初心と本性
75年間の人生で色々な出会いがあり色々な別れがあった。
自分一人の人生だったと勘違いをしていたが多くの支えがあって今日がある。
これまでいくつかのでこぼこ道や坂道があり何度も失敗をして立ち止まった。
私なりに地位や名誉や財産を築くことなく平凡な人生だと振り返る。
工業高校を卒業して外大に入り3年の時に中退して英国へ行った。
憧れのロンドンはファッションも音楽も街並みも最高だった。
まともな英語も覚えずに音楽三昧で1年半過ごして帰国することにした。
日本へ戻る飛行機の中で「俺は日本一のプロデューサーになると決めた」
本気で人生の生きる道を決めた時「初心」という言葉を胸に刻んだ。
これからは何があっても初心を貫き通していくと誓った。
「初心」という言葉は、仏教用語の「初発心(しょほっしん)」に由来します。
初発心とは、初めて悟りを求める心を起こすこと。つまり、
人が初めて真理を探求し、その道に進むと決心したときの志を表しています。
仏教の経典『華厳経』には、「初発心の時、すなわち正覚(しょうがく)を成ず」
との一節があります。これは「初めて悟りを求める心を発した時に、すでに正しい
悟りへの道が開かれている」という意味です。
このように、真理を探求しようとする、その心がすでに求める真理を内包して
いると説くのは、それほど最初の決心や志が大切であると考えているからでしょう。
世阿弥が語る「初心忘るべからず」とは?
さらに味わい深いエピソードをご紹介します。
「初心忘るべからず」と最初に語ったのは能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)です。
興味深いことに、世阿弥が語る「初心」は、「最初の決心」や「初志」とは
少し違う意味を含んでいます。彼は『花鏡(かきょう)』という能楽の理論書の中で、
次のように3つに分けて初心の大切さを論じました。
「是非初心を忘るべからず」
これは、まだ未熟だった頃の芸を忘れず、成長した今の実力を正しく認識し
向上させることが大切だと述べる一節です。
「時々の初心を忘るべからず」
この一節は、どの年齢であっても新しいことを始めるときには初心者であり、
未熟であることを忘れてはいけないと説明しています。つまり、
いくつになっても自分にはまだ学べることがあると受け入れることが
大切だという意味です。
「老後の初心を忘るべからず」
さらに世阿弥は、老後であっても新しいことを学ぶ意欲を持つことが
大切だと語っています。年を取ったから完成ということはなく、
一生涯をかけて学び続けることが大切だという意味です。
この考え方は、「初心忘るべからず」という言葉に、「あの頃の謙虚な気持ちを
忘れるな」という訓示以上の積極的な自己成長と学びの姿勢を付け加えている
ように感じます。
「初心」とはいつまでも自分を磨き続けるための道しるべ。
何かを始めたときの新鮮な気持ちを折に触れて思い出すことは、
自分を成長させるうえでとても大切です。しかしそれだけではなく、
いつでも「初心者」のような気持ちで学び、吸収することができれば、
さらに人生が充実したものになるような気がします。
「初発心の時、すなわち正覚を成ず」という言葉が指し示すように、
自分を磨いていこうとする気持ちを持ち続けていれば、その人本来の能力や
才能の原石が輝きを失うことはないのかなと思います。もしかすると、
人間の成長とは、何か新しい技術や考えを自分に「付け足していく」作業ではなく、
すでに自分の内にあるものを「洗練し、磨き上げていく」ことなのかもしれません。
そんな自己探求の道しるべともなる言葉、「初心忘るべからず」について綴りました。
人生において最も大切なものは「初心」である。
医師長岡美妃より
どんな芸術的な絵画も、真っ白なキャンバスに打たれる一点から始まる。
そしてその一点に絵画完成の意志がすべて込められている。
人生においてこの一点を「初心」と呼ぶ。
人生で何かを始める時、それは事業でも入学入社でもお付き合いでも
結婚でも、、、あらゆる事件が始まる時には初まりの点を打つ。
そこにどれだけの決断と覚悟があるかによって、その事件が生み出す
世界は変わる。中途半端な決断覚悟なら、生み出される世界も
中途半端なものになるだろう。いい加減な点を打ったなら、
己を取り巻く世界はいい加減なものになるだろう。
始まりにないものは終わりにもない。
もし美しい清らかな世界を生み出したいのなら、美しく清らかな点を
打つべきである。「初心忘るべからず」という諺が言う通り、
己が打った点を忘れないことだ。
それでも人は少しづつ少しづつ点をずらしてしまう。欲得、損得、貪欲、
多欲にまみれ、初めの点が何だったのかを忘れていく。
純粋な点が環境の影響によって不純物が混じっていくように。。。
だから、初心を貫く為にも「諦め不可能な夢」を持つことが何よりも
大切になってくる。「諦め不可能な夢」は裏を返せば、人間ならば誰もが
やるべきことに繋がるものである。
人間には知るべきこと、やるべきこと、期待すべきことがある。
そうではなく、知りたいこと、やりたいこと、期待したいことを
希望するから欲に翻弄されてしまうのだ。
長岡美妃先生のブログより抜粋
「初心」の意識と潜在的に存在する「本性」について考察する。
本性を語る時重要なのは盲信する自分と疑う自分が同時に
存在しなければならない。盲信するだけならニーチェのように
壊れてしまう。
疑うとは否定ではなく別の角度から見てどのように受け止めるかを
確認することである。
哲学者も宗教家もこの追求を途中で諦めて力尽きてしまうことが多い。
優しさの裏側の冷酷さ、愛することの残忍さ、信頼の中の裏切り、
聖職者の冒涜、平和に向かう戦争、笑顔と殺戮など心の中には
複雑な組み合わせが存在する。それを本性という。
純粋な気持ちで初心を描き残す。何度も失敗を重ねて不純な心が育つ。
本性は生まれ落ちた環境で決まる。
誰しも無垢な心で生まれるのだが、その時に与えられた環境で人間性が育つ。
幼き子が生き残る為に野生の本性であらゆる手を尽くす。
最大の武器は笑顔である。動物には無い人間の最大の武器が笑顔である。
人間の本性とは人間を人間とするものであり、それは獣や他の被造物と異なり、
私たち人間は理性や感性をもっています。人間以外にこれらの能力を持っている
存在はありませんし、これらの能力が神からの賜物である事は明確です。
私たちの理性は私たちが自らの本性や神のご性質について考え、
神の被造物(クリーチャー)に対する御心を知る事を可能にしています。
他の被造物に理性はありません。
聖書には神が人を神のかたちに創造されたと書いてあります。
それは神が私たちに御自身についての理解といくらかご自分と同じ性質を与えて
下さったという事です。私たち人間の本性は神のご性質を少しながら表しています。
私たちが愛するのは神が愛だからです。
私たちは神のかたちに創造されているから、私たちはあわれみを持ち、
誠実で、正直で、親切で、寛容で、義しく生きる事ができるのです。
これらの神からの性質が、堕落によって曲げられながらも
私たちの内にはあるのです。
本性とは人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念である。
社会学、社会生物学、心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を
明らかにしようと科学的な取り組みを行っている。
哲学者、倫理学者、神学者もまた古くから議論していた内容です。
今回は私なりに人間の根本を探り当てようとして論じてみました。
異論反論多々あると思いますが、みなさまはどのように受け取ったでしょうか?
ブログ「恩学」は思考のきっかけを作るために書いております。