出す場合はその人の夢や憧れや欲望を刺激することです。
良い商品だから絶対売れると思うのは制作者だけです。
ファン心理を把握できる人が時代を制します。

参考にしてください。


手入れとは?




私の好きな学者の一人が解剖学者養老孟子先生です。
沢山の書物から深い教養を知り、ユーチューブ・チャンネルで
人柄を知り、ますます好きになりました。
養老先生は子供のころから昆虫が大好きで、
時間があると山歩き森歩きをしていたそうです。

今回は私が人間の手入れに興味があり先生のサイトへ検索したところ
このような手記があり引用させていただきました。

人間が手入れした自然にこそ豊かな生命が宿る。
お化粧も子育ても同じで毎日手入れをする。
どういうつもりでどこにもっていくのかはわからなくても、
そうやってきたのが私たち日本人の生き方の特徴だ。
我が国独自の思想をはじめ、子育てや教育、都市化の未来、
死ぬということ、心とからだについてなど、
『手入れ文化と日本』について語る。

「みんな、体の声が聞こえなくなっている」
養老孟司さんが20年間都会と田舎の「参勤交代」を続ける本当の理由。
持続可能な社会のヒントは手入れして育てた里山にある。

「なんで山の手入れをするのか」その意味は何なのか?
環境保全とか多様性とかっていう漢字続きのお固い言葉を噛み砕き、
目の前の風景と照らし合わせるとどういうことになるか、
美しい里山の風景はどのように生まれ維持されているのか
山と日常生活との接点を感じることはあるか?

さらに、頭でっかちになりがちな「環境保護」ってやつをぶち壊し、
実際に体を動かして汗を流し、手入れというものが具体的には
どういうことなのかを竹引き(ノコギリ)と
自分の体を使って体験してもらった。
その汗の先に秋の実りがあることを、身をもって感じてもらえれば、
地域の小さな農はきっと復興するだろう、

川の水を汚す原因は、自然に汚れてしまう「自然系」の汚濁と、
人間が汚してしまう「人為的」の大きく2つに分類されます。 
1つ目の「自然系」というのは、枯葉や枯草、
動物や昆虫のフンや死骸と言った、野山の動植物が生きているうちに
川が汚れてしまうものです。
しかし、この「自然系」の汚れは川の水を汚す大きな原因ではありません。

川の汚れは、自然の中で流れていくうちに川の中の生き物
(バクテリア・ハミーバなどの目に見えないような小さな微生物)などに
よって分解されてきれいになっていきます。
これを自浄作用と言います。

「植生浄化法」:葦(アシ又はヨシ)などの抽水植物
(ちゅうすいしょくぶつ:水ぎわに生えている植物)が
密集している中を水を通して、植物に汚れの原因となる
「チッソ」「リン」を吸収(チッソ、リンは
植物が生長するために必要な栄養素です)させて
浄化する方法です。葦以外にも、水の中の汚れの成分を
すって成長する植物を植えたり、セリやクウシンサイなどの
食用の野菜を水耕栽培で栽培して
水をきれいにする取り組みなども行われています。

「森は熊で守られている」
ツキノワグマを殺してはいけない理由について
今年は堅果類いわゆる、どんぐりが全国的に凶作です。
一般に、四年に一度は凶作になりますが、昨年に続き、
今年も、です。
そのため、ツキノワグマが人里で沢山見られるようになり、
多くの個体が殺されています。

危ないから殺せ!
ちょっと、その考えに待ったをかけさせてください。
ツキノワグマを殺してはいけない理由が、あるのです。
それは、かわいそうだから、とか、かわいいから、とか、
頭が良いから、とかいう理由ではありません。

豊かな水源の森作り、
災害に強い森作りに欠かせない野生動物だから、なんです。
最も貢献している野生動物なんです。
なぜか。ツキノワグマは、調査されている中では、日本の野生の
生き物のなかで最も多くの植物の種を運んでくれるから、なんです。
しかも、最も遠くまで運んでくれるから、なんです。

ニホンザルをはじめとして、遠くまで移動しそうな野生動物ですが、
種子の散布としては500メートルくらいなんです。
それに比べ、ツキノワグマは、最大で22キロ先まで散布できる、
という調査結果があります。

ツキノワグマは、夏場はサクラなどの実を食べますし、
その他にも多くの植物の種を食べています。

そして、一日中動き回り、だいたい20 から40キロくらい
動き回ることができるのです。
人間が、いくら 森作り と言っても、せいぜい知れています。
ツキノワグマをはじめとする野生動物の営みに託すべきなのです。

ツキノワグマを殺すことは
多様性のある森を作ってくれる主役を殺してしまう事に他なりません。
多様性のる森が失われたことが、水害の大きな原因のひとつと言われる
昨今、ツキノワグマの役割は、ますます重要視されるべきです。

私たちの森作り事業、および野生動物の棲める場所作り事業は、
基本的には野生動物の営みに委ね、彼らが生きることのできる
環境づくりをすることにあります。
ツキノワグマを殺してはいけない理由が、あります。
人間の営みを脅かす森の荒廃を解決する主役、だからです。


お判りでしょうか?
手入れしなければならないところ、手入れが必要な理由、
むやみに手入れしないことです。
自然は人間が考えるほど無知ではなく、
とても優秀な学者であり開拓者なのです。

皆さんはこの文章を読んでどう思われたでしょうか?
養老先生の話は、里山が好きで、森が好きで、昆虫が好き、
なので分かりやすいと思いませんか。
自然と人間は共存共栄と言いながら人間のおごりで
勝手に自然を破壊して、さまざまな動植物が住めない世界を
作り出しているのです。
その為に自然災害が増えて熊も食料を求めて住宅街へ
出没するようになったのです。

これから子供の教育を森でする団体を作ろうと思います。
勝手に道具を渡して森に2~3時間放り込むだけで十分教育になります。
自分で発見する悦び、採集する悦び、道具を使う喜び、自然の中を
駆け回ることで体力作りと情操教育が出来るのです。

それに農業を加えてお米や野菜を作ることをすれば、
元気でたくましい子供が成長するのです。
生きる知識が身につけば、創造する知識も生まれます。

手入れすべきは金もうけに走り森を壊す大人たちです。


言葉によって生かされて




人が作った言葉に感動して、人が作った言葉で傷ついて、
人が作った言葉で慰められる。
人間に取ってコミュニケーションの最大の手段として言葉があります。
その言葉を悪用して人を大勢騙す人もいます。
それは詐欺師だけでなく政治家にも相通ずるものがあります。

私達は100人対象の演説より、目の前の一人の一言で
人生が変わることを知るべきです。
どれほど美辞麗句な言葉を山ほど使うより、
素朴な一言に勇気が湧いてくるのです。

日々の悩みを、お酒を飲んで騒ぐより、カラオケで憂さを発散するより、
人に絡んで喧嘩するより、いい言葉の方が、効果が大きいのです。
しかしいい言葉ばかりを求めて、自分の口からいい言葉が出ないと
恥ずかしいですよね。もうふざけた話ばかりをするのをやめましょう。

大変とは大きく変わる時のことを言うのです。
苦難・困難・災難は難から逃れたい時に使う言葉で、
それは無難から出てくる言葉の「大変」です。
「無難」から逃げずに「有難」とすれば有難いになるよね。
一字違っただけで世界が変わる。大変じゃなくなる。

辛いという字に一本線を加えれば幸せになるよね。
この一本線が何か分かりますか?
現状の辛さから逃れる方法は、努力を一本加えるだけです。
それは、一つの笑顔でも叶いますよ。

愚痴を吐くという字も、散々愚痴を「吐」いてマイナスが
一本取れば「叶」うとなる。
たまには大声で「馬鹿野郎」って言ってごらん。
願いが叶うから。漢字を作った人は天才だね。

人は優しさや平和を求めるが本当に大切なことは感謝と謝罪である。
生命は生きる為に命を奪うことから始まり独占の心理が働く。
母親の体内から栄養を奪い母親を独占する行為もこれにあたる。
子供は成長するために多くの時間を母親から奪ってしまう。
感謝しなければバチが当たる。(バチとは太鼓のバチのことを言います)
そして母親に謝罪しなければ感謝の気持ちが生まれない。

もし平和の定義を求めるならば、最初になぜ人間は奪うことに
執着するのかを哲学的に宗教的に考えなければならない。
生物そのものが生命を維持するために弱者を征服しなければならない。
エントロピーの法則、動的平衡などによって解釈を深める。
常に細胞は入れ替わりまた別の細胞によってつくられる。

科学と芸術の関係は、科学が自然を破壊して進化を求めた人間のエゴです。
それを大変申し訳ないと思い芸術が謝罪しているのです。
大切なことは休みなく前へ進むばかりではなく地球に謝罪しながら、
少しでも地球の回復に努めなければなりません。
これからの化学は地球の修復のために使うべきです。

芸術とは生きていることが芸術です。人間の身体そのものが芸術です。
目の前の景色を見て考えて感動することが芸術です。
一分一秒、細胞が、生命が、躍動することが芸術です。
私たちはこんな素晴らしい芸術の人生を過ごしているのです。
喜びと感謝を毎日伝えなければなりません。

宇宙から届く光は何万年も前の光です。地球に届いた時には、
その星がすでに消滅している可能性もあります。
我々の短い人生の中で出会える人は限られています。
言葉も科学も芸術も一瞬だと思えば、1日も早く己の強欲から抜け出して、
生きて行ける時間を個人のために使わなければなりません。
強欲とは財を独占することでは無く、自分の時間を自由に使う事です。

どんな人生の重みも一つの言葉で軽くなります。
「愛語よく回転の力あり」(道元禅師)ですよ。
良き言葉はその人の人生を変える力があるのです。
そのためにも愛語を学ぶ必要があります。

仏教用語「涅槃寂静」

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、
仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、
静かな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。

無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで
自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、
無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによって
かえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を
追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。

それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、
いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、
それこそ悟りであるというのが、「涅槃寂静印」の示すものである。

良き言葉を求めてください。
良き言葉が溢れて来ると人格が変わります。
人格が変われば人生が変わります。

今日も静かで落ち着いた人生をお送りください。